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第7章 永遠の瞬間


夜の埠頭は静かだった。


波の音だけが、規則的に響いている。


星明りが水面を照らし、遠くには東京の明かりが霞んでいる。


二人は釣り糸を垂らしたまま、じっと座っていた。


もう何時間も、そうしている。


魚は、まだかかっていない。


アミの手が震えている。


リュウも、息が浅い。


二人とも、限界が近い。


それは分かっている。


でも、まだ動ける。


まだ、生きている。


「…眠いか」


リュウが小さく聞いた。


「ううん」


アミは首を振った。


「まだ、眠くない」


でも、その声は弱々しかった。


「車で仮眠しよう」


リュウが言った。


「少し休んだ方がいい」


アミは釣り竿を置いた。


「…うん」


二人は立ち上がった。


足がふらつく。


リュウがアミを支える。


「大丈夫か」


「…なんとか」


アミは小さく笑った。


「もう少しだけ、頑張る」


二人は車に戻った。


--- 


車のシートを倒して、二人は横になった。


窓の外には、星空が見える。


満天の星。


「…綺麗だね」


アミが呟いた。


「ああ」


リュウも答えた。


静かな夜。


波の音が聞こえる。


規則正しく、寄せては返す。


「…ねえ、リュウ」


「なんだ」


「私たちって、どこまで来たんだろうね」


アミが天井を見つめたまま言った。


「都内から、山梨まで行って、また戻ってきて」


「…さあな」


リュウも天井を見つめた。


「でも、遠くまで来た気がする」


「うん」


アミは小さく頷いた。


「すごく、遠くまで」


静寂。


二人の呼吸だけが聞こえる。


浅く、不規則な呼吸。


「…リュウ」


「なんだ」


「一週間、ありがとう」


アミの声が震えた。


「私、すごく幸せだった」


リュウは何も言わなかった。


ただ、小さく頷いた。


「…俺もだ」


少しの沈黙。


「…銀座のドレス、覚えてる?」


アミが小さく笑った。


「あんなの、初めて着た」


「似合ってたぞ」


リュウも答えた。


「本当に」


「リュウのタキシード姿も、格好よかった」


アミは天井を見つめたまま言った。


「鏡で見たとき、びっくりした。こんな私もいるんだって」


「…ああ」


リュウも天井を見つめた。


「俺も、だ」


「遊園地も、楽しかったね」


アミが続けた。


「メリーゴーラウンド、プリクラ、駄菓子屋…」


「ああ」


「あの時、リュウが初めて私の名前を呼んでくれた」


アミの声が少し弾んだ。


「『ああ、アミ』って」


「…覚えてるのか」


リュウは少し驚いた。


「覚えてるよ」


アミは小さく笑った。


「嬉しかった。もう『お前』じゃなくて、『アミ』って」


リュウは何も言わなかった。


ただ、少し恥ずかしそうに目を閉じた。


「民宿の子供も、可愛かったね」


アミが続けた。


「ずっと笑ってた。幸せそうだった」


「…ああ」


「私たちにも、あんな未来があったらよかったのにね」


アミの声が少し震えた。


「結婚して、子供作って、普通に生きて」


「…ああ」


リュウも小さく頷いた。


「でも、がんがなければ、俺たちは出会わなかった」


「…そうだね」


アミも頷いた。


「だから、これでよかったのかもしれない」


「…そうだな」


リュウは静かに言った。


「これで、よかった」


それから、静かになった。


二人とも、目を閉じた。


眠れるかどうかは分からない。


でも、少しだけ休もう。


夜明けまで、あと少し。


--- 


午前四時三十分。


リュウが目を覚ました。


外はまだ暗い。


でも、東の空が少しずつ明るくなり始めている。


隣の座席で、アミも目を覚ました。


「…おはよう」


「おはよう」


二人の声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。


「…行こうか」


リュウが言った。


「うん」


アミは頷いた。


二人は車から降りた。


体が重い。


足に力が入らない。


でも、まだ動ける。


最後の力を振り絞って。


