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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第三章 試される絆
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正義の代償(1)

 ラウルはいつものように、仕事の合間にユイの部屋に顔を出す。


――仕事もひと区切り着いた。ようやく婚約から結婚へと進める――

 そんな話をしようと考えていたのだが、そこにユイの姿は見えず。


 踵を返して緩んでいた表情を引き締める。

「やはり先に、待たせてしまった事を詫びるのがマナーか…」

 考え事をしながら廊下を進んで行く。

 やがて通りかかった中庭に目を向ければ、定位置にあるはずの赤のポルシェがない。


「ダン。ユイはどこへ行った?」

「おおラウル様。ユイ様ならドライブに出かけました。目的地は聞いておりませんが、大抵いつも街を周回しておられるようです」

 聞かれて嬉しいダンは、自慢げにユイの日頃の行動を伝える。長らくユイの監視業務をしていただけに、その行動はほぼ把握している。


 そして心の中だけで続ける。

――目的は知っている、煙草を買い求めているのだ!なんてな。有り難く思え、まだラウル様にはお伝えしていないぞ、ユイ・アサギリ?――


「帰りはいつ頃になるか分かるか」

「もう時期戻るかと。ユイ様に何かございましたか?」

「急ぎではない。戻ってからでいい」

 そう答えた後で表情を変えたラウルを見て、ダンはすぐに仕事の話になると察し、気持ち姿勢を正した。


「先日取引を持ち掛けた相手からの返事は?」

 想定通りの質問にダンは即答する。

「まだです。先方にとっては苦渋の決断、決め兼ねているのでしょう」

「期限前だが催促しろ。これ以上渋るのなら手を引くと言え」

「はっ、承知しました」


 手短に指示を出して背を向けたラウルに、ダンもすぐに仕事に戻る。

――取引におけるこの容赦ない揺さぶり、全く隙が無い。ラウル様のお仕事ぶりはいつも惚れ惚れする!――

 歩きながら、顔がニヤケないよう力を込める。それが逆に痙攣となって表れている事には気づいていなかった。



 ダンが指示通り先方に脅しの電話を掛けている頃、ユイはダンの読み通り街中をドライブしていた。


「この辺の道も飽きて来たわ。今日はもっと遠くに行っちゃおっかな~」


 寛いだ体勢でハンドルを操作しながら大通りに出た時、暴走する一台の大型トラックが目に入る。その先の交差点には、横断中の子供の群れが見える。

「ちょっとちょっと?まさか突っ込んだりしないでしょうね、あのトラック」


 しばし様子を見ていたが、トラックの速度は落ちる気配もない。

 ユイはすぐにギアをバックに入れ、タイヤを鳴かせて方向転換する。幸い後続車はなく、そのまま逆走してトラックのいる方角へ走らせた。


「…バカっ、何してるの、ドライバーは!」

 コルトに手が伸びかけたが、人通りの多いこの場所で発砲は困難だ。それに暴走トラックの軌道は容易には逸らせない。

「こんな手段は取りたくないけど、仕方ないわ」


 ユイは運を天に任せる事にした。


 これからしようとしているのは間違いなく自殺行為。それでも意思は揺るがない。

 朝霧ユイという女は、救えるかもしれない命を前にして傍観している事などできないのだ。


 次の瞬間、辺りは騒然となる。

 ブレーキ音はなかった。激しい衝突音だけが響き渡り、トラックは子供達の元に到達する前に横転した。横から猛スピードで突っ込んだ赤のポルシェのお陰で。


 周囲から悲鳴が上がる。

 警察と救急のサイレンが近づいて来て、この二台を囲んだ。


