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四都物語異聞:忘れ路の調べ

 絶えた道、それは新たなる未来への道の源流。 


     1


 深い山々に抱かれ、時の流れさえもゆるやかに感じる小さな村があった。

 都からはるかに隔たられ、その営みは豊かな森の懐と清らかな川の恵みに寄り添う。人々は質素な日々を重ね、村には古くからの言い伝えや、森の恵みに感謝する素朴な祭りが、季節の移ろいと共に息づいていた。すべてが自然の(ことわり)(なら)い、静かに繰り返される暮らしであった。

 この村の子どもたちは、誰もが太陽の下で泥だらけになることを(いと)わず、日々の遊びに夢中であった。彼らの弾けるような笑い声は、村に軽やかな彩りを与えていた。

 中でも、ひときわ活発なのは、村の隅々を知り尽くす蒼汰(そうた)。十二の歳を越え、子どもたちの兄貴分として、常に新しい発見を求める。その瞳には探求心が宿り、見慣れた小道も、彼にかかればたちまち冒険の舞台と化す。

 物静かながらも、心に映る全てを絵に写し取る海音(みお)は九つ。彼女が描く草木や虫の絵は本物と見紛う細かさで、大人たちもその才に舌を巻いた。指先から生まれる線は見るものの心を捉え、彼女の繊細な感受性を映し出す。

 誰よりも足が速く、森の獣のように軽やかに駆け巡る悠瑠(はる)は十。彼の目は森の奥深くを見通し、僅かな獣道も見逃さなかった。風のような身のこなしは村の誰もが認め、その足跡は、誰も踏み入らぬ森の深淵へと音もなく消える。

 まだ幼い七つの千夜(ちよ)は、大人たちの会話の端々から昔話や言い伝えを拾い集めるのが得意で、その小さな耳は常に村の物音に聞き入っていた。彼女の記憶力は、古老たちの語る物語の断片を玉のように集め、心に大切に仕舞い込んだ。彼女は村の歴史を紡ぐ、小さな語り部であった。

 彼らは時に小さな(いさか)いをしながらも、いつも共にあった。日暮れ時、遊び疲れて帰路につく彼らの背中には、夕焼けの茜色が優しく降り注ぎ、互いの絆をより一層深めるかのようであった。

 村の老人たちは、かつてこの森の奥に、隣の里へと通じる「古道(こどう)」があったと語る。それは都へ向かう商人も行き交い、村と隣の里の(えにし)を繋いだかけがえのない道であった。古道は村に品々をもたらし、遠い地の知識を運び、人々の心を豊かにした。祭りの賑わいを添え、里の者たちが訪れることもあった。

 しかし、長い年月が過ぎ、人々の往来は途絶え、草木に覆われ、獣道と化したその道は、今では村人の記憶からも薄れ、その存在を知るものはほとんどいなくなった。

 子どもたちにとっては遠い昔の夢物語のようであったが、彼らの心には、まだ見ぬ道の幻影が漠然とした憧れとして宿っていた。

 古道が廃れた理由には、単なる時の流れではない、深い理由が潜んでいた。それは、大人たちが語ろうとしない、遠い昔のわだかまりが絡んでいたのだ。二百年ほど前、村と隣の里との間で、川の水の分け前を巡る争いが起きたと、長老たちは遠回しに語る。

 清流が尽きかけた季節、互いに譲らぬ心が芽生え、些細な小競り合いが続いた結果、古道は使われなくなり、やがて忘れ去られた。心の壁が、物理的な道を閉ざしたのだ。その後、村人たちは山を切り拓いて別の細道を作ったが、それは険しく、年に数度しか使われない危険な道となった。そして先日、山崩れでその細道すらも失われた。

