5
母と凜が戻らないまま、もう九時になろうとしていた。ビールではもの足りなさそうな駒井に日本酒を出し、結衣子には顔を洗うように言った。
「風呂は明日ね。あと寝るだけだし。母さん、出てこないかもしれないから」
風呂は止めておく。結衣子は入らない方がいい。
「別にいいけど、なんで?」
「……何でだろ?」
変なの、と言われた。台所の先にある洗面所を教えた。和室には戻らず、真っ直ぐ行った別の和室に入り、畳を上げて布団を出した。
使える部屋はここと食事している和室しかない。赤い扉の手前は母の部屋。割り振りにちょっと悩んだが、自分の部屋に結衣子を宛がって、ここに駒井。凛はこれから食事になるから、そのまま和室で。自分と凛が一緒で構わないだろう。布団の数を数えて畳をしまう。一組敷いて、一組を自分の部屋に、二組は廊下に積んだ。
「それにしても結はよく動くよなあ」
したたかに酔いが回り手伝う気はないらしい駒井を、結衣子と入れ違いに洗面所へ案内し、そのまま布団に連れていくと、すぐに寝息を立てた。
「駒井さん、楽しそうだったね。お孫さんのことはアレだけど」
「うん。駒井さん、若くないし、運転させちゃったからさ、寝かせてきた。結衣子は真ん中の部屋ね。布団は敷いてあるから、眠くなったらどうぞ」
「一人?」
「狭いんだ、四畳半しかない」
「怖くない?」
「怖いわけないし。俺たち、ここで寝るから」
「お母さんに会えないの?」
「会ったじゃないか」
「そういうんじゃなくて」
またドーンの鳴った。不安な顔を隠さない結衣子。
「ギリギリまで起きてればいい」
「わかったぁ」
結衣子と日本酒を酌み交わす。ほんのり赤い結衣子。
「結くん、お仕事、大変?」
「今はそうでもないよ。事件、起きてないし。落ち着いてるから」
死体が見つかったら忙しくなる。アパートに帰る暇すら惜しくなる。
「友達のお父さんが刑事なんだって。地方だけど」
「へえ。大先輩だ」
「死体を見た日はお肉食べられなかったって。メニュー、直前でも変わっちゃうんだって」
気持ちは分かるが、自分は平気だ。
「あたしたちは、そうなる?」
「ああ、ならないよ。平気、レアステーキでも大丈夫」
「あはは、やだぁ」
結衣子も酔って笑いだした。かわいい。
「あ、終わったみたい」
結衣子は自分の肩越しを指差した。振り返ると障子が少し開いている。障子に指先がかかっている。
「結衣子、違う、これは違う」
「えぇ? 何がぁ?」
上手く言えないのだが、この指先は違う。母親でもないし、凛でもない。
「凛くん、お疲れ様ぁ」
結衣子は立ち上がり、ふらつきながら障子を開けた。
「あら、いない」
「だから違うって」
結衣子はペタンと座り込んだ。
「結くん」
「うん、こっちおいで。もう夜、遅いから叫ぶとか暴れるとかなしね」
結衣子は声も出ないようだ。サァーと青ざめた結衣子を抱き寄せて障子を閉めた。
「結くん」
「うん」
「帰りたい」
「そうだね」
酔いも醒めて真っ青な顔を自分に向けた。頬を撫でて落ち着かせる。叫ばないだけでも凄いかもしれない。
サッと障子が開いた。
「いやあああっ」
「え、あ、ごめん」
「違うって、いいんだって、入れよ、閉めんな、凛」
「やだああっ」
「え、なに、悪かった、ごめんなさい」
「そうじゃない、結衣子、落ち着け、凛だよ、ほら」
「うわああん」
凛に布団を敷いてもらい、散々泣きまくってぐずぐすの顔で眠った結衣子を転がした。一気に疲れがくる。そっと布団を掛けてやった。
「凜。飯、食うだろ。待ってて」
「ありがと、この酒、呑んでいい? あ、これ旨そう」
「ああ。ビールは?」
「いらない」
炊いたご飯は全部握って、もう一度卵焼きを焼いて豚汁と持っていく。凛は旨そうに卵焼きを頬張った。
「結も呑もうよ」
「ん」
