虫喰い
タカは眠れずに寝返りを打った。
眠る前に消した火鉢の熱はとうに無くなっている。室内がすっかり冷えてしまう前に眠らなければと思って目を閉じるが、気が付くと目を開けていた。身体は疲れているのに、変に目が冴えている。
こんな夜は珍しい。朝早くから起きて家事をし、まかないの雇われに出かけ、帰って夕餉の仕度と目まぐるしい日々で疲れた身体はいつも寝付きがよく、眠ると朝まで目が覚めない。
いっそ夫の酒でも飲んで酔えば眠れるかとも考え、しかし飲み慣れない酒で今度は朝起きられなくなってしまったらと思うと実行しかねた。
隣りで眠る夫から軽いいびきが聞こえる。寝返りばかり打つと夫が起きてしまうかもしれない。タカはそれが気になってそろりと夫のほうに寝返りを打った。
闇に目が慣れたタカは、眠っている夫の顔を見つめた。寝相の良い夫は天井を向いているらしい。夫の向こう側のふすまは窓から漏れるわずかな明かりを映してほの白く、夫の鼻梁を浮かび上がらせていた。
タカの夫は人当たり良く勤勉な人だった。誰にでも親切にし、妻にも優しい人というものは、寝顔まで柔和に見えるらしい。タカはとりとめなく考えて、宵闇に浮かぶ平らな額と低い鼻を眺めた。
ふいに夫の向こう側の空間が縦長に黒く切り取られた。暗い室内に白く浮かぶふすまが音もなく引かれて、ふすまと壁のあいだにできた隙間を隣室の闇が黒く埋めたのだ。
鼓動が跳ね上がり、全身に緊張が走る。物取りかもしれないと息を潜めて身を固くした。小さな影がふすまと壁のあいだをすり抜け、ぎくりとする。
最後に入った長い尾がふすまの表面を撫でて、見慣れた影の形に正体はすぐ知れた。
飼い猫のお玉だ。タカの身体から緊張が一気に解けた。雉虎柄の猫は結婚する前から夫が飼っている猫であった。大人しく、己で狩りをしないこの猫を夫はとても可愛がっている。
嫁いでそれなりに年月が経ったが、お玉が自分でふすまを開けるところを初めて目にした。人語を解しているふうであったので賢いとは思っていたが、ここまで賢い猫だったのか。きっと人がふすまを開けるところを見てやりかたを覚えたに違いなかった。
わざわざふすまを開けてまでして何をするつもりなのか見届けてやろうと、タカは寝たふりをして薄目を開け、お玉を目で追った。
猫は音もなく歩いて夫の頭のそばに座り、夫の顔をのぞきこんだ。そのまま置物にでもなったつもりか、じっと動かなくなった。
布団に入って暖をとるでなく、鳴いて餌をねだるでもないお玉の行動はタカを訝 (いぶか)しませる。
何をしたいのか見当がつかない。お玉、と呼んでみたい気もしたが、タカは黙って見ていることを選択した。お玉が何をするつもりか見てやろうという腹積もりである。呼んでしまっては台無しであろう。
とちゅう眠くなって寝てしまったらそのときだ。
闇の中での待ち時間は長く感じるもので、どれほど経ったか分からないが、おそらくそんなに時間は経ってないはずだった。お玉の様子に変化はまだなかった。代わりに夫に変化が現れた。
いびきが止まって、呼吸が深くゆっくりなものに変わった。
視界の端で額が盛り上がったように見え、タカの注意が猫から夫に向いた。
平らな額の中央が盛り上がったかと思うと、何か出て来たのだ。最初タカはそれを角だと思って肝を冷やす。だが角ではなかった。
額に両手をついてゆっくり乗り出してくるものは淡く発光し、人の形をしていた。じょじょに身体を現す人の形の何かは大陸ふうの服を着た、小さな小さな夫だった。
異様な光景に目をみはる。
小さな夫は全身を現すと、上を見上げて飛び上がった。
次の瞬間、小さな夫が何かに弾かれて斜めに飛んだ。畳に叩き付けられた小さな夫、その横っ腹を踏んだのはお玉だった。
胴を踏まれた小さな夫はじたばたと暴れる。お玉は姿勢を低くし、長い尾を一振りすると小さな夫の頭にかぶりついた。
「――!」
悲鳴が出かかり、すんでのところで堪える。曲がりなりにも夫の姿をしたものが食われる光景は残酷で見るにたえない。だが目を離せなかった。
お玉が大きく口を開けて噛み千切り、小さな夫を咀嚼する。頭を囓り取られたそれは、まだ手足をばたつかせていた。
口の中のものを飲み込むと、今度は腕をもいで食べる。口からはみ出た手がもがいているさまに、ぞっと総毛立った。
終われば反対の腕、次に足を一本ずつもいでは食べる。
猫が捕らえた獲物をいたぶりながら食べるのはよくあることだ。しかし獲物は人間の――己の飼い主である夫の姿によく似た奇妙な何かで、それを喜々としていたぶる猫がひどく異様な存在に見えてきていた。
恐怖がタカの身の内でせり上がる。
残った胴体も身をくねらせて、押さえ付ける前脚から逃げるべくもがいていた。お玉は悠々と胴に牙を立てた。前脚で押さえて引きちぎり、数回に分けてすべて食べてしまう。
口のまわりを舐め、お玉はまた夫の額を見つめた。つられてタカも視線を夫に向けた。