 古道は単なる道ではなく、村の過去の傷跡であり、癒されぬまま忘れられた絆の象徴でもあった。その上に積もる土や苔は、人々の心の重荷を映すかのようであった。


     2


 その年の夏は、村に大きな試練をもたらした。

 例年にない長雨が降り続き、空は鉛色に重く垂れ込め、幾日も太陽の光を隠した。川は荒れ狂い、これまでにないほど水かさを増し、森の奥からは地鳴りのような音が響いた。

 ついに、村の近くで大規模な山崩れが起きた。轟音と共に山肌が剥がれ落ち、木々は根こそぎなぎ倒され、土砂は村と隣の里を繋ぐ唯一の細道を寸断した。岩肌は剥き出しになり、濁流が道だった場所を深くえぐり取り、もはや人の往来は不可能となった。

 村は、まるで大海に浮かぶ孤島のように外界から隔絶され、その閉塞感は人々の心を深く沈ませた。

「困ったものだ。里から薬草が届かねば、冬を越すのが難しい病人も出よう。このままでは、村に病が広がるかもしれん」

 薬師の爺が、しわくちゃな顔を曇らせて呟いた。彼の薬棚は空になりかけていた。村の誰もが頼るその声には、深い絶望の色が滲んでいた。

 古くからの道具を修理する職人の婆も、眉を下げてため息をつく。使い慣れた(のみ)を握ることもなく、虚しく膝の上で手を休めていた。

「この間から頼んでおいた堅木(かたぎ)が手に入らねば、新しい(くわ)も作れやしない。畑を耕す時期も迫っているというのに。このままでは、来年の収穫に差し障り、村の未来が危うい」

 村の暮らしは、少しずつ、しかし確実に滞り始めた。

 食料は蓄えがあったものの、薬や道具といった日々の営みに欠かせぬものが底をつきかけていた。村人たちの顔には、不安と疲労の色が色濃く浮かんでいた。村の長たちは暗い顔で地図を囲み、何度も首を振るばかり。若者たちも重い工具を手にただ立ち尽くし、希望を失っていた。重機などない時代、人手だけではどうにもならぬ。

 村には重苦しい空気が漂い、子どもたちの笑い声さえも、どこか控えめになった。日中の遊びも、空を覆う灰色の雲のように、精彩を欠いていた。彼らの心にも漠然とした不安の影が落ちていた。

 そんな中、子どもたちは、大人の諦めの声を聞きながらも、どこか諦めきれないでいた。

 蒼汰(そうた)は、かつて祖父が話してくれた古道の話を思い出した。その道が本当にあれば、回り道をしてでも里へ行けるかもしれない。彼の脳裏には、かすれた絵図の輪郭と、祖父の語る冒険譚が鮮やかに蘇った。しかし同時に、古道が大人たちにとって触れられたくない過去でもあることを、幼いながらも感じ取っていた。

「なあ、みんな。あの古道って、本当にないのかな? 爺様が、昔は誰もが知ってた道だって言ってたんだ。でも、誰もそれ以上話したがらない、何かがあるにちがいない」

 蒼汰がぽつりと言うと、海音が小さく頷いた。彼女の瞳は、いつも森の奥に広がる未知の世界を覗き込むかのようであった。

「お婆が、昔の絵図に、かすかに道が描かれているって言ってた。森の奥の、古池のそばだって。それに、古道には、薬草の生えている場所が(しる)されているって。もしかしたら、その薬草は、今病気の大人たちに必要なものかもしれないわ。私、絵図の薬草の絵、覚えてるもん」

 悠瑠は、すぐにでも森へ飛び出したい様子で、目を輝かせた。彼の心は、閉ざされた道への挑戦に高鳴っていた。その目は、困難を乗り越える純粋な喜びを宿している。

「おれ、知ってる! 爺ちゃんが、『古道には、山の神様が置いた目印がある。それは神様が人間を試すためのものだ。見つけ出した者には、良い報せがある』って言ってたぞ! きっと、見つけるのが難しいんだ!」

 千夜は、最近、長老たちが「昔の道は、もっと木々が少なくて、石が積み上げられていた」と話していたのを思い出していた。その小さな頭の中では、大人たちの話の断片が、まるで散らばった玉のように、少しずつ繋がり始めていた。

