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旅人ちゃんの紀行日記  作者: きりん
10/22

アンネの宿屋日誌 悪徳商人撃退

  むかーしむかしあるところに一人の女の子がいました。



 灰色の狼の耳がピンと立ち、短めのウェーブがかった銀灰色の髪がふんわりとした毛並みの尻尾と一緒にゆったりと揺れている。勝気そうな釣り目をした少女は上機嫌に掃除をしていた。


 身なりは動きやすさを重視した軽やかな服装。王都の庶民街に暮らす人々と同じような安手の服装で宿屋の仕事を颯爽とこなしている。少し強気だけれども、どこか面倒見のいい雰囲気を漂わせている。少女の名前はアンネ


「ふぅ・・・とりあえずこんなもんかな?」


 宿屋の清掃を終えたアンネは手に持った掃除道具のモップと水の入ったバケツを持って1階に下りた。両親から受け継いだ宿屋は2階建てとなっており、2階は客室1階に食堂、調理場、倉庫 受付台があるシンプルな造りの宿屋・・・だった。本来はそこで終わりなのだが今はお風呂場が追加されていた。それもあって女性のお客さんからとても人気を博していた。


 それもこれも自信を救ってくれたラキとタギツのおかげである。二人が奴隷商に奴隷として売り飛ばされかけていた彼女を助け、王都では冒険者に絡まれていた時に助けていただいた上に宿屋の改修費用を出してくれた。さらに心のトラウマから男性恐怖症になってしまったアンネのために女性専用宿屋にしたらどうかと提案してくれたし、女性客がたくさん訪れるようにアロマやお菓子を用意してくれていた。


 さらにラキとタギツの二人は王都を救った英雄として意図せずに祭り上げられその知り合いが営んでいる宿屋というふうに知れ渡ったうえ、二人が泊っているという話を聞いた王都の住民が凄まじい人数で押し寄せた時にはかなり混乱したアンネだったが同時に王都の住民に自身が男性恐怖症であること、そのため宿屋を女性専用宿屋にすることを周知してもらえた今では逆に女性が安心して泊ることのできる宿屋として知られ、王都にやってきた女性冒険者から商家の娘に果てには貴族の子女まで泊るようになった。


 さすがに貴族の子女が泊ったときには何故にこの宿屋に泊まったのか疑問に思ったがその子女曰く「王都において女性専用の宿屋はここしかないし、王都の英雄の知り合いが営んでいる宿屋に喧嘩を売る粗暴な人もそうそういない、つまり安全であることが保障されている。更にお風呂に入れるのは女性にとってはとても重要です。アロマやお菓子も用意されていて至れり尽くせりで、それでいて貴族街の宿屋みたいに宿泊料が高すぎることもないのですから人気はでますよ。 まあわたしは森の中だろうと迷宮の中だろうと平気ですし粗暴な方が暴れても自分で対処できますが一般的な女性としてはこの上なくいいところですからこの宿は」と言われた。


「客層が上がって単純に宿泊料の単価が上がったのに全然客足が途絶えないしむしろ徐々に客足が増えてる気がする。恐るべしネームバリューとお風呂効果」


 宿の扉が開くたびに、絶え間なく訪れる客たちの足音が響く。忙しなく動き回るうちに、お金の保管箱を開けば銀貨の山が積み重なっているのが目に入り、アンネは思わず目を瞬かせた。想像以上の繁盛ぶりに、胸の奥がそわそわと落ち着かない。それでも、確かな手応えを感じるのが嬉しくて、思わず尻尾が小さく揺れる。


「・・・ここまで繁盛するとは思ってなかったわ」


 呟きながら、銀貨を指でつまみ上げ、キラリと光る表面を見つめる。こんなにお金が増えるなんて、と半ば呆れつつも、口元には思わず笑みが浮かんでいた。


「アンネ嬉しそうだね~ まあこれだけ繁盛したらそりゃそうか!」


 そういって現れたのはミレイユだった。柔らかなラベンダー色の髪が、ふわりと波打ちながら背中へと流れる。陽の光を受けて、淡く艶めくその髪は、歩くたびに揺れて優雅な印象を与える。前髪はふんわりと額を覆い、耳元にかかる髪が女性らしい柔らかさを際立たせていた。


 彼女が身につけているのは、清潔感のあるエプロンドレス。薄手のブラウスにフィットしたコルセットが腰を引き締め、ふんわりと広がるスカートが動くたびに優雅に揺れる。純白のエプロンは細やかな刺繍が施され、裾には可愛らしいフリルがあしらわれていた。袖を軽くまくり上げた姿からは、働き者らしい凛とした雰囲気が漂っている。


 手際よく動きながらも、そのたびにラベンダー色の髪がふわりと揺れ、優美な香りを残す。整った姿と、落ち着いた仕草が、幼いながらも彼女の上品な魅力を際立たせていた。ミレイユはベッドのシーツを洗濯籠に入れて持ってふらっとやってきた。


「そりゃあもちろん。お父さんとお母さんが残したこの宿屋をちゃんとやっていけているからね。あなたこそ聞いたよ?――最近、銀貨が入るたびに庶民街のバザーで買い食いしてるって。まさか、稼いだそばから美味しいものに消えてるんじゃないでしょうね?」


