第3章 疾走する生
目が覚めると、車内は寒かった。
窓の外は薄暗い。まだ夜明け前だ。
私は後部座席で丸くなって寝ていた。身体が痛い。昨夜投与してもらった薬の効果で、激痛ではないけれど、鈍い痛みが身体の奥に残っている。
前の座席で、リュウも目を覚ましていた。
「…起きたか」
「はい」
私は身体を起こした。窓の外を見ると、東京の街がぼんやりと明るくなり始めている。
午前6時。
「顔を洗ってくる」
リュウが車を降りた。近くのコンビニに向かう。
私も後に続く。
コンビニのトイレで顔を洗うと、少しだけ目が覚めた。鏡を見る。黄疸で黄色がかった顔。痩せて頬がこけている。
でも、昨日よりは少しマシな気がした。
薬のおかげだ。
---
「朝食を買った」
リュウが戻ってきて、パンとコーヒーを渡してくれた。
車内で二人、黙々と食べる。
「今日は、やることがある」
リュウが言った。
「昨日奪った薬のうち、4本を患者支援団体に渡す」
「…患者支援団体」
「ああ。以前から連絡を取っている団体だ」
リュウはスマートフォンを取り出した。使い捨てのプリペイド携帯だ。
「駅のコインロッカーに預ける。場所だけ伝えて、取りに来てもらう」
「そんなことができるんですか」
「これまでもそうしてきた」
リュウは淡々と答えた。
「顔を合わせない。名前も名乗らない。ただ、薬を渡すだけだ」
私は頷いた。
4本の薬。392万円相当。
それを、見ず知らずの患者のために。
「…リュウは、やっぱりいい人ですね」
「違う」
リュウは首を振った。
「ただの犯罪者だ。罪滅ぼしにもならない」
「でも」
「もういい」
リュウは話を打ち切った。
「7時になったら連絡する。8時までに配達を済ませる」
「…はい」
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午前7時、リュウは患者支援団体の連絡先に電話をかけた。
「…ああ、俺だ。また預けたい」
短い会話。場所だけを伝える。
「新宿駅、南口のコインロッカー。414番だ」
リュウは電話を切った。
「行くぞ」
私たちは新宿駅へ向かった。朝の通勤ラッシュが始まる前の、静かな時間帯。
リュウはスポーツバッグから薬4本を取り出し、小さな紙袋に入れた。
「待ってろ」
リュウだけが車を降り、駅構内へ向かった。
私は車内で待つ。
10分ほどして、リュウが戻ってきた。
「終わった」
「…誰かが、取りに来るんですか」
「ああ。1時間以内に」
リュウは車を発進させた。
「これで、誰かが少しでも長く生きられる」
その声には、どこか満足感が滲んでいた。
私は窓の外を見た。
通勤客が駅に向かって歩いている。普通の朝。普通の生活。
私たちには、もう関係ない世界。
でも、リュウが預けた薬は、誰かの「普通の朝」を少しだけ延ばしてくれる。
---
午前8時ちょうど、リュウは車を路肩に停めた。
後部座席で、リュウが注射の準備を始める。
昨日と同じ手順。アンプルを開け、注射器に吸い上げる。
「腕を出せ」
私は腕をまくった。
針が刺さる。少し痛い。でも、もう慣れた。
薬液が体内に入っていく。
「はい、終わり」
リュウは脱脂綿で押さえてくれた。
それから、自分にも注射を打つ。
「今日も、生きるぞ」
リュウがそう言った。
昨日と同じ言葉。でも、今日はなぜか、心に響いた。
「…はい」
私は頷いた。
「今日も、生きます」
---
「今日は、贅沢をする」
リュウが運転しながら言った。
「贅沢…ですか」
「ああ。お前の『やりたいことリスト』にあっただろ。美味しいものを食べたい、綺麗な服を着たい」
私は頷いた。
昨夜、ノートに書いた願い。
「まず、服だ」
「服…」
「銀座に行く。高級ブランド店で、ドレスとタキシードを買う」
私は少し考えた。
それから、カバンから通帳を取り出した。
「…私のお金を、使います」
リュウは驚いたように私を見た。
「お前の金は使わせないと言っただろ」
「でも」
私は通帳を握りしめた。
