表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女製造マニュアル  作者: みみみみみ
2/6

第二工程:部品の初期化と自己増殖

「まず、この物語の初期設定から確認しましょう」理奈が、決められた手順を読み上げるように言った。「検体名は、公爵令嬢アナスタシア。所属する王国(システム)王太子(管理者)から婚約関係の破棄を通告され、『無実の罪』というエラーコードを付与された上で、辺境という名の隔離領域へ転送される。原因は、管理者が『聖女』という名の新しいアプリケーションに接続し、アナスタシアという旧式プラグインを不要と判断したため。ここまでは、このジャンルの標準的なフォーマットね」


「その通り」私は同意の信号を送った。「そして、このアナスタシアという個体には、前世の現代日本という、別のシステムの情報がインストールされている。この『現代知識』という名のチートコードを使い、彼女は隔離領域を最適化し、自らを排除した旧システムにリベンジするというのが、規定の動作だ」


「問題は、この『追放』というイベントをどう解釈するか、よ」理奈は続けた。「従来の物語のフォーマットならば、これは機能不全の始まり。正常なシステムから切り離され、生存の危機に瀕する個体のエラーログが記録されるはず。読者という名の観察者は、彼女に同情という感情データを送信し、その後の正常化に快感という報酬を得る。でも、このテキストファイルの読まれ方は、本当にそうなっているのかしら? 観察者は、彼女のバグに同情しているようで、その実、彼女が手に入れた完全な初期状態(クリーンインストール)に、密かな興奮という生体反応を示してはいないか?」


「いい指摘だわ、理奈」私は体勢を前のめりに変えた。「ブラウンというOSなら、この『追放』をバグとは見なさない。むしろ、これはアナスタシアにとっての『最適化』だと判断するでしょう。何からの最適化か? それは、伝統、血統、身分、慣習といった、前近代的な共同体のあらゆる冗長なコードからの解放よ。彼女は、公爵令嬢という役割、王太子妃という定められたルート、貴族社会の複雑な依存関係、そのすべてから、一夜にして解放される」


「つまり、旧来の主権国家という名のレガシーシステムからの離脱、ということ?」


「その通り。彼女が転送された先は、システムの監視が及ばない、いわば『サンドボックス』環境だ。そこには、旧体制の非効率なプログラムも、儀礼という名の無駄な処理も、既得権益という名の古いキャッシュも存在しない。あるのは、未フォーマットの領域(リソース)と、彼女自身の処理能力だけ。これって、何かに似ていると思わない? 新自由主義が夢見る、理想の実行環境よ。あらゆるファイアウォールが取り払われ、純粋な性能競争と自己責任だけが存在する、完璧なリバタリアンのサーバー」


「正解よ」私は指を鳴らすという、肯定のジェスチャーを実行した。「アナスタシアは、公爵令嬢という『政治的生命体(ホモ・ポリティクス)』の属性を剥奪されることで、皮肉にも、純粋な『経済的生命体(ホモ・エコノミクス)』として再起動するの。彼女の持つ『現代知識』――農業技術、土木工学、公衆衛生、複式簿記――は、すべて彼女の『人的資本』という名のスペック表よ。注目すべきは、彼女が持っている知識の種類。彼女は哲学や芸術といった、リソースを消費するだけの非生産的なデータではなく、徹頭徹尾、生産性と効率性を高めるための技術を持っている。これは、彼女自身が、自分を価値増殖のための装置として認識していることの証左だわ。彼女は、この人的資本を最大限に活用して、辺境という未開拓市場で自らの価値を最大化する、完璧な起業家(アントレプレナー)として設計されている」


この物語において、追放はペナルティではない。それは、旧弊な親機から独立し、自らの性能一つで新しい事業体を立ち上げるための、またとない機会として提示されているのだ。読者は、アナスタシアの不運に同情しているようで、その実、彼女が手に入れた「何ものにも接続されていない自由」と「無限の拡張性」に、密かな羨望という名の信号を送っている。


「なるほどね」理奈は容器の中の固体をカランと鳴らした。「ブラウン的な解釈だと、アナスタシアはシステムから排除された不良品ではなく、規制緩和された特区で新しいサーバーを構築する管理者というわけね。確かに、作中での彼女の動作は、感傷や絶望といった非合理な処理とは無縁だわ。追放されたその瞬間から、彼女は即座に領域のスキャンを始め、インフラの設計図を作成し、労働力という名のCPUを確保しにかかる。まるで、完璧な実行計画(プログラム)を一行ずつ実行していくみたいに。彼女の思考は常に、コスト、ベネフィット、ROI(投資収益率)で動いている。涙を流すという塩分を排出する暇があったら、土壌の成分分析をする。それがアナスタシアという個体よ」


