1.擬態
傘が雨を受ける音にかき消され、君の言葉が宙に舞った。
「ごめん、今何か言わなかった?」
僕は肩にかかる荷物を直しながら聞き返す。
「ううん、何でもない。傘を持ってくれてありがとねって言っただけ」
別に何も特別ではない。ただの日用品のいつもの買い物。そして、いつもの帰り道。二人の肩を重ねながら、一つ傘の下を歩いていく。今日は雨の予報だったから、僕が傘を持ち歩いていて良かった。
「どう致しまして」
僕は君に向けて微笑み、重心のずれた荷物を再び直すと、ついでに君の肩に手を回し乾いた服の感触を確かめる。
「雨が降ってるけど、こんな時間も幸せだね」
君は何も知らない様な、透き通った笑顔でそう呟いた。実際、君が俯いていたからよく見えなかったが、きっといつも通りのそんな表情で呟いたんだろう。僕は優しく微笑み返すと、そうだね。と、相槌を打つ。
傘に落ちる雨音は激しさを増し、車が通る度に僕の半分を湿らせていく。僕は肩からずり下がったそれを直すのを諦め、半身に伝わる冷たさに嫌気が差しながらも、そうだね。と、もう一度だけ微笑み返した。君はそんな反応に気分を良くしたのだろう。嬉しそうに肩を寄せ、いつもの透き通った笑顔を見せた。
君は笑顔を撒き散らす。この世界の出来事など少しも気にも留めずに、ただただ湧き出る嬉しさに身を任せた様な、そんな笑顔を。
その無邪気さを受け止める度、少しずつ僕の心が引き裂かれてくのを感じた。
「ねえ、私のこと好き?」
溢れ出す感情を止められない君は、僕の肩に中途半端にかかった荷物に覆い被さり、また透き通った笑顔を向ける。
僕の優しさに気がついてほしい訳ではない。別に君が悪い訳でもない。ただ、小さな事で傷つきやすい君が少しでも笑ってくれるなら。そんな気持ちから始まった些細な事だったのに、今でもそれで良いはずだったのに。いつも通りのその優しさは、傘の中に漂って君に届く事なく消えていく。
こんな事を考えるのはもうやめにしよう。心の奥底で滲む不満を押し殺し、そんな自分に蓋をして僕は優しく微笑んだ。
「君の事が好きだよ」
僕は上手く笑えているだろうか。でも、満足気な君の反応を見るにきっと大丈夫。まだ僕たちは上手くやれている。きっとまだ大丈夫。
降り続く雨はその強さを増していき、傘から落ちる雫が増えていく。僕はずり下がった荷物と腕に抱きついて歩く君の重みを感じながら、いつもの帰り道を辿った。
僕らは家に辿り着き、先にお風呂を済ませた僕は台所へ向かう。君がお風呂にかける時間は人一倍長いから、その間に料理を完成させよう。そっちの方が断然に効率的だし、時間の短縮にもなる。これも僕らのいつも通り。不満なんてない。
二人の支度が終われば二人で食卓を囲む。
「これ美味しいね。私にはできないからいつも尊敬しちゃう」
君は口いっぱいに頬張りながら僕に微笑みかける。それを見ながら僕も同じ様に微笑みを返す。これもいつも通りだ。この後だってそう。僕がお皿を洗えば君が抱きついて来て笑顔でお礼を言う。僕が寝る前に電気を消せば、君はおやすみと微笑みキスをする。
君が僕に笑う度、その笑顔が心のずっと奥まで沁みていき、蓋をして塞いだはずのものを引き摺り出す。決して見返りが欲しい訳ではない。その事を指摘するのも違う。荷物を持ってもらわなくても、料理を作ってくれなくとも構わない。君は何もせずとも笑ってくれたらそれで良い。君の為に僕がいるんだ。例え君が僕の優しさに気が付かず、いつも通りのことだと笑顔で終わったって構わない。君の為にして来た事がゆっくりと、ゆっくりと時間をかけながら当たり前の日常へと変わっていく。本当にそれで良いのだろうか……でも、今はまだ大丈夫。僕はまだ君を支えられるはず。そう自分に言い聞かせ続け眠りに落ちる。
この感情を決して君に悟られぬ様に、自身さえも騙しながら僕は君に笑顔を向けよう。確かに近づく別れの予感に気付かぬふりをしながら、いつか僕の不満が溢れ出すその日まで、いつもの日常に擬態をしながら、僕は君に微笑みを返そう。