 大人たちが途方に暮れる中、子どもたちの心には、一つの思いが芽生えていた。

「自分たちで、その古道を探し出そう」

 それは、困難な村の状況を変えたいという純粋な願いであった。彼らの目に映る世界は、まだ、大人の諦めよりも、探究心と希望に満ちていた。雨上がりの晴れ間が、彼らの決意を照らす。澄み切った青空が、彼らの小さな背中を優しく押していた。


     3


 翌朝、まだ夜明け前の仄暗い中、鳥のさえずりが始まるより早く、子どもたちはそれぞれの小さな荷物を背負い、密かに森の奥へと足を踏み入れた。

 朝露に濡れた草木が彼らの足元を湿らせる。ひんやりとした朝の空気が彼らの頬を撫でていく。森の奥から漂う土の匂いは、彼らにとって、いつもの遊び場の匂いとは少し違っていた。未知への微かな期待と、それに伴う不安が混じり合う。

 蒼汰は、祖父の家で見つけた埃まみれの古びた絵図を広げ、それが示すであろう方向を注意深く確認した。しかし、絵図は永き歳月の中でかすれ、頼りになるのはおおまかな方向を示す線と、いくつかの特徴的な目印らしきものだけだった。彼の眉間には小さな皺が寄り、村の未来をその幼い肩に背負うかのように、その表情には緊張が走っていた。

「この辺りに、ひときわ大きな岩があるはずだ。爺様が言ってた、『二つの谷の間にそびえる、狼の牙のような岩』だって」

 蒼汰が絵図を指差しながら言う。

 海音は、腰に提げた小さな筆と墨で、道中で見つける特徴的な木々や石の並び、そしてわずかな光の加減までを丁寧に描き留めた。彼女の絵は、ただ形を写すだけでなく、その場の光や影、風のそよぎ、そして森の息吹までをも閉じ込めた。その視点は常に微細な変化を捉え、森の奥に隠された秘密を探し出すかのようであった。

 悠瑠は、先頭に立って茂みを掻き分け、時には危険な場所や獣の足跡をいち早く見つけては、皆に注意を促した。その俊敏な動きは森に溶け込むかのようであり、彼の鋭い視線はわずかな異変も見逃さなかった。

 そして千夜は、小さな体を素早く動かし、大人たちには見えない低い位置に隠された、苔むした古い石や、不自然に並ぶ木々の根元に、かつて道があったであろう痕跡を探し出した。彼女の目は村の隅々までを見渡し、大人たちの話の断片から小さな手がかりを見つけ出すことに長けていた。彼女の呟きが、時に物語の鍵を解き放つのだった。

 彼らは時に意見をぶつけ合った。蒼汰は絵図通りに進みたがり、悠瑠は直感で進みたがった。海音は細部にこだわり、千夜は大人たちの話との整合性を気にした。

「こっちだ、爺ちゃんの話では、この森の向こうに大きな岩があるはずだ! 狼の牙なんて、ここにはないぞ! 絵図なんて当てにならない!」

 悠瑠が叫ぶが、蒼汰は絵図を指差して首を振る。

「違う。絵図ではここから川を渡って、さらに奥に進むことになっている! 悠瑠、お前はいつもせっかちすぎる! 目印を無視するな!」

「だって、絵図なんて古くて当てにならないじゃないか! 俺の足と勘の方がずっと確かだ! いつまでこんな古い紙に頼るんだ!」

 二人の間に険悪な空気が流れる。悠瑠は先へと急ぐ足に苛立ち、蒼汰は皆を導く重圧に焦りを感じていた。

 互いの正義がぶつかり合い、一瞬、森の静寂が重苦しいものとなった。その時、海音が静かに言った。彼女の視線は地面に落ちる石の一つに注がれている。その声は森のざわめきの中でもはっきりと響き、二人の間に割って入った。

