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第41話『桜小路さんの想い』

第41話『桜小路さんの想い』


 朝の空気はひんやりとしていた。

 信吾はマンションを出る前から、すでに大きなあくびをひとつしていた。


(眠い……。昨日、結局はしゃぎすぎて帰ったの深夜だったもんな……)


 ゴンちゃんを連れて夜のピクニックなんて無茶をしたせいで、今も身体は重い。けれど、心の奥はどこか澄みきっていた。赤荻さん達から告げられた“二週間”という期限。それを知った夜、美沙と一緒に泣いて、そして笑った。だからこそ、今は前を向ける気がしていた。


 マンションのエントランスを出たところで、見慣れた姿に気づく。


「赤荻さん……?」


 重厚な雰囲気を漂わせた赤荻さんが立っていた。作業着のまま、朝日を背にして待っていたかのようだ。


「山之内、昨日はいろいろ悪かったな」


 低く落ち着いた声が響く。


 信吾は一瞬驚きつつも、すぐに軽く会釈した。

「おはようございます。……いいんです。なんとか吹っ切れました。今はゴンちゃんのために、何をしてあげられるかを美沙さんと考えてますから」


 赤荻さんの顔に、わずかな安堵が浮かぶ。

「そうか……」

 その言葉には、しみじみとした響きがあった。


 そして赤荻さんは少し間を置き、声を低めて続けた。

「桜小路に昨日のことを話した。彼女から、お前達に謝罪したいそうだ」


「えっ……」

 信吾は思わず目を見開いた。驚きと、ほんの少しの戸惑い。

(桜小路さんから……謝罪?)


 だが次の瞬間、胸の奥から素直な言葉がこぼれ出る。

「そうなんですね。……ぼくもお会いしたいと思ってました。いろいろとお世話になったのは事実ですし。それに、ゴンちゃんもルネに会いたいと思いますし」


「そうか」

 赤荻さんは頷く。

「俺から桜小路には連絡しておく。ただ、旅立ちの義まで時間がない。出来るだけ早い方がいいだろう?」


「はい。そうですね。……美沙さんにも伝えて、早くお会いできるようにします」


 小さなやり取りではあったが、信吾の胸はどこか温かくなっていた。



---


 二日後。

 信吾と美沙、そしてゴンちゃんは桜小路さんの家を訪れていた。白壁に蔦の絡まる洋風の家は、やはり絵本から抜け出したように美しい。庭先ではすでにルネが待っていて、ゴンちゃんはルネを見つけると小さな翼を広げて駆け寄った。


「キュルッ!」

「ぐるるる!」


 互いに声を弾ませ、顔を擦り合わせる二人。その姿は本当に仲睦まじく、見ているだけで自然に笑みがこぼれる。


「……やっぱり、この子達は特別ね」

 柔らかな声がして、桜小路さんが姿を現した。どこか気恥ずかしそうな、それでいて真剣な表情をしていた。


「信吾君、美沙さん……。それからゴンちゃん。今日は来てくれてありがとう」


「こちらこそ……」

 信吾が頭を下げると、桜小路さんは深く息を吐き、真っ直ぐに彼を見た。


「まずは謝らせてほしいの。あの公園であなた達と出会ったのは……偶然じゃなかったの。本当は、私から赤荻さんに頼んで、あなた達に会えるように調整したの」


 信吾と美沙は一瞬顔を見合わせた。

「……なんで、そんなことを?」と信吾は戸惑いを隠せない。


 桜小路さんは頷き、静かに続けた。

「えぇ……。あなた達が本当にゴンちゃんと一緒に居るべきなのか、確かめたかったの」


 信吾は少し困ったように目を伏せる。

「そうだったんですね……」


「ごめんなさい。あの時から嘘をついていたのが、ずっと心に引っかかっていて」

 桜小路さんの声には、はっきりとした後悔が滲んでいた。


 だが信吾は首を横に振る。

「いいんです。……本当に助けてもらいましたし。それに、嘘っていうより“守るため”だったんですよね?」


 桜小路さんの瞳が驚きに揺れ、やがて小さく笑った。

「……ありがとう。そう言ってくれると救われるわ」



---


 三人は庭の奥にある白いベンチへ移り、遊ぶゴンちゃんとルネを眺めながら腰を下ろした。秋の始まりを告げる風がやわらかく流れ込み、赤や黄色に色づき始めた葉がさらさらと揺れている。


 信吾が口を開いた。

「あの……桜小路さん。どうして赤荻さん達に協力しているんですか?」


 桜小路さんは少し驚いたように信吾を見て、それから視線を遠くへ投げた。

「実は……母が動物愛護の活動にとても熱心だったの。傷ついた動物を保護したり、保護施設に寄付したり、子どもたちに命の大切さを伝える教室を開いたり。桜小路家の力もあって活動は決して小さくなかった。でも、当時の私はその価値を全く理解できなかったの」


 信吾と美沙は黙って耳を傾ける。


「仕事に夢中で、母のしていることを“自己満足”くらいにしか思えなくてね。だから距離を置いてしまった。でも……母は病気で亡くなった後、母を知る人たちから、どれほど一生懸命で、どれほど多くの命を救ってきたかを聞かされたの。私は自分がどれほど愚かだったかを思い知ったのよ」


 桜小路さんの声には悲しみと誇りが同居していた。

「だから、せめて残された自分にできることをしようと思ったの。赤荻さん達に協力しているのは、母の意思をほんの少しでも継ぎたいから。……母が遺した思いに、ようやく寄り添えるようになったの」


 信吾は胸の奥で強く頷いた。

(やっぱり……桜小路さんも“家族”に導かれてここにいるんだ。ぼくたちと同じなんだ)



---


 やがて話題は「旅立ち」へと移った。


「……信吾君。ゴンちゃんの旅立ちのこと、聞いたでしょう?」


「はい……。赤荻さんには“大丈夫です”って言ったんですけど、でも、正直まだ整理がついてません」


 桜小路さんは温かい声で言った。

「旅立つことは、決して悪いことじゃないの。ゴンちゃんは空に帰って、初めてその本当の役割を果たせるのだから。……あなた達と過ごした時間は、この子にとってかけがえのない宝物になっているわ。だから安心して送り出してあげて」


 美沙が唇を噛み、俯いた。

 だがやがて顔を上げ、静かに頷いた。

「……そうですね。悲しいけど、ゴンちゃんのためになれるなら、それが一番です」


 信吾も胸の奥に少しずつ納得が広がっていくのを感じた。



---


 帰り際、白い門の前で桜小路さんはふと立ち止まり、二人に言葉を残した。


「別れは確かに痛いもの。でも、同じくらいに新しい出会いを呼ぶものでもあるの。だから恐れないで。あなた達ならきっと大丈夫だから」


 その言葉は、信吾と美沙の胸に温かく染み込んでいった。


 車へ向かうまでの帰り道。ゴンちゃんがとことこと歩く姿を見ながら、美沙がぽつりと呟く。


「ねぇ信吾……桜小路さんの話聞いたら、私もお母さんに会いたくなっちゃった。……今、何してるんだろうね」


 信吾は少しだけ驚いたように美沙を見て、それから微笑んだ。

「ぼくもそう思ってた。……今度、父さんに聞いてみようか」


 並んで歩く二人の背を、夕陽が優しく照らしていた。


――残された時間は短い。

だが、その時間の中で彼らは確かに成長していた。

別れを恐れるだけではなく、受け止め、歩き出そうとする力を少しずつ身につけながら。


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