帰郷の人形令嬢
むかーしむかしあるところに二人の少女がおりました。
ごつごつとした岩肌が連なる渓谷。その間を縫うように伸びる街道は、午後の陽光を受けて淡く金色に輝いていた。
谷底から吹き上げる風は涼しく、乾いた大地の匂いの中に、どこか草花の甘い香りを含んでいる。
そんな街道を、二つの小さな影が並んで歩いていた。
オレンジと茶色のグラデーションの髪に柔らかな茶色のウサ耳を揺らしながら歩く少女。
白い肌は陽光に照らされてきらめき、腰にはふわふわと丸い、茶色の尻尾がぴょこぴょこと上下する。
着ているのはリボンやフリルが丁寧に縫い込まれたクラシカルなワンピース。その端々が風に揺れ、レースの裾が小さな影を街道に落とす。小さな足取りながらも軽快に跳ねるように進み、碧い瞳をあちこちに走らせながら渓谷の風景を楽しんでいる。
もう一人は、その横を優雅に歩く少女。
陽光を受けて金色に輝く、長い長い金髪。あまりにも長い金色の髪は一部が隣にいる少女に絡みつきながら淡い風に揺られて絹糸のような光の軌跡を描く。
身につけているのは淡いアクアブルーを基調としたドレスに白いエプロンをつけたエプロンドレス姿。脚には縞々のニーハイソックス。
その可愛らしい柄が、街道の渋い景色の中でひときわよく映え、彼女自身の持つ独特の“品と無邪気さの同居する雰囲気”を際立たせていた。
頭には黒いスカーフが髪の流れを押さえるように柔らかく結ばれていて、風が吹くたびに端がひらりと舞う。
二人の少女―フィオナとエミリアは何処までも続く果てしない崖道を進んでいく。
二人は、ざらつく小石が靴底を転がるたびに乾いた音を立てる、砂利の街道をゆっくりと進んでいた。左右にそびえる渓谷の岩壁は、日差しを浴びて金属質の光を鈍く返し、その隙間には、風に削られながらも必死に根を張る低木や草花がぽつりぽつりと顔を覗かせている。色彩はどれも灰色がかっていて、過酷な環境であることを否応なく伝えていた。
街道自体は思ったよりも広く、人がすれ違うには十分だったが、道端はすぐに細く崩れた斜面となり、そこから先は急な落差を伴う断崖へと変わっていく。足を滑らせれば岩肌を弾かれながら底の見えない谷底へまっ逆さまだ。吹き抜ける風がその深さを想像させる低い唸りを上げ、二人の背筋にひやりとした感覚を走らせる。
人気のないこの渓谷には、時折、岩影から魔物が姿を現すことでも知られている。足音や話し声が岩壁に反響するたび、どこか別の影がついてくるような錯覚すら覚える。だからこそ、普通の旅人ならばできる限り避けたい場所であるはずだった。
だが、二人がこの危険な道を選んでいるのには理由がある。
――その先に、彼らが目指すレーンブルグ領があるからだ。
レーンブルグ領は、まさにこの渓谷の奥深くに築かれた特異な領地だった。渓谷の地の利を生かし、古くから稼働する鉱山で産出されるエーテル原石こそが領地の繁栄を支えている。岩壁の奥底から引き上げられるその原石は、魔力の触媒として高い価値を持つため、各地の商人や魔術師たちがこぞって求めた。
そのため、住むには厳しすぎる環境でありながら、渓谷の内部にある街には採掘施設、精製工房、商人たちの倉庫、そして鉱夫やその家族が暮らす住居区がひしめき合うように建てられ、独特の賑わいを形成している。地形の制約から道や建物は上下方向に伸びざるを得ず、細く曲がりくねった通路や階段が複雑に繋がる様は、まるで巨大な蜂の巣のようだと言われているらしい。
渓谷の奥へ進むほど、空気はひんやりとしてくるが、鉱山から運ばれてくる鉱車の音や、作業員たちの掛け声が風に乗って微かに聞こえてくる。
――この過酷な場所に、確かに人々の暮らしがあるのだ。
二人が歩みを進めるたび、渓谷はますます深く、暗く、そして活気に満ちた領地の気配を帯びていく。
レーンブルグ領の領主がいる街―エーテルハイムまでもう少しの所まで来た。
「レーンブルグ領は険しい渓谷にあるって聞いてたけれど、コレ険しいってレベルじゃないよね・・・過酷すぎるでしょうこの土地・・・」
「あらそう?このくらい普通に誰でも暮らせるわよ?でもフィオナが疲れたのなら私がだっこして街まで連れて行ってあげるわよ?」
フィオナの愚痴にクスクス笑いながら身体を寄せ腕を抱き抱え、そしてフィオナの両手両足、腰や首など全身にその金色の絹のような長い髪を絡みつかせていた。傍から思わずぎょっとしそうな光景だがフィオナは既に慣れてしまっていた。―本当は慣れたくはなかったが・・・。
「ああ、今日も可愛いわフィオナ」
「・・・わかったから少し離れて。歩きづらい」
フィオナはとても歩きづらそうにしながら、ちらりと足元の砂利を見下ろした。崖の縁は道のすぐそばで、慎重に歩かなければ小石が転がり落ちるほどだ。
にもかかわらず、エミリアは体温すら伝わるくらいぴったりと身体を密着させてフィオナの歩くペースにピッタリと合わせていた。
「や・だ♡」
甘い声にハートがついて聞こえてきそうな声を囁きながら、エミリアはさらに密着しフィオナの肩がびくりと跳ねる。渓谷の隙間を抜けていく乾いた風が、二人の髪をふわりと持ち上げる。鋭い岩肌に囲まれた渓谷の空気は冷たいが、その中でエミリアから漂う柔らかな甘い香りだけは、まるで別の場所のもののように優しく鼻をくすぐった。
普段のフィオナであれば、紅茶の香りを嗅ぐように自然と受け流してしまうところだ。だが──今日のエミリアは、いつにもまして“距離感”という言葉を忘れている。
風に揺れたエミリアの金色の髪が、まるで意志を持つかのようにフィオナの頬を撫で、肩に触れ、そして・・・そのまま服の隙間にずるりと入り込もうとしてくる。
(ちょ・・・待って、本気で入ってきてる!?)
「足踏み外して崖から落ちちゃうよ!? あとどさくさに紛れて服の中にまで入ってこないで!!」
叫んだ瞬間、フィオナの服の内側でエミリアの髪がもぞもぞと蠢き、ついには鎖骨あたりまで侵入してきた。
「ひゃあああ!? やめっ──!」
フィオナは半ば悲鳴を上げながら、服の中へ無遠慮に這いずってくる金の束を鷲掴みにする。髪なのに妙に温かい感触が手のひらに伝わり、そのまま勢いよく外へ引きずり出した。
同時に、顔を嬉しそうに押し付けてくるエミリア本体を、両手でつかんで必死に引っぺがす。
「ちょっとだけだから~♡」
「だめ!! 一ミリもだめ!!」
渓谷に二人の声が反響し、遠くの岩壁に跳ね返る。
「私がいるから大丈夫よ。心配性なんだから♪」
まるで注意など聞いていない声音で、エミリアは再び頬を押し付けてくる。
猫が飼い主に甘えるときのように、頬をすりすりと擦りつけ、マーキングしてくる。猫か!
フィオナは肩をすくめ、視線をそらしながら深々とため息をついた。
今までにも何度となく「歩きづらい」「離れて」と言ってきた。
そのたびにエミリアは「やだ」「可愛いから無理」「もっとくっついてたい」と笑顔で押し切ってきた。
そして今日も、その姿勢は微塵も揺らがない。
(・・・どうしてこんな危険な場所でまで密着してくるのよ)
呆れ、諦め、羞恥、そして少しだけ・・・慣れてしまっている自分。そんなフィオナの心境を知ってか知らずかエミリアは相変わらずフィオナにぞっこんであった。そんな二人の少女を見ている人影が複数存在することに気づかずに・・・。
それからしばらく渓谷の奥へと続く一本道を進んでいく。砂利を踏む音しか響かない静寂の中で、フィオナは不意に気配の変化を感じて顔を上げた。
前方──岩壁の陰から、数人の影がゆらりと現れた。
粗い髭を蓄えた男、痩せこけた弓持ち、傷だらけの鎧を無理やり着込んだ大男。いずれも三十代から四十代ほどで、薄汚れた衣服には破れが目立ち、肩には剣や弓が雑に掛けられている。
なにより、道幅いっぱいに横に広がるその動きが、明確に敵意を示していた。
(・・・最悪のタイミング)
フィオナは咄嗟に後ろを振り返る。
そこにも同じような連中が、こちらに向かってじりじりと広がっていた。
完全に挟まれた。
横を見れば――片側は鋭く切り立つ崖、反対側は深く底を見せない谷。逃げ場はどこにもない。
普通の旅人なら、この瞬間に膝から崩れ落ちるだろう。
だが――フィオナの隣には、“普通ではない”存在がいた。
「す~は~・・・ああフィオナいい香り・・・ふわふわのウサ耳に、フリフリの可愛い尻尾・・・とってもいいわ~」
「ちょ!? ウサ耳とウサ尻尾はダメ! そこだけはダメだっていつも言ってるでしょう!?」
崖道のど真ん中だというのに、エミリアの金髪はもはや生き物のようにフィオナへ絡みつき、彼女自身もフィオナの背中に抱きついてウサ耳の匂いを嗅ぎながらウサ尻尾を撫でまわしていた。
フィオナは慌てて彼女を引き剥がそうとするが、エミリアは猫のように体を捩りながらしつこく追撃してきた。
「ダメだと言われると余計欲しくなっちゃうわ。もっと・・・もっとフィオナを感じさせて」
「道のど真ん中で絡みつかない!!」
フィオナの悲鳴が岩壁に反響し、谷底へ吸い込まれていく。
その異様な光景に、盗賊たちは思わず動きを止めた。
彼らの顔には“恐怖”でも“警戒”でもなく、ただひたすらに怪訝とドン引きが浮かんでいる。
「・・・なんだ、あいつら・・・?」
「こんな状況で・・・いちゃついてんのか・・・?」
だがすぐに、彼らは顔をしかめ、気を取り直したように態度を引き締めた。
「嬢ちゃんたち、悪いがここを通りたかったら持ってるもん全部寄越しな。」
剣を肩に担いだ男が一歩踏み出し、威圧するように睨む。
「それとも嬢ちゃんたちごと、奴隷として売っちまおうか?」
「お頭、それいいっすね!」
「嬢ちゃんたち二人だけでこんな所通ったのが運の尽きなんだよ。諦めてくれや」
口々に好き勝手な脅し文句を並べ立てる盗賊たち。
だが──当の二人の反応はというと。
「あ~フィオナ・・・好き・・・」
エミリアはうっとりとした表情で、完全に現実からトリップしていた。
目は半分閉じ、頬は赤らみ、まるで盗賊たちの存在など視界に入っていないかのようだ。
「エミリア!! ちょっとは状況を・・・っ、聞いて・・・!」
フィオナが必死に小声で訴えるも、エミリアはむしろより強く抱きついてくる始末。
「──無視すんじゃねえよ!!」
怒声が渓谷の狭い道に響き、男のひとりが苛立ちのまま剣を振り上げた。
その刃が振り下ろされる・・・よりも速く、金属が折れる高い破砕音が辺りに散った。
ギィンッ!!
「・・・え?」
男は自分の手元を見た。
剣の半分が、地面へ転がっていた。
誰も何が起きたのか理解できなかった。
だが、遅れて彼らは“異変”に気づく。
エミリアの金色の髪が、ざわり・・・と揺れ、生き物のように持ち主の意思を帯びて動いていた。
次の瞬間、長い髪がしなやかに広がり、フィオナの体を守るように包み込む。
柔らかな繭のような金色の防壁が、ぴたりとフィオナを隠した。
「え・・・? な、なんだあれ・・・」
呆然とした声を上げる間もなく、残った髪は弾丸のように伸び──
バキッ! ボキッ! ガリッ!
男たちが手にしていた剣、斧、弓。
すべてが、瞬き一つの間に“握られたまま”粉砕された。
力ずくではない。
まるでガラス細工を指で摘んだかのように、抵抗もなく折れた。
「・・・・・・」
髪の繭の前で、エミリアが静かに立っていた。
その表情を見た瞬間、男たちは全身から血の気が引いた。
表情がない。
頬の温度も、眼の奥の光も、さっきまでフィオナに頬ずりしていた女とは別人だった。
冷やした金属のような、絶対零度の瞳。
そして──
「・・・ねえ、私の大事な大事なフィオナとの楽しい時間を邪魔するゴミクズさん。」
淡々と、死刑宣告のように言葉が落ちる。
「教えて? どんな死に方で逝きたい?」
背筋に氷の爪を滑らせられたような悪寒。
男たちは無意識に後ずさった──が、できなかった。
「ひっ・・・!? ど、どうなって・・・」
逃げようと振り返った先。
そこには道をすべて塞ぐ金色の髪が、壁のように立ち塞がっていた。
生き物のように波打ち、触れれば切り裂かれそうな鋭い光沢を放つ。
「な、なんだよこれ・・・閉じ込められて・・・!」
いつの間に。
どうやって。
こんな量の髪を動かしたのか。
理解できない恐怖が、喉を掴んで離さなかった。
(この娘・・・本当に人間なのか・・・?)
姿は人間だ。
言葉も通じる。
だが、今目の前にいる存在は──
人形のように感情が欠け、怪物のように常識外れだった。
その髪は、触れただけで武器を粉砕し、
眼差しは人の命を数字のように見ている。
恐怖と理解不能の狭間で震える男たちに、エミリアはゆっくりと目を細めた。
「ねえ、早くして。」
氷の刃より冷たい声。
「それとも私が決めていいの?」
髪が、ゆっくりと持ち上がり、獲物に伸びる毒蛇のように形を変える。
「ならあなたたちは──細切れとミンチの刑ね。」
淡々と。
優しげな声音のまま。
それが余計に恐怖を鋭くする。
男たちは息を呑み、その場に凍り付いた。
「さて・・・どう料理してあげようかしら」
歌うような軽い声とは裏腹に、彼女の瞳は獣じみた光を帯びている。もう一歩、ほんの一呼吸でも合図があれば、本当にやっていた――そんな“寸前”の空気だった。
しかし。
「だめええええええ!!」
ぱん、と金色の繭が内側から破裂するように裂け、フィオナがひっくり返る勢いで飛び出した。髪は乱れ、顔は真っ青。それでも必死にエミリアへと手を伸ばす。
「エミリア、ダメダメダメ!! 殺しちゃダメ! 捕縛! 捕縛だよ!!」
その声を聞いた瞬間、エミリアの動きがぴたりと止まる。だが止まったのは体だけで、心までは止まっていない。
ゆっくり、ぎこちなく振り向く。
虚ろな碧い瞳。焦点の合わない目。フィオナの姿を認めた瞬間、ぽつりと壊れかけた玩具のように言葉が漏れる。
「・・・フィオナ・・・どうして出てきちゃうの・・・? 私が守ってあげるのに・・・なんで、なんで、なんで・・・」
“なんで”は、呪文のように細く震え、壊れたようにずっと繰り返され、その動きもギギギと軋む音が聞こえてきそうなぎこちない動きをしていた。
「いやいやいや! そういう問題じゃないから!!」
フィオナは慌てて距離を詰め、エミリアの手を掴む。だがエミリアは逆に彼女の腰に手を回し、素早くホールドしてきた。
「ちょっ、ちょっと待って!? なんでここで抱きしめてくるの!?」
「フィオナは危ないところに行っちゃダメ。私がちゃんと守ってあげるの。だから・・・邪魔しないで?」
柔らかい声色とは裏腹に、腕の力は鉄のように強い。完全に“逃がす気ゼロ”だ。だが今はまず――
「人殺しはダメ絶対!! わかった!?」
「・・・よく見て、フィオナ。ほら、そこにいるの・・・あれは“人の形をした害虫”よ? だから人殺しじゃないでしょ? ただの駆除。何の問題もないの」
「問題大アリだよッ!!」
フィオナの叫びが響きわたり岩壁に反射して返ってくる。一体何を言ってるのこの娘はとジト目になるフィオナにエミリアはクスクス笑い、頬をフィオナの肩にすり寄せながらホールドをさらに強めた。
「もう・・・そんなに必死になるフィオナも可愛い・・・♡」
「いや可愛いとか言ってる場合じゃないからッ!」
フィオナは半ば涙目になりながら、周囲を見渡す。盗賊たちは完全に腰を抜かし、逃げることすら忘れ、エミリアからほんの少しでも距離を取ろうと後ずさるだけで精一杯だった。
フィオナは必死に息を吸い込み、大声で――本当に命がけの大声で――叫んだ。
「え~と! 盗賊の皆さん! 大人しく投降してください!!」
その声は渓谷の風に負けないほど真っ直ぐだった。
「じゃないとエミリアが今にも殺そうとしていて! 本当に! 私の言うこと聞かずにあなた方を細切れのミンチにしそうなんです!! だから! お願いだから! 抵抗せずに! 投降してください!!」
盗賊たちがごくり、と一斉に唾を飲み込む。
――ミンチ。
比喩ではなく、あの少女なら本当にやる。
そんな確信めいた恐怖が、全員の顔に生々しく浮かんでいた。
「おい、てめえら何ビビってやがる!!」
リーダー格の男の怒号が渓谷に響く。荒い息、苛立ちに震える眉間。仲間たちは明らかに恐怖で膝を震わせていたが、彼だけは状況を“理解したつもり”になっていた。
「髪の毛伸ばして道塞がれただけだろうが! ありゃ何かの魔術だ! ビビるほどのもんじゃねぇ! ほら早くそいつらを捕まえろ!!」
彼は口の端に唾を飛ばしながら、さらに怒鳴ろうと大きく息を吸い――
その瞬間だった。
――ゴウッ!!
渓谷の空気が一気に押しのけられるような、重く鋭い風切り音。耳が一瞬だけ、何かに押されたように詰まる。男たちの間を“金色の何か”が弾丸のように駆け抜けた。
何が起きたか理解するより先に、音が響いた。
――ドスッッ!!
