第三章 紅蓮の過去で芽生えた花
混沌と呼ばれるその世界は、上位界の中でも極めて邪悪で過酷な環境であった。
闇の天蓋とでも言うべき黒雲に厚く蔽われた空は光の通過を許さず、茫漠として荒れ果てた
大地に深い影を落としている。岩肌のようにごつごつとした大地には底なしの沼が点在し、それらは腐って毒性を持つに至った霧や蒸気を生じさせ、吠えるような北風や南風が氷や烈風を武器として縦横無尽に荒れ狂い、唸るような東風と西風が霰やかまいたちを武器として大地を否応無しに狂騒させる。
幾つもの暴君の如き疾風がぶつかる中心に、【黒の山】は聳えていた。山の頂には灼熱に満ちた火口が開き、混沌を赤黒く照らす紅蓮のマグマが沸き立っている。
そのマグマの一部が盛り上がり、中から人の形をした何者かが現れ、淵の岩場に足を乗り上げた。その身体にへばりついたマグマが空気を揺るがしながらドロドロと滴り落ち、邪竜の如き頭部と強靭な肉体が露になった。体表は鰐の鱗のように硬く、丸太のような手足には硬く鋭い爪が生え、威嚇するように噛み締められた口からは獰猛な牙が覗いている。
上位悪魔ベリアルが人間界から戻ったのだ。大柄な身体には無数の亀裂が走っており、そこから溶岩のような紅蓮の輝きが放たれている。ベリアルは赤色に光る目で、岩場に開いた洞窟を見出し、竜とも蝙蝠ともつかぬ翼を一度大きくはためかせ、中へと入っていった。
洞窟内には火口に匹敵するほどの広大な空間が広がっており、外のマグマを忘れさせるほどの冷気と邪気とが満ち満ちていた。
「――揃ったようです。これより、【黒の会議】を始めます」
闇の中から、テノール調の男の声が木霊した。ベリアルの身体から放たれる紅蓮の光が届き、
声の主が現れた。ひょろ長い手足、青白い肌に襤褸を纏い、不気味に笑む銀の面で顔を覆う姿
は、人間のように見える。
「アガリアレプトはどうした?」
ベリアルの口から、地を揺るがすような低く太い声が発せられた。
「サリエル奴が助力する白き者に敗れました。このワタシが片腕を捥いでやったにも拘わらず、出陣するとは想定外でしたよ」
「たったの一騎に敗れる将など端から要らぬわ。斯様な輩を前線に置くとは、貴様の采配も万全とは言えぬとみえるな? ラハブ」
同じ上位悪魔の消滅を嘲笑し、ベリアルは銀面の男――ラハブを睨んだ。
「ですが計画通り、陽動は成功です。これで人間どもの巣窟を直接叩く手筈が整ったわけですからねぇ」
「俺が乗り込むべき場所の見当をつけたのか?」
ベリアルが問うた。
「ええ。アガリアレプトが人間どもの目を海へと引き付けている間にねぇ」
「――そういうお前の首尾は」
「どうなったのだ?」
「ベリアル?」
ラハブの解答に加えて、三つの声が聞こえた。ベリアルが天井を見上げると、無数に突き出
した氷柱の一つに、一体の悪魔が蛇の如き尾を巻き付け、逆さまにぶら下がっていた。鋭利な耳とのっぺりとした人面の頭を二つ持ち、腹部には片目がひしゃげた牛の顔を持つ悪魔だ。
「久しいな、マルコシアスよ。日ノ本から見て西南の国は尽く焼き尽くしたわ。虫けら一匹残ってはおらぬ」
ベリアルが答えた。
「おお! さすがは焔の覇者!」
「あの将軍が一目置いているのも」
「頷けるというもの!」
マルコシアスと呼ばれた天井の悪魔が、三つの口から称賛を述べた。
「よろしい。ではベリアル。力は有り余っているでしょうから、次は有明に出陣し、不穏な動きを見せる敵軍を掃討しなさい」
「――お待ちください」
暗闇の中から、もう一つ声が上がった。それは少女のように柔和で、透明感のある響きを持つが、抑揚は少なく冷淡であった。声は続く。
「あなたには、敵の変換装置を叩いて頂きます。無価値な人間のみを抹殺して下さい。まだ全滅させてはいけません」
「人間の世から出でし怪奇な娘よ、貴様がこの俺に指図するというのか?」
ベリアルは声の方角に向き直り、その片腕を翳す。すると、宙に抜き身の大剣が現れて彼の
手に収まり、その身に黒と赤が混在する邪悪な焔を宿した。その焔が、少女のような声の主
を照らし出す。
そこには片膝をついて鎮座する黒い巨体(、、、、)の姿があった。全身を金属質な鎧で覆う様は間違い
なく、彼の【開戦の日】から変わっていない。傷も劣化も見受けられないその装甲はベリアルの紅い光に当てられ、より黒く輝く。
「無用な口論は禁物です。彼女の提案に乗ったのはあの将軍なのですよ? ――して小娘。そう頼む意図を説明なさい」
ラハブの仲裁に、黒い巨体(、、、、)の拡声機構から少女の声が答える。
「わたしが求めるのは人類の進化です。その中からふさわしい者を選んで進化させ、いと高き者(、、、、、)
への刃とするのです。彼の者に唯一届き得るのは、最も愛を注がれた人間の刃であると推測し
ているからです。そのためには、無能な人間のみを抹殺し、進化の兆しのある人間を残す必要があることをご理解ください」
「我らが大王(、、)を差し置いて」
「人間以外では、いと高き者(、、、、、)に敵わぬとほざくか⁉」
「所詮人間の俗物が!」
マルコシアスが吠え猛り、洞窟内を微震が駆け巡った。
「鎮まりなさい、マルコシアス。事実を見極められぬほど愚かな将がいたのでは、それこそ最高指揮官であらせられる大王(、、)の御顔に泥を塗るというものです」
ラハブの言葉に、少女の声が続く。
「すぐに人間界を滅ぼせば、いと高き者(、、、、、)は間を置かずあなた方を再び罰するでしょう。今の時点でそうならないのは、彼の者を始め、神々が存在する最も高位な天界と、この混沌の間に、人間界に対する【掟】が存在しているからではありませんか。我々はこの【掟】を利用するべきです。【掟】があるうちに無能な人間のみを抹殺して見せ、人間を窮地に立たせ、生存本能を掻き立てることで進化を急がせるのです。太平洋で人間たちの艦隊を攻撃したラハブ殿を呼び戻したのも、有能で進化の可能性を秘めている人間を減らし過ぎないための配慮。すべては第二の選定(、、、、、)のためです」
「成程。一理ある」と、ラハブが肯定する。「天界と混沌は関りを断ち、人間界への過干渉を禁ずる……天界での戦後、いと高き者(、、、、、)が定めた忌々しいこの【掟】が、結果として我々の行為を認めているわけですからねぇ」
「いと高き者(、、、、、)は生真面目に【掟】を守っている」
「奴は【掟】を破った我らと同類にはならぬと腹に決め」
「意地でも破ろうとはするまい」
神を嘲るマルコシアスたちに対し、ベリアルが唸った。
「天界よりも下位にあたる、他の位界の神々や半神たちはどうだというのだ? 忌まわしき
天使共も目障りだ。すでに複数の輩が人間に力を注いでおるのだぞ?」
ベリアルの言に、少女の声が答える。
「彼らはいと高き者(、、、、、)に比べれば小さな存在。あなた方の最高指揮官の敵ではありません。あな
た方が総力で打って出れば、天使や半神には止められないでしょう。まして、人間を滅ぼすのはあまりにも容易い。それでは戦い甲斐がないというものではありませんか? ベリアル殿」
その問いにベリアルは鼻を鳴らし、少女の声を発する者の名を呼ぶ。
「ならば、従ってやる代償として、事が全て済んだ暁には、この俺と戦うと誓え。その巨体、その鎧、飾りではあるまい? 【第四騎士】よ」
「戦好きもここまで来ると考え物ですねぇ。二度天へと昇りつめようという我々の計画に支障
がなければよいのですが」
ラハブは仮面を抑え、肩を竦めた。天界での敗戦後、一千年に及ぶ容赦無き笞と呵責の時を経た悪魔たちは、これも神の取り決めによって一時的に自由の身となっており、再び天界へと帰り咲くために手を結んでいるのである。
「そのときが来ればお相手します。ですから今は言う通りに。有明に赴き、対象を破壊して速
やかに離脱して下さい。くれぐれも深入りはしないように」
【第四騎士】から了承の声が響き、ベリアルはその鋭い牙を剥き出しに、獰猛な笑みを見せた。
†
夜が明けた十月五日。
今日は朝から、本部の南館裏手にある運動場で、光志たちが所属する第二大隊の戦闘訓練が行われていた。
「光志。寝不足なのは仕方ないとしても、気は引き締めてくれよ。上の空な声してるぞ?」
一対一の格闘訓練のために向かい合った涼吾から注意を受ける光志。
「ああ。ご、ごめん」
昨夜、光志は空梨と共に格納庫へ戻って不入斗から無断で通信を切り替えたことのお叱りを受けたあと、空梨と二人で夕食を取りつつ、共に他愛なく語らいながら過ごした。空梨は肩の荷が下りたのか、笑顔が増えたように思えて望ましかったが、光志は布団に潜ってからも空梨の笑顔が頭から離れず、なかなか寝付けなかったのだ。
「――格闘の詰めが甘い! そのままじゃ、【人型(Hタイプ)】を一体仕留めるまでに二人死ぬわよ⁉」
「――まだ開始三十分も経ってないのにぶっ倒れそうな顔してんじゃないわよ! タマ(、、)を蹴り上げられたいの⁉」
一同の前で自己紹介を済ませた権鈴華が、凄まじい声量で罵詈雑言の嵐を轟かせている。
「あの女は何なんだ? いきなり現れたと思ったら、怪獣みたいに吠えやがって――!」
起動した幻霊装騎で取っ組み合い、光志の上に圧し掛かった体勢で涼吾が囁いた。
「筒香大佐がこっちに増援として呼んだみたい。そのついでに訓練教官もやるんだってさ。ま
るで雌豹だよ……!」
どうにか押し戻そうと唸りながら、光志は鈴華を見遣る。そこで兜越しに彼女と目が合った
気がして、供物として食われることのないよう祈りながら顔を逸らした。
初対面の相手にもお構いなしで罵声を浴びせる鈴華への印象は、訓練開始数分で〝超絶美少
女〟から〝壮絶鬼畜怪獣〟へと変換された。
鈴華の気迫にも動じないのは、きっと戦闘経験豊富な空梨くらいだろう。その空梨は不入斗に個人的に呼ばれたらしく、訓練開始前に光志たちと別れていた。
「女子! 女だからって甘やかされたいの⁉ もっと気合い入れないと張り倒すわよ!」
男子陣の後方で同じ訓練を熟す女子陣にも容赦のない渇が飛んだ。
「――訓示! 詠唱始め! 何のために生まれた⁉」
「「幻霊装騎で戦うためだ‼」」
「何のために戦う⁉」
「「クソどもをぶっ倒すため‼」」
「幻霊装騎とはなんだ⁉」
「「クソどもより強く、クソどもよりしぶとい!」」
「お前たちはなんだ⁉」
「「我ら第三機甲連隊第ニ大隊‼ 悪魔が恐くて飯が食えるか‼」」
一日の訓練の終盤には、どこで誰が考えたのかも不明な訓示まで叩き込まれ、ランニングの際に強制的に詠唱させられた。
「――今日はあんたたちのおおまかな実力を見せてもらったわ。全体的にまだ粗があるけど、思ったよりやるじゃない。よく着いてきたわ。ご褒美に一人だけ相手をしてあげる! あたしの動きを見て技を盗むように。視覚カメラの録画機能で撮影してもいいわよ? 我こそはという者、名乗り出なさい!」
時計の針が十六時に迫り、第二大隊全員を整列させた鈴華が、締めとばかりに言い放った。
彼女の印象が〝超絶美少女〟のままであったなら、主に男子陣から数多の手が挙げられたことだろう。そして謝礼を叫びながら、まるで幸福の絶頂に至ったかのような顔で伸される(、、、、)のだ。
だが〝壮絶鬼畜怪獣〟ではどうか。
容赦のない怪獣に勝負を挑む人間はこの世にはいまい。
「……意気地がないわね。そこのあんた、F一三一」
あろうことか、鈴華は最前列にいた光志の前に立つと、その戦闘服の胸に刺繍された識別番号を読み上げた。
「はい⁉」
光志は上擦った声が出た。
「名誉なことよ? あたしと勝負しなさい」
任意のはずが、命令に変わっている。どうやら自分は天使に見放されているらしい。
