母の愛
複雑な心境で娘を迎える事となったミサコではあるが、一度離れて行った我が子とまた暮らせるのは嬉しい事だ。
そしてそれ以上に、付き添いでやって来た新堂に舞い上がっている。
「ねえ新堂先生?嫌いな食べ物って何かある?どういう味付けが好み?」
料理好きのミサコは、ここぞとばかりにもてなしの準備に躍起になる。
――願いが叶ったわ!一度先生に手料理をご馳走したかったのよねっ、まさか一緒に暮らせるだなんて?きゃ~っ!フォルディス様も来てくだされば良かったのに――
この心の声は決してユイのものではない。あまりにも似すぎている母娘である。
ミサコの勢いに若干押され気味の新堂は、苦笑いで答える。
「特に嫌いなものはありません。どうぞお気遣いなく…」
「あらそう。じゃあ、ユイの好みに合わせるわね」
「そうしてください」
答えながら新堂は思う。初めから娘を優先してくれ!と。
こんなミサコの様子に戸惑いながらも、新堂はどこか安堵していた。
このシビアな状況下において、ミサコがこれだけの心の余裕を持てるとは思っていなかったからだ。
――さすがはユイの母親、頼もしい限りじゃないか。来て正解だな、ユイ?――
何の反応も示していないユイを見やる新堂。
心配性の母を何かと気遣って来たユイだが、ミサコはそんなにヤワではなかった。
「あっ、そうそう、ユイの休む場所を確保しなきゃね。先生、一緒に来てくださる?」
「ええ。ほらユイも行くぞ」
――だから娘を優先しろって言うのに…――
何かと新堂と行動を共にしたがるミサコであった。
新堂がこれまでの生活状況を簡単に説明し、これからの方針を決めて行く。
「ええっ、そうなの?全てフォルディス様がしてくださっていたなんて!驚きだわ…。あの方、意外とマメな方だったのねぇ」
「私も驚きました。むしろ私より几帳面でしっかりしていますね」
「まあ、新堂先生ったら!」
ユイはこんな楽しい会話に加わる事もなく、窓辺で一人外を眺めている。
そんなユイを眺めながら、ミサコが心境を打ち明ける。
「最初はね、正直不安だったの。だってあのフォルディス様よ?ユイがあの方のお相手なんて務まるのかしらって…あらごめんなさい、こんな話」
「いえ。私だって正直反対です。マフィアのボスと結婚なんて?…これは失礼」
目の前の女もボスの妻である事を忘れていた新堂。
「いいのよ。だってその通りだもの。自分を差し置いて何だけど、ユイには正しい道を行ってほしくて」
これには新堂が意見する資格はない。自分も裏社会の人間。そしてユイはラウルに出逢う前からすでに、正しい道からは外れているのだ。
「フォルディス様って本当に恐ろしい噂しかないみたいで。あ、これは夫から聞いたんだけど。まさか私が持って行った縁談相手がそんな人とは思いもしなかったわ」ミサコは肩を竦める。
「でも、お会いしてみてビックリよ!あまりの美貌で、近寄りがたいほど神々しいんだもの。ああいう男は遠くから見てるだけでいいわ、私は」
ミサコの一人語りにようやくひと区切り付いて、新堂が一言発する。
「ミサコさん…話が反れてます」
「あらごめんなさい、つい浮かれちゃって!」
――まるでユイと話しているようだ…――
新堂は改めて思った。
「でも、ユイは本当に愛されているのね。それが分かって良かったわ。だったら、早く思い出させてあげなきゃ。ね?先生!」
「そうですね」
「あ、ねえ?夜は一人で寝かせても大丈夫かしら。今まではフォルディス様と一緒だったのよね?」
「ああ…そうですね」
「先生に頼む訳にも行かないし、私が一緒に寝るわ。しばらくコルレオーネには一人で寝てもらいましょう。あの人、寂しがるかしら…」
「本当に仲がよろしいですね」
ポツリと呟いた新堂に、ようやく自分が惚気ていた事に気づいたミサコ。
「イヤだっ、恥ずかしい!そういう新堂先生はお相手は?カッコいいから随分おモテになるでしょ?」
「おりませんよ。理想の相手はすぐ近くにいるんですけどね…」そう言ってミサコを見つめた新堂だが…。
――…いや、ちょっと違ったかもしれない――
ミサコの全貌が見えて来た今、考えを改めつつあった。
「あらっ、それってまさかユイ?」
「いえ。ミサコさんです」新堂が正直に答えた。
そしてすぐに「正確には、でした、ですが…」と言い直す。
「ええっ!!私が?そういう事はもっと早く言ってほしかったわ!」ミサコは本気で悩み始める。
――ん?ちょっと待て、って事はコルレオーネと再婚する前だったら、俺はどうなってたんだ?――