今度は凛と酌み交わす。きれいな顔には疲れが見える。
「凜の用事は済んだの?」
「まあね。馗綯さん、すごい人だね。すごかった」
「母さんの仕事してるとこは見たことないから。何、やるの?」
「ああ、えっとね。ああ、柚井姫、知ってる?」
「ゆいひめ?」
「うん。えっと、神張市の命名由来に出てくる、あ、知ってるでしょ、央くんと同級生じゃん。東城学園のさ」
「あ、旧校舎」
「そうそう」
出身校である東城学園の旧校舎エリア。高等部の校舎の北側にあり、ぐるりとフェンスに囲まれて上には有刺鉄線が巻かれている。入り口はない。誰も入れないはずなのだが、たまに生徒が「助けてくれ」と旧校舎側から叫んでいた。そういえば見たことがあった。近づくことはしなかったが、同じクラスの奴が叫んでいて、凛の姉、葎がフェンスの側にいた。
「学園七不思議ってやつだ。一個しかないけど」
「一個で十分だよ、あんなの」
あの時、葎がいたなら央もいたはずだが。
「あ」
「ん?」
「旧校舎にいた奴を助けてる時に、央、走って逃げてったんだよ」
そう言うと凛が笑いだした。
「だって、央くん、怖がりだから。はは、ほんと、ああいうときの逃げ足速いんだよね」
「そうそう、一気に走ってったな」
「央くんが葎に手、出さないのは多分怖いからだよ。葎、依童体質だから」
「え、でも、付き合ってただろ?」
「まさか。葎、すぐ憑かれるからね。それでも、央くん、二、三回は寝たんじゃない?」
「ベタ惚れだったろ?」
「お互いね」
そうだ、お互いベタ惚れだった。見ていて分かるくらいだ。日本酒を注いでやると凛は、くいっと飲みほす。爪が土に汚れていた。陶芸師とはどんな仕事なのか。陶芸だけなら母親に用事などないはずだ。
「央くんも葎も今でも好きだと思うよ。まあ、葎は結婚したけどね。あ、神張署の人だよ、加賀谷って人。知ってる?」
央と葎の関係があやふやになったところに、葎は結婚していて、しかも旦那は刑事だと言う。
「知らない。神張署、行ったこともない」
「そっか。いい人だよ。央くんと浮気しても怒らないし」
「なんだ、それ」
「央くんにも言わないでよ。今でもたまに葎と寝てるんだ。それを見ない振りしてくれてる」
「え? な、え、分からない」
「央くんに惚れてるとこも好きなんじゃない? 子供もいるよ、男の子二人。あ、心配しないで、ちゃんと加賀谷ファミリーだから。父親、央くんじゃないから」
呑みすぎたのか、呑みが足りないのか。理解できない。央が父親じゃないなんて、葎にしか分からないだろうに。
「央くんは安心したと思うよ。自分に振り回されないで、ちゃんと幸せになってるから」
「でも、寝てんだろ? 旦那がいない時に。普通にあり得ないだろ。ってか、ええ?」
「はは、そうだろうね。結は分からないんだよ。分かんなくていいんじゃないかな。結も結衣子ちゃんもお互いだけなんでしょ?」
「当たり前じゃないか、普通だろ」
「うんうん、当たり前だね。そうだね」
「バカにしてんのか?」
「してないよ。羨ましいだけ。きっと央くんも羨ましいんだよ。だから、ちょっかい出してくる。そんな感じだよ」
結衣子が寝返りを打ったのを見て、我に返る。
「あー、なんか、ごめんな。長旅で、疲れただろ」
「全然。俺、なんか楽しい。久々にちゃんと喋ってる。いつも土塊と話してばかりだからさ」
ふんわりと笑う凛は真新しいカッターシャツの袖を捲っていた。さっきから気になることを聞いてみる。
「それ、いつの?」
凛の手首にはたくさんの古い傷痕があった。左右とも数えきれない。日本酒のせいで赤く浮き上がっている。不謹慎ながら綺麗だと思ってしまった。
凛はその綺麗な傷を撫でながら言った。
「今は切ってない。もう平気、かな」
続けて聞いてきた。
「結はないでしょ? 死にたいって思ったこと。殺して欲しいって思うこと」