表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅人ちゃんの紀行日記  作者: きりん
23/23

夜天の星座と無垢の月

 むかーしむかし、あるところにひとりの少女がおりました。



 長い藍色と紫の髪を揺らしながら道を進む少女は船に乗っていた。海の潮風に吹かれながら船の縁でのんびりしていた。旅をする途中でとある島へ向かう船があることを知り、その船の船団護衛の依頼を受けるついでに島へ行くことにした。


「次はどんな出会いがあるのか。まあロクな目に合わないといいけど」


 そんなことを口にしつつも少女――アステリアはまだ見ぬ出会いに胸を躍らせていた。


 アステリアという少女の人生は波乱万丈そのものだった。魔法学園に入学し主席卒業するほどの天才と呼んで差支えないほどの実力を発揮し、その後、マギアシステムと呼ばれる存在の闇に触れたことによって祖国であるアレイシア国から指名手配を受け、抵抗組織ディアボロスに入りマギアシステムの破壊と魔法少女の解放を目指して戦い続けた。


 そしてそんな日々に終止符が打たれた。アレイシア国の外から来た二人組の少女たちによって流れが変わったのだ。そこからあれよあれよと状況が進み、困難な道のりと多大な犠牲の果てに全ての黒幕である黎明の魔女は討ち果たされ、マギアシステムを破壊することに成功した。


 あの日から、アレイシア国は急激な変化に晒されて少なくない混乱に見舞われたが、アステリアは後悔はしていなかった。だが国内の状況が落ち着き、やることがなくなって考える余裕が生まれた時ふと思ったのだ。「これからどうしよう」と。


 今の今までただひたすらアレイシア国の闇を打ち払い今までの魔法少女達の無念を晴らし、これからの魔法少女達が犠牲にならないように戦ってきたがそれも終わり、それだけを目指して戦ってきたアステリアはすっかりやることが無くなってしまい残りの人生どう生きるか迷ってしまった。

 

 もちろん他の戦友たちと同じくこれから国を守っていくというのも考えたが、どうもそれは自分のやりたいことなのか?と疑問に感じた。アステリアは悶々とした気持ちを抱えたままふらふらと街を歩いているとふとあの時旅の少女と一緒に入っていったあの塔を見上げて思い出した。



 ――やることが無いのなら君も旅に出たら?


 その言葉を思い出したアステリアは残っていた仕事を他の人に押し付け――もとい、引継ぎを済ませ、旅に出るために荷物をまとめてアレイシア国を旅立った。まずは大陸を旅してその後、大陸からでてみようと決心し、船に乗り今に至る。


 やがて水平線の向こうに、緑を浮かべた小さな島影が現れた。

 近づくにつれてそれは一つではないと分かる。大小の島々が寄り添うように点在し、その中央に、なだらかな丘と瓦屋根の集落が広がっている。港も大陸のような巨大な石造りではなく、木と白い石を組み合わせた穏やかな造りで、波もどこか柔らかく岸に寄せていた。


 ――静かだ。


 船が接岸すると同時に、アステリアはそれを実感した。

 怒号も怒鳴り声も、兵の号令もない。ただ荷を運ぶ掛け声と、笑い声。市場の喧騒とも違う、人の営みの音だった。近くでは海鳥の鳴き声が聞こえ、漁師からのおこぼれを貰っていた。


 大陸の港では必ずと言っていいほど感じた張り詰めた空気が、ここにはない。


 船から伸びる足場板を降りて桟橋に足をつけると、潮の香りの奥に草の匂いが混じった。港のすぐ向こうに畑が見える。城壁も見張り塔もない。

 まるで、外敵という概念そのものが遠い場所のようだった。


 積み荷を降ろしていた水夫の一人が、きょろきょろと周囲を見回しているアステリアに気づいた。


「嬢ちゃん、観光かい?」


「はい。ありがとうございます! この島へ来るのは初めてで、今までいた大陸とはまた違った雰囲気の場所だなぁと思いまして」


「なるほどな~」


 男は箱を肩から降ろすと、たくわえた髭を指で撫でながらアステリアをまじまじと見た。


「それにしても物好きだな~。こんな辺鄙な島国へやってくるなんてよ」


「そうなんですか?」


「ああ。この島にはあんまり人は来ねえな。来るのは大抵、行商人か国の役人くらいか・・・」


 そこで言葉を切り、男は少しだけ口角を上げた。


「――あ、でも“アレ”目当ての奴ならそれなりに来たりするか」


 含みのある言い方だった。

 この島の穏やかさからは想像できない響きに、アステリアの好奇心が自然と顔を出す。


「アレ?」


 男はわざとらしく周囲を見回し、声を潜めた。


「知りたいか?」


 少し芝居がかった調子だったが、逆にそれが妙に気になる。


「知りたいです!」


 間髪入れずに答えると、水夫はにやりと笑った。


「なら、教えてやるぜ! いいか?」


 水夫は抱えていた木箱を地面に下ろし、腕まくりをしながら指で空中に簡単な地図を描くように動かした。


「この港町を出て東に行く道をまっすぐ進め。潮の匂いが薄れて、代わりに森の匂いが強くなってくる頃にな、二つに分かれる分かれ道がある」


「二つに・・・」


 アステリアは無意識に視線を東へ向ける。

 港の喧騒の向こう、緩やかな石畳の道が丘へと続いているのが見えた。


「左は海沿いを回って隣国へ続く街道だ。だが、右だ。右を行け」


 男は人差し指を立てて念を押す。


「右を通っていくと山へと続く山道が現れる。その山道を登っていき、山と山の間を抜けるんだ。ちょいときつい坂だが、嬢ちゃんみたいな冒険者なら問題ねえだろ」


 軽く笑われ、アステリアは肩をすくめる。


「山を越えると、山間の窪地に小さな街がある。外からは見えねえ。まるで山に守られてるみてえな場所だ」


 その言い方に、アステリアはわずかに心を惹かれた。外界から隠された街――どこか秘密めいた響きがある。


「そこに“幸福の象徴”がいるんだ」


「幸福の象徴?」


 思わず聞き返す。


「ああそうだ」


 水夫はにやりと笑い、顎をしゃくった。


「まあ詳しくは自分の目で見たらいいぜ。俺も一度見たことがあるが、アレは確かに癒されるゼ? まさしく幸福の象徴だな」


 その声音には、からかい半分ではない本心が混じっていた。

 荒くれた船乗りが、わざわざ“癒される”などと言うのだ。


 アステリアの胸の奥で、小さな好奇心が灯る。


「絶景の景色が見られるとかですか?」


「いや、景色じゃねえ」


 男は首を振る。


「生き物だ」


「生き物・・・?」


 意外な答えに、アステリアは瞬きをする。


 はて? 変わった種類の魔物か何かだろうか? でもこの島は存在しないと聞いた。

 だからこそ、逆に何が存在しているのだろうか。


「まあ、そこも含めて見てくるといいぜ。山の街は穏やかだ。旅の途中で寄るには悪くねえ」


 そう言うと水夫は箱を担ぎ直し、桟橋の向こうへ歩き出した。


「おっと、宿屋は広場の横にある冒険者ギルドと一体になってるところだぞ。迷うなよ、嬢ちゃん」


「はい、ありがとうございます!」


 アステリアは深く一礼する。


 男は片手をひらひらと振り、そのまま仲間たちの元へ戻っていった。

 再び荷を運ぶ掛け声が港に響く。


 残されたアステリアは、しばしその場に立ち尽くした。


 東へ続く道の奥にある山に守られた窪地の街。そして、そこにいる“幸福の象徴”と呼ばれる生き物。


(幸福、か・・・)


 その言葉は、彼女にとってどこか遠い響きだった。


 戦いの中で、願いと絶望を見続けてきた。

 幸福とは、誰かの犠牲の上に成り立つものではないのか――そんな疑念さえ、どこかにある。


 だが。


(生き物、ね。いったいどんな存在なんだろう)


 少しだけ、胸が軽くなる。


 世界を救う使命でもない。

 陰謀でもない。

 ただ、“見てみたい”という単純な理由だけで向かう場所。


 それが今の自分には、妙に心地よかった。


 アステリアは東の空を見上げる。

 穏やかな青空の向こうに、低く連なる山並みが見える。


「・・・行ってみますか」


港の広場を抜け、石畳の通りを少し歩いたところでアステリアは足を止めた。


 ――宿屋は広場の横。


 水夫の言葉通り、通りの角にはそれらしい建物があった。

 丸太を組み上げて造られた大きなログハウス。煙突からはゆるやかに白い煙が上がり、窓辺には干した薬草と布が揺れている。

 だが看板に描かれている紋章を見て、彼女は小さく目を細めた。


「・・・宿屋、兼ギルド?」


 盾と剣の紋章に加えて、ベッドの絵。

 なるほど、旅人が少ない島なら合理的だと納得する。


 国を出て旅をするにも路銀は必要になってくる。となれば冒険者として活動して路銀を稼ぎながら旅をするのがいいだろうと国を出た後、別の国で冒険者ギルドに立ち寄って冒険者登録を行ったのだ。


 依頼をこなすとお金を稼げるし、身分を保証してくれるので旅をするのに何かと便利だった。そして情報を得るにも冒険者ギルドはとても便利だった。何かと地域の情報が色々飛び交うのがこの場所らしいので情報を集めるときは冒険者ギルドへ行くようにしている。


(泊まる前に状況を把握しておいた方がいいですね)


 そう判断し、彼女は扉を押した。


 きい、と乾いた音がして扉が開く。


「さてと、とりあえずまずは情報収集を・・・ん?」


 次の瞬間、アステリアは目を疑った。


 誰もいない。


 広い木造のホール。

 長テーブルと椅子、壁に貼られた依頼書の掲示板、酒樽、暖炉――冒険者ギルド特有の光景は揃っているのに、人の気配がまったくない。

 酒場特有の匂いも、ざわめきも、武具の音もない。


 受付カウンターにも受付嬢はおらず、奥の扉も閉まったままだ。


「・・・入る場所間違えたかな?」


 一度外へ出て看板を確認する。


 やはり間違いなく冒険者ギルドの紋章。

 ついでに宿屋の表記もある。


「あれ? なんで誰もいないの?」


 首を傾げながら再び中へ戻る。


 カウンターまで歩き、少し身を乗り出した。


「ごめんくださーい!」


 しーん・・・


 返事はない。

 窓の外の風の音だけが聞こえる。


「ごめんくださーい!」


 しーん・・・


 静寂は変わらない。


 アステリアは軽く息を吸い込んだ。


「ごめんくださぁああいいいッ!!」


「うわぁああ!?」


 直後、カウンターの向こう側からガタガタッ、ドテッ!と派手な音が響いた。

 紙束が宙に舞い、ばさばさと床に落ちる音が続く。


 再び静寂。


 数秒後――


 ごそ、ごそ・・・と何かが動く気配。


「いたいよ~……だれかきたのぉ~?」


 気だるげでやる気のない声と共に、ゆっくりと人影が立ち上がった。


 現れたのは女性だった。


 茶色い長い髪を背に流し、一部を三つ編みにしてリボンでまとめている。

 だが、アステリアの視線はそこでは止まらない。


「え・・・角? ウサギの耳?」


 頭の左右から伸びる立派な角。

 そしてその間から、ぴょこんと立つ柔らかなウサギの耳。


 どちらかだけでも珍しいのに、両方ある。


「あの~・・・冒険者ギルドに御用でしょうか~?」


 女性は眠そうに目を擦りながらカウンターに肘をついた。

 まるで昼寝を邪魔された子供のような気の抜けた態度だ。


「あ、は、はい! えーと・・・ちょっと情報収集がてら依頼でも探そうかなと。そこでここへ寄ったのですが、誰もいなくて・・・」


「あ~ 島の外から来られた冒険者さんですね。なるほどですぅ~」


 女性は欠伸をひとつこぼす。


「この島はとても平和ですから、そもそも仕事自体が余りないのですよぉ~」


「え?」


「知っての通り、この島には魔物が存在しませんのでぇ~討伐依頼がありませんしぃ、ダンジョンの類もありませんから探索依頼もありません。ですので必然的に護衛か採取だけ。朝早くと夜くらいしか人はいないのですよぉ」


 言い終えると、彼女はまた目を擦った。


 どうやら本当に寝ていたらしい。


「つまり・・・昼間はほぼ無人?」


「はい~・・・平和ですからぁ~・・・」


 こくり、と船を漕ぎかける受付嬢。


 そんな彼女を、アステリアはまじまじと見てしまう。


 角に、ウサギの耳。

 しかも妙に眠そうで、緊張感がない。


「・・・あの~ 私の顔に何かついていますかぁ~?」


 受付嬢は小首を傾げ、眠たげな瞳でこちらを見つめていた。

 その拍子に、ぴょこんとウサギの耳がわずかに揺れる。角の根元には柔らかな毛並みがあり、陽光を受けてほのかに艶めいていた。


「い、いえ! ただ・・・いままで見たことない種族でしたので、つい」


 アステリアは慌てて視線を逸らす。


「あ~なるほどですぅ」


 女性はまったく気にした様子もなく、にこりと笑った。


「私はジャッカロープ族ですよ~。この二つの立派な角が特徴なんですよぉ」


 そう言って両手で自分の角を撫でる。

 角は鹿のように枝分かれしていて、滑らかに湾曲した日本に枝分かれした角がが左右に伸びている。磨かれているのか、ほんのりと光沢があり、片方にリボンが巻いてあった。


「へえ・・・」


 角とウサ耳の組み合わせはなかなかに強烈だ。

 だが当人はいたってのんびりしている。


「それでぇ、聞きたいことはないんでしょうかぁ?」


 間延びした声が、静かなホールにふわりと広がる。


 その声を聞いていると、不思議と瞼が重くなる。


(・・・だめだ、眠気を誘われる)


 アステリアはぶん、と軽く頭を振った。


「この島にいる“幸福の象徴”がいると言われている街へ行こうと思っているのですが」


「あ~・・・ルナリアの街ですねぇ~」


 即答だった。というか街の名前はルナリアということをここで初めて知った。


「行くついでに何か依頼とかないでしょうか? ついでに依頼をこなして路銀を稼いでおきたいと思いまして」


「なるほどですぅ」


 受付嬢はゆっくりと屈み、カウンターの下をごそごそと探り始めた。今依頼の掲示板に張り出されているのはどうやら常設の依頼らしく朝残ってしまった依頼から探してくれているようだ。

 紙が擦れる音、布が動く音。


「でしたらちょうど良いのがありますよ~」


 取り出したのは、丁寧に包まれた布包みと、一通の封筒だった。


「届け物ですぅ。ルナフィ族の娘たち用の衣類でして~」


「ルナフィ族?」


「はい~。ルナリアの街に住んでいる種族ですよぉ。少し特殊でしてぇ、人間サイズの服ではダメなのでぇ、こちらで仕立てたものを届けているのです」


 受付嬢は布包みをぽん、とカウンターに置く。

 軽そうだが、布の質感からして上質な品だと分かる。だが何よりも目を引くのがそのサイズ。明らかに人間サイズではなく掌に乗っかる程の大きさの小人サイズの衣服なのだ。


「向こうの仕立て屋さんに届けてほしいのですよぉ。危険もありませんし、ついでで構いません」


「危険は・・・本当に?」


「はい~。この島には魔物がいませんからねぇ。山道も整備されていますしぃ、野盗もほとんど出ません。出てもすぐ捕まりますぅ」


 平和の極みだった。


「報酬は少なめですがぁ、その分気楽なお仕事ですよ~。ついでで行うのにちょうどいい依頼ですぅ。あぁ、手紙も入ってますから、忘れずに渡してくださいねぇ。」


「仕立て屋の名前は“エルミナ”。街の中央通りにありますぅ。行けばすぐ分かりますよ~」


 アステリアは布包みを手に取る。柔らかな布の感触。温かみがある。量産品じゃなくちゃんとこれを着る者たちのことを想って作られているのが伝ってくる。


「・・・分かりました。引き受けます」


「ありがとうございますぅ」


 受付嬢は帳簿を開き、ゆっくりと羽ペンを走らせる。


「では、道中お気をつけてぇ~。幸福の象徴も、ちゃんと見てきてくださいねぇ」


 その言葉に、アステリアはわずかに目を細める。


「あなたも見たことが?」


「もちろんですよぉ~」


 受付嬢は頬に手を当て、うっとりとした顔になる。


「・・・ふわふわで、ぽかぽかで、とっても幸せな気持ちになりますぅ」


 それ以上は語らない。


 ふわふわ? ぽかぽか?