「大変な事故だ!どういう状況なのか…目撃者は!」

「派手な外車が無謀な運転したんだ」

「いや違う!あのトラックの運転手、居眠りしてた、俺は見てたぞ」

「子供達は全員無事です!」

「この事故がなければ、子供達は助からなかった…」


 現場には大勢の目撃者がいたため、すぐに状況は判明した。横転した暴走トラックのドライバーは即死だった。


「エアバッグで車内が見えない、レスキュー!こっちのポルシェのドライバーをお願いします!」

「大丈夫ですか!聞こえますか!」

 ルーマニア語が飛び交う。


 その言葉のどれ一つとして、ユイには届いていなかった。


 砕け散ったサイドウィンドウの下に、頭から血を流して倒れ込む東洋人を発見し、救急隊員が運び出す。

「外国人だ。まだ脈はある、すぐに処置を!」

「観光客か。身元は?」

 覗き込む警官が車内を捜索していると、野次馬の一人が叫んだ。

「その女はマフィアの女だ!フォルディスと一緒にいるところを何度も見たぞ!」


「フォルディスだと?!何でまた…厄介な人物とっ!」警官は驚きを隠せない。

「…おい、だったらすぐに知らせた方がいいんじゃないか?」

「おっ、怖気づくな!こっちに不備はないし、俺達は警察だぞっ?マフィアなんかにビビってどうするっ」

 言いながらも警官の足は震えている。何とも説得力のない言葉だ。


 それくらいこの街でフォルディス家は恐れられているのだ。

 同時に豊富な財力で街に貢献している事も事実なのだが。


「ん…?これは…拳銃!」

「フォルディスの女なら持ってても不思議はない。カバンにでも突っ込んどけ、見なかった事にしろ!」

 コルトが見つかっても大事には至らなかった。こんなところもユイにとってはラウルサマサマである。


 その後一報を受けてフォルディス一家が動くのは早かった。

 告げられた病院は警察指定の市立病院で、なかなかに年季の入った建物である。


「誰がユイをそんな目に…!」

「ラウル様、落ち着いてください!お願いですからっ、それは収めてください!」

 車内で何度も拳銃を抜くラウルを宥めていたのはもちろんダンだ。

――これでは病院が修羅場になり兼ねん!そうなればあのボロ病院など崩れ落ちるぞ。クソっ、ユイ・アサギリめ、一体何をしている?…無事でいてくれ――


「新堂は呼んだか」

「はい、先程連絡がついて、今向かっているそうですが…今回は日本からですので、早くても15時間はかかるかと…」

「血液のストックはある。場合によってはまた私が能力で…。どんな事をしてでもユイを救うのだ!」

 自分に言い聞かせるようにそう言って、またも拳銃に手が伸びるラウル。

「ですから、それの出番はございませんっ!」



 マフィアに大勢で乗り込まれた院内は、たちまち異様な空気に包まれる。


「ひいっ…、どうか命だけはっ!」

「それはこちらのセリフだ。ユイはどうなんだ?…どうか助けてやってくれ」

 サングラス越しに鋭い視線を送りながら、ラウルにしては珍しい低音を響かせる。

 そんな最後の言葉はどこか頼りない。

「それが、脳の損傷が激しく、回復の見込みは…ヒイィッ!」

 状況を説明した医師に銃口が向けられる。

「ラウル様!おやめください!」暴走を必死に止めるダン。


「くっ…ユイ…なぜこんな事に!」

 集中治療室の様子を、壁一枚隔てた廊下のガラス越しから見やる。

 頭に巻かれた包帯から滲む血が不安を煽る。酸素マスクで口元を覆われ、体中に配線が取り付けられたユイは、思いのほか穏やかな表情だ。


 不意にユイの左手がベッドの横から滑り落ちた。

 その中指にフォルディス家のリングが光っている。エメラルドは変わらず高貴な輝きを放ち続ける。まるで持ち主にパワーを送り込もうとするように。


「ユイ!…私を置いて、行かないでくれ、頼む…」