光志は横からの視線を感じて隣を見る。涼吾が今生の別れとでも言いたげに口を引き結び、
目を潤ませていた。
(これもスキルアップのため……)
逡巡の末、光志はごくりと喉を鳴らし、前に進み出た。
「よ、よろしくお願いします!」
「そういえば昨日、あんたの名前を聞いていなかったわね?」
と、鈴華。どうやら顔を覚えられていたようだ。
「御先光志です……」
【開戦の日】以降、育ての親への敬意と感謝を忘れないという意味合いで、名乗る際は自分と親双方の名を述べる風習が世界的に定着しているが、幼少期の記憶が無い光志には、自分の名前しか名乗れない。
「――いいわ、光志ね。よろしく」
鈴華は、光志に親が元々いなかったのであろう事情をすぐに察し、配慮してくれた。
「騎体を起動しなさい。もしあたしに負けたら、今夜基地の周りを案内すること!」
仕切り直した鈴華に従い、光志は脇に抱えていたHMDを被りなおして【サムライ】を起動する。後付けで案内役まで提示されたが、かといって今更引き下がれない。
相対する鈴華も、半透明で顔の下半分が露出するタイプのHMDを装着。自身の実現モジュールをオンにし、【怒放】を起動する。すると、モジュールから白光する思念粒子が溢れ出し、彼女の身体を取り巻いた。白光は装備が完了した部位から順に消えていき、その洗練された装甲を露にする。
まず、流線美を湛えた乳白色の兜が出現。その正面に、天使の羽の如き装飾が施され、兜の上部では鹿角のような二本の突起がV字型に後方へと伸び、頭上には色鮮やかな桜色の防御円が現れた。流麗な兜の顔の部分は依然剥き出しになっており、耳元から覗いたインカムが頬に添えられている。
兵士たちは息を呑むような、あるいは感嘆するような視線を注ぐ。
花弁のような白い腰当は短く、大腿部が露出されており、動き易さを追求した造りであると分かる。ヒールブーツのような形状をした装甲は足のラインに沿って滑らかに反り、肩が剥き出しの腕部にはサイズの変更が可能な長方形の可変式盾が備わり、もう片方の腕に銀のサーベルが備わる。肩甲部では【サムライ】よりも小振りな思念粒子砲が眠り、背からは鋭利に研ぎ澄まされた槍が煌めく。隆起した白い胸当ての下からは鍛え抜かれた腹部が覗いていた。
「――あれが、法則密度五・〇って噂の騎体……綺麗だ」
「装甲面積が少ないってことは、高機動型か……尊い」
「教官、黙ってりゃ可愛いのにな……」
「馬鹿おまえ、声でけぇよ。殺されるぞ」
といった声が隊列から聞こえてくる。
「あたしを一回でも地面に倒したらあんたの勝ち。あたしに三回倒されたらあんたの負けよ?」
と、背負った槍を取り、地に突き立てる鈴華の声が、光志の兜内に響いた。どうやら槍はハンデとして使わないらしい。
「はい! よろしくお願いします!」
気合いを入れ、光志は手の甲に仕込まれた模擬戦用の短剣を展開し、構えを取る。
「遠慮なんてせずに、全力で来なさい。女だからって手を抜いたら殺すわよ? すぐにわかるんだから」
自然体で立つ鈴華が言うと、銀に煌めく面頬が出現し、『キンッ!』という小気味好い音と共
に彼女の目元から下を覆い隠した。【怒放】の高機動戦闘モードである。
「――ッ!」
光志は鈴華目掛けて突進。一瞬で彼我の距離を詰め、短剣を繰り出す。当然のように躱されるが、本命は彼女の懐に潜り込むタックルだ。
鈴華は刺突の勢いをタックルに転用した光志に微かな笑みを見せ、
「筋はいいけど――」
しかしそれを更に躱し、前のめりになった光志の背中に肘を振り下ろした。
「うわッ⁉」
完全に体勢を崩され、光志は地面に叩きつけられた。周囲から驚愕の声が上がる。
「まだ遅い!」
鈴華は右手を後ろに回して左手を正面に、拳法然とした徒手格闘の構えを取る。
開始数秒で一度倒された事実に、光志は動揺を隠せない。鈴華の迷いなき挙動と狩人の如き鋭い眼光は、熟練の戦士のそれだ。
「教官、若いのにやるな!」
「馬鹿おまえ、声でけぇよ。場数が違うんだろ」
などと舌を巻く声がする。
「みんないい? 一対一の状況においては、掴んで撃つ(、、、、、)のが定石よ。一か八かより、確実な戦法を取ること! 両手で敵の身体を抑え込んで、思念粒子砲でコアを破壊するの! 初めから短剣でコアを狙うのは、敵の動きがもっと読めるようになってから!」
鈴華は【思念回線】を通して、全員にアドバイスを送る。
光志は起き上がり、今度は鈴華の動きを封じに挑む。彼女の掌底打ちをギリギリで回避し、その片腕を絡め取ろうとした。
「――なっ⁉」
だが鈴華は驚異的な跳躍力で光志の身体を飛び越え、側宙を切る挙動で背後に降り立ち、【サ
ムライ】の装甲を左手で掴むと、少女とは思えぬ力技で投げ飛ばした。
地面に背中から激突し、防御円の残量が減少した光志は、早くも乱れ始めた呼吸を悔やみな
がら立ち上がり、一度鈴華と距離を取った。
『今の跳躍は、踵の部分にジャンプ力や走破力を高める機械が仕込まれているのだろう。さすがは俊足の韋駄天が支える騎体といったところか』
と、乾闥婆が推察する。
「これでリーチね」
目元にどこか楽し気な笑みを浮かべる鈴華だが、不意にその視線が光志ではなく、黒雲で覆われた暗い空へと向けられた。
「――?」
光志も同じ方向を見上げると、空から白光体が凄まじい速度で飛来しているのがわかった。
「……【ホワイトイーヴィル】⁉」
鈴華が眇めた目を見開いた。
第二大隊が整列する運動場に、【ホワイトイーヴィル】が突如として向かって来たのだ。
「空梨⁉」
光志は思わずそう呟く。空梨は不入斗と会っていたはずである。この時間まで、また何らかの検証をしていたということだろうか?
瞬く間に地上へと接近した【ホワイトイーヴィル】は空中で減速し、光志たちの前に降り立つと、拡声機構を使って呼びかけた。
『御先光志から離れなさい、権鈴華。過ぎた真似はしないことです』
それは紛れもない空梨の声だった。だが光志は、感情の籠もらない、冷徹とも言える彼女の話し方に違和感を覚えた。
「き、急になんだっていうのよ⁉」
さすがの鈴華も、これには狼狽えた様子で答えた。隊列を組む他の兵士たちは戦々恐々(せんせんきょうきょう)として青褪めてしまっている。
『私(、)が持つ権能には、一定範囲で起きている出来事をすべて知覚する能力があります。権能を発動したタイミングで御先光志の悲鳴が聞こえたので、確認に来た次第です』
「今光志と特訓してたところよ! 見ればわかるでしょう?」
『御先光志。彼女の言っていることは真実ですか?』
【ホワイトイーヴィル】の紅い目(、)が光志に向けられた。光志の中で、空梨への違和感は更に増していた。空梨は他人を呼び捨てになどしないからだ。
「事実です、稲葉大尉。互いに了承もしてます。何の問題もありません……」
光志は訝しみを抱えたまま答える。
ともすれば【ホワイトイーヴィル】の権能が牙を剥く――そんな空気が流れた。
『……そうであるならば見逃しましょう。ですが、権鈴華。あなたには決して、彼に危害を加える権限など無いことをよく覚えておきなさい』
「――ご忠告ありがとう。大尉」
怒りを覚えているであろう鈴華が静かに返答すると、空梨はそれ以上の敵意を出すことはせず、踵を返して飛び立っていった。
運動場には恐怖と気まずい空気が残され、全員が黙り込む。
「興が醒めたわ。勝負はお預けよ。今日はこれで解散にしましょう」
肩を竦めた鈴華はそう言って【怒放】を解除してしまう。
兵士たちは躊躇いながらも、大隊長を担う涼吾が掛けた解散の号令に従い、各々(おのおの)でコロニーへと戻っていく。
『光志。今の【ホワイトイーヴィル】のパイロットだが、声を発していたのは稲葉空梨ではな
いぞ』
【サムライ】の現実化を解こうとした光志だったが、HMDに表示された乾闥婆の言葉にその動きを止めた。
「僕もおかしいと感じてたんだ。空梨でないなら、今のは一体誰なんだ?」
『あの思念粒子の気配(、、)。恐らくは裁きの天使(、、、、、)と呼ばれている者だろう。【ホワイトイーヴィル】の出力霊体だ。それが彼女の人格を乗っ取っていたのだ』
「まさか、サリエルが空梨を⁉」
「――あんたの出力霊体も勘付いてたのね。あたしの韋駄天も同じことを言っているわ」
立ち尽くす光志の発言から会話の内容を察したらしく、鈴華が言った。
「信じられません。……そんなことがあり得るんですか? 神様や天使は人間に過干渉してはいけない【掟】があるって聞いてましたけど……?」
「あの子がああなる(、、、、)のは、今回が初めてなの?」
鈴華に聞かれ、光志は唸る。
「アメリカでどうだったかはわかりませんが、僕が見たのは初めてです。普段の彼女は、あんなに冷たくて、上から見下すような物言いはしません。人を呼び捨てにするような子じゃないんです」
「韋駄天が言うには、神様本人が実際にこの世界に現れて、悪魔どもみたいに直接手を出すのはご法度な代わりに、パイロットの人格に干渉したり、或いは乗り移って助けることがあるそうよ」
『彼女の言う通り、主にその神の感情によって、稀に実行されることがある。その行為があまりにも【掟】に触れる場合は、他の神々によって、過干渉を起こした神が罰を受ける決まりだ』
再び乾闥婆の言葉が表示された。
「――けど、悪魔に襲われてるわけでもないのに、どうしてあそこまでするんでしょうか? な
んだか、冷たい怒りみたいなものまで感じました」
「あんたとあの子は、考えが近いのかもしれないわね。とっても仲間思いな感じがする。さっ
きあの子が騎体を飛ばしてでも駆け付けたのは、きっともうこれ以上、大切な仲間が傷つけられるのを見たくないって感情からだと思うの。どうしてそれでサリエルが表に出てきたのかわからないし、ちょっと誤解もあったけど……」
鈴華も、空梨が米国の最前線にいたことは承知しているのだ。それ故か、落ち着いた彼女は
空梨の行為に怒ることなく、むしろ空梨の気持ちに配慮して考察を巡らせていた。
鈴華と初めて出会ったときは礼節を欠いた印象だったが、こうして話してみると、共感性や人徳をしっかり持った一面が引き立って見える。
「――空梨のやつは生真面目なところがあって、中でもこいつに何かあるとムキになるんです
よ。むしろあいつが自分から天使に身を委ねてたりするのかもしれません。俺は搭乗型に乗れるほど思念適性高くないんで詳しくはわかりませんが、まぁ何であれ、今のはさすがに度が過ぎる。後で俺たちから言っておきますから、あまり気に留めないでやってもらえませんか?」
光志と鈴華のやり取りを居残って聞いていた涼吾が、光志を親指で指しながら付け加えた。
「あの子、あんたのことになるとムキになるんだ? ……ふーん」
と、鈴華は光志の顔を覗き込んで小さく笑み、
「どこに行っても、優しい人はいるものなのね」
夕日を映したかのような柿色の瞳を、涼吾、そして光志へと向けた。
「……あんた達、もし良かったら、食事を取った後で簡単に基地の周りを案内してくれない? まだ司令塔とスポーツセンターくらいしかじっくり見たことがないのよ。昨夜は筒香大佐や不入斗博士と食事したあと、遅くまで情報交換していたから……」
「あー、そうして差し上げたいのは山々なんですが、自分は今夜、東館でメンテを終えた【サムライ】の実現モジュールを皆に配布する役に当たっちまってるんですよ。光志、案内を頼めるか?」
後ろ頭を掻きながら、涼吾が光志にフォローを求めた。
光志は鈴華と目を合わせる。ばつが悪そうに微笑む彼女の眼差しには、憂いのような、何か筆舌に尽くしがたい思いが込められているような気がした。
「――はい。僕でよければご案内します」