(ますます気になるじゃないですか)


 布包みと手紙を背嚢に収め、アステリアは軽く一礼した。


「では、行ってきます」


「は~い。いってらっしゃいませぇ~」


 間延びした声に見送られ、アステリアはログハウスを後にする。


 穏やかな島の空気の中、東へ続く道を見つめる。話を聞く感じだとおそらくその件の”ルナフィ族“なる存在が幸福の象徴と呼ばれている存在なのだろう。


 山に守られた街ルナリアにいる幸福の象徴と言われている種族、ルナフィ族。一体どんな姿をしてるのだろうか。

 

(・・・こういう旅も、悪くないですね)


 藍と紫の髪を揺らしながら、アステリアはゆっくりと東の道へと歩き出した。


「それじゃ、出発!」


 軽く気合を入れ、アステリアは東へと続く一本道を歩き出した。


 港町の喧騒はすぐに背後へ遠ざかり、代わりに潮の匂いが薄れていく。やがて海風は森の匂いへと変わり、湿った土と若葉の香りが鼻腔をくすぐった。


 空はどこまでも澄み渡り、雲はゆったりと流れている。

 遠くで鳥が鳴き、草原では小動物が駆けていくのが見えた。


 ――静かすぎる。


 港町を出て数時間。

 石畳はいつの間にか土の道へと変わり、両脇には背の低い草原が広がっている。


「・・・」


 アステリアは周囲を見回すが誰もいない。島とはいえ山があるからそれなりの大きさだ。誰かとすれ違うくらいあってもいいはずだが旅人も、行商人も、農夫も。

 すれ違う影すらない。


「まあ、だだっ広い大陸とかだとよくあることだけれど・・・」


 歩きながら空を仰ぐ。


「ここ、島だよね? ここまで人に会わないことある?」


 小さく苦笑する。


 とはいえ、恐怖や緊張はない。

 この島は平和だと聞いている。魔物も出ないと。


 むしろ空気が澄みすぎていて、肺が喜んでいるような感覚さえある。

 戦い続けてきた日々とは対照的な、穏やかな景色。


(・・・本当に、何も起こらなさそう)


 そう思ってしまうほどだった。


 やがて前方に、道が二つに分かれているのが見えてきた。

 分岐点には、斜めに傾いた木製の看板が立っている。文字は風雨で掠れ、苔まで生えている。そこには二つに分かれている道の行先が書かれている。


「えーと・・・」


 アステリアは近づき、文字を指でなぞった。


 左――海沿い街道。


 右――山間の街ルナリア。


「確か山の方だったね。こっちか」


 迷うことなく右へ。


 道はすぐに緩やかな上り坂へと変わる。進むにつれ木々が増え、枝葉が頭上を覆い始める。木漏れ日が揺れ、鳥の声が遠くなる。


 さらに数時間。


 山道は本格的な登りへと変わっていた。

 道幅は狭まり、片側は岩壁、もう片側は切り立った崖。


 足元は砂利混じりで滑りやすく、踏みしめるたびに小石が転がる。


 アステリア以外、人影はない。


 風が吹くたび、崖下から低い唸りのような音が響く。


「・・・」


 さすがに少しばかり、人の気配のなさが気になり始める。ここまで人に会わないものなのかと思っていたその時だった。


 がさり。


 茂みが揺れた。


 アステリアの足が止まる。


 次の瞬間、飛び出してきたのは灰色の小型魔物。

 犬のような体躯に角のような突起を持つ、牙を剥いた存在。


「・・・え?」


 一瞬だけ、思考が止まる。


 だが体は即座に反応した。


 魔力を指先に流し、無詠唱で短い雷撃を放つ。


 バチンッ――!


 閃光と共に魔物は吹き飛び、地面に転がる。痙攣した後、動かなくなった。現れた魔物は前に冒険者ギルドにあった魔物図鑑に書かれてあった第五等級の魔物の一つに似ていた。


 第五等級。

 本来は新人冒険者が数名で相手にする魔物だがアステリアは魔物との戦いも慣れているため脅威にすらならない、雑魚。


 アステリアは一拍遅れて息を吐いた。


「・・・弱っ」


 拍子抜けするほどだった。


 だが。


「・・・あれ?」


 眉をひそめる。


 確か、この島には魔物がいないはずだ。今までの道中でも魔物に出会うことはなかったし受付嬢からの情報でも魔物はこの島には生息していないとのことだったはずなのになんで魔物がいるんだろうか。


「この島って、魔物出ないんじゃなかったの? なんで魔物がいるの?」


 視線を周囲へ巡らせる。


 山道はアステリア以外誰もおらず鳥のさえずりさえも途絶え静まり返っている。だが、ほんのわずかに感じる。違和感。空気の流れが、ほんの少しだけ淀んでいる。



 足元の魔物の残骸を見下ろす。

 弱い。

 だが、確かに“魔物”だ。


 この平和な島に、存在しないはずの存在。


 偶然か?

 それとも――


 アステリアは倒した魔物を見下ろし、小さく息を吐いた。


「・・・念のため、ね」


 指先に魔力を集め、静かに詠唱することなく炎を灯す。

 青白い魔法火が魔物の亡骸を包み込み、ぱちぱちと乾いた音を立てながら焼き尽くしていく。


 この程度の個体がアンデッド化する可能性は低い、というかほぼない。

 だが、“絶対にない”とは言えないのが魔物という存在だ。


「これでよし、と」


 灰になったことを確認し、再び山道へと足を向ける。


 谷間へ続く道は、先ほどまでよりもさらに深く山に食い込んでいた。

 岩壁が左右から迫り、空は細く切り取られた帯のように見える。


 足元の砂利が音を立てるたび、その音が岩壁に反響して小さく戻ってくる。

 人の気配は相変わらずない。


 だが、不思議と不安はなかった。


 魔物は弱かった。

 そして山を越えれば街がある。


 やがて坂は緩やかに下りへと変わる。


 木々の密度が薄れ、視界が開けていく。

 山風に花の香りが混じり始めた。


 最後の岩場を抜け、アステリアが山道を下り切った瞬間――


「・・・わあ」


 思わず声が漏れた。


 目の前に広がっていたのは、まるで絵本の中から切り取ったような街だった。


 深い山々に囲まれた窪地の中央に、卵のような丸い建物が点在している。

 どれもこれも角のない柔らかな曲線で構成され、土壁は温かみのあるクリーム色や淡い黄土色。


 建物の隙間を縫うように小道が整備され、石畳ではなく滑らかに踏み固められた土道が緩やかにうねっている。


 丸い窓からは柔らかな光が漏れ、窓枠には花の鉢が並べられていた。

 ドアもすべて丸型で、取っ手まで曲線的。


(・・・かわいい)


 思わずそんな感想が浮かぶ。


 街の周囲には段々畑が広がっていた。

 斜面を利用して幾層にも重なり、青々とした葉物野菜や、色鮮やかな果実が実っている。


 小さな水路が整備され、山から引いた水がきらきらと光りながら流れていた。


 人々の姿も見える。


 遠くでは、牛人族の夫婦と思しき二人が並んで歩いている。

 大きな角を持つ夫が牛の手綱を引き、隣の妻が籠を抱えて微笑みながら話している。


 のんびりとした空気。


 別の通りでは、眼鏡をかけた狐族の女性が帳簿を片手に行商人とやり取りしていた。

 尾がゆったりと揺れ、時折ぱたりと地面を叩く。


「これはいくらですか?」


「こちらは大陸からの交易品でして・・・」


 穏やかな交渉の声が風に乗る。


 子どもたちが丸い家の間を駆け回り、笑い声が響いていた。港町もそうだがこの島はどこも平和そのものだとアステリアは感じた。


 ルナリアの街に足を踏み入れたアステリアは、しばらくの間ただ歩いているだけで楽しかった。


 丸い家々の壁には蔦が這い、窓辺には色とりどりの花が飾られている。

 扉の横には小さな木札が下がり、住人の名前が丁寧な文字で書かれていた。


 土の道は柔らかく、靴底に優しい。

 どこからかパンの焼ける匂いが漂い、遠くでは誰かが楽器を鳴らしている。


(・・・なんだか、ずっとここにいたくなる街ですね)


 そう思いながら周囲を見回していた、その時だった。


 ――ひゅんっ


「わぁ! どいて~!!」


「え、ぶッ!?」


 次の瞬間、何かが顔面に直撃した。


 軽いが勢いのある衝突。

 視界が一瞬白く弾け、アステリアは半歩よろめく。


 ぶつかった“それ”は空中でくるくると回転し、慌てて体勢を立て直した。


 そして――空に浮かぶ。


「・・・え?」


 目の前にいたのは、小さな女の子だった。


 手のひらに乗りそうなほどの体格。

 紫色の髪を短くまとめ、深緑の服と帽子を身につけている。

 背中からは黄緑色の綺麗な翼が生えており、忙しなく羽ばたいて空中に留まっていた。


 その手には、体の大きさに対してやたらと大きな袋がぶら下がっている。


「ごめんなさい~! 急いでるので!」


「あ、ちょ、ちょっと!」


 呼び止める間もなく、小さな少女は風のように飛び去ってしまった。

 通りの向こうへ消え、家々の間へと吸い込まれる。


 残されたアステリアは、しばし呆然と立ち尽くす。


「・・・・・・・・・」


 数秒後、ようやく頬を押さえた。


「今の、なに・・・?」


 すると近くから、くすくすと笑い声が聞こえた。


「はは! 旅人さん災難だったね」


 声の方を見ると、家の傍の花壇で水やりをしていた女性が苦笑していた。

 麦わら帽子をかぶり、腕まくりをしてじょうろを傾けている。


「あの娘ドジだからね。前をよく見ないで飛んで、よくぶつかるのさ。怪我はないかい?」


「怪我はしてないです!」


 アステリアは慌てて手を振る。


「その・・・ちょっと聞きたいのですが。さっき飛び去っていった小人?の女の子。あれは何ですか? 初めて見たので」


 女性は目を丸くした。


「おや? 旅人さん知らないのかい?」


 じょうろを地面に置き、花の葉を指で整える。


「てっきり、あの娘たちを目当てに来たんだと思ってたよ」


「あの娘たち、とは?」


 女性はにっこり笑った。


「ルナフィ族さ」


 植木ばさみで伸びた枝を、ぱちん、と切る。


「この街に住んでる小さな娘たちだよ。翼があって空を飛べるんだ。性格もそれぞれでね、昼寝してる娘もいれば遊び回ってる娘もいる。配達や畑の世話を手伝ってくれる働き者もいるのさ」


「ルナフィ族・・・」


 アステリアは、先ほどの少女が消えた空を見上げた。


 風に揺れる屋根の上を、小さな影がいくつも横切っていく。

 よく見れば、同じような人影が街のあちこちを飛び回っていた。


「この街が平和なのも、あの子たちのおかげだって言う人もいるくらいでね」


 女性は穏やかな目で空を眺める。


「みんな、あの子たちが大好きさ」


 アステリアの脳裏に、水夫と受付嬢の言葉が蘇る。


 ――幸福の象徴。


「・・・もしかして」


 彼女は小さく呟いた。


「あの子たちが、例の“幸福の象徴”と言われている存在なんですか?」


「そうさ。この地域にはね、ルナフィ族って呼ばれる小人のような妖精が、昔から住んでいるんだよ」


 女性は剪定ばさみをぱちんと鳴らしながら続けた。


「私が生まれるよりずっと前から、人と一緒にここで暮らしてきたのさ」


 そう言って顎で示す。


 見ると、屋根の上を小さな影がひゅん、と横切った。

 別の家の窓辺では、ルナフィ族の少女が洗濯物にしがみついて揺れている。

 さらに足元の花壇の縁では、ひとりが丸くなってすやすやと寝息を立てていた。


「ほら、あそこで飛んでるのも、そこの花壇で丸くなっているのも・・・みーんなルナフィ族なんだよ。その姿から“幸福の象徴”って言われてるのさ」


 アステリアは、花壇の縁に目を向けた。


 掌ほどの小さな体。

 淡い色のワンピースを着て、黄緑色の翼をたたみ、膝を抱えて眠っている。

 寝息に合わせて翼がぴくりと震える様子が、あまりにも無防備だった。


「港町で聞きました。愛くるしい姿がとても癒されると」


「そうだよ」


 女性は目尻を下げて微笑む。


「それにね、ルナフィ族は本当に“純真無垢”なの」


「・・・純真無垢?」


 その言葉に、アステリアはわずかに眉を動かす。


「ええ。悪意とか疑いとか、そういうものを知らないのよ」


 女性は静かに語る。


「知らない人にも笑って手を振るし、落ち込んでる人を見つけると、勝手に背中に乗って励ましたりするのさ。怒鳴られても、ただ泣いちゃうだけでね。誰かを傷つけるなんて、考えもしない」


 花壇で眠るルナフィ族の少女の頬に、女性がそっと指を伸ばす。

 少女はむにゃ、と小さく声を漏らし、また静かに眠る。


「だから私たちが、大事に守ってあげないといけないのよ」


「な、なるほど・・・」


「だからね、この街にはルナフィ族に関する決まり事があるのよ」


「決まり事ですか?」


 女性は指を一本立てる。


「ひとつ。ルナフィ族に危害を加えないこと」


 もう一本。


「ふたつ。ルナフィ族の卵を街の外へ持ち出さないこと」


 そして三本目。


「みっつ。卵を見つけたら、ちゃんと孵してあげること」


「・・・卵を孵すことまで?」


 アステリアは思わず聞き返す。


「そうよ」


 女性は当たり前のように頷く。


「森や畑の隅に、小さな卵があることがあるの。見つけたら家に持ち帰って、温かくしてあげるのさ。孵った娘はすぐ家族みたいになってね」


 柔らかな笑み。


「人もルナフィ族も、一緒に暮らしていく。ずっと昔から、そうやって共存してきたのよ」


「それは・・・なんだか良いですね」


 心からそう思えた。


「そうなのよ! あの娘たち、とっても可愛いから癒されるわ~」


 女性は頬に手を当て、ほっこりとした顔で花壇の少女を見つめる。


 その様子は本当に家族を見る目だった。


 だが。


 アステリアの胸に、ひとつの疑問が浮かぶ。


「でも・・・ルナフィ族が襲われたりとか、攫われたりとか・・・そういう危ないことってなかったんですか?」


 彼女は慎重に言葉を選ぶ。


「見た感じ、かなり無防備な様子ですし・・・大丈夫なのかな、と」


 女性はきょとんと目を丸くした。


 そして、くすっと笑う。


「大丈夫大丈夫。この街の人たちは、ルナフィ族が大好きだからね」


 一拍置いて、声の調子が少しだけ変わる。


「それに――静月の魔女様もいるし」


 その言葉が落ちた瞬間。


 ぞわり、と。


 アステリアの背筋を冷たいものが走った。


 さっきまで温かかった心が、氷水を浴びせられたように急速に冷えていく。


(・・・魔女?)