告白しなくて良かったと本気で思う新堂であった。
そして、すぐにルーマニアから大量の荷物が届いた。
その段ボール箱の山を見やり、ミサコとコルレオーネが会話する。
「こんなにたくさん…フォルディス様ったらまるで引越しじゃない?やっぱりあの子、このまま追い出されちゃうのかしら」
「まさかそんな礼儀知らずじゃないだろう?あの男は。そんな事をすればこちらも黙っていられんぞ」
マフィアの抗争が勃発しそうな雰囲気となるも、二人がイタリア語で話していたため新堂には理解できない。
それに対し、ソファに大人しく腰掛けていたユイは反応したように立ち上がった。
「ん?どうした、ユイ」
新堂が日本語で尋ねるも当然返事はない。だがしかし。明らかにユイの目が違う。
「…あの、ミサコさん、今どんなお話を?」
「ああ、ユイがフォルディス様の所を追い出されるのかしらって」
「それだけですか?」
「ええと、この人が、そうなったら黙ってられないって。それが何か?」
「コルレオーネさん!物騒な感情は抑えてください!スマイルスマイル!」
いきなり慌て出した新堂に、二人はポカンと顔を見合わせる。
すぐに殺気立った雰囲気は消え去って、ユイは何事もなかったように元の場所に収まった。
――ふう…全く気が休まらない、こんな日々なんて?フォルディスもよくやってたもんだ!――
ラウルの苦労がここへ来て実感できた。できたのは新堂だけなのだが。
こんな一波乱もありつつ、日常はゆっくりと流れて行く。
ミサコの一見ほんわかとした雰囲気は、時にスパルタに早変わりする。その姿はユイに瓜二つだ。
「やっぱり親子だな。おまえ達ホントそっくりだ!つまり、ミサコさんが理想だって事はだ、ユイもそれに当てはまるって事だよな。なあ、どう思う?」
庭でユイと日向ぼっこをしながら、新堂が問いかける。理解されない事が分かっているからこそできる質問である。
「俺はおまえの事、好きなのか…?」ユイを見て自問自答する新堂。
それを見て、ユイが口を動かした。「ああ、あう…」
「ユイ?今何か言ったのか?」
新堂はその口から漏れ聞こえた声に反応する。拒絶の時しか声を出さないユイが、今何か発声したのだ。
「あ、ああ…っ」
明らかに何か言いたそうだ。その目はしっかりと新堂を見ているのだから。
「…っ。もういい、分かった、無理はするな」
――俺の言葉を理解したとは思い難いが…こんな時に反応するなよ!――
気恥ずかしさと真実を知る事への恐怖で、新堂はユイから目を逸らし軽くハグした。
そのまま優しく頭を撫でてやる。
「少しずつ、リハビリして行こうな」
ともあれ明るい兆しが見えた。これまでなかった良い兆候だ。やはり環境を変えた事は大きいようだ。
それから毎日、ユイに発声のリハビリが取り行われた。それにつれて、少しずつユイが声を発する頻度が上がって行く。
ミサコが参加した時には、幼少期の思い出や家の事などを語り聞かせる。
コルレオーネが同席していない時は、全て日本語だ。
「今思えば、あの男が全ての元凶よね。あなたはホの字だったみたいだけど!ねえユイ?」
「あの男というのは?お父様じゃないですよね」
「違うわ。キハラって言う男がね、ユイのボディガードっていうの?それと教育係もしてくれてたの」
「さすがはお嬢様だな、ユイ!」
ミサコの口元を凝視していたユイが、声を受けて新堂を見る。
「お、おじょ…」
「ユイ、そんな言葉は覚えなくていい」慌てて新堂が訂正する。
「それよりほら、お母さん、って言ってみろ」
「ああ、あう…お、あ…」
「お、か、あ、さ、ん、お母さんだ、ユイ」
新堂の口元を見て、必死になって口を動かす。「あ…お、お、はぁ…」
「少し休んで。難しいよな、か、って発音は案外力がいるんだ」
「はぁ、が、…が」
「もう少しよ、ユイ。頑張って!」ミサコも応援する。
「がん、ばって…」
そのミサコの口調を真似て、ユイが声を出した。
「まあ、言えたじゃない!もう一度お願い」
「がんばって…お、か、あ、あ…」思うように行かず表情が曇り出す。
「あああっ!!あうー!!」
「ユイ、落ち着け、今日はもういい、十分だ」
こうしていつも途中で癇癪を起こすのだった。
だがこの日、ようやくユイはやり遂げた。
「おかあ、さ、ん…」
「できたわ、凄いわ、ユイ!大好きよ!」
ミサコがテーブルを乗り越えてユイを抱きすくめる。突然飛びかかられたユイは、危うく椅子から落ちそうになった。
「おっと、危ない…っ」
透かさず新堂が椅子を押さえて事なきを得る。
