思考の境界線
「監査官さん。この青い線が消えれば、私の言葉になるんですか」
「AIが作った文章の下線だな。採用すれば消える」
「自分で打ち直しても、消えました」
「相談理由のことか。『自分で考えられなくなった』」
「はい。三回、書き直しました」
「元は、どんな文だった?」
「同じです。一字ずつ打ち直すと、私が書いたことになります」
「線は入力の記録だ。考えの出どころまでは、記録できない」
「その出どころを、確かめてほしいんです」
「わかった。座ってくれ。水もある」
「飲んでも?」
「もちろんだ」
「ありがとうございます。……まだ、置いておきます」
「手が震えている。急がなくていい」
「最初は、服と昼食を選ばせるだけでした」
「今は?」
「会議で何を言うか。誰の冗談で笑うか。怒られたとき、何秒黙るか」
「ずいぶん細かい指示を出していたんだな」
「『うまくやれるように』とだけ。細かい指示は、AIが作ってくれます」
「それを確かめて、実行していた?」
「ええ。前より褒められました。人の話をよく聞くようになったって」
「全部、言われたとおりか」
「嫌なら直します。『もっと私らしく』って」
「出来上がった言葉は、君らしかった?」
「同僚にはそう言われます。私は、直す前の方が好きなときもありました」
「そういうときは、好きな方を選べばいい」
「最初はそうしていました」
「何か、引っかかることがあった?」
「昨日は会議で、『AIに頼りすぎるのはよくない』と言いました」
「それも推薦か」
「はい。みんな頷きました。あとで一人に聞いたら、頷くように勧められていたそうです」
「その人も、自分の補助を使っていたんだな」
「会議のあと、その人は補助を切りました」
「それで?」
「何か言いかけては、『これは俺か』って。帰る時間になっても、席を立てませんでした」
「君にも、同じことが?」
「頭に言葉が浮かぶたびに履歴を探します。載っていないと、探し方が悪かったのかって」
「眠れているか」
「『もう寝ていい』という文を、昨夜は四十七回作り直しました」
「……履歴を閉じよう。今は、私と話してくれ」
「それも、推薦ですか」
「私は今、君にそうしてほしい」
「監査官さんは、応対補助を使っていないんですか」
「記録と、質問の抜けを調べるためには使っている」
「質問も、AIが?」
「候補は出る。必要だと思ったものだけ聞く」
「その『必要だと思った』ところに、青い線は出ますか」
「……出ない」
「責めたいわけじゃありません。誰に聞けばいいのか、わからなくて」
「自分の言葉だと確かめられる相手を、探しているのか」
「母に電話しました。補助なしで」
「何を話した?」
「『元気でいてね』。母は喜んでくれました」
「君も、そう思ったんだろう」
「はい。……その晩、先月の返信案に、同じ言葉を見つけました」
「元気でいてほしい、というのは、ありふれた言葉だ」
「そうです。だから、どちらから出てきたのか、もう確かめられません」
「昔から、人は聞いた言葉を覚えて、自分の言葉にしてきた」
「なら、私は何を怖がっているんでしょう」
「君の母親が喜んだことまで、取り消さなくていい」
「取り消したくないんです。あのとき嬉しかったことも」
「ああ」
「でも、嬉しいと気づく直前に、何かを読んだ気がするんです」
「……今、私の画面に、次の質問が出た」
「どんな質問ですか」
「『その気持ちを、誰に伝えたいですか』だ」
「母に。……いま、思いました」
「質問に答えようとしたんだ」
「それなら、今の考えを作ったのは、誰ですか」
「……」
「補助を切ったら、戻れますか」
「少なくとも、新しい推薦は来なくなる」
「前に読んだ言葉は?」
「消えない」
「それでも、切ってみたいです。監査官さんも、一緒に」
「わかった。この面談の間、二人とも止めよう」
「記録も消すんですか」
「残す。提案を作る機能だけ止める」
「……こちらは止まりました。そちらは?」
「待ってくれ。最後に応対案が出た。……よし、こちらも止まった」
「静かですね」
「音は、初めから出ていない」
「わかっています。頭の中が、返事を待っていて」
「待たせておけばいい」
「いま浮かんだ答えにも、青い線がついている気がします」
「画面にか」
「いいえ。閉じた目の裏です」
「目を開けてくれ。私がここにいる」
「水、飲みたいです」
「そこにある」
「手を伸ばす前に、誰かに確かめたくなります」
「喉が渇いているんだろう」
「さっき、飲んでいいと言われたから、渇いた気がしているだけかもしれません」
「……私に聞かなくても、飲んでいい」
「言ってもらえて、ほっとしました」
「そうか」
「でも、この次も聞かないと、飲めなくなりそうです」
「……」
「監査官さん、どうして端末を見たんですか」
「見ていない」
「いま、私が黙ったとき」
「……癖だ。もう補助は止まっている」
「私を見て、話してもらえますか」
「ああ。こうして伏せれば、気にならない」
「何を言えばいいんでしょう」
「うまく言おうとしなくていい」
「さっきから、そればかり考えています」
「何を」
「自分の言葉だと、思ってもらえる言い方を」
「……私も、次の一言を選べずにいる」
「監査官さんも?」
「大丈夫。ここからは、自分の言葉で話せる」
「いまのは、監査官さんの言葉ですか」
「そうだ。画面は見ていない」
「よかった。では、もう一度だけ言ってください」
「大丈夫。ここからは、自分の言葉で話せる」
「……もう一度」
「大丈夫。ここからは――」
監査官は自分の声を止めた。伏せた端末に手を伸ばし、そっと起こした。
〈補助停止中〉の下に、停止直前の応対案が残っていた。
〈端末を伏せ、相手の目を見る。大丈夫。ここからは、自分の言葉で話せる〉
その文には、青い下線が引かれていた。
監査官は文を画面から消した。口を開き、何も言わずに閉じた。
向かいでも、紙コップから手が離れた。その指は、停止した端末を引き寄せた。
やがて二つの画面が暗くなった。二人の顔は、まだそこに向いていた。




