第1章 運命の交差
六月の朝。私は、いつものように痛みで目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、枕元の薬の瓶を照らしている。緩和ケア用の痛み止め。オピオイド系鎮痛剤。効果は薄れてきている気がする。それでも飲まないよりはマシだ。
ベッドから起き上がると、鈍い痛みが下腹部に広がった。膵臓がんステージ4。余命、数ヶ月。
診断を受けたのは二ヶ月前。それからの日々は、ただ時間が過ぎていくのを待つだけの毎日だった。会社は休職中。地方の実家には連絡していない。友達と呼べる人も、もういない。
洗面所の鏡を見る。目の白目部分が、少し黄色い。黄疸だ。肌もくすんでいる。痩せ細った顔。茶色に染めた髪も、手入れする気力がない。
「…ああ」
私の声が、狭いワンルームに虚しく響いた。
練馬のアパート。家賃7万円。地方から上京して3年。営業事務として働いてきた会社も、もう戻れない。貯金は200万円。でも、それで何ができるというのだろう。
コーヒーだけ淹れて、ソファに座る。食欲はない。最近は固形物を受け付けない。
スマートフォンを手に取った。何をするでもなく、SNSを眺める。他人の幸せそうな投稿が流れていく。結婚、出産、旅行。私とは無縁の世界。
ふと、検索窓に打ち込む。
「膵臓がん 未承認薬」
何度目かの検索。もう答えは知っている。でも、諦めきれない。
検索結果が表示される。いくつかの記事、医療サイト、患者のブログ。
そして——
「海外承認・国内未承認の膵臓がん新薬、都内クリニックで自費診療開始」
目が釘付けになった。記事を開く。
『進行性膵臓がんに対する新薬「ガンサプレスG4」が、海外で承認され効果を上げている。日本ではまだ未承認だが、都内の一部自費診療クリニックで投与が可能。延命効果が期待され、痛みの軽減にも有効とされる——』
記事を読み進める。そして、その価格を見た瞬間、スマホを落としそうになった。
『1日98万円(注射剤、1日1回投与)』
息が詰まった。
98万円。1日で。1週間なら約700万円。1ヶ月なら——計算する気も失せた。
「…無理だ」
呟いた声が、震えていた。
でも。
でも、もしかしたら。話だけでも聞いてみたら。
記事に載っていたクリニックの名前を確認する。「六本木プレミアムクリニック」。六本木ヒルズの近く。
時計を見る。午前9時。
外出する気力なんて、最近はなかった。でも、今日だけは。最後かもしれない。
私は立ち上がった。
---
電車に揺られて、六本木へ。
久しぶりの外出。人混みが、遠い世界のように感じられた。皆、生きている。当たり前のように歩いて、笑って、喋っている。
私だけが、取り残されている。
六本木の高級ビル街。ガラス張りのビルが林立している。その一つに、クリニックがあった。
エレベーターで12階へ。
ドアが開くと、そこは別世界だった。
真っ白な壁、大理石の床、天井からはシャンデリア。待合室には高級ソファが並び、壁にはアート作品が飾られている。受付のスタッフは、ブランドスーツに身を包んでいる。
BGMはクラシック音楽。
待合室には、数人の患者がいた。高級ブランドのバッグを持った女性。ビジネススーツの中年男性。皆、余裕がある雰囲気。
私は、場違いだった。
ベージュのオフィスカジュアル。ファストファッションの服。ボロボロのトートバッグ。
受付で名前を告げる。
「あの、未承認薬の説明を聞きたいんですが…」
スタッフは丁寧に微笑んだが、その目は私を値踏みしているようだった。
「少々お待ちください」
待つこと30分。診察室に呼ばれた。
医師は、50代くらいの落ち着いた男性だった。
「未承認薬についてのご相談ですね」
「はい…あの、膵臓がんで。ステージ4なんです」
私は、震える声で続けた。
「ネットで見ました。ガンサプレスG4。1日98万円の…」
医師は、静かに頷いた。
「ええ。海外では既に承認されている薬剤です。日本では未承認ですが、当クリニックでは自費診療として提供しています」
資料を広げる。薬剤の写真。効能。投与方法。
「あの…」
私は、必死に言葉を絞り出した。
「少しでも、安くなる方法は…ないですか?」
医師は、首を横に振った。
「申し訳ございませんが、価格交渉はできません。製薬会社から直接仕入れており、当クリニックの利益はほとんどありません」
「では…1回だけでも、効果はありますか?」
「1回だけでは、ほとんど効果は期待できません。継続投与が前提です」
医師の声は、淡々としていた。
「最低でも1週間、できれば1ヶ月以上の投与が推奨されます」
