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第2章 共犯者


車が停まったのは、古びた立体駐車場の最上階だった。


夕闇が都内を覆い始めている。周囲を見渡しても、車は一台もない。廃ビルの一部らしいこの駐車場は、打ち捨てられたように静まり返っていた。


「ここで、話をする」


リュウがエンジンを切った。鍵を抜く音だけが、静寂を破った。


私は黙って頷いた。逃走が始まってから、もう一時間以上経っている。最初はパトカーのサイレンが近づいたり遠ざかったりしていたが、今はもう聞こえない。


窓の外には、東京の夕景が広がっていた。オレンジ色に染まるビル群。どこかで普通の生活が続いている。でも、私にはもう関係ない。


「降りろ」


リュウが先に車を降りた。私も後に続く。


足が震えた。


怖いのか。それとも、興奮しているのか。自分でも分からなかった。


リュウは車のトランクを開け、黒いスポーツバッグを取り出した。さっきクリニックから奪った、あのバッグだ。中には薬が入っている。あの、1日98万円の薬が。


「車の中で話す」


リュウが後部座席のドアを開けた。私も反対側から乗り込む。


ドアが閉まると、また静寂が戻った。


リュウはバッグを膝の上に置いたまま、じっと私を見つめた。


「…なんでついてきた」


その声には、怒りも非難も含まれていなかった。ただ純粋な疑問として、私に問いかけている。


「わかりません」


私は正直に答えた。


「でも…もう、帰る場所もないから」


「家はあるだろ」


「帰っても、意味がないんです」


私は自分の膝に目を落とした。


「どうせ、死ぬだけだから」


リュウは何も言わなかった。


長い沈黙。


やがて、リュウが小さく咳き込んだ。さっきクリニックの前でぶつかった時と同じ、激しい咳だ。


「…あなたも、同じ病気なんですよね」


私が言うと、リュウは頷いた。


「ああ。膵臓がん、ステージ4」


「私と…同じ」


「そうだ」


リュウはまた咳き込んだ。肩が震えている。痩せ細った身体。黄疸で黄色がかった顔色。


この人も、死を待っているんだ。


「あの薬…本当に効くんですか?」


「延命だ。完治はしない」


リュウは淡々と答えた。


「でも、痛みは軽減される。病状の進行も、少しは遅らせられる」


「それでも…少しでも長く生きられるなら」


「…ああ」


リュウは目を閉じた。


「俺も、そう思って奪った」


---


「これ…私の貯金、全部です」


私はカバンから通帳を取り出した。手が震えている。


「200万円あります。だから、薬を分けてください」


リュウは通帳を見て、それから私の顔を見た。


「…要らない」


「え?」


「お前の金は使わせない。これは俺の犯罪だ」


リュウは通帳を受け取らなかった。


「でも…」


「お前を巻き込むつもりはない」


「もう、十分巻き込まれてます」


私は必死に通帳を差し出した。


「お金、受け取ってください。そうじゃないと、私、ただの犯罪者の仲間じゃないですか」


「今更だろ」


リュウは冷たく言った。


「お前はもう、俺と一緒に逃げた。それだけで共犯だ」


「だったら!」


私は声を荒げた。


「だったら、せめてお金は受け取ってください。お願いします」


リュウは私をじっと見つめた。


その目は、疲れていた。諦めと、どこか優しさが混じった目。


「…分かった。でも、使わない」


リュウは通帳を受け取った。でもすぐに私のカバンの中に戻した。


「お前の金は、お前のものだ。それだけは譲らない」


「なんで…」


「これは俺の犯罪だ。お前の金で罪を重ねるつもりはない」


リュウはそう言って、バッグに手をかけた。


「薬は分けてやる。だが、金銭的にはお前は清潔なままでいろ」


私は何も言えなかった。


この人は、なんでそこまで。


---


その時、バッグが膝から滑り落ちた。


リュウが咳き込んだ拍子に、手を離してしまったのだ。


