第6章 デッドエンド
夜明け前、中央自動車道を走る車の中で、リュウは目を覚ました。
時計は午前五時を指している。
窓の外は、まだ暗い。だが、東の空が少しずつ明るくなり始めていた。
隣の座席で、アミも目を覚ました。
「…おはよう」
「おはよう」
二人の声は掠れていた。昨夜からほとんど眠れていない。
「薬の時間だ」
リュウは時計を見た。
「八時まで待つ」
アミは小さく頷いた。
車を停めて、仮眠を取っていた場所はサービスエリアの駐車場だった。周囲には数台のトラックが停まっている。
リュウはエンジンをかけた。
「もう少し走るぞ」
「…どこまで?」
「富士山の見える場所だ」
リュウは答えた。
車が動き出す。
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午前六時。
中央自動車道の富士山の見える区間に到着した。
リュウは路肩に車を停めた。
フロントガラスの向こうに、富士山が見えた。
夜明けの光に照らされた、雄大な姿。
朝日が山頂を染め始めている。
「…綺麗だね、富士山」
アミが小さく言った。
「ああ」
リュウも富士山を見つめた。
「…日本で最後に見る景色としては、悪くない」
アミは何も言わなかった。
ただ、富士山を見つめていた。
静かな時間が流れた。
「…民宿の子供、可愛かったね」
アミが呟いた。
「ああ」
「あんな風に、笑える子供がいるなら…世界も捨てたもんじゃないよね」
リュウは横目でアミを見た。
アミの横顔。
黄疸で黄色くなった肌。
痩せ細った頬。
でも、微笑んでいた。
「…いい思い出になったな」
リュウが言った。
「うん」
アミは頷いた。
「…ありがとう」
二人は富士山を眺めた。
日本一の山。
これが、最後かもしれない。
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午前七時。
リュウは車を発進させた。
カーラジオをつける。
『…連続クリニック強盗事件の続報です』
ニュースが流れた。
『警察は、容疑者の逃走経路が山梨方面であることを特定し、捜査を進めています』
リュウとアミは顔を見合わせた。
『また、奪われた金の大半が患者支援団体に匿名で寄付されていたことが判明しました』
『義賊的な犯行として、SNS上では賛否両論が巻き起こっています』
リュウは何も言わなかった。
義賊。
そんなものじゃない。
ただの犯罪者だ。
「…でも、報道では義賊って」
アミが小さく言った。
「そんなもんじゃない」
リュウは短く答えた。
「ただの犯罪者だ」
アミは黙った。
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午前八時。
リュウは再び車を停めた。
「薬を打つ」
リュウはスポーツバッグを開けた。
中には、最後の薬が二本入っていた。
リュウはアミの腕に注射を打った。
それから、自分の腕にも打つ。
最後の一本。
「…これで、終わりだ」
リュウが呟いた。
アミは小さく頷いた。
「…うん」
二人とも分かっている。
この後は、もう薬がない。
痛みが戻ってくる。
体力が急速に落ちる。
「行くぞ」
リュウは車を発進させた。
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午前十時。
高速道路を走行中、アミが突然激しく咳き込んだ。
「っ…!」
アミが口を押さえる。
その手に、赤い液体が付いた。
血だ。
「アミ!」
リュウは急ブレーキを踏んだ。
車が路肩に停まる。
リュウはアミに駆け寄った。
「深呼吸しろ」
リュウがアミの背中をさする。
アミは震えていた。
口から血が滴っている。
「…っ、ごめん…」
「謝るな」
リュウはタオルを取り出して、アミの口元を拭いた。
アミの顔色は悪い。
黄疸がさらに進行している。
リュウ自身も、同じように黄色い顔をしている。
薬が切れて、もう二日。
二人とも、満身創痍だった。
「…もう、限界だな」
リュウが呟いた。
「…うん」
アミも頷いた。
「でも…」
アミは震える手で、リュウを見た。
「まだ、行ける」
リュウは小さく笑った。
「…そうだな」
リュウも激しく咳き込んだ。
「…どっちにしろ、俺たちの行き先はデッドエンド(行き止まり)だ」
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その言葉を聞いて、アミはスマートフォンを取り出した。
画面を見つめる。
これまでの写真。
銀座のドレス姿。
遊園地のメリーゴーラウンド。
プリクラ。