「見て。この石、なんだか不自然に並んでいない? まるで人が積んだみたいに。それに、この辺りの草は、他の場所と生え方が違うわ。踏み固められた痕跡が残っている気がする。この石の並び、お堂の参道の石に似ているわ。それに、この土の色は村の土とは少し違うわね。昔、里の職人が使っていた染料の土に似ているわ」

 千夜は海音の言葉に頷き、地面に転がる小さな石を指差した。その小さな手で石の表面をなぞる。

「そういえば、薬師の爺ちゃんが、昔は道沿いに薬草が生えてるって言ってた。この辺は薬草が多いよ。きっと、昔の人が道沿いに植えたんじゃないかな? あっちの木のこぶも、昔の人が目印にしたって、婆ちゃんが言ってた気がする。そのこぶの形が、まるで昔話に出てくるお婆さんの顔みたいなの。昔、村と里で水争いがあった時に、婆ちゃんが、この瘤をなでて、早く仲直りできるようにって願ったんだって。これは、きっと、村と里の人が、争いの後も、こっそり会ってた証拠なんだよ」

 子どもたちは互いの言葉に耳を傾け、それぞれの知恵を出し合った。蒼汰の計画性、海音の細やかな観察眼と芸術的感性、悠瑠の行動力と森の知識、千夜の記憶力と大人たちの話からの洞察。それらが一つになることで、道なき道の中に、確かに「人」が通った痕跡が浮かび上がってきた。

 彼らの瞳には、次第に確かな光が宿り始めていた。それは、まるで失われた記憶の断片が、目の前に姿を現すかのようであった。彼らの足元にある、ただの土が、古道の確かな踏みしめられた土へと変わっていくのを感じた。

 茂みの中に、苔むした石畳の切れ端を見つけた時、彼らは思わず歓声を上げた。それは、失われた宝物を見つけ出したかのような喜びであった。その石畳は、かつて多くの人々が踏みしめたであろう、歴史の証人であった。その上には、雨に打たれ、風に晒されたであろう小さな石の(ほこら)がひっそりと(たたず)んでいた。

 祠の中には、朽ちた木片や、色褪せた布の切れ端が供えられている。それは、かつて旅人たちが道中の安全を願った、小さな祈りの形であった。その布の切れ端には、里の独特の染め色が残っていた。

 それは、確かに古道へと続く、確かな手がかりだった。彼らの顔には、泥と汗と、そして何よりも、未来を見つける喜びが輝いていた。その喜びは、森の静寂の中に、子どもたちの小さな声でこだました。彼らの心には、確かな手応えが宿り始めていた。古道の息吹を、彼らは肌で感じ取っていたのである。


 4


 古道の探索は、子どもたちの想像をはるかに超える困難を伴った。

 道は深い藪に覆われ、足元は滑りやすい落ち葉や泥に隠されていた。行く手を阻むように、朽ちた木の根が絡み合い、倒木が道を塞いでいた。時には、朽ちた木の橋が道を塞ぎ、迂回を余儀なくされることもあった。彼らの幼い体には、草木の露と泥が容赦なくまとわりつく。しかし、彼らの心には諦めという文字はなく、ただ一歩一歩、その小さな足跡を刻み続けた。

 悠瑠は鋭い嗅覚と目で獣道をたどり、危険な場所を避けた。彼の先導は皆にとって何よりも頼りになった。悠瑠は森の獣たちが残したわずかな足跡から安全な道を見つけ出すことができた。しかし、時折、道を失い、深い茂みの中で立ち尽くすこともあった。そんな時、彼の心には不安と苛立ちが募り、自分だけではどうにもならないという、無力感に苛まれ、拳を握りしめた。

 海音は、わずかな陽の光が差し込む場所や、特徴的な形の木々、さらにはその樹皮の模様までを絵に写し取り、道標がない場所でも迷わぬよう地図を補完した。彼女の描く絵は、単なる記録ではなく、森の魂を写し取ったかのようであった。だが、闇が深まり、松明の光が頼りになると、その筆先は震えた。暗闇への畏怖が彼女の心を覆い、足がすくむこともあった。

