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旅人ちゃんの紀行日記  作者: きりん
21/22

アンネの宿屋日誌 ガイレシャーフの求愛

むかーしむかし、あるところに一人の少女がおりました。



 古めかしい宿屋の玄関は、朝の弱い陽光が小さなガラス窓から差し込み、木の床にまだらな光を落としていた。壁に掛けられた年代物のランタンは煤の跡を残し、床板は踏むたびにきしりと小さく鳴く。旅人が行き交ってきた長い歴史が、そこらじゅうに刻み込まれているようだった。


帳簿が置かれたカウンターの前では、狼族の少女アンネが雑巾を動かしていた。灰色の尾がたまにふわりと揺れ、磨き込まれた木の天板に反射する光が輪郭を柔らかく照らす。彼女は手元に集中しているようでありながら、種族特有の敏い感覚は周囲を常に捉えている。


 そしてその証拠のように、背後から聞こえた軽やかな声に、アンネの三角耳はピクリと動いた。


「ねえアンネ、昨日の旅商人の話、聞いた?」


 従業員であり、同じ屋根の下で暮らす友達のミレイユが、カウンターの向こう側から身を乗り出して話しかけていた。柔らかなラベンダー色の髪が、ふわりと波打ちながら背中へと流れる。前髪はふんわりと額を覆い、耳元にかかる髪が女性らしい柔らかさを際立たせていた。


 アンネは拭いていた手を少し止め、ゆっくりと顔を上げる。灰色の耳は声を拾うようにわずかに傾き、気心知れた友の呼びかけに自然と応える準備をしていた。


「・・・また何か変わった噂でも持ち込んだの?」


「いやいや、変な噂話じゃないよ。」


 ミレイユは手をひらひらさせて否定しつつ、少し声を潜めて続けた。


「アンネは《ガイレシャーフ》って言う魔物を知っている?」


「ガイレシャーフ? なにそれ。」


 アンネは耳をぴくりと揺らし、首をかしげる。


 ミレイユは「やっぱり知らないか」という顔で、カウンターに肘をついて説明し始めた。


「ガイレシャーフはね、外見はほとんど羊みたいな魔物なんだけど・・・とにかく毛がすごいの。普通の羊よりふわふわで、光沢があって、そのうえ換毛の周期がものすごく早いんだって。だから、やり方さえ間違えなければ、あっという間に高品質なウールが山ほど取れるらしいよ。」


 アンネの灰色の耳がもう一度ぴん、と跳ねる。


 ミレイユは続けた。


「しかも、そのウールがまた高く売れるんだって。絹みたいに軽くて暖かいから、貴族や大商人がこぞって欲しがるんだとか。最近、周りの村で“ガイレシャーフ牧場”を作らないかって話がちらほら出てるみたい。」


 アンネは雑巾を持った手を止め、少し驚いた声を漏らす。いくら上質なウールが手に入るからと言って魔物を飼育するなんてことできるのだろうか?


「羊みたいな魔物なのに危なくないの?」


「まあ、魔物だから油断はしちゃいけないけど・・・比較的おとなしいほうなんだって。何事もやり方次第で飼育もできるってことなんじゃない? ああでも一つ注意点があるんだって」


「どんな?」


「なんでもガイレシャーフという魔物は若い少女が好きで視界にはいると愛を囁きながら襲ってくるんだって」


「・・・え?」


「あと、注意点とは違うんけど、なんか顔がやたら濃いイケメン顔なんだとか。そんな変な羊みたことないけれどほんとにそんなのがいるんだろうか?」


「なんなのその変態羊・・・」


 ドン引きしているアンネにカラカラと笑いながら話の続きを話すミレイユ。なんでもそのガイレシャーフを扱っている行商人がこの王都リンドヴルムに来ているらしい。せっかくだからそのウールを買ってみないかと提案してきたのだ。


