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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第三章 試される絆
39/99

虚ろな瞳に映るもの(1)

 ラウルは早々にユイを屋敷に連れ帰る事を決めた。


 それは単に、少しでも早く二人の静かな生活を再開したいという理由でしかないのだが、この展開を喜んだ者は多い。

 最も喜んだのは、マフィアに出入りされ迷惑していた病院側だ。

 そして病院嫌いのユイ本人にとっても然り、新堂に至っては表の世界にあまり顔を出せない身であり、長居はしたくない。

 とはいえ先行きの分からない患者に対し、率先して退院を勧める訳にも行かない。


――マフィアに脅されて仕方なく、何て素晴らしい言い訳だ!――

 と、こうなる訳だ。


 満足げの新堂だが、彼に限っては喜んでばかりもいられない状況である。

 なぜなら、またも仲睦まじい二人の日常を間近で見る羽目になるのだから!

――今回はさすがにイチャイチャされる事はないだろうが…――


 これからの生活を考えながら、新堂は移動中の車内でラウルとユイに目をやる。


 起き上がれるようになったユイだが、誰を認識する事もなく言葉も発せず、虚ろな様子は変わりない。

 そんなユイの手をラウルはしっかりと握る。ユイはされるがままだ。

 今のところ何に対しても反応を示さない。新堂の向ける注射器を除いては。


「フォルディスさん」

「何だ。退院はまだ早かった、などという意見は今さら聞き入れないぞ?」

「…言いませんよ、ここまで来て!ただ定期的に検査は受けさせますよ?頭のケガは油断できませんので」

「分かっている」

「しかし、誰が彼女の面倒を見るんです?」新堂がチラリとダンを見やって聞く。


 見られたダンが慌てて目を逸らした。

――勘弁してくれ!自分はラウル様の代理で仕事が山になっているのだぞ?それに加えユイ・アサギリの世話などと…――

 病院に入り浸りのラウルに代わり、ダンが多くを担っていた。


「ある程度は自分でできるとして、それでも介助は必要だ。ヘルパーでも雇ったら…」

「もちろん私がする。私がずっとユイに付いている」

――おいおい、この高潔そうなマフィアのボスが?ヘルパー紛いの事をすると?笑わせてくれる!――

 新堂は心で冷笑する。自分の事すらメイド達にさせるであろう男に、何ができるのだと。


「そっ、それは困りますラウル様!これ以上業務が滞れば多大な損害に繋がります」

――ああ待て…これでは自分が代わりに面倒を見ますと言っているようなものだぞ?だが…っ――

 必死なダンを珍しくラウルが凝視している。

「このひと月近く、お前に負担を掛けているのは分かっている。だがユイを一人にはできないのだ。分かってくれ」


――ラウル様…何と尊いお言葉っ、感無量!――

「はっ!お任せください!大船に乗ったつもりで!」

 忠実すぎるダンは、このたった一言により何が何でもラウルに応えようと決意を新たにした。


――…もう勝手にしてくれ――

 向かいの席で新堂は呆れ返る。


 そんな新堂に唐突に声が掛かる。

