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聖女製造マニュアル  作者: みみみみみ
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第三工程:正常な飼育環境の構築

アナスタシアによる辺境の最適化は、まさに「無双」と呼ぶにふさわしい速度で実行される。彼女がインストールした「現代知識」は、魔法という名のチートコードのように機能する。


農業の正常化(ノーマライゼーション):輪作、鉄製農具、水路。これらの導入により、不毛の地は短期間で、食料を安定供給(インフラ化)できる正常な土地へと変貌する。飢餓というエラー状態が日常であった住民たちは、初めて「満腹」という正常な生体感覚を経験する。


産業の正常化:製鉄技術の改良により、良質な鋼が安定供給される。これにより、農具や武具の性能が向上し、領地は経済的自立と軍事的安定という、正常な国家の条件を満たしていく。


生活環境の正常化:上下水道、石鹸、公衆浴場。これらにより、疫病というバグの発生率が劇的に低下し、住民の生命維持率が向上する。「清潔」という正常な状態が、初めて住民の日常にインストールされる。


経済の正常化:複式簿記、信用創造、独自通貨。これらにより、領内に安定した市場という交換システムが創設される。住民たちは、日々の生存だけでなく、「富の蓄積」という未来への正常な期待を持つことができるようになる。


これらの「功績」を、私はブラウンという名のデバッガーを通して、冷ややかに分析した。


「見て、理奈。この一連の正常化プロセスは、単なる『救済』や『統治』の物語ではないわ。これは、フーコーが、そしてブラウンが記述してきた『生権力』と『統治性(ガヴァメンタリティ)』の、完璧なチュートリアルよ」


「詳しく聞かせてもらえる?」


「アナスタシアは、住民たちを『より良く生かす』ために、彼らの生活のあらゆるパラメータに介入していく。公衆衛生で死亡率を管理し、農業生産性を高めて飢餓というエラーをなくす。これは、個々の生命をリソースとして管理し、人口全体の生産性を最大化しようとする『生権力』の実行そのものよ。彼女は、住民たちを慈悲の対象として見ているのではなく、管理・最適化すべき『人口(ポピュレーション)』という名のデータベースとして捉えている。作中で彼女が人口調査を行い、年齢構成や識字率といったパラメータを把握するシーンがあるでしょう?あれはまさに、統治という名のシステム管理の第一歩よ」


作中では、住民たちがアナスタシアを「聖女様」と呼び、感謝という名のデータを送信し続けるシーンが繰り返される。しかし、私はその裏にある制御構造を見逃さなかった。


「彼女がやっていることは、近代国家が行ってきた統治技術の、ファンタジー世界における再実装(リビルド)に他ならない。彼女は、住民に『良き生』を与えているように見える。でも、その『良き生』とは、あくまで『生産性の高い、健康で、管理しやすい労働力としての生』でしかない。住民たちは、自由になったようで、その実、アナスタシアという名の、より効率的で、より包括的なネットワークの中に組み込まれていくだけなのよ。彼女が設立した学校が教えるのは、読み書き計算と、システムへの忠誠心だけ。システムを疑うような、バグの温床となる批判的精神は、そこでは徹底的に除去される」


「つまり、封建的な王の気まぐれな手動操作から、より近代的で、予測可能で、しかし、より深く浸透する自動管理システムへと移行しただけだと?」


「そういうこと。そして、この新しい管理の形態こそが『新自由主義的統治性』よ。アナスタシアは、命令や暴力といった直接的なコマンドで住民を制御しない。彼女は、住民が『自発的に』彼女の望む動作をとるように、環境そのものを設計(デザイン)する。健康でいたければ、水道を使い、公衆浴場に入れ。豊かになりたければ、新しい農法を学び、彼女が作った市場で取引しろ。すべては『自己利益』と『自己責任』の論理で動いている。彼女は、住民一人ひとりを、自分自身の人生という名のプロジェクトの『起業家』になるよう、巧みに誘導しているの。従わない者は罰せられるのではなく、ただ市場競争という名のフィルタリングから脱落し、貧しくなるだけ。暴力が見えないからこそ、この制御はより強力なのよ」


この物語の「無双」は、主人公の個人的な英雄譚ではない。それは、旧来の主権的権力に代わって、すべてを経済的合理性の下に最適化していく、新しい統治システムがいかに効率的で「魅力的」であるかを説く、一種のデモンストレーションなのだ。


「…あなたの言うことは、論理的には理解できるわ、楓」理奈は、しばらく黙って私の分析を聞いていたが、やがて静かに口を開いた。「でも、あなたはやはり、物語の『質感』を無視している。読者は、フーコー的な権力分析の設計図を読みたくて、このテキストファイルを読み込んでいるわけじゃない」