 蒼汰は、祖父の絵図と海音の絵を照らし合わせ、全体の方向を見失わないよう注意深く進路を指示した。彼の冷静な判断が子どもたちの進むべき道を照らした。しかし、道が途絶え、行く手が見えなくなった時、彼の胸には、皆を導く重圧がずしりとのしかかった。もし自分が間違った道を示してしまったら、皆を危険に晒してしまうのではないかという深い不安が押し寄せ、彼の幼い心を締め付けた。

 そして千夜は、小さな体で身をかがめ、地面のわずかな窪みや、石の配置に、かつて道があった痕跡を見つけ出した。彼女はまた、道中、見慣れない鳥のさえずりや、遠くで聞こえる水の音に耳を傾け、それが絵図の示す地形と一致するかを確認した。彼女の耳は森の声を聴き分けることができた。しかし、疲労が募り、足がもつれるたびに、幼い千夜の心には故郷への恋しさが募っていった。一人置いていかれてしまうのではないかという、小さな恐怖が胸をよぎった。

 ある日、彼らは行く手を阻む大きな岩壁にぶつかった。巨大な壁は森の緑の中に不自然にそびえ立ち、彼らの行く手を完全に阻んでいた。絵図にはこの先に道が続いているはずなのに、どこを探してもそれらしき入り口は見当たらない。蒼汰は焦り、絵図を睨みつけた。その額には苦悩の汗が滲んでいた。悠瑠は苛立ち、岩壁を拳で叩いてみた。鈍い音が森に虚しく響いた。

「もうダメだ! こんな大きな岩、どうしようもない! 俺たちの力じゃ、どうにもならないよ! きっと、神様がこれ以上進むなって言ってるんだ!」

 悠瑠の叫び声は森の静寂を切り裂いた。その言葉は蒼汰の胸に突き刺さり、彼の心にも諦めの影を落とした。

「ここまでなのか……」

 海音は絵筆を止め、ただ黙って考え込んだ。その瞳は岩壁の微かな変化を見つめていたが、その奥にはかすかな絶望の色が揺れていた。千夜は不安げな顔で大人たちの昔話を思い出そうとしていたが、どんな言葉も、この閉ざされた道を拓く助けにはならないように思えた。彼女の目からは、今にも涙がこぼれ落ちそうであった。

 その時、千夜が岩壁の足元を指差した。その小さな指先が示す先は、他の場所とは異なる微かな空気の流れを感じさせる場所だった。

「ここ、なんだか冷たい風がでてくるよ。それに、石がここだけちょっとちがう色だよ。泥がうすくって、下から石が顔を出してるみたい。ばあちゃんが言ってた、『森の奥には、風の道がある』って。もしかして、ここなのかな? あと、この石、長老の爺ちゃんが話してた、『水争いの時、怒った里の者が投げつけた石の色に似てる』って。でも、これは、里の石じゃないみたいだよ。この石の上には、小さな草が生えてる。村じゃ見ない草だよ。まるで誰かが、ここに来た目印にしてるみたいに」

 千夜の言葉に、蒼汰たちは近づいてみた。確かに、他の岩肌とは異なる微かな空気の流れと、わずかに色が変わった石の筋が見える。その石は、まるで人工的に加工されたかのように、直線的だった。

 海音は、その石の筋を丁寧に絵に写し取った。彼女の指先が石の表面をなぞる。その感触は、過去の誰かの手の温もりを伝えるかのようであった。

「これ、まるで、昔、誰かが石を削った痕みたい……。不自然に、まっすぐに削られた跡があるわ。それに、この石の並び方、村の鎮守(ちんじゅ)の森にある、あの古い石組みに似てる。水争いの石……。そう、これは、里の石ではなくて、村の誰かが、ここから里へ通っていた証なんだわ。争いの最中も、互いを信じ、密かに交流を続けていた人がいたのね」