光志は頷いた。さすがに、求めを放っておくことはできない。
それに、空梨と彼女の関係を改善させるのに役立つ何かが見つかるかもしれない。
†
空梨が一人で乗った場合のバイタルをもう一度観察したいという不入斗博士の頼みを聞き、
周辺を哨戒する名目で再び【ホワイトイーヴィル】に乗った空梨は、有明の空にいた。
そこで権能の一つ=【全智】を発動させ、半径数キロ内の音声や景色、人の動きなどの情報
を知覚することで名目上の任務を遂行している途中、運動場に意識を向けた空梨は、そこで驚愕に目を見開いた。
運動場で、光志と鈴華が争っているではないか。
「――っ⁉」
空梨は苦悶の表情を浮かべ、胸を押さえる。
まただ。心の臓が強く、激しく拍動するのをはっきりと感じる。
この感覚(、、、、)は、九十九里浜で戦ったときのものと同じだ。
『空梨、どうした? 急に心拍数が上昇したけど、何かあったのかい?』
インカムから不入斗の声がした。
「九十九里のときと、同じ状態です、博士……」
酷い動悸の中、どうにか返信する空梨。
『どうしてそうなっているのか、心当たりはあるかい?』
「う、運動場で、光くん――御崎伍長が、権大尉からひどい扱いを受けているのを見たら、き、
急に……」
『確か御先くんたちの部隊は戦闘訓練中だったね。……鈴華ちゃんが教官なのかい?』
「はい……」
『なるほど。――まさか……!』
と、不入斗は何やら独り言ちる。
空梨の状態に拍車をかけるかのように、光志の悲鳴じみた声が聞こえ、空梨の心臓が一際強く脈打った。
「…………」
ここで空梨は力尽きた人形の如く項垂れた。それまで激しさを増していた脈拍が一定の速度を保って安定化。身体中が火照る一方で、空梨は自分の心の奥底から、氷のように冷徹な感情が込み上げてくるのを感じた。
『空梨、君の覚醒のきっかけがわかったかもだ! 御先くんと鈴華ちゃんたちは飽く迄訓練をしているだけだよ。だからそこは気にしないで、今は休むことを優先しよう。戻っておいで』
「――彼は、私の監視対象(、、、、、、)です。何者にも渡さない」
俯いていた顔を上げ、HUDに鋭い視線を向ける空梨の瞳は、血の如き紅い光を宿していた。そして空梨は、身体の自由が利かないことに気付く。今の発言も、自分が意図しないものだ。九十九里のときと同じ状態だが、発言まで制御できないのは今回が初めてだ。
まるで自分に別の誰かが乗り移った(、、、、、)かのような感覚。
「っ!」
空梨はサリエルに助けを求める思念を送る。人間の真の強さは心の繋がりだ。しかし、状態
は変化しない。
『……君、空梨じゃないね? 誰だい?』
不入斗博士の声音が、時折見せる真剣な低いものへと変わった。
「私はサリエル。罪人を裁く者」
空梨の声で、何者かが応じた。まるで空梨自身の意思さえも嘲るかのように。
『サリエル⁉ 無口だと思っていたけど、しゃべるときはしゃべるんだね……』
「私に、何か言いたいことでも?」
『君にはとても世話になった。だが、その子に何か良くないことをするつもりなら、君といえども容赦はしない。こちらの遠隔操作で強制脱出させてもらう』
不入斗の言を受け、空梨の冷笑が響き渡る。
「あなたは人間。人間が私(、)たちの力を応用して拵えただけの技術が、私(、)に通じるとでも思って
いるのですか? 勘違いしないことです。私(、)の主な目的はあなた方を支えることではなく、御先光志(、、、、)という存在を監視することなのですから。アメリカの地でこの娘の出力霊体を引き受けたのも、彼に近しい存在の彼女を利用し、私(、)の目的を遂行するため」
『どうして御先くんの名前が出てくる? 彼が何だというんだ?』
「恥と罪に覆われた、愚かで哀れな者。それが彼です。私(、)はかつて彼を裁いた。故に、監視す
るのも私(、)の役目なのです」
腕が動き、操縦桿を操作する。騎体が空中で反転し、運動場へ向け一直線に降下していく。
空梨は頼もしい味方だと思っていた天使に裏切られた思いに苛まれ、気付けばその目から涙を流していた。頬を伝い、服の上に垂れた雫の色を見て、空梨は戦慄する。
それは血であった。空梨にとって、血の涙が流れるのは、強力な権能を使用する際の過負荷を意味する症状なのだ。
「私(、)の監視を妨げる者は、この眼(、)で粛清される」
サリエルがやろうとしていることを悟った空梨は、必死の思いでその目を閉じた(、、、、、、、)。
†
運動場から飛び立ち、身体の自由が戻った空梨が帰投すると、不入斗が他のスタッフたちを引き連れて格納庫へ飛び込んできた。
「空梨! ――まさかその目は⁉」
不入斗は空梨の頬を伝い落ちる血に気付くと、すぐさま衛生兵に合図し、彼らの手を借りて今にも倒れそうな空梨を抱き上げ、担架に寝かせる。
「サリエルが、【邪視】を使おうとしていました。でも被害は出ていないはずです。どうにか目の自由は利いたので、ずっと閉じ続けていましたから……」
「またしても苦労を掛けて済まない。思えば、九十九里で身体の自由が利かなくなったと君が証言したときに疑うべきだった。サリエルはあのときも、君をサポートしていたのではなくて、乗り移っていたんだろう。なぜなら、御先くんがピンチになったわけだからね。あのときは君の御先くんを守りたいという思いと、サリエルの意思がシンクロしていたから、今回みたいに
操縦の奪い合いみたいなことにはならなかった。……君の面倒をしっかり見るって、勝手なが
ら君のお母さんに約束させてもらっているんだけど、これじゃぁ彼女に顔向けできないな……」
不入斗は泣き出しそうな表情で、空梨の頭を撫でる。
「……母はきっと、感謝していますよ。博士がいてくれなければ、わたし達はみんな、悪魔と戦うことさえできなかったと思います。だから、いつものように明るい博士でいてください」
空梨が兼ねてからの想いを伝えると、不入斗は顔を逸らし、袖で目元を拭う。
「――ありがとう。その優しさも母親譲りかな? サリエルの件は私が対処法を考える。だからしばらくの間、【ホワイトイーヴィル】への搭乗は禁止にさせてくれ。あれがまた暴走したら、次はどうなるかわからないからね。会話の中で、サリエルの口から御先くんの名前が出た理由
も気掛かりだ。あの天使と彼に何の関係があるのかはっきりさせる必要がある」
不入斗の意見に、空梨は同意する。
「サリエルは、御先伍長を裁いたと言っていました。彼が幼い頃の記憶を失っていることと関係があるのかもしれません。御先伍長と権大尉に、会いに行かせてもらえませんか? 大尉に
は運動場でのことを謝りたいですし、伍長には過去についての話を聞きたいんです」
「良いとも。でも少し休んで様子を見てからだ。それに万が一、サリエルが霊体化していない生身の君に乗り移るようなことがあっては危険だ。生身と霊体とでは土俵が違うから、完全に抗いようが無い。だから御先くんに会うのは、【ヴァイシュラーヴァナ】を装備した龍彦くんを交えてだ」
人間が上位界の存在たる天使と会話したり、力を借りたりするには、霊体化によって存在の土俵(、、)を近づける必要があるのだ。ボクシングの試合をするなら、お互いがリングに上がる必要があるのと同じように。生身の状態では、人間側からは一切干渉できないからである。悪魔が現れた頃、人間が一方的にただ屠られるばかりだったのは、そもそも土俵(、、)が違ったからなのだ。
「――もし何かあれば、霊体化で対等な状態になった龍彦くんに助けてもらう。いいね?」
念を押す博士に、空梨は首肯した。そして光志に害が及ぶことの無いよう、天に向かって祈るのだった。
†
第七機甲連隊に所属する三千余の兵士たちは、普段は本部周辺で指定された複数の居住エリアに数百名単位で分かれてコロニーを形成している。食事も各コロニーに共用する場所を決め、そこに集って取ることにしていた。
十月五日、二十時。多くの仲間たちに驚嘆と嫉妬の視線を浴びせられつつ鈴華と共に食事を取った光志は、自分たちが所属する第二大隊の宿舎と周辺を彼女に一通り説明しつつ案内した。
貨物コンテナを利用して拵えられた宿舎は、軍事病院からほど近い、かつて防災体験施設が
あった広大な敷地に建ち並ぶ。その一帯が第二、第三大隊のコロニーとなっており、生活に必
要な空調や水回りといった最低限の設備が整っている。
「マレーシアの難民キャンプより恵まれてるわね。建物はまだしっかりしてるし、シャワーも
仮設のものがあったし」
安堵した様子の鈴華だが、その表情は曇っている。上位悪魔ベリアルが東南アジア諸国を火焔の海に沈め、そのほとんどが滅亡したことは記憶に新しい。怒放隊を率いて国から国へと渡って戦い続け、犠牲と滅亡を何度も見てきた鈴華は、当時のことを思い出しているのだろう。
「……他の国の生活水準はどうなっていたんですか?」
「ここより大分酷かったわ。水も食料も足りてないし、衛生や医療環境が整備されてない地域
がたくさんあったの。せっかく少しずつ発展してたのに、【開戦の日】以来、熟達の大人たちが
みんな死んだせいで、発展前の水準に逆戻り。向こうの人たちの死因は、餓死と病死が悪魔に殺されるのと同じくらいの割合を占めてた……」
口を噤み、今の質問は不謹慎だったと後悔する光志だが、
「――聞くべきじゃなかったと思ってる? 平気よ。生きていること自体が不幸な時代だもの。みんな親を亡くして、満たされない生活を強いられてる。ただ、あんたたち日本人は、環境に
焦点を絞れば恵まれてるってだけ。だからって、それをあんたたちに振りかざして、とやかく
言うつもりはないわ」
相手の立場も尊重した鈴華の物言いに畏敬の念を抱き、光志は自分たちの境遇を思い返す。
「……あなたの言う通りだと思ってます。僕たちには、自分の境遇を嘆く資格はありません」
光志は強くありたいと考えて努力してきた。その努力ができたのは、整った生活環境の下、飽く迄身体がまともに動いたからに他ならない。病や怪我で動きたくても動けず、諦めざるを得ない人がいることを忘れてはならないのだ。
「嘆いてしまったとしても、いずれはそれを怒りに変えて、世界を壊した悪魔どもを叩きのめす原動力にするべきよ。戦って復讐することが、あたし達兵士の存在する理由なんだから」
そう話す鈴華の視線は、下向けられたまま動かない。
「……復讐が済んだら、もう要らないと?」
光志の問いに鈴華は首肯する。
「そうよ。すべての戦いが終わったら、無理に生き続ける必要も無い。だってそうでしょう? 死後の世界も無ければ、生まれ変わる保証も無いんだもの。……これまでいくつも国を渡り歩いて、数えきれないくらいの死を見てきたからわかる。どんなに守ろうとしても、どんなに抗っても、最後には心も身体も滅んで、思念粒子っていう、目に見えなければ触ることもできない存在になって、それでおしまいなんだから……」
かつて人は、生前の行いによって死後の行き先が決まると考えていた。しかし、思念粒子と
上位界の存在が明らかにされてからは、それが一変したのだ。天界や混沌といった上位界は、
飽く迄神や悪魔が存在する世界であって、人が人生を終えて辿り着く場所ではなかった。
人には天国での安寧も、地獄での苦しみも無い。人は死後、神の気まぐれで転生する場合を
除き、いずれの者も思念粒子となって世界に滞留し、神や悪魔、あるいは人間界で生きる者の
エネルギーとして消費されるのだと解ってから、人の生と死に対する価値観が問われるようになっていた。
「僕は、今を生きて戦うことを重んじるようにして、死後のことは考えないようにしてきました。だって、それを考えたところで、虚しい気持ちになるだけじゃないですか」
