貧乏なふりをして六年、都合のいい女を演じていたら、クズ彼氏は私のバイト代で秘書の浮気相手を養っていた
貧乏なふりをして六年、都合のいい女を演じていたら、クズ彼氏は私のバイト代で秘書の浮気相手を養っていた
あらすじ
父の六十歳の誕生日パーティーの前夜、彼氏のLINEに突然、九枚の写真が届いた。
写真の中では、彼の秘書である水原莉央が九着のドレスを着替えていた。どれも露出は多いのに、下品にならないぎりぎりを狙ったものばかりだった。
彼女は彼に、甘えるような文面を送っていた。
「悠真、明日あなたの同伴者として誕生日パーティーに行くなら、どのドレスが一番似合うと思う?」
その瞬間、私は完全に目が覚めた。
私は桐生悠真のスマホを奪い取り、そのまま一言だけ返信した。
「着ないのが一番似合うんじゃない?」
桐生悠真の顔色が変わった。
彼はスマホを奪い返すと、反射的に私の頬を平手打ちした。
「東堂美月。本当は、お前にも少しは体面を残してやるつもりだった」
「なのに、ここまで物分かりが悪いとはな」
「上流の世界に入りたい女なら、男が外に何人か遊び相手を作るくらい、黙って受け入れるものだろ」
「これ以上騒ぐなら、お前も、あの古い酒屋をやっている親父も、まとめて東京から追い出してやる」
私は熱くなった頬に触れながら、思わず笑った。六年。ずっと演じていたのは、私だけだと思っていた。けれど、彼もようやく本性を出したのだ。次の瞬間、私は手を上げ、彼の頬を打ち返した。
「桐生悠真」
「あなたが馬鹿にした、あの古い酒屋の父は――」
「東堂ホールディングスの会長よ」
「そして私は、三日以内に、あなたの会社を東堂のものにできる」
1.顔に叩きつけられたケーキ
私は渋谷のスタートアップ支援施設の下にあるカフェに座っていた。
腕の中には、作ったばかりの苺のショートケーキがあった。六号サイズの小さなケーキで、上にはチョコレートソースで「悠真、資金調達おめでとう」と書いてある。
私はそこで四時間待った。コーヒーは五杯おかわりした。店員が私を見る目は、いつまでも目を覚まさない哀れな女を見るようだった。
夕方六時。ようやくエレベーターの扉が開いた。
桐生悠真が出てきた。私は立ち上がろうとした。けれど、その直前に、水原莉央が彼の隣にぴったり寄り添っているのが見えた。
彼女は半分ほど身体を彼の腕に預け、甘く柔らかく笑っていた。
そして、彼女が着ている白いシャツを見た瞬間、私は息を止めた。
見覚えがあった。先月、桐生悠真の誕生日に、私は母が残してくれた真珠のネックレスの一本を売った。さらに三か月分の生活費を削って、ようやく買った限定品だった。
彼は言ったのだ。投資家に会うなら、きちんとした服が必要だ、と。今、そのシャツは水原莉央の身体にあった。しかも、ボタンはきちんと留められていなかった。
「悠真」
私はケーキを抱えて歩み寄った。桐生悠真は私を見るなり、顔を曇らせた。
「また来たのか」
水原莉央が私の手元のケーキを一瞥し、鼻で笑った。
「それ、何ですか? コンビニの値引きケーキ? クリーム、崩れてますよ。貧乏くさい」
「私が作ったの」
私は小さな声で言った。
「悠真が昨日、苺のケーキが食べたいって言ったから」
「俺が適当に言ったことを、本気にしたのか?」
桐生悠真は苛立った声で私を遮った。
「東堂美月、お前は人の話が分からないのか? 今の俺がどんな立場か分かっているのか」
「俺が一杯酒を飲む金だけで、お前とお前の親父の古い酒屋なんて半月は持つだろ」
「そんなものを持ってきて、俺を気持ち悪くさせたいのか?」
そう言うと、彼は私の手からケーキを奪った。私は、せめて受け取ってくれるのだと思った。けれど次の瞬間、彼はそのケーキを私の顔に叩きつけた。
ぱしゃっ、と音がした。クリームが目を塞いだ。苺が襟元に落ちた。甘ったるい匂いが、鼻の奥まで入り込んできた。
周囲が一瞬、静まり返った。その直後、桐生悠真は水原莉央の腰を抱き、大声で笑った。
「見たか?これが、厚意を踏みにじる女の末路だ」
水原莉央は腰を折って笑った。そしてスマホを取り出し、私に向けて写真を撮った。
「美月さん、その格好、すごく似合っていますよ。Instagramに上げたら、きっといいねがたくさんつきますね」
私はその場に立ち尽くした。髪からクリームが一滴ずつ落ちていく。
怒りなのか、悔しさなのか、自分でも分からなかった。ただ、声だけが震えていた。
「桐生悠真」
「そのシャツは、私が母のネックレスを売って買ったものよ」
「あのネックレスは、母が結婚式でつけていたものだった。母が私に残してくれた、最後のものの一つだったの」
桐生悠真は一瞬だけ固まった。けれどすぐに、口角を歪めた。
「それで?」
「俺が売れって言ったのか?」
「東堂美月、お前はすぐ自分に酔うよな。勝手に尽くして、勝手に感動して、勝手に被害者面をする」
「お前が自分からやったことだろ。俺に何の関係がある?」
水原莉央はわざとシャツの襟元を引き、肩を見せた。
