壁ドンから抜け出して
「一体、何が不満なんだ? エルが望むことは、なんでも叶えてやったのに……。甘い汁を吸ってポイとか、虫が良すぎないか?」
彼の願いが殺人であることを知らなかったからこそ、エルミーヌは二つ返事で協力すると微笑んだ。
もしも、しっかりと彼女に説明していれば……。
悪いことだからできないと、純粋無垢な少女であれば無邪気に拒絶していたはずだ。
『邪魔な奴らは、オレ達の手で始末すればいい』
その言葉が紡ぎ出される前から、ディナルドのやろうとしていることを指摘したら不審がられるでしょう。
今でも充分、思い通りにならなくて苛ついているようだけれど。
タイミングを間違えたら、面倒なことになる。
ここは慎重に行くべきだわ。
「なぁ……。いつまでツンツンしてんだ……? そろそろ、デレてくれたっていい頃だろ……」
熱っぽい瞳が揺れている。
ゆっくりと近づいてくる顔から逃れようと身を捩った私は、こうしちゃいられないと反撃に出ると決めた。
こうなってしまった以上、無理にでも壁ドンから逃れるしかないわ!
右手で握り拳を作り、ディナルドを見上げる。
『唇でも塞いで、黙らせるか……』
最低なことを考えている男に天誅を下すべく、勢いよく顎めがけて拳を振りかぶり――。
「……ぁ……っ!」
「お嬢ちゃんのへなちょこパンチでやられるほど、オレは軟じゃないぜ?」
「そうでしょうね……!」
本命はこっちだ!
勢いよく右足を上げ、下半身の急所めがけて思いっきり蹴りつける。
彼は左手を壁に、私の手を右手で掴んでいる状態だ。
壁から手を離したとしても、右足の攻撃は防げない――はず、だったのだけれど……。
彼は当然のように右足で急所をガードすると、こちらを傷つけないように細心の注意を払いながら攻撃をいなしてみせた。
「5点だな。こう言うのは、不意打ちでやるもんだ」
「10点満点中の5点なら、及第点じゃない」
「100点満点に決まってるだろ。攻撃が失敗に終わったら、相手が警戒心を解くまで待つべきだ。ま、相手がオレじゃ、どう足掻いたって失敗するわけだが……」
次はどんな行動で楽しませてくれるのかと、期待を込めた瞳が私を見下す。
この状態で彼の手から逃れようとしたって、結果は見えている。
――ここまでかしら……?
私の最終目標は、少女漫画の流れ通りの展開にならないように抗うことだ。
彼が無理やり現場に連れて行こうとさえしなければ、作戦は成功したともいえる。
必要以上に抗い続けて、大人の階段を数段飛ばしで駆け上がるような展開になるのだけは、避けなければならない。
ここではっきりと、ディナルドの申し出を断るべきだ。
そう決めた私は、彼の喉元を見つめながら口を開く。
「私は……」
漆黒の瞳が、こちらを冷たい瞳で見下している。
彼の意に背くような発言をすれば、頭からムシャムシャと食らってしまうぞと言わんばかりの獰猛さだ。
幼い少女のままであれば、震え上がって声を出せなかったかもしれないけれど……。
残念ながら私には、26歳の社会人として生きた記憶がある。
人相の悪い男から至近距離で睨みつけられ所で、所詮は14歳の子ども。
恐れるまでもないわ!
「ディナルド・モントーネ、と……」
そう心の中で闘志を燃やし、その視線に怯えるほど弱くないと自身を奮い立たせていたはずの私は、自分でも驚くほどに声が震えていることに気づく。
瀬戸留美の意識としてはどんと来いって感じだとしても、エルミーヌ・テルセートとしては恐怖を抱いているってことかしら。
なんだかよくわからないわ。
「――姉さん?」
私の意思に反して言うことを聞いてくれない唇が目的の単語を力強い声音で紡ぎ出す前に、第三者の声が聞こえた。
声のした方向に視線を向ければ、そこにいたのは意外な人物で――。
「助けて!」
私は思わず力いっぱい叫び、婚約者に掴まれている右手をバタバタと乱暴に動かす。
助けなんか求めなくたって、相手は子どもですもの。
成人女性の意識を持つ者としては、口で言い負かしてやってもよかったのだけれど……。能ある鷹は爪を隠すって、よく言うじゃない?
初っ端からエンジンフルスロットルで対応するよりも、か弱い少女を前面に押し出しておいた方がいいと思ったのよ。
敵を欺くには、まずは味方からだって言うものね?
私の名前を呼んだのは、エドアーノ・テルセート公爵令息。
アイスブルーの髪色とヘーゼルの瞳が印象的な、エルミーヌの弟だ。
「こら、落ち着けって」
「離して! あなたとはもう、話すことなんてない!」
「……姉さんと、喧嘩でもしたの?」
「いや? 今日のエルは、機嫌が悪いみたいでな……」
「あなたがとんでもない提案をするからでしょう!? 金輪際、姿を見せないで!」
「どうしたの……?」
私の口から、穏やかではない言葉が飛び出てきたからだろう。
弟は心配そうな表情でこちらを見つめると、重厚な扉を閉じてゆっくりと歩みを進める。
――よかった。弟が手の届くところまで来てくれたら、こちらのものだわ!
