凡才とクーデレの出会い
血が噴水のように飛び散り、休日の街を闊歩していた周囲の人間を赤く染めた。赤く染まった人間の中にはすでに息絶えているものもあった。
スライムのような形をした何かは軟体から突き出た爪を震い、もう一人、また一人と人を殺める。
この平和な日本に突如、何の前触れもなく出現した何かが、片端から人を襲っていた。
駆け付けた警官が、その何かに対し拳銃を放った。
ビル街に響く轟音とともに、火薬の臭いが周囲にまき散らされた血のにおいに混じる。
弾丸は間違いなく対象に命中した。遮蔽物はないし、ほとんど零距離射撃で撃ち込んだのだ。
空砲でもない。確認した。
にもかかわらず、その何かの体には風穴一つ空いてはいなかった。
それどころか弾丸が体表で止まっている。透明な体表に一点だけ黒い点がついているので、はっきりとわかった。
警官はようやく理解した。目の前の物体が常識の通じない化け物だということを。
だがその警官は責任感が強かった。国民を守るという自分の使命を忘れず、拳銃が通用しないと見ると警棒を腰から引き抜いて伸ばし、打ちかかった。
――――――いったいこいつが何なのかはわからないが、少しはひるむはず。
剣道三段の腕前と高校時代インターハイに出た実績が警官の体を動かし、打ちかからせた。
化け物は警棒で打ちかかられ、頭の位置に警棒が当たり、人間ならば頭蓋骨が粉砕されるほどの衝撃を受けた。
にもかかわらず傷一つない。掻痒にすら感じていないとしか思えないほどに警棒には手ごたえがなかった。
ショックで一瞬動きが止まり、その隙に警官は腹を貫かれた。
背中から血まみれの爪が生え、口内から下血して体がぴくぴくと震える。
警棒が警官の手から滑り落ち、血まみれの地面に当たって乾いた音をたてた。
銃はおろか大砲すら効果がないと確認されたのは、出動要請により数時間後駆けつけた、自衛隊の一個小隊が全滅した後だった。
それから十年後。
大きな川が中央部を流れ、海に面した街。夜の闇に逆らうかのようにネオンが輝き、繁華街が隆盛を極めるそのさまは先進国ならどこにでもある不夜城。
その中心部から少し離れた場所。一本の大通りと、それに面するマンションやスーパーが立ち並んでいる。地下鉄駅の出口から仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生が大勢出てきた。
不愉快に近い震動音が人という人のポケットやカバンから同時に起こる。
談笑していた人々は会話を止め、酔って千鳥足の人間は一瞬で目を覚ます。
携帯を一斉に取り出し、そのディスプレイを見る。
皆、一斉に逃げだした。あるものは悲鳴をあげ、あるものは脇目も振らず逃げ出す。地下鉄の駅へと続く階段を駆け下りたり、店の近くにいた者は手近な店へ駆け込んだ。
その中で二人だけ人の波に逆らって進む者がいた。
一人は青と緑のチェックのスカートとブレザーに蒼いリボンという制服に身を包んだ少女だった。艶やかに腰まで流れる黒髪は鏡のように街灯と月光を反射し、その瞳は黒い宝石をはめこんだかのように輝いていた。
もう一人は少女と対照的に目立たない容姿で、街に出れば似たような顔の人間が必ず一人二人はいそうな顔だった。背丈も高くも低くもなく、筋骨隆々でもなければやせぎすでもない。
服装は蒼いネクタイに紺の上下のブレザーで女子生徒と基本的なデザインは同じだった。
二人とも同じ意匠の制服だったが、菊の紋と数字があしらわれたバッジを胸につけている。
道行く人々は二人に応援の声をかける人も多かったが、逆におびえたような表情を見せる者もいた。
二人は十分ほど走り、やがて公園にたどりつく。
少女の方は公園の入口付近で立ち止まったが、少年の方はさらに公園の中の方へと突き進んだ。
「五行の一つ、万物を灰燼へ帰すもの、地より溢れよ」
古めかしい口上とは不釣り合いなソプラノボイスが夜の公園に響く。
その声と共に公園の地面がひび割れて、暗い裂け目から弾丸のような勢いでこぶし大ほどの橙色の炎が放出される。
炎は空間を切り裂くように闇に線を描き、目標に向かい一直線に飛んでゆく。
飛んでゆく先には奇怪なものが浮かぶ。足の長いクラゲのような形をしていて、白く透き通った頭部の下から無数の滑らかな触手が生え、蠢いている。大きさは頭部が半径二~三十センチほど、半透明の触手は数メートルもあった。
十年前に世界中に発生し、欧米では聖書の堕天使をもじって「ルシ」、日本では「妖魔」と名付けられた化物の一体である。哺乳類、両生類、機械など色々な形態がある。
妖魔は形態にかかわらず手当たり次第に人間を襲い、時には命をも奪い、そして忽然と消える。
そしてまたどこかに現れ、人を襲う。世界中でその繰り返しだった。
そのクラゲ妖魔は触手を数本蛇がのたうつように動かし、炎の攻撃をかわした。炎は火の粉をまき散らしながら闇を切り裂いていくが、空気が抜けた風船のように萎んでゆき夜の闇に消える。後には炎の残像だけが残った。
「そう簡単には当たらない、か。クラゲのくせしてすばしっこい……」
先刻のソプラノボイスが再び聞こえた。
公園の白い街灯にその声の持ち主の姿が照らされる。
軽くリップを塗っただけの唇は瑞々しく、切れ長ぎみの瞳は宝石の如し。
だが悲しいかな、唯一胸だけはどう見ても標準以下の大きさだった。
妖魔は攻撃をかわした後、間合いを詰めず、かつ開かずにふわふわと宙空をさまよっている。逃げも攻撃もしないその行動は、攻撃を当てられなかったことを嘲笑しているかのようだった。
「なめた真似してくれるわね」
少女は苛立ち混じりの声で呟く。
向かって左、妖魔の右側の闇から突然石つぶてが飛んできた。といっても何の魔力も込められていない、際立ったスピードもない、ただの石つぶてだ。
だが石つぶてに気を取られたのか、妖魔は触手を動かして再び回避動作に移る。