「美月さん、そんなにけちけちしないでくださいよ。悠真が言ってました。私のほうが、このシャツ似合うって」
桐生悠真は笑いながら、彼女の腰を抱き寄せた。
「実際そうだろ。莉央が着ると女に見える。お前が着ると、商店街の酒屋の店員にしか見えない」
私は顔についたクリームを拭った。指先が震えていた。
「じゃあ、母の赤珊瑚のブローチは?」
桐生悠真が眉をひそめた。
「何のブローチだよ」
「会社の資金繰りが苦しいから、三百万日円だけ先に貸してくれって言ったでしょう。私は母が残した赤珊瑚のブローチをあなたに渡した」
「ああ、あれか」
彼はようやく思い出したような顔をした。
「人に見せたけど、全然価値がなかった。せいぜい三十万日円だってさ」
「ありえない」
「父が言っていたの。あれは外祖母から受け継いだものだって」
「お前の親父が?」
桐生悠真は吹き出した。
「商店街で古い酒屋をやっているだけの親父に、珊瑚の何が分かるんだよ。色のくすんだ古いブローチだろ」
水原莉央も一緒になって笑った。
「美月さん、悪いですけど、家にお金がないなら、無理して背伸びしないほうがいいですよ」
「悠真は今やスタートアップの社長なんです。もうすぐシリーズBの資金調達だって決まりそうなんですよ」
「あなたは、もう釣り合っていません」
桐生悠真は私の肩を叩いた。
力が強かった。私はよろめいた。
「東堂美月。六年も俺についてきたことに免じて、最後に少しだけ顔を立ててやる」
「今日から、二度と俺に会いに来るな」
「俺の彼女が見たら、不愉快になる」
そう言うと、彼は水原莉央を抱いて歩き出した。
店の入口まで行くと、水原莉央が振り返った。彼女は背伸びをして、桐生悠真の頬にキスをした。
わざと、大きな音を立てて。
カフェにいた全員が私を見ていた。
同情する目。笑いをこらえる目。
店員が近づいてきて、紙ナプキンを何枚か差し出した。
「お客様、よろしければお使いください」
私はそれを受け取った。
けれど、クリームは拭ききれなかった。髪が顔に張りつき、甘ったるい匂いで吐き気がした。
店を出て、紙ナプキンをゴミ箱に捨てた。
それからスマホを取り出し、桐生悠真にLINEを送った。
「明日の夜七時、帝国ホテル。父の六十歳の誕生日パーティー。来るって言ったよね」
長い時間が経ってから、彼は三文字だけ返してきた。
「気分次第」
2.還暦祝いに現れた秘書の女
翌日の夜。帝国ホテル。
父は宴会場のワンフロアを丸ごと貸し切っていた。
これは父の六十歳の誕生日パーティーであると同時に、東堂ホールディングス創立四十周年の記念パーティーでもあった。
東京の経済界から、多くの人が来ていた。
銀行家、投資家、老舗メーカーの会長、テレビ局の役員。どこを見ても、普段なら桐生悠真が必死で名刺を配りたがるような人たちばかりだった。
私はシンプルなアイボリーのワンピースを着て、入口に立ち、桐生悠真を待っていた。
この服は安物ではない。
けれど普通の女の子という身分を保つため、あえて一番目立たないものを選んだ。
七時半。
パーティーが始まった。彼は来なかった。電話をかけた。電源が切られていた。
八時。
父が壇上に上がろうとした、その時だった。
宴会場の扉が開いた。
桐生悠真が来た。
水原莉央を連れて。
水原莉央は赤い深いVネックのドレスを着て、濃いメイクをしていた。首には、ダイヤモンドのネックレスが輝いている。
私は一目で分かった。
あれは、母が私に残してくれたダイヤのネックレスだった。
先月、桐生悠真は大事な顧客に会うから見栄えが必要だと言った。彼は私から、そのネックレスを借りていった。
三日で返すと言った。
今、それは水原莉央の首にあった。
「美月」
桐生悠真は私の前まで来た。
まるで何もなかったかのような口ぶりだった。
水原莉央は彼の腕に絡み、首を傾けて笑った。
「美月さん、そのワンピース、SHEINで買ったんですか? 三千円くらい? そんなにしわしわで、よく帝国ホテルに来られますね」
彼女はわざと一回転した。
ドレスのスリットは、太ももの付け根近くまで入っていた。
「こういう場では、女はちゃんと自分を見せなきゃ。そんな修道女みたいに包んで、誰が見るんですか?」
周囲の人々がこちらを見始めた。
父の顔が沈んだ。
「桐生さん。これはどういうことですか」
桐生悠真はどうでもよさそうに笑った。
「ご紹介しますよ、老先生。こちらは今の俺の彼女、水原莉央です」
「少し見識を広げさせようと思いまして」
「あなたの娘さんは、正直、田舎くさすぎる。連れて歩くのも恥ずかしい」
会場が静まり返った。
すべての視線が私たちに集まった。
父はゆっくり口を開いた。
「桐生悠真」
「私が今日招待したのは、娘と、その交際相手です」
「あなたがすでに娘の交際相手ではないと言うのなら、今すぐお帰りください」
水原莉央が先に口を挟んだ。
「老先生、上流社会のルールも分からないんですか?」