肉と岩壁が潰れる低い衝撃音。それに続く鈍い骨の折れる感触を伴う音が、背筋にぞわりと刺さる。
「・・・ぐ、が・・・ッ!?」
背後から聞こえたのは、押しつぶされたような呻き声。
男たちは血の気が引きながら、ゆっ・・・くりと振り返った。
そこには。
巨大な金色の塊――いや、絡み合った髪の束が、まるで鉄塊のように岩壁へ叩きつけられたリーダー格の男の全身に“めり込んでいた”。
髪は生き物のように蠢き、まだ完全に力を抜いていない。まるで「次は誰にしようかな~」と選んでいるかのように、しゅるり、と地面を撫でる。
リーダー格の男は岩壁に食い込んでおり、手足がガクガクと痙攣していた。呼吸はある――だが。
メリッ・・・バキッ・・・ッ。
誰もが聞きたくなかった音が、確かにそこにあった。
「ひ・・・ッ」
「い、生きてるかあれ・・・?」
「いや・・・わかんねえよ・・・骨、何本折れたんだよ・・・」
盗賊たちの顔はぐしゃぐしゃに強張り、次の瞬間――。
ガシャッ!! ガラガラッ!!
全員が武器を放り捨てた。誰も逡巡すらしない。身体が勝手に投降していた。
「わ、わ、悪かった! 悪かったから!!」
「殺すなッ! 頼む・・・殺さないでくれっ!!」
「もう抵抗しねぇ! 投降するッ!!」
金色の髪――エミリアの髪は、ふわりと彼らに向けて空気を震わせる。
それだけで、男たちは地面に平伏した。
“次は自分かもしれない”という恐怖は、言葉よりも、刃よりも、ずっと強い拘束だった。
フィオナは安堵の息を吐く。だがその背中には、まだフィオナの体にぴったりと張りつくエミリアの気配がある。腕の力は弱まっていない。しかも盗賊たちを凄い睨んでる。まだ殺す気でいるの!?
「フィオナ。やっぱりそいつら殺そうよ?私に任せてくれるだけでいいの。フィオナはなーんにも気にしなくていいの。全部ぜーんぶ私が処理しておくから♪」
「ダメだよ!?」
「ちょっとだけ、1匹、1匹だけでいいから細切れのミンチにさせて? ほら、例えばそこの岩壁にめり込んでる害虫とか」
「だからダメだって言ってるでしょぉおおお!!」
渓谷に響いたフィオナの悲鳴は、今度こそ風にさらわれていった。
―――――
渓谷を進む道の途中、盗賊の男たちはエミリアの金色の髪でぐるぐる巻きにされ、まるで荷物のように引きずられていた。髪は逃走を防ぐ縄のように絡みつき、その光沢と太さは鉄鎖より恐ろしく見える。
そんな中のひとりが、恐る恐る声を絞り出した。
「・・・なあ、あんたら、一体・・・何者なんだ・・・?」
乾いた喉から漏れる声。震えているのが分かる。先ほどの一撃でリーダー格が半壊した光景が、まだ脳裏から離れないのだ。
フィオナが口を開きかけた――が。
「なんでそんなこと、ごみクズさんに言わなきゃいけないの?」
エミリアの声が、ひどく静かに、そのくせ耳の奥をなぞるような冷たさで響いた。
「フィオナのことを知っていいのは“私だけ”なのに・・・どうして・・・? どうして私のフィオナのことを嗅ぎまわろうとするのかな、かな?」
次の瞬間――金色の髪がギチギチギチッ!!と、まるで金属をねじ切るような凄まじい音を立てる。
「ぎゃああああっ!?!?」「ま、待て待て待てッ!! 絞まってる! 痛い痛い痛いぃ!!」「内臓出ちまう! やめろぉ!!」
盗賊たちの顔色が一瞬にして蒼白に変わり、無様な悲鳴を撒き散らす。身体が圧迫され、呼吸が潰れかけ、骨が軋んだ。
フィオナは慌ててエミリアの肩を揺さぶった。
「エミリア、それ以上やったらほんとに死んじゃうから! 内臓破裂しちゃうから!! やめてっ!!」
エミリアの動きが、すっと止まる。
髪を締め上げていた力がゆっくりと緩んだ。
だが、エミリアの表情は・・・変わらなかった。
視線はどこか虚ろで、焦点が定まっていない。笑っているわけでも怒っているわけでもなく、ただ、感情というものが欠け落ちた、冷たい空洞のような顔。
それを横目に見た盗賊たちは、息を吸うのも忘れたように硬直する。
(あ・・・こいつは・・・怒らせちゃいけねぇ・・・)
(命、簡単に“どうにかされる”・・・)
(絶対に逆らうな・・・絶対だ・・・!)
彼らの心に刻まれたのは、もはや屈服ではなく“本能的な恐怖による服従”だった。
エミリアは無表情のまま、フィオナにだけは柔らかい声で言った。
「・・・フィオナがそう言うなら、やめるわ。あーあ・・・私からフィオナを奪おうとする人は・・・全部、全部いなくなればいいのに」
男たちは二度と彼女の前で余計な質問をするまいと固く誓い、金色の縄に巻かれたまま震えるしかなかった。
渓谷の細い道を抜け、急な傾斜をひとつ越えた瞬間――
それまで押し寄せていた岩壁の圧迫感がふっと消え、視界がぱっと開けた。
乾いた風が渓谷を抜ける鋭い音はいつの間にか遠ざかり、代わりに――
人の営みを知らせるやわらかな鐘の音、子どもたちの笑い声、遠くの市場の呼び声が微かに混じり合って耳に届いてくる。
フィオナは思わず足を止め、眼前に広がった光景を見つめた。
そこには、渓谷の地形そのものを包み込むように築かれた一つの城壁都市があった。
灰色の石を積み重ねて造られた厚い城壁は、渓谷の縁を沿うように長く伸び、自然の絶壁と滑らかに噛み合いながら、街全体を守っている。城壁の上には見張り台が等間隔に立ち、青と銀の旗が風に大きくはためいていた。旗布の揺れが陽光を弾き返し、どこか凛とした誇りを示している。
その城壁の間に挟まれた巨大な門楼。鉄帯を編み込んだ分厚い木扉。その前には多くの旅人たちが列をつくり、荷馬車が砂埃を上げながらゆっくりと前へ進んでいた。風がそよぐたび、門番の槍の飾緒と旗が揺れ、生活の温度がかすかに漂う。
そして城壁の奥に広がる街並み。
崖の斜面を利用して段丘のように建ち並ぶ家々は、赤茶の屋根瓦と白い塗り壁が連なり、陽に照らされてじんわりと輝く。その様相は、まるで石造りの街全体が太陽を浴びて目を覚ましているかのようだった。
建物のいくつかは岩壁を背負うように建てられており、自然の岩肌と人工の壁が一体化した独特の趣を醸す。
煙突からは細い白煙が立ち上り、パンを焼く香ばしい匂いさえ風に乗って届いてくる。
そして、街の最も高台――
小高い丘の上には、周囲の屋根を見下ろすように領主の館がそびえていた。
白い石を基調とした優美な造りの建物で、塔の先には再び青と銀の旗が掲げられている。風に揺れるその旗は、遠くからでも堂々とした存在感を放ち、街の象徴として揺るぎない威厳を示していた。
「・・・ここが、エミリアの故郷なんだね」
「・・・変わらないわね」
フィオナが呟いた声は、温かな賑わいを呼ぶ風にさらわれ、その隣でエミリアはしばらくじっと街を見つめ、懐かしさとも寂しさともつかない淡い表情を浮かべる。
レーンブルグ領の城塞都市エーテルハイム。その巨大な鉄製の門が間近に迫るにつれて、門前を守る二人の兵士の顔がはっきり見えてきた。
兵士たちは何気なく門前を警戒していた――が、フィオナとエミリア、そして“金色の髪の縄”でぐるぐる巻きにされた盗賊たちの異様な組み合わせを視界に収めた瞬間、露骨に目を見開いた。
「だ・・・誰、だ!? そこで止まれ!!」
一人が場違いに鋭い声を上げ、槍の切っ先がフィオナたちへ向けられる。
反射的に周囲の空気がぴん、と張り詰めた。
(・・そりゃ驚くよね・・・)
フィオナは苦笑しつつも、金色の髪が自律的に蠢き盗賊たちを締めあげている様子を見て、むしろ兵士の反応は妥当に思えた。
「わ、私たちは冒険者です! この子も冒険者でして、ここへ訪れる際にこの盗賊たちが襲ってきたので返り討ちにしました。それでこの街の警備兵に引き渡すために連行してきたんです!」
フィオナが慌て気味に説明すると、兵士の片方がすぐに小さな通用門を通って城内へ駆け込んでいった。
残された兵士は警戒したまま、ちらちらとエミリアの髪と顔を見比べている。
やがて、数名の兵士を連れて先ほどの兵士が戻ってきた。
「拘束、ご苦労。盗賊どもはこちらで預かる!」
人数に余裕ができた兵士たちが、エミリアの髪に締め付けられて震えている盗賊たちを恐る恐る受け取っていく。髪がほどけるるたび、どの兵士も一度肩を跳ね上げた。生き物のように滑らかに動く金髪は、やはり常識では理解できないらしい。
盗賊の引き渡しが終わると、兵士は改めて二人へ視線を向けた。
「ここはレーンブルグ領、城塞都市エーテルハイム。冒険者の立ち入りは歓迎だが・・・一応確認をする必要がある。お前たちは、この街に何の用で?」
値踏みするような視線に、空気がぴしりと張り詰めた。
その瞬間――エミリアの表情から温度が消えた。
無表情。虚ろなほど澄んだ瞳。その視線が兵士へ向けられた瞬間、吹いている風さえ温度を失ったように感じられた。先ほどまで盗賊たちを拘束していた金色の絹のような長い髪の毛がうねりながら地面を這っていた。その光景はとてつもなく異様でそして不気味で、兵士は肩をひくりと震わせる。
(やばい・・・エミリア・・・完全に“やる気”だ・・・!)
フィオナはエミリアの手を握りしめ、小声で必死に諭す。
「ちょっとエミリア、ダメだよ・・・? 本当にダメだからね? ダメったらダメだからね!?」
その声に、エミリアは微かに眉を寄せただけで視線を兵士から離さない。
フィオナはすぐに正面に向き直り、緊張を押し隠しながら答えた。
「旅の途中に寄りました。長い旅路だったので、少し休息を取りたくて……数日滞在して、またすぐ発ちます」
兵士はじっとフィオナを見つめ、そしてふう、と短く息を吐く。
「・・・そうか。ならば問題ない。――ようこそ、エーテルハイムへ!」
巨大な鉄扉が軋む音を立てながら開いていく。その瞬間、外とは違う街独自の熱気がふわりと二人の前に広がった。
フィオナは先ほど買ったイヤリングの揺れを指で確かめながら、満足した笑みを浮かべ次の露店へ向かった。そのわずかな歩幅の変化さえも、隣を歩くエミリアは敏感に察知し、ぴたりと足を揃えてついてくる。
だがその表情は――露店のきらびやかさに心躍らせるフィオナとは真逆だった。
不機嫌
不満
独占欲
そのすべてを凝縮したような、眉間に皺を寄せた顔。
エミリアは歩きながら、金色の髪をふわりと伸ばし、まるで生き物のようにフィオナの腰と腕に絡めてくる。“はぐれないように”というより、“逃がさないため”の縄だ。
「ちょっとエミリア・・・巻きつけすぎ。歩きにくいから」
「・・・フィオナが悪いの。勝手に遠く行くから」
むすっとした声と、さらにきつく締まる髪。フィオナは苦笑しつつ髪をほどこうと指を伸ばすが、逆にくるりと指に巻きつき、離してくれない。
そんな二人が歩いていると、ふと風に乗って香ばしい匂いが流れてきた。
肉を焼く匂い。燻した木の匂い。スパイスがはじける匂い。
空腹というより、興味をぐいっと引っ張るような強い香りだった。
匂いに誘われて振り向くと、路地の少し奥に鉱夫たちが肩を寄せ合って肉を食べているのが見えた。汗にまみれた彼らが一斉に笑い、ビールジョッキをぶつけ合い、その横で露店の主人が慌ただしく串をひっくり返している。
その露店に近づくと、フィオナの足がピタリと止まった。
「・・・え?」
光っているのだ。肉が。
燻製箱からゆらりと立ち上る煙の中、肉の表面が青白い光を発光させ、まるで照明器具のように輝いていた。なんで肉が光り輝いているの?
「に・・・肉が、光ってる・・・?」
フィオナの声は完全に絶句の色を帯びていた。
「ああそれ、エーテル薫肉よ」
エミリアは当然のように答える。
「暗い坑道の中で食べるのが普通だから、光ってた方が便利なの。それに光の元はエーテル原石だから、魔力と栄養価も高いわ。鉱夫の主食みたいなものね」
さらりと言うエミリアとは対照的に、フィオナは肉から目を離せない。
青白く光る脂がじりじりと焼け、煙に魔力の粒子が混じってきらきらと散っている。
奇妙だけれど・・・おそろしく美味しそうだ。
意を決して露店に近づこうと、一歩踏み出す。
その瞬間――
エミリアの髪がするりと伸び、フィオナの手首に巻きつき、引き留めた。指の一本一本にまで絡みつきガッチリ固定された。
「・・・フィオナ? 前にも言ったわよね」
声は柔らかいが、背中が冷えるほど冷たい。
「フィオナの中に入るものは全部、私が作るの。私が管理するの。だから──その肉を食べたいなら、私が作ってあげる。
ほかの人の作ったものなんて体内に取り込まないで」
髪の束がぎゅっと締まり、近くの鉱夫が「うわっ」と思わず後ずさるほどの圧が走る。
フィオナは巻かれた髪を指でつまみながら、困ったように――しかしどこか楽しげにエミリアを見上げた。既に攻略法は知っていると心の中で呟きながら。
「・・・じゃあ、前みたいにエミリアが食べさせてよ」
「・・・え?」
「エミリアに“あーん”してほしいの。ね?」
フィオナはわざとらしく上目遣いをして、唇を少し尖らせる。
途端に、エミリアの睫毛がわずかに震えた。
エミリアはしばらく口を開けたまま固まり、
「う、うぅ・・・っ・・・」
と、珍しく言葉に詰まる。エミリアとしてはフィオナの体内に入るものを管理したい。他の人が作ったものを入れたくないという思いがあるが、同時にフィオナが普段見せることのない甘えた様子に心が揺らいでいた。この機会を逃せば次いつ甘えてくれるか分からない。でも他の人が作ったものは・・・でもでもでも・・・。
髪の締めつけが弱まり、もぞもぞとフィオナの腰から離れていく。
やがて、勝てないと悟った子猫のように肩を落とし、
「・・・わかったわ。フィオナがそう言うなら・・・その・・・あーん、してあげる」
フィオナは内心(エミリア、なんかチョロくなってない?)と確信しつつ、頬が緩む。
そして、熾烈な独占欲が一瞬和らいだエミリアの手から差し出される青く光るエーテル薫肉を、恐る恐る、そして楽しみながら口に運んだ。じゅわりと広がる旨味は想像以上で、魔力のほのかな刺激が舌をしびれさせる。光っていようが何だろうが――文句なしに絶品だった。
露店通りを抜けてもなお、エーテルハイムの賑わいは途切れることがなかった。むしろ通りを外れ、建物の密集した内側へ進むほど、この街が「人の生活そのもの」で成り立っていることがはっきりと見えてくる。
石造りの建物は、まるで互いに肩を寄せ合うように立ち並び、上へ横へと無秩序に増築されていた。ある建物は隣家の壁をそのまま利用して梁を渡し、またある建物は岩肌に直接窓を穿っている。洗濯物が渡したロープに吊るされ、頭上すれすれをかすめるたびに布が風を孕んで揺れた。
路地は狭く、二人が並んで歩くと肩が触れるほどだ。その狭さゆえに、人と人との距離も近い。通り過ぎざまに交わされる挨拶、道具の値段をめぐる小さな口論、工房から響く金属音――それらすべてが街の鼓動のように重なり合っていた。
鉱夫向けの道具屋では、鉄製のピッケルや補強されたブーツ、粉塵避けのゴーグルが壁一面に掛けられている。年季の入った鉱夫たちが腕を組み、手に取っては重さを確かめ、互いに意見を交わしていた。
その隣では、鉱山用の魔道具を扱う店があり、エーテル原石を動力とした小型ランタンや、落盤を感知する警告石、疲労を軽減する簡易護符などが所狭しと並んでいる。どれも実用一点張りで、華美さはないが、必要とされて磨き抜かれた道具ばかりだ。
「・・・本当に、この街は“働くための街”って感じだね」
フィオナが感心したように周囲を見渡していると、不意に横を駆け抜ける影があった。
きゃっきゃっと声を上げながら走り抜けていく子どもたち。
その手には、淡く光る何かが握られている。
フィオナは思わず足を止め、首をかしげた。
「エミリア。あれ、なに?」
エミリアはちらりと横目で確認し、あっさりと答える。
「ああ、エーテル転がしね。エーテル原石の欠片を加工したおもちゃ。
坂道の上から転がして、一番早く下に着いた人が勝ち」
「へぇ・・・坂道が多い街ならではの遊びなんだ」
感心するフィオナとは対照的に、エミリアは心底つまらなさそうだった。
「別に面白くもなんともないよ。ただ転がすだけだもん」
そう言いつつ、エミリアの視線は子どもたちの背を追っている。
その視線には、わずかだが――懐かしさのようなものが混じっていた。
フィオナはそれに気づかないふりをして、ふっと笑い、エミリアの手を取った。
「行ってみようよ」
「・・・え?」
有無を言わせぬ調子で引かれ、エミリアは一瞬だけ驚いた顔をしたが、結局抵抗せずついていく。
子どもたちの後を追って、二人は坂道を下っていく。
道は曲がりくねり、建物の隙間を縫うように続いている。頭上では木の梁が交差し、壁から突き出たバルコニーが影を落としていた。
やがて視界が開け、広場に出る。
そこは段差の多い石畳の広場で、中心にはエーテル灯の柱が立っていた。子どもたちはすでに集まっており、勝った負けたと大声で言い合いながら、転がしたエーテル欠片を拾い集めている。
「ぼくのが一番!」
「ずるい!途中でぶつかったじゃん!」
そんな声が飛び交う中、ふと一人の子どもがフィオナとエミリアに気づいた。
丸い目を瞬かせ、トテトテと駆け寄ってくる。
「お姉ちゃんたちも、あそぶ?」