「待て。オレがエルを抑えている間に、魔法探知を頼む」
「いいけど、その必要があるとは思えないよ」
「念には念を入れておけ。様子がおかしいのは、誰の目から見ても明らかだろ」
「……確かに……」
「エド!」
どうして姉の言葉よりも、こいつの言うことを信じるのよ!?
彼に押さえつけられたまま上半身を捩っていた私は、弟と目線を合わせる。
エドの考えていることを探るためだ。
――教えて。
心の中で祝詞を紡ぎ、エドアーノの考えていることを探る。
『兄さんと姉さんが喧嘩なんて、一度もしたことがないのに……。誰かに魔法で操られているかもしれないと、疑う気持ちはよくわかる。本当に愛されてるなぁ。羨ましいよ』
思考を読み取った私は、愕然とした。
こいつに好かれたって、なんにも嬉しくないけど!?
都合のいい操り人形としてエルミーヌのことを見ていたのは、ディナルドのほうじゃない!
私は瀬戸留美なんだから、少女漫画の中で語られた彼女と別人に見えるのは当然のことだわ。
問題はそれがエドアーノの魔法探知とやらに引っかかるかもしれないし、引っかからないかもしれないと言うことがわからないと言うことだ。
もしも普段と異なることが証明されたら、これから私はどうなってしまうの……?
瀬戸留美として人生を終えている私は、エルミーヌ・テルセートに取り憑く悪霊と呼ぶに相応しい状態だ。
成仏させられそうになったら……二度も死ぬことになるってこと!?
――いいえ。落ち着くのよ。
それは憑依していた場合の話だ。
彼女に転生している可能性が高いのだから、危惧している状況になるわけがない。
後者であれば、私こそがエルミーヌ・テルセートなのだ。
今までの人生では、瀬戸留美であったことを忘れていただけ。
そのことを思い出したから、普段と違う言動をしていると訝しげな視線を向けられているだけに決まっているわ!
「私は正常よ!」
自分でも何を考えているかよくわからない状態で声高らかに宣言すると、それに応えるようにエドが右手の親指と人差し指を弾く。
私とディナルドの周りに、キラキラと光の粒子が降り注いだ。
幻想的な光景に目を奪われて暴れるのをやめると、彼はその隙を逃すことなく私の身体を抱き上げる。
「な……っ! 離して!」
「こら。暴れるなって。落としちまうぞ」
「……!」
ディナルドは背が高いから、床に叩きつけられたらそれなりの衝撃を受けるだろう。
頭を打ったら、大変なことになる。
顔を真っ青にした私は、暴れるのをやめた。
「よーし。いい子だ。やっと静かになったな。じゃじゃ馬を婚約者に持つと、苦労するぜ」
「……!」
許可なく後頭部を優しく撫でつけてきた彼を睨みつける。
――絶対に婚約破棄してやると言う気持ちが、強まった瞬間だった。
「――やっぱり、異常はないみたいだよ。ただ……少し魔力が不安定になっているかな。姉さん、何度か魔法を使ったね?」
「……ええ」
「……魔法を使ったのか?」
ディナルドが目を丸くして、私に問いかけてくる。
魔法を使ってみろと命じてきたのはそっちじゃない。
いざ発動したら意外そうな目でこちらを見つめるなど、信じられないわ。
「ほんとにエルは……どれだけオレを心配させたら気が済むんだ……」
「心配される謂れはないわ」
「悲しいことを言うなよ。オレ達は、相思相愛の婚約者だろ?」
「気色悪い言葉を口にしないで。私はあなたのことなど好きではないし、これからも愛することはないの」
「姉さん……?」
「愛してはいけないのよ。あなただけは、絶対に」
エドアーノとディナルドは、顔を見合わせて絶句した。
少女漫画の中では彼のことが大好きで堪らなかったのに、突然態度を変化させたからだろう。
こっちだって、目が覚めたらいきなり自分が冤罪で処刑される予定の悪役令嬢になっていると知って困惑しているのよ。
早く一人になって、今の状況を整理したい。
これ以上の話し合いは無駄だと判断し、さっさと帰ってほしかった。
「……今日の姉さんは、確かに機嫌が悪いみたいだ。兄さん。せっかく時間を作ってもらった所悪いけれど……」
「……仕方ねぇな……。お転婆娘の機嫌が直った頃に、また顔を出すとするかな」
別れるのが名残惜しいのだろう。
彼は私を抱き上げたまま、額や頬に何度も口づけを落とす。
度が過ぎたスキンシップに絶句している間に満足したらしいディナルドは、身体を離してから私を床の上に立たせると、背を向け歩き出す。
「エルのフォローは任せたぜ」
「うん。姉さんが落ち着いた頃に、連絡するよ」
「おう。じゃあ、また」
「もう二度と、うちの敷居を跨がないで!」
ここに塩があれば、鷲掴みにして大量散布していた所だ。
手元に用意されていなかったのが残念で仕方がない。
ここは日本ではないみたいだし、すぐに手の届く場所に塩がなくたって仕方ないわよね。
私はどうでもいいことを考えながら、険しい顔でその場をあとにする彼の背中を見送った。