だがその隙に少女は次の魔法の詠唱を始めた。人差し指と親指を伸ばした形で両手を妖魔に向けて張るように伸ばす。
「五行の一つ、万物の富、天空を切り裂け……」
声が夜空に響き始める。少女の両手から白い光が迸るようにあふれ出し、全身を包み込むほどになる。だが詠唱にしたがって光は凝縮し始めた。
妖魔はその隙に再び触手を動かして少女に攻撃を加えようとする。触手の一本鞭のような奇跡を描き、少女の首目掛けて飛んできた。
だが少女はクラゲ妖魔を見据えたまま詠唱を続行する。かわそうとも払いのけようともしない。一切の回避動作を起こさないのに、動揺も恐怖も見られない。
「はっ!」
少女の声とは全く違う平凡な気合の声が少女の隣から聞こえると同時、妖魔の触手が公園の遊具の影からでてきた腕に弾かれる。腕にはぼんやりと緑色の魔力光を放つ植物が巻きついて腕を護っていた。親指ほどの太さで藤の蔦に似ている。だが今の一撃を受けて大分損傷したのか蔦に裂傷が刻まれ、厚い皮に亀裂が走っている。
藤の蔓というのは決して脆くはない。太く硬く、曲った木という表現が当てはまり、大の大人が二人がかりで引っ張って千切れるか、という頑丈さを誇る。
そして腕の後から少年が出現した。中肉中背で、容姿も平凡。制服の基本的なデザインは少女と一緒だった。
少年は少女の首筋や体に目をやり、無傷なことを確かめると安堵したかのように息を吐いた。
「怪我は無いね」
「当り前でしょ、それより次の攻撃に……」
「!」
妖魔は弾かれた触手に加えて数本の触手を、蛇が襲いかかるように伸ばす。少年の右から、左から、上から触手が迫る。胴体と同じく透明の触手は街灯の光を受けて鈍く、禍々しく輝く。
だが少年は慌てなかった。
三方から襲い来る触手をすべて視界内に捉え、先ほど受けた攻撃の強さ、今までに見たスピードと照らし合わせて軌道を予測する。
といっても軌道を完全に予測できるはずもない。だが少年はこの攻撃を完全に防ぐ魔法は持っていなかった。だからかわすしかなかった。
少女に比べれば少年は弱い魔法しか使えない。
足のバネではなく体幹からの動きで、触手が襲ってこない方向に体をかわす。妖魔の触手は虚しく空を切り、数本がぶつかり合って同士討ちする。
その隙に少年は片手の五指全てを伸ばして掌をやや内側にすぼめ、朝顔の花のような形にして短く魔法を詠唱する。掌から淡い緑色の光が霧のように浮き上がる。少女と比べて光は弱く、小さい。だが光はすぐに掌の中心で凝縮され、魔力の光はやがて色形の変化とともに実体化し、毬栗の形へと変わる。
魔力によって生み出された毬栗は本物の毬栗よりも硬く、重い。少年は手裏剣を打つようなコンパクトな動きで素早くそれを妖魔へと投げつけた。
一見手投げにしか見えないフォームにかかわらず、鋭く勢いよく妖魔へと飛んでゆく。
だが妖魔は触手の一本で毬栗を全て、やすやすと弾いてしまう。弾いた触手には数か所掠り傷のような線が入っているだけだ。触手が透明なので入った線が街灯の光に照らされ、よく見える。
自分の魔法ではこの妖魔にかすり傷程度しか負わせられない。それを知りながらあえて攻撃を繰り返し、妖魔の攻撃はその身に受ける。
少年は自分の成すことを心得ていた。
妖魔は少女の方に触手を伸ばそうとするが、少年はすかさず棘付きの枝を生み出して槍のように伸ばしてけん制する。
妖魔は少年へと矛先を転じ、数十本すべての触手を四方八方より向けてきた。無数の透明な鞭の中に少年は放り込まれる。
右、右上、左、足元、あらゆる方向から鈍い音を立てながら触手が少年に襲いかかってくる。
少年は腕の枝を伸ばし、腕を振り払い、体捌きも併用してその攻撃をいなそうとする。
だが触手の数が多く、今度はかわしきれなかった。
妖魔はすべての触手を使って少年の腕を縛り上げてくる。更にそのまま他の触手も伸ばし、無数の蛇のように襲い来る触手が少年の両手両足全てを拘束した。
弾かれた半透明の触手には傷一つついていなかった。動きも鈍っていない。そのまま少年の四肢を、右腕は藤の枝ごと締めあげてくる。
少年は痛みを皮膚に、肉に、さらにその奥の骨にまで感じた。
「両手足、引きちぎる気だなっ……」
少年の四肢は街灯の明かりでもわかるほど赤黒くなってゆき、魔法の蔓で守られている右腕以外は触手の下から血が滲み始める。
だが少年は苦痛に顔をゆがめることは一切しなかった。ただ少女の方を向いて、笑みを浮かべた。
「詠唱、そろそろ終わるころだよね」
「刃の下、敵を屠れ」
詠唱の終わりとともに白い光は鎌の形状に凝縮され、少女の手の中に現れる。大きさは少女の前腕部ほどで、少女の体を街灯とは違う色で照らしだす。
猛烈な勢いで回転し始めると同時に少女の手元を離れて、野犬の遠吠えのような刃音を立てながらクラゲ妖魔の方へと回転しながら飛んでゆく。
先ほどの弾丸のような炎よりもスピードは遅い。だが遠吠えを思わせる唸りは破壊力を感じさせた。
妖魔は再びかわそうと触手を動かすが、空中でつんのめったように動きを止めた。拘束した少年が重しになってかわすことができないのだ。
妖魔は他の触手全てを束ね、自分の頭部と回転する鎌との間に割り込ませた。
だが束ねられた触手に鎌が触れるや、少年の攻撃にびくともしなかった触手は豆腐を包丁で切るかのように切り裂かれる。同時に少年の四肢への拘束は解けた。
少年は顔に安堵の表情を滲ませ、軽く息をつく。
触手すべてを切り裂いた後、頭部も豆腐のように綺麗に切断された。
同時、妖魔の身体は霧のようになって夜の闇に消えていく。
だが鎌の勢いは止まらない、そのまま延直線上にあった公園の木の枝も切り裂く。大人の腕ほどもある枝が奇麗に両断され、派手な音を立てて地面に落下した。
だがその直後白光の鎌は急激に光を失い、闇夜に溶けるように消え失せた。
