「第2の人生は犬小屋で」
駅前のロータリーで、学はまた一人、スーツ姿の男が携帯電話を握りしめ、まるで何かに追われているかのように早足で通り過ぎるのを眺めていた。60歳をとうに過ぎた彼の瞳は、その男の背中に、数年前の自分を重ねるように細められた。記憶力だけは、なぜか冴え渡っていた。この数年、彼が生きる意味を見出している唯一の行為が、他人の人生を観察すること、つまり「人間ウォッチング」だった。
学にとって、人間ウォッチングは単なる暇つぶしではなかった。それは、彼がかつて失った「人間」としての居場所、そして自分の存在意義を確かめる、唯一の手段だった。彼の頭の中には、通り過ぎる人々の顔、服装、声のトーン、癖、そして彼らが発する言葉の断片が、まるで高精細な映像のように保存されていた。時には、数年前に見た全く知らない通行人の、ほんの些細な仕草まで思い出せる。そんな並外れた記憶力は、彼がホームレスになって以来、なぜかますます研ぎ澄まされていった。
しかし、記憶が鮮明であればあるほど、彼自身の現実との乖離は大きくなるばかりだった。夜は公園のベンチの下や、人通りの少ないガード下の奥で眠る。飢えと寒さ、そしていつ襲われるか分からない恐怖が常に隣り合わせだった。そんな環境の中、彼が「人間」として保てているものといえば、この記憶力と、そして「まだ生きている」という、ぼんやりとした実感だけだった。
マジシャン明子との出会い
その日も、学はいつものように公園の片隅で、通りを往来する人々の表情を読み取っていた。彼の目は、無意識に何かを探していたのかもしれない。すると、彼の視界の端に、どこか鮮やかな色彩を纏った人影が映った。歳の頃は二十代後半か、三十代前半だろうか。彼女は公園の一角、人通りの少ない場所で、突然、路上に敷かれた鮮やかな布の上で奇妙な動作を始めた。
その女性は、路上マジシャンだった。くたびれたシルクハットと、派手なスパンコールのベスト。彼女の手からコインが消え、花が現れ、そして再び消える。見る者を惹きつける、しかしどこか所在なさげな動き。学は直感した。彼女の表情には、芸人としての活気とは裏腹に、拭いきれない疲れと諦めが混じっていた。時折、遠くを見つめる瞳は、まるでその深淵に、何かをしまい込んでいるかのようだった。彼女のマジックは、見る者を幻惑するが、その眼差しは、巧みに隠された心の揺らぎを、学の観察眼に見せていた。
観客はまばらで、子供たちが数人、面白半分に覗き込む程度だった。それでも彼女は、まるで大舞台に立っているかのように、巧みに指先を動かし、声は出さずに、しかし身振り手振りで物語を紡いでいた。マジックが終わると、彼女は帽子を差し出すが、そこに投げ入れられるのは、ごくわずかな小銭だけだった。彼女はそれを拾い上げると、寂しげに、しかし誰にともなく会釈し、さっと片付けてしまう。その背中からは、足元に根を下ろすことを拒むかのような、漠然とした気配が漂っていた。
数日後、学がいつものベンチに座っていると、再びその女性が現れた。彼女はマジック道具の入ったリュックの他に、小さなプラスチック容器に入ったドッグフードを抱えていた。不思議に思い見ていると、彼女は公園の奥へと進み、そこに佇む小さな犬小屋の前にしゃがみ込んだ。その犬小屋は、昔からそこに放置されている、錆びたブリキ製のボロボロなものだった。
女性は犬小屋に向かって、優しく語りかけながらドッグフードを置いた。そして、中から姿を現したのは、毛並みの乱れた老犬だった。老犬はゆっくりと餌を食べ始め、女性はそれをじっと見守っていた。その横顔には、さっきまであった寂しさが少し薄れているように見えた。
学は、この女性がただの犬好きではないことを直感した。彼女は、この老犬と、そしてその朽ちかけた犬小屋に、まるで自分自身の何かを重ねているようだった。次の瞬間、女性が立ち上がり、老犬の頭を撫でながら、ぼそりとつぶやいた。
「これで、あなたはもう一人じゃないわね」