受付台に頬杖をついて勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、じっとミレイを見つめる。王都の庶民街には活気あふれるバザーが並び、焼きたてのパン、甘い果物、香ばしい肉串など、誘惑だらけの食べ物が溢れている。そこでついつい買い食いを楽しんでいるという話を耳にしたアンネは、半ば呆れつつも、少し羨ましそうに尻尾を揺らした。


「も、もちろん貯蓄はしてるって! ああそれよりもアンネ、新作のスイーツ作ろうと思うのだけれどどんなのがいいかなしら?」


「う~んそうだね。前はケーキだったし今度はタルトがいいかな。バリエーション増やしたほうがお客さんも喜んでくれるわ」


「タルト・・ね。うん、わかったわ」


 ミレイは洗濯籠をもって宿屋の奥へ消えていった。それとすれ違いで2階から降りてくる人影があった。つい先日、泊まりに来た貴族の子女の方で・・・確か、王立魔術学園に通うための準備に来たとか・・・


 アンネは記憶を辿るように腕を組み、少し考え込むように視線を泳がせた。思い出すのは、上品な立ち振る舞いの少女。まだ幼さの残る顔立ちだったが、その背筋の伸びた姿勢や、言葉遣いから育ちの良さが滲み出ていた。


 彼女は数人の使用人を伴い、王立魔術学園に通うための準備として、制服の仕立てや教材の購入を済ませるためにここへ滞在していた。毎日忙しそうに出かけては、夕方になると宿へ戻り、食堂で紅茶を楽しみながら静かに本を読んでいた姿が印象的だった。持っていたのは魔術書だろうか?


 そして貴族であるのにも関わらず、平民階級であるはずのアンネにも気兼ねなく話しかけてくれるのだ。彼女曰く「これはうちの家訓で、他者には貴賤なく礼節を尊ぶべしという考えに従っているだけです」とのこと。本当にありがたい話だ。


「今日も出掛けてきます」


「はい。行ってらっしゃいませお嬢様」


 恭しくお辞儀したアンネは子女を見送り、他の宿泊客の朝ご飯を作るために厨房へ向かった。するとミレイが厨房にやってきた。何かあるのかと思ったらなんとも切り出しにくそうな表情をしていた。何かあったのか聞くとミレイユが言いずらそうに答えた。


「なんか商人が来ているのよ。この宿屋の店主と商談がしたいとかなんとか言ってるけどどうする?追い返す?」


「・・・いや、私が対応するよ。この宿屋の店主はわたしだからね」


「ええっ・・・でもこんなことしてたらキリがないわよ?しょっちゅう商人の売込みがくるじゃない」


「まあね。ここ数日、やたらと商人が商品の売り込みをしてくるのよ」


 アンネは少し眉をひそめながら、ため息まじりに腕を組む。 宿が繁盛すると、それを嗅ぎつけた商人たちがこれでもかと訪れ、お客様に提供する食事の材料、お客様の満足度を上げる香り付きのランプオイル、さらには宿の格式を上げるための高級家具まで、ありとあらゆる商品を頑張って売ってるのだ。


「まあ、必要なものなら検討しなくはないけど・・・でも、ちょっとしつこいのはね~」


 真面目な性格のアンネは、強引な商人に対しても適当に対処することはせず、とりあえずは話を聞くようにしていた。 商品を手に取り、素材や問題を確認し、価格と品質を冷静に判断する。そしてあまりにもしつこく押し売りしてくる商人には、はっきりと「必要ない」と言い切り、扉の向こうへと送り返す。 フサフサの尻尾をピンと立てて、勝気な瞳で睨みをつけるだけで、しぶしぶ帰っていくのが大半だ。


「ならなおのこと商品を買うのはお得意さんの商人にしたほうがいいんじゃない?このままだと宿屋をやるのに支障きたしかねないよ?」


「そうだよね。さすがにこれだけひっきりなしに商人が売り込みに来るとお客さんが逃げちゃうし、もう一律で断ろうかな」


 そう言って商人の売り込みを断ろうとしたアンネだったが、声をかけるより先に、その人物はすでに宿屋の中へと足を踏み入れていた。アンネの耳がピクリと動き、静かに開かれた扉の向こうから、すっと滑り込むように現れたのは、一人の女性だった。


 茶色の長い髪はゆるやかに巻かれ、背中に流れるように整えられている。深い緑色の瞳はどこか含みのある光を湛え、にこやかな微笑みを浮かべていた。年の頃は三十代ほどだろうか。上品な顔立ちに、整った仕草。だが、その余裕のある振る舞いがかえって警戒心を煽る。


 彼女が身にまとっているのは、派手すぎず、それでいて目を引くワインレッドのドレス。生地にはさりげない刺繍が施され、袖口や裾には控えめなレースがあしらわれている。その上から肩に羽織るのは、黒いレースのショール。動くたびに揺れるその布は、彼女の纏う雰囲気に妙な色気を添えていた。


 ぱたん、と扉が閉まる音がやけに響く。


「まあまあ、なんて素敵な宿かしら。」


 女性は目元に手を当て、感嘆したような笑みを浮かべる。その所作はまるで貴婦人のように洗練されているが、どこか芝居がかっている。アンネはすぐに察した――この女、ただの商人ではない。


 見た目こそ品のある貴族のようだが、どことなく胡散臭い。その笑顔も、声のトーンも、研ぎ澄まされた商売人特有のものだ。経験からくる勘が警鐘を鳴らす。


(・・・厄介なのが来たな。)


