喉を潤す果実酒
「嘘、つき……」
少女漫画では語られることのなかった真の始まりを思い出した私は、閉じていた瞳をゆっくりと開く。
どうやら夢の中で幼少期に体験した出来事を追体験していたようだ。
そのおかげで、彼女の存在がより身近になったような感覚に陥る。
私は瀬戸留美であり、エルミーヌ・テルセート。
これから私は、公爵家の令嬢として生きていくことになるだろう。
テルセート家の人間として、相応しい立ち振舞いが求められる。
今まで通りでなどいられない。
瀬戸留美として生きて来た記憶など頭の片隅に追いやって、今見た光景だけを頼りにエルミーヌとして生きていくべきだ。
――ディナルドを愛している。
その気持ちを否定していたはずの私は、胸の奥底にそうした感情が眠っていることに気づかされたけれど……。
後々裏切られることを思えば、やはりこちらから関係を断つべきだ。
「エルミーヌ」
誰かが私の名前を呼んでいる。
地を這うような低い声を耳にして、想像できる人物は一人だけだ。
――あの人がここにいるはずがない。
握りしめられた手から伝わる熱だって、気のせいに決まっている。
そう結論づけ、再び目を閉じて現実逃避した。
婚約破棄は、予定通りに進める。
愛する人を傷つけることなど、どうってことない。
こっちは、命がかかっているのだから。
あの人の痛みを恐れてこのまま6年間関係を保ち続ければ、私に待っているのは無惨な死だ。
彼はエルミーヌが命を落とすよりも辛く苦しい思いをするかもしれないけれど……。
本当に私を愛しているのであれば、その苦痛でさえも耐え抜いてくれるはずよ。
お互いに生き延びることさえできれば、いつかはきっと分かり合える日が来ると思うから――。
「エル……」
身体に何かが這いずり回るような感覚とともに、家族とあいつしか呼ばない愛称が聞こえてきた。
ハッと目を見開けば、こちらを心配そうに覗き込んでいた男が私を抱きしめようと手を伸ばしていることに気づいてしまう。
「ね、寝起きドッキリ……?」
ここは日本ではない。
テルセート公爵領とモントーネ辺境伯領は、徒歩であれば行き来するのに半日はかかるであろう距離に位置している。
一度この地を出発すれば、簡単には戻ってこられないはずなのに――どうして自領に戻ったはずのディナルドがいるのだろう。
私は何度も瞬きを繰り返すと、至近距離でベッドに寝転がる婚約者を見上げた。
「やっと目が覚めたか。おそよう、眠り姫? 待ちくたびれて、強引に目覚めさせようとしていたところだ」
「……辺境伯に、戻ったんじゃ……」
「いや? エドと話し込んでいたら、エルがぶっ倒れたって言うから驚いちまってな。無理をいって、残ることになった」
「倒れた……? 私は眠っていただけのはず……」
「魔力枯渇を起こして、3日も眠り続けてたんだぞ」
何を言っているのか、さっぱり理解できない。
固く寝心地の悪いベッドに身体を預けて意識を失ったあと、夢の中で過去を追体験しただけで三日も経過していたなんて……。
そんなこと、ありえるのかしら?
日本人として生きた経験のある私からしてみればあり得ないことだけれど……。
魔力を大量に消費すれば、魔力枯渇を起こす。
この世界ではそれが常識みたい。
私はそう言うものかと納得することしかできなかった。
「エルが目を覚ましたときのために、果実酒を用意した。飲めるか?」
驚くべきことは、それだけじゃない。
病人に与える飲み物は、本来であれば水であるべきなのに……。
我が国は情勢が不安定で、至る所で領地争いが行われている。
文明が発展しておらず、清潔な飲み水は果実酒と並んでとても貴重なのだ。
そのため、喉を潤すための飲み物は果汁ジュースやビールなどが主流なのよね。
だから、彼が私に差し出したのは冷たい水じゃなくて果実酒で……。
「ええ……」
まだ未成年の子どもなんだから、お酒なんて飲めないわ。
あの夢を見る前だったらそう異を唱えていたかもしれないけれど、エルミーヌの記憶を追体験した私はこの世界の常識がなんとなくわかって来ていた。
小さく頷いてから上半身を起こせば、ディナルドは角を差し出してくる。
そう。角だ。
牛の頭につけられていたであろうものを切り離し、尖った部分を床に向け、中をくり抜いてマグ代わりに使っている。
空洞を覗き込めば、赤いドロドロとした液体が注ぎ込まれていることに気づく。
「飲まねぇのか?」
「これ……溢れない……?」
「ん? しっかり握ってゆっくり傾ければ、問題ねぇよ」
それはあなたが、この器で飲み慣れているからでしょ?
文句の一つくらいは言ってやっても許されるのではないのかと一瞬頭を過ぎったけれど、文句を伝えた所で無意味だ。
無駄な言い争いはするべきではない。
エルミーヌの記憶には、彼がこの器を使って飲み物を口にしていた瞬間が残っている。
覚束ない手つきで恐る恐る縁に唇をつけると、ゆっくりと器を傾けて喉を潤した。
「おいしい……」
「だろ? エルはエールよりも、果実酒がお気に入りだもんな」
サイコロ状に小さくカットされたりんごやベリーを咀嚼し味わえば、ディナルドが得意げに微笑んだ。
私が納得できずに顰めっ面を披露すれば、彼は頭部に手を伸ばして優しく撫でつける。