「なんてこと提案してくるのミレイユ」


「でも私達これでも結構・・いやかなり稼いでるじゃない?だから高品質のウールだって買えるとおもうんだよね。それにガイレシャーフは襲い掛かれないように鎖で繋がれているらしいから大丈夫だよ。」


 アンネはあきれたようにため息をついた。


「・・・大丈夫、って。相手は“少女に愛を囁いて襲ってくる魔物”なんでしょ?」


「まあ、そこはほら、行商人さんも商売だから。ちゃんと管理してるって話だし!」


ミレイユは軽い調子で笑うが、アンネはまったく安心できない様子だ。アンネはカウンター越しに店内を見渡した。磨かれた木の床、暖炉の火、整えられた客室の鍵。ここは両親が残した大事な宿——そして今は彼女とミレイユの生活の場。


ふと、目に留まるのは常連客から贈られた古い膝掛け。使い込まれたせいで毛羽立っているし、それに冬に向けて冬用の温かい寝具に交換しなければならないが冬用の寝具も古くなって大分くたびれてきている。そろそろ替え時だ。


(・・・高品質のウールで新しい膝掛けや寝具を作れたら、きっとお客さんもゆっくり休める。宿の評判にも繋がる・・・よね。)


彼女は自分にそう言い聞かせるように、じっと黙り込んで考えた。


「アンネ?」


「・・・はぁ。わかったよ。ウールが本当に良いものなら、宿のためにも見ておくべきだし・・・」


「でしょでしょ!」


「でも!」


アンネは人差し指を立てて釘を刺す。


「近寄らないからね。その・・・変態羊に。」


「もちろん! 見るだけで触らないし、近づかないよ~。愛も囁かれない距離からチェックするだけ! もちろんウールがいい物だったら購入するべきだと思うけど」


ミレイユは調子よく二本指を立てて宣言する。


アンネは苦笑しながらも、内心少し緊張していた。男性恐怖症の自分が果たしてそんな変態羊に近づいても大丈夫なのだろうかと。それでも宿のためと思えば、行かないという選択肢はない。


「・・・じゃあ、身支度してから行こう。さっさと見て、帰ってくるからね。」


「了解! じゃあ私も準備してくる!」


ミレイユは軽やかに階段を駆け上がっていった。


アンネはカウンターにそっと手を置き、深呼吸をひとつ。灰色の耳が小さく揺れる。


(・・・ほんとに大丈夫なんだよね? 鎖、ちゃんと繋がってるんだよね・・・?)






 ―――――






 