 アンネは密かにため息をつきながら、それでも表情を崩さずに、じっとその女を見据えた。


「あなたがこの宿屋をやっている娘かしら? ずいぶんと可愛らしいお嬢さんなのね」


「そういうお世辞はいいので。何の用ですか?」


「そう警戒しないでちょうだい。私は商談に来ただけよ?いくつか持ってきたからここに置いてほしいのよ。とりあえず見てみない?」


「もう商人からの押し売りは受けないので、お引き取りください!」


「そう言わずに。見て頂戴な」


 そう言って、その女商人は軽く指を鳴らした。


 すると、宿の入り口で待機していた部下らしき二人の男が、大きな木箱を抱えて中へと入ってくる。彼らは無駄な言葉を発することなく、手際よく箱を床に並べると、蓋を開けた。


 まず目に入ったのは、深いルビー色をしたワインの瓶。光を受けて美しく輝く液体は、見るからに高級そうだ。ラベルには、王都でも名の知れたワイン醸造所の紋章が記されている。


 「これは特別な一本よ。長期熟成されたエルフ謹製の極上の100年ワインでね。貴族たちの宴会では、これを手に入れるために競り合いが起こるほどなの。」


 女商人は優雅な手つきでワインを持ち上げると、まるで宝石を見せびらかすように微笑んだ。


 次に並べられたのは、化粧品のオイル。透明な小瓶に詰められた黄金色の液体は、ほんのりと甘い花の香りを放っている。


 「こちらは魔女が錬成した魔法薬を使う秘伝の美容オイル。肌に馴染ませるだけで、しっとりと潤い、若々しさを保てるわ。貴族の奥様方に大人気で、最近は王宮の侍女たちにも広まっているとか。」


 彼女は瓶の蓋を開けると、ほんの少しだけ指先に垂らし、優雅に馴染ませてみせた。


 そして最後に、食料品の数々。上質なチーズや干し肉、乾燥ハーブが詰め込まれた小箱が並ぶ。その中には、庶民街では滅多に見かけないような珍しい果実や、異国から取り寄せたスパイスも含まれていた。


 「これらは王都でも限られた店でしか手に入らない品よ。どれも一級品ばかり。」


 女商人は微笑みながら、さりげなくミレイにも視線を送る。その目はまるで「あなたたちには手が届かない代物かもしれないけれど?」とでも言いたげな光を帯びていた。


 アンネは腕を組み、無表情のまま品々を見つめる。


(・・・なるほどね。言葉巧みに持ち上げて、買わせるつもりか。)


 女商人の流れるような口調と、それを補強するかのように並べられた豪華な品々。だが、その胡散臭さは隠しきれていない。果たして本当に一級品なのか、それとも見せかけだけの代物なのか――。


 アンネは静かに、しかし鋭く、目の前の商人を値踏みするように睨んだ。


「あらあらそんな怖い顔しちゃって~ そんなに警戒しなくていいのよ? わたくし達はこの宿屋をもっとよくしたいだけなのよ?」


 あからさまに心にない言葉を吐きながら厭らしい笑みを浮かべてそいう商人にイラっとしながらもアンネは冷静に努めた。まずエルフが作ったとされる100年ワインを手に取った。それは見るからに古い見た目をしたルビー色の瓶だった、だがコルクが劣化していなかった。コルクを引っこ抜いて匂いを嗅いでみるとワインの匂いはするが若干匂いが弱かった。


「ねえ?これ本当にエルフが作った100年ワインなの?それにしては瓶のコルクが新品だし、匂いも若干弱いよね?少し味見してみてもいいかな?」


女商人は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに余裕の笑みを浮かべた。そして、優雅に扇子を開きながら、ことさら落ち着いた声で言う。


「まあ、お客様ったら疑い深いのね。確かにコルクは新品よ。でも、それは保存状態を完璧に保つために、定期的に交換しているからなの。エルフのワインは、繊細な香りを逃がさないように細心の注意が払われているのよ。」


彼女はちらりとワインの瓶を見やり、扇子の縁で軽く唇をなぞるようにしながら、涼しげに続けた。


「そして、香りが弱いとおっしゃった? ふふ、これはね、エルフの地で熟成されたワイン特有のものよ。ほら、人間のワインと違って、香りが強く主張しすぎないのが特徴なの。優雅で繊細な味わいを楽しむためのものだから、強い香りを求める方には少し物足りなく感じるかもしれないわね。」


彼女はアンネに微笑みかけた後、少しだけ首をかしげながら、付け加えた。


「それに・・・味見を? まあ、お口に合うか確かめるのは大事なことだけれど、残念ながらこのワインは特別品なの。希少価値が高くてそうたくさんあるものじゃないからあなたが確実に購入するなら、一口分くらいお分けしてもいいけれど・・・?」


そう言って、女商人は試すようにアンネの表情をうかがった。


「いくら?」


「そうねえ。ざっと金貨100枚といったところかしら?」


「100枚!?」


 いままで黙って聞いていたミレイが驚きの声を上げた。それもそうだ。金貨100枚はかなりの高額だ。いくらなんでもその金額は確実に本物だという保証がなければ払えるものではなかった。それを見越してふっかけてきたのだろう。 ミレイは今にもくって掛かろうとしたがそのまえにアンネが静止した。