少年の名は梔子疾風、少女の名は青葉碧といった。両名とも国立の退魔師養成学校、五行院学園高等部に通う二年生だった。十年前から世界各地で動物や機械に似通ったものに人間が襲われる事件が相次ぎ、死者も出るようになった。新種の動物か機械によるテロかと騒がれたが、銃弾や剣といった物理的攻撃が全く通用せず、紛争に比べれば死者数は圧倒的に少なかったものの未知の存在に成すすべもなく殺される、という事実が人に与えた衝撃は大きかった。
一時は人類の危機かと騒がれ宗教や神頼みに走る者が洋の東西を問わず続出した。
だが捨て鉢だったはずの神頼み的な戦法、お祓いやオカルト的な方法が意外なほど功を奏し、消滅する妖魔が世界各地で確認された。
だがそれらは戦闘用の魔法が少ない上にごく一部の人間が使えるに過ぎず、妖魔との戦いに投入するには数が圧倒的に足りなかった。一国に出現する妖魔は年間数千体だが、それらが使える人間は一国に数十人もいなかったためだ。
そこで汎世界的に伝わるオカルトやまじないを整理し、木火土金水の五属性に分類して国々・伝承者によってばらばらだった理論を統一して「ある程度の素質あるものならこれをこなせば一定の魔法を使えるようになる」というカリキュラムを作り上げた。
カリキュラムに沿って使えるようになるものを「魔法」と呼び、それまでの伝統的な魔術、呪術と区別している。
魔術・呪術は魔法にない技術も多いが、長年月の修行を必要とするために魔法に比べ今でも伝承者が圧倒的に少ない。
そして九年前に二十代から四十代までの全国民に魔法の適性検査を一斉に施し、適性のあったものから志願者を募りカリキュラムを施し、実戦に投入した。
数が増えたことによる効果は目覚ましく、妖魔が出現してもすぐに退治できるようになったために妖魔による犠牲者は一気に減った。
その後、魔法の威力を目の当たりにした人々から魔法を子供から教え、魔法のエリートを育て上げ、かつ魔法を妖魔との戦い以外にも役立てようという動きが活発になった。
そのために魔法習得のみにしぼった数カ月のカリキュラムに一般教養も加えて、国立の中高一貫校で教えることになった。そのひとつが五行院学園である。
現在、魔法を使える人間は魔法養成の学園卒業者、在籍者、初期のカリキュラムを習得し実戦に投入されたものを合わせ、この日本で約十万人である。
魔法を使い、妖魔と戦うことを生業にするものを「退魔師」、欧米では「ルシ・ハンター」と呼ぶ。本来は学園を卒業してから妖魔との戦いに投入されるのだが、学園長から認められたごく少数の生徒は退魔師見習いとしてこうして妖魔を狩って、国の治安に貢献している。
妖魔の霧散を確認すると、碧は携帯を取り出して番号を押す。
コール音なしですぐに相手が出た。
「退魔師見習い番号一二三五、青葉碧。どうぞ」
「こちら退魔庁。どうぞ」
「午後六時三十五分に姪浜市に出現した妖魔と交戦、これを撃退。軽傷一名、死者・重症者なし。報告終わり。どうぞ」
「状況把握。交信終わる」
電話が切られた。退魔庁とは妖魔がらみの事件を管轄する防衛省所属の国の部署だ。
碧は携帯をしまうと、ブレザーの下のポーチから包帯と軟膏を取りだした。
「はい、さっきあのクラゲみたいな妖魔にやられた腕出して」
出して、と碧は言いながらも自分で疾風の腕をまくっていく。引きしまった筋肉のついた肉体のうち、左腕と両足とに赤いバンドを巻いたように妖魔に締められた赤い跡が痛々しくついていた。
「まったく、いつも無茶して……」
碧は不満げな言葉を漏らしながらも、慣れた手つきで軟膏をチューブから絞り出して患部に薄く塗り、包帯を巻きつけていく。疾風が妖魔と戦う時はほぼ確実に負傷するので、応急手当は自然とパートナーである碧の役目となっていた。
「いつもありがとう。でもやってもらってばっかりだと悪いな、たまには自分でやるよ」
疾風がそう提案すると、碧は眉をしかめた。
「いいの、やりたくてやってることだから」
怒りながらも碧は包帯を両腕に巻き終えた。包帯がゆるゆるですぐ解けてきそう、などといったことはなかった。きつく巻いたわけでもないのに疾風の両腕にフィットし、外れることも腕の動きを妨げることもないという理想的な巻き方だった。
「いつもありがとう、碧」
疾風の言葉に碧はなぜか顔をそらせると、早足で歩きだした。
「待ってよ、碧」
疾風が慌ててその後を追いかけていく。
人と車が通れる二車線の舗装された道路。だがその両側は山桜の生える山であり、道路とは金網で仕切ってあるだけだった。山を切り開いて作られた道なので当然急坂であり、数少ないチャリ通の生徒は皆自転車を押して歩いている。
これが五行院学園への通学路だった。五行院学園は家や道路で開発された低い山の山頂に立てられた学園で、バスも通っているのだが本数が少ない。学園行きのバスに乗り遅れた生徒は山のふもとの大通りまで通るバスに乗り、途中下車して歩いていくことになる。大通りから学園までは、徒歩で二、三十分かかる。
ただし学園近くに住める寮生だけは徒歩五分で行ける。遠方からも退魔師の素質のある生徒を集めてくるので寮もあるのだ。
バスに乗り遅れて通学路を歩いていた疾風は、前方に腰まで流れる黒髪と理想的なプロポーションを兼ね備えた少女を発見した。後ろから見る限りは。前方にまで回り込むと身長の割に育っていない部位がある。
「おはよー、碧……」
学園に出す報告書の下書きを一晩でまとめてきた疾風は、今にも落ちそうになる瞼を懸命に引き上げながら歩いている。
妖魔は退治してそれで終わり、というわけではない。妖魔の特徴や行動パターン、戦闘経過や被害などを報告書としてまとめ、提出せねばならない。
深夜にまで及ぼうとも、すぐに作成することが定められている。妖魔との戦闘のデータは一刻も早く収集する必要があるからだ。