「事実を知っていながら目を背けて、幻の希望に縋っている方が虚しいと思わない?」
鈴華が心に抱くものは、光志たちとはまるで違う、どこか絶念を思わせるような考え方だ。
「人に生きる意味なんて元々ないのよ。でもあたし達はこうして生きてる。どうしてだと思う? 神様の気まぐれ? 悪魔たちの餌になるため? 何にせよ、自分よりも強大な存在に好き放題利用される道具に過ぎない。それが人間。どう考えて動いたって、道具は道具として終わる」
「……最後の運命がみんな同じなら、道中はどうであっても変わらないってことですか?」
光志が問うと、鈴華は肯定した。同意は示せない光志だが、その考え方を真っ向から否定することもできない。
鈴華が導き出した答えは、単なる諦めではなく、彼女たちがすべての事実を在るがまま受け
入れ、天秤に掛け、屈託のない現実視で諦観した結果なのかもしれない。
「でも、その考え方は寂しすぎます。悲しくなりませんか?」立ち止まって、光志は言う。「人との出会いも、思い出も全部、無意味ってことになる」
「確かにそうね。人の想いも、努力も、最後には消えて無くなってしまう。ここだけの話ね、日本語だと悲憤慷慨って言うのかしら? あたしも初めはとにかく悔しくて、悲しくて、散々泣いたの。世界の理不尽さに耐えられなかった……」
星の見えない夜空を振り仰いだ鈴華の眼が、遠くを見るかのように細められる。
「本当の地獄は悪魔どもの世界じゃなくて、この人間界だって思った。必死に戦っても全員は守り切れなくて、消耗し切って、結局はその苦難も無駄で、……でもそれが、生きてる限り続く。とうとうあの人(、、、)までいなくなって、あたしの生きる理由は復讐だけになった。そうして最後に行き着いたところを死に場所にするって決めた。こんなに冷たくて救いのない世界に、長居は無用よ」
鈴華は吐き捨てるように言った。
「……あの人?」
「あたしの前に怒放隊を率いてた、最初の大隊長よ。ものすごく厳しいけど、根はとても優しい人で、ベリアルが放った焔からあたしを庇ってくれた。……あんたを見てると彼を思い出すの。面影がね、どことなく似てるのよ。まぁ、あんたは彼ほど厳しいようには見えないし、彼はあんたみたいなもやしじゃないけどね」
そう言って、鈴華は光志を見つめた。
「……戦死なさったんですね?」
光志が聞くと、鈴華は小顔を小さく縦に振った。
「彼に限らず、男はみんな死んだわ。あたしたち女を庇ってね。結成当初は、怒放隊にも男は
大勢いたの。その誰もが口を揃えて言った。前衛は男の役目だ、女は下がれって。当時のあた
し達は、言われた通りにすることしかできなかった。それがとても申し訳なくて、悔しかったわ。だから誓い合った。もっと強くなって、自分たちも前に出るって」
その誓いが彼女たちを強くしたのだろう。だが強くなった反面、仲間を失い、復讐以外に生きることへの意義を見出せなくなってしまっていた。
「――あたしは、人間に生きる意味はないって言ったけど、あんたは逆の考えなの?」
鈴華の質問に、光志はすぐに答えを返せない。
人は何のために生きるのか。自分自身は――。
今後生きる上で起こり得るのは、束の間の快楽と深い苦しみ、そして悲しみだけだとしたら?
そうしてそのまま歩み続けた先で待ち受けているのは虚無だけだとしたら?
それでも尚、生きようと思えるようなものが、この世界に、そして自分の中にあるだろうか?
「……僕は、生きたい」
光志は言う。脳裏に思い浮かぶのは仲間たちとの、そして空梨との思い出。
「――たとえ、すべての人といつか別れる運命だとしても、意味が無いとは思いません。僕は
最後の最後まで、命の限り生きたい。大切な仲間との繋がりを守りたいから。限りある時間が許す限り、仲間と過ごしていたいんです。僕にとっては、それが幸せだから。そうして精一杯生きれば、後から続く人たちに何か意味を残せるかもしれない。僕たちが生きたことで生み出せた何かを、受け継いでもらえるかもしれない。そういう因果は、無意味とは言わないと思います」
光志の考えを聞く鈴華の表情は、意外にも穏やかだった。
「それが、あんたの答え?」
彼女の問いに光志は迷わず頷く。
「はい。……だから、人の努力も、人の死も、それぞれが捨て難い意味を持っていて、何一つ無駄にはならないと思います。生きている限り、何もないところから何かを生み出せるんじゃないでしょうか? たとえ亡くなっても、その思念粒子――思い(、、)が、誰かの糧になる。それがすべて無駄だなんて、誰にも決められない」
「……そっか」
まるで微かな喜びが兆したかの如く、鈴華の柿色の瞳は闇夜の中で瞬き、その小さな感情が次第に強固な根を張るかのように、眉宇が引き締められた。
「それもまた一興よ。たまには意見交換、してみるものね……」
鈴華の和やかな微笑みは、光志の意志への理解を示していた。この対話で彼女の生への価値
観が少しでも良い方向に進むことを、光志は祈る。
『国際展示場駅付近に悪魔の出現を確認。各員、戦闘配置』
しかし、その祈りを踏み躙るかのように、悪魔出現を知らせる警報が鳴り響いた。
†
悪魔出現の報告を受けた筒香龍彦は幻霊装騎=【ヴァイシュラーヴァナ】を起動し、壁や水
面などを高速走破可能な権能によって、本部から真っ先に国際展示場駅のロータリーに到着した。夜の帳が下りた駅の出入り口を背にして、人型の悪魔が立っていた。駅周辺を巡回中だった兵士たちが既に駆け付けていたようだが、その悪魔の前に累々と横たわったまま動かない。
「お前は何者だ?」
筒香は対話を試みつつ、敵を観察する。
竜や鰐を思わせる獣じみた頭部を持ち、人間の域を遥かに上回る強靭な肉体の背丈は目測三メートル。鳩尾の部分ではコアと思しき深紅の球体が鼓動する。視覚カメラで得た情報を、筒
香はすぐに【思念回線】で司令部へ送信。アダムがそれを元に敵を解析するよう仕向けた。
「俺の名はベリアル。天界で二番目に創られし者にして、【黒の会議】が一柱。変換装置を始め、貴様らの住処を破壊する任を受けている。その出で立ち、その気配、貴様も戦士だな?
名乗るがよい」
上位悪魔=ベリアルが、焔を宿した大剣を担いで筒香を睨み据えた。
「統合防衛軍東アジア支部第三機甲連隊司令官、筒香龍彦。筒香孝仁の息子」
出力霊体のような思念による交信ではなく、肉声を発した悪魔に驚愕しつつも、筒香は表情
に出さぬまま答えた。
「――一人だけか?」
「然様。俺は有象無象と群れるつもりなどない」
筒香の問いに、ベリアルは荘厳と返す。
ベリアルから放たれる邪悪な気配に、筒香はこれまでにない脅威を感じていた。九十九里に現れたアガリアレプトをも凌ぐ悪意に満ちたベリアルの負の思念は、ただそこに滞留しているだけで、恐らく生身の人間を呪い殺すだろう。
『警戒せよ。ベリアルの焔は法則を無視し、あらゆるものを焼き尽くすと聞く』
と、毘沙門天の警告がHMDに表示される。筒香は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、帯びていた太刀の柄に手を掛けた。
「来い。その太刀で俺の剣が折れるか試すがよい」
ベリアルは担いでいた大剣を右手で軽々と振り、切っ先を筒香へと向ける。
筒香は居合いの構えでベリアルへ肉薄。太刀筋の読めぬ斬撃を放った。
ベリアルは大剣で怯みも遅れもなく迎撃。金属同士の衝突音が幾度も響き、筒香の刃に紅蓮
の焔が燃え移る。
筒香は二メートル以上ある大剣の間合いから一旦外れ、太刀を一振りして焔を払った。
「ほう。俺の焔を払ったか! その刀、鈍ではないとみえるな。優秀な人間は屠るなとの命
も受けている。他の雑魚共は変換装置を叩く前に尽く屠るつもりだが、邪魔立てしなければ貴様の命は取らぬ。そこを退け」
「断る。ここはお前のような者が存在していい世界ではない。直ちに混沌へ戻れ」
賛辞を贈るほどの余裕を見せるベリアルを前に、筒香の額から汗が流れる。今の打ち合いで、ベリアルとの力の差を痛感したのだ。
「大佐を援護しろ!」
そこへ、本部や宿舎の方から【サムライ】を起動した兵士たちが続々と駆け付け、ロータリ
ーの中央へと進み出たベリアルを包囲した。
「思念粒子砲、構え! 撃てッ!」
筒香の号令で、無数の砲口がベリアルを捉え、青白い光弾を放った。それらは寸分の狂いも
なくベリアルの巨体へ命中し、眩い閃光を伴う大爆発を引き起こした。
「――無力とわかっていながら、貴様ら人間は何故そうまでして抗う?」
爆炎の中から、傷一つない大柄な肉体が露になる。
「いと高き者(、、、、、)よ! 聞いているか? 見ているか? 俺は貴様の造った度し難い者どもを再び屠る! 優れたこの俺を見限り、混沌のマグマの底に落とした愚かさを悔やむがよい!」
ベリアルは天を振り仰ぎ、大剣を掲げて獣のように吠え猛る。
「怯むな! 撃ち続けろ!」
そう指示した筒香は、部下たちの発砲に合わせて空高く跳躍――ベリアルの頭上から、大上
段に構えた太刀を振り下ろす。
ベリアルは鋭い牙を剥き出しに、邪悪な笑みを浮かべた。
†
「悪魔ですって⁉」
警報を耳にした鈴華が、駅の方角を睨む。
これから不入斗博士のところで空梨のことを詳しく聞こうというときに! と、タイミングの悪さを恨む光志だが、そんな感情は捨て置き、早急に行動を起こさねばならなかった。
「……僕は宿舎に戻って、【サムライ】の実現モジュールを着けてきます!」
「あたしの騎体は司令塔にあるから、急いで取ってくる! あんたは仲間と合流して対応しなさい。一人で無茶はしないこと! いいわね?」
光志が頷くと、鈴華は陸上選手さながらの速力で司令部へと戻っていく。
光志は宿舎に視線を向ける。既に実現モジュールを装着した兵士たちが、声を掛け合いながら躍り出ていた。
「光志! 敵襲だ!」
台車を押して皆にメンテナンス済みのモジュールを配っていた涼吾が、その一つを光志に投げて寄越した。
それを起動した光志は、涼吾と共に他の兵士たちに続こうとして、しかし踏み止まった。
「どうした?」
「……僕が敵の立場なら、本部の西館にある変換装置を叩く。出現した場所から考えて、これは奇襲攻撃なんじゃないか? 敵の規模は不明だけど、ここは西館に行くべきなんじゃ……?」
と、光志は涼吾に賛否を問う。
「だけど、筒香大佐たちは駅の方へ向かったって話だぞ?」
涼吾が国際展示場の方角を指し示したそのとき、
ドォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォウ‼
と、大地が慄くほどの爆発音が有明中に轟いた。
思わず身を屈めた光志たちは、一斉に駅の方を振り返る。ここから二百メートルほど離れた地点から、大きな黒煙が膨れ上がっていた。
「今のはなんだ⁉ 爆薬の音とは違うぞ⁉」
「無人機もまだ来てないから、空爆じゃない! 別の何かだ!」
兵士たちが口々に叫ぶ。
『みんな聞こえる⁉ こちら司令室の不入斗! 筒香大佐との交信が途絶えたから、臨時で指揮を任された者だ!』
そこへ、【思念回線】を介して不入斗から通信が入る。
『よく聞いてほしい。敵の正体はベリアル。アジアの国々を滅ぼした奴で、九十九里に現れたアガリアレプトより格上だ。だから無暗に挑んでも勝ち目はない。これを聞いている者はただちに司令塔に集結してくれ! 変換装置を守りながら、戦力を集中して迎え撃つんだ!』
「聞いたか? 涼吾」
「ああ! お前の言った通りだ!」
光志は涼吾と頷き合い、本部へ向けて走り出した。
†
圧倒的戦力差だったにも拘わらず戦況を覆されたことに、筒香は己の判断を悔やむ。