 宿屋を出て、王都リンドヴルムの通りをしばらく歩くと、

日常的に賑わう庶民街のバザーが見えてきた。露店の立ち並ぶ路地を抜けると、

中央の噴水広場へと続くひらけた石畳の道が現れる。


 行商人たちは色とりどりの布を敷き、瓶詰めの香辛料や工芸品、焼き菓子や干し肉などを並べ、早くも多くの客でにぎわっていた。

 そのざわめきの奥——人だかりができている場所がひときわ異質だった。


「あ、あそこだよアンネ。ほら、あの大きいの。」


 ミレイユに肩を軽く押され、アンネはそっと視線を向けた。


 そこにいたのは、常識をひっくり返すような光景だった。


 檻の中に閉じ込められた“巨大な羊”。

普通の羊の倍はあろうかという体躯に、淡い青白い光がゆらゆらと漂う――

魔物特有の魔力の輝きだ。


 しかし何より問題なのはその“顔”。


 やたら彫りの深い、どこか外国風の濃いイケメン顔。睫毛は長く、目元だけで無駄にセクシー。常に気取った笑みを浮かべ、檻越しに通る少女たちへ目配せしている。


 そのたびに少女たちは身をすくめ、あるいは悲鳴を上げて逃げ出す。一方、羊——ガイレシャーフは誇らしげに鼻を鳴らし、艶のある声で何事か囁き続けている。


 アンネはガタガタと震え、狼の尻尾を丸めた。


「・・・やっぱり帰りたい・・・」


「大丈夫だよアンネ〜。ほら、鎖も檻もちゃんとあるし!」


ミレイユはへっちゃらな顔をしている。


「いやでもアレ絶対目が合ったらアウトのやつだよ・・・!」


アンネは耳をペタッと伏せた。


「もし怖かったら私が見てくるから!アンネはここで待ってて!」


 ミレイユはひょいっと手を挙げ、

まるで珍しい果物でも見つけたかのような気軽な足取りでガイレシャーフへと近づいていく。


 巨大羊の前では、露店を広げている行商人の猫獣人女性が、

腰に手を当てながら客相手に説明をしていた。

スレンダーな体に、縞模様の尻尾がゆらりと揺れている。


「すみませーん、この羊・・・じゃなくて、ガイレシャーフってやつ、ここで売ってるウールの元なんですよね?」


 ミレイユが声をかけると、猫獣人の女性はぴくりと長い耳を動かし、

商売人らしい柔らかな笑みを向けてきた。


「あら、お嬢さんたちもウールをお探しかしら?

 ええ、この子のウールは最高級よ。見た目は気色悪いけだろうけれどしっかり鎖で繋いであるし、檻も強化魔術入りだから大丈夫。お嬢さんたちくらいの年の子を見ると・・・まあ、こういう感じになるけど、絶対に飛びかかったりはできないから安心してね。」


 そう言いながら、女性は檻をコンコンと叩いた。

するとガイレシャーフは胸を張り、

「紫の髪のお嬢さん・・・可愛いね・・・」と低く甘い声で囁いた。


 ガイレシャーフからの愛の囁きにさすがに若干ドン引きしているミレイユは引きつった笑みを浮かべながら「ほんとに個性的な魔物ですねコレ。何がどう進化したらこうなるんです?」と思ったことを告げ行商人の女性もアハハと呆れた笑みを浮かべながら「ほんとになんでなんでしょうね」と言った。


 ミレイユと猫獣人の行商人が話している間、

アンネはガイレシャーフがなるべく見えない角度に身を隠し、

怯えたように尻尾を縮めていた。


 しかし——その瞬間だった。


 ガイレシャーフの動きがピタリと止まり、青白い光が一瞬だけ強く瞬いた。


 ゆっくり、ゆっくりと、巨大な顔をミレイユと猫獣人の女性行商の奥へ向ける。


 黄金色の瞳がアンネを見つけた。


「・・・・・・」


「え・・・?」


アンネの心臓がドクン、と跳ねた。


 ガイレシャーフの瞳が異様に潤み、次の瞬間、檻の中で前脚をガッと踏み鳴らす。


「オジョウサァァァァン――――――ッ!!」


 聞いたこともないほど濃厚で甘ったるい大声が広場に響く。周囲の客が「うわっ!?」「何あれ!?」と振り返った。


 ガイレシャーフは鎖が食い込むほど首を伸ばし、檻の鉄格子へ頭をゴンッ!!と叩きつけた。


 しかも一度だけではない。連続で、何度も、何度も。


 ガンッ! ガンッ! ガンガガンッ!!


「ちょ、ちょっと待って!? なにこれなにこれ!?」


 行商人の猫獣人女性が慌てた様子で檻の強化魔術の強度を更に上げて壊されないようにするがそれすらも凌駕する力で何度も頭突きをして檻の鉄格子をどんどん変形させていき鉄格子の隙間を広げてる。


「オジョウサンスキスキダイスキ・・ソノカワイイミミモ・・・ソノカワイイシッポモ・・・ソノカワイイヒトミもゼンブゼンブアイシテルゥウウウウウウウッ!!!」


 ガイレシャーフは目を爛々と輝かせながら、鉄格子の隙間に頭をねじ込み首をひねり前脚をバタつかせ、鎖を引きちぎらんばかりに暴れる。だがどれだけ暴れてもその瞳だけはアンネを捉えたまま離さなかった。完全にロックオンされたアンネは身の危険を感じて一歩二歩と後ずさりその場から背を向けて駆け出した。


「アァァァァンネェェェ・・・!!