屈託のない笑顔で差し出されたエーテル転がしの欠片。それをきっかけに、周囲の子どもたちも一斉に集まり、二人はあっという間に小さな輪の中心に立たされていた。
「ねえねえ、お姉ちゃんたちどこから来たの~?」
「その耳、ほんもの!? ふわふわだ!」
「金色の髪、きれ~! 光ってる!」
質問と感想が矢継ぎ早に飛び交い、フィオナとエミリアはあっという間に取り囲まれる。
フィオナは少し困ったように笑いながらも、子どもたちの目線に合わせてしゃがみ込み、一つ一つに適当に、けれど丁寧に答えていた。
一方、エミリアはというと――
視線を彷徨わせ、無意識のうちにフィオナの背後へ半歩寄る。だが、それを許してはくれない。
「ねえ、お姉さん!」
一人の子が、まっすぐエミリアを見上げた。
大きな目をきらきらさせ、期待に満ちた声で言う。
「髪の毛、触らせて!」
その瞬間、エミリアの眉がぴくりと動く。
「・・・ダメ。髪は――」
言い切る前に、横から声が被さった。
「うん、いいよ~。優しくしてね~」
「フィオナ!?」
思わず振り向いたエミリアに、フィオナは悪びれもせずににこっと笑う。
子どもたちの視線が一斉にエミリアへ集まり、期待が空気を膨らませる。
「・・・」
エミリアは一瞬、完全に固まった。またなの?また触らせてあげないといけないの?私はフィオナだけの物なのに・・・。そんな感情が心の中で渦巻いていたが周囲には目をキラキラさせる幼女の姿。
だが、逃げ場はない。
小さく息を吐き、ほんのわずかに視線を伏せる。
「・・・乱暴したら、許さないから」
低く、小さな声。
そう呟くと、彼女はエプロンドレスの裾をふわりと整え、ゆっくりと地面に腰を下ろした。膝を揃えた、慎ましい女の子座り。普段の威圧感は影を潜め、どこか人形のような静けさが漂う。
恐る恐る、最初の小さな手が伸びる。
指先が金色の髪に触れた瞬間――
「わぁ・・・!」
子どもが声を上げた。
さらり、と流れるような感触。指を滑らせるたび、髪は陽光を弾き、淡い虹色の輝きを帯びて揺れる。
「サラサラ~!」
「キレイ!」
「お姫様みたい!」
次々に手が伸び、髪を撫で、すくい、光に目を細める。
エミリアはぴくりとも動かず、ただじっと耐えるように座っていたが、耳元がわずかに赤くなっているのを、誰も見逃さなかった。
その少し離れた場所では――
「ほらほら、そこをもう少し傾けて・・・そう、そう!」
フィオナが声を張り上げていた。
転がし石を使い、即席の遊びを考案していたのだ。エーテル原石の欠片でできた転がし石を手の甲の上で回し、どれだけ長く回転を保てるかを競う簡単な遊び。しかし――
「あはは! それじゃ長く回らないよ!」
フィオナが笑いながら声を上げると、転がし石はすぐに勢いを失って石畳の上でころりと止まった。
「な、なんで!?」
「もう一回! 今度こそ!」
子どもたちは顔を寄せ合い、石の角度や手の離し方をあれこれ試しながら、何度も挑戦する。失敗しては首をかしげ、うまくいきそうになると歓声を上げ、すぐにまた夢中で走り出す。
フィオナはその様子を少し後ろから見守り、ときどきヒントを投げるだけだ。広場には柔らかな笑い声が途切れることなく響き、それはまるで――いつもそこにいる“近所のお姉さん”が、子どもたちと遊んでいるだけの、ごくありふれた日常の一場面のようだった。
―――――
レーンブルグ領主の館――エーテルハイムを見下ろす高台に建つ石造りの屋敷は、厚い壁と重厚な扉に守られ、外界の喧噪を遮断していた。
執務室には高い天井まで届く書棚が並び、窓から差し込む午後の光が、磨き込まれた執務机の上を淡く照らしている。
白髪に灰色の髭をたくわえた初老の領主は、机に肘をつき、手にした報告書にじっと目を落としていた。
紙をめくる音だけが、静まり返った室内にやけに大きく響く。
「・・・まさかな」
低く、かすれた声。
書かれている内容は、街道で捕縛された盗賊たちの供述――自分たちは盗賊などはなく、帝国の兵士でありこのレーンブルグ領に物資も人材も入ってこないようにするための破壊工作に従事していた。そしてその理由がこのレーンブルグ領への侵攻のための準備だというではないか。
「・・・いや、しかし・・・」
眉間に深い皺が刻まれる。
信じがたい。だが、虚偽と切り捨てるには妙に辻褄が合いすぎている。ここ最近妙に待ちへの物資の供給が鈍くなっているのだ。魔物や盗賊による被害と考えもあったがそれにしてもあまりにも物資を運んでいる商人の被害が続々報告されてきていた。もちろんこちらも黙って手をこまねいていたわけでない。 騎士団の騎士による巡回に冒険者達による領としての護衛依頼をだしたりと物資が滞らないように対策はしていた。
そのためこれまで物資が不足することはなかった。だが財政を圧迫していたのは事実だった。その犯人と思われる盗賊が捕まり領主としてもホッとしてたが、そこにきてのコレである。
「・・・人員を派遣して探りを入れるか?」
領主が帝国に対して調査を行おうか考えに耽っていたそのとき――
バンッ!
扉が乱暴に開かれ、鎧の擦れる音とともに騎士が飛び込んできた。
肩で息をし、顔色は蒼白だ。
「報告!」
領主は顔を上げ、即座に背筋を伸ばした。
「申せ」
「エーテルハイム周辺に点在する数件の村、および鉱山から火の手が上がっています!
逃げ延びた者たちの証言によると――帝国兵による襲撃です!」
「・・・なんだとッ!?」
領主は思わず立ち上がり、椅子が床を軋ませた。
「現在、騎士団が迎撃に向かっております! しかし、他の村に駐屯している兵力も動員せねばならず、このままでは防衛線に大きな空白が生じます!」
一瞬の沈黙。
領主は歯を食いしばり、拳を机に置いた。
「・・・くっ」
苦渋の決断が、その表情に浮かぶ。
「やむを得ん。村の兵をすべて迎撃に回せ。その代わり、エーテルハイムの兵力を空いた村へ派遣し、防衛を引き継がせろ」
「ですが、それでは――」
「構わん。私も前線へ出る。 もし侵攻が本当であればそのまま本隊を率いて討伐に入る。準備を急げッ!!」
迷いのない声だった。
「・・・ハッ!」
騎士は深く一礼し、踵を返して走り去る。重い扉が閉まると、再び執務室は静寂に包まれた。
領主は窓の外、谷間に広がる街を見下ろしながら、低く呟く。
「・・・何故だ。何故、今になって仕掛けてきた・・・?」
その言葉は答えを得ることなく、
静かな執務室の空気に溶けるように消えていった。
子どもたちの甲高い笑い声が街路の奥へ消えていくと、エーテルハイムはゆっくりと夕の顔へと移ろい始めた。
西の空は赤から橙、紫へと溶け合い、斜面に沿って密集する建物の外壁に埋め込まれたエーテル原石の欠片が、残光を受けて淡くきらめいている。
石畳を踏むたび、昼間の喧噪が嘘のように静まり返った通りを、フィオナとエミリアは並んで歩いていた。
フィオナは一日の終わりを惜しむように街を見渡し、エミリアはその半歩後ろから、影が重なるほど近く寄り添っている。
「・・・もう帰っちゃったね、みんな」
「子どもは日が沈む前に帰るものよ。危ないし」
そう言いながらも、エミリアの視線はどこか名残惜しそうだった。
やがて二人の前に現れたのは、外壁にエーテル原石の欠片が散りばめられた、ひときわ目立つ建物――冒険者ギルド。
夕闇に包まれ始めた中で、原石が灯りのように淡く輝き、ここだけが昼の続きを留めているかのようだった。
フィオナが木製の扉に手をかけ、押し開ける。
ギィ・・・
低く重い音とともに中へ踏み入った瞬間、空気が一変した。
酒と汗、鉄と革の匂いが入り混じり、ざわめきと笑い声が渦を巻いている。
――そして、視線。
卓を囲む冒険者たちが一斉に顔を上げ、二人を見た。
訝しむ目、値踏みするような視線、露骨な好色、そして一瞬で興味を失う無関心。
様々な感情が、空気に乗って突き刺さる。
フィオナが小さく身じろぎした、その瞬間。
「・・・なに、こちらをジロジロ見ているのです?」
エミリアの声は低く、静かだった。
だが、そこに含まれる凄みは、刃のように鋭い。
「私のフィオナに視線を送らないでくれます? ――目玉、抉りますよ?」
微笑みすら浮かべないその一言に、ギルド内の空気が凍りついた。
冒険者たちは一斉に視線を逸らし、酒杯に口をつけたり、咳払いをしたりと、何事もなかったかのように振る舞い始める。
フィオナは一瞬ぎょっとしたが、絡まれないことに気づくと、胸をなで下ろした。
すぐそばに設けられた掲示板には、びっしりと依頼書が張り出されていた。
鉱山の街らしく、内容は護衛や運搬、物資補充が中心で、討伐依頼は控えめだ。
フィオナは一枚一枚目を通しながら、顎に指を当てる。
「うーん・・・そろそろ路銀も心配だし、どれか受けようかな」
「フィオナがそんなことしなくても、私が全部やってあげるのに・・・」
「自分の分くらいは自分で稼ぐよ。それに、エミリアにばっかり頼れないしね」
そう言って選び取ったのは、日用品を渓谷の先、鉱山麓の集落へ届ける依頼だった。
カウンター越しに、牛人族の受付嬢がゆったりと首を傾げる。
「そこ、切り立った崖の岩肌にある集落ですので結構危ないですよ~? 本当に大丈夫ですか~?」
「はい。問題ありません」
即答だった。
手続きを終え、日用品の入った木箱を受け取ると、フィオナはそれを抱え直す。エミリアは自然な仕草で隣に立ち、外へと促した。その様子を遠巻きにチラチラと見ながらヒソヒソ話している冒険者にしっかりと睨みを利かせて牽制を入れるのを忘れずに。
再びギルドの扉を抜けると、外はすっかり夕闇に包まれつつあった。
二人は並んで、エーテルハイムの出入り口へと続く坂道を歩き出す。
エーテルハイムの出入り口に近づくにつれ、フィオナは違和感を覚えた。
夕闇に包まれ始めたはずの門前が、妙にざわついている。
近づいてみると、そこには街の住民たちが作る人だかりができていた。
鉱夫、商人、露店の店主、子どもを連れた母親――誰もが足を止め、門の方角を固唾を飲んで見つめている。
囁き声が重なり合い、低い波音のようなざわめきとなって広がっていた。
その視線の先。
門の内側に、騎士団が並んでいた。
全員がしっかりと鎧を着込み、胸当てには領主の紋章。
槍と剣は磨き上げられ、足並みは寸分の狂いもない。
昼間に見かける巡回の兵とは明らかに違う、戦に赴くための陣容だった。
やがて、門楼の上から低く重い号令が響く。
ギギ・・・ギィィ・・・
巨大な門扉が音を立てて開かれると同時に、騎士たちは一斉に動き出した。
鎧が擦れる金属音、地面を踏み鳴らす足音が、夕暮れの空気を震わせる。
整然とした隊列のまま、騎士団は門の外へと進み出ていく。
誰一人、無駄口を叩くことなく、ただ前だけを見据えて。
その様子に、住民たちの間から不安げな息遣いが漏れた。
「・・・あんなの、見たことある?」
「いや・・・」
フィオナは思わず、近くにいた住民に話しかけた。
「すみません! ちょっと聞きたいのですが、いつもあんなふうに騎士団が出ていくことってあるのですか?」
「え? う~ん大規模な魔物の群れでも現れない限り、あんな総出の出動はしないと思うぞ。滅多に・・・本当に滅多に起きないことだな」
住民の鉱夫がそう言うのとほぼ同時に最後の騎士が門の外へと消え、再び門扉が閉じられると、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
住民たちは互いに顔を見合わせ、ぽつりぽつりとその場を離れていく。
先ほどまで人で埋まっていた門前は、まるで何事もなかったかのように静まり返った。
「・・・一体、何だったんだろう」
胸に小さな引っかかりを残しながらも、フィオナは首を振る。今は依頼を果たすのが先だ。門番に声をかけると、数時間前に顔を合わせたその男が、どこか疲れた表情で応じた。
簡単な確認を終え、二人は街の外へと足を踏み出す。
背後で閉じる門の音が、やけに重く響いた。
まるで――エーテルハイムが、自分たちを見送るのではなく、この街を守るために扉を閉ざしたかのように。
エーテルハイムを離れてしばらく進むと、道は急速にその表情を変え始めた。
整えられた石畳はいつの間にか途切れ、足元は岩が剥き出しの細い獣道へと変わっていく。
渓谷には、どう考えても人が住むべきではない場所に、いくつもの集落が点在している。
崖の中腹、断崖の陰、足を滑らせれば即座に奈落へと落ちるような場所。
今回向かう集落も、その例に漏れなかった。
「・・・どうして、こんなところに住もうと思ったんだろう」
フィオナが思わず口にすると、眼前には垂直に近い岩壁がそそり立ち、そこにぽつぽつと黒い穴が穿たれているのが見える。
それは自然の洞窟ではなく、人の手で掘られた痕跡だった。
エーテルハイムへ至る道よりも、はるかに険しい。本来であれば、命綱や登攀具なしには進めない道程だ。
「フィオナ。危ないから、私が抱っこしてあげる」
そう言うが早いか、エミリアは当然のようにフィオナをお姫様抱っこした。軽々と持ち上げられたフィオナは一瞬驚く暇もなく、視界がぐっと高くなる。
「え、ちょっ――」
抗議の言葉は途中で止まった。
フィオナが抱えていた日用品の入った木箱が、金色の髪に包まれて宙に浮いたからだ。
さらにエミリアの髪は意思を持つかのように分かれ、何本もの束となって渓谷の壁面へと突き刺さる。
ザク、ザク、と鈍い音を立て、岩に深く食い込む。
次の瞬間。
エミリアは、まるで重力など存在しないかのように、崖へと身体を寄せた。
壁面を這うその姿は、四肢を使う登攀とはまるで違う。
髪が次々と岩に刺さり、引き抜かれ、また次の場所へ――
まるで巨大な蜘蛛が岩肌を這っているかのようだった。
途中、道が崩落している場所もあった。
足場と呼べるものはほとんどなく、申し訳程度に草が生えた岩肌があるだけ。
しかしエミリアは躊躇しない。
髪を壁に突き立て、そのまま横へ、斜めへと移動していく。
その光景を間近で見ていたフィオナは、思わずぽつりと漏らした。
「・・・なんか、動きがキモイ」
「フィオナ!?」
エミリアの動きが一瞬止まり、あからさまにショックを受けた声が返ってくる。しかし動きをッ止めることなくほぼ垂直の岩肌を登はんしていきやがて集落へと続く細い崖道へとたどり着いた。本来ならば数時間は掛かるであろう登はんをほんの30分で終わらせたフィオナとエミリアの二人は人一人がやっと通れるくらいの崖道を歩いていきそして目的の集落へとたどり着く。
そこは、まるで巨大な蟻の巣だった。大小さまざまな穴が岩肌に連なり、内部では通路が複雑に繋がっているのが見て取れる。
人が生活するために少しずつ掘り広げ、積み重ねてきた痕跡が、岩の一つ一つに刻まれていた。
過酷な環境。
吹き上げる風、落石の危険、常に隣り合わせの死。
だが――
穴の縁から見下ろす渓谷の景色は、言葉を失うほどだった。
遥か下を流れる川は銀の帯のように輝き、夕暮れの光が岩壁を赤く染め上げている。
空は高く、広く、遮るものが何一つない。
思わず、フィオナの口から素直な感嘆がこぼれ落ちた。
「・・・わあ・・・」
視界いっぱいに広がるのは、切り立った渓谷の奥まで見渡せる壮大な景色だった。
夕暮れの光が岩壁に反射し、橙から紫へと移ろう空が、谷全体を柔らかく包み込んでいる。
風は高所特有の冷たさを含みながらも澄んでいて、肺の奥まで洗われるようだった。
隣に立つエミリアでさえ、普段の余裕を失ったように目を見開き、しばし言葉を忘れていた。
金色の髪が夕陽を受け、淡く輝いている。
「・・・こんな美しい場所があったのね・・・」
ぽつりと零れた声には、純粋な驚きと、わずかな悔しさが混じっていた。
「もっと早く知っていれば・・・」
その言葉に、フィオナはふっと微笑む。
そして、先ほどエミリアから受け取った日用品の木箱を、両腕で持ち上げた。
「エミリア。いこう」
感傷に浸るより、まずは仕事だ。
エミリアは一瞬だけ名残惜しそうに景色へ視線を残し、それからフィオナの隣に並んだ。
集落の内部は、外から見た以上に生活感に満ちていた。
岩をくり抜いた通路には灯りが吊るされ、ところどころに木製の扉や簡素な家具が置かれている。
人の気配、生活の匂い。
過酷な環境の中でも、確かに“暮らし”が根付いていた。
届け先の住居は、岩壁の一角に掘られた少し広めの空間だった。
フィオナが木箱を差し出すと、中から現れたのは背中の曲がった白髪の老人だった。
「おやおや・・・こんな所までありがとうねぇ」
しわだらけの顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「若い女の子が来るなんて、珍しいこともあるもんだ」
そう言いながら、老人は奥へ引っ込むと、素早く湯気の立つ湯呑みを二つ持ってきた。
ほうじ茶のような、香ばしい匂いが立ち上る。
「さ、疲れたでしょう。お茶でもどうだい」
その瞬間だった。
エミリアの金色の髪が、音もなくうねり――
フィオナの手首に絡みつこうとする。
しかし、その一瞬の隙を突き、フィオナは湯呑みを掴み、ためらいなく一気に飲み干した。
「ぷはっ・・・」
「――――何をしているの、フィオナ!!」
エミリアが目をカッと見開き、声を荒げる。
「見知らぬ老人の液体なんて、どんな毒が入っているかわからないでしょう!?
