社会の端っこにいる
集合写真を撮るときに真っ先に真ん中に行くやつが好きじゃない。それは他人をひとり分端っこに追いやる行為だからだ。とりあえずみんなが様子を見あって、なんとなく真ん中が空いていて、じゃあ今日は〇〇が真ん中になって! みたいな会話をしたい。現実的には時間の無駄なんだけれども、そういう無駄とも思える心遣いが好きだ。
俺は金や財産というのに大きな価値を感じない。そりゃ自分を自由にするくらいの金は欲しいけれど、そのために自分の大切にしているものを捨てる気にはなれない。それは本当にしょうもないこだわりの部分で、遊んだゲームは売らない、とかそういうものだ。つまらなくっても、思い出として持っておきたい。売るくらいなら知っている誰かにあげたい。思い出は何より大事にして生きていたい。
そういう小さなこだわりがきっと俺を偏屈にしている。小さなこだわりが俺を一般的な社会から遠ざけている。どんなに場が盛り上がっていてもやりたくないことはやらない。そうすると社会は俺をやらない人なんだと認識し、俺はちょっと中心から遠ざかる。
集合写真ではだいたい端っこにいる。おそらく俺は望んでそこに立っている。真ん中にいると居心地が悪いのだ。
写真を撮られるとき、俺はピースしない。ピースは俺の美学に反する。自分が被写体であると認識するとき、なぜピースしなければいけないのか分からないからだ。意味が分からないことをしたくない。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、俺は端っこに逃げていく。気が付けば、端っこにいる。
端っこだから周囲に人は少ないんだけれど、でもそれが安心なのだ。端っこは人を見られるけれど、人には見られることが少ない。俺の小さなこだわりが目立たなくなる。他人の奇異の目線におびえずに済む。
ただ、俺は俺より端っこにいる人を見ると「なんだあいつ変な奴だな」と思う。ちょっとむしゃくしゃする。普通じゃない奴はちょっと警戒するのが人の性だ。
そしてそういうやつが「じゃあ今日は〇〇が真ん中だ」と言われて真ん中に行くと、もっとむしゃくしゃする。これは嫉妬である。
他人が他人にやさしくされるとき、自分がどの位置にいるかは重要だ。
自分が遠くから見ている分には他人から他人への優しさは美しく見えるが、近くにいるときには疎外感になる。
そうやってむしゃくしゃしてある程度時間がたったあと、「ああ、俺はただ優しくされたかったんだなあ」とやっと気が付くのだ。
自分から優しくするわけじゃないのに、他人に優しさを求める。こんな奴が端っこにいる。
そして「今日は〇〇が真ん中だ」と言える奴は、多くの場合集合写真で真ん中にいけるやつなのだ。他人を端っこに追いやりながら、他人を端っこから真ん中にもできる。
俺は端っこに立っている、他人に真ん中を譲っているふりをして。本当は優しくなんかないことが、誰にもバレないように、見抜かれないように。