「新堂」

「何だ?」気を抜いていた新堂は、ついぞんざいに返事をしていた。


 ラウルの鋭い視線に気づいて、咳払いをしてから言い改める。

「ゴホンっ!何でしょう、フォルディスさん」

「お前に改めて依頼する。ユイが元に戻るよう手を尽くしてほしい」

「もちろんですよ。そのつもりでここにいるんですから?」

「安心した」



 やがてユイを乗せた車が屋敷の門を通過すると、集合した部下達が一斉に整列した。

 昼前の忙しない時間帯。いつもなら鬼の形相で周囲を威嚇している強面共も、この日ばかりは表情筋を緩めて顔を紅潮させている。


「…これは凄い!」新堂が思わず口にする。

 正式なフォルディス家の人間でもないユイに対して、この待遇は不可思議だ。

 だが誰に指示された訳でもなく、部下達は皆自分の意思でこうしているのだ。

「ユイ様、皆、あなたのお帰りを心待ちにしていたのです。ううっ、ついにこの日がっ!」

 これまでの事がダンの脳裏を走馬灯のように駆け巡る。怒涛の日々を乗り越えた事を改めて認識してしまい、感極まって後半は涙声だ。


 そんなダンを冷めた目で眺めるラウルと新堂。

 ユイはゆっくりとした瞬きを繰り返しながら、まるで他人事のように遠くを見つめる。その瞳には何も映ってはいない。


「さあユイ。着いたぞ」

 ドアが開かれ先に降りたラウルが、ユイに手を差し伸べる。反射的に手を伸ばしたユイだが、なぜか降りようとしない。

「どうした?ここはおまえの家だ」

――ああ…あの者達が怖いのか。当然だろうな――

 ラウルは整然と並んだ黒服の部下達に目をやる。

「出迎えご苦労。ユイが怖がっている、お前達は持ち場に戻れ」


 かしこまった部下達は声を揃えてイエッサー、ボス!と叫ぶと同時に四方に散った。

 待ちに待ったユイの帰還。誰もがその姿を一目見よう、何なら声を掛けてもらおうと淡い期待を抱いていたが叶わず。


「怖がってるってどういう事だ?訳が分からん!」

「もったいなくて俺達には見せられないって事じゃないのか?ボスも人が悪い!」

「残念、お姿も見られなかった…」

「俺は見たぜ、チラッとだけど。やっぱりユイ様は美しくていらっしゃる!」

「いいなぁ…って、何でお前だけ見えてんだよ!抜け駆けは許さんぞ?」

「はぁ~?何を言ってやがる、このド近眼が!」

「俺は乱視だ!」

 こんな元気な言い合いが勃発したくらいだ。


 部下達にはユイの詳しい状況は知らされていない。今のユイが誰の事も覚えていない事を知れば、こんな元気はかき消えるだろう。


 ようやく車から降りたユイを連れて、ゆっくりと屋敷内に入る。


「お部屋は準備万端でございます」

 聞かれる前に報告する有能執事と化すダンだが、次のラウルの言葉に固まる。

「ユイは私の部屋で生活させる」

「…え?」

「その方が世話をしやすい」

「さようで…」


――これは予想外の展開!以前ユイ様がご療養されたお部屋を準備万端整えたのにっ。読みが外れた、無念…――


 だがそこへ口を挟んだのは新堂だ。

「待ってください、フォルディスさん。ユイはまだ誰の事も認識していません。現にさっきも、お家の方達を怖がっていた。同室で過ごすのは、もう少し慣れてからの方が良いかと」