リュウが釣り竿を持った。


アミがリュウの腕につかまる。


「歩けるか」


「…なんとか」


二人は埠頭の端へ向かった。


ゆっくりと。


一歩ずつ。


アミの深紅のドレスが、風に揺れる。


夜明け前の薄暗い光の中で。


その色は、血のように赤く。


生命のように鮮やかに。


銀座で手に入れた、深紅のドレス。


あの日から、ずっと着続けている。


もう汚れて、しわくちゃになっているけれど。


それでも、美しい。


風が吹いている。


海の匂い。


潮の香り。


遠くには、高層ビル群が霞んでいる。


東京の朝が、もうすぐ始まる。


でも、二人にとって、それはもう関係ない。


ここが、終着点。


デッドエンド。


--- 


埠頭の端に、二人は並んで座り込んだ。


コンクリートの冷たい感触。


アミの深紅のドレスが、コンクリートに広がる。


暗い色の中で、その赤だけが鮮やかだった。


水面が、夜明け前の暗い色をしている。


「釣り竿…」


アミが震える手で釣り竿を受け取った。


「組み立てる」


リュウも手伝った。


震える手で、釣り竿を組み立てる。


簡単な釣り竿。


エサもない。


釣れるかどうかも分からない。


でも、それでいい。


「…できた」


リュウが言った。


アミが釣り糸を垂らした。


震える手で。


糸が水面に落ちる。


静かな波の音。


鳥の鳴き声が、遠くから聞こえた。


「…子供の頃、できなかったんだ」


アミが小さく言った。


「海で、釣り、したい…」


「今、やってるじゃないか」


リュウが答えた。


アミは小さく笑った。


「…そうだね」


静かな時間が流れた。


波が打ち寄せる。


規則正しく。


優しく。


「…ねえ、リュウ」


アミが釣り糸を見つめたまま言った。


「なんだ」


「もし、病気がなかったら、リュウはどんな人生を送ってたと思う?」


リュウは少し考えた。


「…さあな」


リュウは答えた。


「外科医として、患者を救い続けてたかもな」


「それとも、挫折してたかもしれない」


「でも、お前と出会うことはなかった」


「…うん」


アミは頷いた。


「私も、病気がなかったら、ずっと地味なOLのままだった」


「地方の実家と疎遠なまま、東京で一人で生きて」


「誰にも愛されず、誰も愛さず」


「…そうかもな」


リュウも頷いた。


「でも、今は」


アミが小さく笑った。


「リュウと一緒にいる」


「愛されてる気がする」


「…ああ」


リュウは静かに言った。


「俺も、だ」


風が吹いた。


優しい風。


二人の髪を撫でるように。


--- 


空が、少しずつ明るくなっていく。


夜明けが近い。


東の空が、オレンジ色に染まり始めている。


水面も、少しずつ色を変えていく。


暗い青から、淡い紫へ。


そして、オレンジへ。


「…綺麗だね」


アミが空を見上げた。


「ああ」


リュウも空を見た。


夜明けの空。


雲が、オレンジ色に染まっている。


美しい。


こんなに美しい朝日は、初めて見るかもしれない。


「…ねえ、リュウ」


「なんだ」


「怖い?」


リュウは少し考えた。


「いや」


リュウは答えた。


「お前は?」


「ううん」


アミは首を振った。


「もう、怖くない」


「…そうか」


二人は水面を見つめた。


釣り糸は、まだ動いていない。


魚は、かかっていない。


でも、それでいい。


こうして、リュウと一緒にいられるだけで。


それだけで、十分だった。


--- 


朝日が昇り始めた。


水平線から、太陽が姿を現す。


眩しい光。


オレンジ色の、温かい光。


水面が、朝日に照らされて煌めいている。


キラキラと。


美しく。


アミの深紅のドレスも、朝日に照らされて輝く。


オレンジの光を受けて。


より鮮やかな赤に。


まるで、炎のように。


生命のように。


「…凄いね」


アミが呟いた。


「こんなに綺麗な朝日、初めて見た」


リュウも頷いた。


「…ああ」


二人は朝日を見つめた。


それから、また水面を見た。


釣り糸は、まだ動いていない。


「…釣れないね」


アミが小さく言った。


