第二章 月光の影に佇む花
米国の脱出船団を率いた第七艦隊は、九十九里防衛戦収束からおよそ三時間後、横須賀港に到着した。
旗艦=ブルーリッジから日本の地へと降り立った不入斗夜香は、数年ぶりの故郷の感傷に浸る暇もなく、出迎えてくれた日本側の軍人たちとの挨拶もそこそこに艦載ヘリに乗り込むと、
稲葉空梨が養生を受ける東京都の有明基地へとやってきた。
彼女が有明に来るのは、要塞化されてからは初めてだった。
有明基地は東アジア支部の要であり、かつては東京国際展示場と呼ばれていた大型のコンベ
ンションセンターを武装し要塞化したもので、寸分違わぬ図形の如く角張った建物が大きく四つに分かれている。南館は物資格納庫、東館は主に兵装整備や屋内訓練施設として使われ、西館には幻霊装騎起動の要たる変換装置や、要塞の維持に必要な機械群が敷設され、戦前は会議棟と呼ばれていた逆三角の形状をした司令塔に第三機甲連隊の司令部が置かれている。西館内に聳える直径十メートル超の円柱を成した変換装置は日本最大の思念粒子貯蔵量を誇り、防衛に導入された兵器、兵力も共に国内最多である。
「随分と物々しくなったな……」
各建屋の屋上など、地上を見渡すことが可能な至る所に固定銃座が据えられ、哨戒ドローンや幻霊装騎を装備した大勢の衛兵によって、昼夜問わず厳重な警備が為されている。
そうした厳戒態勢の中、五万を数える避難民たちは基地周辺のビルやホテルを居住施設として、物資の運搬や調理作業、衣服や設備の修繕作業など、でき得ることを分担して生業とし、戦争の終局を祈りながら暮らす。
「お久しぶりです、博士。米国(向こう)でのことは聞きました。……残念です」
と、額に包帯を巻いた筒香大佐から、本日二度目の出迎えを受ける。米国の情勢が悲惨なだけに、沈痛な表情だ。
不入斗はいつも以上に爽やかな表情を作るが、目元のクマはできて久しいため、意図したとおりの顔になっているかはわからない。
「やぁ、龍彦くん! 【サムライ】の起動試験以来だね。あのときはテストパイロットを引き
受けてくれてありがとう。君たちが九十九里を守ったんだってね! 額は大丈夫かい?」
有明の兵士たちが聞けば顔面蒼白となるような呼び方で、不入斗は挨拶した。年が同じとは
いえ、強面の筒香を前にしても一切動じないのは、彼女の図太い性格の表れか。
「アガリアレプトに一撃をもらった際の傷ですが、おかげさまで軽傷でした。私がこうしてここに立っていられるのは、貴方がたと【ホワイトイーヴィル】のおかげです」
一方の筒香は、不入斗のフランクな態度に顔色一つ変えず答えた。
「お互い大変だったね。早速で申し訳ないけど、空梨に会わせてもらえるかい? 一に看病二
に薬って言うし、九十九里の戦闘で非常に興味深いデータが取れたんだよ」
「貴方も変わりませんね。幻霊装騎の事となると夢中になるし、ひどいクマだ」
不入斗の計らいを悟ったか、筒香も少し和らいだ表情で言った。
「そりゃそうさ! なんたって今回の発見は、今後の戦局に大きく作用する可能性を秘めているからね。このクマは私が睡眠を削って戦い抜いた証だと思ってくれ」
不入斗はブルーリッジの戦闘指揮所(CIC)で【ホワイトイーヴィル】の戦闘を見届けてから、空梨
が九十九里で見せた覚醒が気掛かりでならなかった。
「稲葉大尉は病院施設で療養中です。これからご案内しますが、貴方も健康状態のチェックを受けることを勧めますよ」
「私のことはいいさ。これでも一応健康管理のヴァスキュロイドは投与してあるし、定期的にサプリも飲んでいるから、少なくとも生命維持に必要な栄養は足りてるよ。食前のお祈りだっ
て欠かさずやっているしね!」
そう冗談めかしつつ、不入斗はブラウンの長髪を靡かせ、筒香と共にヘリポートを降りる。
不入斗は自分の仕事に支障が出ない程度の体調が維持できればそれでいいと考えていた。彼女にとってなによりも重要なのは、友である稲葉知登世との約束(、、)を果たすことなのだ。
「風が強いです。手すりにしっかり掴まってください」
ヘリポートは東と西のエプロンとは別に、今博士たちが居る司令塔の屋上にも据え付けられており、吹きさらしの階段から司令室へと降りるのは少々肝が冷える。
「もし私が落ちたら、龍彦くんの専用騎で守ってくれよ?」
「あなたが落ちたら、モジュールを走って取りに行って装備します。それから起動に十秒ほど。間に合えば助けますよ」
「相変わらず君が言うと冗談に聞こえないね」
司令室から地上へとエレベーターで降りた二人は東北東へ数百メートル離れた場所に建つ、戦前から病院として使われているビルへと向かう。道中、不入斗がトーンを落として切り出す。
「――それで、どうだい? 日本の戦局は」
「東アジア支部は辛うじて機能していますが、確実に追い詰められています。ここの残存戦力
は七十三パーセント。食料の備蓄は三十八パーセントです。持ってもあと一年ほどかと」
「補給もそう簡単に見込めないか。……開戦前と違って、今は変換装置を有する巨大基地周辺に人口とインフラが集中するから、地方の暮らしは電気無しの石器時代に逆戻りしているんだ
よね? アメリカもそうだったよ」
「まともに電力を供給できているのは、有明基地とその半径数キロ圏内だけです。更に節電のため、兵員の宿舎などでは緊急時を除いて基本的な照明に火を使っています」
「そこもアメリカと一緒だね。道路の両脇に等間隔で立てられているのは松明?」
エントランスプラザと呼ばれる、石造りの庭のようにシンプルながらも洗練されたデザイン
の広場を抜け、道路を跨ぐ陸橋を渡った先で、不入斗は辺りを見渡す。
「ええ。松の枯れ枝を使っていますので、一本あたり二時間は燃え続けます。バッテリーや乾電池も希少ですから、重宝していますよ」
日中は避難民たち向けに開放されている、イーストプロムナードと称される舗装の整った広大な遊歩道を右に折れつつ、筒香が首肯した。
「建物の屋上に散見されるのは?」
不入斗は次に、気になっていた固定銃座――ガトリング形式の火器を指差す。
「砲架の上に、思念信号式六砲身ガトリングキャノン砲を据えたもので、毎分六千五百発を発射できます。通常の思念粒子砲は射程が短く連射もあまり利きませんが、あれにはそのどちらも備わっています。万が一、敵軍がこの一帯に攻め込んだ場合に備えてのものです」
「思念信号式ということは、幻霊装騎を装備した状態で、銃座に付属の専用プラグと騎体とを繋ぐんだね? そうして動かすタイプは、何年か前に私のチームメイトが設計したんだよ」
と、不入斗は感心したように頷く。
「そういった備えは重要だ。幻霊装騎以外の武器でも、洗礼済み(、、、、)であれば効果があるから」
無人戦闘機のミサイルやガトリング砲に使用される火薬類は、思念粒子が物体に蓄積する原理を基に、聖職者などの思念適性が高い人間によって、あらかじめ魔除けの祈りを込められている。そうすることによって、悪魔の身体を部分的に破壊、または動きを怯ませることを可能としているのだ。アガリアレプトのような上位悪魔に対しては気休めにしかならないが、比較的力の弱い下位悪魔であれば、コアに命中しさえすれば滅ぼすこともできる。
「――それにしても、仏教圏の日本で、キリスト教の祈りが効力を発揮するのは不思議ですね。出力霊体が仏教に縁の深い存在であっても、十字を切る祈りが通じるわけですから」
と、筒香が呟いた。
「確かに、世界には宗教が幾つもあって、考え方もそれぞれ違う。各国の地域ごとに縁のある宗教をピックアップして、祈りや思念粒子貯蔵庫もその宗教に合わせたものを使うべきだという主張もあるし、理解もできる。けど実は、問題なのは宗教ではなくて、如何に大勢の人が共通のイメージを持って祈りを捧げられるかなんだ。私たちは〝祈りの質〟と呼んでいるんだけど、その質さえ高められれば、仏教の祈りでもキリスト教の祈りでも同じなのさ。だから、出力霊体が仏教にちなんだ神様の幻霊装騎に対して、みんなでキリスト教の祈りを捧げてもいい
わけだ。その祈りに出力霊体が応えて、思念粒子さえ送ってくれれば、それをエネルギーにし
て戦えるわけだからね。祈りの質が同じなら、幻霊装騎の性能にも影響は出ないし」
「悪魔に対抗するための祈りを統一するなら、対をなすキリスト教の作法がイメージも容易で手っ取り早い。だから祈りの言葉もキリスト教のもので統一されたという話でしたか?」
「そうだね。まぁ、礼儀に厳しくて、専用の祈りを要する神様とか、一部例外はいるけど」
不入斗は、雑談や読書などで不安をやり過ごす避難民たちから距離を置いて警備に当たる【サ
ムライ】の姿を見ながら呟いた。敢えて幻霊装騎を起動した状態で警備させることで、少しでも騎体の感覚に慣れさせるための取り組みらしい。
「基地防衛の頼みの綱は龍彦くんたちと、空梨の【ホワイトイーヴィル】だけか……」
「ご安心を。既に沖縄基地へ増援を要請してあります。早ければ今日、横須賀に到着するかと」
「でもそうすると、沖縄の戦力に響かない?」
軍事にもこの数年間で深く携わってきた不入斗は、心配になって尋ねた。
「遺憾ながら、沖縄には変換装置がありません。軍事施設だけを辛うじて維持しているのみですから、ここに比べて防御の優先度も低く、手薄にせざるを得ないと判断され、有明増援のた
めに兵員を割くに至りました。重要視すべきは日本で最大規模の変換装置を保有する有明の防
衛であると、司令部の満場一致によるものです」
「ちなみに、その増援部隊というのは?」
「あの(、、)【怒放】の部隊です。居住エリアの空きが少ない関係で、ここではなく横須賀基地に配備され、有事の際はこちらに駆け付けることになっています」
「百戦錬磨と名高い彼女たちが来てくれるのか! ナノサプ(、、、、)を飲まなくちゃ! 確か中国軍の生き残りだったよね? 接種する言語は北京語で大丈夫かな? 広東語?」
不入斗は開花の意を持つ【怒放】という言葉に目を輝かせつつも、言語を心配する。
「英語で大丈夫だそうです。東アジア支部の兵員たちには既に英語のナノサプを服用させてありますので、会話はスムーズに行えます」
ナノサプとは、【ナノ・サプリメント】の略称である。人工知能(AI)の飛躍的進歩によって生み出されたテクノロジーの一つで、脳の海馬に作用し、言語や体の動作など、特定のスキルを記憶させる機能を持つナノマシンが含まれた錠剤を指す。
「なら安心だ。【怒放】隊の子たちが加われば、ここの守りはより堅牢にできる」
「次に大規模な攻撃を受けたときが正念場です。ラハブの動向は?」
筒香の問いに、不入斗は首を横に振る。
「昨夜海上に現れて、空梨が追い払った後はわかっていないよ。【ホワイトイーヴィル】が再起不能だと判断してまた襲ってくるかもしれないし、油断はできない」
「――稲葉大尉が戦死したという情報は、何かの手違いですか?」