「それはまた後でいいわ。それより、この魔法薬入りの美容オイルなんだけど・・・本当に魔法薬が入ってるの?」


アンネは腕を組みながら、じっと女商人を見据えた。目の前の小瓶には、美しい黄金色のオイルが揺らめいている。確かに高級感はあるが、それが本当に魔法薬の力を持っているかは別の話だ。


「ほら、確かに見た目はそれっぽいし、香りもいい。でも、魔法薬が入ってるっていう割には、魔力の気配がほとんどしないんだけど? 普通、魔法薬を含んでいるなら、微かにでも魔力の残滓が感じられるものじゃない?」


アンネは指先で瓶を軽くつつき、疑わしげに女商人を見上げる。


「まさか、ただのハーブオイルにちょっとそれっぽい説明をつけただけ・・・なんてことはないよね?」


最後の一言は、わずかに挑発的な響きを帯びていた。


女商人は扇子を閉じ、涼しげな笑みを浮かべながら肩をすくめた。


「まあまあ、ずいぶんな言いようですわ。なにか証拠でも?」


アンネはじっと女商人を見据え、瓶を指先で軽く弾いた。


「証拠はないけど、魔法薬が入っている確証もないよね? それに――」 アンネはテーブルの上に並べられた品々へ視線を向ける。 「コレ。色々な食材を持ってきてもらったけど、どこで作ったものなの? ちゃんと安定して入荷できるものなの?」


彼女はテーブルの上の果物や乾燥肉、保存食の袋をひとつひとつ指で示しながら言った。


「王都のバザーで売られてる品と似てるようで、ちょっと違う。でも、特産品の証明書もなければ、どの商会の流通かもわからない。商工業ギルドも通してないでしょう?」


アンネは鋭い目つきで女商人を見つめ、慎重に彼女の反応をうかがった。


「あら、お嬢さんったら随分と疑り深いのね。でも、それは商人として悪いことではないわ。いい? 確かに王都のバザーで見かける品と少し違うかもしれないけれど、それは当然よ。」


彼女は指先でワインの瓶を撫でながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「この品々は、普通の商会を通して入ってくるものじゃないの。特別なルートを使って仕入れた、選りすぐりのものばかりなのよ。ほら、大手の商会が扱うものだけが本物とは限らないでしょう? むしろ、大手には流せないような・・・ええ、"とびきり貴重な品"も世の中にはあるものよ。」


女商人は優雅に微笑みながら、扇子の端で軽く唇を隠し、アンネを試すように見つめた。


「それとも、お嬢さんは"どこで作ったのか"が大事なのかしら? それとも――"質が確かかどうか"の方が重要?」


彼女の緑色の瞳が、まるでアンネの出方を楽しんでいるかのように妖しく光った。


「・・・すぐには買うことはできない。少し考えさせてほしいわ」


「ええ、ええ。いいですわ。あなたも考える時間が必要でしょう。是非いいお返事を期待しておりますわ!そうですわね・・・1週間後にまた訪れますわ」


 女商人は足元に注意を払いながら、荷物を部下の男たちに持たせてその場を離れていった。アンネの視線の先に、彼女の背中が徐々に遠ざかっていくのが見える。足音が少しずつ薄れ、やがて完全に消えた後、静寂だけが残った。


アンネはそのまま、椅子に座り込んで深いため息をついた。まだ残る怒りの感情を抱えたまま、ミレイユがピリピリとした顔をして立っているのに気づく。


ミレイユは拳を握りしめて、顔を真っ赤にしていた。


「あの女、まったく! 何を考えているのよ! こんな詐欺みたいな商売しておいて!」


ミレイユの声は高く、怒りが収まらない様子だ。その顔は明らかに怒りをあらわにしており、いまにも暴れ出しそうな勢いだったので、ミレイユの肩を軽く押さえて、落ち着かせた。


「ミレイ、落ち着いて。あの女が何を言おうと、私は騙されないわ。」


アンネの言葉には、どこか冷静さを漂わせるものがあった。彼女は深呼吸をし、ミレイユに微笑みかける。


「今、私たちがやるべきことは感情的にならないこと。怒りや焦りで行動することは、相手の思うツボよ。」


ミレイユはまだふくれていたが、少しずつその表情が緩んでいった。アンネの穏やかな語りかけに、少し安心した様子を見せる。


「じゃあ、どうするの?」 ミレイユがようやく口を開いた。


アンネはしばらく考え込み、そして真剣な表情で言った。


「まず、あの女商人が持ってきた品物の出所をもっと調べるわ。それから、他の商人や宿の客に聞き込みをして、情報を集める。もし本当に怪しい商売をしているなら、私はそれを暴くつもりよ。これ以上粘着されたらたまったもんじゃないわ」


その決意を込めた言葉に、ミレイはしばらく黙って頷いた。アンネの冷静さと力強さが、少しずつ彼女の不安を取り除いていった。


「私たちにできることはそれしかないわね。」 ミレイが穏やかな声で言った。


「そういうこと。焦らず、少しずつでも進めていこう。」






 ―――――






 次の日、アンネは朝から宿屋の仕事を片付けると、ミレイユに店を任せ、意を決して商工業ギルドへと向かった。


ギルドの前に立つと、威圧感のある石造りの建物が目の前にそびえ立っている。立派な彫刻が施された扉の前で、彼女は一度立ち止まった。目を閉じ、ゆっくりと大きく深呼吸する。