パートナーである碧は手伝っていない。
碧は文才が絶望的なほど無く、読書感想文ですら疾風に代わりに書いてもらうくらいだ。一度無理言って報告書を書いてもらったことがあったが、「大変だった」の一言で済ませていた。それ以来疾風が徹夜してでも仕上げることにしている。
「おはよ、疾風」
碧は黒髪を翻しながら振り返り、気さくに挨拶を返す。
そのまま二人は横に並び、連れ立って学園へと歩を進める。他愛もないことを話しながら二人並んで歩く。二人の間隔が閉じたり開いたりすることは全くなく、一定の距離を保っていた。
特別なことを話しているわけではない。ただ学園であったことと昨晩あったことを話し、時に碧が極上の笑顔で笑うだけだ。
だが周囲の視線は刃物のような鋭さを帯びて疾風の全身に突き刺さる。
「畜生、疾風のやつめ、青葉さんとあんなに親しげに……」
「並んで歩くだとお?」
「俺なんて、俺なんて視界に入るだけで睨まれるのに」
「それ、ちょこっと羨ましいな。俺も睨まれたい」
「踏まれたい、罵倒されたい」
疾風の背筋に冷や汗が流れていく。眠気も吹き飛んだが、碧はどこ吹く風で疾風と楽しげに歩いていく。
二人にはほかの生徒と違う特徴が一つだけあった。通学路を行く生徒の中で二人とごく少数の生徒だけが、菊の花の隣に漢数字が書かれた意匠の銀色のバッヂを付けている。退魔師見習いとしてのバッヂで、見習いでない退魔師は金色のバッヂとなる。
疾風たちは漢数字の三が菊の花の隣にあり、数字は所属する班名を表していた。
このバッヂは金属性の魔法の使い手が作るもので、紙幣と同じように偽造防止の技術が施されている。
疾風と碧は先日の晩、妖魔との戦闘があった公園に差しかかった。展望台が設置されているので、道から百段近い階段を昇っていかないと辿りつかない、道から見上げるような位置に建てられていた。
「見に行く?」
「当り前よ」
碧は重々しく頷いた。
疾風は睡眠不足にもかかわらず、公園へのレンガ造りの階段を危なげなく登っていく。碧も疾風の横に並び、階段を上った。
「疾風、そんなに早く登ってきつくない? 戦闘の後、徹夜で報告書まで書き上げたのに」
かなり早いペースで登っているのに、碧は事もなげについてゆく。会話する余裕まであった。
「きついけど、碧より後に階段登るわけにもいかないし」
「あたしより後から登って、何かある?」
碧は首を傾げて考え込む。
「だから、その、見えるでしょ」
「見えるって、何が?」
疾風は顔を赤くして碧から視線をそらし、階段を登りはじめた。
「~っ!」
碧はスカートの裾を抑えて顔を真っ赤にして呟く。
「この、ムッツリスケベ……」
二人はやがて公園に辿り着く。公園は別の道から車が来られるので、駐車場が多い。端の方には四階建ての展望台がちょっとしたビルのように公園に建っていた。あそこに立つと通学路や下の姪浜市、さらに遠くの海が一望できる。
同じ場所でも、昼と夜では別の場所のように思える。昨日の夜は街灯の白い光で照らされていた公園も今は眩いばかりの朝日に照らされ、別の色を持っていた。
疾風は昨晩の戦いのことを思い出し、言葉もなく公園を見つめている。隣を見ると、碧も同じく重々しい顔つきをしていた。
碧の魔法であちらこちらの地面に亀裂が入り、公園の木の一本には白光の鎌で両断された跡が生々しく残っている。
それら戦場の傷跡を残す部分には立ち入り禁止の柵が設けられ、工事現場の作業服を着た男たちがせわしなく動き回っていた。
疾風たちの他にも何人か野次馬がおり、監督らしき初老の男が彼らが近づけないように注意を促していた。
「君たち、ここはしばらく立ち入り禁止だ。昨夜妖魔との交戦があってね……」
監督らしき男性はそう言いかけたが、疾風たちの胸についた銀色のバッヂを見ると慌てて言い直した。
「そのバッジと、番号…… 君たちが昨夜妖魔と交戦したのかな?」
疾風は頷き、碧はそうです、と答える。
監督らしき男性は多少おびえたような態度をとった。
その後互いの仕事や昨日の妖魔との戦いについて少し言葉を交わす。
「それにしてもなんで妖魔、なんてものが出たのかね? わしの若い頃にはおらんかったが。妖魔でなく妖怪、口裂け女だのトイレの花子さんだのは聞いたことがあるが、それで友人が死んだことはなかった」
「授業でも色々と説を聞きました。民俗学のように人の負の感情が集まってできたという説、環境破壊による生命の突然変異という説、他にもありますけど未だ仮説の域を出ませんね」
「まあ、どっちにしてもあたしたちのやることは変わりませんので。全力で妖魔を狩って皆さんをお守りする、それだけです」
疾風と碧は努めて丁寧に礼儀正しく話す。初めは警戒していた監督らしき男性も話が進むうちに声と表情から大分硬さが取れた。
疾風たちがこうして気を使うのにはわけがある。
数年前、退魔師が酒に酔った勢いで暴れて、魔法で家を半壊させたことがあった。
その事件はニュースやネットで大々的に取り上げられ、妖魔の出現以降ずっと英雄扱いされていた退魔師への世間の風当たりが急激に強くなった。それ以前は退魔師を批判するだけで世間から袋叩きにされるような状況だったのに一時的にだが全く逆の世論になった。
五行院学園の制服を着ているだけであからさまな警戒をされたほどだ。
それ以来退魔師同士でも自主規制が強くなり、一般人の前でうかつに魔法を発動させようものならしばらくはイジメの対象となる。
退魔師や退魔師見習いは一般人の退魔師への親和性を育てることも重要な任務と位置付けられた。
空気を異常に気にする日本人の国民性ゆえか、これ以来日本では他国ほど魔法を悪用するような事件は起きてはいない。同時に、問題視されていた退魔師のエリート意識が大分薄まり、今ではなりたい職業ランキングの上位五位に入るほどでしかない。
