第1話:【過去と目覚め(アトランティスでの誕生】
1. 前世 ~海を守れなかった日~
鈴木ナナミは、海をこよなく愛する海洋生物学者だった。
漁師の家で生まれ育った彼女は、潮風の香りや波の音、裸足で砂浜を駆け回った幼い日の記憶が、そのまま身体に染みついているようだった。
大人になってからも、その思いは変わらない。水族館では賢いイルカの「クック」のトレーナーを務め、大学の研究室では海洋生物の論文に没頭する日々。
イルカ、シャチ、クジラ、アザラシ――海の生き物たちの生態を、彼女は誰よりも深く知り、誰よりも愛していた。
そんな彼女の穏やかな日常は、ある年、突然終わりを告げた。未知のウイルス性感染症が世界規模で大流行し、世界中の海洋生物が次々と倒れていった。
大切なクックが病に侵されたとき、ナナミは必死だった。自身の知識も、技術も、睡眠時間さえも惜しみ、獣医師とともに治療にあたった。夜通しクックの傍らで祈るように投薬を補助し、データを記録し続けた。
それでも。クックの体温がゆっくりと冷えていくのを感じた最期の瞬間、ナナミの心にはぽっかりと穴が開いた。
「ごめんね、クック……ごめん……」
自責の念と喪失感が波のように押し寄せたが、ナナミは歯を食いしばって立ち上がった。
「もう、二度とこんな思いはしたくない」
仲間である海洋生物学者たちと共に、彼女はチャーター船に乗り込んだ。この未曾有の感染症がどこから来て、何が原因でここまで広がったのか。その真相を突き止めるための調査航海だった。
胸の奥では、クックへの惜別の想いと、強い決意が渦巻いていた。
しかし、その航海は思いがけない悲劇に見舞われた。広大な海の真ん中で、突然空が暗くなった。
「え……?」
彼らは、今まで経験したことのない猛烈な嵐に遭遇した。轟音と共に巨大な黒い波が船を襲い、船体は木の葉のように激しく揺れた。
甲板は波しぶきで真っ白になり、雷鳴が鼓膜を震わせ、視界は暗闇と閃光の繰り返しだった。
「うわっ……!」
「みんな、しっかり掴まって!」
叫び声は風にかき消され、船は容赦なく傾いていった。
辺り一面、黒い波と雷光が交錯する中、次の瞬間。巨大な波が船体へ正面から襲いかかり、船は瞬く間に転覆し、深く冷たい海の底へとゆっくりと沈んでいった。
「海を、守れなかった……」
冷たい海水が全身を包み込み、呼吸が苦しくなる。視界がぼやけていく中で、ナナミはかつての自分を責めるような、深い絶望を抱えた。
意識が途切れ、体から力が抜けるその瞬間、彼女は荒れ狂う嵐の海へ溶け込むように消えていった。
最後の吐息が泡となって昇る刹那、彼女が最期に願ったのは、生命が健やかに泳げる『温かな海』だった。
「それでも、私は救う。あの海を」
その願いを最後に、ナナミの意識は途切れた。そして遠い異世界の海底で、新たな命が産声を上げようとしていた。
前世の記憶は、その小さな魂の奥深くに眠ったまま――
2. 海と、命の再会
その海は、かつて『命の楽園』と呼ぶのにふさわしい場所だった。しかし、今は違う。
数世紀前、天空から降り注いだ巨大な隕石群によって、世界の循環は大きく乱された。海底王国も甚大な被害を受け、それから長い年月をかけて、少しずつ荒廃していった。
世界の循環を支えていた巨大なドラゴンたちは深い眠りにつき、海流の悪化によって海中の魔物は凶暴化し、人々の間には原因不明の難病が広がりつつあった。
アトランティス海底王国には、かつて温泉精霊を信仰する風習があった。だが、隕石落下時の大地震によって、精霊たちが棲む温泉は海底の岩盤に埋没した。長い年月の中で、人々は温泉精霊がもたらしていたぬくもりさえ忘れていった。
温泉は失われても、『湯都』という古い呼び名だけは残っていた。
湯都ドウゴ街の夜は、いつも静かな青い光に包まれている。
アトランティス海底王国に生きる民の脚は、空気ドーム内では地上の人間と同じ二本の脚として機能する。しかし海中へ出ると、両脚の外側に薄い遊泳膜が広がり、【水棲脚】へと変化する。泳ぐ姿は、まるで大きな尾びれを持つ人魚のようだった。
その夜、街の中心に近い路地の一角にある石造りの家で、一人の女の子が生まれた。
産婆オダは長年この仕事をしてきたが、この夜ほど不思議な経験はなかった。産声を上げた直後、赤ん坊はいつの間にか泣き止んでいる。小さな目をぱちりと開け、暗い天井を静かに見つめていた。
そして同時に、空気膜に守られた家の中庭にある古い石の泉から、ふわりと温かな湯気が立ち上ったのだった。
「……温かい?」
オダは思わずつぶやいた。
ドウゴ街の泉はいつも冷たい。何十年も、ずっとそうだった。なのに今夜だけ、まるで何かが目を覚ましたように、石の底からほのかな温もりが滲み出してきた。
それはほんの数秒のことで、すぐに消えた。オダは首を振った。気のせいかもしれない。
だが、オダにはもう一つ、一瞬だけ別のものが見えていた。
生まれたばかりの赤ん坊の小さな両脚を包み込み、淡く輝く金色の水流が、神聖な尾びれの形をそっと描き出す――オダにはそう見えた。
「名前は決めていますか」
オダが母親に尋ねた。母親は汗ばんだ額をぬぐいながら、愛おしそうに微笑んだ。
「ルミナ。光、という意味です」