民宿の子供と撮った写真。
そして、さっき撮った富士山の写真。
アミは画面に指を滑らせた。
SNSのアプリを開く。
「…アミ?」
リュウが気づいた。
「何してる」
「投稿する」
アミは小さく言った。
「位置がバレるぞ」
「分かってる」
アミは画面を見つめたまま言った。
「でも…生きた証を残したい」
リュウは何も言わなかった。
アミは写真を選び、文章を打ち込んだ。
『どうせ行き先はデッドエンドなら、最後まで生き抜いてやる。#トーキョー・デッドエンド・ラン』
それから、投稿ボタンを押した。
画面に「投稿しました」と表示される。
「…投稿した」
アミが呟いた。
リュウは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「…好きにしろ」
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投稿から十分後。
アミのスマートフォンが鳴り始めた。
通知が次々と来る。
いいね。
リツイート。
コメント。
「…すごい」
アミが画面を見た。
投稿が、爆発的に拡散している。
『これ、あの強盗犯?』
『めっちゃ幸せそう』
『泣ける』
『二人を助けてあげて』
『医療制度が悪い』
『犯罪者を美化するな』
『被害者もいる』
『逮捕されるべき』
『リアルタイムで追える逃亡劇』
『映画化決定』
『#デッドエンドラン』
賛否両論。
同情と批判。
そして、エンタメ化。
アミは画面を見つめた。
「…私、生きた証を残せた」
アミが小さく言った。
リュウは横目でアミを見た。
「…お前、本当に無茶するな」
リュウは呆れたように言ったが、どこか誇らしげだった。
アミは小さく笑った。
「リュウと一緒にいたから、できたんだよ」
リュウは何も言わなかった。
ただ、前を見た。
「行くぞ」
リュウは車を発進させた。
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午前十一時。
高速道路を走行中、バックミラーにパトカーが映った。
赤色灯が回っている。
「…来たか」
リュウが呟いた。
サイレンの音が近づいてくる。
「リュウ…」
「大丈夫だ。一台だけだ」
リュウはアクセルを踏み込んだ。
車が加速する。
パトカーが追いかけてくる。
だが、リュウは路地の出口を見つけた。
「つかまれ」
リュウが言った。
急ハンドル。
車が一般道の出口へ滑り込む。
パトカーがついてこようとするが、間に合わない。
リュウは小さな路地を抜けた。
バックミラーを見る。
パトカーは見えない。
「…振り切ったか」
リュウが呟いた。
アミは大きく息を吐いた。
「…よかった」
リュウは速度を落とした。
もう追跡されていない。
少なくとも、今は。
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一般道をゆっくりと走りながら、アミが言った。
「…リュウ」
「なんだ」
「最後に、どこに行きたい?」
リュウは少し考えた。
「…俺は、もういい」
リュウは答えた。
「お前は?」
アミは少し黙った。
それから、小さく言った。
「…海」
「海?」
「海で、釣りがしたい」
アミの声は震えていた。
「子供の頃、できなかったんだ。お父さんと、海で釣りする約束。でも、結局行けなくて」
「…そうか」
リュウは頷いた。
「分かった。連れて行ってやる」
アミは小さく笑った。
「…ありがとう」
リュウは前を見た。
「東京湾だ。埠頭を目指す」
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午後一時。
都内の一般道を走りながら、リュウはコンビニを見つけた。
「ちょっと待ってろ」
リュウは車を停めた。
「リュウ…どこへ?」
「釣り竿を買ってくる」
リュウは車を降りた。
コンビニに入る。
店内には、数人の客がいた。
リュウは釣り具売り場へ向かった。
安物の釣り竿。
千九百八十円。
リュウはそれを手に取り、レジへ向かった。
現金で支払う。
「ありがとうございました」
店員の声。
リュウは釣り竿を持って、車に戻った。
「釣り竿…買えた」
アミが助手席の釣り竿を見た。
「これで、釣れるかな」
「分からない」
リュウは答えた。
「でも、やってみよう」
車が発進する。
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午後三時。
湾岸エリアに入った。
東京湾が見える。
「もうすぐだ」
リュウが言った。
