告白、再び
朝、目が覚めるといつもの天井が目に入る。
和樹はゆっくりと起き上がって、大きな伸びをした。
そしてベッドから降りた。今日はのんびりと出来る。
都合のいいことに、今日は休日であった。
時計に目をやると、十時を指していた。
病院の面会時間は一時から。今から用意すれば、余裕を持って行動できる。
◇
――午後12時。
今の時間に家を出れば、1時過ぎくらいには病院に着けるはずだ。
和樹はバックを用意して家を出発した。
病院までは自転車で行くことになる。
六月ももうすぐなので、暑さは日に日に上がっている。
額に軽い汗をかきながら和樹は自転車をこいでいった。
病院に着くためには、最後に急な上り坂をいく必要がある。
和樹は息を切らせながらも上りきった。そしたら病院は目と鼻の先だ。
自転車を駐輪場へと止めて、病院に入る。
おそらく中は冷房がきいているだろう。和樹はそう期待して自動ドアをくぐった。
「あの、昨日入院した水木早百合さんの病室を教えてくれませんか?」
期待通りの涼しい病院内のロビーの受付で和樹は尋ねた。
受付嬢の看護婦さんが愛想良く答えてくれた。
「二階の209号室になります」
看護婦さんは微笑を浮かべながら言った。
和樹は、「どうも」と一礼をして階段へと向かう。
昔に一度だけ、病院に世話になった事がある。
風邪をこじらせて肺炎になったときだ。確かあの時は十歳だった。
その時に飲んだ薬が苦かったという印象から、和樹はそれ以来薬を服用しなくなった。
風邪は食べて寝れば治る、が和樹の信条だった。
209号室は、案外あっさりと見つかった。
階段を上りきってから1つ角を曲がったすぐそこだ。
プレートには『水木早百合』と書かれている。しかも個人部屋のようだった。
「……………」
ドアの前に立つ。
すると昨日の事が鮮明に浮かんできた。
早百合の泣き顔、涙声、苦しそうな顔、息切れした吐息。
あまりに鮮やかに思い出せて、和樹は自分でも驚いてしまった。
「……怖気づいたのかよ、俺」
和樹は震えている手を見て、つぶやいた。
震えている。恐いのか。拒絶されるのが、恐いのか。
いや、違う。拒絶されるのが恐いのではない。
自分などが早百合を救えるかどうか、それが恐かった。
早百合は自分を信じてくれた。だからこそ、早百合は病気の事を話したのだ。
話してくれたからには、俺が責任を持って早百合を助ける。和樹はそう決心したのだった。
コンコン、とドアをノックした。
しばらくは返事がなかったが、ドアがゆっくりと開いた。
「……どなたですか?」
早百合と似ている声だが、少しばかり違っている。
和樹はすぐにその声の主が分かった。早百合の母親の声だった。
「飯島です。早百合さんの面会に来ました」
和樹はなるべく柔らかい口調で言った。
ドアの向こうから顔が出てくる。やはり早百合の母親だった。
「折角ですけど、娘は今寝ているので。どうかお引取りください」
冷たい口調であしらわれた。門前払い。
だが、和樹はそれも予想の内に入れていた。
早百合が激しい発作に襲われるようなことをしていた異性を、親が快く思うわけがなかった。
「寝ていてもいいんです。顔だけでも、見させてください」
「……お引き取りください。あなたを娘に会わせたくありません」
「………っ」
和樹もさすがにここまで言われるとは思っていなかった。
言われるとしても、柔らかく拒絶されるだけだと思っていた。
だがきっぱりと、会わせたくないと言われては和樹にはどうしようもなかった。
「どうしたの、誰か来てるの?」
苦々しい思いで踵を返そうとしたそのとき。
中から、聞き慣れた彼女の声が聞こえてきた。
昨日まで聞いていた声だが、どこか懐かしく和樹の耳に響いた。
「………起きてるんですね?」
「……………」
厳しい目付きで和樹を睨む母親。
よく見ると、彼女の目には大きな隈ができていた。
おそらく一晩中起きていたのだろう。疲れがありありと見て取れた。
「ねぇ、お母さん。誰が来てるの?」
「………飯島君よ」
とうとう諦めたように母親が言った。
彼女はドアを開けて、和樹を部屋に入れた。
「………和樹君」
「よっ、水木」
悲しそうな表情の早百合に和樹は陽気な口調で挨拶をした。
早百合はベッドから起き上がり、姿勢を正す。頭がボサボサなのを無理やり抑えて直そうとしている。
そして早百合は母親に目配りをしてから、言った。
「ゴメン、お母さん。少しだけ外してくれないかな?」
母親は一つだけため息をついて、わかったわ、と言って出て行った。
早百合は和樹と視線を合わせた。目線を合わせて話すのは久しぶりだった。
「来るなら来るって言ってくれれば良いのに」
「それじゃあ驚かせられないだろ?」
そうだね、と早百合は笑顔で言った。
相変わらずの愛くるしい笑顔だった。
そうして早百合は少し目線を落としてからつぶやくように言った。
「昨日は、ゴメンね。言いたい事だけ言って勝手に倒れちゃって…」
「良いんだよ、そんな事。それよりも俺、昨日の夜に考えたんだ」
和樹はベッドに座っている早百合に近づきながら言った。
そういえば、彼女はパジャマ姿だ。それはそれで可愛いな、と思う和樹だった。
「俺、やっぱり水木が好きなんだ。それは変わらない」
早百合は恥ずかしがるように顔を赤らめた。
それでも笑顔は崩れなかった。
和樹が続ける。
「水木が好きなんだ。……俺と、付き合ってくれないか?」
「…………ダメだって、前にも言ったよね。あたしにはそんな時間は……」
「違うだろ」
和樹が早百合を遮った。
和樹は早百合の目の前に立って、彼女の手を優しく握る。
細くて、か弱い早百合の手。それを慈しむように握り締めて、和樹は言った。
「水木は、まだ死んでない。生きてるんだ。心臓も動いてて、血も巡ってて、手も足も動く。もうすぐ死んじゃうのかもしれない。でも今は生きてる。俺と同じように、生きてるんだ。……そうだろ?」
早百合の瞳が潤んでいるのを和樹は見た。
いまにも溢れ出そうな涙を食い止めるようにして、早百合は和樹を見上げた。
「そうだよ、そうだけど……っ!」
早百合の悲しみで満ちている目が和樹を捕らえた。
「別れが、さよならが、つらすぎるから…」
「ズルイぞ、それ」
「……え?」
和樹の手に込める力が少し強くなった。
それでも力を抜いているため、早百合が痛い思いをすることはなかったが。
和樹が真剣な瞳で早百合を見つめた。
「俺は、まだ水木の答えを聞いてないよ。付き合いたいのか付き合いたくないのか、どっちなの?」
「…………あたしは…」
とうとう涙が、早百合の目の許容量を超えた。
頬を伝って、ベッドに滴り落ちる。
そして早百合は囁くように言った。
「あたしは、和樹君と、付き合いたいです。あたしも、和樹君が、好きです」
「………良かった」
和樹は早百合の手を放した。
そして次の行動へと移る。
―――和樹は、早百合を抱きしめた。
「俺がいるから。水木が笑っていられるように、俺、頑張るから」
「…うん、ありがとう……っ」
和樹と早百合はお互いの存在を確かめ合うように、強く抱き合った。
残された時間は少ないのかもしれない。でも、その時間をずっと笑っていたい。
早百合は和樹の腕の中で、そう思って涙を流していた。