「これは、私が自分で選びたいんです」
「…」
「今まで、地味な服しか買ってこなかった。でも、今日は違う」
私はリュウを見た。
「真っ赤なドレスを着てみたい。自分で選んで、自分のお金で買いたいんです」
リュウはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「…分かった」
---
銀座の中央通り。
朝の10時を過ぎたばかり。開店直後の、まだ静かな時間帯だ。
リュウは高級ブランド店の前に車を停めた。
「ここだ」
煌びやかなショーウインドウ。マネキンが着ているのは、深紅のドレスとタキシード。
値札は見えない。きっと、何百万円もするんだろう。
「…本当に、入っていいんですか」
「お前が決めたことだ」
リュウは言った。
「俺も一緒に行く」
私たちは車を降りた。
自動ドアが開くと、そこは別世界だった。
大理石の床、シャンデリア、優雅な音楽。
スタッフが近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
笑顔だけれど、どこか値踏みするような視線。
私の地味な服装を見て、少し表情が曇った。
「…何か、お探しですか?」
「ドレスを見たいんです」
私は言った。
「真っ赤な、ドレスを」
スタッフは少し驚いたようだったが、すぐにプロの笑顔を取り戻した。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
私たちは店の奥へ案内された。
そこには、深紅のドレスが飾られていた。
ノースリーブ、マーメイドライン。シルクの光沢が美しい。
「…これ」
私は思わず声を上げた。
「これ、着てみたいです」
「かしこまりました。サイズをお測りいたしますので、少々お待ちください」
スタッフが私のサイズを測り、試着室へ案内してくれた。
ドレスを着ると、鏡の中の自分が別人に見えた。
深紅が、黄疸で黄色がかった肌に映える。
痩せた身体も、このドレスを着ると、どこか美しく見えた。
「…これ」
私は鏡の前で、自分を見つめた。
「これがいい」
試着室を出ると、リュウが待っていた。
リュウは私を見て、言葉を失った。
「…どうですか?」
「…似合ってる」
リュウは小さく言った。
「すごく、似合ってる」
私の顔が熱くなった。
「ありがとうございます」
スタッフが近づいてきた。
「お客様、こちらのドレスは178万円でございます」
私は息を呑んだ。
約180万円。
貯金のほとんどだ。
でも。
「…これにします」
私は言った。
「それから、男性用のタキシードも」
「かしこまりました」
リュウのタキシードも選んだ。黒いタキシード、白いシャツ、蝶ネクタイ。
「こちらは52万円でございます」
「…分かりました」
私は通帳を差し出した。
「全部で、230万円です」
スタッフは一瞬、私の通帳を見て、それから笑顔で受け取った。
銀行で現金を引き出し、支払いを済ませた。
貯金200万円に、財布の中の現金を足して、やっと支払える金額だった。
「ありがとうございました」
大きな袋に入れられたドレスとタキシード。
私は袋を抱えて、店を出た。
リュウが隣を歩いている。
「…後悔してないか」
「してません」
私は即答した。
「今まで、こんな服買ったことなかった。でも、今日は違う」
私はリュウを見た。
「自分で選んで、自分で買った。だから、後悔してません」
リュウは小さく笑った。
「…そうか」
「これから、どうするんですか?」
「ホテルに行く」
リュウは言った。
「その服を着て、贅沢をする」
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湾岸エリアの高級ホテル「湾岸マリーナベイホテル」。
東京湾を望む、5つ星ホテルだ。
リュウは躊躇なくエントランスに車を乗りつけた。
「チェックインするぞ」
「え…でも、こんな高級ホテル…」
「金はある」
リュウはスポーツバッグから札束を取り出した。