 無意識に呼吸が浅くなる。


(この島にも・・・? 黎明の魔女と同じ・・・?)


 視界の端がわずかに揺れる。


 だが、表情には出さない。


 必死に平静を装いながら、問い返す。


「静月の・・・魔女とは?」


 女性は特に深刻そうでもなく、語り始める。


「この地域にいるって言われている方でね。なんでも、ボロボロになってここに流れ着いた魔女様を、ルナフィ族の娘が助けたんだってさ」


「・・・」


「それ以来、静月の魔女様がルナフィ族の娘たちを守ってくださってるらしいよ」


 その言葉には、確かな敬意が滲んでいる。


「だから、ルナフィ族に手を出す人なんてまずいないのよ。いたとしても――消えていなくなるからね」


 穏やかな声音のまま、さらりと言う。


 消えていなくなる。


 アステリアの指先が、わずかに強張る。


「まあ、もっとも」


 女性は肩をすくめた。


「実際に静月の魔女様を見たって人は聞いたことないけどね。おとぎ話みたいなものかな。でも皆、そう信じてるんだよ」


 そう言って、優しく笑う。


 その笑顔の奥には、確かに畏敬の念があった。


 信仰にも似た、静かな敬意。


「そう・・・なんですね」


 アステリアはそれだけを返すのが精一杯だった。


 胸の奥で、警鐘が鳴っている。


 魔女。


 その言葉は、彼女にとって決して軽いものではない。


 守る魔女か。

 それとも――


 無意識に、山の方角へ視線が向く。


 穏やかな街並みの中で、アステリアの心だけが、ひどく冷えていた。


 胸の奥に沈殿した冷たいものが、いつまでも消えない。


 アステリアはルナリアの街を歩きながら、無意識のうちに歩調を早めていた。

 卵型の家々の間を縫う丸い石畳の道。窓からこぼれる温かな灯り。段々畑で笑い合う人々と、その頭上を飛び交う小さな影。


 どこを見ても穏やかで、可愛らしくて、幸福そのもののような光景だというのに――。


(静月の魔女・・・)


 その言葉が、喉の奥に刺さった棘のように引っかかっている。


 やがて目的の服屋に辿り着く。

 卵を半分にしたような丸い外観の店で、木製の丸扉を押すと、布と染料の匂いがふわりと広がった。この街で唯一の服屋の恰幅の良い店主が店の奥から出てきた。


「いらっしゃい~ おや、旅人さんとは珍しいね。どうだい?可愛いお前さんにピッタリの服があるんだが」


「あ、いえ。依頼の品のルナフィ族の衣服と封筒を届けに来ました」


 アステリアは背負い袋から、依頼品であるルナフィ族用の衣類を取り出して差し出した。色鮮やかな小さな服は、どれも羽根の動きを邪魔しない軽やかな仕立てだ。


「おお、助かるよ。最近は注文が多くてねぇ――・・・って、おい」


 店主が目を細める。


「大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」


 どきり、と心臓が跳ねる。


「え? あ・・・だ、大丈夫です」


 引きつった笑顔を貼り付ける。自分でも分かるほど、声が硬い。


「そうか? 無理すんなよ。旅人は身体が資本だ」


「はい・・・」


 それ以上踏み込まれたくなくて、軽く頭を下げ、早足で店を出る。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


(とりあえず依頼は達成したし、ルナフィ族も見られた・・・このまま、今日中に街を出よう)


本当は、数日滞在する予定だった。

 穏やかな街で身体を休め、少しずつ情報を集めるつもりだった。


 ここは平和だ。

 人々は穏やかで、ルナフィ族は無邪気で、争いの気配など微塵もない。


 ――静月の魔女様もいるし。


 たったそれだけの言葉。


 ただの、噂話。

 誰も見たことがないという存在。

 半ばおとぎ話のように語られている守護者。


 冷静に考えれば、怖がる理由などない。


 それなのに。


 その単語が、胸の奥に引っかかってじわじわと蝕んていた。


 静月の魔女。


 魔女。


 その響きが、脳裏に別の姿を呼び起こす。


 ――黎明の魔女。


 あのときの空気の重さと、視線を向けられただけで膝が震えた感覚。何もされていないのに、圧し潰されると本能が理解したあの瞬間。


 冷たい瞳に、全身からにじみ出ていた絶対的な力。

 

 思い出しただけで、喉が締まる。


 ひゅ、と呼吸が浅くなる。


(違う・・・)


 自分に言い聞かせる。


(ここにいるかどうかも分からない。そもそも実在するかも怪しい。ただの噂だ)


 あの女性は笑っていた。魔女の話を、守り神のように、少し誇らしげに語っていた。


 かつてのアレイシア国とは違い、恐怖など、どこにもなかった。


 なのに。


 足が、落ち着かないし、視界の端が気になって仕方がないのだ。まるで、どこかから“見られている”かのような錯覚が消えない。


(何もない。何も起きていない)


 分かっている。分かっているのに、胸の奥がざわつく。


 理屈よりも先に、身体が覚えている。


 “魔女”という存在は、関わってはいけないものだと。


 静かであればあるほど、余計に怖い。


 姿を見せないということが、かえって不気味に思えてしまう。


(・・・馬鹿みたい)


 影も形もない相手に怯えている自分にアステリアは思わず自嘲する。


 それでも。


 この街に長くいるのは、よくない気がした。


 何かが起こる前に。何かに“気づかれる”前に。


 逃げるように、という自覚はある。


 けれど足は止まらない。


 背筋を撫でるような不安を振り払うように、アステリアは街の出口へ向かって歩き出した。


 その時だった。


 上空から、ばさばさと慌ただしい羽音が近づいてくる。


「うわ、わわわ・・・っ!」


 反射的に見上げると、ルナフィ族の少女がこちらへ飛んでくるところだった。

 両手いっぱいに、大きな布包みを抱えている。身体よりも大きいほどのそれを、必死に支えながら。


 次の瞬間。


 つるり、と、その布包みの上の方にあった卵の一つが転がり落ちた。


「あッ!」


 落ちる。


 考えるより早く、身体が動いていた。


 地面すれすれまで落ちてきたそれを、アステリアは両手で受け止める。


 ずしり、と意外な重み。


 ――卵。


 だが、ただの卵ではない。


 深い藍色の殻に、淡く光る銀の線。

 星々を繋いだような模様が浮かび上がり、まるで夜空を閉じ込めたかのようだった。


 一瞬、見惚れる。


「ご、ごめんなさい!」


 ルナフィ族の少女が慌てて降下し、ぱたぱたと羽を震わせながら近づいてくる。


「ほんとにありがとう! 落としたら、あの人に叱られるところだった・・・!」


 心底ほっとした顔で、卵を抱きしめる。


「あはは・・・割れなくてよかったね」


 自分でも驚くほど穏やかな声が出た。


 少女は何度もぺこぺこと頭を下げ、再び大事そうに卵を抱えて飛び立っていく。


 羽音が遠ざかる。


(・・・よし)


 これで本当に、この街とは――


 背を向け、歩き出そうとした――その時だった。


「――その卵、助けてくれてありがとう」


 低く澄んだ声。

 夜気を含んだような、静かな響きだったがアステリアは思わず立ち止まった。


 ぞわり、と背筋が粟立つ。振り返るより先に、身体が理解してしまった。


 ――いる。


 背後に、“何か”がいる。


 ゆっくりと振り向く。


 夕暮れの光の中、長い影を足元に落としながら、

 ひとりの女性が立っていた。


 静かに、まっすぐに、アステリアを見つめている。


 その瞳は、まるで月光を宿しているかのようだった。


 威圧感はない。

 むしろ夜風のように穏やかな気配。


 ――なのに。


 アステリアの心臓が、大きく跳ねた。


 年齢は18歳ほどに見えるだろうか。

 透き通るような青白い髪を肩に流し、その一部を三つ編みにして前へ垂らしている。

 緑色の瞳はどこか眠たげで、表情は柔らかい。

 雰囲気は穏やかで、街に溶け込む普通の住人――そう言われても疑わない。


 ゆるふわとした、優しそうなお姉さん。


 第一印象は、確かにそうだった。


 ・・・目で見たのなら。


 だがアステリアにとって、そんな外見は意味を持たなかった。


 視界に入れた瞬間。


 皮膚の内側が、粟立った。


 空気が違う。いや、空気ではなく、世界の“密度”が違うとそう感じてしまうほど女性の周囲だけ、現実がわずかに歪んでいるような錯覚。

 極限まで圧縮された何かが、薄皮一枚の内側に押し込められている感覚。


 本来なら見えないし、感じ取れるはずもないがそれでも分かってしまうほどに桁違いの魔力を内包しているのだ。


 外に漏れて気づかれることの無いように徹底的に意図的に、魔力を隠蔽している。普通の人なら気づかないほどに巧妙に隠し通している。

 だが、それでもなお、溢れている。


 海を瓶に詰めたような密度。世界に対して過剰な“存在量”。


 そして。


 その“質”。


 ぞわり、と背骨が冷えるような感覚に覚えがあった。忘れられるはずがない。あの日、対峙した相手にするにはあまりにも不条理で理不尽な圧倒的強者。




 ――黎明の魔女。




 そして。


 自分の内側に渦巻くものと、同質の気配にアステリアは本能的に確信してしまう。


(この人は・・・)


 思考が止まりかける。


(魔女・・・!?)


 鼓動が一気に早まり、喉が乾く。視界の端がわずかに狭まる。


 なんで。


 なんでこんな場所にいるの?そんなそこら辺にいるような存在ではないはず。


 なのに、なんで今、ここで?


 頭の中を疑問が駆け巡り、理解が追いつかない。

 思考が過熱し、白く弾けそうになるのを必死に抑え込みながら自分へ言い聞かせる。


 ――落ち着け。気づかれたら終わる。


 理由はない。根拠もない。

 それでも本能が断言していた。


 “知られたらいけない”


 呼吸を整え、視線の揺れを抑え、顔の筋肉を意識して緩める。

 

 動揺を押し殺し、平静を装う。


「いえ! 卵が落ちてしまったら大変ですから。今度は落とさないよう気をつけてくださいね~。それでは、私はこれで――」


 アステリアはにこりと笑い、丁寧に一礼した。


 自然に。

 不審に思われないように。

 何事もなかったかのように。


 心の中で何度も繰り返しながら、女性の横を通り過ぎようとする。


(大丈夫・・・まだ、気づかれていない)


 淡い期待を胸に、歩みを進める。


 一歩。


 二歩。


 ――その瞬間だった。


 ひやり、とした感触。


 視線を落とすと、自分の手首を白い手がしっかりと掴んでいた。

 荒事を生業にする者の手とは程遠い、細く柔らかな、どこにでもいそうな女性の手。


 ――なのに。


 万力のように動かない。


 力任せに握られているわけではない。

 むしろ添えられているだけに近い。

 それでも、振りほどける気が一切しなかった。


 アステリアが驚いて顔を上げる。


 女性はすぐ傍に立っていた。


 先ほどと同じ穏やかな微笑を浮かべたまま、

 緑色の瞳だけが、すっと細められる。


「そんなに急いで、どちらへ行こうというのです?」


 柔らかな声。

 責める響きはない。


 ――逃がさない、という確信だけがあった。


「もう少し、お話しませんこと? ねえ?」


 距離が近い。


 吐息が触れるほどではない。

 だが一歩下がればぶつかる距離。


 逃げ道は、もうない。


「い、いえ! お構いなく! 私は依頼でこの街に来ただけですので・・・それでは――」


 声が上ずる。

 視線を逸らそうとするが、逸らせない。


 目が合った瞬間、逸らすことが“逃げ”だと理解してしまうから。


 その様子を見て、女性はくすりと喉の奥で笑った。


「そんな怯えた目をして・・・わたくしが、そんなにも怖いですの?」


 どきり、と心臓が跳ねる。


 見透かされている。


 取り繕った平静も、呼吸の乱れも、全部、最初から分かっていたと言わんばかりの笑み。


 女性の緑の双眸は静かで深い。

 覗き込めば底へ沈みそうな夜の湖の色をしていた。


 そして――


「そう怯えずとも、とって食ったりはいたしませんわ」


 にこやかに続ける。


 その言葉が、余計に恐ろしい。


「せっかく久方ぶりに・・・わたくしの正体を見破った方とお会いできましたのに」


 呼吸が止まった。


 頭が真っ白になる。


 ――ばれている。


 理解した瞬間、血の気が引いた。


 逃げ道を探そうとした思考が、凍りつく。


 女性はその反応をじっと眺める。

 観察するように。

 愉しむように。


 ほんの僅か、笑みが深くなる。


「ほら」


 指先がわずかに動く。

 それだけでアステリアの体がびくりと震える。今まで隠していた魔力をほんの少し漏れ出すように見せるとアステリアは引きつった表情をし、その様子を見て、満足げに目を細めた。


「やはり分かるのですね。あなたは」


 まるで珍しいものを見つけた子供のような声音。


「さぁ、せっかくですから」


 そっと手首から力が抜かれる。


 白い指が離れ、自由になるはずなのに――足が動かない。


 逃げていい。

 なのに逃げた瞬間を想像すると、もっと恐ろしい結果になると確信してしまう。


「わたくしが営んでおります宿に泊まってくださいまし」


 くすくす、と楽しげに笑う。


「・・・きっと、気に入っていただけますわ」


 優雅な誘いの言葉。


 ――断るという選択肢だけが、最初から存在しなかった。


 アステリアが言葉を返すより早く、女性はくるりと踵を返すと躊躇も振り返りもなく、石畳を軽やかに歩き出す。

 まるで“ついてくるのが当然”と疑っていない足取りだった。


 アステリアはその背中を睨みつける。


(・・・何なのよ、この人・・・)


