惚れたら負け
風が気持ちよかった。
雲一つない晴天の中、冷房はついていても熱気と湿気がこもる室内より、木陰で自然の冷気に触れる方が私は好きだった。
講義が終わって、一緒に授業を受けた友達と別れて、今は1人のリラックスタイム。
ベンチに腰掛け、カバンの中から、スマホを取り出す。
時間の確認をしようとしただけだったのに、未読のラインが尋常じゃないくらい溜まっていて、私は固まった。
未読34。
これは1人からのラインだ。
私からの反応がなくても、どんどん送ってくるのか、35に増えた。
見ないふりを決め込もうかと少し迷いながら、既読のつかないように内容に目を通す。
『今、どこにいる?』
『ねぇ、俺に言うことあるだろ?』
『早く返信しろ』
…これだけで人の都合はおかまないなしの自分中心主義な性格がわかってしまうのだから、恐ろしい。
そして、彼がなぜか怒っているような雰囲気が文面から感じられる。
けれど、私にはその理由まったく思い当たらない。
「私が要に言うことって、何…?」
呟きながら、長くて鬱陶しい茶色の柔らかい髪の毛を耳にかけた。
少し考えたが、わからないものはわからない。
私はスマホをしまって、文庫を取り出した。
同じコースの友達がおすすめしてくれた本で、早く続きが読みたかった。
わけのわからない幼馴染の怒りなど、無視に決め込むことにした。
確か、今日は講義がない日だったはずだ。
私が彼のラインを未読無視し、読書に没頭しようとするなど知る由もないはずだ。
はずだった…のに。
「朱音」
突然の背後からの問いかけに私はゆっくりと首を後ろへ回した。
にっこりと笑いながらも、黒いオーラを纏う幼馴染に私はびくっと過剰なくらいに震えあがった。
「か、要…?なんで、いるの?」
「朱音に聞きたいことがあってね。で、どうしてラインを無視しているのかな?」
隣に腰掛けて、圧力を送ってくる切れ長の目で見られると、私は嘘がつけなくなる。
それは小学生のころからの、最早癖のようなものだ。
そして、怒っている彼は可能な限り放置・関わらないというのも、私の長年の経験からの結論だったのに。
まさか、見られているとは思わなかった。
「なんか、わからないけど…怒っているみたいだった…から?」
「だから、彼氏のラインを朱音は無視するんだ?」
「ちょっと時間をおいてから返信しようと思っただけだよ。そ、それより何?私に聞きたいことって」
「…安藤と昨日、2人で出かけたって本当?」
「そうだけど…それが?」
安藤君とは最近仲良くなった。
彼が要と仲がいいのは知っていたけれど、話してみると面白くって、本の趣味が意外にも似ていた。それこそ、先ほど読もうとしていた本を貸してくれたのも安藤君だ。
そんな彼と昨日偶然会い、そして、私の買い物に付き合ってもらった。
それを2人で出かけたのかと問われれば、多少ニュアンスは違うかもしれないが、否定すると嘘になる。だから、素直に肯定した。
だけど、肯定した途端、要の雰囲気が一層黒くなった。
え?何?正直に答えたのに、何がお気に召さないの…?