あなたの身体は私が管理しているのだから、勝手によく分からないものを摂取しないで!!」
「エミリア!!」
フィオナは慌てて割って入った。
「おじいちゃんの前で失礼なこと言わないの!
あと、普通にお茶だから! すっごく美味しいよ!」
深々と頭を下げるフィオナに、老人は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは! いやぁ、元気なお嬢さんだなぁ!」
その屈託のない笑いに、場の空気は一気に和らいだ。
エミリアだけが納得いかない様子で、じっと老人を睨んでいる。
居心地の悪さに耐えきれなくなり、フィオナは慌てて礼を告げると、エミリアの腕を引いてその場を離れた。
「・・・はぁ・・・」
少し歩いたところで、フィオナは大きくため息をついた。
「エミリアはさ、もうちょっと……私に依存しすぎないで、他の人も受け入れてほしいんだけど」
「ヤ・ダ♡」
即答だった。
「ヤダじゃないよ・・・もう・・・」
ツッコミ疲れた声でフィオナが呟くと、エミリアは涼しい顔で肩をすくめる。
「仲良くする必要、あるの?フィオナがいれば、十分じゃない」
「そういう問題じゃないの。人って支え合って――」
「支えるのは私の役目よ」
エミリアは、当然の事実を述べるように言った。
「あなたが困る前に、全部排除しておけばいいの」
「排除って・・・またそういう物騒な言い方して・・・」
呆れたように言うフィオナに、エミリアは口の端をわずかに吊り上げる。
「冗談よ・・・半分くらいはね」
「半分は冗談じゃないの!?」
思わず声を上げるフィオナに、エミリアは肩をすくめるだけだった。
「だって、怖いじゃない」
その声は、不思議なほど静かだった。
「もしあなたに何かあったら・・・私、きっと壊れちゃうもの。大声で泣き叫びながら、周囲の建物を全部破壊してしまいそう」
「いや、それ洒落になってないから!?」
「でしょう?」
エミリアはうっとりとした表情で、繋いだ手に金色の髪を絡め、がっちりと離さないようにする。
「だからね・・・フィオナの身体は、私が管理しないと安心できないの」
フィオナは返す言葉を失い、溜め息混じりに渓谷の外へと視線を向けた。
夕焼けは、先ほどよりもさらに深い色へと沈みつつあった。
(・・・ほんと、この性格・・・どうしよう)
集落のちょうど中ほど――
崖に穿たれた通路がわずかに広くなった場所から、フィオナは足を止めた。
眼前に広がるのは、言葉を失うほどの深い渓谷だった。
切り立つ岩壁は幾重もの地層を露わにし、何万年、何十万年という時を積み重ねてきた痕跡を、そのまま誇示するかのようにそびえ立っている。
視線を上げれば、遥か高みまで続く断崖。
視線を落とせば、底が見えないほどの深淵。
傾きかけた夕陽が、渓谷全体をオレンジ色に染め上げていた。
岩肌は金と赤を混ぜたような光を帯び、まるで巨大な彫刻のように浮かび上がる。
風が吹くたび、どこか遠くで反響する音が、谷の深さを改めて実感させた。
「・・・すごい・・・」
フィオナの呟きは、風に攫われる前に胸の奥へと沈んでいった。
集落の人々は、そんな絶景にはすでに慣れきっているのだろう。
夕暮れとともに、それぞれの住処へと足早に戻っていく。
狭い通路を行き交う影が次第に減り、代わりに生活の音が濃くなっていった。
フィオナはふと現実に引き戻される。
(・・・そういえば)
時間はもうかなり遅い。このままエーテルハイムへ戻れば、確実に夜になる。
(ここ・・・泊まれるところ、あるのかな・・・)
勢いで来てしまったことを、少しだけ後悔しながら、フィオナは宿屋を探して歩き出した。
道はエーテルハイム以上に入り組んでいた。
階段、階段、また階段。
人がすれ違えるかどうか、ぎりぎりの幅の通路が、上下左右へと無秩序に伸びている。
露天商の犬人族の男が、木箱を片付けながら隣の猫人族の女性と話し込んでいる。
「今日はエーテル圧力煮込みでいいか?」
「またそれ?昨日もだったじゃない」
そんな他愛のない会話が、岩壁に反響して耳に届く。
別の家屋からは、香ばしい焼き物の匂いが漂い、子どもと母親の声が重なって聞こえた。
集落のあちこちに、エーテル原石を用いた灯りが灯されている。
淡い青色の光が、狭い道を静かに照らし、夕闇をやさしく押し返していた。
だが――
いくら歩いても、それらしい宿屋は見当たらない。
(やっぱり・・・ない、よね・・・)
鉱夫とその家族、たまに訪れる行商人。この集落の性質を考えれば、宿屋が成り立たないのも当然だった。
(ちょっと・・・失敗しちゃったかな)
どこか泊めてくれる家がないか、頭を巡らせ始めた、その時だった。
「――ん?」
ふと、夕闇に沈みかけた渓谷の向こうに、違和感を覚えた。
細めた目の先――
崖道を進む、整然とした隊列。銀色の甲冑。腰に帯びた剣。馬に跨り、無言で進む騎士たち。
「あれ・・・?」
フィオナは小さく声を漏らす。
「エーテルハイムの騎士団かな?」
「・・・え?」
エミリアが視線を向けた、その瞬間だった。
彼女の表情が、すっと消える。
先ほどまでの余裕も、不満も、感情の色が一切抜け落ちたように――
ただ、真顔で騎士たちを見据えていた。
あまりに唐突な変化に、フィオナが声をかけようとした、その直前。
「フィオナ」
エミリアが、普段より少しだけ早口で言った。
「このまま集落で宿屋を探しても、見つからないかもしれないわ。それなら・・・集落を出て、エーテルハイムに戻りましょう?」
「え?」
「今からなら、ギリギリ夜になる前に戻れそうよ」
不自然なほど、話題を逸らしている。
「そっか・・・確かに、間に合いそうではあるけど」
フィオナはもう一度、騎士団を見る。
「それで・・・あの騎士たちは誰だろう?」
エミリアは一瞬、言葉に詰まったように唇を噛み、
「それに、この限界集落だと、あまりゆっくり寛げないじゃない?エーテルハイムなら・・・ゆっくり、二人きりの時間を過ごせると思うの」
「さらっと自分の欲望をねじ込んできたね」
フィオナは苦笑する。
「で、あの騎士たちは誰なの?」
「・・・知らなーい」
「嘘」
即答だった。
沈黙。
夕風が、二人の間を吹き抜ける。
フィオナは、静かに言葉を重ねた。
「あれ、帝国の兵士なんだよね?」
エミリアの指先が、ぴくりと動く。
「来た方角を考えれば帝国側から。
エーテルハイムの騎士団とも考えたけど、甲冑の形が違うし・・・」
フィオナは、渓谷を進む隊列を指さす。
「何より、あの旗。どう見ても帝国の旗だよ」
エミリアは、何も言わない。
「つまり、侵攻してきていて・・・この集落を目指してる。エミリアは、それに気づいた」
フィオナは、そっと微笑んだ。
「だから私が“助けに行く”って言い出す前に、集落から遠ざけようとしたんでしょう?」
「・・・フィオナ」
エミリアは、呆れと困惑が混じった声で言った。
「そこまで察すると・・・むしろ怖いよ?」
「私はあなたのドールマスターだよ?」
フィオナは胸を張る。
「わかって当然じゃない」
そして、少し声を落とした。
「・・・私が何て言うかも、わかってるよね?」
「・・・嫌」
エミリアの即答は、かすかに震えていた。
「なら、一人で行くね」
「それはもっと嫌!!」
思わず声を荒げたエミリアに、フィオナは満面の笑みを向ける。
そして、その手をぎゅっと握った。
「じゃあ・・・ついてきて?」
確信犯だった。
エミリアは、苦虫を噛み潰したような顔で天を仰ぎ、
長い、長い沈黙の末――
「・・・はぁ・・・」
深いため息をひとつ。
「・・・わかったわよ・・・」
げんなりとしながらも、握られた手を振りほどくことはなかった。
松明の火が、夜の崖道を不安定に照らしていた。
炎は風に煽られ、影は岩肌に歪んだ怪物のような形を描きながら伸び縮みする。断崖の縁は数歩先で闇に溶け、足を踏み外せばどこまでも落ちていきそうな深淵が口を開けている。
馬の蹄が石を叩く音、鎧が擦れる音、それらすべてが異様に大きく響き、夜の渓谷に吸い込まれていった。
「しかし・・・まさか本当に侵攻するとはな」
誰かがぼそりと呟いた。
その声に、隣の兵士が苦笑交じりに応じる。
「緊張状態とは聞いていたがよ。実際に命張ってこんな崖道を進まされるとは思わなかったぜ」
「まったくだ・・・」
隊列の後方、断崖の下をちらりと覗いた兵士が顔を引きつらせる。先ほどまで沈みかかっていた夕日は既になくあたり一帯真っ暗闇に包まれていた。しかも雲も出ていて月明りはおろか星明りすらもなかった。
「・・・なぁ、隊長。こんな場所、夜に通らせるなんて上の連中は正気じゃねぇよ。落ちたら骨も残らねぇぞ」
「文句を言うな」
隊長の声は低く、短かった。
「ここを抜ければ鉱山集落だ。先遣として制圧し、本隊と合流する。それでエーテルハイムを叩けば、レーンブルグ領は終わりだ。俺たちの役目も、そこまでだ」
淡々とした言葉だったが、部下たちの顔から緊張が消えることはなかった。
「・・・とはいえ」
別の兵士が周囲を警戒しながら言う。
「地図上の集落まで、まだ半刻はあります。この暗闇での夜襲・・・さすがに警戒した方が――」
「誰が襲ってくる?」
隊長は鼻で笑った。
「こんな山奥だ。いるとすれば魔物か、幽霊くらいだろう」
「どちらもご免被りたいですな」
軽口が飛び、兵士たちはどっと笑った。
張り詰めた空気を誤魔化すような、どこか無理のある笑いだった。
「そういえば・・・」
噂好きの兵士が声を潜める。
「この渓谷、妙な話があるらしいですよ。黄金に輝く髪と、美しい瞳を持つ“何か”が住み着いてるって」
「お前はまたそんなくだらない噂を・・・」「いやいや、今回のネタはかなり信ぴょう性が高いんだって!」
「もし、その噂が本当だったとしてそんなの何処にいるんだよ?このバカ広い渓谷からそんな魔物をピンポイントで探すなんざできるわけねえだろ」
「まあ、そうなんすけどね。それに話によるとその魔物はとても強いらしく凄腕の冒険者でもなければ討伐できないと言われている存在みたいです」
「じゃあ見つけてもこっちがやられるだけじゃねえか」
「違ぇねえな」
再び笑いが起こる。
だが、その笑いは途中で途切れた。
――闇が、震えた。
最初は錯覚かと思った。
風の音に紛れて、布が擦れるような微かな音。だが人の息遣いとは明らかに違う、何かが“引きずられる”ような音が混じっている。
「・・・何だ?」
隊長が小さく囁く。
ランタンの火が、一瞬だけ不自然に揺れた。
視界の端、闇の中を金色の光が走った気がした。
寒気が、背骨をなぞる。
次の瞬間だった。
兵士の一人が、声を上げる暇もなく宙に浮いた。
首筋に絡みついた一本の細い光――金色に輝く“何か”が、信じられないほどの力で男の身体を引き上げ、そのまま放り投げた。
「――っ!?」
悲鳴は途中で途切れ、闇の底へと吸い込まれていく。
一同が呆然と立ち尽くす、そのわずかな時間。
金色の糸は次々と闇から伸び、兵士の首や腕、胴に絡みついた。
引きずられる者。
叩きつけられる者。
空へ投げ飛ばされ、そのまま戻らない者。
「魔物だ・・・!」
誰かが叫んだ。
「噂の・・・金色の髪の・・・!!」
恐怖が隊列を崩壊させる。
「落ち着け!」
隊長の声が夜に響いた。
「姿が見えなくても実体はある! 隊形を――」
だが、言葉は途中で詰まった。
闇の奥から、声が聞こえたからだ。
「・・・こんなところに来なければ、苦しまずに済んだというのに」
冷たく、感情の温度を感じさせない声。
ヒタ・・・ヒタ・・・
素足が岩を踏むような、かすかな足音が近づく。
松明の光が、その姿を照らした。
夜風に溶けるように広がる、黄金の髪。
光を帯びた長い髪は生き物のように揺れ、無数の細い糸となって闇へと垂れ下がっている。
白磁のような肌。
そして、異様なまでに美しい瞳。
その瞬間、誰もが理解した。
――人間ではない。
「何者だ・・・名を名乗れ!!」
隊長の叫びに応えるように、相手は微笑んだ。冷たく、慈悲のない笑み。
次の瞬間、金色の髪が一斉に蠢いた。盾は裂け、剣は折れ、鎧は粉砕される。一人また一人と部下たちが倒されていき、地に伏す部下たち。気づけば立っているのは、隊長ただ一人。あまりのも一瞬の出来事に混乱気味の隊長にその存在はゆったりと近づいた。
「・・・あとは、あなたですわね」
いつの間にか、目の前にいた。美しく、そして圧倒的に恐ろしい存在に部下の事や相手の存在が何なのかといった疑問よりも純粋な未知に対する恐怖だけが心を侵食していき思わず後ずさりする。だが金色の髪が足に絡みついて逃がさない。
「あらあら、どこへ行くのです? いけませんわ。部下を置いていくなんて。あなたもご一緒されませんと」
隊長の頭を埋め尽くすのは、後悔だけだった。
来なければよかった。
ここに来なければ、こんな――。
その存在は、顔を近づける。冷たい吐息が耳元に触れた。ガタガタと恐怖に震える隊長に対してその存在は耳元で囁いた。
「それでは・・・ごきげんよう」
―――――
帝国軍本隊の陣幕には、篝火が重々しい影を落としていた。
真紅の旗が風に揺れ、鉄と火薬と獣臭が入り混じった濃い空気が漂う。
中央の大帳には、豪奢な金糸の刺繡が施された鎧を身にまとった、大柄な男――ヴォルクが座していた。
脂の乗った体躯は鎧とともに鈍く輝き、分厚い腕を肘掛けに預けたその姿は、威圧と傲慢の象徴だった。
帳の入り口をめくる風とともに、一人の伝令兵が駆け込む。
呼吸を整える暇もなく、額の汗を拭うことも忘れ、甲高い声で報告した。
「報告いたします! 先行していた小隊の・・・いくつかが・・・消息不明に!」
「・・・何だと?」
ヴォルクはゆっくりと腰を上げた。
瞠目した眼光に、周囲の兵が息を呑む。
「先行部隊は精鋭ぞろいだったはず。レーンブルグの小さな集落ごとき、柄にもなく手こずる道理はない」
「はッ! ですが、制圧に向かった部隊が次々と戻らぬのです。報告では・・・」
言い淀んだ伝令兵に、ヴォルクが苛立ち気味に促す。
「申せ」
「・・・松明だけが散乱し、血痕はおろか、死体も見当たらなかったとのこと・・・」
ざわり、と空気が震えた。
控えていた兵らが互いに視線を交わす。殺されたとしても血が残らない?遺体すら消える?
あり得ない。だが事実だった。
「10隊・・・」
ヴォルクの眉がぴくりと動いた。
「10隊が・・・揃って、か」
周囲の兵士がざわめく。
先行部隊は帝国軍の中でも選りすぐり。
その精鋭十隊が、痕跡すら残されずに消えたというのだ。
「狼狽えるな!」
ヴォルクの怒声が陣幕を震わせた。
兵士たちは反射で背筋を伸ばす。
「我らの使命は変わらん。エーテルハイムを制圧し、レーンブルグ領を掌握する! この渓谷はこちらも援軍が期待できないがそれは向こうも同じ。レーンブルグ領は他の領地からの援軍など期待できない。条件は同じだ。 そしてこちらは先手を取り、尚且つ向こうよりも多くの戦力を率いてやって来ている。ならば進むのが唯一の道だ!」
声は覇気に満ちていたが、瞳の奥に潜む焦燥は隠しきれない。
――血の一滴も流れず消えるなど、有り得ん。
――敵は、レーンブルグ騎士団ではない。
――何か、知らぬものが潜んでいる。
読み切れない恐怖に、ヴォルクの背筋を冷気が這い上る。
(この地で・・・何が起きている?)