 逃げるべきか。いや、逃げ切れるかどうか分からない。ならば 先制攻撃か――


 アステリアがそんな思考を巡らせていた、その瞬間。


 女性が不意に足を止め、肩越しに振り返った。


「ああ、そうそう」


 思い出したような、あまりにも軽い調子だった。

 まるで天気の話でも思い出したかのような気安さ。


「この街から逃げ出そうとするのは、おススメ致しませんわ」


 さらり、と落とされた言葉。


 その一言が、なぜか空気の温度を変えた。


 暖かかったはずの風が、急に肌に貼りつくように重くなる。


「なにせ、この街を覆うように封印結界を張っておりますの」


 にっこりと微笑む。


 悪意はなく、脅している顔でもない。

 ただ親切な注意をする淑女の表情。


 ――だからこそ、怖い。


「あなた“だけ”を逃さないための結界を、ね?」


 世界が、止まった。


 背筋を氷の針でなぞられたような感覚が走る。

 息が吸えない。肺が空気を拒否する。


 冗談ではない。


 だが声音は冗談のように軽い。


 だからこそ、嘘ではないと分かってしまう。


「・・・っ」


 反射的に周囲を見渡した。


 広場では子供たちが笑っている。

 露店の店主が客と値段交渉をしている。

 花壇の花が風に揺れ、上空ではルナフィ族が気ままに滑空している。


 空は青く、街は平和そのもので、何一つ異常はないし街の端が見えないわけじゃない。ちゃんと道も続いているし、その先にある先ほどたどった山道もうっすら遠くに見えている。

 だがそれは目に見えないだけでそこには魔力が満ちていて、間違いなく“壁”があった。進めば、辿り着く前に阻まれる。


「ですから、諦めてくださいまし」


 とても柔らかく慰めるような優しさのある声でこの街から逃がさないぞという宣告を受けた。

 アステリアの指先に力がこもる。


(なら――やるしか・・・)


 思考が一瞬で切り替わる。相手は魔女。まず勝てない。ならば勝つことはあきらめてこの場から逃走してあの結界に穴をあけて外へ出ることのみを考えるべきだ。この街を覆う結界を全て破壊し尽くすことはできなくても一部分に一時的に穴をあけることくらいはできるはずだ。


 アステリアはゆっくりと体内で魔力を練り上げ始める 内側へ沈め、圧縮し、外へ漏らさないよう制御する。


 ――悟られないように。


 その瞬間。


「それもおススメ致しませんわ」


 間髪入れず言葉が落ちた。


 心臓が跳ね上がる。


 まだ魔力を体内で回し始めただけで殺気も出していない。何も気取られるような事はしていないのに魔術を行使しようとしても使えない。確実に魔術に干渉されている。


 目の前の女性は、変わらず穏やかに微笑んでいるだけだった。


「他の伝説の魔女に及ばないとしても、わたくしもそれなりにやりますわよ?こんなふうに――ね?」


 肩をすくめる仕草と世間話のような口調。


 だが視線だけが違う。


 柔らかいのに、逃げ道を一切与えない視線。

 深く沈む水底のような瞳。


「あなたが勝てる見込みは――なくってよ?」


 やんわりとした言い方。

 断言。


 アステリアは動かない。


 いや、動けない。


 攻撃すれば終わると分かる。

 終わるのは彼女ではない。自分だと、理解させられている。


 女性はその様子を眺め、小さく首を傾げた。


「・・・う~ん。少し脅し過ぎましたわ~」


 本当に反省しているのか分からない声音。


 そして、ぽん、と手を打つ。


「では、こういたしましょう」


 近くを飛んでいたルナフィ族の少女をひょいと抱き上げる。

 少女は慣れた様子で女性の肩にとまった。


「ついてきてくださいましたら、ルナフィ族の――とっても愛らしい姿をお見せ致しますわ」


 ぴくり、とアステリアの眉が動く。


「・・・愛らしい姿?」


 かすかな呟き。そのわずかな変化を女性は逃さなかった。


 にんまりと、明らかに楽しげな笑みを浮かべる。


「ええ、ええ。それはもう愛らしい姿ですわ」


 確信をもって言う。


「ですから、ついてきてくださいまし。宿代もタダに致しますから」


「・・・なんで、そこまでするの?」


 警戒を解かぬまま、低く問う。


 女性は一瞬だけ考える素振りをして――


「あなたに、是非頼みたいことがあるからですわ」


 さらりと言った。


「もちろん、お話相手になってほしいというのもありますけれどね」


 くすり、と笑う。


 それ以上は語らず、再び歩き出す。


 肩に乗ったルナフィ族の少女が楽しそうに羽を揺らした。


 アステリアはその背中を睨み続け――やがて、小さく息を吐く。


(・・・納得は、いかないけど)


 選択肢はなかった。


 渋々、距離を保ったまま後を追う。





 ―――――







「そういえば自己紹介がまだでしたわね。わたくしはノクティルナ。あなたは?」


「・・・アステリア」


「星座ちゃんだなんて素敵な名前ですわ~。よりしくね♪」


 何を考えているか分からないゆるふわな笑顔でいいながら目的の宿の前までやってきた。


 白い漆喰で塗り固められた宿屋は、遠目には大きな雪団子がいくつも寄り添っているような奇妙な形をしていた。丸みを帯びた壁面は直線がほとんどなく、光を柔らかく受け止めている。夕刻の陽が傾き、外壁の陰影がゆっくりと色を変えていく様子は、まるで生き物の呼吸のようだった。丸い窓には薄い色ガラスが嵌め込まれており、内側から暖かな橙の光が滲み出ている。近づくにつれて、薪の匂いと、甘く煮た果実のような香りが漂ってきた。


 ノクティルナが扉を押し開けると、内側の空気がふわりと溢れ出す。外の冷たい空気とはまるで別世界のように温かい。


「ノクティルナおかえりー!」


「おそかったー!」


「おなかすいたぁ!」


 弾けるような声が一斉に飛んできた。


 小さな足音が床を駆け、次の瞬間には何人ものルナフィ族の娘たちが彼女にまとわりついていた。腰にしがみつく子、袖を引く子、肩へよじ登ろうとする子、つま先立ちで顔を覗き込む子――小鳥が餌をねだるような騒がしさだ。ひとりは器用に頭の上に乗り、別の子はスカートの裾にぶら下がり、さらに別の子は背中から抱きついて離れない。


 それでもノクティルナは微塵も慌てない。


「はーいただいまですわ。おそくなってしまいましたわ~」


 優しく笑いながら、頭の上の子の足首を軽く支え、転ばぬようにしつつ


「ちゃんと降りてくださいまし、危ないですわ」


 と諭す。


 袖を引く子には指先を差し出し、


「はいはい、順番順番ですわ」


 と握らせる。


 背中の子には振り向かずに手を回して背を撫で、


「いまご飯作りますわね~」


 と穏やかに告げる。


 一人一人にちゃんと視線を向け、名前を呼び、返事を返す。急かされても声を荒げることはなく、諭す声も笑う声も同じ温度を保っている。その光景は、世話を焼くというより、共に暮らす日常の呼吸そのものだった。


 アステリアはその入口で立ち尽くしていた。


 暖かな空気が頬に触れているのに、どこか足元が落ち着かない。賑やかなはずなのに、音が遠く感じる。自分だけが余所者であると、身体が勝手に理解してしまう。足音を立てることさえ躊躇われ、扉の影に半歩隠れる形で様子を見ていた。


 ――ここにいていいのだろうか。


 そんな思いが浮かびかけた時、ノクティルナがふと振り返った。


 騒がしさの中でも、彼女の視線はまっすぐアステリアを捉える。そして柔らかな笑みを浮かべ、手招きした。


「さぁ、こちらにいらしてくださいな。あなたにこれを見てほしいのです」


 宿の奥、木製のカウンターへと歩み寄る。娘たちも「なになに?」と後ろからぞろぞろついてくるが、ノクティルナが軽く手を上げると、不思議と距離を保って見守った。


 カウンターの上には、藁を丁寧に編み込んだ丸い籠が置かれていた。乾いた金色の藁は触れれば微かに音を立てそうなほど軽く、しかし編み目は密で形が崩れない。中には柔らかな羊毛が幾重にも敷き詰められている。まだ刈りたてのような白さで、手入れの行き届いた清潔な香りがした。


 そして――


 その中央に、いくつもの卵が静かに収まっていた。


 どれも掌より少し大きい程度。灯りを受けてわずかに光を帯びている。


だが――


普通の鳥の卵とは似ても似つかない。


 殻は単なる白ではなく、内側から淡く光を含んだような乳色を基調に、薄桃、翡翠、淡金の色が水彩のように滲み合っている。見る角度によって色が揺らぎ、模様もまた固定されていないかのように感じられた。渦を巻く線、星屑のような斑点、葉脈のような細い紋――自然のものというより、誰かが丁寧に描き込んだ装飾品のような精巧さだ。


 近づくと、ほんのかすかに温かい。


 生きているもの特有の、微細な熱が籠の中に宿っていた。まるで静かな鼓動のように、そこだけ空気の密度が違う。


 娘たちは息を潜め、さっきまでの騒がしさが嘘のようにじっと見つめている。


 「・・・生きてる」


 思わず呟いた瞬間――


 ピクリ。


 卵が動いた。


 次いで パキッ と乾いた音。

 細い亀裂が走り、色彩の殻に一本の線が刻まれる。


 娘たちが一斉に息を呑んだ。


 ひびはゆっくりと、だが迷いなく広がっていく。

 内側から押し上げられるように殻が膨らみ、薄片がこぼれ落ちた。柔らかな羊毛の上へ、虹色の欠片が小さな音を立てて散る。


 割れ目の奥――暗がりの中から、小さな指が覗いた。


 指は湿って皺だらけで、力なく空を掻く。

 続いて額、頬、そして大きな瞳が現れた。


 殻を押し広げながら、ゆっくりと這い出てくる。


 今まで見てきたルナフィ族の娘たちよりさらに一回り小さい。

 幼さが濃く、手のひらに乗せてもまだ余裕がありそうなほど華奢な体躯。茶色の髪は濡れて額に貼り付き、背には半透明の翼が折り畳まれている。羽はまだ水を含んで重たそうで、光を受けると薄膜のように透けた。


 小さな身体が完全に殻から抜け出ると、少女は羊毛の上でよろめいた。


 翼をゆっくり――ぎこちなく広げる。


 ぶるり、と震わせるが、うまく動かない。

 這うように前へ進み、何度か転び、それでも懸命に腕を動かす。


「はじめまして~」


「わぁ、元気な子だわ」


「ちっちゃい・・・」


「かわいい~」


「わたしの時もっと羽ぺったんだった・・・」


 周囲のルナフィ族の娘たちが、思わず声を漏らした。

 彼女たちの声色は騒がしいのに不思議と静かで、赤子を驚かせぬよう自然と抑えられている。


 少女はその声に反応するように顔を上げ、まだ焦点の定まらない瞳で周囲を見回した。

 そして、きゅ、と小さく口を開く。声にならない息だけが零れた。


 その直後。


 籠の中にある別の卵が揺れながらさらに一つ、また一つ、パキ、パキッ と殻の割れる音が連鎖する。


 籠の中で小さな誕生が次々に起こり、羊毛の上に濡れた幼子が増えていく。

 色違いの瞳、髪の色、翼の形――どれも違いながら、同じくらい頼りない動きで外の世界へ這い出てくる。


瞬く間に数人の幼い娘たちが籠の中を占め、互いにぶつかって転び、また起き上がる。

翼が乾いていないため上手く羽ばたけず、ころころと転がる様子に、周囲から柔らかな笑いが漏れた。


 その光景を間近で見ていたアステリアは――


 思わず頬が緩んでいた。


 緊張も警戒も、いつの間にか消えて、ただ、目の前の小さな命に見入っていた。


「とっても可愛いですわよね、この娘たち」


 不意に、耳元で囁きが落ちた。


 距離が近すぎる。吐息が触れそうなほどだ。


 ぞわり、と背筋に鳥肌が立つ。


 反射的にアステリアの身体が動いた。

 振り向きざまの裏拳。


 しかし拳は空を切る。

 すでにノクティルナは半歩後ろへ退き、軽やかに避けていた。


 クスクスと喉を鳴らして笑う。


「ひどいですわ。いきなり殴りかかってくるだなんて・・・悲しいですわ」


「いきなり真後ろから耳に吐息吹きかけてくるからでしょうがッ!!」


 アステリアが睨むと、ノクティルナは面白そうに目を細める。

 完全に反応を楽しんでいる顔だった。


 抗議を続ける気力が削がれ、アステリアは小さく息を吐く。

 そして再び視線を籠へ戻した。


 羊毛の上で、濡れた翼を必死に動かす幼子たち。

 ぎこちなく互いに寄り添い、初めての世界を確かめるように触れ合っている。


 その光景に、自然と口元が緩んだ。


 成人したルナフィたちは、先に生まれたばかりの小さな娘たちをそれぞれ両手にすくい上げ、柔らかな布へと包んでいた。

 布は温められているらしく、湯気こそ立たないが、触れればすぐ分かるぬくもりを含んでいる。掌ほどしかない身体を傷つけぬよう、指先でそっと支え、翼が折れ曲がらぬよう位置を整え、額にかかった濡れ髪を拭ってやる。娘たちはまだ視界も定まらないのか、きゅ、と小さく鳴いたり、指に抱きついたりするばかりだ。


「ほら、こっちよ」


「温かいでしょ」


「ゆっくりね」


あちこちで柔らかな声が重なり、穏やかな賑わいが満ちている。


――だが、その輪の中心からわずかに外れた籠の片隅に、ただ一つだけ静まり返ったものがあった。


動かない卵。


それは他の卵とは明らかに異質だった。


深い夜の色。

墨を溶かしたような濃紺の殻の上に、細い金の線が淡く輝いている。無作為な模様ではない。幾何学的な点と線が結ばれ、星図のような配置を描いていた。光を受けるたびに、星々が瞬いたように見える。


「どうしてこの卵だけ生まれてこないんだろう・・・」


思わず呟いたアステリアの声に、周囲の娘たちが気付いた。


「どうしたの?」


「ねぇまだ?」


「でておいで~」


「こわくないよ~?」


 先ほど生まれたばかりの幼子たちまで寄ってきて、口々に声を掛ける。

 それに続くように成人のルナフィたちもしゃがみ込み、優しく語りかけるが――


 卵は、微動だにしない。


 ひび一つ入らず、温もりも変わらない。

 まるで、そこだけ時間が止まっているかのようだった。


 ざわめきが静まり、さっきまでの温かな空気が少しだけ重くなる。

 誰も不安を口にしないが、言葉の隙間に小さな沈黙が落ちた。

 

「ごめんね~ ちょっと見せてくださいまし?」


 ゆったりとした足取りでノクティルナが近づく。

 籠の前へ膝を折り、動かぬ卵を両手で囲うように覗き込んだ。まるで卵の様子を見透かすかのような透き通る瞳でじっと見つめる


 しばらく――本当にしばらくの間、何も言わず見つめ続ける。

 周囲の者も声を出せないまま、その様子を見守っていた。


 やがて彼女は頬に指を当て、小さく息を吐く。


「・・・ああ、やっぱりそうなのね」


 納得と、わずかな困り顔が混ざった表情。

 そして一度だけ卵から視線を外し、何かを決めるように瞬きをする。


 次の瞬間、アステリアへ向き直った。


 にっこりとした、やけに明るい笑顔。


「──うん、ではあなたが孵してあげてくださいまし?」


「は?・・・え、ちょ・・・!? ちょっと待って!?」


 抗議が形になる前に、ノクティルナは星座柄の卵をふわりと持ち上げ、アステリアの両手へ載せた。


 思ったより重い。


 見た目は小さいのに、芯の詰まった重みがあり、同時に、じんわりとした温かさが掌へ伝わり――


 とくん。


 微かな鼓動が触れた。


「孵してっていってもどうしたらいいかわかんないわよ! あなたの方が絶対詳しいでしょ!」


「うん、わたくしの方が詳しいですわよ。でも詳しくてもダメなんですの」


「どういうこと?」


 ノクティルナは少し楽しそうに、けれど真面目な声で説明する。


「ルナフィ族の卵は基本的には温めれば孵るし、ある程度したらすぐに成長するのだけれど――この卵は違うのよ。星座柄の卵は温めると同時に魔女の魔力を浴びることによって孵化するの。しかも波長の合う魔女の魔力によってね。だからこの卵自体ほとんど現れないし、現れたとしても波長の合う魔力を持った魔女が現れないと、ずっと孵らないのよ」


