雨
九月も終わりなのに、暑い上よく雨が降る。秋雨なんて聞くと降るたびに涼しくなるのではないかと期待してしまうが、今年はどうやら例外らしい。降っても降っても暑い。今日もアパートに帰るときが一番酷い雨で、きっとテレビをつけたらゲリラ豪雨と紹介されているであろう空だった。明るい空は探せど探せど見当たらず、重苦しい灰色の空が肩にのしかかるようだった。もう雨雲と自分が紐付いているとしか思えない。
あまり使わなかった有休をとにかく使え使えと庶務課や上司が言ってくる。働き過ぎは働かせ過ぎなのだ、叱られるのは自分ではなく上司や庶務課である。廿日署の強行犯係、九人は一人ずつ五日連休で有休を使うことを思い付いた。タイミングが悪く、誰もお盆を休むことができなかったことを理由に年寄りから順に休んでいった。ようやっと自分の番になったら、この雨である。
恋人の真山 結衣子は多分、今一番、働き盛りで元々自分と休みが重なるのは奇跡的であり、今回の五日間も自分に合わせて休みがとれるとは思わない。一応、メールで休みなのだと伝えてから風呂掃除をしてお湯を張った。掃除機をかけてトイレも掃除した。雨で湿った身体は汗にまみれて窓が開けられない部屋の中を曇らせた。どうせならすっきりしてからゆっくり休みたい。やらねばならない掃除も洗濯も済ませてしまおう。
やっと風呂にたどり着き、汗も疲れも流しきり、だらしないTシャツと短パンで冷蔵庫から冷えた白ワインを取り出す。コロンとしたすずらん模様のグラスに並々と注いでいるとき、携帯電話が光っているのをみつけた。結衣子からの着信であった。慌ててかけ直す。
『もしもし、結くん?』
「ごめん、風呂入ってた」
結衣子の囁くような小さい声に心が弾む。
『お休み、まとめて取れたの?』
「そうなんだ。急だけどね」
休みが取れた経緯を話すと結衣子は唸った。
『アタシも休みたい』
「うん、そしたらかなり嬉しい」
『分かってる、ちょっと掛け合ってみる』
休むために気合いをいれる結衣子。早く会いたい。グラスの縁をぐるぐる擦る。グラスは結衣子がくれたものだ。
そうだ、どこかに行くのがいい。
「休めたら旅行に行こうか」
『旅行、旅行?』
「うん」
結衣子は電話の向こうで誰かに呼ばれて行ってしまった。休みが取れますように。
誰かがピンポンと古臭い音を鳴らした。
玄関を開けるとあまり会いたくないやつが素敵な笑顔で立っていた。
「よ、休みなんだってな、明日から」
「うっさい、帰れ」
「そんなこと言うなよ、ワイン持ってきた。あ、もう飲んでんじゃん」
救仁郷 央。高校時代のクラスメートだ。スーツもくれてやると大きな紙袋を床に置いた。
「なんで俺が休みなのを知ってんの? 今日、決まったんだぞ」
「庶務課のかなちゃんが連絡くれたんだ」
庶務課も交通課も央の味方なのだ。同級生のくせに、社会でのランクが既に違う。央は比良工医学研究所の副所長である。研究所では、表向きは人工関節や人工臓器のエキスパートが揃い、裏側は公安よりも質の悪いやり方で「悪代官様」の始末すら請け負う。公安すら頭が上がらないトップシークレットだ。
そんな央からもらったスーツを出して、吊るしていく。五着もあった。薄給なのも知っているんだろう。
「飲もうよ。高いワインなんだぞ」
調った顔つきでさっさと入ってくる。多分、掃除やらなんやらが終わるのをどこかで見ていたに違いない。
「やなやつ」
「気づいてないのか、結もたいして変わらないよ。なあ、なんか食い物ないか? 腹が減ってるんだ」
冷蔵庫から煮物を取り出す。仕方ないので鶏肉を焼く。
「結はえらいよな、料理するし、洗濯も掃除もまめにやるし。旨いな、これ」
肉じゃがにしたかったのだが、肉を買い忘れる痛恨のミスを油麩で埋め合わせた。鶏肉にめんつゆとニンニクをすりこんでグリルへいれた。
「聞いてるのか? 結衣子ちゃん、安心して働けるじゃないか」
「は?」
「何にも出来ない旦那じゃ、困るよな。今の仕事、気に入ってるみたいだしな」
「何言ってんの?」
「なんだ、結婚しないのか。五日も休んでおいて、母親に会わせに行ったりしないのか、って言ってんだよ」
結婚?
「なんでそうなるんだよ」
「劇的な再会を演出してやったのに、このままか?」
結衣子とは同い年で違う高校だったが、一年のときから付き合っていた。三年のとき、自分が入院してしまい自然消滅した。と思っていた。
調べたのか何なのか、央は結衣子を引き合わせてくれた。そこだけは本当に感謝している。お互い仕事に没頭していたからか、再会したときからまた、というか、別れてないよね、なんて言いながら今に至る。再会から三ヶ月が経った。
「考えてなかった」
「アホ、俺ら、二十五になるんだぞ、女の子からしたら、もうすぐ行き遅れになるぞ。早くもらってやれよ。刑事の奥さんは大変かも知れないけどな」
今は晩婚が多いじゃないかと言いたいが、結衣子のことを考えると言えなかった。
「一度も実家に帰ってないんだろ? いいじゃないか、久し振りに帰ってくる息子がかわいいかわいいお嫁さん連れ」
「央の言いたいことはよく分かった。でもそれ、決めるのは俺たちだし。指図すんな」
グリルからいい香りが立ち上る。皮をよく焼いてから取り出して、切ってだした。
「うまそう、よかった、腹が減ってて」
「うっさいよ、ワイン、開けろ」
口をもぐもぐさせながらワインを開ける央を睨む。
「なんだよ、ほら、グラス」
かなり濃い赤だった。濃厚な香りと色合いがそそる。すずらん模様がキラキラ光る。
「ほんとは、なんか用事あるよな?」
「だってほら、俺、お化け嫌いだから」
「は?」
「俺の嫌いなお化け関係だから、違うやつを紹介する。そいつをお前の母親に会わせて欲しい」
「お断りいたします」
「そんなこと言うな。ついでじゃないか。お嫁さん連れて帰るついで」