 ウッツクシイ・・・ワタシノ・・・タマシイノオジョウサンァアアアアアアアンンンン!!」


「嫌ぁあああああ呼ばれたぁぁぁぁ!?!?」


 アンネが完全に涙目で叫ぶ。


「ひっ・・・ひぃっ・・・やだ・・・やだぁぁ・・・怖い・・・!!」


「あ、アンネ!待って置いてかないで!」


ミレイユが必死に追いすがりながら叫ぶ。


 周囲の人々は、ほぼ口を開けたまま二人の逃亡劇を見送るしかなかった。


「・・・え、あれって、ヤバいやつじゃね?」


「檻、壊れそうだぞ・・・っていうか、もう頭出てね?」


「鎖の音がしてる・・・ちぎれるぞアレ・・・」


 視線の先では、ガイレシャーフが全身を振り絞るように暴れ、

金属と金属がきしむ鈍い音がビキビキと響いていた。

鉄格子にねじ込まれた顔はすでに完全に外へ飛び出している。


 行商人の猫獣人女性は蒼白になって必死で鎖を押さえながら叫んだ。


「ちょっ・・・もしかして・・・これ・・・ッ!

 噂に聞いてた“運命の相手”を見つけた時だけの発情反応!?」


「なっ・・・そんなのあるの!?」と誰かが声を上げる。


「ええあるのよ!!

 一度“運命の少女”に惚れ込むと、

 その相手しか目に入らなくなるの!!

 逃がしたら・・・あの子・・・どこまでも追いかけられて襲われ・・・」


 ——ビキィィィィン!!!


 猫獣人女性の説明が終わるより早く、

分厚い鎖が悲鳴を上げた。


「ま、まずいまずいまずいまずいニャッ!!鎖が・・・!」


 猫獣人女性が思わず猫語尾で叫ぶ。


 ガイレシャーフの目は完全にアンネしか見ていなかった。

うるんだ瞳がギラギラと輝き、どこか乙女のようで、

それでいて獣のように息を荒くしながら——


「アンネェェェェッ♡」


 パァァンッ!!!


 ついに鎖が弾け飛んだ。





 ――ドガアアアアアアンンン!!!





 鉄格子が吹き飛び、金属片が空に散る。

その破片を浴びながら、ガイレシャーフは美しい(濃い)顔を輝かせて叫んだ。


「マッテテネエエエエエ・・・♡

 アンネチャァァァァアアアアアアアンンン♡

 イマ・・・イクカラネェェェェエエエエエ♡♡♡」


「来ないでええええええええええええええぇぇぇぇぇッ!!!」


アンネの悲鳴がリンドヴルムの空へ吸い込まれていく。


 巨大な魔物が一直線にアンネへ突進。怒号、悲鳴、ざわめきが広場に広がる。


 ガイレシャーフは、破壊された檻を振り返りもせず、全身からドス黒い愛のオーラを放ちながら、

美しくキザな声で絶叫した。


「アンネェェェェ♡♡♡コノキモチィイイイイイイ♡♡♡ウケトメテェェェェェェ♡♡♡♡♡」


 嬌声を上げながら地響きと共に迫ってくるガイレシャーフから必死に逃げるアンネ。人々の間を縫うように走り抜けるアンネ。アンネの後ろにいた人々がガイレシャーフに弾き飛ばされ、出店が破壊され、舗装された石畳の道が粉砕されていた。