「では、何のために?」


「『情動』のためよ。バーラントの言葉を借りるなら、アナスタシアが構築しているのは、統治のシステムである以前に、『情動のインフラストラクチャー』なの」


理奈は、私とは全く異なるレイヤーから、アナスタシアの「無双」を捉え直した。


「考えてみて。アナスタシアがもたらすものは、単なる生産性の向上や衛生環境の改善だけではないわ。それらがもたらす『感覚』、それが重要よ。飢えの恐怖からの解放。病の苦しみからの解放。貧しさという絶望からの解放。これらはすべて、人々に『安堵』や『希望』や『感謝』といった、極めて強いポジティブな生体信号を発生させる。明日、エネルギーを摂取できるという確信。自分の複製(こども)が、エラーで停止しないかもしれないという期待。これらの感覚は、理屈を超えて、人々の身体というハードウェアに直接作用する」


「それはシステムへの忠誠心を生成するための、報酬(リワード)でしょう?」


「そう単純じゃないわ」理奈は首を振った。「バーラントなら、こう言うでしょう。現代のシステムにおいて、私たちが属する共同体や公共という名のネットワークは、もはや私たちにそのようなポジティブな信号を与えてはくれない、と。政治は不信の対象だし、経済は不安の発生源よ。私たちは、公的なものから『良い感覚』を得る経験を、ほとんど失ってしまった。管理者が何かをしても、私たちの生活が正常化したという実感は得られない。むしろ、また何かを奪われるのではないかというエラー警告ばかりが鳴り響く」


彼女の指摘は、的を射ていた。


「この物語は、その失われた経験を、ファンタジーの形で再提供しているのよ。アナスタシアという一人の特異点(カリスマ)が作り出す共同体は、接続すればするほど『良い気分』になれる場所として設計される。労働というエネルギーを消費すれば、豊かな収穫という報酬が得られる。清潔を保てば、健康という正常状態が維持される。そこには、現実のシステムのような理不尽なバグや裏切りがない。入力と出力が、幸福という情動に直結する、完璧な『情動のインフラ』が整備されているの。これは、バーラントが言う『政治(ジュクスタ)()傍ら(ポリティカル)』な領域よ。人々は、直接的な政治活動ではなく、このような文化データの消費を通じて、つかの間の『正常な公共』を体験するの」


「つまり、読者はアナスタシアの統治を、その効率性ではなく、それがもたらす『気分の良さ』という生体反応によって肯定している、と?」


「そういうこと。アナスタシアの『無双』は、読者にとって、壊れてしまった現実の社会システムに代わる、理想的な『公共』のシミュレーターなのよ。そこでは、自分の接続場所があり、処理が報われ、未来に希望が持てる。この物語を読むという行為は、一時的にその『インフラ』に接続し、現実世界で枯渇したポジティブな情動という名のエネルギーをチャージするための、栄養剤のようなものなの」


理奈の分析は、私の心をざわつかせた。ブラウンの理論が、権力の非人間的なメカニズムを暴き出すとすれば、バーラントの理論は、その権力になぜ生命体が惹きつけられてしまうのか、その生化学的なメカニズムを解き明かす。


アナスタシアの築いた「楽園」は、効率的な管理社会のモデルルームか。それとも、損傷した現代人のための、情動のテーマパークか。


「でも、理奈」私は反論を試みた。「その『情動のインフラ』は、結局のところ、人々を現実の政治というメインシステムから遠ざける、麻薬のようなものではないの? 気持ちの良いシミュレーションに浸ることで、現実のシステムを改修しようという意志を削いでいるとしたら、それこそが最も悪質な制御じゃないかしら」


「もちろんよ」理奈は、待ってましたとばかりに頷いた。「だからこそ、それは『残酷なオプティミズム』なの。そのインフラは、私たちを生かし続けると同時に、私たちを『インパス』というデッドロックに縛り付け続ける。それは、良き生への希望を供給しながら、決して本当の解決には到達させない、甘美な罠。この物語の『無双』が正常であればあるほど、読者が読み終えた後に感じる現実の異常さとのギャップは、より深く、より絶望的なものになるはずよ。物語の中の完璧な因果律と、現実の理不尽なバグとの落差に、人々は静かに打ちのめされるの」


私たちは、再び沈黙した。アナスタシアの輝かしい成功譚の裏に、二つの異なる、しかし等しく暗い現代社会の真実が横たわっている。一つは、すべてを経済的価値に還元し、人間を管理可能な資源へと変える、新自由主義的理性の冷たい光。もう一つは、もはや失われた「良き生」の幻影を追い求め、自らを傷つける希望にすがりつくしかない、人々の痛々しいまでの情動の彷徨。


そして、この二つの真実が最も先鋭的に交錯する場所こそが、アナスタシアの周りに形成される、異種の(オス)たちによる「逆ハーレム」という名の生殖ユニットだった。



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