「悠真は今や注目の起業家ですよ。もうすぐ資金調達にも成功します」
「あなたの娘さんは何者なんです? 悠真の隣に立つ資格があるんですか?」
彼女はバッグから薄い祝儀袋を取り出し、父の前に投げた。
「まあ、今日はお誕生日ですし、少しくらい顔を立ててあげます」
「商店街で小銭ばかり数えているんでしょう? こういうお札、あまり見たことないんじゃないですか?」
「どうぞ。お礼はいりません」
父は受け取らなかった。
顔色が青ざめるほど怒っていた。
桐生悠真が肩をすくめた。
「老先生、正直に言いますよ」
「俺はとっくに東堂美月を捨てました」
「今日は、彼女が六年もしつこく付きまとってきたことに免じて来てやっただけです」
「ついでに、この場に使えそうな経営者がいないか見に来ただけですよ」
「この宴会も、他に価値はないが、人脈作りには少し使えそうですから」
水原莉央も笑いながら口を添えた。
「そうですよ、美月さん」
「悠真はもう昔とは違うんです。あなたがしがみついても無駄です」
「家柄もない、能力もない」
「まずいケーキを作る以外に、あなたに何ができるんですか?」
そう言いながら、彼女はわざと一歩踏み出した。
細いヒールが、私の足の甲を強く踏んだ。
鋭い痛みが走る。
私は息をのんだ。
「あら、ごめんなさい、美月さん」
水原莉央は驚いたふりをして、口元を押さえた。
「見えませんでした」
父がついに口を開いた。
「警備を」
すぐに四人の警備員が両側から進み出た。
桐生悠真の顔色が変わった。彼は自分をつかもうとした警備員を押しのけた。
「おい、じいさん。俺がここに来てやっただけでもありがたいと思え」
「あんたは何様のつもりだ。俺を追い出す気か?」
水原莉央も甲高い声で叫んだ。
「触らないで! 私の彼氏が誰か分かってるの? 桐生社長よ! 資産だって何億もあるの! こんな宴会場で偉そうにしないでよ!」
父は冷たい目で彼を見た。
「桐生悠真。最後に言います。出ていきなさい」
「嫌だと言ったら、どうする?」
桐生悠真はわざと声を張り上げ、会場全体に聞こえるように言った。
「皆さん、見てください。これが東堂家のもてなし方ですよ」
「せっかく誕生日を祝いに来てやったのに、この扱いです」
「自分の娘が俺に捨てられたから、腹を立てているだけでしょう」
彼は父のほうを向いた。
「じいさん、身の程を知れよ」
「俺が少し手を回せば、商店街の小さな酒屋なんてすぐ潰せる」
「それでも俺の前で偉そうにするのか?」
水原莉央は私の目の前に詰め寄り、指を突きつけた。
「東堂美月、あなたのお父さん、あの貧乏くさい顔を見てみなさいよ」
「それで私たちを追い出すつもり?」
「出ていくべきなのは、あなたたちのほうでしょ」
「貧乏一家のくせに、上流のパーティーごっこなんて笑わせるわ」
父はそれ以上、何も言わなかった。
警備員に合図した。
警備員たちは前に出て、二人を強引に押さえた。
「離せ!」
桐生悠真が激しく暴れた。
「俺に触って、ただで済むと思うなよ! 明日にはお前ら全員クビにしてやる!」
水原莉央も泣き叫ぶように手足をばたつかせた。
「人殺し! 助けて! この番犬ども! 悠真があんたたちを潰してやるから!」
彼女は引きずられながらも、私を睨みつけた。
「東堂美月! 誰にも選ばれない女!」
「あなたの父親もただの役立たずよ!」
「見てなさい! 悠真が必ず、あなたたちを土下座させるから!」
桐生悠真も扉のところで首を伸ばして叫んだ。
「東堂美月、よく聞け!」
「俺の会社の評価額は五億日円だ!」
「お前らみたいな小さな酒屋一家なんて、虫けらみたいに潰してやる!」
「東堂家ごと、東京から消えるんだな!」
二人の罵声は遠ざかっていった。
宴会場には、死んだような沈黙だけが残った。
3.六年分の愛が死んだ夜
すべての人が私を見ていた。
同情。
気まずさ。
好奇心。
そして隠しきれない嘲笑。
父が歩いてきて、私の手を握った。
「美月、足は痛むか」
私は自分の足元を見た。
足の甲には、ヒールで踏まれた赤い跡が残っていた。
「痛くない」
父はため息をついた。
「馬鹿な子だ」
それから背後の秘書を見た。
「お嬢様を上の部屋へ」
「この後の宴席に出る必要はない」
私は父の秘書に支えられ、上階の控室へ向かった。
扉を閉めると、外のざわめきはようやく遠くなった。
スマホが鳴った。
桐生悠真だった。
私は出た。
電話の向こうで、彼はほとんど怒鳴っていた。
「東堂美月、満足したか?」
「大勢の前で俺に恥をかかせて」
「言っておくが、お前の父親の古い酒屋はもう終わりだ」
私は何も言わなかった。
彼はさらに続けた。
「あのネックレスも、返ってくると思うなよ」
「あれはもう莉央にやった」
「莉央は、つけたまま寝てもいい匂いがするって言ってたぞ」
「お前の母親なんてもう死んでるんだろ。死人のものを取っておいて、何になる?」
「生きてる人間が楽しんだほうが、よほど価値がある」
私は目を閉じた。