「……いや、そういうわけじゃないんだ」
「というと?」
「幻霊装騎の霊体化が過度に進みすぎると、身体そのものが消えて元の状態に戻れなくなることはキミも知っているだろう? ロングビーチを出るときの戦いで、何らかの理由で彼女の法則密度が急激に下がって、私たちが【覚醒】と呼んでいる状態になった。端的に言えば、霊体化が進むのと引き換えに物理法則から解き放たれて、騎体の戦闘能力が跳ね上がる現象。空梨はそれで心肺停止に陥ってね。実質死んでいるようなものだから、【思念回線】が常に感知している心拍をもとに、管理システムがそう判断して死亡扱いにしたんだ」
「霊体化というのは、幻霊装騎の実現装置を使って、振動数を神の持つ振動数と同等まで高めることで、神や天使たちと同じ位界に到達するという原理でしたか。つまり大尉は、より格上の位界の神と同じ存在となって力を得んがために無理をし過ぎたと?」
法則密度から解放された状態のことを半霊体と呼ぶ。理論上、霊体化した者がさらに位界を上げていくことで最終的に行き着くのは全霊体と言われる存在であり、神々や熾天使がそれ
に当たる。
「その解釈で合っているよ。原子が運動エネルギーという名の振動数を持っているように、思念粒子も思念エネルギーという名の振動数を持っている。人間の心拍数がこの振動数に影響を及ぼしていて、心拍数が上がれば振動数も上がる。振動数が高いほど強い思念エネルギーが生まれて、強力な神様や天使と同等の存在に昇格できるんだ。要するに神様と同じ力を扱えるようになるわけなんだけど、その分、存在がどんどん霊体化して、仕舞いには身体ごとこの世界から消えてしまう。空梨はまだ身体が残っていたから、こちらからアプローチしてなんとかなったけど」
半霊体であれば幻霊装騎の実現装置を停止することで元の人間に戻れる。だが、上位界に上昇し過ぎ、全霊体たる神の領域へ限りなく近づいた場合は不可能だ。精神と肉体が物理法則を完全に離れ、人間としての形を保持しておく必要がなくなり、事実上消失してしまう。
「覚醒したことで彼女はより格の高い上位界の存在になり、その影響で仮死状態に陥った。……魂が抜けて、身体が空になったようなものか」
人間の法則密度は六・〇。幻霊装騎【サムライ】を起動して霊体化すると五・五になり、それが【ホワイトイーヴィル】のクラスになると三・五まで減少する。これは言い換えれば、
【サムライ】よりも強力な権能を有する【ホワイトイーヴィル】の方が神の領域により近く、
元に戻れなくなるリスクが高いことになる。
「そうそう。私は今回の船旅の間に、空梨の霊体化が進行した理由をずっと考えていたんだけど、判然としなかった。でも今朝の戦いでその推測をつけることができてね。ここに来させてもらったのは、私の考えが正しいかどうか実験するためでもあるんだよ」
「実験?」
筒香の問いに、広場で戯れる子供たちを眺めていた不入斗は頷く。
「空梨が覚醒するためには、特定の条件が必要だと私は読んでいるんだ。振動数に影響する心
拍数を高める何かがね。思うに、その条件には空梨にとって大切な人間が大きく関与している。例えば、その人間が空梨の見ている前でピンチに陥るとか……」
「北米(向こう)での戦いは、稲葉大尉にとっても相当な負担だったでしょう。……多くの戦友の死を見てきたはずだ。もし、そういった心の深い傷に触れるようなことが覚醒に関係しているのだとすれば、彼女が覚醒する度、負担を強いることに……」
不入斗の言を受け、筒香が目を細めた。
「……当然弁えているとも。けれど、この戦局を変えていくためには、空梨の覚醒の要因究明が不可欠なんだ」
空梨の覚醒の理由がわかれば、理論上は意図的に覚醒状態になることも可能。それを制御できさえすれば、これまでにない強力な戦力になるというのが不入斗の考えだ。
「アダム(、、、)が言うには、敵はこの国を包囲しようとしている。日本が最も神の多い国と言われる
だけあって、連中も脅威に感じているのかもしれない。だから確実に落とすために、かなりの戦力を差し向けてくるはずだ。そうなれば、今現在こちらが持ち得るすべての戦力で迎え撃ってもまだ足りない。だから、起死回生の一手を用意する必要がある……」
「思念適性が高い子供に頼る他ないとは。……不甲斐ないばかりです」
二人は、子供の教育施設として利用されているセントラルタワーと、避難民たちの居住施設となっているワシントンホテルの間を抜け、軍事病院へとやって来た。
「理由は解明されていないけど、年齢の若い人間ほど思念適性も高いのが残酷なところだ。戦えるのは必然的に若い世代だけということになるわけだからね。……神々の間にも【掟】という名の不可侵条約みたいなものがあって、人間に過度な施しをしてはいけないことになっているみたいだから、我々は幻霊装騎に思念粒子を送ってもらうみたいな、間接的な援助しか受けられない。基本的にこの人間界に降りかかる問題は人間が対応するしかないってことだ……」
「人間界に現れて直に手を下す悪魔どもを前に、神や天使は間接的な助力しかしない。……人類への試練だとでも言うんでしょうか……?」
軍事病院の正面入り口に立つ衛兵の敬礼に応じ、筒香が言った。
「……ほんと、目的は一体何なんだって、神様を問い詰めたいくらいだよ」東から有明の上空まで近づきつつある黒雲を、不入斗は睨む。「人類は敢えて生かされ、弄ばれているだけなのかも。……神と悪魔、その両方に」
†
光志は意識不明に陥った空梨を抱え、疲弊した己の身体に鞭打って内陸部へ向かい、駆けつけた筒香や涼吾たちと合流。彼らが呼んだ回転翌機で急遽有明基地へと戻った。
そして空梨を軍事病院へと運び込み、彼女が処置を受ける治療室の外で藁のように頽れた。
長椅子の上でぐったりし、壁に背を預ける。
たかが法則密度五・五の【サムライ】とはいえ、消失とまではいかずとも、身体への負担は
ゼロではない。使用時間や活動の激しさによってはかなりの体力を消耗し、まるで重病から復帰した直後のように、全身を倦怠感が襲うのだ。
(半霊体の状態で長く動き過ぎたな……)
平均的な思念適性値を持った兵士であれば、幻霊装騎を起動した状態でも数時間程度の活動なら疲弊も少ないはずであったが、光志の場合は違っていた。
『俺は皆と浜に残って、全員(、、)を連れて帰るから、空梨の傍に居てやってくれ』
と言って別れた涼吾に、あとで空梨の容態を聞かれるだろう。それに答えられるかどうかは
医師たちの言葉次第である故に、光志は気が気でなかった。
どのくらいそうしていただろうか、光志の前に、負傷した頭部の処置を終えた筒香と、光志よりも体調の悪そうな白衣姿の女性が現れた。
どうにか立ち上がった光志は筒香と目を合わせ、気を付けの姿勢を取って敬礼する。
「浜では世話になったな。礼を言うぞ」
敬礼を返した筒香はそう言って、光志の肩に手を置く。
「――君は誰だい?」
視力が低いのか、大きなクマができた目を細め、白衣の女性が訪ねた。近くで見ると色白の
綺麗な肌をしており、容姿は二十代前半に見える。
「御先光志です……」
「もしかして君、九十九里でアガリアレプトに掴まれていた子かい?」
「――はい」
光志は筒香をちらりと見るが、質問に答えろと促された。
「空梨とは知り合いなの?」
「……はい」
光志は白衣の女性の爛々とした視線に居心地の悪さを感じつつも、聞かれたままに答える。
「九十九里で彼女を拾ってくれたのも君かい?」
「はい」
「ありがとぉおお!」
「はいっ⁉」
白衣の女性が突然ハグしてきたため、光志は上ずった声を漏らした。彼女の不健康な見た目からは想像もつかない、花園にいるかのような甘い香りがした。
「おっと失礼。つい探求心と感謝の意が溢れてしまった。自己紹介がまだだったね。私は不入斗夜香。不入斗幸恵の娘だ。科学者をやっていて、専攻は生体工学とロボット工学。この
ご時世だから、宗教についても学んでいるよ。幻霊装騎の開発主任を任されている。端的に言
うと、アメリカで空梨の騎体のサポートをさせてもらっていた者だ」
「アメリカで? ではあなたが、空梨――稲葉大尉を支えてくれていたんですか?」
「私が支えていたのか、支えてもらっていたのかよくわからないけど、いつも一緒に行動していたよ。騎体の戦闘データの収集や、空梨のメンタルケアも兼ねてね。九十九里で【ホワイトイーヴィル】の戦いを見たと思うけど、どこか気になる点はあったかい?」
「あの騎体を直に見たのは今朝が初めてなので、よくわかりません。どうして僕が稲葉大尉の友人で、尚且つ九十九里浜にいたことをご存じなんですか?」
不入斗の質問の度に半歩ずつ詰め寄られ、壁に追い込まれた光志はそう尋ねた。
「君のことは【ホワイトイーヴィル】の視覚カメラからの映像で見させてもらっていたんだ。アメリカにいたとき、空梨は仲間の写真を大切に持ち歩いていて、私にも見せてくれたことがあったんだけど、そこに映っていた子と君がそっくりだったものだから、もしやと思ってね」
「稲葉大尉とは、避難民として生活していた頃からの友人で、その、無事であってほしいんですが……」
光志は治療室のドアに目を向ける。
「彼女は大丈夫。霊体化が少し行き過ぎた(、、、、、)んだ。簡単に言えば、ちょっといつも以上に頑張ったから疲れて、その反動で眠っているだけなんだよ。この前なんて心臓止まっちゃうくらい症状が酷くてね。死亡だなんて情報も流れちゃったから、いろいろ心配だったろう?」
不入斗が光志の肩に手を置いて謝罪の意を述べた。
「大尉は目から出血していました。あれは、霊体化が進んで負荷が増えたとか、そういった類のものでしょうか?」
と、光志は質問した。
「なかなかいいセンスだね。血の涙は権能によるものだよ。空梨は持ち前の思念適性でかなりの上位界まで到達するから、振動数も相応に高まった状態になる。血の涙は、その状態で強力な権能を使うと出てくる副作用的な症状だね。霊体化による物理法則からの解放で身体の負担や苦痛が軽減されているといっても、あくまで半霊体であるうちは多少の負荷が残ってしまうものなんだ。【ホワイトイーヴィル】の紅い光を見たかい? あれは強力な権能で、発動させると一時的に目から出血する。でも、使用時間に制限を設けているから大事には至らないよ。今回はちょっと無理しちゃったけど、心配には及ばない」
光志に悪魔と戦ったときの恐怖よりも重く圧し掛かっていた不安が、不入斗の説明を受けて溶けるように消えてなくなる。身体もいくらか軽くなったような気がした。
「それがわかっただけで充分です。向こう(アメリカ)で彼女を支えてくれて、ありがとうございました」
「――博士、彼も戦闘から帰還したばかりで疲れています。この辺でよろしいですか? これから治療室にご案内しますので」