ベリアルが大剣から放った津波の如き爆炎によって筒香たちは皆吹き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられたのだ。一撃で防御円が消滅し、騎体も大破。剥き出しのモジュールは黒く燻り、その下に着用している軍服も至る所が焼け焦げ、爛れた皮膚が覗いている。
濛々(もうもう)と立ち昇る黒煙で空が見えない。ベリアルは忽然と姿を消していた。恐らく、空間跳躍の類の権能で本部へ飛んだに違いない。
筒香たちを一旦離れた場所におびき寄せた後で本命を叩く、敵の策略だ。
意識を保っているのが奇跡だった。仰向けの筒香は僅かに身を起こして周囲を見る。焔の去
ったロータリーに大勢が倒れているものの、半数以上は息があるらしく、方々から呻き声が聞こえる。
筒香は悔やみや怒りといった雑念を心の隅に押しやり、思考を巡らせる。幻霊装騎を失い、インカムを紛失した今、本部と交信する手段が無い。だがいずれかのコロニーの宿舎に行けば、【サムライ】のモジュールとインカムがあるだろう。
ふと、筒香は自分の顔のすぐ傍に一枚の写真が落ちていることに気付いた。それは自分がいつも軍服の胸ポケットに入れて持ち歩いている家族写真だった。
辛うじて動く右手で写真を掴んだ。その中では、年の近い妻と幼い娘が温かく微笑み、筒香を見つめている。彼女らは、無数の悪魔が世界各地を襲った【開戦の日】に犠牲となっていた。【人型(Hタイプ)】の鋭い腕に胸を貫かれ、別れの言葉を言うことすら叶わず、即死だった。
「……ッ!」
火傷を負った部位から、ジリジリとへばりつくような激痛が襲ってくる。それを信念で耐え、
筒香は立ち上がった。敵が動いている今、一刻も早く次の行動を起こさねばならないのだ。
自分が部下たちを勝利へ導くと亡き家族に誓った男は、この程度の苦痛には屈しない。
彼は、誓いを果たすために生きるのだ。
†
ついに来た。復讐の時だ。
先ほど光志と話したときに生じた、心が洗われるような感覚は遠のき、代わりに積年の恨みが心身を覆うように煮え滾っている。
怒りに身を任せ、突き抜けるように走る鈴華は、司令塔に入ると息を乱すことなく六階まで一気に駆け上がり、来賓用の宿泊室へ飛び込んだ。
汗に塗れた上着を脱ぎ捨て、怒放の実現モジュールを掴み取った鈴華だが、部屋の姿見に映る自分が目に入り、僅かな間手を止める。
細身ながらも見事に鍛え上げられた肉体は、揺るぎない復讐心で造り上げたものだ。しかし艶やかだった肌は、これまで行われてきた数多の戦闘によって傷や痣に塗れていた。
鎖骨から胸の下までを呪うかのような火傷痕。腹筋の割れ目を斜めに引き裂くかのような裂
傷跡。これらはすべて、今まで戦ってきた証である。
「…………」
死ねば何も残らないと分かっているはずなのに、成長して戦う自分たちの姿を、あの人(、、、)に見てもらいたいと願う己がいる。
『僕は、生きたい』
そんな彼女の脳裏を、光志の言葉が過る。彼の考えを聞いたとき、自分はどうして、安堵(、、)したのだろうか? そも、なぜ彼に案内など頼んだのか?
『――鈴華。たとえこの身体が滅びても、俺はお前たちを守り続ける。死後にはなにも無いな
んて、俺は信じない。俺の思念は、お前たちと共にある――』
かつて怒放隊を率いていた男の声が重なる。
「あんたはもうどこにもいない! あたしには、復讐しかないんだ!」
邪念を振り払おうと、鈴華はその拳を姿見に打ち付けた。手の甲に痺れるような痛みが湧く。
『人の努力も、人の死も、それぞれが捨て難い意味を持っていて、何一つ無駄にはならない』
「なんで、こんなあたしに、そんな優しいこと……」
『最後の最後まで、命の限り生きたい。大切な仲間との繋がりを守りたいから。限りある時間が許す限り、仲間と過ごしていたいんです。僕にとっては、それが幸せだから』
手先から滴る血を見つめる鈴華の耳に、光志の言葉が幾度も響いた。
†
衛生兵の簡易的な回復処置を受けて体力を取り戻した空梨は警報を聞くと、不入斗に別の騎
体の使用許可を取り付けるべくすぐさまベッドを出、司令室へと向かっていた。
六階の通路を足早に移動しているときだった。突如、角から鈴華が現れ、互いに目が合って立ち止まった。
「っ! ……あの……」
「…………」
突然の出会いで、空梨は言葉に詰まる。
短い沈黙のあとで、徐に片手の甲を隠した鈴華が切り出す。
「こんな状況だから手短にするけど、運動場でのことなら気にしてないわ。あんたが見せた、人が変わったみたいな状態には、あたしも心当たりがあるから」
まさにそのことについて謝ろうとしていた空梨はそれでも尚、頭を下げた。
「ごめんなさい。わたし、あんなことするつもりじゃ――」
そんな空梨の肩に、鈴華は手を乗せる。
「いいのよ。あたしだって、つまらない対抗意識で、あんた達に失礼な態度を取っちゃったし。出力霊体に乗り移られたんでしょう? 似たような事例を聞いたことがあるの」
「わたし以外の人にも、そんなことが……?」
サリエルは寡黙な天使であるため、そういった神々の事情を聞く機会がなかった空梨にとって、それは初めて耳にする情報であった。鈴華が頷く。
「でも、あんたの場合はちょっと事情が複雑そうね。向こう(、、、)でいろいろあったんでしょう?」
空梨は鈴華と目を合わせ続けるが、しかし頷くことはしない。口に出さないだけで、誰もが辛い過去を背負って生きている。
「――今もそうしてパイロットやってるだけで勲章ものよ」
「それは、鈴華さんも同じです」
空梨の言に、徐に視線を落とす鈴華。空梨は彼女に憂いの影を見た。
「……あたしは、そんな器じゃないわ。あたしの中にあるものと、あんたの中にあるものはきっと違う。例えるなら、あたしは影。あんたは月」と、鈴華は悲し気に目を細めたまま微笑む。
「――ごめん。いまの忘れて」
視線を逸らしたまま背を向けて去ろうとする鈴華に、空梨は言う。
「権さん! わたし、あなたのこともっと知りたい」
「それどころじゃないでしょ?」
「ぜんぶ終わってからでいいです。――だから今は、一緒に戦ってくれませんか?」
空梨の問いに、顔を上げる鈴華。
「こんなあたしにそう言ってくれてありがとう。あんたはあたしに無いものを持ってる。……人を頼るのって、勇気が要ることだもの」
背を向けたままの鈴華は、半分振り返って付け加えた。
「――あんたの相棒、サリエルって言ったかしら? 気を付けた方がいいわ。天使がみんな味方とは限らない。神様に創られた存在という意味では、天使もあたし達人間も同じ。失敗することもあれば、罪を犯すこともある。――つまり、不完全だってこと」
そうして走り去る鈴華の背を見つめる空梨は、しかし鈴華の目に宿る、壊れかけの憎しみの雫に気付かない。
†
「アダム、一緒に戦術を練ってくれ。各個撃破されないために、兵士たちには司令塔に集まるよう指示したけど、君はどう戦えばいいと思う?」
司令室に据えられた数多の監視モニターを睨みながら、不入斗はアダムを呼んだ。
『ベリアルの法則密度は三・〇。我々が成し得るあらゆる事象を覆す力を持っています。正攻法での撃破は絶望的と判断。変換装置による自爆攻撃を提案します。成功確率は一八%』
「自爆なんて御免だよ。君は機械(AI)なのに、人間並みにネガティブなことを考えるんだな!」
と、不入斗は額を押さえる。変換装置には膨大な思念粒子が蓄えられており、思念適性の高
いパイロットの騎体などから自爆を命じる思念を送ることで、蓄積した思念粒子に【破壊】の
権能を付与したうえで一気に解放し、大爆発を起こすことが可能なのである。思念粒子によって引き起こされる爆発であるため、実体にではなく、霊体に高いダメージを与えるとされてい
るが、爆発範囲内で稼働する全ての幻霊装騎の大破をも意味する。前例が無いため、人体への
害は全く出ないとも言い切れない。そんなリスクを含む行為を容認できるはずがなかった。
『では、稲葉空梨を再び覚醒させ、【ホワイトイーヴィル】の法則密度を減らし、ベリアルと対等な存在として戦わせるのは如何でしょう』
「それをやるにしても、【ホワイトイーヴィル】は今のままじゃ使えない。京都になら、まだあの騎体(、、、、)が残っているけど、再起動させに行く時間なんて無いし、成功する保証も無い……」
苦悶の表情を浮かべる博士の背後で扉が勢いよく開かれ、空梨が飛び込んできた。
「――博士! わたしに【サムライ】を使わせてください!」
「具合は平気なのかい⁉ いくら君でも、【サムライ】でベリアルと渡り合うのは無理だよ!」
「違います。わたしはサリエルを従えに行くんです! それには、こっちが本気だって解らせるための武装が必要なんです!」
不入斗は、空梨の垢抜けた表情に気付いた。アメリカ戦線の頃から長い間、どこか影の差した趣だった空梨にとって、日本に戻ってからの時間はそれだけの価値があったということだろう。
外で再び大爆発が起こった。司令室の窓という窓が砕け散り、司令塔全体が大きく揺れ、高い天井から砂埃が落下。外から吹き込む熱風(、、)に騒ぎ立つ兵士たち。彼らの見つめる先は東館。そこがまさに今、地獄のような大火焔に包まれていた。
『東館の第一ホールから第八ホールにかけて、大規模な火災発生。ベリアルの反応あり』
と、アダムが状況を解析するが、空梨と不入斗の交叉した視線は動かない。
「……危険を承知で言っているのかい? 敵がすぐそこまで来ているんだよ?」
「だからこそです。わたしは昨日の夜、あの空で答え合わせをしました。そうして、本当の答えを見つけたんです」毅然とした面差しで、空梨は言う。「お願いします。やらせてください、博士。今度は絶対に負けません。わたしは一人じゃない。……仲間がいてくれて、頼ってもいいんだって、やっと解ったから!」
「……条件がある。御先くんを必ず守り抜いてほしい。あとで詳しく話すけど、君にとって、彼の存在が一番重要なんだ」
不入斗の要望に、空梨は眉宇を引き締めて頷いた。
「はい! 博士」
†
階段を駆け上がり、司令塔と西館へ通じる広場――エントランスプラザに差し掛かったとこ
ろで、光志たちは東館からの爆風を受けた。大勢の仲間たちと共に身を伏せ、防御円の残量をチェックすると、思念粒子砲を展開させて立ち上がる。
「野郎! 東館に変換装置があると思って、全部燃やしやがったのか⁉」
と、誰かが怒りの声を上げ、
「中にいた連中はダメだ! 今は敵を迎え撃つんだ!」
今にも崩れそうな東館へ助けに向かおうとする仲間を、他の仲間が制止する。
「――次は西か南、それか司令塔の建物がやられるかも! 【ホワイトイーヴィル】はきっとまだ戻ってない。だから僕たちで守らないと!」
空梨は司令部にいることを知らぬ光志が言うと、涼吾がその場の全員に指示する。
「総員、三列横隊を組め! 悪魔を通すな!」
一同は訓練通りの素早さで、東館に向けて隊列を形成した。筒香大佐と連絡がつかぬ今、悪
魔に立ち向かえるのは自分たちだけだという自負を抱いて、彼らは互いを鼓舞し合う。
ガラス張りの自動ドアが全て消し飛び、今や大きな口を開けるに至ったエントランスホール
の奥から、東館との連絡通路を突き進み、上位悪魔――ベリアルは現れた。
「――愚かなる人間どもよ、見るがいい。俺がこうして貴様らの住処を破壊しても、いと高き者(、、、、、)は何の救済もしない。いくら祈りを捧げようと、貴様らは灰燼と化す運命にあるのだ。であれば、どうだ? 抗って生きるほど愚盲なことはあるまい!」
人の背丈を優に上回る大剣を担ぎ、一対百余りの戦力差など意に介さぬ様相で、ベリアルは
