3.心
朝、カーテンを開けると、湿気を含んだ重たい空気に蓋をするかの様な灰色の雲が空一面を覆い尽くしていた。
起床。隣で眠る君の体は何とか起きようという努力を感じられる。そんな君を横目に僕は布団から抜け出した。ふう、今日も一日が始まってしまう。部屋に置かれたデジタル時計で時間と日付を確認する。そうか、まだ火曜日か。
「んー、んん、おはよう……」
と、何とか眠気に打ち勝った君が起きてきた。僕もおはようと言葉を交わすと、そのままキッチンで二人分のお湯を沸かし、洗面所へ行き顔を洗う。身体が怠い。鏡を見ると丁寧に洗ったはずの物が酷くこけて映った。
「仕事を頑張り過ぎているかな……」
朝の支度を済ませリビングへ戻ると、君がコーヒーを淹れてくれていた。
「いつもありがとうね。今日も頑張って」
そう、声を添えながら。
僕は温かく薄いコーヒーで胃袋を潤し、ネクタイを締めると玄関を出る。
「今日も早く帰ってきてね。一人だと寂しいから。いってらっしゃい」
「そうだね、早く帰ってくるよ。いってきます」
外はまだ朝だというのに、光が何とかすり抜けて地面に届かずに消えていく、そんな曇天の下を僕は歩き出した。
満員電車に揺られながら、人混みに流されながら会社に辿り着くと誰かが声をかけてきた。
「朝からそんな顔してどうした? 何かあったか?」
同僚だ。僕は心配される様な顔をしているのだろうか。身体は動くし頭も冴えている。僕はまだ大丈夫。
「おはよう。こんなものなんて事はないさ」
そう言ってデスクへ向かうと自分のパソコンを立ち上げる。それは微かな音を発しながら、しばらく疲れた顔の男を映した後にパスワードを要求してきた。僕はそれに従い指を動かす。
あれは誰だ? 僕はその日も慌ただしい時間をそつなくこなしていく。しかし、忙しい中でもさっきの男の顔が脳裏から離れない。
そうか、僕は疲れているのか。思い返せば、ここ最近の僕の生活はまるっきり変わってしまったのかもしれない。あの日、君はやけに緊張した様子で僕の名前を呼んだ。
「私たちずっと一緒にいようね」
そんな君からの提案に僕は了承し、それからの僕たちはいつも一緒だった。
「ゲームなんてやめてさ、二人で映画でも観ようよ」
僕は友達にまた来るねとチャットで伝え、電源を落とすと君の好きな映画を観た。
「もう少し近くに来て、隣にいてほしい」
僕は読みかけの本を閉じると、君の側に座った。
「眠たくなるまで、ずっとあなたと話しをしていたいの」
僕は君の声が消えるまで、聞いているよと相槌を打った。
確かに、あの日から一人でいる時間が減っているのかもしれない。前は友達に会う機会が多かった。遊びの誘いも多かった。でも、大切な君が一緒にいたいと言うのなら、僕は何かと言い訳をして一つずつそれを断ってきた。家に帰っても外へ出かけても、ずっと君の横で過ごしてきた。僕はそれが普通なのだと思って生きてきたけれど、それは周りから見れば普通ではなかったのだろうか。
そんな事ばかり考えれば手も頭も鈍ってくる。仕事が思う様に進まない。今日はまだ火曜日なのに、身体は週末の疲労があるかの様に重たい。鈍る身体に鞭を打ち、何とか定時まで時間を過ごすとパソコンの電源を落とし、君の元へと向かおうとした。その時、
「大丈夫か? 今日は少しご飯でも付き合わないか」
朝の事もあったのだろう。同僚が再び声をかけてくれたみたいだ。
「ありがとう。でも、すぐ家に帰らなきゃいけないんだ」
また今度誘ってほしい。僕はそう断りを入れ、足早に会社を後にした。
君と僕は似てきている。やる事も過ごす時間だって一緒だ。でも果たして、それは似てきているのだろうか。一人でいる時間と二人でいる時間、どちらが本当の僕なのだろうか。
一つずつ、僕の何かが削れていく度に、一つずつ、僕の居場所がなくなる度に、少しずつ、君といる時間が増えていく。僕が君に寄り添う度に僕の僕である部分が削れ、次第に消えて失くなっていく。
過去の自分は今の僕がどう見えるのだろう。君に似てきたねと絶望するのだろうか。まだ、君の側にいる事を喜ぶのだろうか。
僕は削れゆく何かに気が付かぬふりをして、今日もまた、君の元へと向かった。