箱庭の神々と、西の稲妻
雲海の上に広がる「常春の国」では、今日も穏やかな風が吹き、枯れることのない花々が甘い香りを漂わせていた。
この神々の住まう箱庭では、争いも、飢えも、痛みもない。神々はただ美酒を酌み交わし、永遠に続く平和を謳歌している。
しかし、若き妖精のルミだけは、神殿の奥にある「下界を映す水鏡」から目を離せずにいた。
水鏡の向こう側――人間たちの世界は、ひどく暗く、冷たかった。
ルミの瞳に映るのは、嘘で塗り固められたような窮屈な部屋を抜け出し、よじれた金網を飛び越えていく二人の若者の姿だ。彼らは似ても似つかない容姿をしていたが、運命の赤い糸などではない、もっと切実で細い、生きるための糸で繋がっているように見えた。
「ねえ、どうして人間たちは、あんなに苦しそうに走るの?」
ルミは、背後でふくよかな体を横たえ、果実をかじっている神々の長に尋ねた。
「誰もいない廃墟みたいな市街地を、硬いコンクリートの舗道を、息を切らして駆けていくわ。空には弾丸が飛んでいて、彼らは『今は撃たないで』って祈りながら、遠くの灯りを目指しているの。どうして、あんな恐ろしい場所で生きようともがくの?」
神々の長は、興味なさそうに重い瞼を少しだけ開けた。
「さあな。我らにはわからぬよ。なぜわざわざ危険な外へ飛び出すのか。嘘で塗り固められていようと、その部屋の中にいれば安全だろうに。人間とは愚かなものだ」
「でも、彼らは『永遠の自由』を求めているみたい。壁のラクガキや、いつしか止まった時計の下で、冷たいコンクリートに背中を転がしながら、生きている実感という『甘くて苦い』味を噛み締めているわ」
ルミの言葉に、他の神々がクスリと上品な笑いを漏らした。
「止まった時計が永遠の自由を与えるだと? 勘違いも甚だしいな」
豊穣の神が、あくび混じりに言う。
「真の永遠の自由とは、この常春の国にこそある。ここでは時そのものが意味を持たない。変化を求めず、ただ今の平和を維持することこそが至高の幸福なのだ。下界の者たちは、でたらめなバラ色の想像図などを描くから、勝手に絶望するのだよ」
「西の空に、稲妻が光っているわ……」
ルミは水鏡に顔を近づけた。それは自然の雷ではなく、あきらかに人間同士が殺し合う戦火の光だった。彼らは「滅びの定め」に抗うように、必死に夜を駆けている。
「長さま、あの子たちを助けてあげられないの? あの稲妻を止めてあげられない?」
「放っておきなさい、ルミ」
長は、諭すように優しく、しかしひどく冷酷な響きで言った。
「あれは対岸の火事だ。西の空でどれほど稲妻が光ろうと、我々のこの美しい庭には届かない。外の世界がどうなろうと、この国が平和でありさえすれば、それが一番の幸せなのだ。彼らがどう生き、どう滅びようと、我々には関係のないことだよ」
神々は頷き合い、再び祝杯をあげた。
「さあ、水鏡など見ず、平和の歌を歌おう。我らの箱庭は、今日も安全だ」
ルミは悲しげに目を伏せ、再び水鏡に視線を戻した。
夜を駆けていく人間たちの姿は、やがて巨大な西の稲妻にかき消され、見えなくなってしまった。
――神々は知らなかった。
人間界に渦巻く絶望や、戦火の怨嗟、身勝手な悪意という名のエネルギーが、どこへ向かうのかを。
行き場を失った膨大な「人間の悪意」は、地下深くへと沈殿し、長い時間をかけてもう一つの世界――「魔界」を異常なまでに肥大化させていたのだ。
ゴゴゴゴゴ……。
突然、常春の国の足元が、かつてない不気味な地鳴りと共に揺れた。
「な、なんだ!? 地震か? この神苑でそんなはずは……」
神々が慌てて立ち上がり、美酒の入った杯が床に落ちて砕け散った。
ルミがハッとして空を見上げると、永遠に晴れ渡っているはずの東の空に、巨大な亀裂が走っていた。
空間がガラスのように割れ、そこから、人間の悪意を喰らって醜く巨大化した魔界の軍勢が、血走った目を爛々と輝かせながら、こちらを覗き込んでいた。
彼らは、西の稲妻で荒廃した下界を喰い尽くし、次なる獲物として、まるまる太って無防備な「平和ボケした神々の箱庭」に狙いを定めたのだ。
「う、嘘だろう……結界が破られただと……!?」
「誰か、武器を! いや、我々には武器など……!」
争うことを忘れ、止まった時計の中で永遠の自由に浸っていた神々は、ただ震え上がり、うろたえることしかできなかった。
空間が完全に砕け散り、悍ましい咆哮が常春の国に響き渡る。
ルミは、逃げ惑う神々を見つめながら、水鏡の中で夜を駆けていた若者たちの「今は撃たないで」という切実な声と、甘くて苦い絶望の味を、ようやく少しだけ理解したような気がした。