「桐生悠真。私たちは六年付き合ってきた。六年、私はあなたのために……」
「やめろ」
彼は苛立った声で遮った。
「東堂美月、まるで自分が偉いみたいに言うな」
「全部、お前が勝手にやったことだろ」
「俺が強制したのか?」
「それに」
彼の声はさらに冷たくなった。
「俺はお前を愛したことなんて一度もない」
「お前と付き合っていたのは、まだ少し使い道があったからだ」
「今のお前に使い道がないなら、俺が側に置いておく理由なんてない」
電話は切れた。
私は扉にもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。
涙がようやく落ちた。
六年。
私は笑いもののように、彼についてきた。
出会ったばかりのころ、彼は地下の小さな部屋に住む貧しい学生だった。毎日、コンビニの値引きおにぎりを食べていた。
冬の部屋には暖房もなく、手が冷えすぎてキーボードも打てなかった。私は唯一のベッドを彼に譲り、自分は床で寝た。
彼が起業に失敗し、借金を背負った時。
私は自分の奨学金で返済を手伝った。
彼が顧客との飲み会で胃から出血した時。
私は病院で三日三晩付き添った。
彼の会社が潰れそうになった時、私は父に助けを求めた。
父は反対した。
だから私は、母が残した宝飾品を売った。
三百万日円の赤珊瑚のブローチを、彼はせいぜい三十万日円だと言った。
母のダイヤのネックレスを、彼は水原莉央に渡した。
彼は、私を愛したことがないと言った。
私は、少し使い道があっただけだと言った。
スマホがまた鳴った。
今度は水原莉央だった。
彼女の声は、甘ったるかった。
「美月さん、いいことを教えてあげます」
「私、悠真の子どもを妊娠しました」
「子どもが生まれたら結婚するって、悠真が言ってくれたんです」
「あなたは、あの古い酒屋をやっている貧乏なお父さんと、仲良く暮らしてくださいね」
彼女は声を潜め、さらに悪意をにじませた。
「そうそう。あなたのお母さんが残した赤珊瑚のブローチ、うちの母が古くさいって言って、もう分解しました」
「真ん中の珊瑚は、イヤリングに作り替えたんです」
「すごく今っぽくなりましたよ」
「あなたのお母さんが知ったら、お墓の中から怒って出てくるかもしれませんね」
彼女は大笑いした。
そして電話を切った。
私は床に座り込んだまま、長い時間動かなかった。
夜が明けるまで。
その夜、私は完全に目が覚めた。
涙は、価値のある人のために流すものだ。
桐生悠真と水原莉央。
あの二人にふさわしいのは、私の涙ではない。
憎しみ。
そして復讐だ。
4.東堂家の娘として
朝。
私は冷たい水で顔を洗った。
鏡の中の私は、目を腫らし、顔色も悪かった。
六年。
私は笑いもののように生きてきた。
だが、笑い話はここで終わる。
私は神谷蓮司に電話をかけた。
彼は東京の経済界で、冷徹な男として知られている。神谷家の後継者であり、最初から私の本当の身分を知っていた数少ない人間でもあった。
電話はすぐにつながった。
「美月?」
「一つ、頼みたいことがある」
私の声はひどくかすれていた。
「桐生悠真の会社の弱みを全部集めて」
「税務、契約、資金の流れ。会社の金で水原莉央に高級品を買っている記録も」
「できるだけ早く」
神谷蓮司は少し黙った。
「やっと決めたんだな」
「決めた」
私は冷たく笑った。
「彼を、徹底的に負けさせたい」
「分かった」
神谷蓮司は余計なことを聞かなかった。
「任せろ」
電話を切った後、私は黒いスーツに着替えた。
濃いメイクで、赤く腫れた目元を隠した。
それから車で、桐生悠真の会社へ向かった。
今度は受付が私を止めた。
「お客様、ご予約はございますか」
私は名刺をカウンターに置いた。
受付の女性は名刺に目を落とし、顔色を変えた。
東堂美月。
東堂ホールディングス、投資戦略部執行役員。
次の瞬間、彼女は深く頭を下げた。
「東堂様、少々お待ちください。すぐに桐生社長へお知らせいたします」
「結構です」
私はそのままエレベーターへ向かった。
桐生悠真の執務室の扉を開けた時、彼は水原莉央とビデオ通話をしていた。
私を見るなり、彼は眉をひそめた。
「東堂美月?どうやって入ってきた」
「歩いて入ってきたの」
私は彼のデスクの前まで進んだ。
「桐生悠真。私のものを取り戻しに来た」
「母のブローチ、ネックレス」
「それから――」
私は一度言葉を切った。
「あなたの会社」
桐生悠真は冗談でも聞いたように笑った。
椅子に深くもたれ、足を組んだ。
「東堂美月、頭がおかしくなったのか?」
「俺の会社? 何を使って奪うつもりだ」
「お前は何様だ?」
私はバッグから一枚の名刺を取り出し、彼の机の上に投げた。
「字は読める?」
彼は名刺を見下ろした。
名刺はとても簡素だった。
東堂美月。
東堂ホールディングス。
投資戦略部執行役員。
左上には、東堂グループのロゴ。
時価総額数千億日円の、あの東堂グループのロゴだった。
桐生悠真の表情が少しずつ固まっていった。