車は静かに走っている。
パトカーは見えない。
追跡されていない。
アミが激しく咳き込んだ。
「っ…」
「大丈夫か」
「…平気」
アミは震える声で答えた。
でも、顔色は悪い。
リュウ自身も、視界がぼやけ始めていた。
体力が限界に近い。
でも、まだ動ける。
もう少しだ。
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午後四時。
人目につかない埠頭を探しながら、車を走らせた。
スマートフォンの地図を見る。
「…ここだ」
リュウが指差した。
工業地帯の奥にある、小さな埠頭。
人気のない場所。
「ここなら、静かに過ごせる」
リュウは車を走らせた。
埠頭へ向かう道。
工場が立ち並ぶ。
誰もいない。
夕暮れ時。
空がオレンジ色に染まり始めている。
「…もうすぐ」
アミが呟いた。
「ああ」
リュウも答えた。
「もうすぐだ」
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午後五時。
埠頭に到着した。
リュウは車を停めた。
コンクリートの地面。
東京湾が目の前に広がっている。
水面が夕日に照らされて、オレンジ色に輝いている。
「…着いた」
リュウが言った。
アミは車から降りようとした。
だが、足に力が入らない。
「っ…」
「待て」
リュウが車を回り込んで、アミを支えた。
「歩けるか」
「…なんとか」
アミはリュウに支えられながら、車を降りた。
二人は埠頭の端へ向かった。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
もう、走れない。
歩くのもやっと。
でも、まだ動ける。
まだ、生きている。
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埠頭の端に座り込んだ。
リュウが釣り竿を組み立てる。
震える手で。
「…手伝う」
アミも手を伸ばした。
二人で釣り竿を組み立てる。
簡単な釣り竿。
エサもない。
釣れるかどうかも分からない。
でも、それでいい。
「…できた」
リュウが言った。
アミが釣り竿を受け取った。
震える手で、釣り糸を垂らす。
水面に、糸が沈んでいく。
静かな波の音。
鳥の鳴き声。
遠くに、船の汽笛が聞こえた。
「…綺麗だね」
アミが水面を見つめた。
「ああ」
リュウも水面を見た。
夕日が水面に反射して、キラキラと輝いている。
「…リュウと一緒に来られてよかった」
アミが小さく言った。
リュウは何も言わなかった。
ただ、アミの隣に座った。
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午後六時。
空が暗くなり始めた。
夕日が沈んでいく。
空がオレンジから紫へ、そして深い青へと変わっていく。
二人は釣り糸を見つめた。
魚は、まだかかっていない。
「…釣れないね」
アミが呟いた。
「ああ」
リュウも答えた。
「でも、いいよ」
アミは小さく笑った。
「こうしてるだけで、幸せだから」
リュウも小さく笑った。
「…そうだな」
静かな時間が流れた。
波の音。
風の音。
鳥の鳴き声。
二人だけの時間。
「…ねえ、リュウ」
アミが言った。
「なんだ」
「怖い?」
リュウは少し考えた。
「いや」
リュウは答えた。
「お前は?」
「ううん」
アミは首を振った。
「もう、怖くない」
「…そうか」
二人は水面を見つめた。
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夜が、完全に訪れた。
空には星が見え始めている。
満天の星空。
都心では見られない、美しい星。
「…星、綺麗だね」
アミが空を見上げた。
「ああ」
リュウも空を見上げた。
「綺麗だ」
二人は星空を見つめた。
それから、また水面を見た。
釣り糸を握って。
静かに。
「…ありがとう、リュウ」
アミが小さく言った。
「連れてきてくれて」
「…こっちこそ」
リュウも小さく言った。
「お前と一緒に来られて、よかった」
アミは小さく笑った。
「私も」
静かな波の音。
星明りが水面を照らしている。
二人は釣り糸を見つめた。
まだ、魚はかかっていない。
でも、それでいい。
こうして、リュウと一緒にいられるだけで。
それだけで、十分だった。
風が吹いた。
海の匂い。
潮の香り。
静かな夜。
二人だけの時間。
そして——
夜明けまで、まだ時間がある。
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