「現金で払う。問題ない」
私たちはフロントへ向かった。
「いらっしゃいませ」
フロントスタッフが笑顔で迎えてくれた。
「スイートルームを一室。今日から一泊」
リュウが偽造身分証を差し出す。
スタッフは一瞬、私たちの顔色を見た。黄疸で黄色がかった顔。明らかに病人だ。
でも、何も言わなかった。
「かしこまりました。お支払いは?」
「現金で」
リュウは札束を数えて渡した。150万円。
スタッフは驚きを隠せない様子だったが、プロとして冷静に対応した。
「ありがとうございます。こちらがルームキーでございます」
「ありがとう」
私たちはエレベーターに乗った。
最上階の40階。
扉が開くと、そこは別世界だった。
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## 8
スイートルームは、広かった。
リビング、ベッドルーム、バスルーム。全てが豪華だ。
窓からは東京湾が一望できる。レインボーブリッジ、お台場の観覧車。
「…すごい」
私は思わず声を上げた。
「ここに、泊まれるんですか」
「ああ」
リュウは荷物を置いた。
「今日一日、ここで過ごす」
私は窓の外を見つめた。
こんな景色、見たことがない。
こんな部屋、泊まったことがない。
「…夢みたい」
「夢じゃない」
リュウは言った。
「現実だ。お前が生きている、今この瞬間の現実だ」
私は頷いた。
そうだ。これは夢じゃない。
私は今、生きている。
「ドレスに着替えなのか?」
リュウが袋を渡してくれた。
「…はい」
私はバスルームに入った。
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## 9
深紅のドレスを着ると、鏡の中の自分が別人に見えた。
ノースリーブ、マーメイドライン。身体のラインを美しく見せるデザイン。
黄疸で黄色がかった肌も、このドレスを着ると不思議と気にならなかった。
むしろ、深紅が映える。
髪を下ろして、少し整える。
鏡の前で、自分を見つめる。
「…綺麗だね、私」
初めて、そう思えた。
バスルームを出ると、リュウもタキシードに着替えていた。
黒いタキシード、白いシャツ。蝶ネクタイも完璧だ。
痩せ細った身体も、このタキシードを着ると、どこか優雅に見えた。
リュウは私を見て、言葉を失った。
「…」
「どう…ですか?」
私が聞くと、リュウは小さく頷いた。
「…似合ってる」
「本当?」
「ああ」
リュウは少し笑った。
「お前、綺麗だ」
私の顔が熱くなった。
「…リュウも、タキシード似合ってます」
「そうか」
リュウは照れたように視線を逸らした。
「…ルームサービスを頼むぞ」
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リュウはルームサービスのメニューを開いた。
「何でも好きなものを頼め」
「でも…」
「遠慮するな」
リュウは言った。
「どうせ、盗んだ金だ。使い切る」
私はメニューを見た。
フォアグラ、キャビア、オマール海老、和牛ステーキ、トリュフパスタ。
どれも、値段が書いていない。「時価」と書かれている。
きっと、とんでもなく高いんだろう。
「これ…全部、頼んでいいんですか」
「ああ」
リュウは頷いた。
「片っ端から頼め」
私は息を呑んだ。
「…じゃあ、これと、これと…」
「全部だ」
リュウが言った。
「メニューにあるもの、全部頼む」
「え…」
「俺が電話する」
リュウはルームサービスに電話をかけた。
「フレンチフルコースと、ディナーコース、それからワインリストにあるシャンパンとワインを全種類」
私は驚いて、リュウを見た。
「全種類って…」
リュウは電話を切った。
「30分で届く」
「…リュウ、本気ですか」
「本気だ」
リュウは窓の外を見た。
「どうせ、明日には死んでるかもしれない。今日を、全力で生きる」
私は胸が熱くなった。
そうだ。
今日を、全力で生きる。