 だがそんなこと気にしている余裕のないアンネはすぐ横の脇道に逸れると細い路地に入り込んだ。流石にこれだけ細い道に入れば巨体が災いして追ってこれな――


「アンネチャン アア・・フリフリウゴイテイルシッポカワイイネ マッテテイマオイツイテイッパイメデテアゲルカラネ!」


 細い路地の両側の建物壁を削り取るように破壊しながら突き進んできたのだ。「そんなのアリ!? ひぃいいい!!」 必死の逃走を再開したアンネは細い道を進み、何度も道を曲がり、時には塀の上を走っていきとにかく逃げた。そしてしばらく経ってガイレシャーフの姿が見えなくなったアンネは物陰にあった廃墟の建物の中の物陰に隠れた。


 廃墟の影に身を潜めたアンネは、胸の前で震える手をぎゅっと握りしめながら、自分の口を押さえた。

 心臓の鼓動が耳の奥を叩いている。至近距離で聞こえるんじゃないかと本気で思うほどだ。


 ほんの少し前までの惨状——壁を砕きながら迫る巨体、嬌声混じりの追跡。

 それらが夢だったのかと思うほど、今は静かだった。


 だが——。


 ズゥン・・・ズゥン・・・ズゥン・・・。


 遠くであの重い足音が鳴った。アンネの背筋がびくりと跳ねる。


(・・・来てる・・・!)


 足音はしばらく途切れた後、また鳴る。

 今度は、少しだけ近い。

 

 ズゥン・・・ズゥンズゥン・・・。


 砂埃が木材の隙間からわずかに舞い落ち、アンネの肩に積もる。


 ——そして。


「・・・スゥゥ・・・ハァァァ・・・スゥゥゥ・・・ハァァァ・・・ッ・・・

 アァ・・・アンネチャンノ・・・ニオイ・・・

 タマラナイヨォ・・・ッ♡


 ソノ・・・コワガッテルカオモ・・・

 ニオイニ・・・マザッテ・・・

 ワタシヲ・・・ヨンデルミタイダ・・・♡


 アァァァ・・・ドコニカクレテルノ・・・?

 ネェ・・・デテオイデ・・・

 ワタシノ・・・カワイイ・・・シッポノコ・・・♡


 マッテテ・・・ネェ・・・?

 イクカラ・・・

 

 アンネチャン・・・アンネチャン・・・

 ワタシト・・・イッショニ・・・アッタカクナロ・・・?♡

 スグニ・・・ミツケテ・・・アゲル・・・カラ・・・ネ・・・」


 その声は、風に乗って、遠くからゆっくりと近づいてきた。

 低く、粘りつくような声。

 どこか喜悦に濡れた、異様に甘い響き。


 アンネは思わず身体を震わせ、口元に当てた手をさらに強く押しつけた。

 喉の奥で上がりかけた息を必死に押し戻す。


(だめ・・・絶対声出しちゃだめ・・・!)


 ガイレシャーフはまるで獣のように、鼻息を荒くしながら、周囲を嗅ぎまわっているのがわかった。


 スゥーハァー・・・スゥーハァー・・・。


 その息遣いは、足音よりもよほど恐ろしい。

 匂いを辿っている。

 アンネを、尻尾の匂いを、汗の匂いを——何もかもを頼りに。


 ズズ・・・ズン・・・。


 足音がまた一歩、アンネの隠れ場所の方向へ。

 廃墟の壁に張り付くようにして、アンネは体を縮め、目をぎゅっと閉じた。


(お願い・・・お願い・・・通り過ぎて・・・っ)


 ほんの少しでも物音を立てれば、間違いなく見つかる距離。口を押えた掌の中で、アンネの息は苦しく反射して震えた。膝も小刻みに揺れ、尻尾は恐怖で完全に固まって動かない。


――ズゥン・・・ズゥン・・・。


 重い地響きが、廃墟の壁を震わせる。

 アンネは息を殺し、胸に手を当てて祈るように縮こまっていた。


 ガイレシャーフの足音が、すぐそこまで迫る。


「・・・スゥゥ・・・ハァァァ・・・ッ・・・

 アンネチャン・・・アンネチャン・・・

 ソッチニ・・・イルンダネ・・・♡」


 ぬめりを帯びた声が、通路の奥からゆっくりと近づいてくる。

 足音が――ひとつ。

 またひとつ。

 アンネの心臓の鼓動と同じテンポで、間隔を詰めていく。


 やがて、その巨大な影が通路の入り口に差しかかった。


(・・・こっち・・・来ないで・・・!)


