飛んだ海月
雨の日が嫌いになったのは、
事故のせいだった。
海野海月。うみのくらげ
高校3年生の夏、水泳部だった彼女は、毎日部活動に励んでいた。
濡れた髪が肩に張り付く帰り道、自転車をゆっくり漕ぎながら、家へ向かう。
「もう少しで家だ…」
その時、視界の端を、赤い光が鋭く斜めに横切った。
大きなトラック。
時間が、ほんの一瞬だけスローモーションになる。
轟音。
衝撃。
体が空中に放り出される感覚と、冷たいアスファルトにぶつかる。
雨の匂い、油の匂い、鉄の匂い。
光と音が混ざり合い、世界が細かく砕けていった。
膝の下が冷たく、異様に重い。
手を伸ばしても届かない足に、心が凍った。
立とうとしても、体は言うことを聞かない。
「いや、いや、いや待って...なに...なに」
言葉にならない声が口から漏れ、雨に溶けていった。
世界が遠ざかる。
時間も場所も、すべてが静止する。
残ったのは、恐怖と、そして、静かな絶望だけだった。
気がつけば、白い天井が目に入った。
横にはぶら下がった点滴の管が揺れる。
音も匂いも、雨も光も、遠くに霞んでいる。
ただ、目の前に冷たく動かない脚だけが、現実としてそこにあった。
次に目を開けたとき、先生が来てくれた。
少し年老いた男の先生は静かにカルテをめくり、目を上げると淡々と告げた。
「下肢に麻痺が残る可能性があります」
その声には怒りも悲しみもなく、ただ事実だけが淡々と置かれた。
海月は言葉を受け止めきれず、沈黙のままベッドのシーツを握りしめた。
“麻痺が残る可能性があります”
医師が言った言葉を頭の中がぐるぐると回りだす。
毎日が止まってみえる。
走ることも、歩くこともできない。大好きな水泳まで奪われてしまった。
そんなある日、病室のドアが開いた。
幼馴染でもある高校の同級生、高井 そら(たかい そら)が顔を出した。
「久しぶり、海月。」
彼は変わらない笑顔で、ためらいもなく海月のそばへ歩み寄った。
「なんで空がいるの?学校でしょ?」
海月は自分でも驚くほど棘のある声を出した。
空は少しも気にした様子がなく、持ってきた袋を見せた。
「これ、海月が好きだったいちごミルク。あと売店のパン。毎回食ってるの覚えてたから。話はお前の母さんから聞いてる」
「そっか...」
海月はこれ以上の言葉を失った。
「また、来るから。欲しいもんあったらまた連絡して」
彼はあの日から、足のことは言わず、ただの風邪であるかのように、毎日のようにそばにいるようになった。
雨の日の午後、海月は病院の窓の外を見つめたまま言った。
「ねぇ、そら。」
「ん?」
「私、飛びたい。」
そらは驚きもせず、静かに彼女を見つめた。
「飛ぶって、空を?」
「うん。下じゃなくて、上に。
歩けなくなってから、地面に縛られてる感じがして。どこか高いところへ行けたら、何か変わる気がする。」
空はしばらく考え、海月の手をそっと握った。
「海月、飛ぶか。」
その声は、冗談ではなく、まっすぐだった。
「飛びたいなら、俺が連れてく。」
海月は涙が出そうになるのを必死に堪えた。
「どうしてそこまでしてくれるの?」
「好きだからだよ。」
そらはあまりにも自然に言った。
海月の世界が一瞬で色を変えた。
足の感覚はないが胸の奥が確かに震えた。
足は動かなくなっても、退院の日は決まった。
足以外は元気。だから病院は出なくてはいけない。
お世話になった先生にお礼を言って、海月は病院をでた。
そらが外で待っていてくれた。
そらは海月を車椅子ごと抱えるようにして外へ連れ出した。
「海月の母さん、お前の部屋車椅子入れるように今片付けてる」
「そっか」
「海月、今から飛ぶ?」
「飛ぶって……どこへ?」
「内緒。」
海月不安を押しのけ連れていかれたのは、
小高い丘の上にある、風の強い見晴らしの場所だった。下を見ると、学校も家もお花屋さんも小さい模型のように見えた。
空は海月を抱き上げ、草の上に寝かせるように座らせた。
「そら……?」
「ちょっと待ってて。」
彼は大きな布のようなものを広げ始めた。
海月の目が丸くなる。
「これで飛ぶ気?」
「当たり前だろ、空飛ぶって言ったらマントだろ。」
海月は息をのんだ。
「そら、そんなの怖いよ……私、足」
「海月。」
そらは彼女の頬に手を添え、目を合わせた。
「お前は飛びたいって言っただろ。
俺んとこくっついとけばいい。」
海月の胸が痛いほど熱くなった。
「そらとなら、飛べるかな。」
空は微笑み、海月をしっかり抱えた。
「じゃあ、行くか。」
風が吹き抜け、布が大きくひらひらと
海月はそらの体にしがみつき、息を呑んだ。
「海月、飛べ!」
その瞬間、そらは軽々とクラゲを持ち上げた。
少しだけ、少しだけ空に近かった。
世界がふわりと浮いた。
草原が遠ざかり、風が頬を叩き、空が視界いっぱいに広がった。
海月は、叫んだ。
「そら!!」
「大丈夫、しっかりつかまってろ!」
二人の声が風に溶けていく。
海月の心の鎖が、音もなくほどけていく。
まるで本当にクラゲになったように、何もかも軽く、自由だった。
涙が溢れた。
それと共に、笑顔が溢れていた。
ようやく“生きている”と思えた瞬間だった。
そらが囁いた。
「ごめんな、バカに付き合ってくれて。不安だった、ずっと笑わないから。少しでも俺、海月に笑ってほしくて。」
海月はそらの胸に顔を埋めて、震える声で言った。
「ねぇそら。私、もう一度歩きたい。自分の足で、そらの隣にちゃんといたいの。」
そらは強く抱きしめた。
「なら、海月が歩き出すまで、何度でも飛ばしてやる。」
風の中で、海月は笑った。
涙で濡れた顔のまま、それでも心からの笑顔で。
彼女の世界は、もう雨の日に囚われていなかった。
数ヶ月後。
海月はリハビリの部屋で、ゆっくりと片足を前に出した。
ほんの数センチ。
でも確かに、自分の意思で。
「そら!!見て!!」
そらは目を見開き、すぐに笑った。
「すげぇ、まじですごいよ海月。」
海月は息を切らしながらも笑顔を見せた。
「ねぇそら。今度はさ、私の足で、またあの丘に行きたい。」
さらはそっと彼女の手を握った。
「行こう。一緒に行こう。
今度は海月の足で、空目指そう。マント2枚用意しとかなきゃな」
海月はうなずき、彼の肩にもたれた。
窓の外には青空が広がっていた。
海月は、もうクラゲなんかじゃない。
少しずつ、自分で空を目指していく。
そらと一緒に。