 部下の事をお家の方と表現する辺りは抜かりない。このところボロを出しやすい新堂は慎重に言葉を選ぶ。


 そして本音はこうだ。

――手の早いフォルディスの事、何も分からないユイを早速ベッドに押し倒すに決まってる。絶対に許可できん!――

 そんな本音を押し殺して付け加える。「身の回りの事を、少しでも一人ででできるようにならないと。それも大事なリハビリです」

 ユイに激甘なラウルの事、何もかも先回りしてやってしまいそうだと新堂は思った。


 しばし考え込んでいたラウルが、この意見を却下した。

「リハビリの件は承知した。だがユイは私を怖がってはいない。一人でいるよりも、一緒にいた方が何か進展があるかもしれないではないか」

――リハビリか…。聞いていなければ全てやっていたところだ――


「…まあ、私はどちらでも構いませんがね。一番は本人に決めてもらう事です」

 面倒になった新堂は投げやりに答える。

「それができれば苦労しない!もう少し言葉を選べ、ドクター新堂!」

「ダン。構わん。一々突っかかるなと言ったろう」

「申し訳ございません…」


――これだけ選んで話してやってるだろうが!人の気も知らずに?――

 新堂も今回ばかりは堪らずダンを睨んだ。


「ユイ、部屋は私と一緒でいいか?それとも一人の方がいいか?」

 ラウルが腰を屈めて優しく語りかける。

 一瞬だけラウルの顔がユイの目に映った。だが、すぐにその瞳は虚ろに揺れてしまう。

「…」

――ダメか…。まあ分かってはいたが。新堂の言うように部屋は別々の方がいいのか。…いや、こんな状態で一人にはできない――


「疲れただろう、部屋で休め。新堂も一緒に来てくれ」

「ああ、分かりました」


 心の葛藤を一段落させたラウルは、ユイの手を取り自室へと誘導する。


 階段をゆっくりと上りながら、後に続く新堂に向けて話しかける。

「以前お前が屋敷に来た時に、ユイが言っていた。自分達の部屋に入る事を、ドクターは嫌がるのではないかと。私もお前を困らせたくはない、どう思う?」

「そんな事、別に困りませんよ。在宅医療とはそういうものですから」

「そうか。ならば安心した」


――おいおいユイ!逆に聞きたい、なぜ俺がお前達の部屋に入るのを嫌がる?…別に何とも思わんさ――

 そう心で訴えながらも、本音は別にあった。ユイの読みは当たっている。


 複雑な気持ちで足を踏み入れたラウルの部屋は、まるで生活感がなかった。綺麗に清掃されたそこは、高級ホテルの一室にしか見えない。

 この部屋が、ラウルがこのひと月のほとんどを病院で過ごしていた事を表している。


 入院期間後半は、主に日常生活に必要な動作を身に着けるためのリハビリだった。

 今では食事や入浴、トイレなどある程度は自分でできる。常に側にいたラウルは、食事の介助は経験済みだ。


「この部屋に鍵は付いていない。緊急の際には断りなく入室して構わない」

「鍵、付いてないんですか?」

「ああ。必要ないからな」

「でも誰か入って来たり…」

――それも事の最中に、とか?俺は絶対ご免だぞ!――

 あまりに無警戒なラウルに、新堂は意外性を感じる。


「誰が入って来れると?ここが誰の部屋か知らない者はこの屋敷にはいない」

「そう、ですね…!これは野暮な質問をしました」

 ここはボスの部屋。無断で入れば大袈裟でなく命の危機となる。ボスという存在はそれ程に絶大で恐ろしいのだ。


 それ以前に、超能力により扉を動かないようにする事だって可能だ。

 この屋敷に監視カメラの類が一切ないのも、エスパーには必要がないからである。


 そんな部屋に年中無休で入室を許可された新堂は、計り知れない信頼を得たという事になる。ダンでさえそんな許可は与えられていないのだから!


「奥に寝室がある。そこの突き当りがバスルームだ」

 奥の部屋にはキングサイズのベッドが鎮座していた。そこはあまり見ないようにして、新堂はユイの方に目を向ける。

 ぼんやりと立ち尽くしているユイに、ラウルはわざとベッドを見せた。

――ここでのめくるめく日々ならば思い出せるはず。ユイ…何か反応してくれ――


 こんなラウルの願いも虚しく、ユイの様子は変わらない。


 その様子を眺めていた新堂は若干勝者気分になる。

――皆が皆、お前のように性の虜という訳じゃない。これを期に学ぶ事だな!――


「室内の配置は把握しました。何かあれば入らせていただきます」

「ああ」

「フォルディスさん、くれぐれも無理はさせないようにしてください。いいですね?」

「先程は自分でやらせろと言ったが。矛盾しているではないか?」

「ああ…そうですよね。失礼しました」


 新堂の心配はユイの身の安全だ。性欲旺盛なラウルに不安しか感じない、性欲薄めの新堂。

――言いたいのはこんな事じゃない…冷静になろう――


 改まって新堂が口を開く。「病院生活とは違って、活動時間量が増えます。一気にあれこれさせないように、という意味です」

「ああ、気を付けよう」

――初めからそう言え――


「今のユイさんは、覚醒度と自発度が低下していて通常の状態ではないため、些細な動作にも過度な労力を要するんです」

「単に体力が衰えているからという訳ではないのだな。それは知らなかった」


――さすがはフォルディスさん、飲み込みが早くて助かるよ――

 新堂は頭の回転の速さに感心して頷く。

「疲労が蓄積しやすくなるので、こまめに休ませてください。肉体的だけでなく、精神的な面でも。と言っても、今の彼女は何も考えてはいないでしょうがね」ユイの方を見て、ため息交じりに続ける。