 祈るように目を閉じた瞬間――。


 影は、そのまま通路をまっすぐ進み、アンネの潜む建物の前を通り過ぎた。


 ズゥン・・・ズゥン・・・。


 足音が遠ざかってゆく。


 アンネは数秒遅れて、肺の奥に閉じ込めていた息を震えるように吐き出した。


「・・・よかった・・・見つかってな・・・」


 胸を撫で下ろし、壁にもたれかかる。

 安堵が膝に力を戻した、その瞬間――。


 バキッ・・・!


(・・・え?)


 耳慣れない、いやな軋み。

 アンネが顔を上げた。


 バゴォオオオオオオン!!!


 建物の側面の壁が、外側から叩き割られたように粉々に砕け散った。


 白い粉塵が噴き上がり、瓦礫が雨のように降り注ぐ

 アンネは叫ぶこともできず、その場で固まる。


 ――瓦礫を押しのけて、巨大な影が姿を現した。


 今まで一番キラキラと青白く光り輝いている毛並みと異様に濃いイケメン顔が蕩けきった笑みを浮かべていた。


 そして。


「――ミ・ツ・ケ・タ♡」


 その一言が、骨の髄まで凍りつかせた。


 ガラガラと壁面が崩れ去る廃墟の中で完全に追い詰められたアンネは目を見開いて涙を流しながらガタガタを震えながらその場から動けなくなった。あまりの恐怖に足に力が入らなくなってしまったのだ。そんなアンネにガイレシャーフはやっと二人に慣れた歓喜を噛みしめるように一歩一歩を踏みしめてアンネに迫る。


「ヤット・・・ヤットフタリッキリダネ・・・アンネチャン♡」


 ねっとり、喉を撫でるような甘い声。

 ガイレシャーフはよだれを垂らしそうな勢いで震え、巨大な身体をくねらせながら、ゆっくりとアンネへ歩み寄ってくる。


 逃げ道は――ない。

 奴は破壊した壁のから廃墟に入り部屋のドアの前に回り込み、アンネの唯一の退路を塞いでいた。


「アンネチャァアアアアアンンン♡

 イッショニ・・・アッタクナロ・・・

 ワタシノタマシイノオヨメェェェサァアアアアンンンン♡♡」


 声は完全に絶頂のソレだった。

 ブルブルと震えながら突進してくるその姿は、もう理性など欠片もない。


 アンネの脳は恐怖で凍り付き、口が勝手に動いた。


「だれか・・・助けて・・・」


 その瞬間――。


「はい。今助けますね」


 柔らかく、それでいてよく通る声が耳のそばで響いた。


 ――え?


 アンネはぎゅっと目をつぶっていた。

 次の瞬間に襲いかかる衝撃を覚悟していたのに・・・何も来ない。


 代わりに、自分の身体がふわりと持ち上がる感覚。


 軽い。

 まるで羽毛のように軽々と。

 誰かが――お姫様抱っこしている?