「大丈夫・・・大丈夫・・・」


自分に言い聞かせるように小さく呟くと、意を決して扉を押し開けた。


――賑やかな声が飛び交い、ギルドの中は活気に満ちていた。


広々としたホールには、商人たちが商品を持ち寄って交渉する姿、帳簿を片手に取引の計算をする者、新しい仕事を求める労働者たちの姿があった。長いカウンターではギルド職員が忙しそうに書類を整理しながら、商人たちの手続きを進めている。


しかし、アンネの目に最初に飛び込んできたのは、何人もの男たちの姿だった。


筋骨たくましい職人風の男、豪奢な服に身を包んだ金持ちの商人、鋭い目つきで交渉に臨む若い男――。


彼女の心臓が嫌な音を立てるように跳ねる。指先が冷たくなり、顔がこわばるのがわかった。まだ完全に克服できたわけじゃない。頭の奥で、過去の記憶が蘇りそうになる。


それでも――。


アンネは震えそうになる手をぐっと握りしめ、スカートの裾を掴んだ。負けるわけにはいかない。目的はあの女商人の情報を得ること。それを思い出し、足を前へ踏み出す。


まっすぐカウンターへ向かいながらも、肩をすくめ、なるべく周囲の視線を気にしないように歩く。


カウンターの向こうには、年配のギルド職員がいた。彼は帳簿をめくりながら顔を上げ、アンネを一瞥すると、落ち着いた声で問いかけた。


「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件で?」


アンネはもう一度、小さく息を吐いた。


「・・・お聞きしたいことがあるのですが。」


そう言って、彼女は慎重に言葉を選びながら、カウンターの上に両手を添えた。 カウンターの向こうで座っている猫人族のお姉さんはアンネの所に怪しい女商人が来て明らかに怪しいものを売りつけようとして来ていたことを話すと真剣な眼差して少し待つよう言うとすぐに戻ってきて商工業ギルドの別室へと連れていかれた。


 商工業ギルドの別室に案内されたアンネは、少し緊張しながらも深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。部屋は広すぎず、簡素ながらも品のある装飾が施されている。木製のテーブルと椅子が中央に置かれ、壁にはギルドの紋章が刻まれた額が掛けられていた。


しばらくすると、静かに扉が開き、アンネの前に現れたのは――


「やあ、来たかい。お前さんの噂はよく聞いているよ」


 そうして扉の向こうから静かに現れたのは、アンネと同じ狼族の老齢の女性だった。


彼女のダークシルバーの髪は、長年の経験を物語るようにしっとりとした艶を保ちつつも、後ろで厳かに束ねられている。歳を重ねたことで顔には深い皺が刻まれていたが、それに反して、その鋭い金色の眼光はまるで猛禽のように鋭く、相手の本質を見抜こうとするかのような力を宿していた。


狼族特有の耳はピンと立っており、耳先には白い毛が混じり始めている。しかし、それは衰えを感じさせるものではなく、むしろ長年にわたる知恵と経験を積み重ねた証のように見えた。


彼女の身を包むのは、灰色と黒を基調とした重厚なローブ。その上質な布地は控えめながらも威厳を漂わせ、縁には細やかな銀の刺繍が施されていた。その胸元には、商工業ギルドのギルドマスターを示すエンブレムが誇らしげに輝いている。


ゆったりとした動きで椅子に腰掛けると、組んだ指の間からアンネをじっと見据え、落ち着いた声で口を開いた。


「・・・さて、話は聞いているが、お前さんの口から詳しく聞かせてくれるか?」


その声音にはどこか威圧感があるものの、アンネに向けられた眼差しには、ただ厳しさだけでなく、試すような興味も感じられた。


 アンネが一通りこれまでの出来事を話し終えると、老齢の女性――ギルドマスターは、深いため息をつきながら、重く低い声で呟いた。


「・・・また、あやつらか。」


その言葉には、呆れと苛立ちが混ざっている。彼女は組んでいた手を解き、ゆっくりと指先でこめかみを押さえながら、厳しい表情で言葉を続けた。


「お前の話を聞いて、ようやく確信が持てたよ。ここ最近、王都では妙な噂が広まっている。

見慣れぬ女商人が現れ、高級品を謳って怪しげな品を売りつけている――そんな話だ。」


そう言って、ギルドマスターは椅子の背もたれにゆっくりと身を預けた。


「そしてな、アンネ。すでに被害が出ている。実際にあの商人から品物を買い、後になって“粗悪品”だったと気づいた者たちが、商工業ギルドへ陳情に来ているのだ。」


アンネは驚きに目を見開いた。


「・・・じゃあ、あの女商人はやっぱり・・・?」


ギルドマスターは静かに頷く。


「ああ、どうやら確定だな。やつは詐欺まがいの商売をしている……いや、もはや詐欺そのものと言ってもいい。これまでは確たる証拠がなかったから、ギルドとしても本格的に動けなかったが―」


そこまで言いかけて、ギルドマスターはじっとアンネを見据えた。その金色の瞳には、何かを探るような鋭い光が宿っている。


「アンネ、お前は今後どうするつもりだ?」


その問いかけに、アンネは少し息を呑んだ。握りしめたスカートの裾に力がこもる。彼女の胸の奥には、ただの宿屋の店主としてではなく、“狼族の誇り”を持つ者としての怒りが渦巻いていた。