 その場に崩れ落ちそうになるラウルを、ダンが慌てて支える。

「きっと大丈夫です、ユイ様はお強いですから。信じましょう、ラウル様!」


「…新堂の到着予定は?」

「早くて明日の朝7時です」

「それでは手遅れになる!なぜ迎えに行かない?すぐに連れて来い!」

「そんな無茶をおっしゃらないでください。迎えを待つ間が惜しいと、ドクターが断られたのです」

「…ああ、済まない。その通りだ」


――ラウル様も取り乱しておられる。ここは自分がしっかりせねば!――


「ラウル様、お気を強くお持ちください。ユイ・アサギリがそう簡単に死ぬはずがない、そう思いませんか?」

 こう励ましつつも、新堂の到着まであと半日以上ある。この一晩を越えなければならない。

 ラウルは成すすべなく頭を抱える。そしてうな垂れるダン他一同。


「だから言ったのだ!うちのホームドクターになっていれば…」

――そんな事を言っても無意味だ。また私の力で朝まで乗り切れれば…――

 ラウルは立ち上がると、迷いなく集中治療室へ足を踏み入れる。


「ラウル様…」

「お前達はここにいろ。おい、側にいさせてくれ」

 不安げに見守る面々に向けて一言告げ、続けて中の医師に申し出る。

「構いませんよ、どうぞ」

 すんなり入室を許可された事が、治療の術が何もない事を表している。

「くれぐれもお静かに願いますよ?…ヒイッ、な、何でもないですっ!」


――バカか。この状況でどう騒ぐ?――


 ラウルにギロリと睨まれた医師は、その場で足を竦ませて固まる。

 だがベッド横に膝を付き、ユイの手を握るその姿を見て恐怖は薄れた。大切な人を心配する気持ちは、マフィアも一般人も皆同じなのだと。


 そんなラウルに医師は声をかける。

「希少な血液でしたが、ストックされていたお陰で応急処置は迅速にできました。ですが…」

「もういい。お前達にできない事は分かった。今はただ現状維持をしてくれ。絶対に朝までは…」

「海外から外科医を呼んでおられるそうですが…」

「あの男ならばやれる。必ずユイを救える」

「申し上げにくいですが、それは無理かと…」


「黙れ!」

 ラウルの凄まじい威圧感に、医師は謝罪の言葉を残してすぐさま逃げ出した。

「ユイ、大丈夫だ、もうすぐ新堂が来る。それまで頑張れ。私が付いている…」

 幸い頭部以外は軽い掠り傷しかない。そんな変わらないユイの手を握り締めて、ラウルは祈り続けた。



 そんな長くて重い夜が明けた。

 ラウルがひたすら祈り続けた事が功を奏したのか、天が味方をしたのか、新堂が到着した時もユイの心臓はまだ拍動を続けていた。


「ユイ、待たせたな!すぐにオペをする、もう心配ない。全て俺に任せろ」

 新堂の目元にはクマが浮かんでいたが、今回は初めからラウルにも劣らない気迫を感じる。


 その鬼気迫る勢いのまま、新堂は神業の如きオペをやってのけた。


「命の危機は脱しました。血液のストックが大いに活躍しましたよ」

――俺が血を提供する手間が省けた。それをしていれば手遅れになった――


「新堂、心から礼を言う」

「まだ続きが。幸い損傷部位はそれほど広範囲ではありませんでしたが…」

 オペ室から再び集中治療室へと運ばれたユイの元で、新堂がラウルに説明している。ドア横に控えめにダンが立つ。

「だが何だ?はっきり言ってくれ」

「後遺症がどの程度かは…目覚めてみないと分かりません」


 慎重に言葉を選んで伝える新堂。相手はあのラウル・フォルディスだ。機嫌を損ねられたら自分にも命の危機が迫る。

――目覚めるかどうかさえ不安があるというのに!――

 こんな言葉は当然飲み込む。


「それはどういう意味だ」

 説明が面倒になった新堂はため息交じりに言う。「脳がどのような機能を持つかはご存知でしょう?」

 こんな口ぶりに横槍を入れたのはダンだ。