 状況が呑み込めず、アンネは恐る恐る瞼を開いた。


 視界に飛び込んできたのは、

 金の縁取りが施された華やかな日傘。

 そしてそれを片手に持ち、こちらを見下ろす小柄な少女の顔。


 年の頃は十歳ほど。

 整った眉、透き通るような白い肌、まるで肖像画から抜け出したように気品のある容姿。

 高級なドレスに身を包み、しかしどこか年齢相応の無邪気な微笑み。


 アンネは呆けたように名前を呼んだ。


「え、アナトリー・・・さま?」


 少女は小さく首を傾げながら微笑み返す。


「アナトリーちゃんですよ、アンネさん。

 何度も言ってますけど、貴族令嬢だからってかしこまらなくていいんですから」


 そう。

 アンネがよく知る、数週間宿に連泊していた“あの”お嬢様。

 不思議な縁で仲良くなり、彼女が学園に入ってからも、街に出るたびにたまに会っていた――そのアナトリーだった。


「なんだか街が騒がしいので、何があったのか聞いたら……

 アンネさんが羊の魔物に追い掛け回されてると聞きましたので、助けにきました」


 アナトリーはいつもの落ち着いた声音でそう言い、

 お姫様抱っこのまま、くるりと踵を返して廃墟の入口へ視線を向けた。


 そこには――。


 瓦礫を跳ね飛ばしながら、こちらに向かってゆっくりと振り返る巨大な影。


 ガイレシャーフの青白い毛が逆立ち、異様なほど輝く。

 目は完全にイッていて、口元は垂れた涎で濡れ、鼻息が荒い。


「ワタシノ・・・ワタシノアンネチャァアアアアアンンン♡♡

 ミツケタトキカラ・・・ドキドキトマラナイノォォォ♡♡♡」


 ガイレシャーフは恍惚とした叫びをあげながら、

 四肢を踏みならし、背を丸めて――突進姿勢。


「ひぃ・・・!!」


 アンネがお姫様抱っこされたまま悲鳴をあげる。


 しかしアナトリーは、その場で平然と日傘を持ったまま片足を少し下げ、


「・・・あ。来ますね。では――」


 にこりと微笑んだ。


 次の瞬間。


「アンネチャァアアアア――!!!♡♡♡」



 絶頂寸前の奇声をあげながら、ガイレシャーフが瓦礫を砕きつつ猛スピードで突進してくる。


 アンネは目を見開き、思わずしがみついた。


「アナトリーちゃ――」


「ほいっ」


 軽い。

 あまりにも軽い声。


 同時に。


 バギィッッ!!


 アナトリーの右足が、高くしなやかに振り上げられ、

 ガイレシャーフの顎に正確無比にヒットした。


 その一撃は、少女の体格からは到底想像できないほど鋭く、重く――。


「ぎぃぶふっ!!????」


 ガイレシャーフの目が裏返り、巨体が浮いた。


 そして――。


 ドガァアアアアンッ!!!


 背後の廃墟の壁を粉砕して吹っ飛ぶ。

 砂煙が巻き上がり、石片が雨のように降る。


 止まらない。


 巨体はさらに後方の別の建物にも突っ込み、


 メキョォォオオ!! ガラガラガラッ!!


 壁をぶち抜き、そのまま室内に転がり込んだ。


 最後はゴロン、と横倒しになり、

 白目を剥いたまま完全に動かなくなる。


 ――気絶。


 静寂。


 風の音だけが廃墟に流れた。


 アナトリーはアンネを抱えたまま、ぱんぱんと手を払うように足先を軽く振り、


「・・・ふぅ。

 けっこう硬かったですね、あの魔物。

 魔力の圧縮が悪かったのかな?」


 などと、まるで寄り道のついでに石ころを蹴ったかのような調子で言った。


 アンネは呆然としたまま、震える声で返す。


「ア、アナトリーちゃ・・・あ、ありがと・・・」


 アナトリーはいつもの涼やかな笑顔で頷いた。


「はい。

 アンネさんの頼みなら、何度でも助けに来ますよ」






 ―――――






 その後――。

 気絶したガイレシャーフは、行商人の猫獣人女性によって慌ただしく回収された。

 彼女は顔を真っ青にし、アンネの前に駆け寄るたびに深々と頭を下げる。


「ほ、ほんっとにごめんなさいいいぃぃ!!!