「じゃあダメじゃないですか!」


「本当にそう思いますの?」


 含みを帯びた声。

 ノクティルナは、アステリアの手元を指差した。


 卵が――


 ほんのわずかに、動いた。


 先ほどまで何をしても反応しなかったはずなのに、確かに小さく震えたのだ。それは確かに卵の中の生命がアステリアに反応したものだった。


「うそ!?」


「見ての通りですのよ。旅人の魔女さん」


「ッ!」


 息が詰まる。


「どうしてわかったのか。それが知りたいですわよね?」


 ノクティルナは目を細め、柔らかく笑う。


「それはね、あなたから魔女の魔力を感じたからですの。魔女は魔女が分かるの。同類だからね」


 そして、じっと観察するようにアステリアを見つめ――


「まあ、あなたは普通の魔女とはかなり違う感じがしますわね。――まるで何か混ざったかのような感じがいたしますわ」


 その言葉と同時に、掌の中の卵が再びかすかに脈打った。


 ――まずい。


 胸の奥が、ひやりと冷えた。


 緩みかけていた思考が一瞬で引き締まり、アステリアの視線が鋭くなる。

 掌に載せた星座柄の卵の温もりを感じながらも、無意識に指へ力がこもった。


 完全にバレた。


 ここに長居する理由はない。


 ――逃げるべきだ。


 アステリアは何も言わず、静かに一歩後ろへ下がる。

 床板が軋まぬよう、踵ではなく足裏全体で重心を移しつつも視線はノクティルナから逸らさず、距離だけを取る。


 もう一歩。

 さらに一歩。


 籠を囲んでいたルナフィの娘たちがきょとんとした顔で見上げるが、構わず下がる。

 背中で空気の流れを探りながら、入ってきた扉の位置へ向かう。


「この期に及んで逃げようだなんて考えないでくださいまし」


 柔らかな声が追いかけてくる。

 しかしそこに責める響きはない。


「何も致しませんわ。あなたが異質な魔女であるかどうかはこの際関係ありませんのよ。むしろ異質であるからこそ波長が合ったのですわ」


「・・・」


 返事はしない。

 喉を開けば、余計な情報まで漏れそうな気がした。


 指先に意識を集中させ、魔力の流れを整える。

 いざという時は窓を破るか――そう判断しながら、後退を続ける。


そして背中が“扉のはずの位置”へ届いた。


 ――違和感。


 冷たい木の感触が来ない。


 アステリアは目だけを動かし、背後を見る。


 そこにあったのは、扉ではなかった。


 白い漆喰の壁。

 継ぎ目も、蝶番の跡も、取っ手の穴すらない、完全な一枚壁。


 さっきまで確かにあった木製のドアは、跡形もなく消えている。


「・・・・・・は?」


 思わず小さく声が漏れた。


 外気の気配もない。隙間風もない。

 出入口だった場所は、最初から存在しなかったかのように閉ざされていた。


「さて、いつまでもそこに立っていても仕方ないですわ」


 ノクティルナの声は、やはり穏やかだ。

 彼女は既に踵を返し、娘たちへ手を振っている。


「わたくしはこの娘たちのごはんを用意いたしますので、あなたは二階の部屋を使ってくださいまし」


 言うなり、ぱたぱたと羽音が広がった。

 数人のルナフィの娘たちが彼女の周りを飛び回り、「ごはーん!」「あまいの!」「きのうのがいい!」と騒ぎながら奥へついていく。


 ノクティルナは振り返りもせず、手だけをひらひら振った。


 そのまま台所らしき奥の空間へ消える。

 賑やかな声も一緒に遠ざかり、やがて鍋の触れ合う音と湯気の匂いだけが残った。


 静寂。


 アステリアはしばらく動かなかった。扉だったはずの壁を見つめ、次に窓を見る。

 窓はあるが――外の景色がわずかに歪んでいる。試しに窓を開けてみると真っ白な漆喰の壁になっていた。ご丁寧に窓まで変わっていた。

 逃走経路が、存在しない。


 掌の中の卵が、かすかに脈打った。


「・・・はぁ」


 肺の奥に溜まっていた息が漏れる。


 緊張を保ったまま立ち続けるのが馬鹿らしくなり、肩が落ちた。


「帰りたい」


 ぽつりと零れた本音は、誰にも聞かれない。


 完全に相手の掌の上だ。

 閉じ込められ、役割を押し付けられ、しかも拒否権がない。


 もう一度だけ壁を見てから、アステリアは観念したように視線を外した。


 小さな鼓動が、まだ掌の中で続いていた。


 翌朝。


 二階の部屋は丸い外壁に沿うように造られており、窓も半円形だった。薄い色ガラスを透かして入る朝の光はやわらかく、机の上に広げられた魔術書の文字を淡く照らしている。


 アステリアは椅子に腰かけ、背筋を伸ばしたままページに向き合っていた。


 分厚い魔術書には、幾何学的な魔術式と細かな注釈がびっしりと並んでいる。インクで描かれた円陣、そこに組み込まれた魔術式、補助式、展開条件、展開速度、魔力変換効率――理論は整然としているが、読む者に優しくはない。


「え~と、火炎系列の魔術は魔術式がこれでこうなって・・・」


 指先で式をなぞり、ぶつぶつと確認する。


「上級魔術の応用式は、出力調整に圧縮と境界維持と制御を挟んで・・・めんどい・・・」


 机にかじりつくようにして文字列を追って紙に書きだしていく。アステリアは何故本来なら、こんな回りくどい手順は必要ない。


 人工の魔女となってしまった自分は、“本来使えないはずの魔法”を使える。魔女である以上、マギアシステムがなくとも、直接世界へ干渉できる。


 けれど――それは目立つ。


 国の外で魔法を使えば、余計な視線を集める。何せ魔女と魔王以外が魔法を使おうものなら魔女の呪詛にやられて死ぬから使いたくても使えないというのが世界における常識となっている。

 よって魔法を使おうものなら即座に魔女であることがバレる。ただでさえ異質な魔力は目立つというのに魔法まで使っていたら完全に目をつけられる。


 だからこそ、今は魔術を学ぶ。

 理論と手順を踏み、一般的な体系の中で力を行使するために。


 ページをめくりながら、ふと視線が宙へ浮いた。


 故郷。


 今頃、どうしているのだろう。


 胸の奥が、ずしりと沈む。


 あの日。

 黎明の魔女ダウナが消滅し、マギアシステムのコアをアステリアが破壊し その瞬間、アレイシア国から魔法が消えた。

 

 変身できなくなった魔法少女たち。アレイシア国を襲っている魔物との戦いの最前線を支えていた戦力の魔法少女という戦力の喪失と、それに伴う街を包んだ混乱と動揺。ざわめきと、不安と、怒号。


 代替手段はある、とレイラは言っていた。

 だが、本当の意味で余裕のある者などいなかったはずだ。人々は誰しも心の中に不安と恐怖を抱えていたはずだ。


 自分自身に後悔はない。マギアシステムを破壊して魔法少女を解放することを目指して戦ってきたのだから。それにちゃんとその後の対応策も考えてあったし、不穏分子もできる限り排除してから国を出た。


 だが必ず、どこかに綻びは出てしまう。


「・・・ちゃんとやれてるのかな。みんなも、私も」


 唇を噛む。自分は逃げたのではないか。

 そんな思いが、消えない。


 部屋は静まり返っている。

 外の羽音も、階下の物音も、今は遠い。


 そのとき。


 ――パキン。


 乾いた、しかしはっきりとした音。


 アステリアはビクリと肩を跳ねさせ、勢いよく振り返った。


 音の出どころは、ベッドの上。


 丸めた羽織の隙間から、あの深い夜色の殻が覗いている。

 星座の金線が、朝光を受けて淡く瞬いていた。


 そして中央に――小さなひび。


「・・・今、何か割れた?」


 そろりと立ち上がる。

 足音を殺し、ゆっくりと近づく。


 殻の裂け目の奥から、まんまるな瞳が二つ。


 覗き込んだ、その瞬間。


 深い金色。

 溶けた陽光を閉じ込めたような色が、暗い殻の内側で淡く光を返す。


 まだ完全に開いていないのか、瞼は少し重たげに瞬き、焦点も揺れている。

 だが確かに――こちらを見ている。


 殻の内側には、まだ湿った空間が残っているのだろう。

 頬に張り付いた細い髪が影となり、呼吸に合わせてかすかに揺れた。

 狭い殻の中で体を丸めているらしく、瞳の奥で肩がかすかに上下しているのが分かる。

 小さな手が縁に触れては離れ、触れては引っ込む――外へ出る勇気を探しているような、ためらいの動き。


 アステリアと、目が合う。


 ――無言。


 時間が止まったような静止。


「えっと・・・おはよう?」


 できるだけ柔らかい声を出す。


 その瞬間。


「!?」


 卵の中の瞳がビクッと震えた。


 黒目が大きく揺れ、ぱちぱちと慌てて瞬く。

 小さな口が開きかけ――声にはならず、息だけが漏れる。


 次の瞬間、バッと視線をそらし、殻の奥へ引っ込む。


 殻の内側でばたばたと音。

 腕と脚を慌てて折り畳み、体の向きを変える気配。

 翼らしきものが内壁に当たり、ぱたぱたと湿った音を立てる。


 完全に“隠れた”。


「そ、そんなに驚かなくても・・・別に食べたりしないよ?」


 苦笑しながら肩をすくめる。

 返事はない。


 しばらく待ったが、殻は静まり返ったままだ。


「・・・まあ、いいか」


 再び机へ戻り、椅子に座り、魔術書を開き直す。


 文字列を追い始めた、その数分後。


 ――じわ。


 背後から、視線。


 空気が、ほんの少しだけ揺れるような感覚。


 アステリアは何も言わず、ページをめくるふりをする。

 だが、気配は消えない。


 ぱっと振り返る。


 いた。


 殻の割れ目から、また金色の瞳がのぞいている。


 今度は少し大胆だ。

 さっきよりも割れ目が広がっている。


 ジーーーーッ・・・・・・


 興味と警戒が半々に混ざった、じっとりとした視線。


 アステリアと目が合う。


 一瞬、固まる。


 そして――


 バッ!


 慌ててまた引っ込む。

 殻の中でごそごそと動く音。


 そのあまりの分かりやすさに、アステリアの口元が緩んだ。


「・・・ずいぶんと人見知りな娘なんだね」


 小さく呟く。


 殻の中から、かすかな気配。

“気になるけど怖い。でも気になる”

 そんな揺れる心が、伝わってくるようだった。


 アステリアはそれ以上構わず、再び魔術書へ視線を落とす。


 上級火炎魔術の補助式と魔力効率式を組み直し、出力調整の理論を頭に叩き込む。

 だが、背後から感じる小さな視線が、完全に消えることはなかった。


 ときおり、

 パキ、とごく小さな音がする。


 殻のひびは、少しずつ広がっていた。


 気配を感じながらも、アステリアはあえて振り返らない。


 その日、彼女は奇妙な同居人の存在を背に感じながら、魔術の勉強に没頭し続けた。






 ―――――






 翌朝。


 コン、コン――と控えめだが迷いのないノックが部屋に響いた。魔術の勉強をしたまま机に突っ伏して寝落ちしていたアステリアは机に突っ伏していた額をゆっくり上げる。

 嫌な予感しかしない。


「・・・はい」


 鍵を外し、ドアを開ける。


 案の定。


 そこには、にこやかに微笑むノクティルナが立っていた。朝の光を背に受け、妙に清々しい顔をしている。


「『うわ、でた』見たいな目で見るのはやめてくださいまし。そんな目で見られたら悲しいですわ」


 両手で顔を覆いシクシクとすすり泣き声をあげるノクティルナにアステリアはジト目になる。


「全然全く悲しそうに見えないけど」


「――あらら、バレました?」


 くっくっと喉を鳴らして笑う。

 一ミリも木津着いた様子の無い顔にアステリアは盛大にため息をついた。


「で、何の用?」


「あなたに折り入ってお願いがありますの」


 嫌な前置きである。


「卵を孵してほしいのはそうなのですが、それ以外にもやってもらいたいことが出来まして。まあ端的に申し上げますと――迷宮攻略ですわね」


「・・・は?」


 ノクティルナはくるりと丸めた羊皮紙を広げる。

 そこには簡略化された街の地図と、周辺の地形が描かれていた。


 細い指先が一点を指す。


「こちら。街の北西に位置する大きな樹木の傍ですの。距離はそう遠くありませんわ」


 確かに、歩いて半日もかからない距離だ。


「この迷宮は最近できたものでして、そこまでの規模ではありませんの。ただ問題なのは――ルナフィ族の宿り木の傍にあることですわ」


 宿り木。


 それはルナフィ族にとっての中心にして彼女たちの拠り所とのこと。今は街に多数のルナフィ族の娘たちが暮らしているし、孵してもらっているため街に住んでいる者も多いが、元は山にある宿り木に寄り添うようにルナフィ族は暮らしている。


「今はまだ大きな影響はありませんが、いずれ魔物が溢れ出る可能性は十分ありますの。宿り木が倒されるやもしれませんし、娘たちが襲われるかもしれません。最悪、街へ降りてくることも」


 ノクティルナの声音は穏やかなままだが、内容は重い。


「ですから、そうなる前に攻略してほしいのですわ」


 渡された地図を見つめながら、アステリアは黙り込む。


 確かに、放置はできない。

 あの娘たちが傷つくのは見たくないし、街に被害が出るのも避けたい。


 だが――。


「私は迷宮攻略なんてやったことないんだけど?」


 手渡された地図を握ったまま、アステリアは顔を上げた。紙の端がわずかに折れる。自分でも気づかないほど、力が入っていた。


 それに対してノクティルナは相変わらず優雅な笑みを浮かべている。

 まるで「当然やるでしょう?」と言わんばかりの、確信に満ちた微笑だった。


「アレイシア国・・・私の故郷に迷宮なんてなかった。魔物は生息域から出てきたのを迎撃するだけ。迷宮内での戦闘経験はゼロ。トラップの構造も知らない。地形も分からない。遭遇戦前提で、狭い空間での近接戦闘になる。勝手が違いすぎる」