赤ん坊は、まだ『太陽の光』を知らなかった。海の底に生まれ、空の青さも、太陽の眩しさも、知る由もなかった。それでも、その小さな瞳の奥には、どこか遠くを見ているような静けさがあった。
街から遠く離れた海底の深い亀裂の中、温泉精霊マリンはその夜、長い眠りの底で、意識をわずかに揺らした。
温かな流れが、かすかに脈打った。
(……久しぶりに感じる。懐かしい力の気配……)
マリンはまだ目覚めなかった。しかし眠りの中でひとつだけ、確かに感じ取っていた。
今夜、どこかで特別な子が生まれたということを。
3. 小さな命との別れと、記憶
ルミナが五歳になった頃、隣の家には『コロ』という名前の海ネコがいた。
海ネコはこの世界では親しまれているペットで、前足と後ろ足には薄い水かきがあり、全身は短い毛で覆われている。ドームの外の海中を泳ぐときは、四肢を体に沿わせて流線型になり、魚雷さながらにスイスイと泳ぐ。けれど、家の中の空気ドームに入ってくると一変して、のそのそと歩く姿はどこかカモノハシめいていて、愛らしく膝に乗ってきた。
コロは特に人懐っこく、ルミナが家の敷地に出るたびに、足元にすり寄ってきた。
しかし、その年の終わり頃から、コロの様子がおかしい。海を泳ぐ姿はどこかぎこちなく、水の中でゆらゆらと揺れていた。隣家の老婦人ハナは気にしていない様子だったが、ルミナはコロを心配し、毎日その元へ通った。
「コロ、どこか痛いの……?」
海ネコは何も言わず、ただルミナの手のひらに頭を押しつけ、目を細めるだけだった。
一週間後、コロは静かに息を引き取った。
ハナからコロの死を知らされたとき、ルミナの胸はぎゅっと締めつけられた。自分の部屋の空気ドームの静寂の中で、声を殺して泣いた。
どうして、こんなにも心が引き裂かれそうなのだろう。自分の家族でもない海ネコなのに。泣きながら、ルミナは胸の疼きを感じていた。
それはただの悲しみではなく、もっとずっと深く、もっと大切な『命』を失った記憶が呼び醒まされたかのような痛みだった。
その夜、ルミナは不思議な夢を見た。
どこまでも透き通った青い水の中を、銀色の生き物が泳いでいる。滑らかで、速くて、とても賢そうな瞳。その生き物は一度だけルミナの方を振り向くと、泡の中に消えていった。
目が覚めたとき、ルミナの頬は冷たい涙で濡れていた。
八歳になったルミナは、街の子供たちの中でも少し変わった子として知られていた。ふとした瞬間に遠くを見つめ、海に出ては水流のざわめきに手をかざしていた。
魚屋の前を通るとき、
「この子、元気がないよ」
と呟くと、翌日その魚が売り物にならなくなることが何度もあった。
帰り道、友達のリオが不思議そうに尋ねた。
「ねえ、ルミナ。どうしてそれが分かるの?」
「うーん……匂いというか、水流の不自然なゆがみが、手に直接伝わってくる感じがするんだ」
それは、命が発する小さな悲鳴を感じ取る力だった。
その年の春、ルミナは夢の中で、初めて『クック』という名前を聞いた。夢の中の海は水面から降り注ぐ光で溢れていて、水面を突き破り、大きな銀灰色の影が躍り上がった。
滑らかな灰色の肌、笑っているような口元。
「クック……!」
ルミナは自分の声で飛び起きた。見慣れた天井。静かな部屋。自分の口からこぼれ出たその名前が何を意味するのか、ルミナの知るどの言葉にも答えはなかった。
胸の奥が愛おしさと切なさでいっぱいになり、涙が止まらなかった。
4. 絶対の掟への疑問
十歳になり、アトランティスの子供たちが受ける『海底の掟と歴史』の授業が始まった。教壇に立つのは、白髪の老教師ガンナだった。
ガンナは魔石筆を走らせ、黒板に大きく書いた。
『海面への上昇は、いかなる理由においても禁ずる』
「数世紀前、天空から降り注いだ巨大隕石の災厄により、世界の循環は狂い、地上は滅びた。大気は今も荒れ狂い、海面に近づく者は激しい濁流に巻き込まれて命を落とす。これは我がアトランティス王国が生き延びるための絶対の掟である」
生徒たちが一斉にノートをとる中、ルミナだけがすっと手を挙げた。
「先生、質問です」
「なんだ、ルミナ」
「今も大気が荒れているというのは、どなたかが確認したのですか? 隕石が落ちたのは数世紀も前のことです。ずっと誰も海面に上がっていないなら、今もそうだとなぜ分かるのですか?」
教室が一瞬、静まり返った。生徒たちがルミナの方をちらりと見た。
ガンナは少し眉をひそめ、重々しく言った。
「昔から決まっていることだ。ルミナ、座りなさい」
「でも――」
「座りなさい」
ルミナは静かに席についた。そして、紙のノートの隅に、密かに書き留めた。
(誰も確かめていない。なぜ?)
学校の帰り道、海中を並んで泳ぎながら、リオが不安そうに囁いた。
「ルミナ、あんな質問してよかったの? ガンナ先生、ムッとしてたよ」
「うーん……でも、やっぱり不思議だよ」
ルミナは自分の水棲脚が描く小さな水の揺らぎを見つめながら言った。
「確かめもしないで、知らないままにしておくのが当たり前になる……それが、一番怖いことのような気がするんだ」
リオは何も答えなかった。ただ、少し困ったように、はにかんで笑うだけだった。