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30分後、ルームサービスが届いた。
ワゴンが3台。スタッフが3人がかりで運んできた。
テーブルに並べられた料理の数々。
フォアグラのポワレ、キャビアのカナッペ、オマール海老のグリル、和牛のロースト、トリュフパスタ。
そして、シャンパンが何本も。
「…すごい」
私は圧倒された。
「召し上がれ」
スタッフが一礼して、部屋を出ていった。
リュウはシャンパンのボトルを開けた。
ポン、という音。
泡が溢れる。
「乾杯しよう」
リュウがグラスに注いでくれた。
「何に…乾杯するんですか」
「生きていることに」
リュウはグラスを掲げた。
「今日も、生きてる。それだけで十分だ」
「…はい」
私もグラスを掲げた。
「乾杯」
グラスが触れ合う、澄んだ音。
シャンパンを口に含むと、泡が弾けた。
「…美味しい」
人生で初めて飲む、本物のシャンパン。
ドンペリニヨン。
こんな贅沢、一生できないと思っていた。
でも、今、ここにある。
---
料理を食べながら、二人で会話をした。
「フォアグラ、初めて食べました」
「どうだ?」
「…美味しいです。でも、少し重いかも」
「そうか」
リュウも少しだけ食べた。でも、あまり食欲がないようだった。
私も、実はあまり食べられなかった。
食欲が湧かない。でも、味は分かる。
美味しい。本当に、美味しい。
「こんな生活、したことなかった」
私がぽつりと言うと、リュウも頷いた。
「俺もだ」
「リュウは、医者だったのに?」
「医者の給料なんて、たかが知れてる。こんな贅沢、できなかった」
リュウはシャンパンを飲んだ。
「特に、AGAクリニックの勤務医なんて、安月給だ」
「…そうなんですか」
「ああ。でも、まあいい」
リュウは窓の外を見た。
「今日は、こうして贅沢ができてる。それで十分だ」
私も窓の外を見た。
東京湾が、キラキラと輝いている。
「…ありがとうございます」
「何が?」
「こんな贅沢、させてくれて」
リュウは少し笑った。
「礼を言われることじゃない。盗んだ金だからな」
「でも…嬉しいです」
私は正直に言った。
「生まれて初めて、こんなに綺麗な服を着て、こんなに美味しいものを食べて」
リュウは何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んでいた。
---
午後、私たちはテラスに出た。
東京湾を一望できる、広いテラス。
リュウはシャンパンの新しいボトルを開けた。
「また飲むんですか?」
「せっかくだからな」
リュウはグラスに注いだ。
私たちはテラスの椅子に座り、景色を眺めた。
レインボーブリッジ。お台場の観覧車。遠くには東京タワーも見える。
「…綺麗ですね」
「ああ」
リュウもシャンパンを飲みながら、景色を眺めた。
「こういう景色、初めて見ました」
「俺もだ」
二人で黙って、景色を眺める。
風が吹いて、ドレスの裾が揺れた。
シャンパンを飲みながら、こうして景色を眺める。
夢みたいだ。
でも、夢じゃない。
これは現実。
私が、今、生きている現実。
「…リュウ」
「ん?」
「もし、病気じゃなかったら…私たち、どんな人生を送ってたんでしょうね」
リュウは少し考えた。
「…分からない」
「私は、きっと普通のOLのまま、誰かと結婚して、子供を産んで」
「…そうだな」
「リュウは?」
「俺は…医者を続けていたかもな。外科医として」
リュウは遠くを見つめた。
「でも、それも分からない。医療ミスで患者を死なせた時点で、俺の人生は狂った」
「…」
「がんがなくても、俺はもう医者には戻れなかった」
リュウは自嘲するように笑った。
「だから、病気のせいにするのは、間違ってる」
「でも」
「もういい」
リュウはシャンパンを飲み干した。
「過去を語っても、意味がない。今を生きるだけだ」
私は頷いた。
そうだ。
今を生きる。
それだけでいい。
---