 一気に言い切る。

 説明というより、拒否のための理由の羅列だ。

 しかし喋りながら、胸の奥が少しだけ重くなる。――言い訳している自覚があった。


「無茶言わないでよ。そもそもあなたが戦えばいいじゃない」


 半ば投げるように言うと、ノクティルナはにこりと微笑んだ。

 あまりにも自然な笑顔だったので、一瞬意味が理解できない。


「わたくしは傍観者ですのよ?」


「は?」


 間の抜けた声が出た。


「よっぽどのことが無い限り参戦いたしませんわ。過去にやらかしてから、もうこりごりですの」


 さらっと告げられた言葉に、部屋の空気が一瞬だけ冷える。

 “やらかしてから”――軽く流すには妙に重い響きだった。


 だが、アステリアが問い返す前に、ノクティルナはすぐ話題をずらす。


「それに迷宮攻略をすれば意外と稼げますわよ? 路銀に困らなくて済みますし――」


「そして何よりも・・・あなたがやってくだされば、わたくしが楽できますわ」


「理由最低だな!? っていうか色々言い訳してるけどそれが本音でしょ!!」


 思わず身を乗り出す。

 ベッドの軋む音がやけに大きく響いた。


 ノクティルナは肩を揺らして笑うだけ。

 否定しない。訂正もしない。弁明すらしない。


 ――完全に確信犯だ。


 面倒事を押し付けている自覚があるどころか、楽しんでいる節すらある。

 そして何より腹立たしいのは、その態度に悪びれた様子が微塵もないことだった。


 アステリアは額を押さえ、深く息を吐く。


 逃げ道はある。断ることもできる。

 だが、地図に示された場所――あの宿り木の近くを思い浮かべると、言葉が喉に引っかかる。


「それでどういたします?」


 にっこり。


「もちろんやってくださいますわよね?」


 言い方が“選択肢:YES or YES”。


「・・・はぁ」


 深い溜め息。


「・・・わかったよ、やるよ。ルナフィ族の娘たちを見捨てるのも寝覚め悪いし・・・」


 観念した瞬間、ノクティルナの表情がぱっと花開いた。


「まぁ! 助かりますわ。さすがはわたくしの見込んだ方」


「見込まれた覚えはないんだけど・・・」


 疲労がどっと押し寄せる。


アステリアは無言でノクティルナの肩を押し、廊下へ追い出した。


「準備するから出てって」


「はいはい。楽しみにしておりますわ~」


 ひらひらと手を振りながら去っていく。


 ドアを閉め、鍵をかける。


 静寂。


「・・・ほんと、帰りたい」


 呟きながら、装備品を確認する。


 剣を鞘から抜き、光にかざして状態を確認。刃こぼれも錆もないことを確認して腰へ装着。


 次にガントレット。

 革紐を締め、手首の可動域を確かめる。


 胸当てを装着し、ベルトを調整。

 その上からローブを羽織る。魔力の流れを乱さないよう、裾を整える。


 ポーチを確認。

 回復薬、解毒剤、ロープ、小型ナイフ、火打ち石。


 一つ一つ触れて位置を覚える。


 迷宮は未知。

 だからこそ準備だけは徹底する。


「やるからには、さっさと終わらせる」


 小さく呟く。


 最後に机の上を見やる。

 魔術書は閉じ、星座柄の卵は――今日は静かだ。寝ているのかな?


「・・・置いてってもいいよね」


 誰にともなく言い、ドアを開ける。


 廊下に一歩踏み出す。


 迷宮攻略という未知の領域への初挑戦に胸の奥にわずかな不安が渦巻いていた。


 木製の階段を一段ずつ降りるたび、ぎし、ぎし、と乾いた音が鳴る。

 朝の光が窓から差し込み、淡い金色の埃がふわりと舞っていた。


 階下では、ルナフィ族の娘たちが小さな羽音を立てながら楽しそうに飛び回っている。笑い声は鈴のように軽やかで、宿の空気を柔らかく震わせていた。


 その中央、丸テーブルの横。

 優雅に足を組み、毛糸を編みながら薬草茶を啜っているのはノクティルナだった。


 陽光を受けた銀糸のような青白い髪がさらりと揺れ、編み針が規則正しく動く。まるで何もかも予定通り、と言わんばかりの余裕の表情だ。


 アステリアは一瞬、深呼吸する。


「準備できたよ。じゃ、行ってくる──」


 軽く言い捨て、宿の扉へ向かい手をかける。


 その瞬間。


 ――ぴたり。


 指先から先が、凍りついたかのように止まった。


「・・・え?」


 力を込める。だが、扉は遠い。

 足も、腕も、肩も、首さえも動かない。まるで透明な鎖で全身を縛り上げられたかのようだった。


「・・・え? 動かないんだけど!? なにこれ!?」


 背後から、くすくす、と控えめな笑い声。


「アステリアさーん。何か、お忘れではなくて?」


声が近い。思ったより、ずっと近い。


「・・・何かって、何?」


 振り返ろうとするが、首が一ミリも動かない。

 次の瞬間、背中に柔らかな気配がぴたりと寄り添った。


 吐息が、うなじにかかる。


「あらあら、惚けちゃって」


 ノクティルナの声は低く、甘い。

 囁きが、肌を撫でるように滑る。


「お預けした卵を置き去りにするなんて、ひどいですわ。ちゃんと“肌身離さず”連れて行ってくださいまし?」


 耳朶すれすれで囁かれ、思わず肩が震える。


「・・・なんでそれを知って――はッ!」


 ぱちん、と軽く指を鳴らす音。


 その直後。


「・・・っ!?」


 机の上に置いてきたはずの星座柄の卵が、ふわりと空中に現れた。

 淡い光をまとい、ゆっくりと、しかし迷いなくアステリアへ向かってくる。


まるで帰るべき場所を知っているかのように。


「フフ。ダメですわよ? ちゃんと人肌で温め魔力を染み込ませませんと。孵らないじゃありませんの~」


ノクティルナの声は愉しげで、どこか期待に満ちている。


「ちょ、待っ――!」


「ここが一番孵化にいいんですのよ?」


言い終える前に。


すぽっ。


卵は迷いなくアステリアの胸元へ滑り込み、布の内側へと消えた。


「え、ちょ・・・わ、わわ・・・っ!?」


布越しに伝わる、温かく硬い感触。


そして。


ずぶ、ずぶ、と。


まるで“最適な場所”を探すように、内側でゆっくりと位置を定めていく。


「な、なにをするのこの変態!! 痴女!!」


 顔が一気に熱を帯びる。

 羞恥と違和感で思考がまとまらない。

 

ノクティルナは背後からそっと腕を伸ばし、アステリアの動かない肩に指先を置いた。


「痴女ではなく、魔女ですのよ」


 耳元で、くすり。


「そんなことを言ってるんじゃなぁあああああい!!!!!!」


「まあまあ。そんなに暴れないでくださいまし。ほら・・・ちゃんと“くっつけました”から」


「・・・は?」


 ぱちん、と再び指が鳴る。

 途端に拘束が解け、アステリアは前のめりになりかけながら胸元へ手を突っ込む。


 掴む。引く。


 だが。


 離れない。


 まるで最初からそこに“在る”もののように、身体に吸い付いている。


「・・・なんてことするのよぉおおおおおおおおッ!!」


 ノクティルナは満足げに目を細める。


「だってこうでもしませんと、あなたは恥ずかしがって人肌で温めてくださらないですもの。言ったではありませんの。温めて魔力浴びせないと孵りませんわ」


「うっ・・・」


「安心してくださいまし。孵化すれば取れるようになっておりますわ。・・・孵化すれば」


「孵化しなければずっとこのままってことじゃない!? 冗談じゃないわよ!? 大体温めるのなら人肌じゃなくてもいいじゃない!」


「まあまあそうおっしゃらないでくださいまし。心音を聴かせてあげたほうがその娘も安心しますのよ?」


 ノクティルナは優雅に距離を取り、再び椅子へ腰を下ろす。

 脚を組み、顎に指を当て、楽しげに微笑む。


「さぁ、迷宮攻略に行ってきてくださいまし。そしてわたくしに楽させてくださいまし♪」


「楽って言った!! やっぱり一番の目的それなんでしょおおお!!!」


「ええ、ええ!」


 胸に手を当て、誇らしげに。


「一番の目的はそれですわ!」


 きっぱり。


「面倒なことは若い子に任せて、わたくしはお茶でも飲んで待つ――。素晴らしい役割分担だと思いませんこと?」


「どこが素晴らしい役割分担よこの愉快犯!!」


「愉快犯ではなく、魔女ですのよ?」


 さらりと言い直し、妖しく微笑む。


 そして。


「さあ、行ってらっしゃい。わたくしの“期待の星座”さん」


 視線が絡む。

 逃げ場はない。


「迷宮は逃げませんし・・・あなたも逃がしませんわ♡」


 最後の一言は、甘く、確信に満ちていた。


「もう嫌だこの魔女ぉおおおおおおおおおおおッ!!」


 宿の中に絶叫が響き渡る。


 一方、ノクティルナは涼しい顔で薬草茶を啜るのだった。


 街道を外れてから、どれくらい歩いただろうか。


 最初はまだ背後に人の気配があった。荷馬車の軋む音、遠くで交わされる呼び声、鍛冶屋の金属音。

 だが一歩、また一歩と進むたび、それらは霧のように薄れていく。


 代わりに耳に届き始めたのは、風に揺れる葉擦れと、小鳥の囀りだけだった。


 やがて。


 視界の先に、街からでも見えていた巨大な樹木が――近づくにつれ、常識の感覚を壊していく。


 大きい、という言葉では足りない。

 近づけば近づくほど遠近感が狂う。まだ距離があるはずなのに、すでに山のような圧迫感があった。

 

 空気が変わる。


 胸に入る息がひんやりと澄み、森の香りが濃くなる。湿った土、若葉、樹液。

 どこか甘く、生命の満ちた匂いだった。


「・・・」


 アステリアは足を止め、見上げる。


「・・・あれが、ルナフィ族の宿り木・・・」


 幹は家がいくつも並ぶほどの太さ。

 表皮は古い年月を刻んだ深い溝を持ちながら、それでいて若木のような青さを帯びている。枝は雲を支える柱のように広がり、葉は光を受けて柔らかく輝いていた。


 その周囲では、小さな影が無数に舞っている。


 ルナフィ族の娘たちだ。


 枝の間を縫って飛び回り、葉の上に寝転び、木の実を分け合い、リスと追いかけっこをしている者までいる。

 一人が笑えば、周囲がつられて笑う。

 静かな森のはずなのに、不思議と賑やかだった。


 その光景に、胸の奥がふっと緩む。


(・・・平和だな)


 思わず口元が綻ぶ。


 そのとき。


「ねえねえお姉さん!」


 視界の端から、小さな影が一直線に飛び込んできた。


「こんなところでどうしたの? もしかしてお菓子持ってきてくれたの!?」


 目を輝かせて見上げてくる小さな顔。距離が近い。


「え、あ、いや、そうではなく・・・」


 言い終わる前に、周囲の空気がざわついた。


「お菓子!?」


「お菓子お菓子~!」


「それよりあそぼ!」


「お昼寝しよ~」


 一斉に集まってくる小さな羽音。

 腕を引かれ、ローブの裾をつままれ、肩に乗られそうになる。


「ちょ、ちょっと待って!?」


 完全に囲まれる。


 ようやく息を整え、アステリアは両手を軽く上げた。


「私ね、ここに迷宮攻略しに来たの。それで・・・最近このあたりに変わったことはない?」


 言葉を聞いた瞬間、娘たちの動きが止まる。


 互いに顔を見合わせる。


「変わったこと~?」


「みんな知ってる~?」


「知らな~い」


「うーん・・・」


 ざわざわと相談が始まり――


「あ、もしかして!」


 一人が声を上げ、ぱたぱたと飛び始めた。


「こっち!」


 案内され、宿り木の幹から少し離れた場所へ向かう。


 そこだけ、森の様子が違っていた。


 木々が、不自然に避けるように円を描いている。

 風が通るのに、葉が揺れない。


 そして中央に――


 それはあった。


 巨大な岩。


 いや、岩に“見える何か”。


 地面から押し上げられたように盛り上がり、黒く鈍い光沢を帯びている。

 表面は岩にしては滑らかすぎ、ところどころに脈打つような線が走っていた。


 生き物の皮膚のような、不快な質感。


 側面にはぽっかりと穴が開いている。

 人ひとりどころか、荷を背負ったままでも余裕で通れる大きさ。


 その奥は闇。


 覗き込むと、螺旋を描く石段が地下へ続いており、冷気が外へ流れ出ていた。


 森の湿った空気とはまるで違う、乾いて古びた匂い。

 石と埃と、長く閉ざされた場所の空気。


 娘たちが一斉に距離を取る。

 羽を畳み、小さく身を寄せ合う。


「ここ・・・近づかないほうがいいって・・・みんな言ってる・・・」


「うん、正解だと思う」


 アステリアは石段を見る。


 段差には泥のついた足跡がしたから出てくるように残っており、それにわせるように壁面には擦れた跡。

 ――外へ向かっている痕跡がそこには残っていた。


(・・・やっぱりここから出てきたのか)


 その場に落ちていた見覚えのある抜け毛に胸の奥に冷たい感覚が落ちる。間違いなく山道で出会った魔物のものと同じだった。ということはあの魔物はこの場所から出てきたと考えていいだろう。


 アステリアが振り返ると、娘たちが不安そうにこちらを見つめていたため、不安を与えないようにできるだけ穏やかに告げた。


「ここから先は私が行くから。みんなは大樹のところに戻ってね」


 しゃがみ、目線を合わせる。


「絶対に中に入ってきちゃダメだよ?」


 アステリアの言葉に彼女たちから こくり、と小さな頷きがいくつも返る。


 それを確認し、立ち上がる。


 闇へ向き直る。


 石段の奥から、かすかに冷たい空気が流れてくる。静かなのに、何かが潜んでいると分かる気配。


 アステリアは息を整え――


 一歩、踏み出した。


 足音が石に響き、森の音が背後で途切れる。

 光が薄れ、温度が下がる。


 そのまま、ゆっくりと地下へ降りていった。


 螺旋を描く石段を降りるたび、外界の気配は確実に遠ざかっていった。


 最初はまだ入口から差し込んでいた淡い光も、数十段を過ぎる頃には完全に消え、視界は闇に沈む。

 湿った空気が肌にまとわりつき、足音だけが石壁に反響する。


「・・・暗すぎる」


 小さく呟き、指先を掲げる。


 淡い魔力が集まり――

 ぽう、と白い光球が生まれた。


 光魔術で作り出した小さな灯りが、石段を丸く照らす。

 照らされた壁には削り跡が残り、所々に古い紋様が刻まれていたが、ほとんどが風化して読めない。

 どれほど昔の遺構なのか、想像もつかない。


 やがて石段は終わり、足元の感触が変わる。


 最後の段を降りた瞬間――視界が開けた。


 広い空間だった。


 だが整然とした迷宮ではなかった。空気は澱み、腐った水のような匂いが漂っている。

 壁は各所で崩れ、石が積み上がり、天井の隙間から伸びた木の根が床の石畳を突き破っていた。苔が張り付き、湿った土が露出している場所もある。


 自然と遺跡が混ざり合った、半ば廃墟の迷宮。


「・・・迷宮っていうか、遺跡の残骸ね・・・」


 光球を前に浮かべながら歩き出す。


 どこまで続いているのか分からない通路。

 左右に分岐がいくつもあり、距離感覚が狂う。


「えっと・・・確か迷宮攻略って、コアを破壊すれば不活性化するんだっけ・・・。ギルドの教書に・・・書いてあった、気がする」


 記憶を手繰りながら進む。


 そのとき。

 

 背筋に、氷を流し込まれたような悪寒が走り、ぴたりと足を止める。嫌な予感がする。


 ゴゴゴゴゴ・・・


 低い地鳴りが響き、石畳の床に散らばっている石の破片が小刻みに跳ねながら床が細かく震え始めた。


(・・・なにか来る?)


