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天泣は夕立に変わった。走れば走るほど雨は酷くなり行き先の不安を煽った。山の中の一本道は川と変わり、明らかに車を拒んでいる。駒井は車を脇に寄せ、少し待つしかないと言った。
「この水はどこから来るの?」
ぽつりと言った結衣子に自分も駒井も返事が出来ない。
「結衣子、結衣子は頭、悪いの?」
「え?」
寝ていたと思っていた凛が突っ込んだので、思わず笑ってしまった。
「なあに、何で笑うの? だってすごい水量じゃない、だからどうなってんのかなって」
「この辺りは山ばっかだからね。山に降った雨が逃げ道にこの道を選んだんだ。地面に吸い込むのが間に合わないから。道らしいのはここだけだしね。村が雨に沈んでいることもないよ」
説明したのかバカにしたのか、自分でもよく分からない。結衣子は、分かってるわよ、と口を尖らせた。
「都会じゃ、見ない光景だからなあ」
駒井は結衣子を庇うが、最近はゲリラ豪雨で地下街に雨が流れこむのも珍しくない。理由は同じだ。
ふいに思い立ち、母親に電話した。電波が悪い上にこの雨である。少しだけ呼び出すと切れてしまった。
「もう、この辺りじゃあ、携帯は無理だな」
「そうですね」
駒井は首をぐるぐる回して肩を揉んだ。すっかり目が覚めたらしい凛が言った。
「俺の、使う? 衛星だから家の電話、拾えると思うよ」
「いや、いいよ。もうすぐ着くよってだけだから」
凛は膝にのせた箱を睨むように見た。重いのだろう。
「後ろに置けばよかったのに」
「平気。大丈夫」
一日中、抱えて歩いていた。昼飯のときも下や荷物場には置かず、隣の椅子に置いていた。大事に運んでいるのはよく分かった。
「結、今、何やってんだ?」
「あ、はあ。警察に勤めています」
「警察? 駐在かい?」
「いえ、強行犯係、えっと、あれです、刑事です」
駒井には所轄だの本部だのは関係ないなと思った。ただ、駐在とはやはり違うので、そこは分けた。
「ほう、すごいなぁ、出世したなあ」
「そんなんじゃないですよ」
「なら、孫娘のことを頼むのは結じゃないか、なあ」
曖昧に笑う。もちろん管轄も違うし、デリケートな事案だから女性警官のほうがいい。
「そうかぁ、そうだったかぁ」
駒井は感心したのか頷きながら目を擦った。聞いて欲しいのだろうか。どうしようか悩んでいると強い風が車を横に揺らした。
「すごい、怖いわね」
「こういう時は動かないほうがいいんだ、天の神様に祈るしかないんだよ」
駒井は少し笑って言ったのだが、目には涙が浮かんでいた。孫娘のことだろうか。日に焼けて深いシワに飲まれそうな目。
「お孫さん、本当は」
「んあ、ああ、そうだ。捨てられたんだ、酷い奴だったらしいんだよ、娘がな、そっちで様子を見て欲しいと言ってな。仕事も辞めてきた。アザだらけで髪の毛も抜けててな」
DVか。最近はモラハラとも区別がつかなくなった。
「夜中、泣くんだよ。ごめんなさいってな」
被害者なのに私が悪いと思ってしまう。
「許せんよなあ」
駒井はうっすら浮かんだ涙をごつごつした手で拭う。
「その話、止めて」
凛がぴしりと言った。顔を窓に向けたので見えなくなった凛の顔をサイドミラーで見た。
見ようとした。
「……」
サイドミラーには凛が映っていない。映っていたのは。
黒髪を長く垂らした何か。髪の毛の隙間から見えるのは真っ暗の眼。白い首の辺りに赤い着物が見えた。
バンッと音がした。光るのと同時だった。
雷が近くに落ちたようだ。
「びっくりした、雷?」
「ほうさな、ああ、縮んじゃうよ」
結衣子と駒井は驚きを共有して笑った。首筋に流れた冷たい汗。
そっと窺うサイドミラーに映っているのは凛。凛はミラー越しに笑った。嫌な笑いかたをする。
雷が合図だったように一気に雨が引き、車で走れる程度になった。駒井はゆっくりと走り出す。少し寝たからか結衣子は上手に言葉を選び、楽しそうに駒井に話しかける。駒井も話したからであろう、表情が柔らかくなった。
自分と凛が黙っていても結衣子と駒井は気にしていないようだ。
早く着けばいい。もうすぐ着くのだ。手にしていた携帯で時間を確認すると六時になろうとしていた。雨上がりの夕闇がしとしとと背中から迫っている。