伊織、逃亡する
朝、目覚めた時、カイザーはいなかった。
起き上がると、桜と桃が側に待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよ。カイザーは?」
「昨夜、出発なさいましたわ」
桜が私にドレスを着せながらほほ笑んだ。
「出発って?」
どっか行っちゃったの?
「お話しでは急ぎのお仕事が入ったそうで……アリア様とメイド、伊織様の護衛の者が何人か残っております」
仕事人間なのね。
「で? 私はどうすればいいの?」
「伊織様にはこちらでごゆるりとお過ごしするようにとの事ですわ」
「ふーん」
パスがないと逃げられないしな。
「そうそう、こちらは伊織様のパスポートです。ダンテ様が大急ぎで仕上げてくださったとのことですわ」
「え」
私は桃の手の平に乗っている一枚のカードを見つめた。
「見せて……くれる?」
「どうぞ」
桃は何の躊躇もなくそれを私の方へ差し出した。
完璧に本物と同じパスポートだった。
それを手に取ってから桃を見ると彼女は微笑んでいた。
「フレンダのような海賊船が最重要顧客のような星では必要ありませんけど、いつどこへ行かれるか分かりません。パスポートだけでも膨大な数になりますから、各自で保管するようになっています。無くしたらダンテ様から厳しい罰を受けますわ」
と言ってうふふと桃が笑った。
「私が自分で持ってればいいの?」
「金庫へでも入れておきましょう」
と言って桜がまた私の手からそれを取り上げた。だけど、そのまま部屋の隅のジュエリーやアクセサリーを管理してあるボックスに入れた。
私に与えられた部屋で、私に使えと与えられているジュエリーボックスの中に私のパスポートが加わった。
それがあれば、私は地球へ帰る事ができる。
私はしばらくジュエリーボックスを見つめていたが、いけないいけない、気取られたら駄目、と視線を戻した。だけど、こんなに簡単にパスポートが手に入るなんて!
「伊織様、今日はどのようになさいます?」
「え」
「どのように過ごされますか?」
「じゃ、じゃあ、温泉にでも行こうかな」
「お買い物もようございますわ」
「そ、そうね」
私とアリアがカイザーの宇宙船から外に出た時、護衛の者は一人だけだった。
「ほんの少し外を歩くだけですよ」
「分かってるわよ。でも宇宙港で買い物くらいしてもいいでしょ? ね、アリア」
「うん! アリアねえ、新しい洋服が欲しいな」
「じゃ、伊織が選んであげるわ」
「うん!」
無邪気な笑顔はとても嬉しそうだった。アリアは本当に私が好きなんだろう。
悪いとは思った。今はすっかり私を信用しているこの少女を裏切るのは心がとがめる。
でも、もう帰らなくちゃ。
船の時間はもう調べてある。
宇宙海賊が休暇に来るような星でも他惑星への船便が出ているのだ。
この星から地球への船はない。
火星で乗り継ぎ、そこから地球行きの船に乗る。
火星までは丸二日。
私達はショッピングセンターの中をうろついた。
アリアは大はしゃぎだったし、護衛も気をゆるめているようだ。
私達は喫茶店に入った。アリアがアイスクリームを注文し、それをおいしそうに食べるのを私は黙って見ていた。
「ちょっとお化粧を直しに行ってくるわ」
私はそう言って立ち上がった。
同時に護衛が立ち上がる。
「アリアを一人で放っておくの? そう心配しなくても帰ってくるわよ」
「しかし……」
「アリアの側にいてちょうだい。もし彼女に何かあったら、私とあなたの命くらいじゃすまないわよ?」
「……分かりました」
護衛は気がかりそうだったが、また腰をおろした。
私はゆっくりとした足取りで店を出た。
荷物はポケットに入れたパスと地球行のチケット代金だけ。
彼らの視線から外れた場所まで来ると、階段を駆け降りる。
わざわざエアポート近くの喫茶店を選んだのだ。
私は一生懸命に走った。
胸がどきどきしながら、気持ちは非常にあせっている。
一気にエアポートの入場口に走り込み、パスを提出しながら、
「火星まで、大人一人!」
と叫んだ。
偽造パスはうまく通ったようで受付嬢が笑顔で対応する。震える手で代金を支払い、ひったくるようにチケットを受け取った。