おぞましく低い声を発した。
「次はその司令塔を焼く。変換装置は、無能な木偶どもを始末した後だ!」
「――そんなこと、あたしが許すと思う?」
と、鈴が鳴るような少女の声が答えた。隊列を組む光志たちの上を軽々と飛び越え、怒放を纏った鈴華が駆け付けたのだ。
「一人で男どもを庇い、この俺に立ちはだかるとは見上げた小娘よ! 名乗ることを許す」
臆することなく槍を構えた鈴華を前に、ベリアルは鼻腔から呼気の如き炎を噴出した。
「あたしは権鈴華! 権銀華の娘! 今ここで、お前に殺された同胞たちの仇を取る!」
「――っ⁉ 一人で敵う相手じゃない!」
光志は思わず叫ぶが、兜の下に覗く美貌を怒りで歪める鈴華には届かない。
「あたしがあいつを押さえるから、あたしごと撃ちなさい!」
そう言い放った鈴華は面頬を展開。一弾指にも満たぬ間にベリアルの眼前へ突撃した。
「覇ッ!」
勇ましい気合いの一閃がベリアルの大剣と激突。激しい火花を散らす。
鈴華の槍が重量差で押し負けて弾き返されるが、その反動を逃す鈴華ではない。
「ッ!」
槍を瞬時に背負い、斬撃から体術へとシフト。華麗な連続回し蹴りを繰り出した彼女の挙動に、ベリアルが唸る。
しかしその機転も、上位悪魔の強靭な肉体には何の意味も成さない。
ベリアルの剛腕が鈴華の首目掛けて伸びる。彼女は足払いを掛ける動作で身を屈めやり過ごすが、ベリアルの脚はビクともせず、間に髪入れず大剣が横薙ぎに襲い掛かった。
鈴華は咄嗟に大剣に対して背を向け、そこに斜め掛けした槍で斬撃を受け止めるも、あまりの膂力に身体ごと容易く打ち飛ばされた。
「くっ⁉」
空中で鮮やかに身を捻り、目を見張る挙動で着地した鈴華は、肩甲部の思念粒子砲を起動。
「うぉおおおおおおおおおおおッ!」
気炎万丈に叫び、四連式のそれから眩い光弾を連射。同等の速度で再度ベリアルへ肉薄する。
「権さん、あなたは……ッ!」
まるで盲目な復讐心に駆られたかのような鈴華の戦いを見て、光志は悟る。彼女は光志たち
の思いと向き合わないまま、繋がらないまま、ここを死に場所にするつもりなのだ。
「超えて見せよ! 筒香にも引けを取らぬ娘ッ!」
まだ一歩も動いていないベリアルはそう言うと、口腔から世界を揺さぶるかのような咆哮を放った。その巨体に生じた無数の裂け目から焔が噴出し、荒れ狂う熱風に挑んだ鈴華を返り討ちに焼き焦がし、光志たちの方へと吹き飛ばした。
「大尉!」
咄嗟に前へ出た光志は腕を広げ、白煙を上げる鈴華の騎体を受け止めた。
面頬が砕け散り、眉間に皺を刻んだまま、鈴華は悔し気に歯を食い縛る。
「――撃てッ!」
涼吾の打ち付かるような声と共に、隊列から思念粒子砲が放たれ、ベリアルを直撃。
「掛かれッ!」
畳み掛けの合図で、兵士たちが鬨の声を上げて突撃するが、嵐に吹かれる藁の如く次々に薙ぎ倒され、焼かれ、斬り飛ばされていく。
これほどの連撃を受けても尚傷一つないベリアルの嘲笑が響き渡り、周囲には騎体を失って倒れ伏す兵士たちが広がった。
辛うじて生き残り、肩で息をする涼吾と数人の仲間が、光志と鈴華を庇うように立つ。
「――大尉はここにいてください」
鈴華に回復の権能を掛けていた光志は、自身と仲間の防御円の残量を確認し、意を決して立ち上がる。
「……駄目よ。あたしが囮になるから、あんたたちはその間に逃げなさい」
「僕は逃げない!」
と、光志は背後に横たわる鈴華に向けて言い放つ。
「だけど、あなたは逃げようとしてる! あなたのことを想う人たちを差し置いて、生きるこ
とに背を向けようとしてる! なにもかも無意味と決めつけて自ら死に向かうあなたを、先立った人たちが、残された人たちが、みんな快く思うって言うのか⁉」
光志の言葉に、鈴華は下唇を噛んだ。
「……そんなの、あたしだってわかってるわよ! でも、どうしようもないじゃない! もう、誰もあたしを導いてくれない。希望も、絶望も、ぜんぶ嫌なの! 弄ばれることに疲れたの!」
彼女が求めているのは、復讐という行為の先にある達成感などではない。
〝人に生きる意味なんて無い〟彼女はそう言った。可能性を否定し、すべてを投げ捨てた絶
念。それを自覚したうえで、彼女はしかし、きっと違うものを求めている。
「疲れたなら、助けてもらえばいいじゃないか! 意味が無いなら、一から創ればいい!」
光志は、昨夜に空梨と交わした会話を思い出す。鈴華もまた、空梨と同じように、一人で背負い過ぎている。そのうえ大切な人を失い、残酷な世界を、人間の定めを、心の底から憎むよ
うになってしまった。誰もが陥る可能性のある闇に、鈴華は呑み込まれてしまっていた。
「手を伸ばせ! 僕たちが掴んで、引っ張り上げるから!」
「……っ!」
鈴華の頬を、大粒の涙が次々に伝い落ちる。きっと彼女は誰かに、そう言ってもらいたかっ
たのだ。ただ、自分から手を伸ばすことを、自分では許せなかっただけなのだ。
「――よもや貴様は……! 何故ここに⁉」
そのとき、前に進み出た光志に目を向けたベリアルが、驚愕したかのような声を上げた。
「久方ぶりに気配を感じたと思えば、斯様な様とは……なるほど。裁かれたという噂は真であったか! ガブリエル(、、、、、)!」
名高い大天使の名で呼ばれた光志は、更に踏み出そうとした足を思わず止める。
「なんのことだ⁉ 何を言ってる⁉」
光志の問いに、ベリアルは侮蔑を込めた笑い声を上げる。
「記憶まで奪われたか! その力無き姿、滑稽なり。だが、いくら人間に格下げされても、俺の目は誤魔化せぬ。貴様に味わわされた苦痛を、忘れるとでも思ったか⁉」
「僕は天使じゃない! 見ての通り、ただの人間だ!」
「笑止。俺が思い出させてくれる! 屠るにしても記憶が無いのでは、俺が貴様に与えられる苦痛は事足りぬ! それでは腹の虫が収まらぬわ!」
ベリアルがそう言った瞬間、光志は身動きが取れなくなり、何者かの記憶がHMDに映像として表示された。ベリアルの思念粒子が、乾闥婆のそれを跳ね除けて流れ込んでくる。
†
光志は見覚えのある景色の中に立っていた。
眼前には大仏様の荘厳な仏殿――金堂が聳えている。京都府東寺の境内だ。辺りは炎の海と化し、真冬であるにも拘わらず、胸が焼けるような熱さが支配していた。
これは、【開戦の日】の記憶。光志の最初の記憶(、、、、、)だ。
「……っ⁉」
光志の頭に痛みを伴う衝撃が迸り、激痛に思わず身を屈めた。同時に、それ(、、)以前の記憶(、、、、、)が
次々に蘇る。
【開戦の日】。戦火渦巻く京都に姿を現したガブリエルは、東寺に迫る悪魔を尽く滅ぼし、その広大な敷地内で泣き崩れる一人の幼き少女を見出した。名前は稲葉空梨。ガブリエルが出力霊体となって支えた人間――稲葉知登世の娘だ。
超人工知能=リリスが生み出した変換装置と実現装置。その革命的な新技術を使用し始めた不入斗らと最初に交信を行ったガブリエルは、彼女らに悪魔の攻撃が迫っていることを知らせ、
出力霊体を名乗り出たのだ。
試作幻霊装騎のパイロットに選ばれた稲葉知登世のパートナーとして実験に協力したガブ
リエルは、思念による会話を続ける内、夫を病で失い、女手一つで娘を育てる知登世という人間に対し、より特別な興味を持つようになった。
知登世が搭乗型の試作騎のパイロットに任命されてからも、ガブリエルは彼女のことを見守り続けた。故に、彼女が試作騎の起動に失敗し、【黒い死】に襲われたとき、ガブリエルは救いの手を差し伸べることに逡巡した。
神々の定めた【掟】があったからだ。
その【掟】には、天使としての立場を弁え、過ぎた救いを人間に与えてはならないという戒めも含まれていた。過度な助けは、やがて人間に堕落をもたらすからである。
知登世が【黒い死】に呑み込まれるとき、ガブリエルは差し伸べようとした手を引いた。【掟】が脳裏を過り、行動できなかった。
しかしガブリエルは、自分が取った選択を激しく悔やんだ。彼は(天使に性別は存在しない
と解釈されているが、ガブリエルは主に男性として語られる)、知登世という人間を愛していた
のだ。
彼女への償いとして、ガブリエルは知登世が最期に言い残した願いを叶えることを決意した。だがそれは同時に、【掟】を破ることを意味した。
『ガブリエル、お願い! 私の娘を、空梨を守って!』
そうして知登世の最期の言葉を胸に刻んだガブリエルは、細身の身体に黄金の長髪の美青年という姿はそのままに、白い衣を纏って空梨の前に立った。
しかし、泣いていた空梨と目を合わせた途端、彼は身動きが取れなくなった。空梨の瞳が紅く淡い光を放っていたからである。
「――私(、)が誰か、わかっていますね?」
空梨という少女の口を介して、裁きの天使=サリエルが言った。
「貴方は主の【掟】を破り、人間界に直に降り立ち、過干渉を起こした。よって私(、)が、貴方を罰するために遣わされたのです」
「わかっている。確かに私は【掟】を破ってしまった。だが、私は主が与えて下さった愛を人間にも分け与えているだけだ。主は私の行いを是とせず、裁けと仰ったのか?」
ガブリエルは辛うじて動く口から、少年の声で(、、、、、)サリエルに訴えた。気付けば、彼の背は縮み、髪は黒く短く、子供同然に変貌していた。ガブリエルの天使としての力が失われたのだ。
「人間が受けるのは主の愛であり、天使の愛ではありません。過ぎた行いをしたが故に裁かれるのは摂理というもの。あなたは天使としての地位を失い、人間界に堕ちたのです。対してあなたは、かつて禁断の果実を口にした人間と同じように、仕方がなかったと言うつもりですか?」
ガブリエルは覚悟を決めたはずであった。だが、人間という身になった途端、天使としての
力を失ったことへの絶望と、取り戻したい欲求とに駆られた。
「…………いや。お前の言う通りだ、サリエル」
しかしガブリエルは、亡き知登世の最後の頼みを成し遂げるため、己の欲望をいなした。
「手間を掛けたな。お別れだ」
「いいえ、別れではありません。私はこの娘の目を通じて貴方を監視し、縛り続ける。私の存在を差し置いて、人間の女を選んだ貴方の裏切りを、私は永遠に忘れない」
そう言い残して、サリエルは去った。空梨の瞳が元の青藍な輝きに戻り、恐怖と不安の入り混じった顔でこちらを見ている。
ガブリエルは、天使だったときの記憶が薄れていくのを感じ、胸を押さえた。寂しさという感情を、初めて直に味わったのだ。理解はしていたが、生身で感じるのとはわけが違った。
「――さりえる(、、、、)とやらのお前に対する感情は、友情ゆえの嫉妬なのか? それとも愛か?」
そのとき、川のせせらぎのように滑らかな声が聞こえ、ガブリエルは振り返った。周囲で孔
雀の雅な羽が、炎の赤を寄せ付けず優雅に舞っている。
荘厳な金堂を背に、巫女装束の小柄な少女が立っていた。
おさげに結わえた新緑の髪は炎に煌き、瞳は色鮮やかな緑色で、整った小顔は一華のように白く、十代前半の少女といった面差し。ショートスカートのように短い袴からは白く細い足が覗き、片手には髪と同色の孔雀の尾羽を握っており、扇子のように自身の顔を扇いでいる。
「もし愛であるならば、あの者も罰を受けそうなものだが、お前たちだけの些細な決まり事があるのだろうな……?」
「――貴方は誰か?」
「私は孔雀。日ノ本を守護する明王が一柱。ここに祭られておる明王たちは私の友だ。不遜な
魔羅どもを退けてくれた礼として、お前に人間としての名と加護を授けに参上した次第。お前
が来たことで、この地には今膨大な正の糧(、、、)が満ちておる。人の言葉では正の思念粒子と呼ぶそうだな。それを利用することで、私もこうして姿を現すことができた」