その言葉は、まるで学自身の心に直接語りかけられたかのようだった。彼は、彼女の言葉の裏に、深い孤独と、誰かとの繋がりを求める切実な願いがあることを感じ取った。彼女は、老犬に自分の姿を見ていたのかもしれない。そして、そんな彼女に、学は言いようのない親近感を覚えていた。彼女こそが、後に彼自身の「第2の人生」を始めるきっかけとなる、明子だった。
衝撃的な一言と、動き出す会話
学は、明子のマジックを何度か見かけるうちに、彼女が特定の時間、特定の場所で、誰にも見られず、同じ動きで、ある小さな仕草を繰り返していることに気づいていた。それは、マジックの失敗でも、道具の確認でもない。まるで、何かを失った人が、無意識に触れてしまう、自分だけの秘密の傷跡のような仕草だった。
ある日の夕暮れ、マジックを終えた明子が、寂しげに道具を片付け、公園を後にしようとしたその時だった。学は、いつものベンチからゆっくりと立ち上がり、彼女の背中に向かって、静かに、しかしはっきりと声をかけた。
「そのタネ、俺は知っているぞ。」
明子の足が、ぴたりと止まった。彼女はゆっくりと振り返り、汚れたコートを着た老人を、訝しげに見つめた。警戒心と、わずかな驚きが、その瞳に宿っていた。
「……何の、ことですか?」
明子の声は、舞台上のマジシャンとしてのそれとは違い、ごく普通で、しかしどこか固かった。
学は一歩、明子に近づいた。彼の視線は、彼女の顔ではなく、手元に、あるいは彼女の心の中に向けられているかのようだった。
「お前が今、仕舞い込んだ、あの赤いハンカチ。本当は、消えてなどいない。いつも右のポケットの奥に、そっと握りしめている。なぜなら、そのハンカチは、お前にとって一番大切な、だけどもう手の届かない、あの頃の、お守りだからな。」
学の言葉に、明子の顔から血の気が引いた。彼女は自分がマジックの際に、観客には見えないよう、無意識に繰り返していた小さな癖を、この見知らぬ老人が正確に言い当てたことに衝撃を受けていた。赤いハンカチ。それは、彼女の亡くなった祖父が、昔初めて見せてくれたマジックで使っていたものだった。誰にも話したことのない、自分だけの秘密だった。
「あんた……一体、何者?」
明子の声は震えていた。それは恐怖でもあったが、同時に、今まで誰にも見抜かれなかった自分の内側を、この老人が覗き込んだことへの、奇妙な興味も含まれていた。
学は、明子の動揺を冷静に観察しながら、しかしどこか哀れむような眼差しで言った。
「俺は、お前と同じだ。UFOに乗った、宇宙人のようさ、お前もおそらく……」
その言葉は、まるで明子の心を直接掴んだかのようだった。彼女が長年抱え込んできた、どこに行く当てもない気持ちを、この老人は一瞬で見抜いた。マジシャンとして、常に他者を欺き、自分の感情を隠してきた明子にとって、これほど赤裸々に、そして正確に内面を言い当てられたのは初めての経験だった。警戒心が、好奇心へと変わる。
「……じゃあ、あんたは、その記憶力で、一体何がしたいの?」
明子の問いに、学は少しだけ微笑んだ。その表情は、彼の能天気な性格を垣間見せるかのようでありながら、深い諦念をも含んでいた。
「さあな。だが、お前のマジックは、見せかけの中に、少しだけ本物が見える。それを見るのは、なかなか面白い。」
その一言が、二人の奇妙な関係性の始まりを告げていた。
明子の動機:絶対的な「所有」と孤独
明子が学を犬に変える動機は、彼女自身の深い孤独と、その孤独が生み出した歪んだ「愛」の形にあった。路上マジシャンとして人前で演じながらも、誰にも心を見せず、誰にも本心から理解されない日々。祖父との唯一の繋がりを失って以来、彼女は自分の心を覆い隠し、表面的な繋がりしか持たなかった。
そんな明子の目に、学の存在は異質に映った。彼はホームレスでありながら、常人の及ばぬ記憶力と洞察力で、彼女の最も深い秘密――赤いハンカチの象徴する喪失と、決して癒えない心の傷――を見抜いた。まるで彼女の魂を剥き出しにされたような感覚は、恐怖であると同時に、初めて自分の内側を正確に見てくれた相手への、抗いがたい渇望を生んだ。
