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「これ、すごいですね」
「お、上手いじゃないか。コツがいるだの書いてあったのに」
熊谷係長が、なんと人工声帯を持って現れた。喉に当てて喋るとちゃんと発声する。もちろん、機械的な無表情の声なんだが、とてもありがたい。
「これな、嫁の母親の形見なんだ」
「え、」
「いいんだ。お前の話をしたら嫁が使って欲しいと出してきた。買ったものの、使う前に死んじまったから」
だから、ラインがピンクなのかと思った。小振りでちょっと持ちづらい。係長はがさがさと取り出したのは、やはり唐揚げ弁当だった。匂いがするような気はしていた。
「なに食ってもいいんだってな。病院食じゃ腹が持たんだろうと思ってな」
「あ……とうございます」
コツがいるという意味が分かった。上手く当てないと出ない音がありそうだ。
「退院したら、線香、あげ、させてくだ、さい」
「ああ、ありがとうな。嫁も喜ぶ。飯でも食っていけ」
「あ、そうだ。今週で有給が終わるって言われたんだよ。どうする? 休職にするか? あ、いや、無理して働けと言ってるわけじゃないんだ」
一晩、考えた。
「いえ、来週から復帰します。やはり、このまま、刑事では無理でしょうか?」
かなり無理があるし、大変だとも思うし。声が出ないことを逆手に取られて危ない目に遭うかもしれない。
「その件だがな、ちょっといい方法がある。まあ、最前線とはいかないが、庶務課で定時に帰るよりはやりがいがあるだろうし。なにより、そこは警視庁管轄なんだ」
「は?」
「よかった、お前の目付きはまだいい目付きだ。まだまだやれる。婆さんも喜ぶよ、それ、思いきり活用してくれ」
係長はバシバシと背中や肩を叩き、よかったを連呼する。
「係長?」
「じゃ、そういうことで。まだオフレコなんだ」
「意味が分かりませんよ」
「いい、いい。じゃ、来週、月曜には来られるのか? そうか、よし。分かった」
かなりハイテンションでラウンジを出ていく。夕焼けを背負っているように背広に夕日の赤い色が映っていた。
丸いテーブルに置いた左手を誰かが掴んだ。
「っ」
危うく落としそうになった人工声帯をつか見直す。
テーブルからにょきっと生えた灰色の手に掴まれていた。柚井姫だ。
「つ、が、」
離せって。引っ張ったり揺さぶったり。隣のテーブルについていた二人が変な顔をする。その間にも左手は血の気が引いていく。
「結」
ぱあんと弾けて居なくなった柚井姫。助かった。
「結?」
「助かった、ありがとう、環那」
「へえ、買ったの? 人工声帯」
「見舞い品だ」
「よかったな、いいじゃん」
央に退院したいと言っても無理だとかダメだとか言われていたので、環那に相談していた。太った体格にやけに似合っている白衣。
「結は咽頭癌。がっぽり声帯ごと摘出しましたので、再発の心配はありません」
「なるほど、了解」
「そういえば、今日はいないのな、凛」
「そうだね」
一昨日の、やだのメール以来、音沙汰すらない。もしかして、心配で来ていたわけではなく、柚井姫に会いに来ていたとしたら。
「環那から見て、凛ってどんなやつ?」
「さあ。話したことあったかな」
葎の弟だと言うだけで、学校も違うし、本当に見かけるくらいだと言った。
「結はなんで仲いいの?」
「なんでだろ」
「あ、彼女は? 大丈夫?」
「土曜日は普通だったよ」
「そう」
「どうしたらいいんだよ?」
「多分、だけどね。アタシがいないときに結が大変なことになったらどうしよう、ってのがベース。こんなに近くにいるのに」
分からなくはない。赤い扉の向こうにいたのだ。
「でも仕事はちゃんとやってるみたいだよ」
「そんなに深刻じゃないからだろうね。このまま、一緒に住んだら、結、一歩も外に出してもらえなくなるかなと思って。余計な心配で終わるならそれでいいし」
「なんで? 働かないと」
「でも、結に何か遭ったら」
「じゃあ、事務職にするとか?」
「歩いてて、刺されたらどうしよう」
「あのな、」
「だって、助けてって言えないのよ」
環那はそう言うと人工声帯を取り上げた。
「ほら、返せって言ってみろよ、言えないだろ」
すぐに返してくれた人工声帯を喉に当てる。
「だから、どうすんのさ、俺」
「そうだな。結の理由ではなくて、彼女の都合で、結から離れてみる。その間、結が無事なら安心するし、気持ちも軽くなる」
「もしかして、責任を感じてるのか、結衣子は?」
「結衣子さん、っていうの? なんか、右も左も前も後ろもユイばっかだな」
「ほんとだよ」
ややこしいのは事実である。結婚したら尚更である。同性婚のようだ。
メールがきた。
結衣子からである。