「私は両親から受け継いだ宿を守ります。そのためにもその女商人の悪事を暴きます!」


「そうか・・・やはりあの二人の子だね」


「あの二人?」


「ああ、そういえば知らんのだったね。わたしはねお前さんの両親、ハイネ・ヴォルフ・ガストホフとアンナ・ヴォルフ・ガストホフに商売のやり方を教えた、いわば商売人としての師匠なのさ」


「ええっ!?」


「くっくっくっ 驚きだろ? わたしもあの二人に子どもができたことに驚いたもんさ。覚えちゃいないだろうけどお前さんはわたしに会ってるんだよ赤ん坊のころにね。あの二人は、お前を腕に抱きながら、誇らしげにわたしに見せてきたもんだ。」


ギルドマスターはどこか懐かしそうに目を細め、ゆっくりと語る。


「『この子はきっと立派に育ちますよ』ってな。・・・まったく、親バカにもほどがあったが、あれほど幸せそうな顔をした二人を見たのは、あの時が最初で最後だったな。」


アンネは唖然としながらギルドマスターの話に耳を傾ける。


「・・・そんな・・・お父さんとお母さんが、そんな話を・・・。」


ギルドマスターは静かに頷き、続けた。


「それにしても、お前さんがこうして立派に育ち、商売の道を継いでいるとはな。あの二人も、きっと天国で誇らしく思っているだろうよ。  ―それで悪事を暴くんだって?いいさねやってみな。わたしもできる限り手を貸してやるさね」


「ほんとですか!」


「ああ、その女商人が何者かわからんが、この王都でわたしの目が黒い内は阿漕な商売なんぞさせんよ」


 そういって協力を申し出てくれたギルドマスターはとても頼もしかった。アンネはやってやるぞと心に強く思い悪徳商人を撃退するための作戦を開始した。






 ―――――






 それから1週間が過ぎ、宿屋はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。各部屋を掃除し床を磨き窓を開けて空気の入れ替えを行いすべての部屋を掃除し終えた頃には、朝の爽やかな空気がすっかり宿屋に満ちていた。アンネは頬の汗を軽く拭いながら、階段を下りて一階の受付台へ戻ると、すでにミレイが待っていた。


「ふぅ・・・ようやく終わった。」


アンネはカウンターの椅子に腰掛け、軽く息をついた。ミレイはそんな彼女を見て、くすりと笑う。


「お疲れさま、アンネ。でも、これからが本番でしょ?」


 ミレイはすでに準備を終えており後は手筈通りに事を進めるだけになっていた。アンネも大きく深呼吸をして気持ちを整えて相手が来るのをまった。それから数刻が過ぎた頃、あの女商人がやってきた。事前に商品をもってきてほしいと言っておいたのでワインとオイルそして食材も持ってきていた。


「商品を持ってきてほしいとのことでしたが。やっと決断してくれたんですね」


「ええ、決断したわ」


「そうでしたか!ではさっそく契約―」


「いえ、あなたと取引はしません。なにせあなた嘘ついてますから」


「ほう?わたくしが嘘をついていると? 何を根拠に仰ってるのでしょうね~」


「それを今から証明する」


 そう言って、アンネは手に持ったワインの瓶を慎重にテーブルの上へ置いた。その瓶は深紅のガラスで作られており、一見すると高級感が漂うが、アンネの目にはそれがどこか不自然に映っていた。


「ミリア、お願いしてたものを持ってきてくれる?」


アンネがそう頼むと、ミリアは頷き、奥の部屋から小さな木箱を抱えて戻ってきた。彼女がその蓋を開けると、中には青白い輝きを放つゴブレットが収められていた。


ゴブレットは滑らかで透き通るような金属でできており、月光を宿したかのような淡い光を放っていた。その表面には古代文字が刻まれ、ゆっくりと流れる魔力が模様の間を走るように揺らめいている。


「あなたならこれが何かわかるでしょ?」


「・・・それがなんだっていうのです?」


 それに答えることなくゴブレットの上にワインの瓶をそのままかざした。するとゴブレットは青白く光り輝きゴブレットの底に光り輝く金色の光が集まりそれが宙へ舞った。そして徐々に文章が形成されていき、そこには綺麗な文字でこう書かれていた。






【品名:なし         】


【熟成年数:10年 品質 劣悪】


・濃度:薄い 希釈済み


・管理体制不十分 



 