バッグが後部座席の床に落ちる。


ジッパーが開いていたのか、中身が散乱した。


札束。


何束も、何束も。


全部1万円札の束だ。


そして、クリニックのロゴが入った薬袋。中には注射剤が何本も入っている。足元には別の袋もあり、そちらにも同じ薬が入っているのが見えた。


そして——


黒い、拳銃。


私は息を呑んだ。


「…銃…」


リュウは黙って拳銃を拾い上げた。


「ああ」


「あなた…これを…」


「撃ったこともある」


リュウは拳銃を見つめたまま言った。


「人を狙ったことはないが、天井や壁に…威嚇のために」


私の手が震えた。


銃。


本物の銃。


リュウは、本当に強盗をしてきたんだ。この銃を持って、クリニックを襲って、薬を奪って。


「…怖いか」


リュウが私を見た。


「はい」


私は正直に答えた。


「でも…」


「でも?」


「あなたは、人を撃たなかったんですよね」


リュウは少し驚いたように目を見開いた。


「…ああ。撃たなかった」


「なんで?」


「医者だったからだ」


リュウは拳銃をバッグにしまった。


「人の命を救うのが仕事だった。奪うつもりはない」


「でも、強盗は…」


「金と薬を奪った。でも、命は奪っていない」


リュウはまた咳き込んだ。


「…それが、俺の最後の矜持だ」


---



リュウは散らばった札束を拾い集めた。


「全部で100万円くらいあるな」


「4件目の強盗で…」


「ああ」


リュウは札束をバッグに戻した。


「今日で4件目だ」


「なんで…そんなこと」


「話せば長い」


リュウは薬袋を手に取った。


「でも、お前には話しておくべきだろうな」


リュウは窓の外を見た。もう完全に日が暮れて、夜景が広がっている。


「俺は元々、外科医だった」


「外科医…」


「医者の家系でな。父は大学病院の名誉教授。俺も当然のように医者になった」


リュウの声は、どこか遠くを見ているようだった。


「30歳まで、メスを握っていた。患者を救うために」


「…何があったんですか」


「医療ミスだ」


リュウは淡々と答えた。


「ささいなミスだった。でも、患者は亡くなった。俺のせいで」


私は何も言えなかった。


「それから、メスを置いた。外科医をやめて、内科医に転向した。でも…うまくいかなかった」


「…」


「結局、AGA治療とED治療のクリニックに落ち着いた。笑えるだろ。救急医療の最前線にいた俺が、薄毛と勃起不全の治療だ」


リュウは自嘲するように笑った。


「そんな時に、がんが見つかった」


「…」


「膵臓がん、ステージ4。余命数ヶ月」


リュウは私を見た。


「医者として、どれだけ患者に『余命宣告』をしてきたか。でも、自分が言われる側になるとは思わなかった」


「それで…」


「ああ。未承認薬の存在は知っていた」


リュウは薬袋を握りしめた。


「1日98万円。1週間で約686万円。1ヶ月で約2,940万円」


「…」


「医者の給料でも、とても払えない。ましてやAGAクリニックの勤務医の給料なんて、たかが知れてる」


リュウは吐き捨てるように言った。


「金持ちだけが生き延びるシステム。貧乏人は、ただ死を待つだけ」


その声には、深い怒りが滲んでいた。


「それがおかしいと思わないか?」


「…おかしいです」


私は頷いた。


「だから、奪った」


リュウは言った。


「富裕層向けのクリニックから、薬を奪った。金も奪った。そして——」


リュウは札束の一部を取り出した。


「患者支援団体に、匿名で寄付した」


「…え?」


「奪った金の大半は、困窮している患者のために使った。薬も、ほとんど寄付した」


リュウは私を見た。


「自分のために使ったのは、ほんの一部だ」


「あなたは…いい人ですね…」


「そんな立派なもんじゃない」


リュウは首を振った。


「ただの犯罪者だ。でも、せめて奪った金で誰かが救われるなら、それでいい」


私は胸が熱くなった。