篝火の炎は不気味に揺れ、闇はまるで意思を持つかのように濃さを増していった。
ヴォルクの声が低く響いた。
「――偵察部隊を再編。行方不明になった小隊の通った道を調べさせろ。だが・・・本隊の進軍は止めるな。目的は変わらん。エーテルハイムを落とす。それだけだ」
その言葉と共に、帳内の空気が一気に動き出す。
周囲に控えていた兵士たちが、命令を伝えるため走り出し、指揮幕の外では怒号と金具のぶつかる音が交錯する。
油を染み込ませた松明が次々と掲げられ、炎に照らされた鎧が不気味に輝く。
重々しい鉄靴の音が、湿った大地に規則正しく鳴り響いた。
ヴォルクは沈痛な面持ちのまま、側に控える副隊長へと視線を向ける。
副隊長は年季の入った鎧を着こなし、眉間に深い皺を刻んだ歴戦の男だった。
「副隊長、お前が偵察隊を率いろ。当該経路へ向かい、何が起きているのか掴め。出立前にひとつ――」
ヴォルクは低く声を詰まらせた。
「・・・もし異常があれば、即刻伝令を寄越せ。状況次第では本隊の進路すら変更する」
「承知いたしました」
副隊長は、剣の柄に手を添えながら一歩前へ進み、深く一礼した。
「複数の部隊が同じ経路で消息を絶った・・・これは偶然ではないのでしょう。おそらく何か“想定外”が潜んでおりますゆえ、時間は掛かりましょうが・・・必ず原因を突き止めてご覧にいれます」
ヴォルクはわずかに頷く。
「期待している」
それだけ言うと、副隊長は踵を返した。
重い甲冑のきしむ音が、なぜか死刑台の階段を上るように聞こえる。
そして副隊長は、選りすぐりの偵察兵を率いて、渓谷を切り裂く別の道へと分かれていった。
松明の灯りの列が、霧の中に吸い込まれていく。
やがて光が闇に溶け、音が遠のき、跡形もなく消えた。
一方エーテルハイムを発ったレーンブルグ騎士団は、日が落ち暗闇に包まれた山道を進軍していた。山影が濃く沈み、薄曇りの空は今にも雨を降らせそうだ。隊列をなす鎧の軋みと馬の吐息が、張り詰めた空気にかすかに響く。
先頭を進む領主は、厚手の外套の襟を掻き合わせながらも背筋を伸ばし、鋭い眼差しを前方へ向けていた。 そこへ、馬を飛ばした一人の伝令が雪煙を上げて駆け寄って来た。
「れ、レーンブルグ様! 急報にございます!」
伝令の肩は大きく上下し、息は荒い。だが緊急性を伝えるには十分だった。
「報告しろ」
領主の声は低く、しかし揺らぎはない。
「はッ! 領内に点在する六つの集落・・・現時点で陥落の報告は一つもありません! 死傷者、異変の兆候、襲撃の痕跡も確認されず、領民は普段通り、収穫や交易の準備に励んでいたと!」
その言葉に、隊列のあちこちでざわりと鎧の触れ合う微かな響きが連鎖する。バルド団長は顔をしかめ、
「・・・一体どういうことだ? 敵は確かに侵攻を始めているはず。焦土戦略に切り替えた可能性は?」
「だが痕跡がないのはおかしい」
領主は厳めしい眉をさらに寄せた。
「襲撃が行われた形跡すらないとは・・・。伝達が遅れているわけでもないのか? もし集落に死者が出ているなら、一刻を争う。救援が遅れればそれだけ被害は拡大するぞ。情報が混乱している可能性は?」
「そ、それが・・・」伝令は声を震わせながら続けた。
「報告は複数地点から寄せられており、どれも同一内容。確認した斥候も、領民に普段と変わった様子はなかったと」
違和感が、雪雲のように重く隊列に垂れ込める。
「もうひとつ報告がございます」
「なんだ?」
報告を聞く領主に、伝令は震える声で続けた。
「追って調べたところ・・・集落から離れた山林にて・・・帝国兵の先遣隊と思われる部隊が発見されました。帝国兵たちは、渓谷を抜けた先の荒野に倒れていたそうで金色の糸に全身ぐるぐると縛られ、地面に投げ捨てられたような状態で・・・。発見時は全員意識がなく・・・しかし息はありました」
その報告は、騎士たちの背筋を凍らせた。
「手当を行った兵の証言によれば・・・多くが全身傷だらけで、折れた骨が皮膚を突き破っている者もいたそうです。一撃で沈められたというより、徹底的に叩きのめされたと」
空気が一層重く沈む。凍りつく山風が兜の羽根を叩き、馬が嘶いた。
騎士たちは思わず腰の剣に手をかけ、互いの顔色を伺う。
「・・・つまり、帝国兵が敗れたということか」
騎士団長の声に、部下たちはどよめいた。
領主はしばし沈黙し、馬上で深く思案に沈む。帝国兵を撃退するほどの者。それはこの国境地帯では考えにくい脅威だった。
(帝国は大国。その正規兵の練度は侮れん。
先行部隊とはいえ軽くはない戦力・・・
それがまとめて叩き伏せられた? それも残虐なまでに)
汗が一筋、首筋を伝う。周囲の兵たちも同じ疑念に思い至ったのだろう。息遣いが荒くなる。
「一体・・・誰が帝国兵を撃破したのだ?」
領主は低く問う。
伝令は首を振り、震えた声で答えた。
「わ、分かりません。姿を見た者はなく・・・戦闘痕跡も、衝突の跡も最小限。ただ、地面には無数の抉るようになにかが引きずったような痕跡が・・・」
不可解な報告に、兵たちはざわりと揺れた。山風の音が一瞬止んだかのように、静寂が降りる。
(この領にそんな武装勢力は存在しないはず・・・冒険者が交戦した? いや単独で軍勢を一方的に壊滅させられるほどの実力者ならば情報が入ってくるはず。だがこちらには何も情報は入ってきてはいない。)
領主は結論を急がず、慎重に思考を巡らせる。
(介入者・・・敵か味方かすら判然とせぬ。帝国を叩いたという事実だけでは判断を誤る。目的も素性も不明。利用される可能性もある)
そう判断すると、領主は意を決し、声を張った。
「――警戒を強化する! 侮るな、敵は帝国だけではない可能性がある。
だが優先すべきは迫る帝国本隊の撃破だ。本隊の進軍路へ急ぐぞ!」
「はっ!」
列をなす馬蹄が夜の地を蹴り、騎士たちは進路を帝国軍の到来が予想される峡谷方面へと向けた。
しかし彼らの胸には、言い知れぬ不安と疑念が渦巻き続けていた。
――敵帝国兵を、まるで玩具のように嬲った“何か”が、この領内を歩いているのだ。
帝国兵本隊は、渓谷のわずかな開けた平野に到達すると、号令一下、防御陣地の構築にとりかかった。狭い谷底では数の利が働かない。故にこのわずかに存在する平野部に陣地を築いて騎士団を迎撃する。そのために敵が現れる前に拠点を築き、迎撃態勢を整える必要があった。
松明の赤い光が闇中にゆらめき、槍を突き立てる金属音が夜気に響く。乾いた土が掘り返され、地面に防壁の杭が次々と打ち込まれていく。
だがその時――。
「・・・おい、待て。あれ・・・なんだ?」
杭を運搬していた兵士が、ふと足を止め、視線を地面へ固定した。
仲間が怪訝そうに近づく。
「何をしている。手を止めるな――」
言いかけて、そいつも固まった。
黒い地表を、金色の細い糸のようなものが“蠢いて”いる。
風に流された草かと思ったが、それは明らかに意志を持つ動きで、砂を払うようなざらりとした音すら発していた。
次の瞬間、松明の光が反射して理解が追いついた。
「髪・・・だ・・・?」
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
それは髪ではなく、髪の毛を引きずり、四肢を地に着いて高速で“追いすがる”少女の髪だった。
闇に溶け込むような細い影が、ぬるりと兵士たちのすぐ傍に迫る。
「―――うわぁあああああああああ!!」
「どうした!? 敵襲かッ!?」
少女は返答を待たない。
バシュッ!と地面から金色の束が弾ける。
シュルルル・・・!!
無数に伸びた髪が兵士の身体を絡め取り、振り回すように放り投げた。
重い鎧が地面で鈍く跳ね、骨の折れる音と絶叫が同時に響く。
「くそっ、押し返せ!」
「距離を取れ、弓兵前へ!」
剣が振り下ろされるが、少女は髪で刃を受け止め、そのまま金属をへし折った。兵士の胴を包み込み、締め上げるように叩きつける。
「盾を構えろ!」
盾兵隊が一列に構えるが、髪が瞬時に束ねられ、大太刀のように形を変え、横なぎに両断した。盾の金属板が紙切れのように裂け、兵士たちが悲鳴と共に血飛沫を撒き散る。
「弓兵、放て!!」
十数本の矢が闇夜を裂くが、髪は半球状に展開され、バラバラと矢を弾き返す。光沢のある毛一本一本が生き物のように脈動して見えた。
「魔術で応戦しろ!」
火球が生成され、次々と少女へ向けて放たれる。爆ぜる火光が夜闇を照らし、炎が髪を焦がす前に少女の肉体がひらりと舞う。地を蹴り、闇夜に溶けるように、火の粉をかすめて兵士の頭蓋に蹴りを叩き込んだ。周囲は地獄の叫びと金属の破砕音に包まれる。松明の火花が散り、髪が獣の触手のように揺れ、闇を裂く。
「どけッ!! 俺が殺るッ!!」
低く吠える声。
鋼鉄鎧に身を包んだ、犬人族の巨漢の兵士が前へ踊り出た。
握りしめた大剣を軽々と振り回し、地面を抉りながら少女へ突撃する。
「死ねぇッ!!」
振り下ろされた剛腕の一撃を、少女は紙一重でかわす。
刃は地面を砕き、火花が散る。
ふわりと風が止んだような静寂。
少女はゆらりと立ち上がると、血に濡れた頬に張り付いた髪を払い、犬人族の兵士をまっすぐに見た。
真夜中の闇より冷たい微笑が、その唇に浮かんでいた――。
犬人族の兵士は大剣の切っ先を地にめり込ませたまま、唸り声を漏らし、それに対しエミリアは衣服についた埃を軽く払うと、ふわりと広がる金色の髪を整えた。
その仕草はまるで舞踏会の合間で裾を直す令嬢のように自然で、優雅。だが周囲に広がるのは血と鉄と焼けた土の匂い。
場違いなどという言葉では追いつかぬ異質さだった。
「――あら?帝国はワンちゃんまで兵士にしてるなんて」
唇に手を当て、小さく笑う。「人材不足が深刻なのね」
「そのワンチャンがテメェを殺すんだよ」犬人族の兵士が牙をむく。
「で? テメェはどこの誰だ? エーテルハイムから来た騎士にゃ見えねえ」
エミリアはくるりとスカートの裾を摘み、優雅に膝を曲げてカーテシーをした。
血溜まりに映る彼女のシルエットまでもが美しかった。
「そういえば、自己紹介がまだでしたわね」
微笑はどこまでも柔らかい。
しかしその声は、底なしの闇を孕んでいた。
「帝国兵の皆さん、初めまして。――私は、エミリアと申します」
その瞬間、空気が凍りつき、兵士達の喉が、無意識に鳴った。美しい少女のものとは思えないような暴力的な圧が、闇の中で膨れ上がる。無意識に兵士たちが一歩二歩と後ずさりしていた。
「お見知りいただかなくて結構ですので」
ぱちん、と指先で金糸が弾ける。
にこり。
「――さっさとぐちゃぐちゃに潰されていただけませんか?」
月光に濡れた金色の髪が、ゆらり・・・と生き物のように持ち上がる。
「そうかよ。あいにくとぶっ潰されるわけには――」
「待て、グロス」
低い声が割って入った。
声の主は、鎧すら纏わぬ異国風の胴着姿の男。刈り上げられた頭、鍛え抜かれた格闘家の肉体。拳の皮は何度も砕け、固く黒ずんでいる。
「そいつ、強いぞ」
鋭い目つきのまま、拳を構える。完全にエミリアを狩るべき獲物ではなく倒すべき敵と認識していた。
「俺とお前、サーラにドルガン。四人でやる」
犬人族のグロスは鼻を鳴らし、大剣を肩に担ぐ。
「ジャワル・・・俺の獲物を奪うってか」
不満げに笑うと、ギラつく双眸でエミリアを睨みつけた。
「・・・まあいい。テメェがそう言うなら、このガキぁ確かに厄介なんだろうよ」
二人は呼吸を合わせるように身構えた。
視線の先には、ただ微笑を浮かべる少女が立つ。
少し離れた岩陰には灰色の短髪のエルフの女――サーラ。
魔力を帯びた矢を弓に番え、詠唱もなく次の一射の準備をしている。
瞳は獲物を狙う猛禽そのもの。
更に後方、痩せ細ったローブ姿の男――ドルガンが魔道具を展開していた。
血走った眼は焦点が合わず、骨のように細い指で呪符を撫でる。
金糸の束を一房持ち上げ、口元では不気味な呪詛を呟いていた。
四方向からの同時攻撃。強敵とぶつかった場合いつもこの4人が一緒になって前衛二人後衛二人の布陣で対処してきた。大抵の敵はこれであっさり陥落するか、もしくは倒せなくてもかなりの深手を負わせることが出来る。現状採りうる最高の布陣。帝国本国にいる将軍たちや、他国にいる化け物じみた戦力、もしくは冒険者どもの上澄みと呼べる連中ぐらいだろう。
大抵は一瞬で袋叩きにできるはずだ。
しかし――。
エミリアは、まるで舞踏会の始まりを待つ姫君のように、
両手を軽く広げて見せた。
「いつでもどうぞ?」
首を傾げ、微笑んだ。
「舐めてんじゃねえぞガキが!」
グロスは地を蹴った。凄まじい踏み込み。岩を割る勢いで大剣が唸る。
「合わせろ、ジャワル! サーラ、ドルガンもだ!」
呼応するようにジャワルも滑るような足運びで間合いを詰める。
風の音が消える。気配が消える。
「全く・・・これだから男は」
サーラは皮肉げに唇を歪め、光の矢を三連射。着弾した岩肌が、爆ぜた。さらにサーラは矢を射ると同時に魔術で水球を複数生み出し、その水球が高速回転し刃となって放たれる。
今までの帝国兵とは一線を画す猛攻だった、しかし
エミリアは髪をふわりと揺らし――
その全てを紙一重でかわした。
髪束が幾つにも分岐し、槍と化して二人に突き出される。
金属をも切断する鋭さを持っているそれをグロスは剣を叩きつけて受け流し、ジャワルは舞うような歩法で紙一重に避けた。
爆ぜる矢。
切り裂く水刃。
振るわれる大剣。
跳ねる拳。
その後方で――。
「・・・いやいや、なんで呪術が効かねえんだよ」
ドルガンは顔を引きつらせ、金糸を握る手を震わせた。
紫色の靄が、エミリアの体表でうごめいている。
本来なら精神も肉体も削られ、立つことも困難になり、そして最後には衰弱死するはずなのに少女には全く効いている様子がない。
「俺、これでもそれなりの腕なんだけど・・・?」
乾いた笑いと共に、呟く。
呪符が黒く染まり、骨董の魔道具が軋む。
呪殺発動の兆候――だが。
エミリアは髪についた靄を、埃のように払い落とした。髪の毛についた靄は霧散して消えてなくなりエミリアに纏わりついていたはずの紫の靄は掻き消えてしまった。
「なーんで呪殺できないんだよ・・・ほんとに人間?」
ドルガンは引きつった顔で、より深く警戒心を募らせた。今まで人間に対して呪術を使った際はほぼ間違いなく死ぬか、もしくはかなり衰弱していた。だが今回は衰弱はおろか影響すら出ていなかった。ただ紫の靄がまとわりついてそれを鬱陶しそうに払っただけに終わったのだ。
「まあ呪殺だなんて、怖いですわ」
エミリアは口元に手を添え、まるで求婚を断る令嬢のように笑った。
「レディにそんな恐ろしいことをなさるなんて―― あなた、女性との接し方を一から学び直した方がよろしいのではなくて?」
クスクス、と喉を鳴らす笑い声。その余裕が、兵士たちの神経を逆なでしていく。
ドルガンは舌打ちを堪え、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「あーもう・・・調子乗りやがって」
「こっちを忘れてんじゃねえぞ金髪女ァ!」
グロスが地を蹴り、巨体が跳ねた。地面がめり込む。
「フッ!」
ジャワルは風を裂く足音すら残さず迫る。
間髪入れず、大剣と拳がエミリアを挟撃した。
少女は軽やかに後方へ跳び退き、刃を髪の毛一筋の差で避ける。
直後、矢の弾幕が音を置き去りにして飛んだ。
エミリアは一房の髪を盾のように束ね、前に突き出す。
「――ッ」
矢が触れた瞬間、爆炎と衝撃が渓谷に反響した。ゴウッという爆風が周囲に吹き抜け、エミリアが張った髪の防壁が壊れた。焦げ、千切れ、宙に散った金の髪。
エミリアは落ちた髪束を冷たい目で見下ろしながら、わずかに息を吐く。
(――このままでは埒が明きませんわね。 こうしている間にもフィオナは・・・)
胸の内で思い描くのは、愛しく愛しい、ウサ耳の少女。
(ああ・・・面倒だこと。フィオナとの約束がなければ、こんな害虫、すぐに潰して駆けつけますのに)
(待っててねフィオナ・・・すぐ終わらせて行くからね♡)
エミリアはうっとりと目を細めた。瞳の奥に、陶酔の光。頬がわずかに紅潮させながら完全にトリップして先ほどまで戦っていた相手を完全に無視していた。
「油断してんじゃねえええッ!!」
再びグロスが大剣を振り上げた。斜めに叩き下ろされるその巨刃は、先ほどより速い。自分を無視して一人妄想に浸ってうっとりしている相手にイラっとしたグロスが隙をつこうとした。
だが、エミリアの視線がすっと剣へ向き―― 次の瞬間、空気が凍る。
「・・・せっかくいい気分でしたのに」
足音が消え、風が止む。
エミリアの瞳から、薄い硝子を擦り合わせるような殺気が溢れ出した。
「ぶち殺されたいのですか、犬っころ?」
その声音は低く、澄んだ音色だったが、フィオナへの想いに浸っていたのを邪魔され物騒なことを口走っていた。グロスの背筋が凍りつき全身の毛が一斉に逆立つ。息がつまるような威圧感に本能が警鐘を鳴らしていた。
――目の前の少女は こちらを殺さないようにするために手加減しているだけで、やろうと思えば一瞬でこちらを殺せる。相手にしてはいけない。“生き物として関わってはいけない存在だ”と。
殺気の放射と同時、しなだれた金髪が一瞬、硬質な光を帯びた。
次の瞬間――その髪束は拳の形へと変わっていった。先ほどまで艶やかな絹のような髪だったのが硬質な拳へと変貌していたのだ。空中に無数の腕が浮かんでいるかのように金色の髪が浮かび拳となっている異様な光景にグロスはほとんど本能による反射でその場から引こうとした。だが――
ドッ、ボガッ、メリッ、バキィッ!!