「えっと…買い物に付き合ってもらっただけだよ?」
慌ててフォローを入れるが、効果はあまりなかったようだ。
笑顔を取り繕うのをやめた要は不機嫌な表情を露わにした。
「それなら安藤じゃなくてもいいだろ。俺がいるんだから」
「…いや、要はちょっと…」
言ってから後悔した。火に油を注いだようだった。
別に要が嫌だという意味で言ったわけじゃなかったのに、そういうように聞こえてもおかしくはなかったかもしれない。
ゆっくりと要の方を見ると、額に青筋が浮いている。
整った顔が怒りに歪むと、綺麗だと思いつつも、恐怖が増す。
「朱音は安藤の方がいいわけ?」
「ええ?いや、何言ってるの?そういう意味じゃないよ」
「いくら安藤と言えども、朱音は絶対に譲れないから。」
ダメだ。都合の悪いように解釈して、私の弁明をスルーするという性質の悪さ。
昔からそうだけど、私が要以外の異性と話したりすると、要に怒られた。
ひどいときは、人前で笑うなと言われた。
まったくもって無茶苦茶な思考。そして、それを私に強いる。
要の兄である尊くん曰く、それは独占欲なのだと言う。そして、愚痴ると諦めろと同情の眼差しで諭される。
でも、彼と付き合うことになったのは、私だって誠実に要のことを好きなわけで。
そして、だからこそ、昨日安藤君に買い物を付き合ってもらったわけなのに。
せっかく驚かせてあげたかったのに、それさえも彼のわがままで叶わない。
私は静かにため息をついた。
「要、あのね、安藤君に買い物に付き合ってもらったのは、男の人の意見を参考にしたかったからなの」
「だから、それは俺でもいいだろ」
「そうじゃなくて…もう、要が誤解してるから、ネタ晴らししちゃうけど、明日要の誕生日でしょ?」
「…え?」
「…え、じゃないわよ。誕生日だから…その…プレゼントを買いに行ったはいいけど、何あげたらいいか悩んじゃって。そんなときに安藤君と出会って、アドバイスもらったの!」
少し面をくらった顔が少しずつ笑顔になる。というより、ニヤニヤと形容した方が正しいかもしれない。
少なくとも先ほどの作った笑みとは違った。
ご機嫌が回復したようで、鼻歌でも歌いそうな浮かれっぷりに、私が居たたまれなくなる。
「それならそうと早く言えばいいのに。で、何をくれるの?」
「明日のお楽しみ。もう勝手に誤解して怒って、怖いからやめて。あ、安藤君に何かしてないでしょうね?」
中高時代に私が酔っ払いに絡まれたり、要を好きな女の子から嫌がらせされたり、私が告白されたり。
そんなときに彼は私の知るところでも知らないところでも、制裁を加える。
要は要領もよく、運動神経も悪くない。
つまり、証拠が残らないようにすること、喧嘩で解決することも可能なのだ。
「ん?安藤がいいやつなのはわかっているから、手加減はしたよ?」
「ちょっと、何したわけ!?」
「冗談だよ。安藤のことはもういいじゃん」
唇から少し舌を出して、悪戯がばれた子供がまったく悪びれずに謝るように要は言った。
私はそれがどういうことを示すのか、長年の経験から推察できる。
…安藤君。ごめんね。
少なくとも何もなかったことなどありえない
好青年を演じる彼の本性は、幼馴染である私でさえ、わからない部分がある。
今のところはそういう気持ちはないが、私が別れたいと言ったら要がどうなるか、想像するだけで恐ろしい。
とりあえず、安藤君にはこっそり謝罪しておかないといけないな。
私は時間を確認するたびに再びスマホを開く。
溜まった要からのラインに既読をつけて、さらっと内容を全部読んだ。
「今日は講義なかったのに、それを聞くために来たの?」
「ん?そうだけど、これから、デートして一緒に帰る?」
どんなに自己中心的でわがままな男でも惚れてしまったら負けなのかもしれない。
私は一緒にいる時間は長かったけど、その分照れくさくて、要が好きだと言い出させなかった。
中学2年生のころ、要に告白されて、ずっと今でも続いている。
素直じゃないから、面と向かっては言えないけど、要が私に向けてくれる爽やかな笑顔は心臓に悪いくらいかっこいい。
「講義、もう終わりなんでしょ?朱音の好きなアイス食べに行こう?」
「…仕方ないなぁ。一緒に帰ってあげる」
わざとらしく言う私に要は素直じゃないな、とぼやきながらも満足そうに笑う。
「よし、行こう」
当たり前のように差し出された要の手を、私は当たり前のように握る。
私よりも一回りも二回りも大きな彼の手。
熱い私の手には彼の冷たい手がとても心地よく感じられた。