驚愕。
疑念。
そして恐怖。
「ありえない……」
「お前は……」
「東堂誠一郎は私の父よ」
私は平静に言った。
「実の父」
「あなたが商店街の古い酒屋だと馬鹿にしたあの人は、東堂ホールディングスの会長」
桐生悠真の顔が一気に青ざめた。
彼は椅子に崩れるように座り直した。
「ありえない……そんなはずがない……」
「お前が本当に東堂家の娘なら、どうして……」
「どうしてあなたと地下室に住んだのか」
「どうして一緒にコンビニの値引きおにぎりを食べたのか」
「どうして母の形見を売って、あなたの穴埋めをしたのか」
私は彼の言葉を引き取った。
「私が馬鹿だったから」
「それに、母が亡くなる前に言ったの」
「美月。いつか結婚するなら、東堂家ではなく、あなた自身を愛してくれる人を選びなさいって」
「だから私は身分を隠して、何もないあなたと一緒に歩いてきた」
「知りたかったの。あなたが愛していたのは私なのか、それとも私の背後にある東堂家なのか」
私は彼を見つめた。
「今は、答えが分かる」
桐生悠真の唇がわずかに動いた。
「美月、俺は……」
私は扉へ向かった。
最後に振り返り、彼を見た。
「桐生悠真」
「三日」
「あなたの会社を、東堂のものにする」
5.炎上と証拠の反撃
桐生悠真の会社を出た後、私は東堂家へ戻った。
夜、神谷蓮司から資料が届いた。
仕事は速かった。
架空の外注案件のスクリーンショット。
個人口座へ流れている疑いのある資金記録。
桐生悠真が会社口座で水原莉央にバッグを買い、ホテルを予約し、高級マンションを借りた送金記録。
そして、会社のキャッシュフローが逼迫し、次の資金調達に頼らなければ立ち行かないという内部情報。
資料のほかに、一つの動画もあった。
動画の中で、水原莉央は新作バッグを持ち、銀座の高級ブランド店の前で友人に見せびらかしていた。
「悠真って本当に私に甘いの。私がこのバッグ欲しいって言ったら、目も瞬きせずに買ってくれた」
「東堂美月みたいな貧乏くさい女とは違うでしょ。あの人、いつも同じ古いバッグばかり持ってるし」
彼女の友人が笑いながら相づちを打った。
「あの人も、自分の立場を分かってないよね。桐生社長にしがみついて、みっともない」
水原莉央は得意げに笑った。
「子どもが生まれたら、桐生夫人の座は私のものよ。東堂美月? あの古い酒屋の父親と一緒に、惨めに暮らせばいいのよ」
私はパソコンの画面を見つめた。
心が少しずつ冷えていった。
そして私は、新しい匿名アカウントを作った。
編集した動画を投稿した。
一つ目は、帝国ホテルの宴会場の監視映像だった。
水原莉央が私の足を踏む場面。桐生悠真が私と父を公然と侮辱する場面。二人が警備員に引きずり出されながら罵声を浴びせる場面。
音声は、はっきり残っていた。
本文にはこう書いた。
「六年付き合った彼女に、母親の形見を売らせて起業資金を作った男が、その金で秘書の浮気相手を養っていました。しかもその相手を連れて、彼女の父親の誕生日パーティーで好き放題。これが、いわゆる注目の起業家ですか?」
二つ目は、水原莉央が銀座でバッグを見せびらかしている動画だった。
本文にはこう書いた。
「彼女が母親の形見を売って作ったお金は、最後には秘書のブランドバッグになりました。他人の形見を身につけ、他人のお金を使いながら、元の彼女を貧乏くさいと笑う。この秘書は、ただの浮気相手ではありません。共犯です」
契約書や資金記録は、まだ出さなかった。
あれは切り札だ。
まず必要なのは世論だった。
私は、彼らに先に味わわせたかった。
大勢から指をさされる感覚を。
思った通り、投稿はすぐに東京のビジネス界、X、匿名掲示板、炎上系まとめサイトへ広がった。
ヒモ男。
成り上がり気取りの起業家。
性悪秘書。
母親の形見を売らせて浮気相手を養った男。
その言葉だけで、十分に刺激的だった。
翌日、桐生悠真から電話が来た。
会いたいという。
私は彼の会社へ向かった。
今度は誰も私を止めなかった。
扉を開けると、彼は電話口で頭を下げるような声を出していた。
「出資停止ですか?」
「佐藤社長、説明させてください。あの動画は悪意のある編集で……」
私を見るなり、彼は電話を切った。
目は真っ赤だった。
「東堂美月、あれはお前がやったのか?」
「正気か? 俺を潰す気か?」
「潰す?」
私はゆっくりと彼のデスクの前に座った。
「桐生社長。まだ始まったばかりよ」
「何が望みだ」
彼はほとんど怒鳴っていた。
「簡単よ」
私は笑みを消した。
「一つ。母の赤珊瑚のブローチとダイヤのネックレスを返すこと。ダイヤが一粒でも足りなければ、水原莉央に十倍で弁償させる」
「二つ。私が作った事業案と製品特許を盗用したことを公に認め、すべての権利を返すこと」
「三つ。これまで私があなたに投じた資金と、精神的損害を賠償すること」
「四つ。あなたと水原莉央は、二度と私と家族の前に現れないこと」
桐生悠真は机を強く叩いた。
「ふざけるな!」