反撃の暇など与えず、数十の拳が連打となってグロスを襲った。大剣ごと腕が弾かれ、腹部が陥没し、地面へ叩き伏せられる。ボコボコに殴り倒されたグロスの巨体が土埃を上げて沈黙した。
「まずは――一匹」
エミリアが呟くと影が揺れた。
次の瞬間、エミリアの姿は掻き消える。
「っ!?はや――」
サーラの背後に、いつの間にかその影が立っていた。息を呑む暇もなく、金髪が蛇のように揺れる。
反射で弓を投げ捨て、サーラは腰のナイフに持ち替え振り返りざまに斬りつける。その動きは洗練されており、並みの兵士では反応するのも難しいものだが
ギィンッ!
ナイフは金髪に受け止められ、動きを拘束される。金色の髪が絡みついたナイフを何とか引き抜こうとするがビクともせず、すぐにその場から離れようとするがその時には両手両足に髪が絡みついて動きを封じられ、同時に、鳩尾に髪拳がめり込んだ。
「――ッっ、が・・・ッ」
肺の空気が一気に絞り出され、サーラは崩れ落ちる。
「二匹――。」
淡々と処理していくように呟くエミリアにドルガンが慄いていた。なんなんだこれは?
「うっそだろ・・・二人もやられた!?」
震える声が闇に響く。
「次はあなたの番でしてよ? 呪術師さん」
耳元で囁かれた声に、ドルガンの体が跳ね、反射的に呪符と髪束を掴むと相手の意識を乗っ取る呪術を発動させた。
エミリアの髪を媒介に、直接精神へ侵入する呪術。普段なら抵抗する間もなく意識は奪える。
だが――
「・・・な、ん・・・で・・・?」
呪術が発動しない。―否、発動しているのに効果がない。呪術の効果がエミリアの服や髪に靄のように纏わりついているだけで、直ぐに払い落とされて霧散してしまった。
「なんでだ・・・なんで俺の呪術が効かないんだ!!?」
喉の奥で、エミリアが堪えきれない笑いを漏らした。
ククッ・・・クククッ・・・
顔を傾け、可憐に微笑む。
「私の髪を媒介に呪うなんて――そもそも間違いですのよ」
金の瞳がゆらりと妖しく揺らぐ。
「あなたの呪術、効いていないんじゃなくて・・・」
一歩、近づく。
「効く“相手そのもの”を――間違えてらっしゃるの」
足音が、一歩、また一歩と迫るたび、ドルガンの背筋がざわりと粟立つ。先ほどから呪術が全く効いていなかったことから薄々脳裏に浮かんではいたが認めたくはなかった結論に辿り着いたドルガン。
(人・・・間じゃ・・・ねぇ?)
震える唇がその答えを吐き出した。
「お前・・・人間じゃないってことか・・・嘘、だろ・・・」
エミリアは満足げに目を細め、口を三日月型にして笑った。
「よくできました。ご褒美です」
その瞬間、ドルガンの視界がぐにゃりと歪む。
色彩が崩れ、音が遠ざかり、膝が砕けた。
意識が闇に呑まれる直前――
エミリアの笑みだけが残像のように焼き付いた。
「三匹・・・あと一匹」
エミリアは拳についた血を払うようにひらりと振り、ゆっくりとジャワルの方へ身体を向けた。風もないのに、金色の長髪がざわり、と蠢き、生き物のように幾条もの束へと分かれて漂い始める。
足音はほとんどしない。一歩ごとに重心が滑るように移動し、地面との摩擦音さえ希薄だった。
「・・・まさか、これほどまでとは」
ジャワルは片眉を上げ、目を細める。その視線は興奮と警戒が入り混じった鋼の光を宿していた。
「直感で強いと感じてはいたが・・・いやはや三人を倒してしまうか」
額の汗を拭いもせず、低く呟く。サーラ、ドルガン、そして巨漢のグロウ。それぞれがかつて帝国の各都市で名を馳せた実力者で、その強さはジャワルも知っている。
その三人が、ものの数分で地面に伏しているという現実にとても驚いていた。
「貴殿は何者なのだ?これほどの実力を持つものがこのレーンブルグ領にいるのなら、名が知れているはずなのだが」
半身に体を捻り、両脚は深く踏みしめて低い構え。
風圧だけで岩を砕くと噂される一族相伝の技。
打ち込む瞬間、脚の踏み込みで大地を震わせることから震脚などどあだ名されているジャワルだったが、そんな異名をつけられたところで本国の将軍のような次元の違う化け物じみた強さは持っていないし、そして目の前にいる少女にも意味をなさない。
その証拠に、エミリアはただ微笑んだだけ。
目元すら変わらず、その笑みは柔らかいが、底が見えない。いったいどれほどの実力を隠しているのか計り知れないのだ。
「教えるつもりはないと。それもいいでしょう」
ジャワルは唇を濡らし、ゆっくりと息を吐いた。
空気が震える。
目の前の女は人間ではない――直感がそう叫び続けていた。
「私としても、貴殿ほどのものと相まみえることはなかなかない。存分に付き合ってもらおうぞ!」
瞬間、大地が抉れた。
ジャワルの体は地を蹴ると、視界から掻き消えるほどの速度で一直線に迫る。
エミリアの髪の束が反射的に鞭のように伸びるが――
すべて空を打つ。
紙一重で躱し、同時にジャワルの拳がエミリアの腕にめり込んだ。
衝撃が骨を軋ませる。
咄嗟に腕を交差して防御するも、数瞬遅れて体全体に重い衝撃が走り、そのまま吹き飛ばされる。
背後の地面が抉れ、連続する衝突音。
「っ・・・!」
体勢を立て直した瞬間、今度は頭部に回し蹴り。
脚が空気を裂いてぶつかった衝撃で、視界が一瞬白く染まる。
エミリアの身体は弾丸のごとく吹っ飛び、大岩へ叩きつけられる。
ドンッ!!!!
遅れて岩が砕け、破片が雨のように落ちた。
土煙が立ちこめて視界が遮られる。普通の人間だったなら死んでもいてもおかしくない、たとえ無事だったとしても全身の骨という骨が砕けて動くことすらできないほどの深手を負っていてもおかしくない。だが―
その煙の奥――
ゆらり、と異様なシルエットが揺れる。
砕け散った岩の破片の中から、金色の髪をひるがえしエミリアが立ち上がった。
服についた埃を払うしぐさは優雅。
だが、その瞳は先ほどまでの柔らかさが嘘のように消え、深い闇に沈んでいた。それもそのはず完全に無傷ではなかった。顔の左側、瞳から頬にかけてヒビが入っていた。さながら壊れた人形の如く。
「これは手強いですわ・・・」
唇の端だけが持ち上がる。
髪が再びざわめき、まるで千本の腕が伸びる前のように波打った。
「こちらも少し、“人形らしく”やらねば・・・壊されてしまいますわね」
その言葉に含まれる意味をジャワルは悟る。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
エミリアの長い、あまりにも長い金色の髪が、ずるり、ずるりと地面を這いながら彼女の背へと戻っていく。
砂利を引きずる音、布を撫でるような微かな摩擦音。
それらすべてが吸い込まれるように静まり、髪は腰の辺りでぴたりと収束した。
次の瞬間――
エミリアはまるで舞台の中央に立つ演者のように、優雅に一礼した。
血と粉塵に満ちた戦場にはあまりにも場違いな所作。
だが、ジャワルは悟る。
これは嘲弄ではない。切り替えの合図だ。
(来る――)
踏み込みと同時に、空気が裂けた。
地面を蹴った衝撃音が遅れて聞こえる。移動速度が更に加速して動く姿がブレる程で、視界に捉えた時には、もう間合いの内側。
ジャワルも反応する。
腰を落とし、肩を沈め、体幹を捻って迎撃姿勢へ。
エミリアの拳が突き出された。
――拳闘士から見れば、拙い。
踏み込みも、肩の使い方も、拳の軌道も素人同然。
本来なら、当たるはずがない。
だが。
「ッ!!」
ジャワルは反射的に横へ跳んだ。
避けたのではない。避けさせられた。
エミリアの拳が――飛んだ。
肘の関節から先が、あり得ない形で外れ、内部から金色の髪が筋繊維のように伸びる。
骨格を模した“構造”が露わになり、拳そのものが推進力を得て射出されたのだ。
ロケットパンチ。
だが、比喩ではない。
飛翔した拳は、さらに――直角に曲がった。
ジャワルの死角を抉るように再加速し、再度迫る。
「チィッ!」
反応は神速。
拳を叩きつけ、軌道を打ち落とす。
ガチッ、と乾いた音と共に、拳は引き戻され、何事もなかったかのようにエミリアの腕へ接続された。
――その一瞬。
ジャワルが踏み込む。
距離ゼロ。
近接戦闘の間合い。
エミリアは金色の髪を瞬時に展開し、盾のように拳を受け止める。
衝撃が髪を通じて分散され、地面に細かな亀裂が走る。
返す刀――いや、返す脚。
鋭い蹴り。
だがジャワルは躱す。
そのままエミリアの背後へ。
(獲った)
拳を振り抜こうとした、その瞬間。
カラッ・・・
擦れる音と共に、エミリアの首が180度回転した。人体の可動域を無視した動き。
そして、そのまま――噛みつく。
歯が拳を捕えた。
万力のような咬合力。
拳が軋み、骨が悲鳴を上げる。
「くっ・・・!」
引き抜こうとするが、びくともしない。
「かくなる上はッ!」
即座に判断を切り替え、空いている拳でアッパーカット。
顎を打ち抜かれ、エミリアの身体が空へと打ち上げられる。
だが。
空中で、くるり、と回転。
まるで糸に吊られた人形のように姿勢を正し、ふわりと音もなく着地すると、そのまま駆け出す。
今度は乱打だった。
髪で形成した拳が左右から叩きつけられ、同時に本来の拳が打ち込まれる。
膝、蹴り、肘――人形とは思えぬ、徹底した殺しの連撃。
ジャワルも応戦する。
防ぎ、受け、躱し、打ち返す。
数分が過ぎ、さらに数十分。
ジャワル呼吸が荒くなり、動きが削られていく。徐々に息が上がっていくジャワルはそこでようやく違和感に気がついた。自分はどんどん疲労が溜まって言っているのに相手は全く疲れた様子がないのだ。まるで拾うその者が存在しないかのように。
(まさかとは思ったが、どうやら本当に人間じゃないようだ。というよりも生物ですらないだろうなコレは)
明らかに自分では手に余る相手だったが現状まともに戦えるのは自分しかいないためただただ必死に防ぐしかなかった。そんな拮抗したした状態もそう長くは続くわけもなく
そして――
均衡が、崩れた。
エミリアの拳が、わずかに速く、深く入った。
鳩尾。
身体が折れ、一瞬よろめく。
その瞬間を、エミリアは逃さない。
金色の髪が蛇のように絡みつき、四肢を拘束。
動きを完全に封じる。
「――終わりですわ」
次の瞬間、嵐。
拳、拳、拳、拳。
何十、何百という打撃が、時間を圧縮したかのように叩き込まれる。
音は一つに溶け、地面が揺れる。
やがて、ジャワルの身体は力なく崩れ落ちた。
沈黙。
エミリアは倒れた男を一瞥し――
興味を失った。
髪を元に戻し、服の乱れを整えると、もう背を向けている。
「ああ、フィオナ。今そっちに行くからね・・・」
一気に駆け出していったエミリアの後ろ姿を見ながらジャワルはこれはまいったなと愚痴をこぼした。
―――――
エミリアが帝国の精鋭四人を相手取っている、まさにその頃。
帝国兵本隊の中心――指揮官ヴォルグの周囲は、張り詰めた空気に満ちていた。
陣地の中央、簡易ながらも堅固に組まれた指揮区画。
松明の光が揺れ、岩壁と天幕に歪んだ影を落としている。
ヴォルグの周囲には、常に数名の護衛兵が配置されていた。
背後、左右、斜め後方。
死角を作らぬ布陣。
それぞれが歴戦の兵であり、緊張を切らしている者は一人もいない。
――隙など、ない。
・・・はずだった。
「ぐえっ」
喉が潰れるような、短い声。
次の瞬間、右後方の兵士が糸が切れたように崩れ落ちた。
「がっ!」
続けて、左側。
鈍い衝撃音と共に、兵士が前のめりに倒れる。
「な、なんだ!?」
誰かが声を上げた、その直後。
「わっ――」
言葉は最後まで発せられなかった。
護衛兵たちは、悲鳴を上げる暇すらなく、次々と意識を刈り取られていく。
血は出ない。
斬撃もない。
ただ、的確に、静かに、昏倒。
松明が倒れ、火花が散る。
騒然とする陣地の音が、急速に遠のいていく。
――気づけば。
立っているのは、ヴォルグただ一人だった。
周囲には、倒れ伏す護衛兵。
呼吸はあるが、全員が完全に気絶している。
それでも。
ヴォルグは、微動だにしなかった。
呼吸は乱れず、視線も泳がない。
長年、戦場に身を置いてきた者だけが持つ、異常事態への順応力。
「・・・そこにいるんだろう?」
低く、よく通る声。
岩壁の一角へ、鋭い視線を向ける。
「隠れるなら、もう少し気配を抑えろ。
ここまで来て、気配を消しきれないのは――甘い」
沈黙。
だが、その一瞬の“間”を、ヴォルグは逃さなかった。
踏み込み。
腰を捻り、両腕の筋肉をしならせ――
ハルバードが唸りを上げて振り下ろされる。
空気を裂く重い風圧。
岩壁に叩きつけられれば、石ごと両断しかねない一撃。
次の瞬間。
「ぎゃああ!? こっわ!!」
甲高い悲鳴が響いた。
ハルバードが地面に食い込み、火花が散る。
そのすぐ脇――ほんの紙一枚分の距離で、影が転がり出る。
「真っ二つになるかと思った! ギリギリセーフ! ほんとギリギリ!」
そこにいたのは、ウサ耳の少女だった。
その少女は、どう見ても戦場の異物だった。
闇に照らし出された姿は、ふんわりと淡いオレンジ色のロングヘア。
同じ色合いのうさ耳が頭上に揺れ、毛先に向かってわずかに茶色を帯びている。
フリルとリボンを幾重にもあしらったクラシカルなワンピースは、夜風に揺れるたび柔らかな影を落とし、まるで街の散歩道から迷い込んだお嬢様のようだった。
手にしているのは短剣一本。
細身で、装飾もなく、刃の輝きも控えめ。
鎧も魔道具も見当たらない。
――貧弱。
たとえ冒険者だったとしてもそう評するほかない姿だった。
ヴォルグは鼻で笑う。
「お前・・・何者だ?」
ハルバードの柄を握り直し、刃先を少女へ向ける。
圧し潰すような視線。
「今すぐ吐け。 そうすれば――苦しまずに逝かせてやる」
少女は一瞬だけ、息を飲んだ。
だがすぐに背筋を伸ばし、短剣を逆手に構える。
「・・・死ぬのは、嫌です!」
声は震えている。
それでも、目は逸らさない。
「でも、このレーンブルグ領を侵略されるのを、黙って見過ごすこともできません!
ですから――あなたは、ここで倒されてください!」
一拍の沈黙。
そして、ヴォルグは嗤った。
「・・・は?」
低く、乾いた笑い。
「何を言ってるんだ、このガキは」
呆れとも苛立ちともつかぬ息を吐き、肩をすくめる。
「ああもういい。面倒だ。 ここで――潰れてろ」
次の瞬間。
ヴォルグは地面に突き立てていたハルバードを引き抜き、体重を乗せて横薙ぎに振るった。
空気が裂ける。
重く、鋭い一撃。
だが。
フィオナは、ひらりと身を翻した。
刃が通った場所には、風とワンピースの裾が揺れただけ。
「――ちっ」
ヴォルグは即座に二撃、三撃と続けて振り下ろす。
叩き潰すような斬撃。
並の兵なら一太刀で終わる威力。
しかしフィオナは、跳ねるように、滑るようにそれを躱していく。
まるで踊っているかのような足運び。
「どうした!」
苛立ちを含んだ声が響く。
「避けてるだけじゃ、俺は倒せねぇぞ!」
ヴォルグはさらに踏み込んだ。
距離を詰め、間合いを殺す。
今度はハルバードの穂先を前に突き出し、連続した突きを繰り出す。
一直線の殺意。
フィオナは咄嗟に横へ飛ぶ。
その瞬間――
ヴォルグの口元が、わずかに歪んだ。
(――読んだ)
突き出したハルバードを、そのまま捻る。
穂先を横に向け、斧の部分で薙ぎ払うように振り抜いた。
突きを避けた直後の追撃。
逃げ場は、ない。
重い斧刃が、フィオナへ迫る。
――直撃。
そう思われた、まさにその瞬間。
「・・・ッなに!?」
ヴォルグの目が見開かれた。
ハルバードが届いた先で、
フィオナの姿が、ぐにゃりと歪んだ。
まるで陽炎。
あるいは、煙。
少女の輪郭が揺らぎ、霧のように散って――消えた。
刃は、何もない空間を切り裂くだけ。
風だけが残り、ワンピースの裾も、うさ耳も、そこには存在しなかった。
「・・・幻影、だと?」
ヴォルグは一歩踏み込み、周囲を睨る。
「ちっ……幻影魔術か?」
ヴォルグは舌打ち一つ、地面にめり込んだハルバードを軽く引き抜き、半身に構え直した。
重心は低く、呼吸は乱れていない。周囲の岩場、土煙、僅かな空気の流れ――そのすべてに鋭い視線を走らせる。
一方その頃、少し離れた岩陰。
砕けた岩の裏側に身を伏せるようにして、フィオナは必死に息を殺していた。
「・・・はぁ・・・はぁ・・・」
胸が上下し、喉の奥がひりつく。
淡いオレンジの長い髪は戦いの最中に乱れ、ふわりとしたワンピースもところどころ土に汚れていた。
それでも、うさ耳だけはぴくりと動き、敵の気配を逃すまいと張りつめている。
(強い・・・ほんとに、強すぎるよ・・・・)
冷や汗がこめかみを伝う。
あれほどの膂力と技量を持つ相手だとは、聞いていなかった。
「さて、どうしようかな。エミリアちゃんに無理言って別行動した手前先に倒さないと何言われるか・・・ここまで強いなんて聞いてないよ! あーもう、意地張らないでエミリアちゃんが向こうを片付けるのを待つべきかな?」
迷いが一瞬、心をよぎった、その時だった。
「――そんな暇、あると思ってるのか?」
背後から、低く、重い声。
「ッ!!」
反射的にフィオナは地面を蹴り、横へ跳んだ。
直後、彼女が身を潜めていた岩が――
ズドンッ!!
