ドーパミン中毒者
気が付けば心が文章を書くことから離れている。
10代のころはそんなことは無かったのだが、最近は書こうと思わずにyoutubeを見たり、ゲームをしたり、ダラダラと過ごすようになっている。調べてみるとドーパミン中毒らしい。手軽に得られる快楽に心が持っていかれて、本当の幸福を追い求めなくなる。本当の幸福とは、というと諸説ありそうだが、ここでは長期的な目標を成し遂げる、といった意味で使いたい。
少年のころ、俺はこういった人間を軽蔑していた。消費するだけで、何も生み出さないバカな奴だと。有名な「精神的に向上心の無い者はバカだ」という言葉もあって、俺はこういう人間にだけはなりたくないと思っていた。
だが気が付けば俺自身がそうなるのに時間はかからなかった。カエルが茹でられていても気が付かないように、いつのまにかそうなっていたのだった。
なんとなく目に映るものに興味を引かれて動き、そこに目的意識や時間感覚は無い。それはまるで光に寄って行く虫のようで、我ながら気味が悪い。人間ではないみたいだ。人間ならばもっと考え、美意識や向上心のもとに行動すべきではないのか。
人類全体がドーパミンに心を奪われている、という見方もある。俺がたまたま怠惰でそうなっているのではなく、人間という種がそうなるように動いている、ということだ。
日本に限った話ではないと思うのだが、社会的にエッセンシャルワーカーの賃金は低い。その一方で水商売や、テレビなど娯楽を提供する職業は一部といえど常軌を逸した高給になる例がある。
なぜか? それは社会のインフラよりも娯楽に対して価値があると感じる人間が多いからだ。米の値段の高騰に文句を言う人間はいても、酒が高いと文句を言う人間はいない。
人々が酒を飲むのはなぜだろう。それは楽しいからである。酩酊すると気分が高揚し、飲まずにいられなくなるからだ。酒の裏にはやはりドーパミンが潜んでいる。
美味しいから飲むという人もいるかもしれないが、それならば高級レストラン中毒になる人間がもっと多くいるはずだ。美味しい料理を食べると幸せにはなるが、ドーパミンではなく、ほかの脳内物質により幸せを感じるのだろう。アルコール中毒者が多いのはドーパミンに体を侵されるからだ。
少年のころに俺が軽蔑していたのは、こういったドーパミンのために生きている人間たちだった。そういった人たちが増えるように仕向けている社会も軽蔑していた。俺が資本主義的考えを好きになれないのは、ドーパミンを求める人々を利用して金を稼ごうとする拝金主義者たちが心底嫌いだからである。社会に何の成長ももたらさず、ただ金が動くことを仕事と呼び、それをシゴデキなどと称賛する連中を猿以下の間抜けだと思っているからだ。日本の技術力や経済的成長が伸びなかった原因の一端は、他人を利用して稼ごうとする屑があまりにも多すぎたせいだと思う。
ドーパミンによって作られた社会は快楽にあふれている。退屈を振り払おうと思えば、いつでも楽しくなれる。ドーパミンのために作られた娯楽の文化があるのも確かで、それ自体は面白くもあるし人生を豊かにするためのもので否定するものではない。だがしかし、俺は世の中全体がそうなっていくことに気持ち悪さを感じる。
政治を見てもそうだ。今日本は大変な中にあることは誰もが知っていることだが、それなのに選挙の投票率があまりにも低い。米の値段に文句を言っても、手取りの低さに文句を言っても、結局投票しないのだから馬鹿げた話だ。
なぜ投票しないのか。簡単だ。選挙じゃドーパミンは出ないからだ。
政治よくわからないんで、と言いながら調べない。自分の意思を捨てている。ドーパミンが出ないから。一方でアイドルやyoutuberには夢中だ。なぜならドーパミンが出るから。
社会に不満を持たない人間がいるとしたらそいつは子供である。大人ならば、自分が社会に不満を持つ、もしくは社会に不満を持つ周囲の人間がいること自体を解消したいと願うはずだからだ。それはつまり、他者への奉仕をしたいと思う心を持つことだ。
調べてみると、他者への奉仕活動をしたときにもドーパミンは出るらしい。しかしそれでは時間がかかりすぎるから、もっと手軽な方法でドーパミンを感じたいと思う人間が多く出てくるのは当然の話である。
だが、そもそも人間の生きる理由はドーパミンを分泌するためなのだろうか。違う、とはエビデンスがないから言い切れないが、少なくともそうであってほしくない。俺は人間に対してもっと期待感を持っている。それはすなわち、俺が俺自身に期待しているということでもある。
隗より始めよ、という言葉の通り、まずは俺がドーパミン中毒から抜け出す必要がある。そのためには身近な快楽を捨てて、長期的な観点で努力をし、何かを成し遂げていかなければならない。それが結構難しい。
そのために何かをしようとしているわけではないが、そういう心を持って生きていこうと思う次第である。