この人は、自分の命が残り少ないと知りながら、他人のために戦っている。


システムの不条理に、たった一人で立ち向かっている。


「…私も」


私は言った。


「私も、一緒に戦います」


リュウは驚いたように目を見開いた。


「お前…」


「通報なんてしません。私も、もう帰る場所はない。家族も、友達も…誰もいない」


私はリュウをまっすぐ見つめた。


「連れて行ってください。どうせ死ぬなら、後悔したくない」


リュウはしばらく黙っていた。


やがて、小さく頷いた。


「…覚悟はあるのか」


「あります」


「もう、後戻りはできないぞ」


「分かってます」


リュウは深く息を吐いた。


「…分かった。一緒に行こう」


---



リュウはバッグから薬を取り出した。


クリニックのロゴが入った薬袋。中には注射剤が整然と並んでいる。


「12本か……今日の分だけでこれか」


リュウは薬の本数を数えた。


「少ないな」


リュウは足元に置いていた別の袋も取り出した。同じ薬が入っている。


「これは…」


「以前の強盗で手に入れた分だ。合わせれば、俺たちが使う分は足りる」


私は息を呑んだ。この人は、何度も強盗を繰り返してきたんだ。


「…何本あるんですか?」


「全部で20本以上だ。1日1本、毎朝8時に投与する」


リュウは薬を整理し始めた。今日奪った12本と、以前の分を並べる。


「今日奪った12本のうち、8本は患者支援団体へ渡す。残りの4本と、以前の分を俺たちで使う」


「それで…何日分に?」


「お前が7回分、俺が5回分だ」


リュウは淡々と答えた。


「約1週間生きられる」


私は息を呑んだ。


たった1週間。


1週間しか、生きられない。


いや、違う。1週間、痛みを軽減して生きられる。その後は、また地獄の痛みが戻ってくる。


「でも、1週間あれば、やりたいことはできる」


リュウは言った。


「残りの8本は、明日、患者支援団体へ渡す」


「もっと奪えたら、もっと長く…」


「…どうせ行き先はデッドエンドだ。短く、濃密に生きればいい」


リュウは私を見た。


「それでいいか?」


私は頷いた。


「…わかりました」


7日。


たった7日。


でも、その7日を、私は自分のために使える。


今まで、ただ死を待っていた。でも、これからは違う。


4日間、生き抜く。


「注射を打つ。腕を出せ」


リュウは注射器を取り出した。


医師免許を持っているだけあって、手際がいい。アンプルを開け、注射器に薬液を吸い上げる。


私は腕をまくった。


「…痛いですか?」


「少しな」


リュウは私の腕を消毒した。アルコールの冷たさが肌に染みる。


「我慢しろ。すぐ終わる」


針が刺さった。


「っ…」


痛い。でも、我慢できる。


薬液が体内に入っていく感覚。


やがて、針が抜かれた。


「終わりだ」


リュウは脱脂綿で刺入部を押さえた。


「1時間くらいで効いてくる。痛みが軽減されるはずだ」


「…ありがとうございます」


リュウは自分にも注射を打った。自分で自分の腕に針を刺す姿は、どこか慣れたものだった。


「明日からは、毎朝8時に打つ」


リュウは言った。


「薬の効果は20〜22時間だ。だから、毎日同じ時間に打つ必要がある」


「…はい」


リュウは使用済みの注射器を袋に入れた。


「今日も、生きるぞ」


その言葉が、不思議と胸に響いた。


---


「腹が減った」


リュウが言った。もう夜の7時を過ぎている。


「コンビニに行ってくる。ここで待ってろ」


「一緒に行きます」


「顔を見られるな」


「…はい」


リュウは車を降りた。私は後部座席で待つ。


薬の効果が出始めたのか、さっきまであった鈍痛が少しずつ薄れていった。


楽になる。


こんなに楽になるなんて。


窓の外を見ると、東京の夜景が広がっている。どこかで誰かが、普通の生活を送っている。


でも、私にはもう関係ない。


私は、犯罪者の仲間になった。


10分ほどして、リュウが戻ってきた。コンビニの袋を抱えている。