「ああ」


リュウも答えた。


「でも、いいじゃないか」


リュウは続けた。


「こうしてるだけで」


アミは小さく笑った。


「…うん」


静かな時間。


波の音。


鳥の鳴き声。


アミが、ふと思い出したように言った。


「…ねえ、リュウ」


「なんだ」


「最初に出会った時のこと、覚えてる?」


「…ああ」


リュウは頷いた。


「クリニックの前で、ぶつかった」


「薬がバラバラになって」


「お前が『それ、欲しい』って叫んだ」


アミは小さく笑った。


「あの時、何も考えてなかった」


「ただ、欲しかった」


「生きたかった」


「…ああ」


リュウも頷いた。


「俺も、お前を見て分かった」


「同じ病気だって」


「同じ絶望を抱えてるって」


「だから、手を掴んだ」


アミは釣り糸を見つめた。


「あの時から、もう一週間」


「たった一週間だけど、すごく長い気がする」


「…ああ」


リュウも頷いた。


「一週間で、人生が変わった」


「いや、人生が終わる」


「でも、後悔はない」


アミは微笑んだ。


「私も」


遠くから、パトカーのサイレンが聞こえ始めた。


でも、二人は動じなかった。


ただ、釣り糸を見つめている。


静かに。


穏やかに。


「…もうすぐ、来るね」


アミが呟いた。


「ああ」


リュウも答えた。


「でも、もういい」


「ここまで来られたから」


「…うん」


アミは頷いた。


「ここまで、来られた」


--- 


時間が流れた。


太陽が少しずつ昇っていく。


空が、オレンジから青へと変わっていく。


美しい朝。


新しい一日の始まり。


でも、二人にとって、それは——


「…ありがとう」


アミが小さく言った。


「連れてきてくれて」


「…こっちこそ」


リュウも小さく言った。


「お前と出会えて、よかった」


アミの目に、涙が浮かんだ。


「私も」


アミは震える声で言った。


「リュウと一緒で、本当によかった」


「…ああ」


リュウも頷いた。


二人は釣り糸を見つめた。


まだ、魚はかかっていない。


でも、もういい。


ここまで来られただけで。


生きてこられただけで。


十分だった。


「…ねえ、リュウ」


アミが小さく言った。


「なんだ」


「…生きてるって」


アミの声が震えた。


「悪くなかったね…」


リュウは、少しの間、何も言わなかった。


ただ、アミを見つめた。


アミの横顔。


黄疸で黄色くなった肌。


痩せ細った頬。


でも、微笑んでいた。


穏やかに。


幸せそうに。


「…ああ」


リュウは静かに言った。


「悪くなかった」


その瞬間——


アミが、力なく倒れた。


釣り竿が手から滑り落ちる。


深紅のドレスが、コンクリートに広がる。


朝日に照らされて、鮮やかに。


「アミ…!」


リュウが駆け寄った。


アミの体を抱き起こす。


深紅のドレスが、リュウの腕の中で揺れる。


「アミ、おい…!」


でも、アミは答えなかった。


目を閉じている。


穏やかな表情で。


まるで、眠っているように。


深紅のドレスだけが、風に揺れている。


「アミ…」


リュウの声が震えた。


その時——


釣り竿が、大きくしなった。


リュウははっとして、釣り竿を見た。


糸が張り詰めている。


魚がかかった。


大きな魚が。


「アミ…」


リュウは震える声で言った。


「大きいのが釣れてるぞ…!」


アミは答えない。


ただ、静かに横たわっている。


リュウは釣り竿を掴んだ。


最後の力を込めて。


リールを巻く。


震える手で。


必死に。


糸が張り詰める。


水面が波立つ。


ゆっくりと、魚が姿を現した。


銀色に輝く、大きな魚。


朝日を浴びて、煌めいている。


美しく。


眩しく。


「っ…!」


リュウは最後の力で、魚を釣り上げた。


埠頭に、銀色の魚が跳ねた。


バタバタと。


生きている。


力強く。


「…釣れたぞ、アミ…」


リュウは涙声で言った。


「お前の願い、叶ったぞ…」


でも、アミは答えなかった。


リュウは魚を見つめた。


それから、アミを見た。


アミの穏やかな顔。