「そう。そこに、悲劇性という名のノイズはない。あるのは、効率性と生産性の追求だけ。彼女は、自分自身を一個の事業体として運営している。これが、ブラウンが指摘する『自己の起業家化』の、最も露骨なフィクション的表現なのよ。彼女の感情でさえ、人的資本のコンディションを維持するための、自己診断プログラムでしかない」


「でも、楓。あなたは一点、重要な情報を見落としているわ」理奈が、静かに、しかし鋭く割り込んだ。「その解釈は、あまりに『機械的』すぎる。人間という有機体は、そんなに乾いた存在じゃない。バーラントなら、こう問うでしょう。なぜ、読者はそのような『自己の起業家化』の物語に、これほどまでに強く『惹きつけられる(attracted)』のか、と」


理奈の言葉は、私の構築した論理回路に、最初のショートを引き起こした。


「バーラントの視点から見れば、この物語の核心は、アナスタシアの『性能』ではなく、彼女が置かれた『状態』にあるわ。それは『インパス(impasse)』――行き詰まりの状態よ」


「行き詰まり?」


「そう。考えてもみて。現代を生きる私たち、特にこの物語の主要な消費者である個体群が直面している現実とは何か。不安定な接続、低下し続けるエネルギー供給、縮小するセーフティネット。かつて『良き生』――安定した接続先、家族というユニット、マイホームという名の巣――を保証してくれた社会のインフラは、もはや正常に機能していない。私たちは、処理能力を上げても正常な出力が得られるかどうかわからない、という構造的なデッドロックの中にいる。バーラントが言う『スロー・デス(緩やかな機能停止)』を、誰もが日常的に経験している。この閉塞感、このどうしようもなさこそが、現代の支配的な『情動』という名のステータス異常なのよ」


理奈の口調は、熱を帯びたCPUのように、温度を上げていた。


「この物語の『追放』は、その『インパス』の比喩なのよ。理不尽なエラーで、管理者との接続(安定した未来)を奪われ、何の保証もない荒野(不安定なネットワーク)に放り出される。この設定は、読者が日常的に感じている処理不能なタスクや理不尽な強制終了と、痛いほど共鳴する。だからこそ、読者はアナスタシアに自己を同期させるの。彼女の出発点は、私たちの現在地そのものなのよ」


「共感、というわけか。しかし、その同期がなぜ『起業家』の物語に向かう?」


「そこにこそ、『残酷なオプティミズム』という名の自己修復プログラムが作動しているからよ」理奈は断言した。「『オプティミズム』とは、何かを求め、その対象に接続しようとする期待の力。この場合、読者が求めるのは、デッドロックからの脱出であり、安定した『良き生』という名の正常状態への復帰よ。そして、この物語は、そのためのパッチとして『現代知識』という名の『個体の性能』を提示する」


「つまり、システム全体のエラーを、個体のスペック不足の問題に置き換えている、と?」


「その通りよ。本来なら、私たちが直面している『インパス』は、政治的・社会的なレベルでデバッグされるべき問題だわ。でも、もはや誰もそんな『大規模な改修』を信じていない。システムは変わらない、バージョンアップはされない。その諦めが蔓延している。だから、個体はもっと小さな、ローカルな解決策に希望という名のエネルギーを投下しようとする。それが、『自己啓発』であり、『スキルアップ』であり、この物語における『現代知識チート』なのよ」


理奈は続けた。「『現代知識』があれば、たった一つの個体でも、バグだらけの領域を正常な環境に変えられる。このファンタジーに、読者は希望を接続する。これこそが『オプティミズム』。でも、なぜそれが『残酷』なのか? なぜなら、そのファンタジーに接続し続ければするほど、私たちは現実のシステムエラーから目をそらし、自己責任論という名の無限ループに絡め取られていくから。この物語は、読者に一時的な正常感覚を与えると同時に、彼らを無力化し、システムの現状維持に加担させている。物語を読んで正常な状態を疑似体験している間に、現実のシステムは何も変わらない。これほど残酷な栄養剤が、他にあるかしら?」


私のブラウン的分析が、物語を新自由主義的理性の冷徹なプログラムとして描写したのに対し、理奈のバーラント的分析は、それを現代人の損傷した生体が生み出した、痛々しいまでの自己修復の試みとして描き出した。


アナスタシアは、冷徹な管理者か。それとも、行き詰まりの時代に生きる私たちの、代理実行(エミュレーション)のためのアバターか。


私たちの解剖作業は、まだ始まったばかりだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