「それもそうだね。質問に応じてくれてありがとう御先くん。もう少しだけ聞きたいことがあ
るんだけど、またあとで時間をもらえるかい?」
筒香に諭された不入斗が申し訳なさそうに聞いてきたので、
「大佐。差し支えなければ自分も治療室へ同行させて頂けませんでしょうか?」
と、光志は申し出た。
「……お前が大丈夫なら、同行を許可する。久しい友人の顔を近くで見たいだろう?」
筒香の温かい言葉に、光志は姿勢を正して低頭した。
†
治療室は一面が白一色で包まれていた。入ってすぐ目に飛び込んできたのは、部屋の五分の一のスペースを占める祭壇で、木製のテーブルの上に高さ二メートルはあろうかという大型の十字架が立てられており、燭台の蝋燭によって淡い暖色に照らされていた。
並みのリビング程の広さがある部屋の中央にはバイタルモニター付きのベッドが一つ。そこで空梨が白い毛布に覆われ、仰向けになって目を閉じていた。
「大佐」
ベッドの傍に幻霊装騎=【サムライ】を装備した衛生兵が立っており、筒香に敬礼した。
「容態は?」
「運び込まれた当初は衰弱していましたが、回復しつつあります。ちょうど、思念粒子の補充
を頼んだところです」
筒香に聞かれ、衛生兵はカルテを見せつつ答える。
光志たちの背後で治療室のドアが開き、新たに四人の医療スタッフが入室した。この四人は全員女性だった。それぞれが白と黒を基調とした修道服を着用しており、大佐一同に一礼すると、部屋の祭壇の前で横一列に並び、両手を胸の前で握り合わせた祈りの姿勢を取った。
「「御力をもって大地を造り、英知をもって天を広げられた、我らが神よ。あなたは私たちの岩、私たちの盾。あなたを信じます。どうか、私たちに癒しの力をお与えください。アーメン」」
そうして祈りの呪文を彼女たちは揃えて唱え、十字を切った。
倣って光志たちが胸の前で十字を切ると、衛生兵がガントレットの片手を空梨に翳し、
「乾闥婆。彼女に癒しを」
と、出力霊体である乾闥婆に求めた。
宗教的に重要な意味を持つ物や場所へ向かって祈りを捧げると、思念粒子がそこ目掛けて放
出され、蓄積される。それを各地に設置された変換装置が感知して吸収し、実現装置へ送信することで、幻霊装騎に思念粒子が補充される仕組みになっており、乾闥婆が自身の思念粒子と、その補充された思念粒子を使って権能を発動。治療を行う流れである。
神ほどの力は無いが、人間よりも上位の位界に身を置く存在を、天使や半神と呼ぶ。半神の乾闥婆は【サムライ】を装着して思念接続を済ませた者であれば、乾闥婆自身の思念粒子だ
けで即座に治療可能だが、装着者ではない生身の人間を治すとなると、治療室に置かれた十字
架のような、思念粒子をストックしておく貯蔵庫から補給を受ける必要がある。
一分ほど経って、空梨がその目を開いた。
「空梨!」
光志は思わず彼女の名を呼んだ。目と目が合い、自然と笑みが溢れる。
「――光くん」
「具合はどうだ?」
「大丈夫。戦いはどうなった?」
「空梨のおかげで守りきれたよ」
光志が答えると、空梨は安心したように深く息を吐いた。
「やぁ、空梨」
不入斗が空梨に微笑みかけた。
「博士……」
空梨は緊張の糸が緩んだかのような、悲しい心地よさを湛えた表情で不入斗を見た。
「九十九里ではご苦労様。ちょっと危なかったけど、無事で良かったよ」
「ごめんなさい。わたし、権能を使い過ぎました。でも、代わりにちゃんと倒せました」
「そこについては、今回は水に流そう。引くに引けない激戦だったし、君の振動数が過去最高値まで上昇したものだから、私も判断に迷って、戦闘を継続させてしまった。だからお相子だ」
そう言って空梨の頭を撫でる不入斗の隣で、筒香が口を開いた。
「君の活躍は日本にも広まっている。よく戦ってくれたな、大尉」
「筒香大佐。わたしには勿体ない言葉です」
空梨が片手を動かして敬礼しようとするのを、無理をするな、と大佐は制した。
「博士、九十九里の戦闘で興味深いデータが取れたと言っていましたが、それと御先伍長に聞きたいことというのは、何か関係があるのですか?」
筒香が不入斗を振り返り、彼女は首を縦に振った。
「では本題だ。九十九里で戦った際、空梨は覚醒状態――つまり振動数が急上昇して、位界が通常よりも高い状態になったんだけど、そのタイミングというのが、御先くんがアガリアレプトに掴まれてピンチになったときだったんだよね。そこの因果を解析できれば、空梨の振動数
を本来よりも高いレベルまで意図的に高めて、法則密度を更に減らす方法を獲得できるんじゃ
ないかと睨んでいるわけなんだ」
「位界が通常よりも高いというのは、法則密度でいうとどれくらいですか?」
筒香の質問に、不入斗は思案顔で答える。
「【ホワイトイーヴィル】の法則密度は通常三・五で、それが十八秒間だけ三・〇に減ったんだ。アガリアレプトの法則密度が三・五だったから、僅かな間、それを下回ったわけだね。端的に
言えば、戦闘力が上位悪魔よりも強くなった状態。強くなっているのに、下回るとかって表現
だから混乱しそうになるけど、ついてきてくれ」
光志は【ホワイトイーヴィル】のスペックに驚いた。光志たちが装備している汎用的な【サ
ムライ】の法則密度は五・五で、使用できる権能はかなり限られている。位界は最も低い生身の人間と比べて一段階上がっただけに過ぎない。位界は法則密度の〇・五刻みごとに分けられており、位界が一段階上がるごとに法則密度は減り、使用可能な権能の数が増え、その効力も増すと言われている。それが三・〇ともなると、【サムライ】の数百倍以上の効力を持つ権能が使用可能になる。
アガリアレプトのような上位悪魔を打ち破るにはそれだけの力が必要であるという現実に、
光志は圧倒された。
「まず君たちに質問なんだけど、二人は浜で、具体的になにをしたんだい?」
「僕はただ、彼女の力になろうとして、――一人で無謀な行動をしてしまっただけで……」
不入斗の質問に答えながら、光志は次第に顔を赤らめた。
「――記憶が曖昧なんですけど、わたしは御先伍長が敵に掴まれたのを見たとき、……何が何
でも助けたいという気持ちになりました。それから体中が熱くなって、また(、、)意識が朦朧として、
身体の自由が利かなくなったのを覚えています」
空梨も同様に赤面して答える。
「自由が利かない? 思うように動かせないってことだよね? その状態で、どうやって上位
悪魔を倒したんだい?」
「……わたしが騎体を動かすとき、サリエルがそれをサポートしてくれたんです。あの子の思念というか、気配(、、)がしていましたから」
空梨の証言に、不入斗は唸る。
「それは滅多にない事例だ。出力霊体が、自分の思念粒子を分け与えるだけでなく、操縦をサポートするなんてね。もしかして、向こうで同じようになった(、、、、、、、、、、、、)ときも、助けてくれていたのかな? 【掟】ってやつに抵触しそうだけど。 ……サリエル自体は何も話さなかったのかい?」
空梨は頷いた。
「まぁ、そうだよね。ちょっと好ましくないくらいに無口な天使だからなぁ、あれは……」
頭を押さえつつ、肩を竦めた不入斗は自分の頬をパシッと叩き、
「仕方ない。わからないなら、いろいろ試してみるに限る。というわけで、今日から二人には
眠るとき以外、極力行動を共にしてもらいたいと思います!」
突拍子もないことを言い出した。
「ええ⁉」
空梨が突然の進言に戸惑いの声を上げる。
「――なに?」
さすがの筒香も一度聞き返す。
「なに? も何も、列記としたデータ収集だよ。私は空梨が覚醒する条件として、空梨が大切に思っている人間に対する感情的な何かが作用しているものと考察しているんだよ。心拍数、それから振動数に関わるような何かがあるはずだ。全人類の未来のために、是非ともお二人と龍彦くんには観察の許可を頂きたい!」
「全人類のって……有明では、男女は任務と訓練と食事以外の行動は基本的に別々なんです。それって、有明の兵士の二割を占める女子に配慮してのことなんだと思うんですけど、そんな中で僕と稲葉大尉だけペアでいたら、その、周りからどんな目で見られるか……」
と、光志は自分の顔が熱くなるのを感じながら続ける。
「観察って仰いましたけど、脳波を測るとか、そういったことではないんですか? なら、一日で済ませられるんじゃ――?」
「もちろん脳波も測るとも。二人にはこの後、測定用のナノマシンを入れさせてもらうから。その状態でしばらくの間様子を見させてくれ。ナノ毒中和錠剤も渡しておくからさ。データには再現性が必要なんだよ。あと、私のお願いは大袈裟でもなんでもなくて、立派な任務(、、、、、)だよ?」
仲間たちから変な誤解をされ、〝青春の独り占め、許すまじ!〟などといった横断幕が掲げ
られないか心配で仕方ない光志だが、それ以上抗いようがなかった。
「任務……これは任務」
空梨がぶつぶつと独り言ちる。
「そうそう、任務だよ空梨。【思念回線】は二人ともオンにしておいてね? こっちから行動について指示を出すかもしれないから、そのときは協力して欲しいんだ」
従来の作戦統合システムにナノマシン技術を融合させた【思念回線】は、心拍数、体温といった多岐にわたるバイタルデータも他者とリアルタイムで共有することが可能なのである。
「いくら兵士といえども、個人のプライベートの時間まで共にというのは、……デリケートで難しい問題だ。私や博士の立場だけで決められることではない……」
と、筒香が助け舟を寄越したかに思えたが、
「――それを踏まえ、二人が反対でなければ許可しよう」
生真面目な筒香は、苦渋の色を浮かべつつ肩を竦めた。泥船では大洪水を乗り越えられない。
「…………」
「…………」
光志と空梨は無言で顔を見合わせた。光志は頭から湯気を吹き出さんばかりの感情が込み上げてきて、空梨と同時に視線を逸らした。
「――は、はい! 任務なら仕方ありません」
「――わかりました」
第三機甲連隊の司令官と世界的な権威を持つ博士を前にした光志たちには、そう返答する他
になかったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
†
十月四日、正午。
中国陸軍第三十二軍怒放隊の指揮官を務める権鈴華は、人民解放軍の名残を帯びた灰緑の迷彩服に身を包み、横須賀港に先程接岸した空母=遼寧の飛行甲板から、眼前の東京湾を眺望していた。
「隊長」
鈴華は自分を呼ぶ声に振り返る。後ろで一つに結わえられた黒髪が海気に揺らぎ、白く艶やかな肌が彼女の齢十八という若さを物語っている。
鈴華の見つめる先に、さらりとした短髪の、清々しく整った容貌の少女が立っていた。
「また考えごと?」
と、その少女は頭を傾げて鈴華の目を覗く。
「――なんでもないわ。上陸準備は整った? 副長」
鈴華の快活で生一本な声が、短髪の少女に問う。