と、名乗った孔雀は続ける。
「とはいえ、人間界の思念粒子は有限。故に、さりえる(、、、、)のような天使や私はここに長居できぬ
が、人間となったお前は別だ。約束を守る覚悟はあるか? 言っておくが、上位の世界から降格したお前の身体は、通常の人間よりも早く衰退するだろう。覚悟の上の選択とはいえ、実際
に生きるのは簡単なことではないぞ?」
「……それでも、私は彼女(、、)の娘を守りたいのだ。私が光となり、娘の足元を照らし続ける。人間になっても、その意志だけは変わらない!」
孔雀の試すような質問に、ガブリエルは毅然として答えた。
「その意志、しかと聞いた。いずれ降りかかるであろう数多の試練を乗り越えた暁には、また力を貸してやってもいい」孔雀はそう言って微笑み、「お前の名は、……そうだな。志す者。
――御先光志と名乗るがいい。縁起のよい名だ」
その少年(、、)に名を授けた。
光志にはもはや、以前のガブリエルとしての記憶は残っていなかった。だが、金堂に火の手が迫る中でも臆さず、己が為すべきことをはっきりと理解していた。
「ここは危ないから、一緒に来て!」
空梨に向けて、自ずとそんな言葉が出た。
「お母さんがいないの! ここで大事なお仕事があるって言ってたのに」
と、空梨は泣き腫らした顔で言い、その場から動こうとしない。
そんな二人を急き立てるかの如く、五重の東寺塔が轟音と共に倒壊し、破片と粉塵が悪魔の息吹のように吹き付け、一時の間視界を奪った。
光志がその気になれば自分だけでも逃げられる。だが、それだけは絶対にしてはならない。
「じきに炎が来る! お母さんは、君が生き続けることを望んでいるんだ!」
どうして自分にそんなことが言えるのか、光志は理解できなかった。しかし如何なる因果か、
空梨の母親が自分の娘へ抱いた想いを知っていた。
「あなたは誰なの?」
と、空梨は眉を顰め、悲しみや訝しみといった幾重もの感情が滲んだ目で光志を見上げた。
「僕は――⁉」
このとき、自分の名前が分からないことに気付いた光志は僅かな間逡巡するが、
『御先光志と名乗るがいい』
と、誰かに言われたことを想起し、咄嗟にその名を口にした。
「光志――御先光志。君を助けに来たんだ」
「わたしを?」
「うん。君のお母さんと約束したんだ。君を守るって!」
空梨の問いに、思い出せる限りのことを答えた。
「じゃぁ、お母さんがどこにいるのかも知ってるの?」
空梨が光志に縋りつく。二人の頭上から無数の火の粉が降りかかる。今や火の手が金堂にま
で及んでいた。
「ごめん。それはわからない……」
「――うぅ」
空梨は再び大粒の涙を零した。幼い空梨にとって、母親の存在はそれだけ大きかったのだ。
「さて、光志。最初の試練だ」孔雀はその容姿とは裏腹の大人びた物腰で、光志に決断を促す。「――どうする? 彼女(、、)との約束を守るか? それとも我が身を優先するか?」
「僕は、この子を助けたい。そのためにここへ来たんだ」
「もはや、お前にそれを強いる者はいない。お前はすべてを失った代わりに、選択の自由を与
えられたのだ。その娘を置いて逃げても構わんのだぞ?」
少女の瞳が、真っすぐに光志を射抜く。対して、光志は頭を振った。
「逃げない。何があっても、この子を安全なところまで連れて行く!」
断固たる意志を示した光志を、空梨が物言わず見上げた。
「ならば、その娘の手を取るがよい。そして導き、約束を果たせ。私がお前たちに加護を授けてやる。必ず生き抜いてみせろ。縁があれば、また見えることもあろうぞ」
と、少女は尊いものでも見るかのように目を細め、あどけなさを孕んだ微笑みを見せた。
「――行こう!」
光志は手を差し伸べ、空梨がこくりと頷き、その手を取った。
†
「――終わり良ければすべて許されるとでも思ったか? ガブリエル。今や貴様は何者でもない、紛い物に過ぎぬ。彼の父に見限られ、既にすべてを失っている。そんな蛻の殻同然の生涯
に価値などない。あるのは、かつて貴様が苦しめた者からの恨みと、貴様が犯した罪科だけだ!」
光志にガブリエルとしての過去を見せ、ベリアルは薄ら笑う。
「僕が、天使……⁉」
光志は突如として明かされた己の過去に動揺し、力無く呟く。
「――僕の思念適性が下がる一方なのも、通常の人間より衰えるのが早いから……?」
「ほう? 少しは察していたようだが、己の定めを知った気分はどうだ? 貴様はこの場にいる誰よりも早く弱り、苦労が報われぬまま、誰よりも早く死ぬ! 貴様は一人孤独に死ぬのだ!
考えてみろ。ただ弱るだけの者に、誰が最後まで付き添うというのだ? 誰もおらぬ! な
らばいっそすべてを捨て、この俺の前に平伏し、首を差し出すのが最良の選択であろう!」
「――いい加減にしろ!」
ベリアルの言に、涼吾が怒鳴る。
「定めなんか知るか! 光志はそれでも諦めずに戦ってるんだよ! 何も知らないで、好き勝手に物を言ってんじゃねぇッ!」
ベリアルの赤熱した溶岩の如き目が細められ、涼吾を睨む。
「木偶にもなりきれぬ弱き小僧よ。その口を閉じなければ貴様が先に死ぬことになるぞ?」
「弱い? 死ぬ? それがどうした⁉ そんなの、俺たちにとっては当たり前過ぎるんだよ!
人間は誰だって一人じゃ弱いし、いつか死ぬんだ。俺たちは全部わかってて、それでもみんなで支えあって、どうにか前を向いて、生き甲斐を見出して進もうとしてるんだ! お前にその志を貶す権利なんて無い!」
涼吾は叫ぶと、【サムライ】の短剣を展開し、ベリアルに挑む。
「仲間の仇だッ!」
光志も雄叫びを上げて涼吾に続いた。前を向いて戦うために。
光志たちはほぼ同時に、ベリアルのコア目掛けて短剣を突き出した。しかし、そこに立っていたはずのベリアルは黒煙を残して消え失せ、次の瞬間背後に現れると、その大剣の腹で二人
を打ち払った。
「ぐぁあッ⁉」
光志と涼吾は司令塔のガラス壁を突き破って内部へと倒れ込む。HMDに警告。防御円の残量が危険領域だ。
「――権大尉は、一人であれだけやり合ったのに、……不甲斐ない!」
「――怪獣女だからだろ……無事なら儲けものだって……!」
歯を食いしばる光志は涼吾に肩を借り、立ち上がる。涼吾も認めていた通り、人間は弱い。だが人間は、その弱さを力に変え、【無】から【意味】を創り出すことができるはずだ。
「いと高き者(、、、、、)は貴様らに、何故、いずれ終わる物事を始めさせた? 奴はそうして物理法則などという限りを設けることで、己に救いを求め、己を崇拝し、己を褒め称える者を欲しただけだ。この世界は、そんな輩の私利私欲のために創造されたのだ! そこで生き永らえることの虚しさと愚かさを自覚しても尚、貴様らはそうして立ち上がるというのか? それでも尚、生きると言うのか?」
「虚しくなんかない」光志は言い、ガラス片を踏みしめ、涼吾とよろめく身体を支え合いながら進む。「――救いを求めることも、立ち上がることも、絶対に無駄にはならない! 人間は一人じゃないからだ! どこにいようと、心は繋がっているからだ! 名前がどうとか、過去がどうとか、そんなの関係ない! どんなに絶望的な状況下でも、終わりが分かっていても、誰かのためになると信じれば、人間は強くなれる! 戦うことができる!」
光志の揺るぎない眼差しに、ベリアルは怒りを剥き出しに唸る。
「……よかろう。そこまで言うのであれば、真っ向から叩き潰してくれる。貴様がこの俺にひれ伏す様を踏み躙るつもりであったが、もはや求めぬ。代わりに、俺の持ち得る全ての力で以って、ガブリエルよ、貴様の答えを芯まで灰にしてくれようぞ!」
「いきなりガブリエルだなんて知らされても、実感湧かないんだよ!」
と、光志は言い返す。
「僕の名前は、御先光志だ!」
†
【思念回線】が機能し、光志たちの声が聞こえる。
装備した【サムライ】を起動後、司令塔の砕けた窓から飛び降り、エントランスホールの屋根を伝って移動し、燃え盛る東館へと飛び込んだ空梨。彼女は防御円をじわじわと減らしつつも焔や瓦礫を避け、東五ホールへと辿り着いた。そこで、光志がベリアルに見せられた過去の
記憶が、映像として空梨のHMDにも表示された。きっと、【思念回線】とHMDの両方を起動している者全員に共有されているに違いない。
映っていたのは、巫女の少女と、幼き頃の自分と、一人の青年だった。その青年は、瞬く間に空梨のよく知る少年へと姿を変えた。
空梨は光志のことが好きだった。その感情は共に避難生活を続けるうちに少しずつ芽生え、統合防衛軍に入隊する頃には大きな花となった。周囲の仲間たちはとっくに花に気付いていたが、空梨にとってそれは、まだ言葉には出せないものであった。
その言葉を口にしたことで、今まで紡いできた関係が変わってしまうのが恐かったのだ。本でも読んだ、よくある恋の話ではないかと自嘲したものだが、実際に本の主人公と同じ立場に身をおくと、その花の尊さが痛いほどに解った。
そうして空梨が想いを寄せ続けた少年の正体が大天使だと知り、しかし空梨は、不思議と何の感情も起こらなかった。
「――だからなんだっていうの?」
むしろそう問い返してやりたいくらいだった。空梨にとって、光志は光志なのだ。共に避難
民として暮らした、大切な家族。そしてそれを超えた、――ただ一人の存在。
「悪魔って、かわいそう」
兜の中で、空梨は人知れず呟いた。今は音声の受信のみをオンにしているため、彼女の声は誰にも聞かれていない。
「遠い昔から、人を苦しめて、絶望に引きずり込むことでしか、自分の尊厳を証明できなかったんだもの。光くんを監視して縛ることしか考えてない誰かさんみたいに……」
鈴華は、空梨が彼女を頼ったことを咎めるどころか、むしろ評価してくれた。それをバネに、
空梨は断固たる眼差しで、仰向けに倒れる騎体――【ホワイトイーヴィル】の傍に立つ。人を
頼ることの大切さに気付かせてくれた仲間たちを救うために、負けるわけにはいかない。
ふと上を見れば、天井が一部崩れ落ちており、瓦礫が騎体を固定する器具を破壊していた。
防御円の残量は半分を切っている。この大火災の中では、長く持たないだろう。
「サリエル! 思念接続なんてしなくても、わたしの声を聞くことくらいできるんでしょう⁉
光くん――ガブリエルが危ないの。取引しよう? この騎体を動かせるのは、ここではわたし一人。動かして欲しいなら、わたしの自由は奪わないと、神の名のもとに誓って!」
もし天井が更に崩れれば、【サムライ】では一溜まりもない。それでも空梨は微塵の恐れも見せず、己が騎体と向き合う。
「それができないなら、もうこの騎体には乗らないし、彼はわたしがもらうから! あなたには渡さない! どうする? あなたが直に手を出せばすぐに解決だよ? ガブリエルと同じように、こっちにたくさん干渉して罰せられる覚悟があるならね! あなたも人間になってみる? それでわたしと勝負する? いいよ。相手になってあげる!」
反応は無い。空梨はそれも読んでいたとでも言うように、【ホワイトイーヴィル】の胸に飛び
乗ると、聖櫃の上に立った。
「そうやって無視を続けるなら、今から聖櫃をぶっ壊す。いいね? これであなたの不戦敗!」
言い放ち、展開した短剣を突き下ろす空梨だったが、その腕の動きがピタリと止まった。
「っ⁉」
短剣を構えた腕が曲げられ、刃が空梨の方を向く。
「――小娘。今まで誰のおかげで生き残って来られたと思っているのですか? 聖櫃を破壊し、この私(、)との繋がりを断てば、あなたも彼も、より死に近づくのですよ?」
空梨の声が意図せず発せられ、彼女は悟る。サリエルが乗り移ったのだ。
わたしは一人じゃない。わたしは一人じゃない!
