近づく、最後の刻
それから一ヶ月は何事もなく過ぎ去っていった。
和樹と早百合は、写真を撮り続けていた。共に笑いあいながら。
そうして夏休みが目の前に迫ってきた、七月の上旬…。
和樹はカメラを片手に、夕焼けで映える町並みを小高い丘から眺めていた。
隣には笑顔の早百合が。
暑さの残る夕方のこの時刻、二人は学校の近くにある丘へと上っていた。
「綺麗だねぇ」
「ああ、そうだな」
二人が見下ろす町並み。
夕焼けで、赤く染まった静かな町。
西の空に太陽が落ちようとしている。
和樹はカメラを構えて、シャッターを切った。
「もう、六時を回ってる。そろそろ帰ろうか?」
和樹がそう尋ねると、早百合は首を横に振った。
「まだこの景色を見ていたいな」
「……そっか」
和樹と早百合は地面に腰を降ろした。
赤く燃える夕日が、二人を鮮やかに映し出している。
和樹が早百合を見つめた。その視線に気づいた早百合も和樹を見た。
そうして、お互いに噴き出して笑った。
そんなやり取りが彼らにとっては、何にも変え難い時間であった。
◇
結局、二人が別れたのはそれから二時間後の八時過ぎだった。
和樹は別れ際に早百合に言った。
「また明日な」
「うん、学校でね」
笑顔でそう言った早百合を和樹はしばらく見送っていた。
彼女の後姿がどんどん遠くなる。
そして早百合も和樹が見送っていることに気づき、振り返って手を振った。
和樹も笑って手を振り返した。そして手を振り終えた頃には早百合の姿はみえなくなっていた。
次の日の学校。
放課後の部活動時間になっても、早百合は現れなかった。
不審に思った和樹は、彼女のいるクラスの女の子に尋ねた。
「すいません、水木さん、知りませんか?」
二人きりの時は水木と呼んでいたが、学校や第三者の前では『水木さん』と呼んでいた。
女の子はキョトンとした顔で、かぶりを振った。
「今日、早百合ちゃんは来てないよ」
休み、か。
和樹はそう思って、礼を言ってから部室に帰った。
そして少しの時間だけカメラを片手に景色を撮った。
和樹には、それが義務のように感じられたから。
五時過ぎには荷物をまとめて帰る支度をしていた。
そうして何事もなく家に着く。
ベッドに転がって、早百合の事を心配した。
――――早百合が入院したという知らせを聞いたのは、その時から二日後のことだった。
◇
「水木…!!」
和樹は全速力で自転車をこいでいた。
急な坂道に差し掛かる。ここを登りきれば、病院は目と鼻の先である。
スピードを緩めることなく、まるで風のように突き抜けていった。
病院の駐輪場を通り過ぎて、玄関まで自転車を走らせる。
入り口の目の前まで行くと、和樹は乗り捨てるようにして自転車を降りた。
急いで病院へと入る。開く自動ドアのスピードさえ、もどかしく感じた。
やっとドアが開いて、病院の中を走っていく。そしてロビーの受付まで進んでいった。
「あの、水木早百合さんの病室は!?」
息を切らせながら喋る和樹を、看護婦は不思議そうに眺めていた。
和樹の真剣な眼差しを見て看護婦も急いだ手つきで病室の情報を調べ始めた。
看護婦はコンピューターを操作して早百合の病室を機械的な口調で言う。
「302号室になります」
それを聞いて、和樹は階段に向かって走り出した。
階段を二段抜かしで駆けて行く。あっという間に三階へとたどり着いた。
302号室。
ここも前回と同じように個人だけの部屋のようだった。
ネームプレートには早百合の名前しか載っていなかった。
「……………水木」
ドアにノックをしようと構えた。
だが和樹はその手を止めて、ドアの向こうに耳を傾けた。
中から、ボソボソと人が話す声が聞こえてきたからだった。
「……それで先生。娘の状態はどうなんでしょう?」
和樹にはその声の主が一発で分かった。
早百合の声と似ているが、すこし疲れを感じさせる声。
早百合の母親だった。
「非常に言いにくいんですが……娘さんの状態は危険です。心臓の機能の働きが、分ごとに弱まっています」
和樹は愕然とした。
ドアの前で立ち尽くしたまま、絶望に飲まれそうになっていた。
おそらくこの声は医者だろう。母親も『先生』と呼んでいた。
「……長く見積もっても、あと一週間が限界でしょう」
「そ、そんな…! 早百合……早百合ぃ…」
母親の泣き崩れる声が、部屋の前にいる和樹にも聞こえてきた。
和樹も泣きたかった。泣いて叫んで、わめきたかった。
そうすることで、何もかもが解決するのだったら、迷わずやっていただろう。
早百合に対して何か出来るのだったら、何でもやっていただろう。
「…………ウソだ」
和樹はつぶやいた。
そしてきびすを返して、走った。
階段を下りて、ロビーを抜けて、病院を出て、自転車に乗って、坂を下っていった。
景色が飛んでいく。
和樹には、何もかもが虚無に見えた。
頭が働かなかった。ただ医者の言葉が、脳の中で反芻されていた。
『あと一週間が限界でしょう』―――。
◇
家について、部屋に駆け込んだ。
急いで自転車をこいで来たので、息が上がっている。動悸も激しい。
七月上旬の暑さで、汗も額を伝っていた。
だけれど、そんなことは、今の和樹にとって、本当に些細なことに過ぎなかった。
「ちくしょう…!」
和樹は憎しみ押し殺すようにして、その言葉を放った。
手が震えるほど力が入る。全身がわなわなと心の底から湧き上がる衝動を抑えられずに震えた。
「ちくしょおぉっ!!」
恐ろしいほどの力で、和樹は部屋の椅子を蹴り飛ばした。
椅子は宙に浮き、そのまま重力に従って床に叩きつけられた。幸いにも、椅子は壊れなかった。
「ちくしょう、ちくしょおォォッ!!」
何かを破壊したいという衝動を、和樹は本能の赴くままに続けた。
部屋が散乱する。もし家に家族がいたなら、部屋に飛び込んできただろう。
だが今は家に誰もいない。和樹は固く握った拳をベッドに叩きつけた。
「ちくしょう、なんで、水木なんだ……なんで、水木なんだよ……っ!」
涙が頬を伝って、床にこぼれた。
歯を食いしばって涙を止めようとするが、叶わなかった。
腕で涙を拭っても、溢れるばかりだった。
「なんで、水木が死ぬんだよ………なんで水木じゃなきゃいけないんだ……っ!!」
和樹は部屋の中でうずくまって泣いた。
声を押し殺して泣いた。十六年という人生の中で、こんなに泣いたのは初めてだった。
うずくまったまま、和樹は拳を振り上げて床を叩いた。
手に残る痛みとあの医者の言葉だけが、妙に現実感を伴って、和樹を襲った。