するとまた何か出て来るではないか。今度はねずみに似た形をしていた。大きさはやはり小さい。
その全身が出て来るや否や、またもやお玉は前脚で叩き、かじりついた。
見る間に消えて行く小さなねずみの末路を、息を殺して見守った。
ねずみを見てタカの心は多少落ち着きを取り戻す。猫がねずみを捕食するのは不思議ではない。額から出て来たと見えたのはタカの見間違いで、本当は反対側から夫の顔を登って来たのでは。それならば何もおかしいことはない。
さきほどの人の形に見えたものも、きっと見間違いなのだ。こんなに暗いのだし、ひょっとしたら自分はすでに夢を見ているのかも。
タカは納得できる解釈を探し、自分に説いた。
しかしその解釈は次に現れたもので崩潰した。
額がみたび盛り上がって、伸び上がり出て来るもの。
牛の顔をしていた。
身体は頭と同じ太さの筒状をしている。腕はない。少しずつ出て来て全容を現して行くと、身体は途中でくの字に曲げられていた。曲がった先の表側は真っ直ぐ、裏側はいびつな弧を描く。
かかとが出て、足の指らしきものが見えた。
三番目に出て来たものは、頭部が牛、身体は一本の人の足であった。ふとももに頭が乗っているのだ。
これまででもっとも奇怪な姿にタカはこらえきれず、「ひい」とのどを震わす。
猫のお玉は一度耳を震わせると、奇怪な牛も選り好みせず、畳に叩き落としてかじりついた。前脚で押さえ、頭に咬みついて引き千切る。ひざを曲げ伸ばししてもがく足もほどなくお玉の腹に消えた。
食べ終えたお玉は前脚の裏を舐め、顔をこすって身綺麗にすると、来たときと同じくふすまの隙間を通り抜けた。
すうっとふすまが閉まる。お玉が向こう側から閉めたのだ。この行動にタカはぞっと震えた。こちらの部屋に来た痕跡を消しているとしか思えなかった。
夫がいびきをかき始め、元通りの夜が戻る。夫の様子が気になりはしたが、動くとお玉がまた来る気がして、タカは布団の中でじっとしていた。
*
タカは恐ろしくて一睡もできず夜を明かした。
朝になって起き出した夫の様子は普段と変わらなかった。しきりに夫の身体の具合を気にするタカのほうが夫に笑われるほどだ。
猫のお玉も夜のことなど素知らぬ顔で、夫の足に頭を擦り付けていた。
まかないの仕事に行くと顔色が悪いと心配されたが、身体を動かしているうちに気が紛れた。忙しくて考え込む余裕のないことが今日は助かる。
一段落ついて余裕が出て来ると、タカはあの猫がいる家に帰るのが恐ろしいと思い始めた。
夫の猫だから勝手に追い出すわけには行かない。昨夜のことを話して――。いや、きっと夢でも見たのだと一笑に付されるだけだろう。
食卓に置かれた箸入れを回収し、運びながら考え込む。タカの耳に、同じまかないで働く女二人の会話が聞くともなく聞こえた。
――スエちゃんたら今日はあくびばっかりして。
――だって眠たくって。昨日はコウシンサンだったから眠れんかったんですよう。
――コウシンンサン? コウシンサンて何だい。
――コウシンサンは、かのえさるのことですよう。ほら干支の、ひのえうまとかあるでしょう。
――ああ、ひのえんまなら知ってるよ。
――そうそうそれそれ。そんでねえ、かのえさるの日の夜に寝てるとね、頭から虫が三匹出て来るんですよう。
はっと二人を凝視した。足を止めてスエの話に耳を澄ます。
――その虫ときたら天の神さんに、自分達が住み着いている人間はこうこうこんな悪いことをしましたって告げ口して神さんに寿命を縮めてもらうんです。
――まあなんて腹ん立つ虫かねえ。
――でしょう、だからその日は夜通し起きてるんです。寝なけりゃ出てきませんからねえ。田舎じゃそうやってたんだけど、この辺の人らはしないんですねえ。あたしも次から寝ちまおうかな。
スエの話は昨夜の体験と合致していた。
「ね、ねえスエちゃん」
タカに呼ばれたスエは皿を拭く手を休めず顔だけ向けた。
「その虫ってどんななの? 人の姿なんてしてないよね」
「あら、一匹は人の姿なんだって。タカさん庚申さん知ってるんだねえ」
「人の姿って、そりゃ虫じゃないよ」
もう一人、ムメが口角を下げて気味悪げな顔をした。
「そうよねえ。でも虫って言い習わしてたんよ」
スエの話から、昨夜タカが見た奇妙なものは、庚申の日に人から抜け出て天の神に報告する虫に間違いなさそうだった。
そんな役目を持った虫をあの猫は食べてしまった。それがひどく良くないことに思えて不安に駆られる。
「ねえ、もし……よ、もしその虫が神さまのところに着く前に鳥にでも食べられちゃったら、どうなる?」
「そりゃあんた、告げ口されないから長生きするんじゃないのかい」
ムメの意見にスエがもっともだと同意して笑う。
「ほんと、鳥が食べてくれたら、あたしら夜通し起きてなくても良かったのよねえ」
今日はとっとと寝ちまおう、とスエが大袈裟に顔をしかめて見せ、ムメと笑って話題は客の話に変わった。
スエちゃんはその虫見たことあるの?