 アステリアが身構えた直後。


 ガタンッ!!


 前方の天井が傾き、石板が外れ――

 巨大な石玉が姿を現した。


「うわ!?」


 次の瞬間、轟音と共に転がり出す。


「本当に罠仕掛けてあったよ!!」


 反射的に来た道へ駆け戻り、すぐ横の細い通路へ飛び込む。

 直後、石玉が通路を轟音と共に駆け抜け、壁へ激突し粉砕した。


 粉塵が舞い、静寂が戻る。


 恐る恐る顔を出し、砕け散った石塊を見る。


「・・・これ、これからもあるの・・・?」


 肩が落ちる。


 だが立ち止まっても終わらない。

 軽く頬を叩き、再び歩き出す。


 ――そこからは地獄だった。


 壁から突然射出される矢を魔術の防御結界で防ぎ閉じ込められ急速に水が満ちる部屋を穴をあけて排水し、突如崩落する石畳の床を崩落する前に走り抜けた。

 そして迷宮の構造物の陰から突如現れた魔物の群れは速攻で殲滅した。


 休む暇もなく、罠と戦闘が連続する。


 衣服には裂け目が増え、呼吸が荒くなる。

 光球の明るさも、わずかに揺らいでいた。


「・・・どこまで進めばいいのよ・・・」


 やがて辿り着いたのは、巨大な大扉の前。


 両脇に設置された光る鉱石が、篝火代わりに淡く周囲を照らしている。周囲に魔物がおらず、罠の類もないことを確認してその下に腰を下ろし、背を壁へ預ける。


 どっと疲労が押し寄せた。


(・・・不思議だな)


 膝の上に置いた自分の手を、ぼんやりと見つめる。

 指先は細かく震え、掌にはまだ戦闘の熱が残っていた。

 傷も痛みも、いつもと同じ。何一つ変わっていないはずなのに――胸の奥だけが妙に空いていた。


(今までだって、危ない目には何度も遭ってきたのに)


 まぶたの裏に、景色が浮かぶ。


 魔法学園の訓練場。

 土埃の舞う中、同期たちと何度も魔術を撃ち合った日々。

 失敗して笑われ、成功して喜び合い、夜遅くまで理論を語り合った記憶。

 一人で立っていた時間なんて、ほとんど無かった。


 次に浮かぶのは戦場。

 魔物の咆哮、焦げた大地、響く指示。

 前線を押し上げる仲間、背後を守る者、回復を飛ばす者。

 視界に誰かの背があり、誰かの声があり、無言の連携があった。


 さらに――


 暗い城壁、夜の潜入、国家の闇。

 ディアボロスとして戦ったあの頃。

 信頼も疑念も入り混じった危うい関係でさえ、確かに“隣に誰かがいた”。


 前に出る者。

 支える者。

 背を預ける者。

 助ける者。


 言葉がなくても通じる距離。

 互いの呼吸が分かる位置。


(・・・今は、私ひとり)


 現実へ引き戻される。


 広い石の空間。

 揺れる光。

 返事のない静寂。


 どれほど耳を澄ませても、聞こえるのは自分の呼吸と心臓の音だけ。


 ずっと一人で旅をしてきた。

 危険もあった。戦いもあった。

 それでも――こんな感覚は無かった。


「・・・ああ・・・そっか」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 今さらになって理解する。

 これまで一人だったのではない。

“今、初めて一人になった”のだと。


 帰る場所が無いからではない。

 強敵がいるからでもない。

 ただ、誰も自分を知る者がいない場所にいるという事実。


 自分の過去を知る者も、

 自分の失敗を笑う者も、

 自分の背を守る者も――


 いない。


 ぽつり、と言葉が零れた。


「私・・・寂しい、んだ」


 その瞬間。


 ――コツン。


 微かな衝撃が胸元から伝わる。


 はっとして視線を落とす。

 ローブの内側、抱いた卵がほんの僅かに揺れていた。


 もう一度。


 ――コツン。


 まるで返事のように。


 しばらく、言葉が出なかった。

 胸の奥の空洞に、じんわりと温度が流れ込んでくる。


「・・・そっか」


 両手でそっと包み込む。

 殻は温かい。

 確かにここに“誰か”がいる。


「私、一人じゃなかった」


 呼吸がゆっくりと落ち着いていく。

 心の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなる。


「ごめんね。こんな所に連れてきちゃって。本当は安全な場所にいたかったよね」


 指先で撫でる。

 壊れないように、触れるだけ。


「でも・・・」


 言葉を探すように、少し間を置く。


「どうやら私、孤独が寂しいみたい。・・・一緒に、いてくれる?」


 小さく、弱く、それでも確かな願い。


 ――コツン。


 今度の音は、さっきよりも近く感じた。アステリアは一つ深呼吸を終えるとゆっくりと立ち上がる。


 身体の疲労は消えていないし、心の孤独も消えていない。


 それでも胸には、確かな温もりがあった。


 大扉へ手を掛ける。


 初めての迷宮攻略。

 初めて知った孤独。


 けれど――


「・・・よし、行こうか」


 小さな命を抱いたまま、アステリアは扉を押し開けた。


 大扉に手を掛け、押し開く。


 重々しい音とともに開いた先――そこは円形の広間だった。

 中央奥には、淡く脈動する光の塊。迷宮のコアが祭壇のような台座の上に鎮座している。


 そして、その前に――影が一つ。


「・・・やっぱり、そうなるよね」


 アステリアは小さくため息を吐き、腰の剣を抜いた。


 影が動く。


 それは巨大な山羊のような姿だった。

 ただし、ただの動物ではない。二足で立ち、分厚い筋肉に覆われた体躯。

 曲がりくねった角は天井に届きそうなほど長く、口の隙間からは赤い炎が漏れている。

 呼吸のたびに熱気が広間を揺らし、石床がじりじりと焦げた。


 次の瞬間、魔物が踏み込む。


 ――ドンッ!!


 床が砕ける勢いの突進。

 振り下ろされた巨大な爪を、アステリアは紙一重でかわす。石床が粉々に砕け散った。


「っと・・・!」


 すれ違いざまに剣を振るう。

 だが、魔物は腕を交差させて受け止めた。金属のような硬質音が響く。


 すぐさま拳が振り抜かれる。


「防げ――!」


 瞬時に展開した防御魔術に拳が叩きつけられ、衝撃波が広間を揺らした。

 アステリアは数歩滑るように後退する。


 魔物が大きく息を吸う。


 嫌な予感が走る。


「うわ、ちょっ――この狭い空間で火はマズいって!」


 次の瞬間、灼熱の炎が吐き出されると同時にアステリアは横へ飛び転がり、熱風を回避した。アステリアがいた場所の石畳と石壁が真っ赤に焼け、空気が一気に乾く。


 だが、魔物は止まらない。

 炎の余波を踏み越え、連続で爪を振るい、角で突き上げ、拳を叩きつける。それをアステリアは冷静に捌き続けた。


(・・・狭いから少し面倒。でも――)


 呼吸を整える。

 相手の動きは速いが単調。力任せで隙が大きい。正直アステリアにとってはこのくらいの魔物はそこまで強くはないのだ。アレイシア国で日々前線で戦っていたアステリアは魔物討伐はお手の物。


 しかもアステリアに襲撃を仕掛けてくる魔物の群れはどれもこれも強い。なんなら過去に第1等級の魔物を単独討伐したことだってあるのだ。目の前にいる魔物はそれらより一段劣る。


(勝てる)


 剣に魔力を流す。


 踏み込み、懐へ潜る。

 爪を紙一重で避け、腹部へ一撃。魔物がよろめく。その隙をアステリアは逃さず続けざまに魔術を重ねる。

 足を止めた瞬間、爆ぜる光と熱が内部から弾けた。


 咆哮。


 数度の攻防ののち――最後の一閃が首元を断ち切り、続けざまに放たれた上級風切魔術がその体躯をバラバラに解体した。

 巨体が崩れ落ち、バラバラに解体された魔物が、毒々しい色合いの血をまき散らし床を濡らした。

 部屋に静寂が戻る。


「まあ・・・こんなものかな」


 広間は戦闘の余波で崩れ、焦げ、ボロボロだった。そこらじゅうに斬撃による切断の後や火炎による

 それでも迷宮のコアだけは、何事もなかったかのように輝いている。


 アステリアは近づき、剣を振り下ろした。


 ――パキン。


 光が割れる。

 同時に満ちていた魔力が霧散し、空間の圧迫感が消えた。


「これで、攻略完了・・・かな?」


 気を抜いた、その瞬間。


 ゴゴゴゴゴ・・・


 迷宮全体が大きく揺れた。


「・・・え?」


 振動は急速に激しくなる。

 壁が崩れ、天井の石が雨のように落ちてくる。


「崩壊してる!?」


 そこで思い出した。確か迷宮は種類によっては迷宮のコアを破壊すると迷宮内部を構築していた力場が無くなり迷宮そのものが崩壊するタイプが存在すると。

 今回の迷宮がまさにそれだったことに気がついたアステリアは慌てて荷物を回収し、広間を飛び出す。

 だが走り出した直後――違和感に気づいた。


(・・・あれ?)


 胸元の温もりが、無い。


 反射的に手を当てると戦い前まで間違いなくそこにあったはずの星座柄の卵が――ない。


 一瞬戦闘の余波で何処かに吹っ飛んでしまったかと思ったが、そもそもノクティルナの魔法で身体に固定されていたはずだ。

 外れるはずがない。


「まさか・・・孵化した?」


 振り返る。


 しかし広間は、すでに岩に埋もれていた。

 完全な崩落。戻る余地はない。


「そんな・・・!」


 膝が折れそうになる。

 けれど次の瞬間、頭上の岩が落ちてきた。咄嗟に避けて難を逃れたが先ほどまでいた場所の床に岩がめり込んでいた。


 ――逃げなければ死ぬ。


 唇を噛み、感情を押し殺しながらただ出口を目指して走った。


 幸い、魔物も罠も動かなかった。

 崩壊により機能が止まったのだろう。来た道を辿るだけでよかった。


 そして――


 外へ飛び出す。


 背後で轟音。


 振り返ると、迷宮の入口が崩れ落ち、土煙が空へ舞い上がっていた。


 アステリアはその場に立ち尽くし、ただ呆然とそれを見つめた。


 瓦礫の崩れ落ちる音が、ようやく途切れた。


 最後の小石が乾いた音を立てて転がり、土煙がゆっくりと薄れていく。

 視界を覆っていた茶色の靄が晴れていくにつれ、そこにあった光景が露わになった。


 ――迷宮の入口は、跡形もなく潰れていた。


 岩壁は内側から弾けたように裂け、支柱だったはずの石柱は粉々に折れ、巨大な岩塊が折り重なるように積み上がっている。もはや穴でも入口でもない。

 ただの、崩れた山肌だった。


 周囲では、ルナフィ族の娘たちが遠巻きに飛び回っている。

 ひそひそと囁き合う声、羽ばたきの音、驚いた気配――


 けれど、それらはすべて、アステリアの耳には届いていなかった。


 彼女の世界には、音がなかった。


「・・・ごめん」


 喉から零れた声は、驚くほど小さかった。

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


 胸の奥に残っているのは、あの感触だけだった。


 両手に包み込んだ時に感じた、ほんのりとした温かさと規則的に伝わってきた、微かな鼓動のような気配。

 星座柄の殻に包まれていた、小さな命。


 守ると決めた。

 守らなければならなかった。


 半ば強引に押し付けられた依頼に文句を言いながらも、肌身離さず迷宮の中を連れて歩き、何度も無意識にそこに在ることを確かめて、

 危険が近づくたびに無意識に庇っていた――


 それなのに。


「私が、ちゃんと・・・」


 言葉が続かない。


 視界が滲み、地面が揺れる。

 ぽたり、と水滴が落ちた音が、やけに大きく聞こえた。


 気づけば次から次へと涙が溢れていた。


 アレイシア国を出てから、ずっと一人だった。

 戦場でも、旅でも、依頼でも、独りであることには慣れていた。


 ――慣れている、はずだった。


 けれど。


 あの温もりを失ったと理解した瞬間、胸の奥に空洞が空いた。

 呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が落ち着かず、自分の内側から何かが崩れていく感覚があった。


 孤独は、今まで平気だったのに。


 どうして今さら――


 そのとき。


 くい、と。


「・・・え?」


 髪の後ろを、何かが引いた。


 風ではない。

 偶然でもない。

 明確な、意志のある触れ方。


 アステリアは息を止めた。


 恐る恐る手を伸ばし、自分の髪を指で探る。

 そして――指先に触れた。


 柔らかくて、小さいもの。


 震える手で髪を持ち上げ、影になっていた部分を覗き込む。


 そこにいたのは、


 蒼い髪をした、極小の少女だった。


 星の光を溶かし込んだような金色の瞳に透き通るような美しい水色の小さな翼。

 周囲を飛んでいる娘たちより明らかに小さい、産まれたばかりの身体。


 その小さな手で、必死にアステリアの髪へしがみついている。

 怯えるように体を丸め、けれど離れまいと力いっぱい握っている。


「・・・あ」


 声にならない息が漏れた。


 少女は恐る恐る顔を上げる。

 くりくりとした金色の瞳が、まっすぐにアステリアを見た。


 その瞬間。


 張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。


「よかった・・・っ、よがっだぁ・・・」


 涙が溢れた。


 止まらなかった。


 両手でそっと包み込むと、少女は驚いたように小さく震え、

 けれど逃げなかった。

 むしろ指にぎゅっと抱きついてくる。


 生きている。

 ここにいる。

 守れていた。


 失っていなかった。


 嗚咽が漏れ、肩が震える。

 アステリアはしばらく、その小さな命を包み込んだまま泣き続けた。


 胸の奥の空洞は、いつの間にか温もりで満たされていた。


 ひとしきり泣いたあと、ようやく呼吸が落ち着き、アステリアは目元を拭い、小さな娘を両手で包み直した。


 泣きすぎたせいで視界がぼやける。

 けれど、手の中の温もりだけははっきりと感じられた。


「・・・帰ろうか」


 呟くと、娘は意味が分かったわけでもないだろうに、指にぎゅっと抱きついた。

 その小さな仕草に胸がまた少し締めつけられる。


 ――もう、離さない。


 そう心の中で確かめてから、アステリアは大樹へと足を向けた。



 宿り木のある大樹の麓に辿り着くと、そこには無数の光が舞っていた。


 ルナフィ族の娘たちが、根元の周囲に集まっている。

 ささやき声と羽音が重なり、夜の森が柔らかくざわめいていた。


 何かあったのかと足を止めた瞬間、

 ひときわ落ち着いた声が聞こえる。


「――あら、ずいぶんと早かったですわね」


 根の上に腰かけていたノクティルナが、優雅に扇を閉じる仕草でこちらを見た。


「わたくしとしても早急に解決して喜ばしいですわ」


(げ・・・)