魔法は新しい学問ゆえに若者に人気があるが、元来のエリートコースである医者や官僚を志す学生も多い。
疾風たちと監督はたがいに礼を言い合って別れた。その後二人は地形を見直したことを踏まえ、昨晩の戦いの反省を行う。その内容を疾風は報告書に追加した。
時間がたってから見つめることで見えてくるものもあるからだ。実戦からは少しでも多く教訓を集める、それが生き延びる要諦であった。
疾風と碧は校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えて教室へ向かう中途職員室に寄った。報告書を担当の教師に提出しにいくのだ。
担当の荒垣雷電という教師は職員室の一番奥の席に座り、スチール製の机に雑然と積まれた文献の中で茶をすすっていた。疾風と碧が近寄ってくるのに気づき、椅子を回して向き直る。年齢は五十歳ほど、白髪の交じった顎髭を生やして頭は坊主頭。顔の形は某アンパンヒーローのごとく丸く、体つきも柔道をやっていたせいか丸っこく耳が柔道の有段者らしく潰れている。だが目は武道家に似合わぬ柔和な光を称えている。
疾風の傷と無傷の碧を見て、
「ご苦労だったな」
と一言だけ声をかけた。
そっけない態度だったが、疾風にはありがたかった。
碧と協力して妖魔を撃退したという誇りはある。だが無傷の碧と自分を比べるとどうしてもコンプレックスが湧きあがる。
慰められると惨めになるし、長々と精神論でも聞かされると鬱陶しくなる。嘲笑されるのは慣れているがそれでも気分がいいものじゃない。結局はスルーするのに近い態度が一番気楽だった。
それでも荒垣は冷淡な教師というわけではない。怪我の程度が酷い時は心配して傷を見てくれる。時には実戦と研究を踏まえた助言もくれる。
荒垣は報告書をぱらぱらとめくって一通り目を通すと、すぐ机のPCと分厚い妖魔関係の資料に目を移した。
それから猛烈なブラインドタッチでキーボードを叩きレポートを作成していく。国立の学園の教師として国に提出するためのものだろう。
荒垣がキーボードを叩き始めるともう何も耳に入らなくなる。疾風と碧の二人は「失礼します」と一礼してその場を後にした。
戸を開けて教室に入る。
「あら、おはよう。落ちこぼれ」
戸を開けるや否や、疾風は嘲りの言葉で出迎えられる。その言葉とともに教室内にいた他の生徒も疾風の方を小馬鹿にするような視線で一瞥する。
嘲りの言葉を発したのは戸のすぐ近くの席に足を組んで腰かけていた女子だった。
細く長い脚に黒のストッキングを履き、人差し指を口元に当てて笑みを浮かべている。
肩まである髪を銀色のピンで止めている。
高い鼻、その下の小さくつぼんだ滑らかな唇、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚、ブレザーを押し上げる形の良い胸は美少女と言って差し支えなかった。
だが目の奥にある人を見下したような光がその魅力を幾分殺いでいる。
彼女は祇園藍といった。疾風や碧のクラスメイトで、「水」属性の魔法を得意としていた。
疾風は苦笑しながら側を通り過ぎようとしたが、碧はそうしなかった。
「なによ、いつものことながらずいぶん偉そうな言い草ね、藍」
碧は足を止めて椅子に座ったままの祇園藍を正面から睨みつける。両の瞳は怒りに燃えていた。
「だって本当のことじゃないの。ナイチチ」
藍は碧の胸を見ながら言葉を返す。
「うっ」
碧は藍のそれをたっぷりと凝視した後、自分のそれを一瞬だけ見る。藍のそれはおわん形の隆起がはっきりとブラウスとブレザーを押し上げているのにかかわらず、碧のそれは申し訳程度のふくらみしかなかった。
やがて碧はがっくりと項垂れた。勝敗は歴然としていた。
「確かに本当のことね。神様は不公平だわ……」
「あんたの話じゃなくて、落ちこぼれの話。それにナイチチが言うと嫌味にしか聞こえないの」
「当然よね、ナントカはステータスで希少価値なんだから」
碧は痛々しい乾いた笑いを浮かべた。
「そっちの話じゃないの」
藍は忌々しげに碧の制服に付けられた退魔師見習いのバッヂを見ながら返答する。
その視線には強い妬みが宿っていた。
「まあそれはいいの」
藍は足を組みかえて、疾風を横目に見ながら話を戻した。その際にスカートの奥が見えそうになる。
「教師のお情けとナイチチの金魚のフンで妖魔狩りのチームに入れてもらっているけど、魔法なんて基礎の基礎しか使えてないの。高等部の二年になったんだからせめてもっと応用魔法が使えるようになりなさい、なの」
「五行の一つ、万物を潤すもの……」
藍は片手の人差し指を立て、短く詠唱して指先に蒼い魔力の塊を作り出す。それが手を離れ、ふわふわと豆電球ほどの強さの光が宙に浮いた。魔力は水へと変わり、疾風の方へゆっくりと飛んで行ったかと思うと疾風の額の前でパチンと弾けた。
だが疾風の額は濡れてはいなかった。髪の毛から生えた数枚の糸瓜の葉が疾風の額を護っている。
「フン、小細工は上手いの」
藍が右手の人差し指を自分に向けてくいと動かすと、弾けた水は糸瓜の葉の裏へと回り疾風の目に入る。
「痛っ……」
疾風は目に染みるような痛みを覚えて顔をしかめた。
「それはそうなの、酸性の水だから。ああ、レモン汁くらいの濃度だから眼医者に行く必要はないの」
碧は机を叩き、藍を睨みつける。
「陰険な真似するんじゃないわよ!」
怒りに満ちた声に、教室内にいる他の生徒が震えあがる。だが藍は涼しげな顔でそれを受け流した。
「陰険とは心外なの。実戦で困らないように鍛えてあげてるの。もしわたしが妖魔ならあいつの目は今頃使い物にならなくなってるかも知れないの」
「それでもっ……」
碧はなおも藍に食ってかかる。
「いいよ、碧。祇園さんの言うとおりだ。避けられなかった僕が悪い」
疾風はやっと目を開けられるようになり、碧の方を見て宥めた。