 海音の呟きに、蒼汰の頭にひらめきが走った。彼は祖父が話していた、昔の村人が岩をくりぬいて隠し道を作ったという言い伝えを思い出した。それは村の歴史の中でも、ごく一部の者にしか伝わっていない秘められた話であった。村を守るための最後の砦として語り継がれてきたものだ。古道が途絶えた後も、ひそかに里との繋がりを望んだ者がいたことを示す証拠なのだ。

 蒼汰は周りの小石を拾い、その石の筋を叩いてみた。鈍い音が響く。さらに強く叩くと、かすかに奥に空洞があるような響きがした。その音は、彼らの心に希望の調べを奏でた。

「ここだ! きっとここに、隠された道があるんだ! 爺ちゃんが言ってた、あの秘密の抜け道だ! これなら、村の人たちも通れるはずだ! 悠瑠、力を貸してくれ! 海音、千夜、もっと調べてくれ!」

 蒼汰の言葉に、子どもたちは期待に満ちた眼差しを交わした。

 彼らが感じていた倦怠は吹き飛び、体中に新しい活力が漲った。悠瑠は、岩壁に開いたわずかな隙間を、自分の手でこじ開けようとした。その腕には、これまでの疲れなどなかったかのようであった。海音は絵筆を握りしめ、この新たな発見を克明に記録しようと構える。千夜は、自分たちの発見が、村の大人たちが語りたがらなかった過去と繋がっていることに、深い意味を感じ取っていた。

 彼らは協力し、周りの小石や枯れ枝を使って、岩の周りの土を掻き出し始めた。

 最初は硬く、なかなか動かない土に苦戦したが、四人の力が合わされば、やがて土は少しずつ剥がれ落ちていった。指先は泥だらけになり、爪の間には土が詰まる。しかし、そんなことは気にも留めない。彼らの額には汗が滲み、呼吸は荒くなったが、その瞳には希望の光が宿っていた。

 やがて、人一人通れるほどの、苔むした小さな洞穴の入り口が現れた。

 湿った土の匂いと、奥から吹き抜ける冷たい風が、確かにそこに道があることを教えてくれた。それは、失われた道への、確かな手応えであった。彼らの小さな手から、村の未来への道が拓かれようとしていた。


     5


 洞穴の中は、漆黒の闇に包まれていた。

 一歩足を踏み入れれば、そこは外界とは隔絶された別世界。湿った土と石の匂いが彼らの鼻腔をくすぐる。悠瑠が持っていた火打ち石で枯れ葉に火をつけ、小さな松明(たいまつ)を作った。その揺れる炎の光が、洞穴の壁に、かつて人が歩いたであろう足跡や、壁に刻まれた印をぼんやりと映し出した。闇に浮かび上がる影は、まるで古の旅人たちが残した幻のようであった。

「これ、村の紋章じゃないかな? 村の古いお祭りのお面にも、こんな模様があった気がするわ。それに、この紋章の隣に、かすかに里の紋章が刻まれているわ。まるで、かつて村と里の誰かが、ここで密かに交流していた証のようだわ」

 海音が壁に刻まれた見慣れない模様を指差した。その模様は、村のどこかで見たことのある、しかし今は誰も使わない古びた意匠に似ていた。千夜が、その模様を見て、ふと思い出したように言った。その小さな声は、洞穴の中に神秘的な響きを伴って広がった。

「薬師のじいちゃんが言ってた。昔は、この道の安全を願って、旅の途中で、この紋章を刻んだ石を道に置いたって。この紋章は村の守り神の印だって言ってたよ。この紋章の向きが道を示してるって。あと、昔、里の織物師が、村に特別な糸を運んだって。その糸、この洞穴の向こうにしかないって言ってたって。この紋章は、互いの村を信じるしるしだったんだって」