 思わず浮かびかけた顔を、アステリアは無理やり抑え込む。

 どうにか平静を装いながら口を開いた。


「・・・迷宮のコアは破壊した。内部は崩落してる。もう入れない」


 簡潔な報告。


 ノクティルナは軽く頷いた。


「わかりましたわ。これでわたくしからの依頼は完了ですわね」


 そして、ふと視線がアステリアの肩口へ向く。


「――どうやら、孵化も成功した様子ですし」


 にこり、と微笑みかけられた瞬間。


 ぴくっ。


 アステリアの髪にしがみついていた小さな娘が震え、

 さっと首筋の陰へ隠れた。


「・・・」


「あらあら、怖がられてしまいましたわね」


 くすくすとノクティルナが笑う。

 周囲の娘たちも興味津々に近づこうとするが、小さな娘はますます深く隠れてしまう。


「大丈夫、大丈夫」


 アステリアが指でそっと撫でると、ようやく震えが弱まった。

 その様子を見たノクティルナは、どこか満足げに目を細めた。


「では戻りましょうか。皆、宿に帰りますわよ~」



 夜の山道を、小さな光の群れが降りていく。


 ルナフィ族の娘たちは楽しげに飛び交い、

 その中心をアステリアとノクティルナが歩く。


 肩にしがみついた小さな娘は、時折そっと外を覗いてはすぐに隠れる。

 そのたびにアステリアの口元がわずかに緩んだ。



 宿へ戻ると、ほっとする木の香りが迎えた。

 扉を閉めた瞬間、緊張が一気に抜ける。


 そこでノクティルナが振り返った。


「そうですわ」


「?」


「この娘の名前は、あなたがつけてくださいまし」


「・・・は?」


 間の抜けた声が出た。


「孵化を見届け、守り抜いたのはあなたですもの。名付けの権利は当然あなたにありますわ」


 さらりと言う。


 アステリアは固まった。


「いや、ちょっと待て。そういうのは普通、親とか――」


「親のようなものではありませんの?」


 言葉が詰まる。


 肩の上の小さな幼子が、その存在を主張するように金色の瞳がこちらを見上げていた。

 逃げ場がなかった。


「・・・」


 深く息を吐き、改めて生まれてきた娘を見る。


 深い蒼の髪。満月のように丸い金色の瞳。夜空を切り取ったような色彩。


「・・・セレナ」


 ぽつりと呟いた。


「月、って意味だよ。どう?」


 その娘は意味など理解していないだろう。つい数刻前に生まれたばかりなのだから。

 けれど、小さく瞬きをしたあと――

 アステリアにぎゅっと抱き着いた。


「・・・気に入った、のかな?」


「ふふ、良い名前ですわね」


 ノクティルナが微笑んだ。



 報酬を受け取り、部屋へ戻る。


 扉を閉めた瞬間、体の力が抜けた。


「はぁ・・・疲れた・・・」


 ベッドに腰を下ろすと、セレナが髪からそろそろと顔を出す。

 部屋を見回し、恐る恐る肩から膝へ移動してくる。


「ここなら大丈夫」


 そう言うと、安心したように座り込んだ。


 今日一日の出来事が、頭の中でゆっくりほどけていく。

 迷宮、崩落、涙、再会――


 そして今、ここにいる小さな命。


「・・・でも、ちょっと楽しかった、かもな」


 自分でも意外な感想が零れた。


 セレナが膝の上で丸くなる。

 その温もりを感じながら、アステリアは横になった。


 達成感と、微かな安心感に包まれながら――


 静かに目を閉じた。


 朝の光が、木造の宿の窓から柔らかく差し込んでいた。


 二階の部屋の中は静かだ。

 聞こえるのは、規則正しい小さな寝息だけ。


 ベッドの上では、セレナが丸くなって眠っている。

 膝を抱え込むように身体を縮め、長い蒼髪を布のようにまとって、まるで小さな夜の欠片がそこに落ちているようだった。


 アステリアは、その様子をしばらく眺めていた。


「・・・起こしたくないな」


 小さく呟く。


 指先で毛布を少しだけ直す。

 触れた瞬間、セレナがむにゃりと身じろぎしたが、起きる気配はない。


 胸の奥に、言葉にならない何かが引っかかる。


 けれど――振り切るように背を向けた。


 荷物をまとめ、音を立てないように扉を開け、閉める。

 静かに階段を降りていった。



 一階の食堂には、すでに朝の空気が満ちていた。

 ルナフィ族の娘たちがふわふわと飛び交い、窓辺ではノクティルナが優雅に紅茶を飲んでいる。


「おはようございます・・・と言うには少し寂しい雰囲気ですわね」


 視線を上げ、微笑む。


アステリアは背負った荷物の紐を締め直した。


「もう行くわ」


「もう旅立たれるのですか?

もう少しまったりしていってもよろしいのですよ?」


「これ以上ここに残っていたら、また厄介事押しつけられそうだから嫌」


きっぱりと言い切る。


ノクティルナは楽しそうに肩を揺らした。


「ふふ、ばれてしまいましたわね」


アステリアは小さく息を吐き、少しだけ真剣な顔になる。


「・・・私は世界を旅して、やりたいことを見つけるために歩いてるの。ここじゃそれは見つからない」


 一拍。


「祖国で道半ばで逝ってしまった人たちの分も、私は精一杯生きなきゃいけない。だから、ここには留まれない」


 ノクティルナはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「・・・そう。あなたがいてくれたら安心できるのだけれど、仕方ありませんわね」


 椅子から立ち上がり、袖の中から小さな箱を取り出す。

 開くと、銀色に輝く三日月型のペンダントが収まっていた。


「静月の魔女たるわたくしの魔力を練り込んだ魔道具ですわ。魔力を流せば結界が張れますの」


 そして、少しだけ口元を緩める。


「あなたドジっぽいので、道中死なないように差し上げますわ」


「さりげなく人のことバカにしてるでしょ・・・まあ、もらうけど」


 不貞腐れながらも受け取り、首に掛ける。

 ひんやりした感触が胸元に落ち着いた。


 アステリアは宿を見渡す。

 集まっていたルナフィ族の娘たちも、どこか名残惜しそうに漂っていた。


「短い間だったけどお世話になったわ。それじゃあ――また」


 背を向け、一歩踏み出す。



 アステリアとノクティルナの二人が話をしている丁度その頃、


 二階の部屋。


 静まり返った空間で、セレナがゆっくり目を覚ました。


「・・・?」


 眠たげに身体を起こす。

 眠りにつく前まで近くにあるはずの気配がない。


 きょろきょろと見回す。


 いない。


 ベッドの上にも椅子にも窓辺にも、どこにもいなかった。


 理解が追いつくより先に、胸が締め付けられた。


「・・・ぁ」


 喉が震える。


「・・・ぁ、ぁ・・・」


 ぽろり、と涙が落ちた。


 次の瞬間、小さな翼が震えた。



「いっちゃ、やだぁあああああああ!!」


 泣き声が宿の中に響き渡る。


 青い影が一直線に飛び込み、アステリアの胸元へぶつかった。


「わっ!? ちょ、セレナ!?」


 小さな体が必死にしがみつく。

 服をぎゅっと掴み、離れまいと震えている。


 顔は涙でぐしゃぐしゃだった。


「やだ・・・やだ・・・いなく、なるの・・・いや・・・」


 息も整わないまま、途切れ途切れに言葉を絞り出す。

 その必死さに、アステリアの腕が自然と動いた。


 そっと抱き留める。


 するとセレナは、さらに強くしがみついた。

 まるで離した瞬間、本当に消えてしまうと信じているかのように。


 金色の瞳は涙でいっぱいに満ち、瞬きをするたびにぽろぽろと雫がこぼれ落ちる。

 小さな頬を濡らし、顎から落ちた涙がアステリアの服に染みを作った。


「やだ・・・やだぁ・・・いっちゃやだぁ・・・」


 しゃくりあげる声。

 か細く、途切れ途切れで、それでも必死に縋りついてくる。


 小さな翼が震えていた。

 飛ぶためではなく、溢れる感情に耐えきれず揺れているだけの、弱々しい震えだった。


「ちょ、ちょっと落ち着いて? ほら、みんながいるでしょ? ここにはノクティルナもいるし、他の子たちも――」


なだめるように声をかけるが、セレナはぶんぶんと首を振る。

涙がさらに散った。


「やだ・・・アステリアがいい・・・」


 その一言は、まっすぐすぎた。


 胸の奥がきゅっと縮む。

 息が詰まり、言葉が続かなくなる。


 ――自分も、同じだからだ。


 独りでも平気だと思っていた旅。

 誰にも頼らず、背負わず、ただ歩いていくものだと決めていた旅。


 けれど、もしこの小さな存在が隣にいたなら。

 きっと道は違う色になる。

 夜は少し温かくなり、朝は少し楽しみになる。


 それは、分かってしまっている。


 だからこそ――


「でもね? セレナはここでみんなと――」


 言いかけた、その瞬間。


 するり、と。

 小さな体が服の隙間から潜り込んだ。


「ちょっ!? ちょっと待って!? そこはダメ!!」


 もぞもぞ、もぞもぞ。


 胸元の奥で何かが動く感触。

 ぴったりと身体に密着する温もり。


「セレナ!? 出てきなさい!? そこは色々まずい!!」


 必死に引き剥がそうとするが、内側からぎゅっと抱きつかれている。

 まるで巣に潜り込んだ小動物のように、頑として離れない。


 服の隙間から、小さな翼だけがぴょこんと飛び出し、ばたばたと抗議するように揺れている。


「いやちょっとほんとに!? お願いだから出て!? くすぐったいし恥ずかしいし!!」


「やだ・・・ここ・・・あったかい・・・」


 完全に落ち着いている声だった。

 そこが居場所だと疑っていない声音。


 周囲のルナフィ族の娘たちがざわつく。

 ひそひそと囁き合いながら見守る視線。


 その中で、ノクティルナが口元を押さえ、くすりと笑った。


「――あらあら」


 明らかに面白がっている表情。

 そして、さらりと言った。


「なら、いっそ一緒に旅に出たらよろしいのでは?」


「はあ!?」


アステリアが振り向く。


「何言ってるの!? 同じルナフィ族の娘たちと一緒にいる方がいいに決まってるでしょう! そりゃちょっと寂しいけど・・・でもセレナが不幸になってほしくない!」


 真剣な声だった。

 自分の感情を押し殺してでも言い切った言葉。


 だがノクティルナは首を傾げるだけ。


「――あら、そうなんですの?」


 静かな微笑み。


「不幸にしたくないとおっしゃっていますが、あなたと離れ離れになることが、その娘にとっては“不幸”みたいですわよ?」


「うぐっ・・・」


 言葉が詰まる。


 胸元から、くぐもった声がする。


「アステリア・・・いなくなるの・・・やだ・・・」


 服越しに、小さな手がぎゅっと抱きつく。

 その震えが、はっきりと伝わる。


 ノクティルナは穏やかに続けた。


「星座の娘は特別ですわ。浴びた魔力に惹かれ、縁を結びますの」


 一歩、ゆっくり近づく。


「この娘にとって、あなたは“唯一寄り添うことのできる宿り木”。――引き離す方が酷というものですわよ?」


 宿の中のざわめきが、すっと引いていく。


 先ほどまでセレナの泣き声に慌ただしかった空気が、嘘のように静まり返った。

 誰もが息を潜め、ただ二人を見守っている。


 アステリアはゆっくりと視線を落とした。

 胸元――服の中に押しつけられるようにして伝わる、小さな温もり。


 掌をそっと当てる。


 鼓動があった。

 弱くて、小さくて、それでも確かに“自分を求めている”命の鼓動。


「・・・セレナ」


 驚かせないよう、囁くように声を落とす。


「本当に、一緒に来たいの?」


 胸元の膨らみが、ぴくりと動く。


「同じルナフィの子たちと離れることになるよ?この先、同じ種族に会えないかもしれない。

 それでも――行く?」


 もぞ、と布の隙間から顔だけが少し出てきた。


 涙で濡れた頬と赤く腫れた目。

 それでも、金色の瞳だけは揺れていなかった。


「・・・いく」


 小さな拳が、ぎゅっと服を掴む。


「アステリアと、いく!」


 その一言は、驚くほどはっきりしていた。


 アステリアはしばらく何も言わなかった。


 長い沈黙。

 宿の中の誰もが、その答えを待っている。


 やがて――


「・・・はあああああ」


 深く、長い溜め息を吐いた。

 観念したように天井を仰ぐ。


「・・・危ないこともあるよ? 泣いても知らないからね?」


「なかない!」


即答だった。


あまりに必死で、あまりに真剣で。

思わず、アステリアの口元が緩む。


「・・・じゃあ、一緒に行こうか?」


 ほんの一拍の沈黙。


「うん!!」


 弾けるような返事だった。

 さっきまで泣き崩れていたのが嘘のように、ぱっと表情が明るくなる。

 金色の瞳がきらきらと輝き、小さな翼が嬉しさを抑えきれずふるふる震えていた。


 その声を聞いた瞬間、アステリアの胸の奥がじんわり温かくなる。

 ――ああ、この子は本当に、来たいんだ。


「それじゃあ――」


 服の中に入り込んで顔だけ出すセレナを、いったん胸元から離そうと手を差し入れる。


 その瞬間だった。


 セレナがじっとアステリアの顔を見上げたまま、ぴたりと動きを止める。

 何かを察したような、妙に真剣な表情。


 数秒。


 そして――


 すぽんっ


「ちょっと!!」


 視界から消えた。


 次の瞬間には、服の内側に潜り込んでいる。

 今度は翼まで完全に収納され、気配だけが胸元に固まっていた。


「そこ恥ずかしいからダメ!」


 慌てて引っ張り出そうとするが、内側からぎゅうっとしがみつかれてびくともしない。

 布越しに小さな手足がもぞもぞ動き、定位置を探しているのがわかる。


「セレナ! 出てきなさい!」


 もぞもぞ。


「・・・やだ」


 小さいのに、妙に意志の強い声。

 離れる気が一切ない。


 数度の攻防。

 引く → 抵抗される → ずれる → さらに奥に潜る。


 最終的にアステリアが折れた。


「・・・もういいよ・・・」


 がっくり肩を落とす。


 その様子を眺めていたノクティルナが、満足そうに目を細める。


「ふふ。決まりですわね」


「・・・ほんと、最後まであなたの思惑通りな気がするんだけど」


「気のせいですわ」


 一切の間を置かない即答。

 アステリアは半眼になるが、もう突っ込む気力もない。


 代わりに、宿の中を見回す。

 不安そうな顔、手を振る子、涙ぐむ子。

 短い滞在だったはずなのに、妙に馴染んでしまった光景だった。


「短い間だったけどお世話になったわ」


 小さく頭を下げ扉へ向き直る。


 扉を開くと、外の空気がふわりと流れ込んできた。

 朝の山林に湿った土と葉の香りが風と共に流れており、遠くでは鳥が鳴いている。遠くではルナリアの住民たちの生活の声が聞けてきた。


 一歩、踏み出す。


 背中に宿の気配を感じながら、前へ。


 今まで一人だった旅路。

 地図も目的地も決めず、ただ歩いてきた道。


 胸元が、かすかに動く。


 小さな体が安心したように寄り添ってきた。

 温もりが、確かにそこにある。


 ――これからは。


 アステリアは、ふっと笑った。


「行こうか」


 胸元を軽く押さえると、内側から小さな気配が応えるように揺れる。


 一人と、一人。新しい旅がここから始まった。






 おしまい

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