「はぁ・・・?」



 思わず素っ頓狂な声を上げた女商人だったがアンネは間髪入れずに鋭い瞳を細めて言い放った。


「ずいぶんな検査結果がでたみたいですけどこれはどういうことなのですか?」


「な、なにかの間違いではないですか?魔道具の誤作動などの可能性も―」


「それはないですよ。だってこれ商工業ギルドよりお借りしている魔道具ですから。聖杯と言えばなんとなくわかるのでは?」


「―ッ!? 嘘よ! なんでそんなものがここにあるの!? あれは商工業ギルドのギルドマスターが認可しなけば使うことができない希少な魔道具でしょう!!」


「ええ、ですから認可されましたよ?」


「は?」


「認可されたのですよ。あなたを追い詰めるためにね。ついでにこちらのオイルも鑑定しちゃいますが問題ないですよね?」


「ちょ! まって!」


 女商人が何か言ったような気がしたがそんなことお構いなしにゴブレットにかざして鑑定する。


「おやおや、魔女が錬成した魔法薬が入ったオイル?でしたっけ?それにしては魔力が一切検知されないですね。しかも品質が劣悪・・・どういうことなのですかね~」


「そ、それは・・・」


「あとはこの食材ですけど、食材の品質は良と出ていますけどこれ本当に体に害はないのですか?農薬多量と出ていますよ。しかもこれ龍奉王国と緊張状態にあるガルガンチュア帝国の代物じゃないですか?本当に安定的に供給できるのですか?」



 まくしたてるように問い詰められた女商人は動揺から冷や汗をかいていた。無理に取り繕おうとするが、声の端がわずかに震えている。彼女の手に握られた優美な金細工の扇子は、知らぬ間に強く握りしめられていた。折りたたまれた扇の骨がきしむような不吉な音を立てていた。焦燥に駆られた女商人はそれを必死に隠そうとしたがかえってそれが不自然に見えた。


「以上のことから私はあなたの商品を買うつもりはないです。どうぞお引き取りください」


 アンネは毅然とした態度で女商人を見据え、はっきりと言い放った。その言葉に女商人は手に持った扇子で顔半分を隠しながら少し沈黙したのち今までの焦りや冷や汗がとまりスゥーと無表情になったかと思うとバチンッと扇子を閉じ


「・・・やめですわ」


 女商人はそういうと部下に持ってきた商品を持たせて帰らせた。そしてアンネの方を向き直るとアンネに対して宣言した。


「まどろっこっしいやり方はもうなしですわ。ここからは力づくでやらせていただきますわ。後悔してももう遅いですので、あしからず――ね?」


踵を返して宿の扉へと向かう際に肩越しから向けられた視線は「絶対に後悔させてやる―」という敵意と執念を滲ませていた。 扉が閉まると、アンネはゆっくりと息を吐いた。突っぱねること自体は成功したものの、あの女商人のただならぬ雰囲気が頭にこびりついて離れない。あのまま大人しく引き下がるとは到底思えなかった。きっと次は、もっと強引で手荒な手段を使ってくるはずだ。ミレイユも守らないきゃいけないし、他の宿泊客も守らないと! アンネはそう思いながら自分なりに準備を進めた。


 その日の夜、深夜となりあたりが静まり返った宿屋に数十人の人影があった。その人影は窓の蝶番を壊すと建物の中に侵入した。その人影の中にあの女商人のすがたもあり、女商人は素早く手下の男たちに指示を出した。その眼は復讐に燃えており、自分をこけにしたあの小娘をどんなひどい目に合わせてやろうかと今から考え不気味なにやけ顔をしていた。


同時刻、一日の仕事を終えてミレイユと一緒に寝ていたアンネは建物に侵入した女商人一党の物音に狼耳をピンと立てて反応し、すぐに起き上がった。ミレイユは突如起きたアンネに眠い目をこすりながらもどうしたのか尋ねた。


「アンネどうしたの?」


「誰かが侵入してきた。起きてミレイユ!すぐに対応を―」


 そう言おうとした瞬間部屋をドアが開かれて一人の男が入ってきた。手にはナイフを持っており、明らかに危害を加える気でいた。アンネは全身の毛が逆立つような寒気を感じ一瞬で目が覚めた。男はアンネに向かって突進するようにナイフを突き立ててきた。それにミレイは反応しきれずアンネはナイフで刺されてしまった。


「アンネーッ!!」


 ミレイユの悲鳴が宿の中に鋭く響き渡った。室内の空気が一瞬にして張りつめ、なんとか動かなければという思いに反してミレイ自身は恐怖のあまり足がすくみ、混乱してその場で立ち尽くしてしまった。 


 アンネが殺されてしまう―! 



 そうミレイユは思ったが、次の瞬間、アンネが狼族の本能に突き動かされるように銀色の髪を振りながら狼族特有の鋭い爪を瞬く間に伸ばし、目の前の男に向かって、一瞬の躊躇もなく振り下ろした。ほぼ何も考えていなかった。ただただ本能に従って反撃した。


 爪が男の腕を引っ掻き、衣服を裂きながら肌を深くえぐった。鮮血が飛び散り、男は苦痛に顔を歪めて後ずさる。アンネの瞳は金色の光を宿し、まるで獲物を狙う狼そのものだった。低く喉を鳴らし、警戒を露わにする姿に、室内の空気がさらに緊迫する。


「グルゥアアアアアア!」


 男性に襲われたトラウマと狼族としての本能により自分の身の危険を感じたアンネは正気を失い目の前の男が痛みで視線を外した一瞬のスキをついて襲い掛かった。その光景はさながら野生動物が人間を襲うがごとくもうなりふり構わずボコボコにしてしまった。


「アンネ!! まって!それ以上やったら死んじゃう」


 ミレイユに羽交い絞めにされて引き剥がされたアンネは金色に輝く瞳を見開き、牙をむき出しにしてフゥ―ッ フゥ―ッと息を荒くしていた。ゆっくりと落ち着いてきたアンネは床に座り込みミレイユの方をみて涙を浮かべた