「弁当と飲み物だ」


リュウは後部座席に戻り、袋を開けた。


「選べ」


幕の内弁当、唐揚げ弁当、おにぎり、サンドイッチ。


「…これ、全部買ってきたんですか」


「どれが好きか分からなかったからな」


私は幕の内弁当を手に取った。


「これで」


「そうか」


リュウは唐揚げ弁当を開けた。


二人で黙々と食べる。


不思議な時間だった。


犯罪者と、その共犯者。車の中で、コンビニ弁当を食べている。


でも、どこか平和だった。


「…美味しいです」


私がぽつりと言うと、リュウは少し笑った。


「そうか」


---


食事を終えると、リュウはカーナビのワンセグでニュースをつけた。


『…本日午後、都内港区のクリニックで強盗事件が発生しました』


アナウンサーの声が車内に響く。


『犯人は男性一人と見られ、現金約100万円と高額医薬品を奪って逃走しました』


画面には、さっきのクリニックの外観が映っている。


『これで都内の富裕層向けクリニックを狙った強盗事件は4件目となります』


『警視庁は、一連の事件は同一犯によるものと見て、捜査を進めています』


私とリュウは、黙ってニュースを見つめた。


『また、関係者によると、犯人は奪った金の一部を患者支援団体に匿名で寄付していたとの情報もあり——』


「義賊だと?」


リュウは鼻で笑った。


「そんな立派なもんじゃない」


でも、私には分かった。


この人は、本当に誰かを救おうとしている。


ニュースが終わると、リュウはテレビを消した。


「明日から、逃げる。覚悟はいいか」


「…はい」


「警察の包囲網は、徐々に狭まる。いつかは捕まるだろう」


リュウは私を見た。


「それまでに、やりたいことをやろう」


「やりたいこと…」


「リストを作ろう」


リュウはコンビニ袋から小さなノートとペンを取り出した。


「お前の、やりたいことを書け」


私はノートを受け取った。


やりたいこと。


今まで、そんなこと考えたこともなかった。


でも、今なら。


今なら、思いつく。


私はペンを走らせた。


『美味しいものを食べたい』

『綺麗な服を着たい』

『遊園地に行きたい』

『海で釣りをしたい』


子供じみた願いばかりだ。


でも、これが私の本音だった。


リュウはノートを覗き込んだ。


「…いいリストだ」


「本当ですか?」


「ああ。叶えてやる」


リュウは力強く頷いた。


「全部、叶えてやる」


---


夜も更けて、車内は静かになった。


リュウはシートを倒して、仮眠を取ろうとしている。


私も後部座席で横になった。


でも、眠れなかった。


興奮しているのか。それとも、恐怖しているのか。


私は窓の外を見上げた。


星空が広がっている。


都内でこんなに星が見えるなんて、珍しい。


ここは廃ビルの屋上駐車場で、周囲に明かりが少ないからだろう。


「…眠れないのか」


リュウの声がした。


「はい」


「俺もだ」


二人で黙って星を見上げた。


「…リュウさん」


「リュウでいい」


「…リュウ」


呼び捨てにするのは、少し躊躇した。でも、口にしてみると、不思議としっくりきた。


「明日から、本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫じゃない」


リュウは正直に答えた。


「でも、やるしかない」


「…そうですね」


「お前は、後悔してないか」


「してません」


私は即答した。


「今まで、ただ死を待ってるだけでした。でも、これからは違う。自分で生きる」


リュウは何も言わなかった。


やがて、小さく笑った。


「…そうか」


星空は、どこまでも広がっていた。


私たちの行き先は、デッドエンド。


それでも、今は。


今は、生きている。


それだけで、十分だった。


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