「うん。みんな荷物をまとめ終えたよ。衣類、日用品、タブレット、交換日誌。あとおやつも
五ドル分!」
副長と呼ばれた少女の戯れに鈴華はくすりと笑い、
「ありがとう。みんなによろしく伝えておいて? 基礎の鍛錬を怠らないように。それから、
栄養バランスを補うナノサプを飲んだら、ナノ毒中和錠剤も忘れず服用すること」
と、真剣な視線で指示を言い渡した。この後、怒放隊は増援部隊として横須賀基地に配備されるが、鈴華は彼女たちと一旦離れ、幻霊装騎隊の訓練教官として有明基地に滞在するのだ。故に当面は、怒放隊の指揮を副長に委ねることになる。
「了解。みんなもちゃんとわかってるから、心配要らないよ。私たちに戦闘機が無いのは心許ないけど、横須賀には日本の部隊もいるし……」
背後に広がる甲板をちらりと見遣って、副長は頷いた。
本国を脱出後、東南アジアで起こった幾度もの戦闘で遼寧の艦載機は全滅。飛行甲板とは名ばかりの殺風景な広場。悪魔を牽制する程度の役割しか果たせない戦闘機よりも、確実なダメージを与えられる幻霊装騎が重要視される今の世界情勢下では、ただでさえ不足しているジェット燃料の問題も相まって、沖縄での航空機補充は叶わなかった。そんな甲板に慰めの華が二本咲いているかの如く、鈴華と副長は並んで海を眺める。
「……遠くまで来たね」
深呼吸をした副長が言った。
「そうね。今思うと、大隊長(、、、)がいなくなって(、、、、、、)から、あっという間だったように感じる」
鈴華は、自分の前任を務めていた青年のことを想った。
戦役歴十年の十月に大隊長と祖国を失ってから今に至るまでの一年間、鈴華は怒放隊を引
き継いで空母遼寧の警護を務め、安全地帯と補給を求めて東南アジア諸国を転々とし、現地の人々を悪魔から庇い、何度も死線を戦った。その度に、守り切れない街や国が悪魔の軍勢に呑み込まれていくのを目の当たりにし、自分たちの力不足を悔やみ、部隊の全員が一丸となって鍛錬に鍛錬を重ね続けてきた。
こうして振り返ると、激動の一年だった。
「――疲れた?」
不意に、副長が尋ねた。
「急にどうしたのよ?」
「この世界とか、悪魔とかさ。この前沖縄に辿り着いてからずっと平和で、みんな気持ちの整理が難しくなってきてる。ベリアルさえやっつけられたら、もういい(、、、、)かなって思ってたけど、――なんていうか、まだ早い(、、、、)かな、なんてね……?」
副長の言には、自分たちを待ち受けるものに対する意志の含みがあった。
「確かに、疲れたなんて言うには早すぎるわ。あたしたちの復讐は終わらない。死に場所探し(、、、、、、)
なんて、その先の話よ」
鈴華たちは前任の大隊長を始め、犠牲となった仲間たちに、必ず仇を取ると誓ったのだ。
そうして彼女らは、上位悪魔=ベリアルへの憎悪を燃やしていた。
「……ベリアル、ここにも現れるかな?」
副長も鈴華と同じことを思ったか、討つべき大敵の名を口にした。ベリアルは敵の指揮官の中でも特に武力に長けた強敵であり、中国を火の海に沈めて壊滅させた、憎んでも憎み切れない存在だった。前任の大隊長は、ベリアルの放った焔の波から鈴華を庇って果てたのだ。
「もしここに奴が現れたら、必ず滅ぼして、犠牲になった人たちの無念を晴らす。だからあんたも、あたしについて来なさい?」
鈴華は声に出すことで、復讐の誓いを改めて胸に刻む。
「……隊長が行くなら、どこへでも付き従うよ。死ぬまで戦う覚悟はできてるから」
「先立った親と仲間に恥じないように戦って、悪魔どもに嫌ってくらい思い知らせるのよ」
戦で散ってこそ乙女の誉。
それが怒放隊の価値観であり、訓示だった。故に、彼女たちは戦って死ねる場所を求めている。反対に、生に固執することを白眼視する者もいるくらいであった。
「横須賀の守りは任せたわよ? 副長」
と、鈴華は副長の肩に手を置いた。
「わかった。隊長も頑張ってね! 有明基地って、騎体は確か【サムライ】が主力だったよね? 温室育ちに、実力の違いを見せてあげて!」
「死なない程度に扱いてやるつもりよ」
洗練された刃の如き光を宿す目を細め、鈴華は不敵に笑う。
「まぁでも、案外みんな頼りになったりしてね。日本の男はやるときはやるって聞くよ?」
笑いを溢した副長が白い歯を覗かせて言った。
「あんたより頼りになる男なんて、そうはいないわよ」
世界中に戦火をもたらした悪魔への強い怒りと、弱かった自分たちへの悔しさが、彼女たちを戦士にまで鍛え上げた。そうして培われた死をも恐れぬ勇猛果敢な戦いぶりと強靭な心身が、祖国を離れてからの彼女たちを生き残らせてきた。日本のように比較的平和で、配給も為される国がまだ残っていると知ったのは、この数ヶ月でのことだ。
鈴華は有明の方角に目を向け、沈黙の中で戦士としての血を滾らせた。
†
空梨は驚異的な回復を見せ、光志と共に、脳波並びにバイタルサインを監視するためのナノ・サプリメントを服用した。そうして午後三時には病院を出て、光志や涼吾たちが暮らす宿舎へ入ることを許された。不入斗が空梨と光志の身体の状態を観察する意味合いもあり、この日の午後を以って、稲葉空梨は正式に第三機甲連隊第二大隊へ配属となったのである。
また以前のように、周りの仲間たちから囃し立てられるのは勘弁願いたいものの、光志と二
人で長く一緒にいられることは、空梨にとってこの上ない幸せだった。アメリカ戦線で心を壊さずに戦えたのは、いつか必ず光志たちの下へ帰るという強い信念があったからだ。
「……? どうした?」
空梨の視線に気づいた光志が聞いてきた。
「――えっと、久しぶりだなって……」
空梨は顔が火照るのを感じ、視線を逸らす。
「そうだよな……宿舎の前で別れてから、もう一年以上経つんだもんな。今夜は宿舎で帰還祝いだな」
「そんなことまでしてもらったら、なんだか申し訳ないよ」
「たまにはいいだろ? 気分転換しないとさ。……その、こっちであったこととか話すよ!」
光志は、北米が壊滅した事実に触れないよう気遣ってくれているのだろう、空梨のことは聞かず、自分たちの話をすると言った。
「ありがとう。いろいろ聞かせて? 涼吾にも大隊長への昇格おめでとうって言わなくちゃ!」
だから空梨も、笑顔で答えた。
光志の傍にいると、暗い世界であっても、まるで家にいるかのような心地良さに包まれる。
アメリカに滞在する間も、週に一度、各々に許された使用時間をいっぱいに使って、タブレットでメールのやりとりをしてはいたが、メールするのと実際に隣に居るのとではわけが違う。
久々に味わう感覚を、空梨はそっと噛み締める。
二人が宿舎に来ると、涼吾を始め、同期の第九期生たちが集まって空梨を出迎えた。
光志は相変わらず、他の男子たちからプロレス技を掛けられていた。
しかし空梨が、
「乱暴は禁止です!」
と言うと、一同は一斉に気をつけの姿勢を取り、何故か嬉しそうな微笑みを浮かべながら敬礼した。
「お帰りなさいだな、空梨。しばらく会わないうちに大尉になってるとは、大したやつだぜ」
空梨の今の階級はタブレットの情報で知れ渡っており、涼吾が自分のことのように喜んで褒め称えた。
「向こうの仲間が助けてくれたから成り行きで上がっただけで、大尉って呼ばれるほどのこと
はやれてないよ」
まだ上官扱いされることに抵抗がある空梨は、皆の温かさに目を潤ませつつ顔を伏せた。そこへアメリカ戦線での記憶が蘇り、どうにか振り払おうと必死に笑顔を取り繕う。
「――涼吾だってすごいよ! 少尉になって、大隊長やったんでしょ? これなら連隊長に昇格するのも秒読みだね!」
「それは代理だって。本来なら空梨くらいの階級にならないと任されないのに、俺に振られた
ときはマジで焦ったわ」
と、涼吾は謙遜しつつもどこか嬉しそうだ。
「それは涼吾がしっかり者だからだろ。僕が無茶してもカバーしてくれたし」
光志が涼吾の肩に腕を回す。
「そりゃあ、お前がうっかりくたばらないように見張っておかないと、誰かさんに一生恨まれちまうからな!」
涼吾が肩を回し返して、光志の頬を抓る。痛がる光志の顔が可愛いく、つい少し見ていたくなる空梨だが、
「あっ! こらまた!」
と、誰かさん(、、、、)が誰なのかわからないまま、涼吾の手を引き剥がす。
「いててて! 申し訳ありません! 大尉殿!」
わざとらしく畏まった態度を取る涼吾。しかし空梨が少し強めに手を掴んだのがよほど痛かったのか、目が涙ぐんでいるように見える。
と、そこで基地の各所に設置されたスピーカーから、教会で聴くような鐘の音が流れた。
「――時間か」
光志が基地の方を振り返り、呟いた。
九十九里浜での戦いで戦死した兵士たちの葬儀が行われるのだ。
「みんな。九十九里を守ってくれた仲間に、お礼を言いに行こう……」
涼吾が物寂しい表情で歩き始め、空梨も光志と共に続く。
空梨たちが向かった先は、有明基地のシンボルでもある司令塔から西へ数十メートル進んだ
場所にある葬儀場。海に突き出したコンクリートの足場を強化プラスチックの屋根が覆うそこは、今は力尽きた人々を送り出す場所として使用されているが、戦前は客船ターミナルだった
らしい。
神父と十数名の修道女たちが、今朝の九十九里で戦死した兵士たちの遺骨が入った箱を既に並べ終え、銀の十字架をあしらった白い布で包んでいた。遺体の存在は精神衛生上、【負の思念粒子】の発生要因となるため、回収後速やかに焼却され、残った遺骨を水葬することになっているのだ。
多くの年若き兵士たちが悪魔と戦い、報われぬまま命を落とし続けている実状から、神父や
修道女たちのような聖職者の数が戦前と比べて増加した。空梨のように、搭乗型のパイロットに選ばれるほどではないが、彼らも平均以上の思念適性を有しており、主に【祈り】による思念粒子の補給を行うことで、悪魔との戦いを影から支えているのである。
聖職者たちは、途切れることのない別れの日々から、皆の心の負担を少しでも緩和したいという思いで日々、避難民や兵士のメンタルケアも務めている。
形はどうであれ、人々は負の連鎖と戦っているのだ。そうして報われず潰えていく命の悲し
みと、残される命の苦痛や絶望と向き合い、耐え忍びながら。
空梨はこの連鎖を断ち切り、光志との約束を果たすために戦ってきた。光志たちのことを想う度、彼らを失うことを何よりも恐れ、そうさせないための強さを欲していた。
もう二度と、アメリカ戦線のような惨劇を繰り返してはならない。
「――空梨?」
隣で光志が心配そうに空梨を見ていた。
「大丈夫か?」
「……うん。もっと強くなりたいって思ってたの」
「……そうだよな。僕ももっと……」
一瞬視線を落とした光志が、自分に言い聞かせるかのように頷いた。
神父の言葉に合わせて祈りを捧げるために、空梨たちを始め、周囲には数千人規模の避難民や兵士が集っており、その列は二階に位置するエントランスプラザまで及び、数多の眼差しが倒れた仲間たちへと向けられていた。