一撃で、真っ二つに叩き割られた。
粉々になった岩片が飛び散り、衝撃波が空気を震わせる。
「そっちから仕掛けてきやがったくせに・・・かくれんぼとは、いい度胸だな!」
割れた岩の向こうから躍り出たヴォルグ。
両手で構えたハルバードが、獣の牙のように鈍く光る。
次の瞬間。
ガキンッ!
バキッ!
ドガンッ!
容赦のない猛攻。横薙ぎ、叩き下ろし、突き――一撃一撃が致命傷になり得る重さと速さだった。
「くっ・・・!」
フィオナは必死に回避する。
軽やかな身のこなしで紙一重を抜け、どうしても避けきれない攻撃は短剣で角度を逸らす。
しかし、
衝撃は短剣越しでも腕に突き抜け、骨が軋む。
(ダメ・・・反撃する余裕が、ない・・・!)
完全に防戦一方。
一歩でも判断を誤れば、その瞬間に終わる。
「おらぁ!!」
気迫とともに振り下ろされた一撃。
「しまっ――」
短剣で受けた瞬間、
圧倒的な膂力がそのまま伝わり、フィオナの身体が宙を舞った。
ゴンッ!!
背中から岩肌に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出される。
「・・・っ、げほ・・・!」
視界が一瞬、白く弾けた。
その光景を見て、
ヴォルグは勝利を確信したように鼻で笑う。
ハルバードを肩に担ぎ、ゆっくりと近づく。
「楽しい狩りだったぜ、ウサギちゃんよォ」
血の滲む口元を歪め、見下ろすように言い放つ。
「もう少し強けりゃ、俺と戦えただろうに。哀れだな」
「ま、来世に期待して――死んどけや」
大きく振りかぶられたハルバード。空気が裂ける音を立て、フィオナへと振り下ろされる。
――だが。
「・・・な・・・んだ・・・?」
その刃は、
フィオナを捉えなかった。
ヴォルグの視界が、突如としてぐにゃりと歪む。
焦点が合わず、狙いがずれ、ハルバードは彼女の横の岩を粉砕して地面にめり込んだ。
ズズ・・・と土煙が舞う。
「・・・っ!?」
異変は、それだけでは終わらない。
頭が重い。
視界が霞み、世界が妙に遠い。
「・・・く・・・」
足元が覚束ず、
ヴォルグは思わず、地面にめり込んだハルバードに掴まって体を支えた。
「・・・テメェ・・・なにしやがった・・・」
声に、明らかな焦りが混じる。
その少し離れた場所。
先ほどまで倒れていたはずの場所とは別の位置に、フィオナが立っていた。
口元から血を流し、肩で息をしながらも、
その赤い瞳は、はっきりとヴォルグを捉えている。
「さっき消えたのは・・・幻影魔術じゃありませんよ」
そう言って、短剣を構え直す。
「カルブンクロ族相伝《影楼》」
「影と同化して視認を断つ、隠密技能です」
そして、静かに告げた。
「それから――これは、同じく相伝技」
フィオナの周囲、目には見えない淡い魔力が、空気に溶け込んでいく。
「《睡晶》」
「空気中に、睡眠作用のある魔力を散布しました。 ・・・そのまま、大人しく――落ちてください」
ヴォルグの視界が、完全に暗転しかける。
(・・・チッ・・・)
歯を食いしばりながらも、
その身体は、抗いきれない眠気に沈み始めていた。
戦場に似つかわしくない小さなウサ耳の少女は、
静かに、しかし確かに――
帝国の指揮官を追い詰めていた。
フィオナは地面を蹴った。
それは逃走でも、様子見でもない――明確な“攻め”だった。
短剣が閃く。
同時に、しなやかな身体が低く沈み、回転し、踏み込む。
「――ッ!」
短剣による斬撃だけではない。
接近した瞬間、膝が鳩尾を狙い、肘が脇腹を打ち、体勢を崩せば踵が頭上から叩き落とされる。
小柄な身体から繰り出されるとは思えない、間断なき連撃。
ガキィンッ!!
ヴォルグは反射的にハルバードで受け止める。
刃と柄で受け、払い、叩き落とす。
一撃一撃は確かに軽い。だが――
(・・・止まらねぇ)
次の瞬間にはもう別の角度。短剣が弾かれても、拳が飛ぶ。拳を受ければ、足が来る。
「ちっ・・・!」
完全に、形成は逆転していた。
(くそ・・・このままじゃ、マズい!)
理屈では分かっている。
フィオナの一撃一撃は致命傷にならない。
だが“防ぎ続ける”という状況そのものが、ヴォルグを削っていた。
睡晶による眠気。視界の揺らぎ。そして――集中力の低下。ヴォルグ自身にこの症状を解消する術がないためこの状態で倒さなければならなかった。焦りが、動きを荒くする。
「おおおぉぉッ!!」
苛立ちのまま、ヴォルグはハルバードを振り回した。
横薙ぎ、叩き下ろし、力任せの連撃。
周囲の岩が砕け、土煙が舞う。
だが――
「カルブンクロ族相伝《脱兎》!」
その振り下ろされた刃の“横”を、
フィオナがすり抜けると一気に加速した。今までの動きとは比較にならないほどの速さで姿がブレる程の速さで動いたフィオナを集中力の低下したヴォルグは捉えることが出来なかった。
「なっ――」
気づいた時には、
フィオナはヴォルグの“真後ろ”におり、その手に持っている短剣が音もなく突き出されていた。
狙いは――首筋。
「――ッ!!」
ヴォルグは本能で身を捻った。
致命の一撃は避けた――が、
シュッ・・・
刃先が、首筋を掠めた。
「・・・っ」
わずかな痛み。
だが、赤い線が走り、血が一筋、首元を伝って滴り落ちる。
「・・・惜しかったな」
ヴォルグは荒い息のまま、強がるように言った。
「あと数舜・・・速けりゃ、俺を殺せたろうに」
だが――
「いいえ」
フィオナは、はっきりと言い切った。
「私の、勝ちです」
「・・・なにを――」
言葉の途中で、ヴォルグは異変を感じた。力が、抜けていく。
手が痺れ、感覚が鈍り、力が徐々に抜けていったのだ。必死に手から落ちないようにハルバードを握りしめるが、徐々に指の感覚がなくなっていき、ハルバードを握る指が思うように動かない。
ガシャン――
金属音を立てて、ハルバードが地面に落ちた。
「・・・な・・・にを・・・」
膝が震え、視界が暗む。
冷や汗が噴き出し、全身が小刻みに痙攣する。
フィオナは短剣を構えたまま、静かに告げた。
「カルブンクロ族相伝――《痺刃》」
「刃に、微量の麻痺魔力を乗せています」
「掠めただけでも・・・十分動けなくなります」
ついに、ヴォルグは立っていられなくなった。
ドサッ――
重い音を立てて膝をつき、そのまま、地面に倒れ伏す。立ち上がるどころか指一本動かすことが出来なくなっているその事実にヴォルグはただただ驚愕していた。
(・・・馬鹿な・・・)
最初は、ただの子どもだと思っていた。
軽く捻り潰せる存在だと。
だが、実際戦ってみてどうか?油断していたとはいえこうもあっさり自分が手玉に取られてしまった。
その“事実”を今になって突きつけられ、ヴォルグは歯を食いしばる。
「・・・まだ・・・だ・・・ まだ・・・終わってねぇ・・・! 俺は・・・帝国の――」
「・・・いいえ」
その言葉を、静かに遮る声。
気づけば、
フィオナはヴォルグの上に馬乗りになっていた。
短剣の切っ先が、
再びその首筋に触れる。
「これで、終わりです」
「・・・クソ・・・」
逃げ場はない。
ヴォルグは悔しさを滲ませながら、フィオナを睨みつけた。
「ただの・・・ガキかと思っていたのに・・・。 お前・・・何者だ・・・?」
「ただの冒険者ですよ?」
微笑みすら浮かべず、淡々と。
「・・・お前みたいな・・・ただの冒険者が・・・いてたまるか・・・」
力の抜けた声で、ヴォルグは呟く。
「・・・次は・・・負け・・・ね・・・」
その言葉を最後に、彼の身体から完全に力が抜けた。
短剣を構えたまま、フィオナはしばらく動けずにいた。
・・・勝った。
確かに、ヴォルグは倒れ、もう動かない。そう理解しているはずなのに、短剣を握る手の震えが止まらないのだ。
カタ、カタ、と金属が微かに鳴る。
「……あ」
自覚した瞬間、堰を切ったように震えが広がった。
指先から、手首、肘、肩へ。膝が笑い、足元の感覚が頼りなくなる。
(・・・あ、やば・・・)
今になって、身体が事態を理解したのだ。
ほんの少し判断を誤れば死んでいた。一撃でもまともに受けていれば、今ここに自分はいない。今回は相手が油断してくれていたから、そしてカルブンクロ相伝の技を相手が知らず、見事に嵌ったおかげて倒すことが出来た。相手が油断していなかったら、カルブンクロの技を知っていたら。やられていたのは自分の方だった。
喉がひくりと鳴る。
息が浅く、速くなる。
「・・・ふぅ・・・ふぅ・・・」
深呼吸しようとしても、うまくいかない。
胸の奥に残った恐怖が、じわじわと浮かび上がってくる。
――ああ、そっか。私怖かったんだ・・・
「・・・エミリアちゃん・・・」
思わず、誰にも聞かれない声で名前を呼んでいた。
だが、ここで座り込むわけにはいかない。
フィオナは短剣を鞘に戻し、震える足に力を入れる。
「・・・よし・・・」
小さく息を吐き、
ゆっくりと、慎重に立ち上がった。
周囲を見渡す。
倒れ伏すヴォルグ。
気絶している護衛の兵士たち。
戦場にはもう、動く影はない。
その少し奥――
簡素だが作りのしっかりした天幕が張られている。
「・・・あれ、指揮官用、だよね」
おそらく、ヴォルグの天幕。
フィオナは警戒しながら近づき、そっと中を覗いた。
中には木製のイスとテーブル。
その上に、無造作に置かれた紙の束が目に入る。
「・・・これって・・・」
手に取ると、作戦図らしきものや部隊配置、補給の記録。
帝国軍の資料であることは一目で分かった。
「・・・う~ん」
少し考え、頷く。
「とりあえず、回収だね」
紙束を丁寧に畳み、懐にしまう。
他にも何かないか天幕の中を見回すが、武器や貴重品らしきものは見当たらない。
「・・・うん、これくらいかな」
用は済んだ。
フィオナは天幕を出た。
その瞬間――
「フィィイイイイイイイオオオオオオオオオオオオナァアアアアアアアアア!!!!!」
遠くから、異様な声が響いた。
「・・・え?」
振り返るより先に、耳がやられる。
名前が、伸びる。
近づくにつれて、音程が上がり、音量が増す。
まるで空気を引き裂きながら突進してくるかのような――
完全にドップラー効果付きの絶叫。
金色の閃光が、地平線の向こうから一直線に迫ってくる。
(・・・エミリアちゃんだ)
次の瞬間には、もう目の前だった。
「フィオナァアアアアアアアアア!!」
地面を蹴り砕かんばかりの勢いで急停止したエミリアは、
そのままフィオナの肩をがっしり掴む。
「大丈夫!?ねえ大丈夫!?怪我してない!?血は!?折れてない!?内臓は!?精神的ダメージは!?疲労度は!?!」
矢継ぎ早に質問を浴びせながら、
両手でフィオナの腕、肩、背中、腰、脚――と、容赦なく触診を始める。
「わっ、ちょ、エミリアちゃん!?」
「じっとしてて!!」
完全に聞く耳を持たない。
「ここ痛くない!?ここは!?あっ、息切れてる!?無理したでしょ!?したよね!?ああやっぱり私がついていれば!!」
「だ、大丈夫だから・・・!」
矢継ぎ早に浴びせられる質問に、フィオナは引きつった笑顔で応じていた。
「だ、大丈夫だよエミリアちゃん。ちゃんと立ってるし、動けるし・・・」
「ほんと!?無理してない!?息苦しくない!?どこか変な感じしない!?ねえ!」
半ば掴まれるように身体を揺すられながら答えていた、その時だった。
――ピタリ。
エミリアの動きが、完全に止まった。
まるで歯車が噛み合ったまま強制停止したかのような、不自然な静止。
次の瞬間、ギギギ・・・と音がしそうなほどぎこちなく、エミリアの首がゆっくりと傾く。
視線は、一点。
フィオナの二の腕――
服の端に滲んだ、ほんのわずかな赤。
「あっ――」
フィオナは、その視線を追ってようやく気づいた。
「・・・あ、これ?」
岩肌に叩きつけられた時に掠っただけの傷。
血ももう止まりかけている、取るに足らないものだ。
だが――
「フィオナ・・・?」
エミリアの声が、裏返った。
「・・・あれ?」
次の瞬間。
「フィオナ!? ああフィオナから血が!! 血がァアアアアアアアア!!!」
絶叫。
周囲の空気が、びりりと震える。
「エミリア、大丈夫だから!ほんと、かすり傷だから!」
「大丈夫じゃないわフィオナッ!! 誰にやられたの・・・?」
声が、低く沈む。
「・・・誰が・・・フィオナに、こんなことを・・・」
フィオナは一瞬、視線を逸らした。
ほんの一瞬だけ、地面に倒れたヴォルグの方を見て――
「・・・あ」
すぐに目を戻したが、遅かった。
エミリアの視線が、一直線にその先を捉える。エミリアの後方に転がっていたヴォルグの方に人間ではあり得ない可動域で首を180度回して後ろを向いたエミリアはその先に転がっているヴォルグを凝視した。
次の瞬間、
エミリアの表情から“人間らしさ”が消えた。
瞳が、硝子のように冷たく硬化する。
口角が引きつり、犬歯がゆっくりと剥き出しになる。身体がギギギと音がしそうな動きで後ろの方を向き、金色の絹のような髪が蠢いて広がり、無数の槍のようになっていた。
「・・・ソイツなのね。そうなのね? そうなんでしょう?」
「・・・その害虫が・・・ フィオナに・・・私の大事な大事なフィオナを・・・傷物にしたの・・・?」
一歩。
また一歩。
地面を踏みしめるたび、殺気が濃くなる。
「――生きてていい理由、ある?ないよね?そう思うよねぇえええ!!」
殺気が爆発する。
「安心して? すぐ終わらせてあげるわ。全身の骨をへし折って臓腑を引きずり出して、粉みじんにして、ぐちゃぐちゃにして、ミンチにしてやるぅうわああああああッ!!! 」
「待って!!」
背後から、フィオナが抱きつく。
「待って!待って! ほんとに待ってエミリア! 殺しちゃダメッ!!」
「・・・どうして? あれはフィオナを壊しかけた“害虫”なのよ?どうして駆除しちゃいけないの?あれは人じゃないのよ? 害虫よ、害虫。 だから人殺しじゃないわ」
「そんなこと言わないで。あなたが人を殺したら、わたしが一番悲しい。 あなたの手が、血に染まって人殺しになるところなんて見たくないの! わたしのために怒ってくれるのは嬉しいよ。でも、ね・・・“わたしのエミリア”は、そんなふうに誰かを壊す子じゃないでしょ?」
抱き寄せながら耳元で囁くように説得するフィオナにエミリアはピクッと動きを止めた。金色の髪の毛がざわざわと蠢き、フゥーフゥーと獣のような獰猛な唸り声を上げながらもフィオナに嫌われたくない。捨てられたくないという理性でぐっと堪えた。
「わかったわ。フィオナが悲しむのは私も嫌 だから我慢するわ・・・私はフィオナの物だもの」
「――おい害虫。命拾いしたわね。 フィオナの恩情に感謝しながら、さっさと消えなさい。」
その声音は、先ほどまでの激情が嘘のように冷え切っていた。
感情を削ぎ落とした氷の刃のような声が、地面すれすれに倒れ伏すヴォルグへと落ちる。
「・・・起きてるのはわかってるのよ」
その一言に応じるように、
先ほどまで完全に気絶していたはずのヴォルグの瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
「・・・あ~・・・」
喉を鳴らし、痛みに顔を歪めながら、視線を彷徨わせる。
散乱する武器、倒れ伏した部下たち。
誰一人、動いていない。
「・・・もしかして・・・もう部隊、全滅しちまったのか?」
乾いた笑い混じりの呟き。
それは現実を認めたくない者の、最後の足掻きだった。
「あなたの部下なら」
エミリアは、わざわざ一歩近づいた。
影がヴォルグの顔に落ちる。
「――私が全部、ぶっ倒したわよ?」
淡々と、誇示するでもなく言い放つ。
その言葉が意味する“絶対的な差”を、ヴォルグは嫌というほど理解した。
「・・・マジかよ・・・」
呻くように息を吐き、
悔しさと困惑が入り混じった視線を、エミリアへ向ける。
「・・・なんなんだよ、そいつ・・・」
その瞬間だった。
エミリアの唇が、ゆっくりと弧を描く。
それは笑みだったが、温度の欠片もない、完全に凍りついた微笑み。
「害虫に」
一拍置き、
視線を見下ろす角度にわずかな侮蔑を滲ませる。
「名乗る名前などありませんわ」
紺碧の瞳が細められ、
そこから濃密な殺気が滲み出す。
空気が軋み、ヴォルグの喉が無意識に鳴った。
「あなたは、何も知らなくてよいのです」
言葉は丁寧。
だが、その裏にあるのは“拒絶”だ。
「――それとも」
髪がざわりと揺れ、無数の刃のように持ち上がる。
「害虫駆除が、必要かしら?」
完全な静止。
逃げ場のない死の予告。
だが――
「エミリアちゃん!」
その名を呼ぶ声が、空気を切り裂いた。
「その人は私が麻痺させたから、多分一歩も動けないし・・・」