夕方、ルームサービスでディナーコースが届いた。
和牛ステーキ、トリュフパスタ、そして赤ワイン。
ロマネ・コンティ。
一本、何百万円もするワインだ。
「…こんなの、飲んでいいんですか」
「飲む」
リュウはボトルを開けた。
深い赤色。香りが部屋中に広がる。
「…いい匂い」
「そうだな」
リュウはグラスに注いだ。
「飲んでみろ」
私は恐る恐る口をつけた。
「…」
言葉が出なかった。
美味しい、なんて言葉じゃ足りない。
「どうだ?」
「…すごく、美味しいです」
リュウも飲んだ。
「…ああ。これが、金持ちの飲むワインか」
二人で、ゆっくりとワインを味わった。
和牛ステーキも、トリュフパスタも、全て美味しかった。
でも、やっぱり全部は食べられなかった。
食欲がない。
薬の効果で痛みは軽減されているけれど、身体は確実に弱っている。
「…もう、食べられない」
「無理するな」
リュウも、ほとんど食べていなかった。
「少しでも食べられただけで、十分だ」
私は頷いた。
---
夜、リュウが部屋のバーカウンターでまたシャンパンを開けた。
「まだ飲むんですか?」
「最後まで楽しむ」
リュウはジャズの音楽を流した。
部屋に、柔らかい音楽が流れる。
私たちはソファに座り、シャンパンを飲んだ。
「…リュウは、音楽好きなんですか」
「嫌いじゃない」
リュウは目を閉じた。
「昔は、よく聴いてた」
「どんな曲を?」
「ジャズ、クラシック。手術中にも流してた」
「…そうなんですね」
私もシャンパンを飲んだ。
酔いが回ってきた。
「…ねえ、リュウ」
「ん?」
「私、こんなに幸せでいいのかな」
「どういう意味だ」
「だって、私たち犯罪者で、人から奪って、こうして贅沢してる」
私は言った。
「こんなの、間違ってる」
「…ああ、間違ってる」
リュウは頷いた。
「俺たちは間違ってる。でも」
リュウは私を見た。
「それでも、生きてる。それでいいじゃないか」
私は胸が熱くなった。
「…うん」
そうだ。
間違っていても、生きてる。
それでいい。
---
「ジャグジーに入ってこい」
リュウが言った。
「え…」
「せっかくだからな。全部使え」
私はバスルームに向かった。
大理石のバスルーム。広いジャグジーバス。
お湯を張って、泡風呂にした。
アロマオイルも入れる。
ラベンダーの香りが広がる。
服を脱いで、ゆっくりとお湯に浸かった。
「…気持ちいい」
泡に包まれて、身体が温まる。
痛みも、少しだけ和らぐ気がした。
こんな贅沢、一生できないと思っていた。
でも、今、ここにある。
私は目を閉じた。
このまま、時間が止まればいいのに。
---
ジャグジーから上がると、リュウがベッドで映画を見ていた。
ルームシアターで、古い映画を流している。
「何の映画ですか?」
「ローマの休日」
リュウは言った。
「見たことあるか?」
「ないです」
「じゃあ、一緒に見よう」
私はベッドに座った。
リュウの隣。
画面には、オードリー・ヘプバーンが映っている。
「…綺麗な人ですね」
「ああ」
リュウは頷いた。
「お前みたいだ」
「え…」
「ドレス姿が、似てる」
リュウは言った。
「お前も、綺麗だ」
私の顔が熱くなった。
「…ありがとうございます」
映画を見ながら、少しずつ眠くなってきた。
でも、まだ寝たくなかった。
この時間が、終わってほしくなかった。
---
深夜0時、リュウが言った。
「最上階のバーに行こう」
「え、今から?」
「ああ」
リュウはドレスとタキシードのまま、部屋を出た。
私も後に続く。
エレベーターで最上階へ。
扉が開くと、そこは小さなバーだった。
客は誰もいない。
バーテンダーが一人、静かにグラスを磨いている。
「いらっしゃいませ」
私たちはカウンターに座った。
「カクテルを二つ」
リュウが注文した。
バーテンダーが手際よくカクテルを作る。
グラスに注がれた、透明な液体。
「どうぞ」
私たちはカクテルを受け取った。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