と、心の中で繰り返す空梨。
『そうだ。お前は一人ではない』
HMDに、文字が現れた。乾闥婆だ。
「やっぱりその気になれば、わたしが騎体に乗っていなくても操れるんだ。まぁそうだよね。
所詮幻霊装騎は、人間が霊体化して、天使や悪魔と対等な存在になるための道具だもん」
乾闥婆が力を貸してくれているのだろう。空梨は全身にありったけの力を込めて抗いながら、今度は自分の言葉を話すことができた。
「無論、力は貸しましょう。ですが、私(、)が舵を取ります。乗りなさい、空梨」
自分自身に命じられているようで滑稽だと、空梨は微苦笑する。
「権さんにまで権能を使おうとした天使に、舵は任せられない。神様は全部見てるんでしょ?」
「私(、)は、主から裁きの執行を認められています。それは同胞に限りません。悪魔にも、人間に
も行使する権利があるのです。素直に従いなさい。彼を救いたいのでしょう?」
『割り込みを失礼する』
と、HMDに再び乾闥婆の文字が表示された。
「……東方の半神が何の用件ですか?」
『貴殿は人間よりも立場が上であるかのように振舞っているが、天使とは本来、人間よりも位の低い存在であると聞く。貴殿は主から、裁き云々(うんぬん)以前に、まず人間に仕えるよう命じられて
いるはずだ。であれば、立ち振る舞いもそれらしくするのが筋ではないのか? だがその心は
どうだ? 私利私欲に塗れているではないか』サリエルの心を見抜いていた乾闥婆は続ける。『そんな貴殿には、日ノ本の神天照の名において、八部鬼衆が一柱、乾闥婆が願い求める。そ
の刃を引き、魔羅撃滅のために、彼女に助力なされよ』
頼もしい助っ人に感謝する空梨だが、口からはサリエルの思念が言い放たれる。
「この国の最高神を後ろ盾にするとは……っ!」
『これを断れば、貴殿の主にもその知らせが届くであろう』
「…………」
「ここは日出ずる国だよ? サリエル。ここの神様のおひざ元で、無視はできないでしょう?」
「……いいでしょう。今回は委ねます。ですが、忘れないことです。私(、)は裁きの天使。その裁きは、主が赦される限り永久に続くことを!」
乾闥婆の助力もあって、裁きの天使=サリエルは屈した。突如身体の自由が戻り、よろめいた空梨はその場に片膝をついた。かなり体力を消費してしまったが、休む暇などない。
「ありがとう、乾闥婆」
『礼には及ばん。幸運を祈っているぞ』
空梨は立ち上がって【ホワイトイーヴィル】のハッチを開くと、【サムライ】を解除した。
「――行くよ! サリエル!」
†
「この気配……もしや⁉」
光志たちの前で、ベリアルが東館を振り返る。刹那、空間が膨張するかのような衝撃波が迸り、ベリアルの身体から放たれる焔が揺らいだ。
エントランスプラザに、光り輝く【ホワイトイーヴィル】が現れたのだ。夜の闇を跳ね除け
るかのような眩い光が、広場を照らし出す。
「――わたしは稲葉空梨! 稲葉知登世の娘! 今度はわたしが相手だ!」
拡声機構を介し、空梨の声が木霊した。
「来てくれたか、空梨!」
光志が歓喜を叫ぶ前で、【ホワイトイーヴィル】はベリアル目掛けて突進した。
「やはり貴様らか! サリエルと小娘! アガリアレプトを屠った者よ!」
自身より圧倒的に巨大な相手が迫る中、ベリアルは微動だにしない。
【ホワイトイーヴィル】が打ち下ろした拳と、ベリアルが頭上に構えた大剣が激突し、熱風が
吹き荒れた。踏ん張るベリアルの両足がコンクリートにめり込むが、
「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
まさに怪物の如き気迫でベリアルは拳を弾き飛ばし、背の翼を広げ、勢いに乗じて追撃。常
軌を逸した速度で飛び上がると、【ホワイトイーヴィル】の胸に拳を叩きこんだ。
爆発するかのような轟音と共に【ホワイトイーヴィル】が軽々と吹き飛ばされ、エントラン
スホールのガラス壁を突き破った。
「貴様は素手のようだな。面白い!」
倒れた【ホワイトイーヴィル】に向け、ベリアルは不敵な声を発し、その大剣を消し去った。
僅か数秒の間に繰り広げられたスケールの違う戦いに、光志たちは動けない。
「な、なんだよ今の……⁉ 無茶苦茶だ」
と、涼吾が漏らす。
【ホワイトイーヴィル】が跳ね起き、今度は華麗且つ豪快な足技を繰り出した。足払いにも似た横薙ぎの挙動を、しかしベリアルは飛び上がって回避。中空にいるところを狙った回し蹴り
をも造作なく躱し、着地した直後に頭上高くから振り下ろされた踵落としを片手で受け止めた。
「これこそ! 俺が求めた血沸き肉躍る戦いよ!」
そう叫んだベリアルがもう一方の拳を【ホワイトイーヴィル】の踵に打ち込み、反動で重圧が解けた瞬間、両腕による殴打の嵐を見舞い、白い騎体の踵から脚先を粉砕した。
「この無窮の如き力、思い知ったか!」
べリアルは勝ち誇ったように言うと、止めとばかりに両腕で【ホワイトイーヴィル】の片脚を抱え込むと、桁外れの膂力で投げ飛ばした。
【ホワイトイーヴィル】はエントランスホールを破壊しつつ倒れ、その動作が止まる。
「空梨ッ!」
光志は彼女の下へ駆け出そうとするが、足が思うように動かない。騎体脚部のアクチュエーターがやられているらしい。
『みんな聞いてくれ! ベリアルの弱点は他の悪魔と同様、胸元のコアのはずだ。【ホワイトイ
ーヴィル】の権能には【邪視】といって、相手の身動きを封じる力がある。それを彼女が使っ
たタイミングに合わせて、一斉にコアを叩くんだ!』
解析を続けていた様子の不入斗から通信が入った。
「――怒放の速さを見せるときみたいね!」
支え合う形で立つ光志と涼吾の隣に、涙を拭いた鈴華が並び、他の兵士たちが続く。皆、手負いの状態だが、その眼差しだけは屈することなく、倒すべき敵へと向けられていた。
キュィイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!
博士の声を聞いたらしい【ホワイトイーヴィル】から、甲高い振動音が放たれ、徐々にその
音階を上げ始める。
光志と涼吾はふと、司令塔入口から少し離れた位置に据えられた固定銃座に目を向け、次い
で互いに目を合わせた。
「ガブリエルよ、貴様の同胞が苦しむ姿を、そこで見ているがいい! すぐに後を追わせてくれる!」
ベリアルは光志に向かって叫び、顔を白い巨体に向ける。
「――なに⁉」
吃驚の声を漏らすベリアルが見つめる先で、【ホワイトイーヴィル】の粉砕された脚が完全
に修復されていた。
そして仰向けに倒れた状態から跳ね起き、ベリアルへと向き直った【ホワイトイーヴィル】は、血のように紅く光る眼(、)でベリアルを捉えた。権能の【邪視】が発動したのだ。
「……身体が、動かぬ!」
全身を震わせ、じりじりと縛りから抜け出そうとするベリアルに、【ホワイトイーヴィル】は手の平を向け、空間ごと握りつぶすかのような仕草を見せた。
「グオオオオオオオオオッ!」
ベリアルは見えない鎖に縛り付けられたかの如く、両腕を胴に密着させ、苦悶の雄叫びを上
げた。【ホワイトイーヴィル】による、敵を圧し潰さんとする念力の如き権能だ。
「今だ!」
その光景を見た光志は、射撃位置に立つ涼吾の肩を叩く。
「これでも喰らえ!」
窮余の一策とばかりに涼吾がトリガーを引き、毎分六千五百発を連射するガトリング砲が火を噴いた。臓器を重く震わす凄まじい炸裂音が響き、二十ミリ口径弾が音速の業火となってベリアルへと命中していく。
「グッ⁉ ぬぅううううッ!」
破竹の勢いで皮膚と肉を抉られ、ベリアルは唸るが、思念粒子砲に火力で勝るガトリング砲を以ってしても、その強靭な肉体の致命傷には届かない。
「覇ィヤッ!」
騎体に残った最後のエネルギーで刹那の間に背後へ回り込んでいた鈴華が、その槍をベリアルの背に突き刺した。そのままコアを貫くべく、力の限り突き立てるが、
「――堅いッ!」
切っ先がダイヤモンドにぶつかっているかの如くビクともしない。
「小賢しいわぁあああああああああああああああッ‼」
次の瞬間、怒りの咆哮を上げたベリアルの全身から赤黒い火焔が噴出。凄まじい衝撃波が鈴
華と光志たちをまとめて吹き飛ばした。この衝撃で、司令塔のガラス壁が粉々に砕け散り、炎
上していた東館が波打つように倒壊。膨大な粉塵が一帯に広がった。
「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ‼」
ベリアルは更に吠え猛り、その粉塵さえも消し飛ばすと、【邪視】の影響下であるにも拘わらず、その足を一歩、また一歩と前へ進め始めた。その手には再び大剣が握られている。
「混沌中に知れ渡る俺の力を見よ! 貴様ら木偶どもが抗える相手ではないことを知れ!」
叫んだベリアルは、逆手に持った大剣を【ホワイトイーヴィル】目掛けて投擲。鋭く巨大
な刃が白い巨体の胸を貫いた。
【ホワイトイーヴィル】は、【邪視】の使用と胸部のダメージによってエネルギーを大幅に喪
失。防御円消滅と共に騎体の実現が解け、その場にどうと崩れ落ちる。
「空梨ッ⁉」
光志が絶望を叫び、ベリアルの顔が邪悪な笑みに歪んだ、まさにそのときだった。
――ギンッ!
まるで金属が断ち切られるかのような、鋭い反響音が稲妻の如く駆け抜けた。
筒香だった。ベリアルの背後から現れた彼が、鈴華の穿った切れ目に、己が装備した【サム
ライ】――その短剣を突き刺し、見事にコアを貫いたのだ。
「抗えないだと? ――どうだろうな?」
彼は言うと、ベリアルのコアから刃を引き抜いた。コアはその衝撃で完全に破壊され、ベリアルは黒い微粒子となって霧散していく。
「貴様……筒香か!」
「ああ。地獄の手向けに覚えておけ。将に最も隙が生じるのは、己の勝利を確信した時だとな」
「見事……ッ……大王(、、)よ、赦せ……」
最後にそう言い残し、【黒の会議】が一柱=ベリアルは消滅した。