 子どもたちはそれぞれの知識と知恵を持ち寄り、一歩ずつ慎重に進んだ。洞穴の奥は次第に下り坂となり、湿気も増した。足元に気をつけながら、悠瑠が前を歩き、蒼汰が後ろから皆を見守る。海音は壁に刻まれた模様を克明に描き、千夜は聞こえてくるわずかな水の音や、風の方向を耳で捉えていた。彼らは互いを信頼し、声を掛け合いながら暗闇の中を進む。彼らの間には、これまで以上の確かな絆が育まれていた。洞穴の壁には、かつて人が削り、積み上げたであろう石の感触が、確かに残されていた。

 やがて、洞穴の出口から、かすかな光が差し込んできた。その光は彼らの心に希望の道を示した。光の筋が次第に太くなり、彼らの目の前には、開けた森の風景が広がっていた。そこには清らかな小川が流れ、見慣れない薬草や、村では珍しい木々が豊かに生い茂っていた。空気は澄み、鳥の声が響き渡る。

 さらに、彼らの目に飛び込んできたのは、小川のほとりに苔むして残る小さな石組みの祠と、その傍らに朽ちた茶屋の柱の跡であった。

 茶屋の跡の傍らには、里の染料で染められたであろう、色褪せた布の切れ端が、土に埋もれるように残されていた。それは、かつて村と里の交流が盛んだった頃の、賑わいを伝える無言の証であった。その場所は、時の流れから取り残されたかのように、手つかずの自然が息づき、そして、人々の営みの温かな痕跡が残されていた。

 子どもたちは森の奥深くで、必要な木材や薬草を慎重に採取した。悠瑠は小川で珍しい魚を見つけ、その鮮やかな色彩に目を奪われた。彼は里へのお土産にしたいと願った。海音は見たことのない美しい花を描き留めた。その花は、まるで虹の色を映し取ったかのように鮮やかであった。千夜は、その花が、村の歌に出てくる「忘れ草」であることに気づいた。村の古い歌には、忘れられた道に咲く、ある花について歌われていたのだ。

 その花は、時を忘れ、しかし約束を覚えていると。その花は、咲けば美しく、しかしすぐに枯れてしまう、儚い花であった。しかし、その花が、彼らの心に新たな希望の光を灯した。古道が廃れても、ここに花が咲き続けていたことに、不思議な安堵を覚えた。そして、その花こそが、かつて村と里の間で交わされた、平和を願う密かな「忘れじの誓い」の証であると、幼い千夜の心は感じ取っていた。

 蒼汰は、この古道をどうすれば村の人々が安全に使えるようになるかを考え続けた。彼は、この道を一時的な抜け道とするだけでなく、村の未来を繋ぐ新たな道として再生させたいと願っていた。古道の先の森で、彼らは村の未来への確かな手がかりを見つけたのであった。それは、単なる物資の発見に留まらず、村の過去と未来を繋ぐ、深い意味を持っていた。


 6


 日暮れが迫る頃、夕焼けの茜色が空を染める中、子どもたちは収穫物を抱え、村へと帰ってきた。彼らの足取りは確かな自信に満ち、泥と汗にまみれた顔は達成感に輝いていた。

 村人たちは、子どもたちの姿を見て、驚きと安堵の声を上げた。無事に戻ったことへの安堵と、その手に抱えられた珍しい木材と薬草への驚きだった。

 薬師の爺は、千夜が持ってきた薬草を手に取り、その香りを深く吸い込んだ。その表情は、長い間忘れていた安堵の色に染まっていた。職人の婆は、蒼汰が抱える堅木を撫で、その重さと肌触りに目を細めた。その木材は、まさに彼女が求めていたものだった。

「これは……まさか、あの古道を見つけ出したというのかい? 我らが村の、忘れ去られた道を……」

 薬師の爺が震える声で尋ねると、蒼汰は誇らしげに頷いた。彼の顔には泥と汗の跡が残っていたが、その瞳は輝いていた。

「うん。みんなで力を合わせて、見つけたよ。道は草に覆われていたけど、昔の人が残した印と、僕たちの知恵で、辿ることができた。あの洞穴の中の道を通れば、回り道にはなるけど、隣の里まで行けるよ! これで、病人も、道具も、困らなくて済む!」