「この男なら、私が誰にも見せられない部分を、ありのまま受け止められるかもしれない」という微かな希望。だが、それ以上に強かったのは、「この男を、もう二度と離したくない」「誰にも渡したくない」という、純粋で、しかしあまりにも絶対的な「所有」の欲望だった。
彼女は知っていた。人間としての学は、いつか彼女の元を離れるかもしれない。彼の記憶力は、やがって彼女の全てを見通し、幻滅するかもしれない。だが、もし彼が「犬」になれば? 自分の手で全てを管理し、愛情を注ぎ、決して裏切られることのない、真に「自分のもの」にできる。彼女にとってそれは、愛の成就であり、孤独からの解放だった。去勢という行為は、その絶対的な所有欲の象徴であり、「浮気させない」という言葉の裏には、彼女自身の脆く傷つきやすい心が隠されていた。
彼女のマジックは、元来、人々を魅了し、欺くためのものだった。だが、いつしか彼女は、その「見せかけ」の技の奥に、太古から伝わるような、現実を変容させる力の片鱗を感じ取っていた。それは、祖父が遺した古文書に記されていた、忘れ去られた「秘術」めいた知識だったのかもしれない。明子は、その力を使い、学を「自分だけの、永遠の存在」に変えようと決意したのだ。それは、愛の形をした「呪い」だった。
呪いの変身の儀式
公園の奥、錆びついたブリキの犬小屋の前に、学は立ち尽くしていた。真夜中を過ぎ、厚い雲が月を覆い隠し、周囲は深い闇に沈んでいる。風が遠くで唸り、不気味な静寂がその場を支配していた。
明子は、いつもの派手なスパンコールのベストではなく、黒いローブのようなものを羽織っていた。その表情は、路上で見せる寂しさとも、奇妙な興味とも異なり、蝋人形のように無表情で、しかしその瞳の奥には狂気じみた陶酔の輝きが宿っていた。
彼女は、古びた布を地面に敷き、その上に奇妙な道具を並べ始めた。白く滑らかな木片、乾燥して丸まった黒い葉、そして乾いた血のような錆色をした小さなベル。学の鼻腔を、微かに土の匂いと、嗅ぎ慣れない甘い香りが刺激する。それは、祭壇に供えられた不気味な供物のようだった。
明子が静かに手を上げた瞬間、風もないのに公園の木々がざわめき、葉が擦れる乾いた音が響いた。彼女の影が、地面に不自然に長く伸び、脈動するように伸び縮みする。学の視界は歪み始め、明子の姿が何重にもぶれて見えた。
「――闇よ、集え。地の底より響く声よ、我に従え」
明子の声は、低く、まるで地の底から響くかのように重く、しかし、どこか異質な響きを帯びていた。それは明子の声でありながら、同時に複数の声が重なり合っているかのようにも聞こえた。彼女の指先が、人間離れした滑らかさで空中を舞う。まるで骨がないかのように、あるいは関節が逆方向に曲がるかのように、不気味に絡み合う指は、学の体中の毛が逆立つほどの戦慄を与えた。
学の心臓が、異常なほど速く、大きく脈打つ。体は鉛のように重く、手足の感覚が薄れていく。全身を痺れるような感覚が駆け巡り、地面に縫い付けられたかのように動けない。
明子の瞳が、学を射抜いた。その眼差しは、彼の意思を奪い、彼を縛り付けていくような、強烈な心理的な呪縛となった。抗うことすら許されない。「俺は人間だ…!」喉の奥で、叫びが詰まる。並外れた記憶力が、恐怖の中で断片的に蘇る。過去の出来事や顔、言葉が、壊れたフィルムのように脳裏を駆け巡るが、それは現実と混ざり合い、強烈な混乱を増幅させる。
明子が、呪文のような言葉を囁きながら、持っていた黒い葉を学の頭上に振りかけた。葉が彼の額に触れた瞬間、体が内側から軋むような激痛に襲われる。皮膚が粟立ち、毛が生え、骨がミシミシと音を立てながら縮んでいく。
「これで、あなたはもう、私だけのもの…」