「それに祇園さんの言うことは本当だよ、僕はしかも枝や葉を作るくらいの魔法しか使えないから」
疾風と同じ「木」属性の上級魔法となれば、家を突き破るほどの木を創造したり瞬時に地面から竹槍を無数に生やして妖魔を串刺しにしたりするような魔法も存在する。
教室内にいる同級生にはすでにそれに近い魔法を使える者も存在するのに、疾風は未だそれらの魔法に手が届く実力とは縁遠かった。他の一般科目や座学で点を稼いでいるといっても、高等部の二年に進級できたのは奇跡的だった。
にもかかわらず、疾風はとある出来事がきっかけで一年前に碧とともに退魔師見習いとして抜擢された。自分より遙かに強い魔法を使う同級生を差し置いて。
そういった同級生からは常に嫌がらせを受けており、藍はその中の筆頭といってよかった。
「そんなので妖魔狩りをやってるなんて、どんな汚い手を使ったのかしら」
藍の人を嘲るような色が一層濃くなり、ついに碧が激昂した。
「少なくとも疾風は妖魔と戦ってるわ、あんたなんて闘ってすらいないじゃない、この口先だけの臆病者!」
その言葉に藍は色をなし、涙目混じりに碧を睨んだ。
―――――そんなの、わかってる。わたしはスタートラインに立ってすらいないの。
藍は妖魔狩りに参加することを許可されておらず、戦うことは許可されていない。妖魔狩りに参加することを許可されているのは五行院学園でもごく一部の生徒だけだ。妖魔との戦闘では大怪我をすることも多いので、学園長から許可を貰った生徒でなければ妖魔狩りに参加することはできず、勝手に参加した場合は良くて停学、下手をすれば退学という重い処分が下される。
事実二年前に一部の生徒が先走った結果、二人が一生の障害が残るほどの重傷を負った。
しばらく藍と碧は掴み合い、引っ掻きあいの喧嘩を繰り広げる。髪が乱れ、制服のボタンが外れてブラウスの隙間から首筋や二の腕が露わになる。
鬼神のごとき戦いに、誰も止めに入る生徒はいなかったが担任の教師が入ってきて仲裁に入ったことでやっと治まった。
一時間目の授業が終わった後、藍の友人が席により、話しかけてきた。
「藍、さっきの大丈夫なの? 授業以外での魔法使用は厳禁なのに。いつ教師が教室乗り込んでくるか、気が気じゃないんだけど」
その友人は教室の戸をちらちらと見ながら話す。彼女は好奇心から一度学外で強めの魔法を使ったことがある。それを生活指導の教師に咎められ、教師から厳重注意、次にやったら停学だと言われた。
「大丈夫。人に実害を与えたり、犯罪に使われる類の魔法じゃないし、あれくらいの魔法なら生徒同士の自習ってことで許されるの」
先ほどの喧嘩がなかったように藍は平然と言い放つ。
魔法は使用する人間が限定される以上、常に悪用される危険を孕む。
事実他国では魔法を使用した軽犯罪からテロリズムまで後を絶たず、妖魔と戦うより人間の退魔師へ割く人員の方が多いほどだ。
器物破損、傷害からテロリズムまで使用される可能性・実例はあるので妖魔が近くにいない場合、正規の授業以外に魔法を使用した場合は容赦なく刑罰が適用される。
しかし授業以外に全く魔法を使わないと魔法を使用する際の咄嗟の判断力や創造力というものが育たない、という意見もあり結局ごく軽度の魔法はこの刑罰の対象外となった。
二時間目の授業が終わった後、疾風の在籍する二年三組は全員が筆記用具をまとめて教室を出た。他のクラスからもぞろぞろと生徒が出ている。階段を降りて一年の階に差しかかると一年生も同じ目的地へ向かうところだった。五行院学園の生徒は上履きの色で学年を分けているので一年だとすぐにわかる。
百人近い生徒が皆、同じ部屋へと入っていく。
そこは一般教室とは違い、黒板と教卓のある前方が一番低くなり、生徒が座る席は教卓から離れるごとに高くなっている階段教室だ。机は教室と違い固定式になっていて机の落下防止措置が取られていた。
教卓には木の枝、火のついた蝋燭、シャーレに入れられた土、真鍮のような色の金属片、コップに入った水が置かれている。
百人近くの生徒が着席すると、直に教師の荒垣が姿を現した。薄汚れた背広を羽織い、手にいくつか教材を抱えている。
号令をかけて授業を始めると、早速自己紹介をした。
「わしがこの魔法基礎理論・実技の担当の荒垣雷電だ。この授業は一・二年合同で行っている」
自己紹介を淡々と終えた荒垣は早速授業に入る。白墨を手にとって黒板に文字を書き始めた。
「この世のものは科学的にいえば百数十個の元素、或いは素粒子からできているが魔法学の考えでは木火土金水の五つからなると考える」
荒垣は教卓に置かれていた木の枝、蝋燭の火、土、金属片、コップを指さす。
「そして物質が存在するには気や魔力と言ったものが常に通っていなくてはならない。生きた人間には必ず血液が流れているのと同じ理だ」
「こういった考えは、日本語にも元気があるとか気合が入るとかいった形で残っているし、東洋医学にも同じような考えがある。そういった気や魔力を詠唱と共に練り、操るのが魔法と言う技術だ」
「まず体内で魔力を練る」
荒垣の雰囲気が変わる。怒っているわけでもないのに凄みを帯び、教室中にピリピリとした雰囲気を撒き散らす。
「次にその魔力を体外へ出す。このとき必ず自分で発動条件を決めておくこと」
荒垣の体表を木属性の緑色の魔力光が覆った。
「そうしないと感情が高ぶったり、寝ている最中に魔法が出たりする。実際、妖魔が出現した当初のカリキュラムでは喧嘩の最中無意識に魔法が出たり、寝ている最中に火を放ってボヤが出たりした」
「この魔力光を用いて木火土金水に分類される事象を起こすわけだが、その前に魔力光の扱い方にコツがある。そこは生徒に実演してもらうかな。二年、青葉碧。前へ」