「あらごめんなさい、つい興奮して!」
「おかあさん、がんばった」
「頑張ったのはユイよ。偉いわね。自分の名前も言ってみて、ユイ」
「う、い」
「ユイ」
二人が作る口の形を見比べて、ユイが唇をすぼめる。
その様子はまさにキスシーンを思い起こし、その柔らかそうな唇に目を奪われる新堂。
――いかんいかん…俺は何を考えてる?集中しろ!ミサコさんの前だぞ?――
「ふ…、う、ぐ…うう~っ!!」
「もっと発音が簡単な名前だったら良かったな」
〝ゆ〟が発音できず癇癪を起しかけているユイを見て、新堂が軽い気持ちで零す。
するとミサコが言った。
「私はこの名前、大好きよ。ユイは、結ぶという意味なの。人と人を繋ぐ架け橋になるようにって。こうしていろんなご縁を繋ぐ子になってくれて、私は大満足だわ」
名前に込められた想いを知り、無神経な感想を口にした事を後悔する新堂。手のひらを返したように賛同する。
「全くその通りですね!名は体を表すと言いますから」
「難しい事ほど、乗り越えた時の達成感は大きいわ」
「…はい。そう思います」
――これはしくじった…口は災いの元とはよく言う!――
「う~、う~」
その後、ユイの唸り声のような発声練習は延々と続いた。
努力家のユイはひたすら唸り声を上げ続け、少しずつ話せる言葉が増えて行った。
いつでも笑顔を絶やさないミサコのお陰か、ユイの表情も徐々に柔らかくなって行く。
「せんせえ、おかあさん、ぱぱ、がんばった!」
今のところの成果はこの4単語だ。
「そうだな、ユイは頑張った。もう一つ覚えた方が良くないか?フォルディスさんの事」
「せんせえ、がんばった!」
「いやそうじゃなくて、フォルディス…いや、ラウルの方が簡単か。言ってみろ、ほら、ラウルだ」
「あ…、あう?」
「ら、う、る」
「ああ…う、う、…」不意にユイが口をつぐむ。
「ユイ?どうした?」
「あ…、ううっ!」そして今度は頭を押さえて苦しみ出す。
「ああっ、い…いいっ!!」
「頭が痛いのか」
「うう!んっ」
「今、うんって言ったのか、…ってそんな事はいいか、とにかく横になれ、あまり酷いようなら鎮痛剤を…」
新堂がそこまで言うと、ユイが遮る。「うつ、いやっ!いたいの、いやぁー!!」
「注射が嫌だって?全くそういう事は言えるんだから…困ったヤツだ!分かった分かった、打たないから落ち着け」
ソファに寝かせたユイに言い聞かせ、様子を窺う。目元には涙が浮かんでいる。
「…なあ、泣いてるのか?」
「うっ、うっ…」
「ユイ、泣けたじゃないか!俺が泣かせたみたいなもんだが…複雑だ」
そこへミサコが現れた。
「あらユイ、大丈夫?無理しないでね」
「ミサコさん、ユイが涙を流していますよ。当初から拒絶の感情は顕著に表せるのですが、涙は初めてです。これは大きな前進です」
新堂は知らされていなかった。ラウルに銃口を向けたあの夜に、ユイが涙を流していた事を。
「まあ!良かったわね、ユイ!それじゃ今晩はご馳走作らなきゃっ」
娘が泣いているのに喜ぶ母。涙の理由は気にならないようだ。さすがはユイの母である。
ユイはラウルと言いかけて頭痛を起こした。それには深い意味がありそうだ。
――フォルディスとの思い出が大きすぎるからだろうな…――
これでは受け入れるどころか拒絶だ。まだまだ報告は入れられない。仕事として考えれば、これは停滞を意味する。だが今回の仕事に限っては嬉しい事だ。
――このまま一生忘れててくれれば、俺がずっと一緒にいられるじゃないか?――
新堂はどこかでこんな事を思い始める。
だがそんな時、決まってユイの左手中指のリングが牽制するように光を増すのだ。
「なあ。そのリング、婚約指輪なんだろ。ダイヤじゃないのも珍しいが、何で薬指じゃないんだ?」ユイに向かって話しかける。
声が聞こえて新堂を見るが、内容は理解していない。
首を傾げて微笑むユイ。「せんせえ、がんばるっ」
「は?何をだよ」
ユイが両手を天井に掲げてもう一度、がんばるー!と声を張る。
「だから何を頑張れって…まさか、フォルディスから自分を奪えって言ってるのか?」
「ふふっ?」
「おい…マジかよ!」
不敵に笑ったユイだが、残念ながら何も理解してはいない。
結局、一時進展したかに見えた発声のリハビリは、その後頭痛が頻発したため現在は控えている。
一番肝心な自分の名前は一度も言えていないが、フォルディス邸にいた時よりも確実にユイは前進している。
これは間違いなく母の愛の成せる業と言えるだろう。