空梨がふと司令塔を見上げると、その窓にも複数の人影が見えた。きっと筒香大佐たちも、葬儀のために時間を設け、祈っているのだろう。
方々ですすり泣く声が聞こえる中、友らによって弔いの歌が詠われる。
《神よ、御許に近づかん。
登る道は十字架にありとも、など悲しむべき。
神よ、御許に近づかん。
さすらう間に日は暮れ、石の上の仮寝の、夢にもなお天を望み。
神よ、御許に近づかん》
†
「――光くん、久々にあれ(、、)やらない?」
水葬の儀の帰り、光志の隣を歩く空梨が言った。
光志は訓練生時代を思い出す。空梨の言うあれ(、、)とは、ボクシングのミット打ちのことであり、
二人でよくペアを組んで励んでいたのだ。
「今からか? 退院したばかりだし、さすがに今日はやめておいた方がよくないか?」
光志はそう勧めたが、空梨は首を横に振る。
「身体が鈍っちゃうから、今日やりたいの」
葬儀の後、司令部の計らいで、夕方に行われるはずだった訓練の数々が休みとなったのだ。
もしかすると、空梨は身体を動かすことで、葬儀後の負の思念を振り払おうというのかもしれない。実際、仲間内で運動場へ歩いていく者たちも散見された。
〝もっと強くなりたい〟。
水葬の儀で彼女が言っていたことを想起した光志は首を縦に振る。
「――わかった。今日は夕飯まで自由時間になったことだし、久しぶりにやるか!」
そうして二人が向かったのは、有明基地から徒歩三十分ほどの距離にある訓練施設。戦前も
スポーツセンターとして活用されていた丸みを帯びた建物で、充実したスペースや設備がその
まま残されており、今でも兵士たちの屋内におけるトレーニングに貢献している。
しかし今は、利用者は光志たち以外に少女が一人しか居ない。ほぼ貸し切りの状態だ。
「僕が受けて、衰えてないかテストするよ。合格したら、僕にジュース一本奢りな?」
「ええ⁉ 合格してもわたしが奢るの⁉ しかもジュースなんて高価だし、そもそも手に入らないよ!」
光志は困り顔の空梨を見て笑う。こうして笑い合うのも、思えば久方ぶりだった。
トレーニングウェアに着替え、準備運動を終えた二人は、手入れの行き届いたリングに入り、光志がミット、空梨がグローブを嵌めて向かい合った。
「向こう(、、、)に居たときも鍛錬は欠かさなかったから、多分期待に副えると思う! 合格したら、光くんがわたしにジュース奢るんだからね?」
と、空梨がその場で軽く跳ねてリズムを取り始める。確かに彼女の引き締まった身体は、以
前にも増して逞しく成長しているように見えた。
「まずはジャブから――」
光志はミットを胸の前に構え、ジャブ、ワンツー、ワンツー・フックと、連続して空梨の打
ち込みを受け止める。インパクトの瞬間に合わせ、ミットが弾かれぬよう腕を押すイメージだ。
だが、彼女の打撃の威力は凄まじく、少しでも気を抜けば簡単に弾かれ、身体まで持っていかれそうだった。
「っ! 強く、――なったな!」
ワンツー・フック・ボディーを受けた光志は思わず唸った。以前は光志の方が加減して合わせていたが、今や空梨の実力は目を見張るものになっている。
「まだまだこれから!」
空梨は清々しさに勇ましさを織り交ぜた表情でコンビネーションを繰り出す。ビリビリとし
た衝撃が立て続けに光志の腕を駆け巡った。
幻霊装騎を使った近接戦闘では、思念粒子をエネルギーとして稼働する各アクチュエーターのサポートがあるとはいえ、その根幹は装着者である生身の人間が担うことになる。特に要求されるのは俊敏性と持続力だ。そこで能率的な訓練方法として推奨されているのがミット打ちなのである。ボクシングや空手道などでも行われるミット打ちは、反射神経や動体視力、呼吸を意識したリズム、バランス感覚、間合いの取り方、スタミナといった、身体全体のパフォーマンスを底上げするのに役立つからだ。
「やるな! 空梨」
複数のコンビネーションを行ったところで、光志はミットを嵌めなおす。
「……本気、出してもいい?」
疲れた様子もなく、空梨は上目でおずおずと確認する。
「え、まだ本気じゃなかったの? な、なんだそうか……」
光志は思わず聞き返した。だがここで慄いては男が廃るというものだ。
「よし、来い!」
一瞬とはいえ身が竦んだ事実を悟られまいと、光志は威勢よく言った。
空梨の目つきが変わる。雑念を捨て去り、戦闘にすべてを注ぎ込む戦士のそれへと。
白銀の髪を靡かせ、矢のような速さで空梨が迫る。サンドバッグを弾くような軽いものではなく、めり込むような破壊力を内包したパンチがミットを揺るがした。
パンチは目標と衝突した瞬間に、その震動が自分の身体に伝わってくる。不慣れな人間は無意識のうちに衝撃を体外に逃がそうとし、結果的にパンチの威力が落ちる。だが空梨は衝撃を逃がさず留め、威力へと活かすのが巧い。日々の鍛錬で身に着けたセンスと筋力が成せる技だ。
気迫と共に放たれるラッシュに、必死の思いで踏ん張る光志は話す余裕も無い。
彼女が時折見せるドライブの効いた打撃に、ミットが千切れ飛びそうな悲鳴を上げた。
†
不入斗夜香は、司令塔七階に位置する司令室に設置されたモニターのデータ群を睨んでいた。
『御先光志、稲葉空梨、両名の心拍数が上昇。BDNF、エンドルフィンを検知。激しい運動
状態にあります』
大小無数のモニターが、兵士のバイタルから基地周辺の状況に至るまで、様々な情報をリアルタイムで表示する、最大千人を収容可能な広大な司令室。その静寂を、人工知能(AI)=アダムの
男性的な機械音声が破った。
アダムは不入斗の所属する研究チームが最初に開発した人工知能(AI)であり、超人工知能=リリスの開発に大きく貢献した実績を持つ。そのリリスが暴走を起こして姿を消してから今日まで、夜香たちを技術や知識など様々な面で支え続けてきた心強い相棒だ。
『男女の夜の営み(スポーツ)にはまだ早い時間帯です』
などと空気を読まないジョークを飛ばすことも、アダムと関わった誰もが知っていた。
「二人で特訓でもしているみたいだね」
GPSで二人の位置を確認した不入斗は少女のように笑う。
「権大尉の居る施設だな」
不入斗の隣で別のモニターを覗く筒香が言った。
怒放隊の隊長を務める鈴華が二時間ほど前に有明に到着し、筒香たちと簡単なブリーフィングを行った後、『日課にしている鍛錬をさせて欲しい』と申し出たため、筒香が件の施設を紹介していたのだ。
「鈴華ちゃん、ちょっとつんけんしてる感じあるから、出会った折に喧嘩にならなければいい
んだけど……空梨はああ見えて根に持つから心配だよ」
不入斗は苦笑を浮かべつつ、モニターに目を戻す。
「――二時間ほど様子を見ているけど、振動数に目立った兆候は見られないね。やはり日常生
活だけではわからないかも。アダムはどう思う?」
腕を組んで唸る不入斗は、アダムに意見を求めた。
『稲葉空梨の九十九里における振動数の急激な上昇は、御先光志がきっかけになっている可能性が高いと判断。再現性の確認には、当時の状況に近い環境を整えるのが適切かと考えます。よって、御先光志を傍に置き、【ホワイトイーヴィル】に搭乗した状態での観察を提案します』
「それも試す必要あるね。御先くんと二人で乗せてみてもいいかも!」
モニターのスピーカーからアダムの音声が発せられ、手を打った不入斗は筒香に顔を向ける。
「龍彦くん」
「部下たちが仕事をしている前でその呼び名はやめて頂きたい。要らぬ誤解を招きそうだ」
「大佐くん?」
「……なにか?」
「【ホワイトイーヴィル】、動かしていい?」
「却下です。【サムライ】や私の騎体のような装備型ならともかく、搭乗型は思念粒子の消費量が激しい。有明の聖職者や避難民から集めた祈りの思念粒子は九十九里戦で使い果たし、現状
は上位界から送られてくる思念粒子を変換装置から放出しているのみ。有事の際に最大出力で
対応できる状態を整えておくには、無暗に動かすのは得策と言えません」
筒香が首を横に振った。
「五万人の避難民の祈りで生成される思念粒子なら、二日もあれば膨大な量になるだろう? 補充なんてすぐだよ」
不入斗の意見に、筒香はしかし頷かない。
「その二日の間に悪魔どもが出現した場合を言っているんです。避難民たちも四六時中祈りを
捧げてくれているわけではありません。日に六回という基準を設け、決められた時間に全員で
共通のイメージを持って祈るため、どうしても瞬発性に欠けます。その隙を埋めるためには、常に万全な状態の戦力を用意しておくことが望ましい」
有明基地周辺に形成されたコロニー群で暮らす総勢五万の避難民たちは日に六度、決められ
た時間になると手を止め、会話をやめ、全員で姿勢を正して目を閉じ、共通のイメージの下、神の加護を願う呪文を唱えている。この祈りが、上位界からの思念粒子と共に変換装置に備蓄され、幻霊装騎各騎へエネルギーとして送信される仕組みだ。
『確かに、人間が祈りを捧げて質の高い思念粒子を生成するには、集団で共通のイメージを持ち、同時に祈るのが有効であると証明されています。とはいえ、五万もの人間が日々のルーテ
ィンを熟しながらタイミングを合わせて祈ることには限界があるのも事実。それが集団で祈る
ことの難しい部分です。よって、時間と回数を決めて行うのは定石と言えます。しかし――』
「それらを加味しても、【ホワイトイーヴィル】を起動して検証を行うべきであると?」
アダムの発言に被せ、筒香が問う。
『はい。何故なら、そうすることで人類は更なる知見を得る可能性があるからです。仮に【ホワイトイーヴィル】を過度に動作させて思念粒子を多量に消耗し、補充するための隙が生じた場合、避難民たちが危険に晒されるリスクは上昇します。ですが筒香大佐、まだ貴方が居ます(、、、、、、、、)』
「ほんの少し歩いたりするだけだから、思念粒子もほとんど使わずに済むよ。だからお願いできないかな?」
と、不入斗は筒香の顔色を窺う。
「……ときにアダム、イギリスの方はどんな状況だ?」
筒香は司令室の窓から空を眺め、そんな質問をした。
『王女率いる【王室機甲連隊】が持ち堪えています。ウィンザー城は快適です。しかし、このまま人類に新たな知見がもたらされなければ、戦局を覆すことは叶わないまま。となれば、こちらの陥落は時間の問題でしょう』
アダムが即座に答えた。現在アダムの本体は英国支部にあり、不入斗たちとはネットワークを介して情報を共有している状態なのだ。
「――それは脅しているのか?」
『いいえ。期待をしています、大佐』
「ウィンザー城は快適だと?」
『はい』
「お前に五感があるとはな」
筒香は鼻を鳴らして僅かに微笑み、不入斗を振り返る。
「博士。あなた方の熱意には負けます。本当に少しだけですからね?」
「――恩に着るよ。筒香大佐」
不入斗は礼を述べ、ブラウンの髪を掻き上げてインカムを装着すると、自身の脳内のナノマ