青葉の名が出た途端、一年生はガヤガヤと騒がしくなり始める。五行院学園の授業は中等部と高等部に分けて行われ、校舎も離れているため碧の魔法を目の前で見るのは一年にとって初めてだった。
碧は面倒くさそうに立ち上がると腰まで流れる黒髪をたなびかせ、教壇へ降りていく。
壇上の荒垣の隣に立つと軽く一礼した。
碧は挨拶もそこそこに、早速実演を開始した。他生徒たちのざわめきはまだおさまっていない。
「五行の一つ、万物を灰燼へ帰すもの……」
詠唱と同時に赤い魔力光が親指と人差し指を伸ばした碧の両腕を包み込んでゆく。その光はCGでも立体映像でもなく、生身の人間が自分だけの力で創り出している。十数年前には有り得なかったことは今、常識として認められるほどの現実となっていた。
「八卦を空間にて成せ、幾何に沿え、」
碧は更に詠唱を続けていく。手を包んでいるだけだった眩いばかりの魔力光は碧の掌から少し浮いた空間に流れるように集まっていき、卓球のボールほどの小さな球形へと姿を変えた。
球形の魔力の塊は皺ひとつ、歪みひとつなく、磨き抜かれた宝石のように滑らかで、それでいて淡い魔力の光が幻想的に放たれていた。
始めはガヤガヤと騒いでいた生徒たちは、今水をうったように静まり返っていた。
「戻れ」
碧のストラディバリウスを奏でるが如き最後の詠唱と共に、卓球のボールほどの大きさだった魔力の球体は段々と縮んでいき、点となり、そして跡形もなく消滅した。
碧は桜色の唇から軽く息を吐き、一礼した。
パチパチ、と生徒たちから一人二人、拍手が聞こえるとそれは瞬く間に全員に広がって万雷の拍手となった。
拍手が止み、碧が席へ戻ると再び荒垣の講釈が始まる。
「今見たように魔法と言うのは決まった手順がある。最初の詠唱で木火土金水いずれかの魔力の『種類』を決定する。続く詠唱で『形状』や『対象』、『方向性』を決定していくわけだが、今の魔法は『形状』のみに限って操作した」
「『形状』操作は主に魔法の威力を決定する。そして『形状』のうちでも今青葉が見せた完全な球体は最難関だ。中心から一ミリのずれもなく、上下左右三百六十度あらゆる方向へ魔力を引きのばす必要があるからだ。では各自、やってみること」
他の生徒も座ったまま机の上で魔力を練り始める。手の形は指を伸ばしたもの、正拳のように握りこんだもの、片手や両手などいろいろだ。
手の形は魔法の種類ごとに決まっているわけではなく、魔法を発動する際のサイン、精神集中のための手段であり、各人が最も自分に適した手の形を探らなくてはならない。そして一度決めた手の形は通常変えることはない。「この手の形なら魔法を使う」と自らの意識と無意識に叩き込むからだ。
多くの生徒の魔力は不恰好な立体を描いたり、四角形や六面体などの単純な形になる。
碧とは違った結晶のような立体を創り出した生徒も何人かいた。それらの生徒は詠唱もスムーズで、魔力の流れも淀みない。だが完全な球体を創り出せたのは碧一人だけだった。
「先生!」
各自の魔力光実技が終わった後、一年の一人が質問した。
「魔法は五行の理論で説明されてるのはわかりました。ですが、昔から伝わる魔術や呪術はどうなってるんですか? 霊能力とかは?」
「いい質問だ。いくつか代表的なものを紹介する。まず、予知は完全に五行の外だ。テレキネシスは五行に組み込める。魔法にも火をおこしたり、土や水を動かす魔法はあるからな。霊は魔法の範囲外で、まだ研究中だ」
「大学まで行けば魔術や呪術を研究する部署もある。そちらに興味を持つのなら行ってもいい。もしくは使い手に弟子入りしてもいい。だが魔法と違ってある程度の才能があるものなら必ず使えるようになるとも限らんし、魔法の才能と魔術の才能は違う。魔法で大学の教授になったものが魔術はさっぱり使えなかったというケースは珍しくない」
「せっかく五行院学園に入ったのだ、まず魔法を極めることをお勧めする」
それから一通り荒垣が魔術の基礎理論を講釈したのち、チャイムの音で授業は終わった。
授業が終わるや、下級生の女子が数人群れをなして碧の席へと駆け寄ってくる。
「凄いですね! あんな綺麗な魔力の塊は初めて拝見しました!」
「私、青葉お姉さまに憧れてこの学園に来たんです!」
女子たちは次々と賞賛の言葉を投げかけてくる。はじめは一人ひとりの顔を見ながら微笑して聞いていた碧だったが、すぐに気だるげな表情をして視線を合わせなくなった。
「そのクールな表情、素敵です!」
「そこにシビれて、憧れます!」
「御趣味は? 好きな食べ物は何ですか?」
下級生女子たちの表情はいつの間にか紅潮し、いつのまにか碧はお姉さまになり、お見合いにまで発展している。
「私を青葉お姉さまの下僕にしてください! 踏みにじって罵って下さい!」
頬を染めて俯きながら、大声で断言した。碧は頬杖をつきながら生返事をして軽く受け流している。
「学生の身分でもう妖魔狩りをされているそうですね! お仕事のパートナーはおられますか? まだですよね、そうですよね! 私をパートナーにしてください!」
黙って聞いていた碧が初めて口を開いた。
「残念だけどパートナーは間に合ってるの。ほら、そこのそいつ」
碧は隣の席を人差し指で指さす。そこには碧の隣に座っているのに今の今まで全く無視されていた疾風が座っていた。
初め訝しげに疾風を見ていた下級生たちは、碧と同じ班番号の退魔師見習いのバッヂを見て声を上げた。
「この人が青葉お姉さまのパートナーですか?」
「うっそー。全然そんな風に見えない、どう見ても人並みで凡人」
「でもこんな平凡そうな外見と雰囲気でお姉様のパートナーを務めていらっしゃるということはきっとすごい人なのよ」
「うんうん。見た感じ地味で平凡で存在感も薄いけど、きっとものすごい力が……」
「お名前は?」
「……梔子疾風。植物の梔子に、しっぷう、って書いてはやて」
「疾風。わざわざ律儀に答えることないでしょ」