 蒼汰は、古道の様子と、洞穴の中の隠された道、そしてそこにあった村と里の紋章のことまで、細かく説明した。彼の言葉には、幼いながらも確かな責任感が宿っていた。

 海音は道中の様子を描いた絵図を見せ、森の奥に息づく自然の美しさ、そして古道の持つ歴史の重みを、言葉少なに伝えた。彼女の絵は村人たちの心に古道の幻影を呼び起こした。

 悠瑠は獣道に詳しい自分が案内役を買って出ると言い、その軽やかな身のこなしで、道中の困難さを身振り手振りで表現した。彼の熱意は大人たちの心を動かした。

 千夜は、お堂の長老たちが話していた言い伝えと、古道の発見が一致することを、興奮気味に伝えた。彼女の小さな声が、大人たちの心に、忘れかけていた記憶を呼び起こした。

 特に、古道の途中で見つけた「忘れ草」と、水争いの際に村と里の者たちが密かに交流を続けていた痕跡を見つけたことは、村人たちの心を深く揺さぶった。古道の先の祠に残されていた布の切れ端、里の染め色を宿したそれが、過去のわだかまりを超えた絆の証として示された時、村人たちの間に深い静寂が訪れた。

 村人たちは子どもたちの話に耳を傾け、やがて顔を見合わせた。その目には、子どもたちへの感嘆と、自分たちの諦めへの反省が入り混じっていた。大人が途方に暮れていた道を、子どもたちが純粋な知恵と勇気で切り開いたことに、深く感銘を受けたのだ。

 彼らは、いつの間にか子どもたちの瞳が、村の未来を照らす光となっていることを悟った。そして、古道が廃れた真の理由、村と里の間に横たわるわだかまりが、子どもの純粋な探求心によって晒されたことに、複雑な感情を抱いた。しかし、その感情は、やがて和解への温かな予感に変わっていった。

「子どもたちの知恵は、我々大人の目を曇らせたものを見通すのだな……。わしらは、長年この村に住みながら、足元の宝を見落としていたのかもしれん。いや、見ないふりをしていたのかもしれん。古道の先に、里との和解の糸口があったとは……。これからは、この古道を、村の皆で力を合わせ、守り、次の世代へと伝えていかねばならんな。そして、里の者たちにも、我らの心を伝えねば。この子どもたちが開いた道こそ、真に我らを繋ぐ道となろう」

 村の長老が、しみじみと呟いた。その言葉は、子どもたちの心にも、温かな光を灯した。彼らの小さな冒険が、村の未来を切り開き、人々の心に新たな希望をもたらした瞬間だった。村人たちの表情に、久しぶりに明るい笑顔が戻った。彼らは、古道の再発見が、単なる道の開通以上の意味を持つことを、深く理解したのである。それは、村の過去の傷を癒し、未来への新たな一歩を踏み出す契機となるであろう。

 その夜、村では久しぶりに、温かい灯りが遅くまで灯っていた。村人たちは子どもたちの冒険談に耳を傾け、希望に満ちた会話が交わされた。酒蔵からは祝いの酒が振る舞われ、村中に賑やかな声が響き渡った。

 子どもたちは、自分たちの小さな力が、村の大きな助けになったことを誇らしく感じていた。彼らの心には、森の奥に隠された古道のように、決して失われることのない、確かな友情と、未来への希望が芽生えていた。それは、困難を乗り越えるたびに、一層深く、強く育まれていくであろう絆であった。

 村には、古道を見つけ出した子どもたちの物語が、新たな昔話として語り継がれていくことだろう。その調べは、いつかの世まで、人々の心に響き渡り、再び里と結ばれる村の賑わいとなり、子どもたちの心に宿る、決して消えぬ希望の光となるだろう。この村は、人々の絆が新たに紡がれ、(えにし)が深まった地として、後世に語り継がれるであろう。

 静かに夜が更け、月明かりが、新しく拓かれた古道を、遠い里へと続く希望の道として、優しく照らしていた。


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