シンを使って【思念回線】に接続した。
†
先にへばったのは光志だった。
「ち、ちょっとタイム!」
「光くん! 大丈夫⁉」
光志も普段から鍛錬しているが、肉体的ポテンシャルは空梨に及んでいないらしかった。
リングにもたれ掛かる光志に、空梨がタオルと水筒を手渡す。
「少し休めば大丈夫。ごめんな、先にバテちゃって……」
光志は肩で息をしながら、じわりと湧きおこる劣等感を水と共に呑み込む。
「そんなことない。いい鍛錬になったよ!」
空梨は首を振り、光志の背を擦る。
「それにしても、僕はもっと頑張らなくちゃな。空梨に差を広げられないようにしないと」
「今日はたまたま調子が出ないだけだよ」
「……僕、最近ダメなんだ。どうも体力が持たないというか、前より減ってるんだよ」
光志は、空梨が日本を発ってからの十八ヶ月間、訓練以外の機会を見つけては幻霊装騎を装備し、操縦の修練を重ねてきた。平均値を大きく下回る自分の思念適性値を高めたい思いからであった。だが、どうすれば適性値が上昇するのかは、科学的にまだわかっていない。
「なんで、人によって適性値に差が出るんだろうな……?」
光志はつい、ネガティブな感情に苛まれる。よくないとわかってはいても、悩みや劣等感は執拗に光志の口を衝いて表に出ようとする。
物理法則から部分的に解放され、神の力の一部を行使できる幻霊装騎だが、思念適性が兵士たちの平均値以下の光志には、スタミナ不足という致命的な弱点があった。適性が低いと、生
成して保有できる思念粒子の量も、発揮できる権能の威力も小さいのだ。権能の威力を補うた
めには、通常よりも多量の思念粒子を消費するため、尚更長く持たない。
幻霊装騎を起動し、法則密度が減少した状態を保つのに必要なエネルギーである思念粒子は、血液の如く全身を巡っている。それはいわば酸素のようなもので、過剰に使えばたちまち息切
れに陥る。
「――もやし(、、、)みたいな身体なんだもの。無理もないわ。でも、だからって弱気になってたら、もっとダメになる」
そこへ、一人の少女がやってきた。黒い長髪を後ろで一つに結わえ、光志たちに支給されているものとは違う、黒のトレーニングウェアを着用している。光志たちがここを訪れたとき、先客で体幹トレーニングをしていた子だ。
「向こうから見させてもらっていたの。動き自体は悪くないんだから、気に病まないで鍛錬を続けなさい。負の思念なんかに囚われてたら、実力を出し切れないまま死ぬわよ?」
「――は、はい。そうですよね……」
どうやら、光志が暗い表情を垣間見せたのを見逃さなかったらしく、喝を入れに来てくれたようではあるが、
「どうせ長く生きられないなら、せめて実力を発揮して、全力で戦って死ぬべきでしょう? 兵士の死に場所は戦場。戦って散るのが誉。あたしたちの国ではそう教えていたわ」
その厭世的な物言いに、光志と空梨は困惑して顔を見合わせる。
「――ところであんた、もしかして【ホワイトイーヴィル】のパイロット? 想像してたよりチビ(、、)ね」
と、少女は空梨に顔を向けた。
初対面の相手に対する礼節を欠いた物言いに、空梨は眉を顰めるようにして、拳一つ分背の高い少女を見上げる。
「そうですけど、……あなたは?」
「権鈴華よ。権銀華の娘で、階級は大尉。今までは中国陸軍の怒放隊にいたんだけど、明日から有明基地で訓練教官をやることになっていて、今日こっちに移ってきたの。しばらく厄介になるわ」
鈴華はそう言って、光志を凛々しくも挑発的な目で睨め付ける。いつだったか、宿舎で涼吾が修理したテレビで見た戦争映画――そこで描写されていた、相手を侮蔑する挨拶のような振る舞いだ。
「この国の兵隊があんたみたいなもやし(、、、)ばかりなら、鍛え甲斐がありそうね」
「あなたがあの怒放隊の隊長さんですか? 綺麗な見た目に反して、意外と野蛮そうな人ですね。挨拶もとても丁寧(、、)で、好感が持てます」
と、光志と鈴華の間に空梨が割って入る。
「褒めてくれてありがとう。こっちは日本みたいに平和じゃなくて戦い続きだったから、お行儀のいい挨拶は忘れちゃったんだけど、気に入ってもらえたみたいで良かったわ」鈴華は張り付けたような笑みを見せ、空梨に片手を差し出す。「あのアメリカが誇った第七機甲連隊のエースに会えて光栄よ。同じ大尉同士、仲良くやりましょう?」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
空梨もにこやかに笑い、鈴華と握手を交わした。その瞬間、互いの腕に無数の血管が浮き上がる。
二人の少女が放つ鬼気迫るオーラへの恐怖で、光志はその場に立ち尽くすしかない。
そのとき、
『もしもし。あれ? もしもーし? 運動中のところごめん! お二人さん、聞こえる?』
と、不入斗の声が聞こえた。光志と空梨の常装――それぞれのポケットに入っているインカムからだ。昼間に彼女から指示され、午後はずっと【思念回線】をオンにしていたため、自分たちの会話やバイタルが全て筒抜けなのである。
「……邪魔したわね。また明日」
今にも火花が散りそうな空気が緩和され、手を解いた鈴華はちらりと光志に目を遣ると、そ
う言い残して颯爽とトレーニングルームから出て行った。
「行こう?」
と、空梨が光志を促す。
「――はい」
戦慄のあまり硬直していた光志は、空梨と共にインカムを取り出して耳に嵌めた。
『二人とも聞こえてるね? この数時間、君たちをモニタリングしていたわけだけど、どう
もぱっとしないんだ。そこでお願い。今から【ホワイトイーヴィル】に乗ってみてくれない? 御先くんも一緒に』
という不入斗の求めに、
「【ホワイトイーヴィル】に乗せてもらえるんですか⁉」
と、光志は目に喜色を湛え、空梨が口を開く。
「待ってください博士。搭乗型は一人乗りじゃないんですか?」
「実はそうでもないんだよ空梨。騎体によっては二人乗れるものも存在する。君は今までずっと一人で乗っていたから、あまりイメージが湧かないと思うけどね。【ホワイトイーヴィル】のコクピットの形状は一人専用だけど、座席自体は縦に長いから、縦に並んで座ればなんとかなるだろう」
光志たちは不入斗の説明を聞いて目を見開いた。全世界で数えられるほどしか存在しない搭乗型の騎体は、すべて一人しか乗れないものと思っていたからだ。しかし、
「操縦席ひとつか……」
僅かな間、憧れの騎体に気持ちが高揚した光志だが、さすがに一人用のコクピットに二人で
乗るのは躊躇われた。また顔が熱くなり、思わず空梨から目を逸らす。
「光くん、いい? わたしの覚醒のきっかけを探るためだから、協力してくれるとありがたいんだけど……?」
空梨の方は特に異論は無いらしく、同意を求めてきた。
光志は深呼吸し、考えを改める。この検証は今後の戦いを左右する重要な意味を持っているのだ。私情を挟めるようなものではない。
「――わ、わかった。協力するよ!」
「ありがとう。でもその前に、シャワーを浴びさせて? いいですよね? 博士」
空梨はもじもじとした様子で視線を泳がせる。
『それは構わないよ。随分激しい運動をしていたみたいだし、少し休んでから格納庫においで』
「ありがとうございます。じゃぁ光くん、ちょっと待ってて? ごめんね!」
空梨はそう言って荷物をまとめ、いそいそとシャワールームへ向かった。
光志も身体を拭かなければと、誰も居ないのをいいことにその場でトレーニングウェアを脱ぐ。鈴華にもやし(、、、)などと呼ばれてしまった自分の身体が鏡に映っている。軍に入隊したての頃には無かった腹筋の割れ目は、しかし他の男性兵士に比べ浅い。胸板も頼りなく見える。
『今、話して平気かい? 回線を君のインカムだけに固定して、ここだけの話なんだけど……』
不意にインカムから不入斗の声が聞こえ、光志は思わず飛び上がりそうになった。
「は、はい!」
タオルを掴んだ腕をせかせかと動かしながら応じる。
『強引なお願いをして済まない。空梨も君も、心が落ち着かないのはわかってる。でも、大そ
れて聞こえるかもしれないけど、人類の未来のためっていうのはマジなんだ。空梨が覚醒した理由を突き止めることができれば、パイロットの覚醒状態を意図的に作り出せるかもしれない。
もしそれができたら、各騎体の戦闘能力が格段に向上して、悪魔との戦いにきっと終止符を打
てる。だからもうしばらく協力してほしい』
「――戦いを終わらせられるなら、何だってやります」
服を着た光志はそう答え、鏡の中の自分を試すかのように見つめる。
「博士、質問していいですか?」
『なんだい?』
「覚醒というのは、空梨みたいに高い思念適性を持った人間にしかできないものなんですか?」
努力に反して下がっていく一方の思念適性。そんな光志にとって、覚醒という言葉は周りの人間に追いつく切り札であるかのように響いていた。
『それは私にもわからない。覚醒状態になったのは空梨が最初だからね。今までは推論でしかなかった現象が、実際に起こることがわかった段階に過ぎないんだ。会話を聞かせてもらって
いたけど、キミはスタミナが伸び悩んでいるんだったね。……済まないけど、現時点では、覚醒は誰にでも起こり得るとは言えない』
「覚醒する以外に、もっと強い力を手に入れる方法は無いんですか? 思念適性そのものを底上げするとか……」
『……キミは強くなりたいのかい?』
「そうです。今の力じゃ全然足りない。僕は小さい頃の記憶が無くて、相手が誰かはわからないんですが、約束したんです。空梨を守るって。そのために強くなろうと、今までずっと積み重ねてきました。でも思念適性値は下がるばかりで、……このままだといずれ幻霊装騎そのものに触れられなくなります。空梨ばかりを最前線で戦わせるのは嫌なんです」
半年に一度行われる思念適性試験において、合格のラインを下回った者は幻霊装騎のパイロット資格を失い、後方支援部隊に回される。
幼少期の記憶を失っている光志だが、空梨を守ることが自分の使命(、、)なのだということだけは明確に覚えていた。
自分だけ支援に回って、空梨一人を戦わせるわけにはいかない。共に最前線で戦い、彼女の助けになることこそ本懐であった。
『――なるほどね。……うーん、私が思うに、強さにもいろいろあるんじゃないかな? 最前
線に立つことだけが強さじゃないと思うんだよ。何が言いたいかって、空梨を守る手段は他にもあるってことさ」
「それなら、他にどんな手段があるんですか?」
そう問う今の光志は、戦乱の世の荒波に揉まれ、藁にも縋る少年そのものであった。
『前線で戦う兵士たちと、彼らの兵站を担う支援者たち。双方には共通しているものがある』
「……共通するもの?」
『それは心さ。心が繋がり合って初めて強さになると私は思うよ? 人は誰だって、誰かの支