「おのれ新堂!いくらドクターだとて、ラウル様の知識を試すかのような発言、聞き捨てならん!」


「ダン、お前は黙っていろ!」

 この一言でダンに募った怒りは一瞬にして消失した。

「申し訳ございません…」

「お前は外で待て」

「いいえっ、どうか自分もいさせてください、お願いします!」


「…」思わぬ申し出にラウルは沈黙する。

――私の命令に歯向かうとは、よほどユイの事を心配しているのだろう――

「今度口を挟んだら追い出すからな」

「はっ、ありがとうございます!」

「新堂、説明を続けてくれ。ユイの後遺症はどんなものが考えられる?」

 ラウルはダンには目もくれず新堂に話しかける。


 軽く肩を竦めて見せた新堂が、大きく息を吸い込んでから口を開いた。

「損傷は前頭葉から左側頭葉にかけて。前頭葉は複雑で、部位に応じて特有の障害が起こります」

「特有の障害…」

「こういった頭部外傷で多いのは、高次脳機能障害と呼ばれるものですね」

「…」

「そして左側頭葉で心配なのは言語障害。記憶や感情のコントロールなども気にかかります」


 言葉を失うラウルに対し、淡々と語る新堂を見て、ダンは悟った。

――この男はユイ様を愛してはいない。愛する者がこのような状況下にあって、こんなにも冷酷でいられるはずがない!――


「フォルディスさん、大丈夫ですか?お顔の色が良くありません。少し休まれては」

「いや…ユイの側にいたい」

「そうですか。無理なさらず。ああそうだ、ユイさんの左手にしているリング、抜けないんですが…」

「なぜ抜く必要がある」

「病院で貴金属類は外すものですよ?」

 そんな事も知らないのか?と呆れた新堂だが、ラウルのこめかみにうっすら浮き出た青筋に気づき、慌てて言い直す。

「ああほら!高価そうな物でしたので、失くしたら大変と思い…」


「失くす心配はないが、支障があるのか」

「いえ、今のところは」

「ならばそのままで。あのリングはユイを守っているのだ」

「ああ、お守りなんですね。そういう事ならいいでしょう」

「必要な時は言ってくれ。私が外す」

「外せるんですか?」

「当然だ」


 ラウル以外には外せないシロモノなのだが。余計な説明は全て省く。

 首を傾げる新堂だったが、すぐに興味は失せて深追いする事もなかった。


「では私は少し席を外します。何かあれば知らせてください」

「分かった。色々と感謝する」



 部屋を後にした新堂は、無表情のまま廊下を進む。


「今回は銃創とは訳が違うぞ。とにかく目覚めてもらわない事には、何も手が打てない」

 自分に言い聞かせるように呟き、拳を強く握ったその顔が険しくなる。

 淡々として見えただけで、新堂にいつもの余裕はない。


 頭部外傷の急性期は意外とやるべき事が多い。


 容態が安定したなら、例え昏睡状態であっても直ちにリハビリテーションを始める必要がある。この場合は感覚刺激を与え続ける事だ。目標は患者が今後安定した日常生活を送れるよう導く事。

 そのためには、障害像を正確に把握する必要がある。


 そうは言え、見えざる障害と言われるものは、目覚めてもらわない事には見つけられない。


――なぜあいつはいつもこんな目に遭うんだ!あの男は疫病神か何かか?――


 これを期に二人を引き離そうかと考えて我に返る。

「何を考えているんだ、俺は…。寝不足と疲労が重なったせいだな」

 ユイを奪いたいと自分の本能が訴えている。その事には薄々気づいている。だがそれを認める訳には行かない。二人の相思相愛ぶりは嫌というほど見て来たのだから。


「とにかく、今自分がやれる事をやるのみだ」

 そう心に刻み込んで、新堂は仮眠室へ消えた。


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