明子の声が、遠く、歪んで聞こえる。視界が急速に狭まり、色彩が曖昧になっていく。五感が研ぎ澄まされ、土の匂い、遠くの車の音、夜の微かな空気の振動が、これまでになく鮮明に感じられる。しかし、それはもはや人間としての感覚ではない。
「人間」であることを認識する最後の意識が、次第に曖昧になり、思考が途切れ途切れになる。言語的な思考が消失していく過程を、学は自分の内側でただ見つめることしかできなかった。最後に残ったのは、「俺は人間だ」という、意味をなさない唸り声、そして、どこか遠くで響く、自身の、いや、誰かの、低い吠え声だった。
マジックが完了した瞬間、公園全体を包んでいた不穏な空気は、まるで何もなかったかのように消え去り、一瞬の不気味な静寂が訪れる。明子の表情は、再びいつもの寂しげなものに戻っていたが、その瞳の奥には、何かを成し遂げたような、冷たく、そしてどこか満たされた輝きが残っていた。
学がいた場所には、毛並みの乱れた一匹の老犬が、小さく身を丸めて震えていた。その瞳には、かつての学の並外れた知性と諦念の片鱗が宿っているようにも見えたが、その体はすでに完全に「犬」として、無意識に震えていた。彼は、一瞬、遠くで吠える犬の群れの声に耳を傾け、小さく唸った。それは、かつての「人間」学ではない、新たな「犬」としての学の、始まりの咆哮だった。
始まりの「犬小屋」と、絶対的な支配
公園での変身から数日。学は、明子の家の庭にある、古びた犬小屋の中で目を覚ました。錆びたブリキの屋根から、朝の光がわずかに差し込む。体が以前よりも小さく、地面に近い。人間の時の記憶は鮮明なのに、手足は言うことを聞かず、足音はもはや自分のものではない、爪とぎの音を立てる。
明子は、毎朝、小さなプラスチック容器に入れたドッグフードを持って現れた。彼女の表情は、路上マジシャンとしての仮面を脱いだ、ごく普通の女性のそれだった。しかし、その瞳の奥には、学を変身させたあの夜と同じ、冷たく、そしてどこか満たされた輝きが宿っていた。
「お腹、空いたでしょう?」
優しい声。しかし、その声が、学の耳には遠く、どこか底冷えする響きに聞こえた。明子は、学の前にドッグフードを置き、彼が食べるのをじっと見守る。学は、人間としての矜持と、犬としての本能の板挟みになりながら、やがて目の前の餌を貪った。
歪んだ「愛」の儀式
ある晩のことだった。
いつものようにドッグフードを食べ終えた学を、明子が犬小屋から外へ促した。庭の隅に、青白い月光が降り注いでいた。明子の手には、見慣れない道具が握られている。それは、鋭く光るメスと、消毒液の瓶、そして血を受け止めるためのらしい、古びた布だった。
学の脳裏に、かつて路上で見た明子のマジックの光景がフラッシュバックした。コインを消し、花を出す、見せかけの幻術。だが、今、彼女の瞳に宿るのは、一切の迷いのない、冷たい決意だった。
明子は、学を優しく、しかし有無を言わさぬ力で押さえつけた。彼女の顔は無表情で、その吐息はひどく冷たく感じられた。学は抵抗しようとする。足掻く。しかし、犬としての小さな体は、彼女の細い腕の中で無力だった。喉からは、人間だった頃には決して出なかった、情けない唸り声が漏れた。
「大丈夫よ。あなたは、もう私だけのものになるから。」
明子の声は、囁くようだった。しかし、その言葉は学の耳には、鋭利な刃物のように突き刺さった。彼女は、マジックの際に使う、あの人間離れした流れるような指の動きで、躊躇なくメスを構えた。月光が、メスの切っ先に反射し、一瞬、鈍い銀色に輝いた。
チリン……
どこからか、あの呪いの儀式で使われた、錆びたベルのような音が微かに聞こえた気がした。学の視界が歪む。体の中から、言いようのない喪失感と激痛が駆け巡る。それは、肉体的な痛みだけではない。人間の尊厳が、存在の根源が、根こそぎ奪われていくような、言いようのない絶望だった。
明子の顔には、痛みで悶える学を見ても、何の感情も浮かばなかった。ただ、彼女の唇だけが、満足げに、そして微かに微笑んでいるように見えた。それは、全てが「自分のもの」になったことを確認する、絶対的な支配者の微笑みだった。