フィオナは少し慌てた様子で続ける。
「周りにいる兵士さんたちも、気絶してるから動けないと思う。だからこれ以上は戦わなくていいんだよ!」
その言葉が、
エミリアの殺気に、はっきりとした“終止符”を打った。
ざわついていた金色の髪が、ゆっくりと元の位置へ戻る。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
エミリアは、ふう、と短く息を吐いた。
そして――
ヴォルグにはもう一切の関心を向けず、くるりと踵を返す。
「・・・まったく」
不機嫌そうに呟きながら、次の瞬間、フィオナを軽々と抱き上げた。
「きゃっ――」
驚くフィオナの声が上がるより早く、金色の髪が生き物のように伸び、彼女の身体をやさしく、しかし逃げ場のないほどしっかりと包み込む。
抱きかかえられ、髪に絡め取られ、心音が聞こえそうなくらい近い距離で密着させられる。
まるで――“守る”という名の檻。
エミリアは一度だけ、肩越しに振り返った。
地面に伏したままのヴォルグを、
塵を見るような目で一瞥する。
そこにはもう、殺意すらなかった。
ただ、「処理済み」とでも言うべき無関心。
「・・・もう二度とフィオナの視界に入るな」
小さく吐き捨てると、
そのまま彼女を抱いたまま、足音もなくその場を後にした。
しばらくして――
レーンブルグ領騎士団の先行斥候が、開けた平野部で異変を察知した。
「・・・血の匂いだ」
風に乗って漂ってきた、鉄と土と汗が混じった戦場特有の臭気。即座に合図が上がり、部隊は警戒態勢のまま進軍を続けた。
そして――
「帝国兵多数発見!!」
その報告に、騎士団全体に緊張が走る。剣に手がかかり、魔術師たちは詠唱の準備に入る。
だが、先行していた斥侯がから次の言葉が放たれた瞬間、その緊張は別種の沈黙へと変わった。
「報告!帝国兵・・・ぜ、全滅しております!!」
「・・・なに?」
思わず聞き返したのは、前線指揮官だけではなかった。
領主を含めた指揮官級の騎士たちが、一斉に言葉を失う。
「全滅・・・だと?」
「一体、何があったというのだ」
「まさか・・・魔物か何かが帝国兵を襲ったのか?」
ざわめきが広がる。
「馬鹿な! 相手は帝国軍の正規部隊だぞ!?」
「百人規模の部隊だ。いくら魔物の襲撃を受けたからとて全滅するなど、そうそう――」
「・・・だが、そう考えねば辻褄が合わん。現状この領地でこれだけの部隊を撃破できる戦力が他にあるか?」
「わかりません。しかしながら倒れている帝国兵の様子から魔物の襲撃ではないと判断されます」
「だとしたら、一体、“誰が”やったというだ?」
疑念と困惑を抱えたまま、
騎士団は慎重に、そしてゆっくりと現場へ足を踏み入れた。
――そこは、まさしく戦場跡だった。
地面には無数の大穴が穿たれ、
岩は粉砕され、まるで巨人が踏み荒らしたかのように砕け散っている。
折れ曲がった剣。歪んだ槍。叩き潰された盾。武器という武器が、力任せにへし折られた痕跡を残していた。
そして――
倒れている帝国兵たち。
鎧は歪み、兜はひしゃげ、
全身を強打された痕がありありと残っている。
「・・・これは・・・」
騎士の一人が、息を呑む。
一様に“ボコボコ”にされている。
剣創でも、刺突でもない。
殴打、投擲、叩きつけ――
純粋な暴力で、徹底的に制圧された痕跡。どこからどう見ても普通ではないその光景に本当にこれは人間の仕業なのかと疑いたくなるが、魔物だった場合普通食いちぎられて原型をとどめてはいない。だが目の前に転がっている帝国兵たちはボロボロだが人間の形をとどめてはいた。
しかも――
「ッ! 倒れている帝国兵に・・・まだ息があります!」
倒れている帝国兵の静止を確認した騎士のその声に、空気が張り詰める。
「それは本当か?」
「確認しました! 大半が重傷ですが・・・死亡者は一人もいません!」
その報告に、領主も、歴戦の騎士たちも、再び言葉を失った。
あり得ない。百人規模の帝国正規兵を相手に、一人も殺さず、全てを戦闘不能にする――
それは単なる実力ではない。
圧倒的な制圧力と、明確な意志がなければ不可能だ。
「・・・どういうことだ。何故生かしてそのまま放置しているのだ? 殺せば確実に危険を排除できるというのに。騎士団長。お前はどう考える?」
「ハッ! 帝国兵をここまで一方的に撃破できるだけの実力を持ちながら誰も殺さない所をみるに、これをやったものは不殺を信条にしているのか、あるいは我々がこの者たちを回収して情報を引き出すと考えあえて殺さずに戦闘不能にしたか・・・いずれにせよ今分かっていることは帝国兵と敵対していて、結果的にこの領地を守ったということだけになります」
「一体・・・何者が・・・」
答えは出ない。 ただ、理解不能な“何か”が通り過ぎたという事実だけが、そこに残っていた。
領主は、重く息を吐き、即座に決断を下す。
「・・・詮索は後だ」
その声には、かすかな緊張が滲んでいた。
「帝国兵たちを捕縛し、エーテルハイムへ連行する。 生きているのなら、本人たちの口から聞けばよい」
「はッ!!」
号令とともに、騎士団は動き出す。一人、また一人と帝国兵を拘束していく。抵抗はない。というかまともに抵抗できる状態の帝国兵は誰一人とていなかった。ほとんどすべての兵士が気絶しているか、もしくは立つことすらできないほどの重傷を負っていたからだ。やっていることは捕縛というよりも負傷者の収容だった。
その光景を見下ろしながら、誰もが同じ疑問を胸に抱いていた。
――この惨状を生み出した“存在”は、敵か、味方か。
そして――
もし敵だったなら。
(・・・我々は、あれと敵対できるのか?)
誰も、その問いに答えを出せなかった。
帝国兵から引き出された証言をまとめた書面を前に、
レーンブルグ領主は深く眉根を寄せていた。
「・・・要領を得んな」
机に置かれた羊皮紙には、戦闘の報告とは思えない言葉が並んでいる。
――金色の髪の女の子が突然、髪を伸ばしてきた。
――絡みついて投げ飛ばされた。
――殴られた。引きずられた。
――剣を折られ、鎧を砕かれた。
どれもこれも、現実味に欠ける内容だ。
騎士団が見た惨状と照らし合わせても、にわかには信じがたい。
「髪で・・・投げ飛ばした、だと?」
領主は小さく息を吐いた。
恐怖による誇張、あるいは集団心理の暴走――
そう片付けてしまえば楽だった。
だが、報告は皆、微妙に違いながらも“同じ方向”を指している。誰もかれもが金色のバケモノにやられたと一様に怯え切った様子だった。
「・・・全員が同じ幻を見た、と言うには・・・」
違和感が、胸の奥に引っかかる。
そこで領主は、最後の手段として
敵指揮官への直接尋問を命じた。
拘束された男――
帝国軍指揮官ヴォルグは、傷だらけの体を椅子に預け、
どこか投げやりな表情で尋問に応じた。
「で? 俺がどうやって負けたか、知りたいのか?」
領主が視線で促すと、
ヴォルグは鼻で笑い、肩をすくめる。
「俺はな・・・オレンジ色の髪した、ウサギ女のガキにやられたよ」
あまりにも場違いな言葉に、周囲の騎士がざわめく。
「笑えるだろ?」
ヴォルグは自嘲するように、かすかに口角を上げた。
「最初はな、ただの子どもだと思った。だが気づいた時には、俺は地面に転がってた」
一瞬、目を伏せ――
次に顔を上げた時、その眼には妙な納得が宿っていた。
「・・・で、他の連中が騒いでた金色の髪の“バケモノ少女”だが、・・・ああ、確かにいたぜ。アレは確かにバケモノだな」
騎士の一人が息を呑む。
「髪が、意思を持って動いてた。実際に見てねえんで分からねえが、どうやら俺の部隊を全滅させたらしいぜ。オレンジの髪のウサギのガキに執着していてな、危うくミンチにされるところだったぜ。二度と会いたくねぇな」
ヴォルグはそう言って、肩を竦めた。
「ま、信じるか信じねぇかは、あんた次第だ好きにしてくれや。 だが・・・嘘は言ってねぇ。」
その言葉には、不思議な重みがあった。
尋問を終えた後、
領主は一人、静かに考え込んでいた。
帝国兵の証言。ヴォルグの態度。
そして――現場に残された“殺さずに全滅させる”という異常な結果。
「・・・鵜呑みには出来ん」
ヴォルグの証言はあくまでも本人の言葉だけでそれらを証明する物的証拠は何もない。敵の言葉を100%信じるのは危険だ。そう自分に言い聞かせながらも、なぜか胸の奥で、否定しきれない感覚が渦巻いていた。妙な現実味があったのだ。
「――一体、誰なんだ?」
領主は、今回の帝国侵攻について王都へ正式な報告を行うため、
護衛を伴い馬車に乗り込んでいた。
車輪が石畳を刻む規則正しい音。
窓越しに見えるエーテルハイムの街並みは、数日前に百人規模の帝国兵が侵入していたとは思えないほど、穏やかで、平和そのものだった。
行商人の商売の掛け声。焼き菓子の甘い匂い。笑いながら走り回る子どもたち。
「・・・本当に、同じ場所なのだな」
領主は小さく呟いた。
あの地獄絵図と、この光景が、どうしても結びつかない。もちろん領主としてはそれが望ましいことではあるのだが。 そのときだった。
広場の一角――
ひときわ賑やかな輪に、領主の視線が吸い寄せられた。
子どもたちに囲まれて、
屈託なく笑っている少女と人形のように無表情でいる少女。
一人は、淡いオレンジ色の髪。毛先にかけて少し茶色が混じり、ぴょこんと揺れるウサ耳を持つ少女。子ども達と一緒にこの街で昔から遊ばれているエーテル転がしをしていた。
もう一人は、陽光を溶かしたかのような金色の絹のような長い髪。子どもたちに腕や腰にしがみつかれ、もみくちゃにされても抵抗することなく無表情でその場に座り込んでいた。
――帝国兵たちの証言が、脳裏をよぎる。
オレンジの髪のウサギ女のガキ。
金色の髪のバケモノ少女。
「馬車を止めよ!」
領主の声に、御者が慌てて手綱を引く。
馬車が止まるや否や、領主は外套を翻し地面へ降り立った。隊列を組んでエーテルハイムの外へ向けて進んでいた領主が突然馬車から降りてきて住民は驚いていた。
ざわり、と空気が揺れる。
子どもたちが大人の気配に気づき、
次第に遊びを止めて二人の少女の背後へと下がっていく。
その様子を見て、
オレンジ色の髪の少女――フィオナは、すぐに状況を察した。
「大丈夫だよ」
小さな声で、子どもたちに微笑みかける。怯えた様子の小さな幼子の頭を撫でながら腰を落として同じ視線で微笑みかける。
「ちょっとお話するだけだから。ね?」
その声に、子どもたちの緊張がわずかに解ける。
領主は二人の前に立ち、年若いながらも只者ではない雰囲気を纏う少女たちを、
真正面から見据えた。
「そこの二人」
低く、しかし威圧しすぎぬ声。
「単刀直入に聞きたい」
「お前たちが――帝国兵を撃破した者か?」
鋭い視線。戦場を知る者の眼だった。さて、どう返答しようかとフィオナが思考を巡らせていると後ろから物音が聞こえ、金色の髪の少女が、女の子座りの姿勢からゆっくりと立ち上がった。
風が吹き、
長い金髪が陽光を受けて揺れ、エプロンドレスがなびく。
エミリアは、完璧な所作で領主に向き直り、場違いなほど上品な令嬢の微笑みを浮かべた。
「いいえ。違いますわ」
穏やかで、澄んだ声。
「きっと、何かの間違いではありませんの?」
その笑みには、嘘をついている焦りも、動揺も、微塵もない。領主は、数秒間、言葉を発さずにエミリアの瞳を見つめた。おそらく嘘だ。ほぼ間違いなくこの少女があの帝国兵の部隊を壊滅させたのだろう。 領主として、問うべき疑問は山ほどあった。
なぜ帝国軍を撃破できたのか。
どうやって、一人も殺さずに無力化したのか。
そもそも――お前たちは何者なのか。
髪が風に揺れ、
どこからか花びらが舞い落ちる。
その横で、フィオナはわずかに唇を引き結び、エミリアを見つめていた。
「・・・そうか」
領主は、静かに息を吐いた。
「失礼した。街を救ってくれた者へ、礼を言いたかったのだが・・・ 別人ならば、仕方ない」
深く、深く頭を下げる。目の前の少女が何者か分からないし、何のために帝国兵と戦ったのかもわからないが領地を守ってくれたのは事実。ならば彼女達自身の選択を尊重するべきだろう。それがせめてもの敬意と感謝として。
本当は領地を上げて歓待したいところではあるが、王都への報告も済ませなければならない。領主は溜め息を一つつき踵を返し、馬車へと戻っていく。
馬車に乗り込む直前ピタリと動きを止めた領主が振り返って「一つだけ聞きたい」と前置きをして、
「お前と私はどこかで会ったあったことがあっただろうか?」
その言葉を耳にした瞬間、
エミリアの胸の奥で、何かが小さく、けれど確かに軋んだ。
わずかに見開かれた瞳。呼吸が、一拍だけ遅れる。
――知っている声だった。
何度も聞いた声。叱られた声。褒められた声。夜、廊下の向こうから聞こえてきた、疲れた父の足音。
(・・・お父様)
その名を、心の中で呼んでしまいそうになる。
記憶は、鮮明だった。領主の館の中庭。手を引かれて歩いた回廊。頭を撫でられながら「よくできたな」と言われた日々。
――確かに、私はここにいた。
あなたの娘として。
レーンブルグ領の令嬢として。
だが、その全ては――もう存在しない。
形代の魔女によって人形へと変えられたあの日。
同時に、エミリアという存在そのものが世界から削ぎ落とされた。
名も、記憶も、痕跡も。
領民の誰一人として、
この地に「エミリア」という娘がいたことを覚えてはいない。
・・・それでも。
どこかで会ったことがあったか?
その問いに、胸の奥が熱くなった。
(・・・覚えていないのに)
(それでも、何かが・・・引っかかっているの?)
記憶は失われていても、想いだけが、どこかに残っていたのではないか。
そう思ってしまった。
一瞬――
ほんの一瞬だけ。
――私は、あなたの娘です――
そう告げる光景が、脳裏をよぎる。
だが、すぐにその考えは打ち消された。
(・・・いいえ。 それは、もう“過去”の私)
この領地の令嬢だったのは、遠い昔の話。
今の私は、誰の娘でもない。
私は――
フィオナの所有物。
ユノ・ピグマリオンのエミリア。
それでいい。
それで、十分なのだ。
この人が守るべきなのは領地であり、民であり、未来。
そこに、過去の亡霊が割り込む必要はない。
だから、エミリアは口を噤み、
心の奥の揺れを完璧に押し殺した。
そして、
先ほどと何一つ変わらない微笑みを浮かべる。
優雅で、穏やかで、
何も背負っていないかのような笑み。
「いいえ、初めて会いますわ」
領主は、その答えを聞き、
ほんの一瞬だけ、目を伏せた。どこか超常然としたたたずまいの育ちがよさそうな少女。その少女を目にして言葉を交わす内に何故か懐かしい気持ちがこみ上げてきていた。自分はこの少女ととても親しい関係だったのだと。そんなわけないのに何故か自然とそう思えてしまう。
だからこの返答が真実ではないことを彼は気づいていたが、それでも、何も言わなかった。
それ以上踏み込めば、
互いに壊れてしまう何かがあると、本能的に理解していたからだ。おそらく彼女もそれがわかっているからあえて嘘をついたのだ。
「――そうか」
領主はそれだけを残し、彼は馬車へと戻っていく。どこか物悲しい遠ざかる背中を、エミリアは静かに見送った。
(さようなら、お父様)
心の中でだけ、そう呟きながら。
領主が乗った馬車の隊列を見送るエミリアにフィオナは、少しだけ迷うように口を開いた。
「・・・よかったの? 本当のこと・・・言わなくて」
エミリアは、空を見上げた。
どこか遠くを見つめるような視線。そして、少しだけ寂しげな微笑み。
「いいのよ」
柔らかな声。
「私はもう、レーンブルグ領の令嬢ではないわ。 今は――ただの“エミリア”」
フィオナの方を見て、微笑む。
「フィオナの所有物。ユノ・ピグマリオンのエミリア。今はそれだけで、十分満足よ」
「・・・そっか」
フィオナは、それ以上何も言わなかった。エミリアがそう選んだのなら、それを否定するのは野暮だ。
「お姉ちゃん! つづきやろーぜ!」
「もう、待ってたんだから!」
「はいはい、今行くよ!」
フィオナは笑って応え、エミリアの手を引いて、再び輪の中へ戻っていく。
変わらぬ日常。
変わらぬ平和。
だがその中には、
確かに“戦場を終わらせた少女たち”がいた。
それを知る者は、ほんのわずか。
――それでいい。
エーテルハイムの空は、今日もどこまでも、穏やかに晴れていた。
おしまい
お久しぶりです~ 投稿頻度が相変わらずクッソ遅いですがここまで読んでいただきありがとうございます! それではまた来年にお会いしましょう。(*´▽`*)