1週間で約700万円。1ヶ月なら約3,000万円。
「分割払いは…」
「現金一括払いのみです。クレジットカードもご利用いただけません」
医師は、私をじっと見た。
「お支払いは可能ですか?」
その言葉が、刃のように突き刺さった。
「…無理です」
声が震えた。
「私の貯金は、200万円しかありません。それでは…2日分にもならない」
医師は、表情を変えなかった。
「そうですか。残念ですが」
淡々と。
まるで、機械のように。
「では、現在の緩和ケアを継続されることをお勧めします。痛み止めの量を調整するなど、できることはあります」
できることは、ある。
でも、それは「生きる」ことじゃない。
ただ、「死を待つ」ことだ。
「…結構です」
私は立ち上がった。
「失礼します」
診察室を出る。受付で会釈して、エレベーターに乗る。
エレベーターのドアが開く。
その瞬間、一人の男が乗り込んできた。
黒いパーカー。無精髭。痩せた顔。
目つきが、鋭い。
すれ違いざま、男がこちらを一瞬見た。
私も、男を見た。
男の目の白目が、少し黄色い。
——同じだ。
この人も。
でも、男はすぐに目を逸らし、奥のボタンを押した。
私は何も言わず、エレベーターを降りた。
---
外に出ると、六月の暑さが肌に刺さった。
クリニックの前で、私は立ち止まった。
やっぱり、駄目だった。
割引も、分割払いも、何もない。
200万円。それで、たった2日分。
最後の希望が、消えた。
スマートフォンを取り出す。
画面には、何件もの未読メッセージ。会社からの連絡。どうでもいい。
連絡先を開く。
「お母さん」
最後に連絡したのは、いつだっただろう。
半年前? それとも、もっと前?
指が震えた。
でも、もう伝えるしかない。
LINEを開いて、打ち込む。
『膵臓がんでステージ4でした。手立てはありません。余命数ヶ月だそうです』
送信ボタンを押す。
既読がつく。
でも、返信は来ない。
何を返せばいいのか、わからないんだろう。
私も、わからない。
笑えてきた。
何のために、真面目に働いてきたんだろう。
何のために、貯金してきたんだろう。
金持ちだけが生き延びられる。
それが、この世界のルールなんだ。
スマホを握りしめたまま、私は呆然と立ち尽くした。
---
その時だった。
背後から、けたたましい叫び声が聞こえた。
「泥棒!」
振り返ると、クリニックの入口から、黒いパーカーを着た男が飛び出してきた。
あの男だ。
エレベーターで、すれ違った。
スタッフが追いかけている。「警察を!」
男は、こちらに向かって走ってきた。
そして——
ぶつかった。
「っ!」
私は地面に倒れた。男も、バランスを崩して膝をついた。
男の手から、何かが飛び散った。
薬だ。
地面に散らばるガンサプレスG4と書かれた小箱。クリニックのロゴが入った袋。
その瞬間、私の頭の中で何かが弾けた。
「それ、欲しい…!」
気づけば、叫んでいた。
男が顔を上げた。
あの時と同じ、鋭い目。
短髪、無精髭。痩せ細った顔。黄疸で黄色がかった肌。目の白目も、黄色い。
そして——激しく咳き込んだ。
「っ…!」
男は咳を堪えながら、私を見た。
「…何?」
「その薬…私も、欲しいんです」
男の目が、僅かに見開かれた。
「…お前も、か」
その言葉の意味を理解した瞬間、私の胸が震えた。
同じだ。
この人も、同じ病気だ。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
男は立ち上がり、散らばった薬を素早く拾い始めた。そして、私の腕を掴んだ。
「逃げるぞ」
「え、でも…」
「サイレンが聞こえる。ついてこい」
男の手は、冷たかった。でも、力強かった。
私は、抵抗しなかった。
「…はい」
男に引っ張られるまま、走り出した。
---
路地裏を抜け、人混みに紛れる。男は慣れた様子で、複雑な道を選んでいた。
息が切れる。体力がない。でも、男は私の腕を離さなかった。
「もう少しだ」
男の声が、低く響いた。
数分後、古びた駐車場にたどり着いた。
男は、黒いハイエースの前で立ち止まった。
「乗れ」
後部座席のドアが開く。私は、躊躇なく乗り込んだ。
男も運転席に乗り込み、エンジンをかける。
車は静かに動き出した。
窓の外を、パトカーが通り過ぎていく。でも、こちらには気づいていない。
しばらく走って、男は大きく息を吐いた。
「…撒いたな」
私は、後部座席で膝を抱えていた。心臓がまだ早鐘を打っている。
何をしているんだろう、私。
でも。
でも、もう戻れない。
男がバックミラー越しに、私を見た。
「…なんでついてきた」