出発時間まであと三十分。私は搭乗口に並んだ人々の後ろについた。
早く! 早く! 今度捕まったらもう終わりだ。きっとカイザーは私を許さないだろう。
人々の群れが動き始めた。次々に搭乗口に吸い込まれていく。
私は乗り込む前に一度だけ振り返った。
誰も追ってはこないようだ。ほっと一安心して、私は火星行の船に乗り込んだ。
体から力が抜けて、私は自分のシートに沈み込んだ。
ようやく地球に帰れる。これでようやく本当に安心して生きていける。
これで本当の自分を取り戻せる。
今となってはカイザーの事もアリアの事も嫌いじゃなかった。
だが、やはり私とは違う種類の人達だ。
生きていく世界が違う。私は地球で地を這いながらも、平凡に生きていこう。
そして時々、宇宙を飛び回る彼らを懐かしく思うだろう。
火星行の船のシートはがら空きだった。私は二つ連なったシートの一つに座っていたが、隣には誰もいなかったし、私の周囲もすべて空きシートだった。
誰かの人影が私の側に立った。隣の人だろうか、と私は顔を上げた。
「……」
「伊織様、酷いですよ。私がどれだけカイザー様に怒鳴られたか」
護衛は私の隣に腰をおろした。
「アリア様もすっかりすねてらっしゃる。なだめるのが大変でした」
「そんな……ね、お願いだから、見逃してよ。私は地球に帰りたいの」
「駄目ですよ。そんな事をしたら、私の首が飛ばされます」
私は隠し持っていたナイフを護衛のわき腹に押し当てた。
「し、死にたくなかったら、見逃して!」
「あなたに殺されるかカイザー様に殺されるかですか?」
「……お願いよ」
「あきらめてください。あなたはカイザー様に気に入られすぎたのです。普通ならここまでした花嫁をカイザー様は許すはずはありません。だが、あなただけは別らしい。そこまでカイザー様に愛された事をありがたく思って下さい」
「……」
私はため息をついた。
「さあ、カイザー様の元へ」
護衛は私の手をひいて立ち上がった。
「でも、もう船は出発してるわ」
「外をご覧下さい」
「!」
窓の外にはカイザーの大きな宇宙船が火星行の観光船と並んで飛んでいた。
大きな立派な船だった。堂々と、威厳さえふりまきながら、その船は飛んでいた。
「早くして下さらないと、カイザー様はこの船を撃ち落とすでしょう。そうすればこの船の他の乗客も皆死んでしまいますよ」
「わ、分かったわ」
私は立ち上がった。もう逃げられないのか?
私は護衛の体を突き飛ばした。
「伊織様!」
倒れた護衛の体を乗り越え、コックピットまで走る。
驚いた顔のスチュワーデスに大声に叫んだ。
「大変よ! 宇宙海賊がこの船を狙ってるわ! 早く警察に連絡して!」
火星人のスチュワーデスが悲鳴を上げて、急いで通信機器に手を伸ばした。
「伊織様!」
「早く逃げないと、警察が来るわよ!」
私は仁王立ちで護衛を睨みつけた。
「あなたも一緒にね」
護衛が私の手をつかんで、船の後部まで私を連れて入った。
外部扉付近で護衛はカイザーに通信をした。
その姿を見ながら、私にまた怒りがわき起こった。
この男さえいなければ、警察が来る前にカイザーは逃げるだろう。
護衛は私に背を向けている。
私は近くに設置してあった、消化器をコージーの頭めがけて振り下ろした。
「うわっ」
とっさに振り返る。
「伊織様!」
護衛は私の腕を押さえ、消化器を取り上げようとした。
「やめて!」
「伊織様!」
二人でしばらくの間もみ合っていたが、男の力にかなうはずもない。
「全く、あなたという人は!」
揉み合いの最中に私は無意識にナイフを握った。
「うっ」と唸って、護衛が倒れた。
「……」
私は自分のした事の恐ろしさにどうしていいか分からなくなった。
もみ合う音に様子を見にきた誰かが悲鳴を上げた。
これですべてが終わったと思った。だって、護衛の体はぴくりとも動かない。
銀色の床に血が広がった。
誰かが私の手からナイフを奪った。
そして体を押さえ付けられて、酷くののしられた。
私には何を言ってるのか分からなかった。だって人を殺したんだもの。
海賊なんかよりもおぞましい殺人者になってしまったんだもの。