「ミレイ。私・・・」


「大丈夫。アンネは悪くない。アンネは自分の身を守っただけ!! 何も気にしなくていいの。もし誰か何か言ってきてもわたしがずっと味方でいるから」


 ミレイユは震えるアンネの肩をそっと抱き寄せた。自分自身も恐怖で呼吸が早くなり、手も震えてしまっていたがそれでもアンネをしっかり抱きしめた。アンネの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。大きな瞳から溢れた涙が頬を伝い、震える唇からはか細い嗚咽が漏れている。それでも、彼女は何度も何度も頷いた。


「うん・・・うん・・・」


 か細い声が、まるで自分に言い聞かせるように繰り返される。アンネの手は震えながらも、ミレイユの背中へと回された。その指先はまだ冷たく、力も弱々しかったが、それでも必死にしがみついていた。


 アンネの服にはまだ乾ききらない血がこびりつき、床にも、壁にも、あの男のものと思われる赤黒い染みが飛び散っていた。あの瞬間、自分を止める理性が吹っ飛び、ただ目の前の存在を叩き潰すことしか考えられなくなっていた。まるで自分じゃなくなったかのような感覚に恐怖と後悔の気持ちが広がっていた。


 アンネはただ黙って、ぎゅっとミレイユにしがみついていた。涙が止まることはなく、体は小刻みに震えていたがミレイユの体温の暖かさに少しずつ、少しずつ、落ち着きを取り戻した。それからすぐに思い出したようにアンネは顔を上げた


「ッ!そうだ他のお客さん!!」


「私もいくわ」


 駆け出していったアンネを追いかけて二人は部屋の外へ飛び出した。部屋を出るとすでに他の部屋の宿泊客は起きており、何事かと言った表情で部屋から顔を覗かせていた。アンネは宿泊客に侵入者が入ってきたから部屋から出ないように言い、1階へと向かった。するとそこには数十人の男たちとよく見知った女商人がボコボコにされて積み上がっていた。


「いい運動になったわ。でももう少し強くなってから私に挑んだほうがいいと思うけれど?」


 血がべっとりついた拳を拭いながら気絶している侵入者に言い放ったその人物は宿屋に泊まっていた貴族の子女だった。幼い少女が自分たちが混乱しながら一人倒した連中を全員倒してしまっていた。ネグリジェ姿の少女が大人数十人をボコボコにして立っているという異様な光景にアンネとミレイは思わず絶句してしまった。


「あら?あなた達じゃない。こっちは片付いたわよ、あなたたちの部屋は大丈夫?」


「え、あっはい。わたし達は大丈夫です。襲ってきた男は倒しましたし、他のお客さんも無事です」


「よかった~ 1人通してしまったときは冷や汗がでたよ。ま、上から凄い声と振動が響いたから多分大丈夫だろうと思ったけど」


「あ~えっと、とりあえずお茶でも淹れます?」


 目の前の光景に現実逃避したくなったミレイユが自分が落ち着きたいためにお茶を入れた。





 ―――――






 それから朝になって王都地域警備隊の衛兵がやってきて全員を連行していった。詐欺、恐喝、果てには貴族の子女に対する襲撃まで行った女商人一党はそれはそれは厳罰に処されたそうだ。それと、今回の一件以来距離が近づいたアンネはその子の名前がアナトリーであること。王立魔術学園に入るために王都へやってきたこと、タギツさんが師匠となって鍛えてくれたことをアンネは知った。 アナトリーもアンネとミレイユがかつてラキとタギツが奴隷にされそうになっていたところを助けて、王都で再開した時に手助けしてくれたのだと話した。


 共通の恩人という話題があったためすぐに仲良くなり、今後同じようなことがあたら自分の家名を使って撃退するように二人へ言い、アンネ達も今後も宿屋に来てほしいと言った。商工業ギルドへやってきたアンネは魔道具の聖杯を返すべくギルドマスターに面会した。 ギルドマスターによると女商人はガルガンチュア帝国からやってきたらしく、アンネの宿屋の評判を落として経営難に陥らせた後宿屋を買いたたいて諜報活動の拠点にするつもりだったらしい。すでに他の拠点も暴かれてつつあるらしい。


 思いがけず国家同士の調略に巻き込まれた形となったアンネだったが何とか乗り切ることが出来てほっと胸をなでおろした。魔道具を返したアンネはいつまでも宿屋を留守にするわけにもいかないと椅子から立ち上がった。


「それでは私は宿屋へ戻ります」


「ああ、―なあアンネよ。お前さんはこれからもあの宿屋をやっていくつもりかい?」


「もちろんです! 両親の宿屋を継ぐ。それが今のわたしのやりたいことなので」


「そうか。ならこれからも何かあったらわたしの所に来るんだ」


「・・・ありがとうございます。とても心強いです」


 アンネは礼をすると商工業ギルドを後にした。宿屋に戻る道すがらアンネはバザーで焼きたてのパイや、ほんのりスパイスの効いたミートパイや串焼きを買っていき、宿屋へと戻ると店番をしていたミレイに買ってきた食べ物を渡した。早速ひと口頬張ると、嬉しそうにしているミレイを見て自分もミートパイを頬張った。


「さてと、今日も1日頑張りますか~」


 そんなアンネの言葉とともに彼女の日常はまだまだ続く。






 おしまい

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