碧の肘が疾風のわき腹をつついてくる。碧は疾風の手を引いて強引に立ち上がらせた。
「こんなの放っておいて行くわよ、疾風」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
そのまま出口に向かおうとした二人を下級生の一人が引きとめた。
「なに? あたしたちこれから忙しいんだけど」
碧は目をすがめて下級生を睨み付けると、下級生は体を震わせて視線をそらす。
「す、すみません」
下級生たちは一転、疾風に頭を下げる。
「でも碧お姉さまのパートナーを務めておられるほどの先輩なら、きっとすごい魔力を秘められているんですよね」
「さっき授業でやった魔力光を練るのをやってみてください」
「お願いします」
下級生たちはこぞってお願いしてくる。
「なに言ってんの、あんなこと言われて誰が承知するわけ……」
「いいよ」
碧の声を遮って疾風が承諾の返事をした。
「ちょっと疾風、なに言ってるの? どうなるかぐらいわかってるでしょ?」
「うん」
疾風は諦めたような、悲しいような表情を浮かべた。
「でもいずれは耳に入ることだろうし。それなら今ここでやって見せてもおんなじじゃないかな」
「わかった。疾風がそこまで言うなら、もう止めない」
碧は不安げに声をかけながらも引きさがった。
「五行の一つ、万物の実り……」
疾風は五指を伸ばし、やや掌側へすぼめて詠唱を開始した。下級生たちは固唾を呑んで成り行きを見守る。
疾風の右手を「木」の魔力である緑色の光が包み込みはじめ、光る陽炎が右手を覆うようになる。
下級生たちからは少しずつ感嘆の声が漏れ始めるが、碧は不安げにその様子を見つめていた。
疾風は詠唱を続けていくが、碧のように魔力の光が球体を描くこともなければその他の生徒がやったような結晶状の形を描くこともない。
魔力の光が手を覆う、初期の段階どまりだった。
「戻れ」
疾風の右手から光が消えた。
「僕ができるのはここまでだよ」
「え?」
下級生たちは唖然としている。
「それくらいなら、私たちでも出来ますよ?」
早速数人が詠唱を始め、手を色とりどりの魔力の光で覆っていく。拙い形ながらも立体を描ける下級生もいた。
「それ、魔力の形状をほとんど定めてないじゃないですか」
「……能ある鷹は爪を隠すと古から言われる。けど出し惜しみは良くない」
多くの目が期待から失望に変わっていく中、一人だけ表情を変えず、抑揚のない声で発言した下級生がいた。
下級生の中でもとりわけ小柄な子で、身長は疾風の胸くらいまでしかないので首を反らせて立った疾風を見上げていた。あどけない顔立ちをしているが円らな瞳の奥には強さを宿している。腰元まである髪を頭の左右で縛ってツインテールにしていた。
「そうだったら嬉しいけど、本当にここまでだよ」
疾風は小柄な子に目を合わせて苦笑いする。小柄な子は疾風の目を見つめ返すようにして覗きこんできた。無表情なままなのに、目の前のすべてを読み取ろうとするかのような目。
「……その魔力光……、いや、なんでもない。それよりその魔力で青葉先輩のパートナーを務めているのはなぜ?」
小柄な子はこの女子たちの中で唯一、碧をお姉さまと呼ばなかった。
「それは……」
疾風は口ごもる。自分より優れた魔法の使い手ならいくらでもいる。
「骨があるからよ、妖魔狩りに魔力だけでやっていけるわけじゃないわ」
碧が代わりに答えた。
小柄な子は碧の瞳も見つめる。
「本当に?」
「そいつの言っている事は本当なの」
いつの間にやって来たのか、下級生たちの後ろに立っていた藍が口を挟んできた。
「わたしはナイチチや落ちこぼれ……、いえ碧やその男と同じ組で、一緒に授業を受けているの。そいつは学年中でも落ちこぼれ、本当に基礎の基礎しか使えないの。嘘だと思うなら教師連中にでも聞いてみるといいの」
疾風の魔力に対しまだ期待している色を見せていた何人かの下級生も、同じクラスだという藍の言葉ではっきりと見切りをつけたようだった。
疾風を見る目の色が期待から失望、蔑み。そういった視線に変わる。
疾風は居たたまれなくなるが、それでも視線から逃げずに真っ向から受け止めた。
「行くわよ」
碧が疾風の手を強引に引き、立ち上がらせる。筆記用具とノートも持たせると、そのままその場を立ち去ろうとした。今度は誰も止めようとせずに蔑むような憐れむような目で疾風を見つめていた。
「……そんなことない」
唯一、碧を先輩と言わなかった小柄な子だけが泰然と言い放った。
「……あなたはそれで終わるような人じゃないと思う」
疾風は制服のポケットから鍵を取り出すと鍵穴に差しこみ、回す。それから「第三班」とプレートのかかった部屋の戸を開いた。
その部屋は教室の半分ほどの広さの部屋で、中央に机とパイプ椅子数個、ガラス戸の付いたスチール製の本棚にファイルと本がいくつか入っている以外は、何もない。
「班」というのは学園長から妖魔狩りを認可された生徒たちの区分けで、五行院学園高等部には全部で五つの班があり、妖魔狩りの際には緊急時を除き班ごとに行動するのを基本としている。
普通は班といえば四、五人のグループで動くのを常とするが第三班は上級生が抜け、そのままだったので二人しかいなかった。
本来は班長である碧が鍵を持つのだが、「失くしそうでやだ。疾風よろしく」という理由で疾風に任せていた。
疾風が部屋の引き戸を開き、中に入ると無人のはずの部屋に先客がいた。
文庫本を読みふけっていたが、戸をあける音に反応して立ち上がり、疾風たちに向きなおる。
その子は特別教室で疾風のことをいろいろと質問してきた小柄な子だった。
「……今日からこの第三班でお世話になる、一年二組の倉敷胤です。よろしくお願いします」
疾風と碧は呆気にとられた。彼女の胸に菊の花と班番号の三が意匠された銀製のバッヂが付いている。