訣別の秒読み
和樹は自分の部屋のベッドの中にいた。
早百合の事を考えると涙が止まらなかった。
何をする気にもなれず、ただ無意味な時を過ごしていた。
早百合の入院した日から既に三日が経っていた。
残り四日。それが、医者の言う早百合の寿命だった。
その時、携帯電話が軽快なメロディーを奏でた。
……着信中。そう表示されていた。画面には、水木 早百合と出ていた。
和樹の体に緊張が走る。恐る恐る携帯の通話ボタンを押した。
「――……もしもし?」
『……和樹君?』
やはり早百合だった。
和樹は、自然と手に力が入ってしまうのを感じていた。
「……うん、そうだけど、どうしたの?」
『えっとね、あたし、今病院にいるの。来て、くれないかな…?』
分かった、すぐ行く。
そう返事をしてから携帯を切った。
一瞬だけだが、彼女の願いを断ることも、考えなかったわけじゃない。
それでも、早百合の声を聞けたことが、和樹にとって何よりも嬉しく思えるのだった。
まだ早百合は生きている。
それが分かっただけで、安堵と喜びの念が生じるのを和樹は感じた。
◇
再び自転車を走らせる。
交差点を通り、道路を抜け、急な坂を上りきった。
今度は病院の駐輪場に自転車を止めて、入り口へと向かう。
病院の中に入った。
しかし受付には行かない。
早百合の病室は分かっているから。
302号室だ。
「……俺だよ、水木。入っていい?」
ドアの前でノックをする。
中から、どうぞという声が返ってきた。
ゆっくりとドアを開ける。中を見ると、早百合がベッドで横になっていた。
「久しぶりだね、和樹君」
随分とやつれてしまった。
彼女の肌は蒼白で、血も巡っていないようだった。
目は疲れが溜まっているかのように虚ろだった。
しかし笑顔だけは変わることなかった。早百合は、笑っていた。
しばらくは当たり障りのない会話を続ける二人。
しかし、早百合の表情が少しずつ曇っていくことに、和樹は気付いていた。
そして会話が途切れた一瞬の間。気まずい空白を引き裂く、早百合の静かでいて重みのある声が、病室に響く。
「あたし達、付き合ってるんだよね…?」
横になっていた体を起こそうとしながら、早百合は唐突に言った。
「……ああ、付き合ってるよ」
和樹も事実を口にした。
早百合は痛みを伴う体を酷使して、起き上がった。
「じゃあ、別れようか…?」
「え…―――?」
突然の告白だった。
早百合は寂しそうな笑顔を留めたまま、和樹を見つめていた。
和樹はさすがにためらいを隠せないでいる。
「どういう、こと…?」
「あたしはもうすぐ死んじゃう。分かるの、自分の体だから。……でも、あたしにはどうしようもない。どうにも出来ないの」
早百合は目に涙を浮かべながら続けた。
「このまま死んじゃったら、君は悲しむ。あたし、そんなのいやだから……ここで別れよ?」
「そんな、そんなこと…!」
和樹は何かを口にしようとしたが、出来なかった。
図星だったから。自分の心を見透かされたから、和樹は何も言うことが出来なかった。
早百合には、和樹の心を読むことは容易い事なのかもしれない。
「いいの、大丈夫。あたしは平気だから。もう、別れよう。ね?」
和樹はそれ以上何も言うことが出来なかった。
黙ったまま、早百合の病室を後にする。力無い足取りで階段を下りていった――。
◇◆◇◆
「…………何か言ってよ、ばかぁ」
残された早百合は一人きりの病室でつぶやいた。
彼女の目から、涙がこぼれた。
「……大丈夫なわけ、ないでしょ。君の事を考えて、想って、出した答えなのに…」
涙を拭って、独り言を続けた。
泣いているせいで、途切れながら言葉が紡がれる。
和樹に会えた。会いたくて、声を聞きたくて、勇気を出して電話をした。
そして、会えた。最初はとても嬉しかった。会えただけで嬉しかった。それこそ、涙でまともに彼の顔が見られないくらいに。
だけど、自分は死ぬ。それを誰よりも理解している早百合だからこそ、苦しくても、切なくても、泣き出しそうでも、和樹に言い切ったのだ。
―――『いいの、大丈夫。あたしは平気だから。もう、別れよう。ね?』と。
和樹の去る際。
彼の顔は、とても見られないくらい、悲しそうだった。
絶望とか悲壮とか苦痛とか、言葉じゃ形容しきれないような表情で、病室を出ていってしまった。
それが何よりも悲しくて――自分が死んでしまうことよりも遥かに悲しくて、つらくて、早百合は嗚咽交じりの涙を流してしまう。
「……そんな…悲しそうな顔して。黙って…行っちゃって。あたしは、どうすればいいのよぉ…」
早百合は痛む左胸を押さえて、囁くように言った。
窓の外の景色が色褪せていく。そう感じながら、早百合は再びベッドに横になった。
◇◆◇◆
「……………水木」
時間は午後六時。
面会時間は五時半までだ。それでも和樹は病院のロビーのソファーに腰掛けていた。
看護婦が受付から出てきて、言う。
「すいませんが、面会時間は五時半までとなっておりますので、一般のお客様はお引取りを…」
みなまで言うな。
和樹はそう思って立ち上がった。
ここにいても出来ることは無い。もう自分と早百合を繋ぐものは何も無いのだから。
和樹が病院を出ようとしたとき、奥の方でなにやら騒がしく駆け回る医師たちの姿を見た。
彼らの声が聞こえてくる。
「302号室の水木さんの容態が急変しました!」
「急いでください! 一刻を争うんですっ!!」
彼らは急いで階段を駆け上がっていった。
和樹はその一部始終を見ていた。自然と足は早百合の病室へと向かう。
「ちょ、ちょっと、一般の人はもう病院内には入れないんですよ!」
「水木……水木…!!」
看護婦の注意を無視して、和樹は階段を上っていった。
早百合の病室はとても騒がしくなっていた。
その部屋に入ろうとする和樹を看護婦が引きとめた。
「いい加減にしてください! 彼女の命が危ないんです! 邪魔をしないでください!」
「放してくれ! 俺は……俺は水木をっ――!」
「……いいんですよ、看護婦さん」
突然、部屋の中から声がした。
その声の主が部屋から出てくる。
早百合の父親だった。
「彼を、ここにいさせても構わないだろうか?」
「ま…まぁ、親族の方がそう言われるのでしたら…」
看護婦はそう言って、すごすごと引き戻っていった。
和樹は早百合の父親を見る。父親が言った。
「……早百合が、そう望んだんだ」
「え…?」
父親は視線を落として、うつむいた。
和樹は変わらずに父親を見ている。
「もし、早百合が危険な状況になったら、早百合が、傍にはきみにいて欲しいと、そう言ったんだ」
和樹は衝撃を受けた。
彼女がどれだけ自分を愛していたか、自分がどれだけ彼女を愛しているか、再認識した。
目から自然と涙が出てくる。
その時、部屋の中から白衣を着た男が出てきた。
眼鏡を吊り上げながら、早百合の父親の方へと近づいていく。
「……早百合――早百合は!?」
父親が尋ねた。
おそらく彼が医者だと分かっているからだろう。
「強心剤により、一応は、繋ぎ止めました。しかし危険な状況に変わりはありません」
和樹は医師の脇をすり抜けて、病室に向かった。
部屋に入って早百合を見た。
延命装置に繋がれた蒼白な少女が、そこにいた。
和樹は、力なくうな垂れている早百合の手を握った。
「―――水木……!!」
涙が一粒、音も無く、床に……落ちた。