えがあって初めて本領を発揮できるものだからさ。互いに信頼したり、想い合ったりしてね。
立場がどうであろうと、どんなに離れていようと、そうして心が繋がっていることが大切なんじゃないかな? 科学者の私が言うと変に聞こえるかもしれないけど』
「心の繋がり。それこそが強さ、ですか……?」
『隣に立てなくたって、彼女の心の支えにならなってあげられるじゃないか。空梨は向こう(、、、)で、キミと仲間が映った写真を肌身離さず持っていたよ?』
「空梨の、心の支えに……」
『重ねたお願いで申し訳ないけど、是非とも支えてあげてほしい。今は平静を装っているけど、向こう(、、、)では何度も辛い思いをしてきた。……あんなに表情豊かなのは随分久しぶりに思えるくらい、彼女、笑っていなかったから……』
当時のことを振り返ってか、不入斗は言葉を詰まらせながら言った。
「もちろんです。今まで支えられなかった分を取り戻します」
光志は迷わず答える。叶うなら自分もアメリカに行き、側で支えていたかったくらいなのだ。
空梨が体験したであろう、アメリカでの壮絶な戦争。彼女が一人でその傷を癒すのは難しく、長い時間を要するに違いない。
自分が不安に駆られ、絶望している暇などない。
最前線で戦う以外にも、やれることはあったのだから。
『――そう言ってもらえて安心したよ』
不入斗の安堵の声。
「光くん、お待たせ!」
ものの数分で、空梨は戻ってきた。軍人生活の中で、緊急出撃にも幾度となく対応してきたのであろう彼女は、あらゆる所作が無駄なく洗練され、素早かった。
†
搭乗型の格納庫は、有明基地の東五ホールにある。【サムライ】や【ヴァイシュラーヴァナ】といった装備型の製造・メンテナンス設備が整う東六ホールの隣だ。
「もうすぐ夕飯というときに来てくれてありがとう。あまり時間は取らせないから」
入り口の衛兵に敬礼した光志と空梨が格納庫に入ると、不入斗がタブレットを片手に待って
いた。彼女の背後に聳える全高十六メートルの巨体こそ、九十九里を危機から救った【ホワイトイーヴィル】だ。
光志は改めてその壮大なスケールを誇る骨格を見上げ、感嘆の思いに浸る。
搭乗型は、起動する前はチタン合金の骨格が剥き出しになっており、クレーンであらかじめ
直立の姿勢に保たれている。櫃の如き長方形をしたコクピットモジュールは【聖櫃】と呼ばれ、胴体の胸部中央に設けられており、それを囲うように骨格が形成された姿は、人間のそれに酷似していた。
「乗るのは構わないですけど、動かしたりはするんですか?」
「そうだねぇ、軽く歩いてみせてくれる? 起動時に上昇(、、)するのは法則密度四・〇くらいまででいいからさ。龍彦くんにもちゃんとお許しをもらってあるから大丈夫」
空梨の問いに、不入斗は弾むような声音で答えた。
「稲葉大尉の覚醒をもう一度再現するのが目的なのでしたら、僕は乗らずに近くで見ていた方が、当時の状況に寄せられるんじゃありませんか?」
光志は一つだけ気になっていたことを聞いてみた。
「それも考えた。でも、この方がいいと思ったんだ。私の勘だけど」
と、不入斗は子供のように悪戯っぽく笑った。白衣を纏っているからこそまだ辛うじて科学者という印象があるものの、勘などという、科学とかけ離れたことを口にされてはいよいよ説得力に欠けてくる。
「勘ですか……」
不安になってきた光志はつい漏らした。
「アルバート・アインシュタインはかつてこう言った。『自分たちにとって最も美しく、最も深遠な経験は、神秘を知ることだ』とね。つまり、非科学的だと思うようなことの真理を知るこ
とに価値があるんだよ。勘は実験を行うきっかけの一つさ。彼の名言は【ビックデータ】に載
ってると思うから、もし興味があったらタブレットで検索してみるといい」
世界の電子情報は、【ビックデータ】と呼ばれるネットワーク上のデータベースに保管されて
おり、統合防衛軍が支給するタブレットからアクセスすることで、閲覧を許された情報に触れることが可能となっているのだ。
「な、なるほど……」
そう聞くと、例え勘であろうとも、少しでも何か得られるなら挑戦するべきだと思えてくる。
「博士のうんちく(、、、、)は聞いてて飽きないし、ためになることも多いんだよ?」
と、どこか楽し気な空梨。
「それじゃあ空梨。御先くんを騎体までエスコートしてあげてくれるかい?」
「はい!」
空梨はやる気充分といった様子で頷いた。
光志は空梨のあとに続いて昇降式のタラップに乗り、【ホワイトイーヴィル】のコクピットモジュール=聖櫃の手前まで伸びる足場へと移動する。
足場は簡易的な手すり以外に落下防止設備は無く、床面も網目状で下が丸見えだった。
「こ、ここって、高さどれくらい?」
若干高所恐怖症の気がある光志は最悪の事態を想像して竦み上がり、そんな質問をした。
「うーん、十メートルくらいかな?」考える仕草をした空梨が視線を光志に戻し、「――そっか。光くん、高いところ苦手だったよね」
不入斗に似たのか、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「す、少しだけだよ……」
と、顔を逸らす光志を見て、空梨は頬をほんのりと赤らめた。
「こ、こんなに近くで見るのはこれで二度目だな!」
光志はどうにか気を取り直し、騎体に意識を向ける。
聖櫃は高さ二メートル、幅一・五メートルほどで黒色をしており、斜め上を向く角度で騎体の胸の中央に組み込まれている。光志たちが足場からそのハッチを見下ろす状態だ。ハッチの部分には拳ほどの銀の十字架が刻まれていた。
「ようこそ、我が愛騎へ」
空梨がその十字架に触れるとコンプレッサーが作動。圧縮空気の開放と共にハッチが開いた。
奥行きは広く、これもニメートルはある。奥にレーシングカーのバケットシートを思わせる
形状をした操縦座席が据え付けられており、それと向かい合う形で計器類が並んでいる。
搭乗型のパイロットは基本的に、やや仰向けに寝そべるような形で座席につく。奥行きが広
めに取られているのは、長身のパイロットを考慮してのことだろう。
「光くん、昔から大型の騎体に乗りたがってたよね。これで願いが叶うよ!」
「まさか僕がこれに乗れるなんて……うわぁ⁉」
感慨深い気分に浸る光志は足元の注意が疎かになり、足場と聖櫃とのギャップに躓き、
「光くん! ――きゃっ⁉」
支えようとした空梨と共にコクピット内へと倒れこんだ。聖櫃は観音開きのため、乗り降りのスペースが広く確保されており、二人がすっぽりと呑み込まれる形となった。
あろうことか、二人が中に倒れ込むと同時にハッチが閉まり、完全な闇に包まれてしまう。
「――大丈夫?」
「う、うん。――ごめんな」
思わず心臓が大きく脈打つほどの至近距離から空梨の声がした。石鹸のやさしい香りがふわりとコクピット内を満たしていく。ここでセンサーが反応し、HUDを始め計器類が点灯。それらから放たれる若竹色の光で、辺りがぼんやりと照らし出される。
空梨の整った小顔が目の前にあった。光志が座席に仰向けに倒れ込み、空梨がその上に重な
るようにして倒れていたのだ。
「ご、ごめん! あうっ⁉」
今度は空梨が慌てて身を起こすが、天井に後頭部を強打。光志の胸の上に顔を埋めた。
「痛くなかったか⁉」
光志が空梨の頭を擦ると、
「……そこそこ痛かった」
顔を真っ赤にした空梨がそっと顔を上げて光志を見た。それから徐に目を逸らして身体を捻
り、光志と同じように計器類の方を向いた。光志の股の間に空梨が座り、彼女の身体が光志の
上半身にもたれ掛かる形だ。
「シートベルト、光くんの左脇にあるから、光くんが締めていいよ?」
「こ、こうか?」
光志は探し当てたベルトを、こちらに背を向ける空梨の身体の前を回し、右手側に繋いだ。
「そ、そうじゃなくて、光くん一人で!」
「で、でもそれだと空梨が危ないじゃないか!」
『おお! コクピットに落ちたと思ったら、いいカンジになってるね!』
あたふたする二人の前で、HUDに不入斗の不健康そうな顔が映し出された。
「博士、ぜったい楽しんでますよね⁉ 観察と見世物は違います!」
空梨が耳まで真っ赤にして抗議する。
『見世物だなんて思っていないさ。御先くん、その調子で彼女をしっかりホールドしておくように。法則密度を四・〇まで下げて軽く動くだけとはいえ、安全第一だからね。それと空梨、彼に変なことされたら強制射出させていいよ?』
こんなに無理のある状態でなおもゴーサインを出すうえ、光志はセクシャル的に既に強制射
出させられても文句は言えない状況であるにも拘わらず『あはは』と笑う不入斗。
心音が高鳴りっぱなしの光志だが、不入斗の言う安全第一という言葉だけは正しいので、
「空梨。仕方ないから、このまま我慢してくれないか? ちょっと不格好だけど……」
と、頭から今にも湯気を出しそうな空梨を諭す。
「こ、光くんがそれでいいなら……」
空梨はそう言って静かになると、HUDへ向かって乗り出していた身を徐に横たえ、光志に預けた。そして、両サイドにある操縦桿を握る。
「――それじゃ、起動するね?」
「頼む!」
『御先くん、力み過ぎだよ。息まで止めなくていいから、リラックスだ。あまり硬いと、空梨もやりづらいぞ?』
光志は不入斗の声を無視した。
深呼吸した空梨は、落ち着いた声で起動シークエンスに入る。
「主電源オン、【実現装置】起動。思念粒子認識、出力霊体との思念接続確認。思念粒子充填率百パーセント。こんばんは、サリエル」
『稲葉空梨、操縦を認めましょう』
空梨が挨拶すると、出力霊体=サリエルの思念が文字となって表示された。この機構は全て
の騎体で共通のようだが、乾闥婆に比べてサリエルの文章からは、どこか上からものを言われ
ているような印象を受ける。
「操縦感覚補助装置(OBN)スタート。システム、オールグリーン。慣性航法装置(INS)、アライメント調整完了。拘束具解除。アクチュエーターチェック、クリア。法則密度六・〇(シックス)。実現スタート、振動数上昇開始――一〇(ワンゼロ)――二〇(トゥ―ゼロ)、霊体ショックスタンバイ、ナウ」
空梨が呼称を続ける中、騎体に衝撃が走った。光志はこの騎体の出力霊体と思念接続していないため、感じたのは微かにだが、どこかから重い足音が響くような、地鳴りにも似たその感触(、、)は間違いなく、法則密度が一段階減少したときのものだ。
HUDの映像が外部のそれに切り替わる。足場やタラップが動作し、騎体から離れていく様子が見えた。この外部の映像は視覚カメラによるものだ。つまり、【ホワイトイーヴィル】はその白い巨体の実現を既に完了していることになる。恐らくは頭部(、、)が形成され、あの紅い目(、)が周囲の様子を見ているのだろう。
キュィイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!