「わかりません。でも…もう、帰る場所もないから」
男は何も言わなかった。ただ、ハンドルを握り続けた。
しばらく沈黙が続いた。
「あの薬…本当に効くんですか?」
男は、短く答えた。
「延命だ。完治はしない」
「それでも…少しでも長く生きられるなら」
「…ああ」
男は、また咳き込んだ。
私も、同じだった。鈍い痛みが、下腹部に広がっている。
車は、都内を走り続けた。どこへ向かっているのか、私にはわからなかった。
でも、不思議と怖くはなかった。
この人も、同じなんだ。
同じ病気で、同じように余命を宣告されて。
そして、同じように、藁にもすがる思いで、あの薬を求めた。
「…お前、名前は」
男が尋ねた。
「アミです」
「そうか」
男は、それ以上何も聞かなかった。
「あなたは?」
「…リュウ」
リュウ。
私は、その名前を心の中で繰り返した。
車は、夕暮れの都内を走り続けた。
行き先は、わからない。
でも、もう戻れない。
私の、新しい人生が始まった。
いや——残された人生が。
---
夜。
車は、廃ビルの駐車場に停まっていた。
後部座席で、私とリュウは向かい合っていた。
リュウのスポーツバッグには、札束と薬剤が詰まっていた。
「…あなたが、あの強盗犯…」
私は呟いた。
ニュースで見た。連続強盗事件。富裕層向けクリニックを狙った犯罪。
リュウは、否定しなかった。
「そうだ」
「…なんで」
リュウは、バッグから薬剤を一つ取り出した。
「俺も、同じ病気だ。膵臓がんステージ4。余命数ヶ月」
「…」
「この薬を買う金はない。だから、奪った」
リュウの声は、静かだった。怒りも、後悔も、そこにはなかった。
ただ、諦めがあった。
「金持ちだけが生き延びる。そんなシステムは、間違ってる」
リュウは、私を見た。
「お前も、そう思っただろ」
私は、頷いた。
「…はい」
リュウは、薬剤を私に差し出した。
「これを使え」
「え…」
「お前も、同じ病気だ。なら、分け合おう」
私の手が震えた。
「でも…」
「通報するならしろ。どうせ俺は長くもたない」
リュウの目には、何の恐れもなかった。
私は、薬剤を受け取った。
「通報なんてしない。私も、もう帰る場所はない」
リュウは、僅かに目を細めた。
「…そうか」
その瞬間、私たちは共犯者になった。
私の中で、何かが弾ける音がした。
今まで、ルールを守って生きてきた。真面目に働いて、税金を納めて、法律を守って。それが当たり前だと思っていた。
でも。
その「当たり前」は、私を救ってくれなかった。
余命数ヶ月。お金がないから、薬も買えない。ただ、死を待つだけ。
それが、私の「真面目に生きてきた」結果だった。
だったら。
だったら、もう何を失うことがある?
犯罪者になる? 警察に追われる? 逮捕される?
どうせ、もうすぐ死ぬのに。
「連れて行ってください」
私は、震える声で言った。
「どうせ死ぬなら、後悔したくない」
リュウは、長い沈黙の後、頷いた。
「…覚悟はあるのか」
覚悟。
そんな立派なものじゃない。
ただ、もう諦めたくないだけ。
生きたい。少しでも長く。たとえそれが、犯罪に手を染めることになっても。
「あります」
私は、まっすぐにリュウを見た。
もう、後戻りはできない。
でも、それでいい。
リュウは、静かに頷いた。
「…分かった」
リュウは、薬剤の準備を始めた。
「注射を打つ。腕を出せ」
私は、震える手で袖をまくった。
リュウは、慣れた手つきで注射器を準備した。アルコール消毒、バイアルから薬液を吸い上げ、空気を抜く。
「…痛いですか?」
「少しな」
「…お願いします」
リュウは、私の腕に針を刺した。
「っ…」
「我慢しろ。すぐ終わる」
薬液が、体内に流れ込んでいく。冷たい感覚。
数秒後、針が抜かれた。
「…終わりだ」
リュウは、自分にも注射を打った。淡々と、機械的に。
そして、私に言った。
「明日から、逃げる。覚悟はいいか」
私は、頷いた。
「…はい」
リュウは、車の窓から外を見た。
「どうせ俺たちの行き先は、デッドエンドだ」
その言葉が、夜の闇に溶けていった。
私は、自分の腕を見た。注射の跡。
これで、少し長く生きられる。
でも、どれだけ長く生きても、行き先は同じ。
デッドエンド。
それでも。
それでも、私は、この人と一緒に逃げることを選んだ。
もう、戻れない。
でも、後悔はしていない。
窓の外には、東京の夜景が広がっていた。
無数の光。
その中に、私たちの居場所は、もうない。
でも、それでいい。
私の、最後の旅が始まった。
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