そして、すべてが終わった時、明子は血の滲む布を静かに片付け、震える学をそっと抱き上げた。彼女の腕の中で、学は最早抵抗する気力もなく、ただ呼吸を繰り返すだけだった。その瞳の奥には、人間だった頃の知性がまだ残っているようにも見えたが、その体は完全に、彼女に支配された「犬」となっていた。明子は、学の頭を優しく撫でると、どこか安堵したように、しかし同時に、更なる深い孤独を抱え込んだかのような表情で、ぽつりと言った。
「これで、あなたは、永遠に私のそばにいるわ」
その声は、学にとって、支配の呪縛であり、同時に、歪んだ形での「愛」の宣告でもあった。そして、この犬小屋が、彼の「第2の人生」を縛り付ける、絶対的な始まりの場所となった。
終わりの始まり、そして、抱擁
あの夜以来、学の体は完全に犬となった。錆びた犬小屋が彼の住処となり、明子の与えるドッグフードが唯一の糧だ。かつて人間として世界を闊歩し、鋭い記憶力で人々を観察していた学の意識は、肉体に従い、犬としての五感で世界を捉えるようになった。
しかし、彼の瞳の奥には、変わらず人間としての知性が宿っていた。明子の仕草、声のトーン、わずかな表情の変化。それらを通して、学は彼女の感情の機微を読み取っていた。彼女は、時に満足げに、時に深く沈んだ表情で、犬となった学を見つめていた。そのまなざしは、確かに「愛」のようでありながら、底知れない孤独と、歪んだ執着を抱え込んでいることを、学は痛いほど理解していた。
そして、季節が一つ巡った、ある月のない夜だった。
満たされない者の、満たされた抱擁
明子はいつものように、学にドッグフードを与え、彼が食べ終えるのを待っていた。その夜の彼女は、いつもよりも疲れているように見えた。路上でのマジックがうまくいかなかったのか、それとも、また孤独が彼女の心を蝕んでいるのか。
学が食べ終えると、明子はそっと犬小屋に入ってきた。狭い空間で、彼女は学を優しく抱き上げた。学の体は、小さく、彼女の腕の中にすっぽりと収まる。その体温は、以前の凍えるような孤独とは異なり、不思議と暖かかった。
「ねぇ、あなたは、私のこと、嫌いにならない?」
明子の声は、震えていた。舞台上での強気なマジシャンでも、学を変身させたあの夜の冷酷な支配者でもない。そこにいたのは、ただ誰かに理解を求め、愛されたいと願う、一人の傷ついた女性だった。彼女の頬には、一筋の涙が伝っていた。それは、学を支配したことへの後悔か、あるいは、ようやく誰かに弱みを見せられたことへの安堵か。
学は、答える術を持たなかった。犬としての喉からは、言葉ではなく、微かな「クーン」という鳴き声しか出ない。しかし、その声には、彼にできる限りの、精一杯の肯定と、そして、彼女への複雑な共感が込められていた。
明子は、その声を聞き取ったかのように、学をさらに強く抱きしめた。彼女の顔が、学の毛並みに埋もれる。
「ありがとう、あなたは、本当に優しいわね……私を、一人にしないわね……」
彼女の腕の中で、学は静かに息を吸った。去勢され、人間としての尊厳は失われた。自由も、言葉も、未来も奪われた。しかし、この一瞬、明子の腕の中で、学は奇妙なまでの安堵を感じていた。彼女の歪んだ愛は、彼を完全に支配した。だが、同時にそれは、彼自身の「生きる意味」を与えたのかもしれない。彼は、彼女の孤独を埋める唯一の存在として、この犬小屋で生き続けるのだ。
明子の鼓動が、学の体に伝わる。それは、人間と犬の境界を越え、支配と服従の間に芽生えた、奇妙で、しかし確かな「繋がり」の鼓動だった。学は、目を閉じた。かつて人間として見ていた世界の記憶が、犬としての鮮やかな五感と混ざり合う。彼はもう、あのホームレスの学ではない。だが、この歪んだ「第2の人生」の中で、彼は、明子という唯一の飼い主と共に、静かな生を受け入れていくのだろう。
終わり。読んでくれてありがとう!!