「自発性に関してですが、病院での様子を見るに促してやれば自分で動けるようですので、フォルディスさんが随時アプローチしてあげてください」

「ああ、分かった。他には?」

「とにかく今は、無理にあれこれ思い出させようとしない事ですかね」

――賢いこの男ならば、これで分かるだろう――


 しばしの沈黙が流れる。


「疲れさせてしまうと分かった以上、やる訳がない」ラウルが断言した。

「安心しました。基本の診察は朝一番でします。起床前に、そうですね…7時半でどうでしょう」

「それで構わない。時間になったら来てくれ」

「はい。それ以外は必要に応じてという事で。では何かあれば呼んでください」


 新堂はもう一度ユイを見やると、部屋を出て行った。



 二人きりになった室内にて、ラウルは立ち竦むユイを陽当たりの良い窓際の一人掛けソファに座らせる。


「何か飲むか?紅茶でも淹れよう」

 返事も待たずに行動に移す。今返事は必要ない。単に自分が飲みたいだけだ。

――ここは能力を使って…。これを見て何か反応してくれるといいのだが。いっそ、いつもの悲鳴でもいい――

 ラウルはユイの斜向かいのソファに腰掛ける。


 紅茶を淹れようと言った張本人が座ってしまえば、普通ならば突っ込まれて当然。だがもちろんそんな声は返されない。


 誰もいない据え付けの簡易キッチンカウンターでは、ティーカップが二つ宙に浮き、ポットにはひとりでに湯が沸く。

 茶葉が棚から姿を現すと、待ち構えるようにティーポットの蓋が持ち上がった。

 正気のユイがこんな状況を目にしたなら、屋敷中に響き渡りそうな悲鳴を上げた事だろう。


「紅茶が入った。私が注ごう」

「…」

 トレイに載ったティーセットが宙を移動して、目の前のテーブルに静かに着地した。

 ティーポットを手に取り、ラウルは自分の手で二人分の紅茶を注いで行く。

「さあどうぞ」


 差し出された湯気の立ち昇るカップを見下ろすユイ。鼻腔に爽やかなダージリンの香りが届いても、それを感じる認知機能は働いていない。

 それでも、ユイはゆっくりとした動きでカップを手にした。これが飲料だと認識したのだ。


 それを見て安心したラウルは、自分のカップを持ち上げて一口飲む。

「何も心配いらない。ずっと私が付いている」

 無言で紅茶を飲むユイに優しい眼差しを向けて、ラウルは幸せに浸る。

――こうして側にいてくれるだけでいい。生きて帰ってくれてありがとう、ユイ――

 あえて言葉にはせずに感謝を伝える。


 黙々と紅茶を飲むユイを眺めながら考える。そうは言っても声は聞きたい。反応してくれるに越した事はないのだ。

 今のところユイが反応したのは、新堂の向けた注射器のみ。ラウルの超能力にも無反応だった。


――他にユイの興味を惹きそうなものは…――

 ラウルは庭に目を向けた。

 ドライブ好きのユイのために買い与えたポルシェは、事故で大破したため今はない。

――あれではむしろ、つらい事を思い出し兼ねない――


 さらに考えを巡らせ、ユイの愛用銃を思い出す。

――そうだ、あれならば相棒と呼んでいるくらいだ、何か反応を示すかもしれない――


 事故当日に持っていたハンドバッグに、それが入っている事は確認済みだ。

 現場で警官が発見したものの見過ごされた、とラウルは思っているが、警察側が意図的に見過ごしたのだ。


「ユイ、お前が無事だった事を相棒にも知らせてやれ」

 そう言って、またもプカプカ浮いて来たハンドバッグを掴み取って中を探る。そして、ひんやりとした鉄の塊が顔を出した。

 コルト・ロイヤルブルーと呼ばれる、とても美しい色をした短銃だ。


 それを目にした瞬間、ユイの瞳が一瞬だけ見開かれた。そのまま微動だにせずに凝視している。


 その目を見て、ラウルは眉根を寄せた。

――…ユイの目が、殺し屋の目になっている!――

 ラウルがマフィアでなければ、気づく事はなかっただろう。

――こちらの人格を目覚めさせるのはまだ先でいい――

 ラウルはすぐにコルトをバッグに仕舞う。


 姿が見えなくなると、ユイは再び虚ろな瞳に戻った。


「ユイ、左手のエメラルドも、お前を守ってくれたのだと思う。渡しておいて良かった」さり気なく話題を逸らす。

 ユイも素直に誘導されてリングに目を向けた。こちらも負けず劣らず美しく光り輝いている。

 そのまま時が止まったようにリングを見つめ続けるユイを、これまた時を忘れてラウルが見惚れた。


 しばらくして、廊下を進む人の気配を察知してラウルは我に返る。

――そろそろ昼食の時間か――


 ラウルの読み通り、ドアがノックされてメイドの声が響いた。

「旦那様、お食事の用意ができました。どちらでお召し上がりになりますか?」

「ダイニングに3人分用意してくれ。ドクター新堂も呼ぶように」

「かしこまりました」

 ドア越しの会話を終えてメイドの気配が遠ざかる。


「ユイ、昼食だ。行こう」

 先に立ち上がってユイに手を差し伸べる。反射的にその手を取りユイも立ち上がる。

「新堂も呼んでおいた」勝ち誇ったようにラウルが言う。


 これも以前ユイが要求した事だった。食事は先生も一緒にと。


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