「東堂美月、動画を何本か出したくらいで俺を脅せると思うなよ」
「俺がここまで来たのは、運だけじゃない」
「そう」
私はバッグからコピーの束を取り出し、彼の机に置いた。
「じゃあ、これがあったら?」
「架空の外注案件」
「私的な支出の会社経費処理」
「二種類の財務資料」
「会社資金の個人口座への流入」
「それから、水原莉央名義の高級マンションの家賃」
私は桐生悠真を見て、ゆっくり笑った。
「まさか、これらをマーケティング費や接待費として処理すれば、誰にも分からないと思っていたの?」
「この資料を税務当局、主要株主、投資家に送ったら」
「彼らはまだ、あなたを投資に値する起業家だと思うかしら」
桐生悠真は数枚の資料をつかんだ。
たった一枚目を見ただけで、顔が白くなった。
「お前……どこでこれを……」
「あなたが知る必要はない」
私は立ち上がり、彼を見下ろした。
「桐生悠真。私はあなたに機会を与えた」
「昨日までなら、私のものを返し、父に謝れば、ここまでしなかったかもしれない」
私は彼に近づいた。
一語ずつ告げた。
「でも、もう遅い」
「社会的信用を失い、借金を背負い、最悪の場合は刑務所に入る」
「それとも、私の言う通りにして、尻尾を巻いて消える」
「自分で選びなさい」
私は部屋を出ようとした。
彼が駆け寄ってきて、私の手首をつかんだ。
「美月!」
「俺が悪かった。なあ、それでいいだろ?」
「水原莉央なんて遊びだった。暇つぶしだったんだ」
「本当に愛しているのはお前だ」
「会社が上場したら、すぐにあいつを捨てて、お前と結婚する」
私は彼の手を振り払った。
「結婚?」
「あなたが何を持って私と結婚するの?」
「私から騙し取ったお金?」
「それとも、あなたの母親が入院した時、私が出した命のお金?」
彼は固まった。
私は、かつて骨の髄まで愛していたその顔を見た。
今は、吐き気しかしなかった。
「三年前、あなたのお母さんが手術を受ける時、一百万日円が必要だった」
「あなたは用意できず、眠れないほど焦っていた」
「私は三年分の奨学金を、全部あなたに渡した」
「あなたは、一生忘れないと言った」
「その後は?」
彼は何も言わなかった。
「あなたのお母さんが回復した後、あなたはお金を返すと言った」
「私は、私たちの間でお金の話はしなくていいと言った」
「あなたは、これから稼ぐ金は全部私のものだと言った」
「それから、会社が少し儲かるようになった」
「あなたは水原莉央にバッグを買い、車を買い、高級マンションを借りた」
「私には何を買ってくれた?」
「一番高い服でも三千日円」
「しかもセール品だった」
私は笑った。
「でも、もうどうでもいい」
「桐生悠真」
「あなたは終わりよ」
6.彼の会社が私のものになる日
桐生悠真への報いは、すぐに訪れた。
まず資金調達が失敗した。
出資を予定していた投資家たちは、そろって契約を停止した。理由は簡単だった。
世論リスクが大きく、資金繰りも不透明で、会社資産の私的流用まで疑われている起業家に、投資したくないからだ。
次に、主要顧客が契約を解除した。
東堂グループ傘下の数社が、先に取引を打ち切った。それに続くように、他の取引先も離れていった。
誰の目にも明らかだった。
東堂家は、桐生悠真を許すつもりがない。
小さなスタートアップ一社のために、東堂ホールディングスを敵に回したい者などいなかった。
その次は、人材の流出だった。
東堂グループは三倍の報酬を提示し、彼の会社の中核人材をすべて引き抜いた。
技術責任者が去った。
財務責任者が去った。
営業責任者も去った。
最後には受付の女性まで辞表を出した。
桐生悠真の会社は、瞬く間に空っぽになった。
債権者が押しかけた。
銀行が返済を迫った。
税務署から呼び出しが来た。
投資家は資金の返還を求めた。
彼は完全に追い詰められた。
あちこちに助けを求め始めた。
かつて彼に媚びていた経営者に頼った。
誰も電話に出なかった。
兄弟のように付き合っていた友人に頼った。
誰も相手にしなかった。
最後に彼がすがったのは、私だった。
その朝。
家を出ると、桐生悠真が門の前に跪いていた。
一晩眠っていないのだろう。無精ひげを生やし、目は血走っていた。
かつての桐生社長の面影など、どこにもなかった。
「美月!」
彼は膝でにじり寄ってきた。
「俺が人間じゃなかった」
「俺は最低だった」
「許してくれ」
「会社は俺の命なんだ」
「もう水原莉央とは別れた」
「今になって分かった。本当に愛していたのは、ずっとお前だった」
私は彼を見下ろした。
「水原莉央は妊娠しているんでしょう。子どもが生まれたら結婚するって言ったんじゃなかったの?」
「あの女が俺を騙したんだ!」
桐生悠真は慌てて言った。
「子どもだって、誰の子か分からない」
「俺は最初から、あいつと結婚する気なんてなかった」
「俺の心には、お前しかいない」
そう言って、私の足にしがみつこうとした。
私は一歩下がった。