あれは誰にでも見えるの?
訊きたかったことは残っていたが、もうその話を続ける雰囲気ではなかった。
それでもタカの気は軽くなっていた。寿命を減らす報告をする虫が食べられたなら、寿命が短くなることはないのだ。
お玉が何を思ってあんなことをしたか分からない。だが夫に害はなかった。
薄気味悪さは拭われなかったものの、害がないなら良しとしなければ。ひょっとすると可愛がってくれた飼い主に恩を返しているつもりなのかも知れない。
タカはわだかまる気味悪さを押し込めて、良いほうへ考えを向けた。
*
庚申は十干十二支の一つ、次にその日が巡るのは60日後である。
次の庚申の日、タカは布団の中で眠気をこらえて息をひそめた。
この二ヶ月のあいだ、夫に変わりはなかった。お玉も変わらずで、己で獲物を捕まえる素振りを見せず、ふすまを開け閉めすることもなかった。
あの夜見たものが本当に現実で見たのか、それとも夢だったのか。気になったタカは庚申の夜、眠らなかった。
たとえ今夜なにもなくとも、あれは夢だったということにはならなず、一生に一度あの日だけの出来事だったとの可能性が残る。そうであっても確かめずにいられなかった。
結果、夜通し起きていたが何事もなく朝を迎えた。あきらめきれず次の庚申も、そのまた次も夜を徹してふすまと夫を見つめる。
一年ほど経った庚申の夜、ついにふすまが開いた。音もなく入って来たお玉は夫のそばに座して待ち、額から現れる異形を三匹平らげて去った。
あの日とまったく同じだった。
きっと夫は長生きする。
タカは天助を得た思いに身体を震わせた。
あんなに良い人なのだから、天が寿命を縮める虫を懲らしめたのだ。これからはお玉をもっと可愛がってやらないといけない。
これからのことを思い、タカは夜明けまでのわずかな時間眠るため、目をつむった。
夫が亡くなったのは三十を過ぎてほどなくのころだった。
弔問客はみなあんなに良い人がと惜しんでくれたが、タカの耳にはほとんど残らなかった。ただ呆然とする。
夫は長生きをするはずだったのにどうしてと、そればかりが頭を占めていた。
虫は天の神に報告しなかったのだから、寿命は縮められなかったはずだ。虫が出て来る度、お玉が食べていたのだから。
虫がどこから入って来るのか知らないが、お玉が食べてもいつの間にか夫の中にいて、一年後の庚申の日に出てきた。
虫たちはどこから入って来たのだろう。虫でも良いから夫の顔を見たいと、タカは虫を捜した。
どこから入って来たのか。その答えらしき考えに辿り着いたのは、寡婦となって数年経ったころであった。
タカはお玉を捜した。お玉は夏の暑さから逃れるべく、涼を求めて冷たい土間に寝そべっていた。
この猫は夫が小さなころから飼っていたと聞いている。もう結構な老猫のはずだが毛並みのつやは良く、一見して若猫である。
近くに立ったタカを、お玉は気だるげにほんの少し頭を上げて見やった。タカはなんの感情もない目でお玉を見下ろす。
「お玉や。あんたあの人の命を食べたんだね」
夫の姿をした虫が率いた虫たち。それらは外から入ったのではなく、中で発生したのではと考えていた。夫の魂の一部が変化したものだったのではないか。だから一匹は夫の姿だったのだ。
一度食べられると、次に出て来るのは一年後。虫を造るために魂を一部削るから一年の期間が必要だったのでは。
これらの考えが正しいと証明するすべをタカは持たない。しかし、まるで年を取らないお玉を見るにつけ、そう掛け離れた考えでもないと思えた。
この猫は、いったいどれほどの年月、夫の魂を、命を食べ続けたのだろう。
お玉はタカの言葉に「にゃ」と応えたきり口を閉ざし、あごを伸ばして寝そべるだけだった。