 まさか・・・あんな・・・運命発情モードになるだなんて・・・!!」


 その後も彼女は街中を右へ左へと駆け回り、

 吹っ飛ばされた人々に謝罪し、壊れた露店の片付けを手伝い、倒れた看板を起こし、崩れた石畳を運び・・・

 その姿は、もはや“謝罪の化身”と化していた。


 しかし努力虚しく警備隊から告げられたのは――


「えっ・・・わ、わたし・・・王都出禁・・・? ――そんにゃ~~~~!!!???」


 絶叫とともに猫耳がぺたんと寝た。

 膝から崩れ落ちるように項垂れ、その背中には哀愁がこれでもかと漂っている。


 アンネは複雑な表情でその様子を見つめていた。


(・・・まあ、あれだけ暴れれば・・・そりゃ・・・ね・・・)


 とんでもなく気色悪い執着を見せたガイレシャーフの姿が一瞬よぎり、

 アンネは小刻みに肩を震わせた。


「今回は本当に迷惑かけちゃったからね・・・っ! せめてものお詫びとして、これ・・・持っていって・・・!」


 猫獣人女性は涙で潤んだ目のまま、

 とんでもない量のふわふわウールを差し出してきた。


 山。

 小山。

 いや、一見すると白い丘。


「えっ・・・こんなに!?」


「うん・・・あの子の毛・・・品質だけは最高なの・・・!」


(いや・・・あの気色悪いイケメン顔で追いかけてきた羊から取れた毛とか・・・触りたくない・・・)


 忌避感はかなりあった。

 正直、触った瞬間に悲鳴を上げる自信すらある。

 しかし――アンネは宿屋の店主にして看板娘である。親から受け継いだ宿屋を切り盛りしてくと決めた時から覚悟はできていた。すべてはお客さんのために。


 深呼吸して、腹を括った。


(・・・お客さんのためにも・・・ここは受け取らなきゃ・・・!)


「わ、わかりました・・・ありがとうございます・・・」


 アンネが受け取ると、猫獣人の女性は半泣きで頷いた。


「うう・・・本当にごめんね・・・! じゃあ私・・・行くね・・・街は出禁だから・・・」


 その背中は小さく丸まり、

 尻尾はしょんぼりと垂れ下がり、

 まるで雨に打たれる子猫のようだった。


 そして彼女はガイレシャーフを積んだ荷車を引きながら

 トボトボと街を去っていった。


 その姿は、ちょっと笑えるほど悲壮だった。


「すごいね・・・これ全部、最高級ウールなんでしょ?部屋中の布団作っても余るんじゃない?」


 隣でミレイユが感心した声を上げる。


「確かに・・・。ってミレイユちゃん。私を一人にしたよね!?」


「いやいやいや!

 アンネが全力疾走で逃げていくから見失っただけだよ!!

 むしろアンネの脚力の方が問題だよ!!」


「そんな言い方ある!?」


「あるよ!」


 アンネがむすっとすると、ミレイユは肩をすくめつつ、

 残りのウールを抱え上げた。


「それより、これ一人で持つ気だった? 無理だよ。

 ほら、私も持つってば」


 そこへアナトリーも日傘をくるりと回しながら近づいてきた。


「では私も手伝いますね。

 アンネさん、今日だけでだいぶ疲れましたでしょう?」


「あ・・・ありがとう・・・アナトリーちゃん」


 三人で分担して抱えると、

 ウールの“山”はなんとか運べるサイズになった。


 夕暮れが差し込み、廃墟だった路地を三人の影がゆっくり伸びる。


「はぁ・・・ほんと、生きて帰れてよかった・・・」


「まったくだね」


「ま、今日のことは・・・いい思い出になるかもしれませんよ?」


「なるわけないでしょぉおおおおお!!」


 空に木霊するアンネの心の叫びが街の喧騒に消えながら今日も一日が終わる。






 おしまい

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