そしてスマホを取り出し、一つの録音を再生した。
録音の中に、彼と水原莉央の声が流れた。
「莉央、子どもが生まれたら結婚しよう」
「その時は、会社の株を半分お前に渡す」
「東堂美月の馬鹿女は、俺が本気で愛していると思っている」
「まだ使い道がなければ、とっくに捨てている」
録音が終わった。
桐生悠真の顔は、紙のように白くなっていた。
「お前……どうしてこれを……」
「水原莉央がくれた」
私はスマホをしまった。
「あなたを社会的に終わらせるために」
彼は目を見開いた。
「どうしてあいつが……」
「彼女も馬鹿ではないから」
私は淡々と言った。
「桐生悠真。あなたは水原莉央が本当にあなたを愛していると思っていたの?」
「彼女が愛していたのは、あなたのお金」
「今のあなたにはもうお金がない。だから次を探す」
「そして私なら、彼女にもっと与えられる」
桐生悠真は地面に崩れ落ちた。
まるで死んだ犬のようだった。
「東堂美月……お前、どこまで……」
「私がひどい?」
私はしゃがみ、彼と目線を合わせた。
「私が母の形見を売って作ったお金で、あなたが浮気相手を養っていた時、ひどくなかった?」
「私が作ったケーキを顔に叩きつけた時、ひどくなかった?」
「父の誕生日パーティーで、あなたが父を侮辱した時、ひどくなかった?」
「私は全部、あなたから学んだだけよ」
私は立ち上がった。
「桐生悠真。正式に通知するわ」
「東堂キャピタルは、債権取得と株式譲渡を通じて、あなたの会社の六十七パーセントの株を取得した」
「今日から、私はあなたの上司よ」
「そしてあなたは、取締役会で解任された」
「荷物をまとめて、出ていきなさい」
彼はその場に座り込んだまま動かなかった。
私が背を向けた、その瞬間。
彼は突然立ち上がり、私に飛びかかってきた。
「東堂美月! お前を殺してやる!」
彼の手には、いつの間にかカッターナイフが握られていた。
刃が冷たく光った。
私は避けなかった。
次の瞬間には、二人のボディーガードが彼に飛びかかり、地面に押さえつけていたからだ。
「お嬢様、ご無事ですか」
「大丈夫」
私は地面でもがく桐生悠真を見下ろした。
彼はまだ罵っていた。
「東堂美月!この女!」
「死んでもお前を許さない!」
「お前の父親も、東堂家も、全員不幸になればいい!」
ボディーガードが彼の口を押さえ、そのまま引きずっていった。
私はその場で深く息を吸った。
そしてスマホを取り出し、神谷蓮司に電話をかけた。
「終わった」
「次は」
「水原莉央の番よ」
7共犯者の末路
水原莉央が連れていかれたのは、銀座の高級ブランド店の前だった。
彼女は桐生悠真が最後に渡したクレジットカードで、二十万日円のバッグを買ったばかりだった。
店を出たところで、警察に呼び止められた。
「水原莉央さんですね」
彼女は戸惑った。
「私です。何の用ですか?」
「あなたには、職務上の立場を利用して会社資金を私的に流用した疑いがあります。ご同行願います」
水原莉央の顔色が変わった。
「会社のお金を私的に流用? 何かの間違いでしょう?」
「間違いではありません」
警察官は身分証を示した。
「桐生悠真氏の会社から被害届が出ています。あなたが長期にわたり、会社口座を使って私的な支払いをしていたとのことです」
「ブランドバッグ、高級マンションの家賃、ホテル代、美容費などが含まれています」
「送金記録、経費精算書、チャットの履歴はすでに確認済みです」
水原莉央の顔が真っ白になった。
「悠真が使っていいって言ったんです!」
「あれは私のお小遣いだって!」
「その話は署で伺います」
警察は彼女に手錠をかけた。
水原莉央は暴れ始めた。
「妊娠してるんです! 私を逮捕なんてできないでしょ!」
警察官は彼女を見た。
「妊娠中でも、捜査への協力は必要です。医師の診察は手配します」
彼女は連れていかれた。
後の取り調べで、水原莉央はすべてを桐生悠真のせいにした。
資料は自分が盗んだ。だが、桐生悠真に指示された。
お金は自分が動かした。だが、桐生悠真が許可した。
そして、彼女のお腹の子どもについて。
彼女はこう言った。
「同時に何人かの男と付き合っていたので、誰の子か分かりません」
警察官たちも沈黙した。
桐生悠真はそれを知って激怒した。
彼は拘置所へ面会に行った。
ガラス越しに、水原莉央へ怒鳴った。
「水原莉央!この女!」
「あれだけ良くしてやったのに、俺を売るのか!」
水原莉央は冷たく笑った。
「桐生悠真、今さら深情ぶらないで」
「私によくしてくれた?」
「あなたが私にしてくれたことって、全部東堂美月のお金でしょう?」
「私が知らないとでも思ってたの?」
「あなたは、彼女が母親の形見を売って作ったお金で私を養った」
「彼女が書いた事業案で資金調達をした」
「彼女の父親の人脈で道を作った」
「あなた自身のものなんて、何か一つでもあるの?」
桐生悠真は何も言えなかった。
水原莉央は続けた。
「私はあなたを愛したことなんて一度もない」