微笑んでいるように見えた。


「…そうだな」


リュウは小さく言った。


「生きてるって、悪くなかった」


その瞬間——


リュウの体に、激しい痛みが走った。


「っ…!」


視界が歪む。


体が崩れ落ちる。


リュウは、アミの隣に倒れ込んだ。


もたれかかるように。


二人、寄り添うように横たわる。


傍らで、銀色の魚が跳ねている。


朝日を浴びて、煌めきながら。


リュウの意識が、遠のいていく。


でも、痛みはもう感じない。


ただ、温かい。


アミの温もりが、隣にある。


それだけで、十分だった。


「…ああ」


リュウは小さく呟いた。


「悪く、なかった…」


それから、静寂が訪れた。


波の音。


鳥の鳴き声。


跳ねる魚の音。


そして、昇る朝日。


東京湾の埠頭に、二人の男女が寄り添うように横たわっている。


アミの深紅のドレスが、コンクリートに広がっている。


朝日に照らされて、炎のように赤く。


生命のように鮮やかに。


リュウの手が、アミの手に重なっている。


黒いタキシードと、深紅のドレス。


銀座で手に入れた、二人の衣装。


最後の瞬間、無意識に手を握り合ったのか。


それとも、倒れた時に偶然そうなったのか。


誰にも分からない。


でも、その手は。


確かに、繋がっていた。


確かに、温もりを共有していた。


その傍らで、銀色の魚が跳ねている。


生命の輝き。


生きることの証。


二人が、最後に掴んだもの。


アミの願いが、叶った瞬間。


父親と行けなかった、海での釣り。


それを、リュウと一緒に叶えた。


そして、魚が釣れた。


大きな、銀色の魚が。


それは、奇跡のようだった。


いや、奇跡だったのかもしれない。


二人の最後の願いを、天が叶えてくれたのかもしれない。


風が吹いた。


優しく。


穏やかに。


二人の髪を撫でるように。


まるで、「お疲れ様」と言っているように。


まるで、「よく頑張ったね」と言っているように。


水面が、キラキラと輝いている。


朝日を浴びて。


美しく。


永遠に。


二人の顔は、穏やかだった。


苦しんだ様子はない。


ただ、眠っているように。


いや——


微笑んでいるように見えた。


満足した表情。


幸せな表情。


最後まで、生き抜いた表情。


---

 


けたたましいブレーキ音が響いた。


埠頭に、数十台のパトカーが滑り込んでくる。


赤色灯が回転している。


サイレンが鳴り響く。


武装した警官隊が、車から飛び出した。


「動くな!」


「手を上げろ!」


叫び声。


銃を構える警官たち。


埠頭を包囲する。


でも——


目にしたのは。


寄り添うように倒れている、二人の男女。


黒いタキシードと、深紅のドレス。


朝日に照らされて、美しく。


その傍らで跳ねる、一匹の銀色の魚。


昇る朝日。


静かな波の音。


警官たちは、言葉を失った。


銃を下ろす。


ただ、立ち尽くす。


誰も、何も言わない。


ただ、その光景を見つめている。


深紅のドレスが、風に揺れている。


朝日が、二人を照らしている。


穏やかな表情。


まるで、眠っているように。


いや——


微笑んでいるように見えた。


まるで、舞踏会の後に眠りについた恋人たちのように。


一人の警官が、ゆっくりと二人に近づいた。


膝をついて、首に手を当てる。


脈を確認する。


そして、小さく首を振った。


「…もう」


警官は、それ以上言葉を続けられなかった。


ただ、静かに立ち上がった。


周りの警官たちも、何も言わなかった。


ただ、その場に立ち尽くしている。


傍らで、銀色の魚がまだ跳ねている。


弱々しく。


でも、まだ生きている。


一人の警官が、魚を拾い上げた。


「…海に返してやろう」


警官は、魚を水面に放した。


魚は、一瞬水面で跳ねた。


それから、水の中へ消えていった。


銀色の輝きを残して。


(物語 完)


お読み頂きありがとうございます。

既にお読みいただいている方の中には映画ノッキンオンヘブンズドアを強く意識オマージュしております。

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