東京タワー、スカイツリー、高層ビル群。
全てが、宝石のように輝いている。
「…綺麗」
「ああ」
リュウもカクテルを飲みながら、夜景を眺めた。
「こういう景色、もう見られないかもな」
「…」
「明日からは、また逃走だ。警察の包囲網も狭まる」
リュウは言った。
「いつ捕まるか、分からない」
私は夜景を見つめた。
「…明日も、こんな日が続けばいいのに」
「…ああ」
リュウは小さく頷いた。
でも、二人とも知っている。
それが叶わないことを。
私たちの行き先は、デッドエンド。
でも、今は。
今は、この景色を楽しもう。
---
## 19
バーを出て、部屋に戻った。
午前1時を過ぎている。
「シャワーを浴びてくる」
リュウがバスルームに入った。
私はベッドに座り、窓の外を見た。
東京湾の夜景。
今日一日、夢みたいな時間だった。
銀座でドレスを手に入れて、高級ホテルに泊まって、美味しいものを食べて、シャンパンを飲んで。
こんな贅沢、もうできないだろう。
でも、いい。
今日という日を、全力で生きた。
それで十分だ。
リュウがシャワーから上がってきた。
「寝るぞ」
「…はい」
私はドレスを脱いで、ホテルのバスローブに着替えた。
ベッドは二つ。それぞれ別のベッドだ。
私は一つのベッドに横になった。
リュウももう一つのベッドに横になる。
部屋の明かりを消すと、窓から入る夜景の光だけが部屋を照らした。
「…リュウ」
「ん?」
「今日、ありがとうございました」
「…礼を言われることじゃない」
「でも、すごく楽しかったです」
リュウは何も言わなかった。
ただ、静かに目を閉じていた。
私も目を閉じた。
明日からは、また逃走が始まる。
でも、今日という日は、忘れない。
一生、忘れない。
---
翌朝、午前7時に目が覚めた。
窓の外は、もう明るくなっている。
リュウも起きていた。
「ルームサービスで朝食を頼んだ」
「…ありがとうございます」
しばらくして、和食の朝食が届いた。
焼き魚、味噌汁、ご飯。
「…久しぶりに、和食です」
「そうだな」
二人で朝食を食べた。
食欲はあまりないけれど、少しだけ食べられた。
「薬を打つ」
午前8時、リュウが注射の準備を始めた。
私は腕をまくった。
針が刺さる。薬液が入る。
「今日も、生きるぞ」
「…はい」
リュウも自分に注射を打った。
朝食を終えると、リュウは部屋のテレビをつけた。
ニュースが流れている。
『一昨日発生した都内のクリニック連続強盗事件について、新たな情報が入りました』
私とリュウは、画面を見つめた。
『関係者によりますと、犯人は奪った金の一部を患者支援団体に匿名で寄付していた疑いがあることが分かりました』
画面には、クリニックの外観が映っている。
『これで都内の富裕層向けクリニックを狙った強盗事件は4件目となり、警視庁は広域で捜査を進めています』
ニュースが終わった。
リュウはテレビを消した。
「…包囲網が狭まってる」
「…はい」
私はリュウを見た。
「でも、報道では…義賊って」
「そんなもんじゃない」
リュウは首を振った。
「ただの犯罪者だ」
私は何も言わなかった。
「今日中に、ここを出よう」
「どこに行くんですか?」
「多摩地区だ」
リュウは言った。
「お前のリストにあった、遊園地に行く」
私は頷いた。
やりたいことリスト。
遊園地に行きたい。
「…ありがとうございます」
「礼はいい」
リュウは荷物をまとめ始めた。
「12時にチェックアウトだ。それまで、ゆっくりしよう」
私は窓の外を見た。
東京湾が、朝日に照らされて輝いている。
「…もう少し、ここにいたいね」
「…ああ」
リュウも窓の外を見た。
「でも、時間は待ってくれない」
私は頷いた。
そうだ。
時間は、待ってくれない。
でも、今この瞬間を、大切にしよう。
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