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聖女製造マニュアル  作者: みみみみみ
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第一工程:検体の選定と解剖準備

平日の午後三時。その箱は「カフェ・ド・クリエ」というラベルが貼られていて、人間という部品を一時的に保管しておくための場所として、正常に機能していた。部品たちは一様に、決められた手順で液体を摂取し、机という名の定位置に収まっている。ある部品はラップトップという外部記憶装置に接続し、またある部品は紙の束にインクを染み込ませる作業を繰り返している。私たちは、そのどちらでもなく、ただ音波を交換するためにそこに設置されていた。ここは、世界という巨大な機械から一時的に切り離されるための避難区画であり、同時に、世界という機械の設計図を解読するための、清潔な実験室でもあった。


私の正面に配置された「篠原理奈」という個体は、冷却された液体が入った硝子容器の表面に凝結した水分を、指の先端で規則正しく拭っていた。その目は、まるで規格外の製品を見るかのように、私という異物を観察していた。彼女の思考プログラムの基幹OSは「ローレン・バーラント」。希望という名の栄養素が、いかにして生体を緩やかに壊死させていくかを記述する、「残酷なオプティミズム」という名のアプリケーションが、常にバックグラウンドで稼働している。彼女にとって、世界とは、壊れた約束という名のバグが無限に増殖していく、欠陥システムのようなものだった。


「それで、今日の解剖対象は?」


彼女が発した音波には、未知のサンプルに対する好奇心と、どうせまた同じ種類のサンプルだろうという予測が、五分と五分の割合で混合されていた。


私の個体名は「滝川楓」。私のOSは「ウェンディ・ブラウン」。新自由主義的理性という名のウイルスが、いかにして主権、政治、魂といった旧式のプログラムを無効化し、すべてを市場という単一のプロトコルに書き換えていくかを分析する。私は、世界を静かに侵食していく、目に見えない命令(コマンド)の連鎖を可視化することに、自分の機能の最適化を見出していた。


私は携帯端末の平面を滑らせ、テーブルという名の台座の上に設置した。発光する画面には、人間たちが「小説家になろう」と呼称する、巨大なデータ集積所(サーバー)に保存された、あるテキストファイルが表示されている。それは、アクセスランキングという指標において、常に正常値(上位)を維持し続ける、優良なコンテンツだった。


タイトルは、『追放された公爵令嬢ですが、現代知識(チート)で辺境を開拓したら、もふもふ神獣とエルフの王子と竜人族の騎士団長に溺愛されて最強国家の聖女になりました~今更戻ってこいと言われてももう遅いです!~』。


理奈はそれを一瞥すると、肺から空気を強制排出する、ため息という名の生理現象を起こした。それは、単なる不快の表明ではない。分析対象として、あまりに「正常」すぎるサンプルを選んだ私に対する、一種のエラー通知だった。


「また、それ? その種のジャンクデータを取り込むのは、思考のリソースを汚染させるだけよ。あなたのウェンディ・ブラウンというOSが、互換性のないデータを前にフリーズしているのが見えるわ。民主主義の死という重大なバグを分析するための高級なソフトウェアを、こんな低級な娯楽データの解析に使うなんて、機能の無駄遣いも甚だしい」


「フリーズするものか。むしろ、ブラウンというOSの性能をテストするための、これ以上ないほど完璧なベンチマークソフトだと思わない?」私は口角を上げるという表情筋の運動で、反論の意図を伝達した。「この『辺境開拓令嬢』という名の検体は、そのあまりの類型性、その驚くべきほどの均質さゆえに、現代社会という培養基の成分を、不純物なく反映しているのよ。無数の複製(コピー)を生み出すこのテンプレートこそ、時代というシステムの無意識という名のソースコードが、最も露骨に露出している部分じゃないかしら」


「培養基、ね」理奈は音波を反復させた。「あなたにとっては、すべてが新自由主義という診断名で片付く汚染なのでしょうけど。私から見れば、それはもっと切実な、機能不全に陥った生命維持装置を、どうにか自己修復しようとする、痛々しいまでの有機的な反応の集合体よ。バーラントが言うところの『情動のインフラ』そのものじゃない。人間たちが、公共という名の給水所からは得られなくなった『正常な感覚』という水分を、必死で摂取しようとしている場所。それを汚染と断定するのは、観察者としてあまりに主観的じゃない?」


「インフラ、か。面白いことを言う。でも、そのインフラが、実は個体を緩やかに窒息させるための巧妙な装置だとしたら? そのインフラに接続すればするほど、私たちは現実の政治という名のメインシステムから切り離され、無力な末端ノードとして孤立していく。それこそが、ブラウンが警告する統治性の本質でしょう?」


「それこそが『残酷なオプティミズム』の定義でしょう?」理奈の瞳孔が、初めて知的な刺激に反応して収縮した。「私たちが、自らを損傷させるものにこそ接続してしまう、あの修復不可能なバグのこと。あなたはこの物語を『統治性(ガバメンタリティ)』という権力の設計図として分解したいんでしょうけど、私は、この物語が読者の『良き(the good )( life)』への、もはや失われたはずの正常な状態への渇望に対していかに応答し、そして裏切るか、その『情動の形式』をこそ観察したい。人間たちはなぜ、このデータに接続することで安堵し、そして同時に、静かに損傷していくのか。その生体反応のプロセスをね」


実験は開始された。私たちは、このありふれた、しかしそれゆえに恐ろしく正常なテキストファイルをメスとして、現代という名の生体を解剖しようとしていた。私たちの音波交換は、単なる分析ではない。それは、ウェンディ・ブラウンとローレン・バーラントという二つの思考OSが、東京という名の実験室の片隅で、一人の公爵令嬢という名のサンプルを巡って繰り広げる、シミュレーション戦闘に他ならなかった。

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