「愛していたのは、お金よ」
「今のあなたにはお金がない」
「それなのに、どうして一緒に沈まなきゃいけないの?」
「私は刑を軽くしたい」
「外に出たい」
「あなたは」
彼女は笑った。
「自業自得よ」
そう言って、彼女は背を向けた。
桐生悠真はガラスの向こうで狂ったように叫んだ。
だが、誰も相手にしなかった。
8.過去を腐らせて、未来へ
六か月後。
桐生悠真の会社は破産清算に入った。
彼名義で差し押さえ可能な資産は、ほとんどすべて競売にかけられた。
それでも、八千万日円を超える負債が残った。
水原莉央は、長期間にわたって会社資金を私的に使い、さらに桐生悠真の虚偽精算に協力し
たとして、五年の実刑判決を受けた。
拘置中に、彼女は流産した。
後に聞いた話では、彼女は中で毎日のように泣き、後悔していると言っているらしい。
誰も同情しなかった。
桐生悠真は、さらに悲惨だった。
彼は投資家に会社の本当の財務状況を隠し、偽の業務契約を作り、存在しない外注案件を使って会社資金を移した。
さらに、私が提供した技術資料と事業案を盗用し、水原莉央のブランドバッグ、高級マンションの家賃、ホテル代をすべて会社支出にしていた。
最後には、税務当局によって長期にわたる虚偽申告も発覚した。
帳簿には、使途を説明できない資金がいくつも残っていた。
複数の罪が認められた。
彼は最終的に、十二年の刑を言い渡された。
判決の日。
私は法廷に行った。
傍聴席の一番後ろに座った。
桐生悠真が連れてこられた時、彼は一目で私を見つけた。
その目が、一瞬で赤くなった。
「東堂美月!」
「お前だ!」
「全部、お前のせいだ!」
法廷警備員が彼を押さえた。
裁判官が木槌を鳴らした。
「静粛に」
判決は短かった。
十二年。
桐生悠真は聞き終えると、全身から力が抜けたように崩れ落ちた。
連れていかれる時、彼は振り返り、私を見た。
その目には、憎しみだけがあった。
けれど、もうどうでもよかった。
裁判所を出ると、神谷蓮司が入口で待っていた。
「終わった?」
「終わった」
「母のブローチとネックレスは?」
「取り戻した」
神谷蓮司は私に箱を渡した。
私は開けた。
赤珊瑚のブローチはあった。ダイヤのネックレスもあった。
ただ、ブローチは研磨し直され、もう元の姿ではなかった。
ネックレスの留め具も交換されていた。
神谷蓮司が低い声で言った。
「水原莉央の母親が作り替えに出していた。できる限り元に戻させたが……」
「もういい」
私は箱を閉じた。
「戻ってきただけでいい」
彼は私を見た。
「これからどうする?」
「会社をちゃんと経営する」
「父が任せてくれたものを、もっと大きくする」
「その後は?」
私は手の中の箱を見た。
「本当に私を愛してくれる人を探す」
「結婚して、子どもを持つ」
「母が残してくれたものを、次に渡していく」
神谷蓮司は笑った。
「望みは大きくないな」
私は彼を見上げた。
「あなたは?」
「あなたはこれから、何をするつもり?」
彼は私を見つめた。
目がとても優しかった。
「君を追いかけるつもりだ」
私は固まった。
「蓮司、私は……」
「分かっている」
彼は言った。
「君はひどい恋を終えたばかりだ」
「今すぐ誰かを好きになりたいわけじゃないことも分かっている」
「急がない」
「待てる」
「君がもう一度始めたいと思うまで」
「誰かを信じてもいいと思えるまで」
「誰かと人生を歩きたいと思えるまで」
「その時は、俺のことも少しだけ考えてほしい」
私は何も言わなかった。
長い沈黙の後、うなずいた。
「分かった」
神谷蓮司の目が明るくなった。
「約束だ」
「約束する」
その後、私は本当に会社をうまく経営した。
父はますます多くの事業を私に任せるようになった。私は父の想像以上に結果を出した。
三年後。
私の指揮のもと、東堂グループの時価総額は二倍になった。
父は取材を受けるたびに、誇らしそうに笑った。
「私の人生で最も誇れる投資は、どの事業でもありません」
「良い娘に恵まれたことです」
神谷蓮司はまだ私を待っていた。
三年、待ち続けた。
四年目の春。
私は彼のプロポーズを受けた。
結婚式の日には、多くの人が来た。
桐生悠真は刑務所でその話を聞いたらしく、人づてに私に会いたいと言ってきた。
私は行かなかった。
もう必要なかった。
水原莉央はまだ服役中で、あまり良い日々を送っていないと聞いた。
でも、それも私には関係がなかった。
私は今、幸せに生きている。
仕事がある。
家族がいる。
本当に私を愛してくれる人もいる。
結婚式で、神谷蓮司が私の指に指輪をはめる時、小さな声で言った。
「美月。一生かけて君を大事にする」
「本当の愛がどういうものか、君に分かってもらえるように」
私は笑った。
「もう分かってる」
最悪の愛を見たからこそ。
最高の愛を、心から大切にできる。
過去の最低な人間たちと、最低な出来事は。
過去の中で、そのまま腐っていればいい。