実現装置の甲高い風切りのような作動音が、段々とその音階を上げていく。
『うんうん。輝かしいボディが実現できてる! 紅い目が光っててかっこいい!』
子供のようにはしゃぐ不入斗の声も、集中し切った今の空梨には届かない。
「――五〇(ファイブゼロ)、霊体ショックスタンバイ、ナウ」
再び衝撃。【サムライ】を駆る光志には、ショックが複数回起こるほどの起動シークエンスは
存在しない。もうこの時点で、空梨とその愛騎は更なる上位へと昇格しているのだ。実現装置の音階は、今やジェットエンジンのような超高音に達していた。
「七〇(セブンゼロ)、システムチェック、オールグリーン。霊体ショックスタンバイ、ナウ――っ!」
三度目の衝撃は、それまでのものよりも強いらしく、空梨は身体をビクンと痙攣させ、微かに呻いた。
「――九〇(ナインゼロ)――一〇〇(ハンドレッド)。霊体ショックスタンバイ、ナウ。うッ!」
空梨の身体が更に強く痙攣。喘ぐような声を発したかと思うと、徐々に鎮静化し、光志の胸にその頭を載せた。
「振動数、一三〇(ワンサーティ)。法則密度四・〇(フォー)で安定。【ホワイトイーヴィル】、起動シークエンス終了」
激しいランニングを終えた直後のように、肩で息をする空梨。
「大丈夫か? 空梨」
光志が空梨の背を擦ると、凄まじい熱を感じた。体温が異様なまでに上昇している。
『上位界まで自分自身を上昇させるには、実現装置を使って振動数――つまり己の心拍数を早める必要がある。それは御先くんも、【サムライ】の霊体ショックで軽く経験済みだろうから知っているね? 上位界に上昇すればするほど、心拍数も早まる。実現装置のおかげで、心臓や
肉体への負荷は最小限まで抑えられているけど、それでも長距離マラソンを走ったくらいの負
荷が掛かっているんだ』
不入斗の説明を聞く光志は、空梨の背を通じて激しい脈を感じ取った。普通、脈は首や手首
でなければはっきりと感じ取れないが、軍服越しでもそれがわかった。法則密度六・〇(シックス)の生身
であれば、心臓が壊れてしまうのではないかというほどの強さと速度で以って、彼女とサリエ
ルの思念粒子が、稲葉空梨という人間を上位界に至らしめるべく全身を駆け巡っているのだ。
「……ここまで来れば、もう平気」
空梨は上気した顔で振り返り、親指を立ててみせた。
「――お前、こんな状態で、ずっと戦ってたのか?」
空梨は大丈夫だと言うが、不安感は拭えない。光志にとって、今の空梨の身体は常軌を逸した状態であった。
「辛いのはセカンドショックを超えてから、フォースショックを超えるまで。それより上は、肉体の法則からある程度解き放たれて、負荷とか、ケガとか、病気とか、そういう類のものが
なくなるの。その恩恵は上位界にいる間だけしか受けられないのが残念だけど、いいことも
あるんだよ? 時間の概念もある程度薄れるから、老化が抑制されるとか!」
「例えるなら、キツいのはエレベーターで二階から四階に上がるまでの間だけで、四階から上は負荷も無くて楽ってことか?」
「簡単に言うとそんな感じ」
空梨がこくこくと頷いた。
「出力霊体のサリエルは、キツさを緩和してくれたりはしないのか?」
「よくは知らないんだけど、位の低い人間が人間界から上位界に昇格するための試練みたいな
もので、緩和は無理みたい。サリエルったら、人間とほとんど会話をしたがらないから、詳しいことはわたしも博士もわからないの。基本的に挨拶する以外、返事もしてくれないし」
光志は、空梨と不入斗が軍事病院でそんな会話をしていたことを思い出す。
「――ということは天使にも、性格の違いがあるんだな。【サムライ】の乾闥婆は世間話にだって応じてくれるのに、返事をしないのは冷たいな。神様に咎められないのが不思議だよ」
空梨の抱える事情に光志は唸った。サリエルのように無口な出力霊体までいるなら、幻霊装騎が起こす摩訶不思議の数々を解明し尽くすのは困難を極めるだろう。
『調子はどう? いつもと何か違ったりする?』
という不入斗の問いに、空梨は小首を傾げつつ答える。
「いつもと変わりありません。強いて言えば、少し気分が良いくらいです」
『わかった。では次だ。とりあえず歩いてみて?』
空梨は指示を受けると軽く俯き、黙したまま操縦桿を動かす。
「…………」
光志には、空梨が歩行をイメージしつつ、思念信号で稼働するアクチュエーターへ動くよう
念じているのだとわかった。
物理法則から部分的に解放されている空梨は恐らくあまり感じていないのであろうが、光志
は空間が軽く揺らぐような、コクピット全体が振動するような感覚を捉えた。
視覚カメラの映像を見ると、光志の予想通り、騎体が東五ホールの中を前進していた。数歩
進んだところで優雅なターンを行い、元居た場所へと戻る。
『変わりなし?』
「はい。特には……」
『そうか。これくらいじゃ覚醒しないか、あるいは更に何らかの要素が必要なのか……?』
「博士、飛んでみてもいいですか?」
ふと、空梨はそんなことを言った。
『え……まぁ、大丈夫なんじゃないかな? うん、平気平気!』
何故か間を挟んで、不入斗が快諾した。
「光くん、平気だって!」
空梨が目を輝かせて振り返る。
『でも少し待ってくれ。今天井の開閉スイッチを探すから――』
「ジャンプ(、、、、)を使うから大丈夫です」
第一から第八まである東ホールは有明の要塞都市化に伴い、その全てが開閉式天井に換装さ
れており、搭乗型は基本的に天井から出入りできる仕組みになっているのだ。
「ジャンプ? それも権能なのか?」
と、光志は問う。
「うん。日本語で言うと、空間跳躍ってやつ」
「それって確か、霊体化しているからこそ可能な、物体を透過して移動できるワープのことだっけ?」
光志は今朝の九十九里で、【ホワイトイーヴィル】が空中に現れたときのことを思い出した。あれを空間跳躍というのだろう。
「そうそう! この聖櫃の中は安全だから、恐がらなくて平気だよ?」
光志の見守る前で、空梨は再び黙して念じた。すると、数舜の間、身体が浮遊するかのような感覚に包まれ、次の瞬間には視覚カメラの映像が真っ暗になった。
「――どうなったんだ?」
自分の耳に、気圧が変化したときのような、聴覚が遠退く違和感を覚えた光志はそう尋ねる。
「今、屋根の上に出たの。更に上昇中」
空梨の説明の直後、
「――すごい!」
光志は視覚カメラからの映像に釘付けになった。
そこは、久しく見ていない夜空だった。銀白色に照らされた雲海の彼方では、煌々たる半月
が静けさを漂わせている。その美しさに、高所への恐怖も薄らいだ。
「……綺麗だね」
「ああ! 月も星も、久しぶりに見たよ」
空梨が背を光志に預けた。心が洗われるかのような心地良さの中、二人はしばらくの間そう
して夜空を眺める。
「博士に乗るように言われたとき、もしかしたら一緒にこれが見られるかもって思ったの」
空梨は昔から、空や景色を眺めるのが好きな少女で、稀に晴れた青空が見れたときは幸せそうに笑っていたのを思い出し、光志はどこか懐かしい感情に包まれた。
「空梨くらいのパイロットになると、こんなことも簡単にできるんだな!」
光志はそこでふと、【ホワイトイーヴィル】が九十九里で見せた超回復を思い出した。
「破壊された片腕を一瞬で治したのにも驚いたよ。まさに神の力って感じだったからな」
「わたしもあれにはびっくりした。自分で念じた覚えは無いけど、気が付いたら腕が治ってたの。サリエルのおかげなんだと思う。まさに上位界の神々の成せる業ってやつだよね!」
と、空梨。
「具体的にどんな理屈ですごい現象を起こせるのか、乾闥婆に聞いてみたことがあるんだ。彼が言うには、法則密度の低い世界に存在する者にとっては、念じればその通りのことが起こる
のが当たり前なんだってさ。僕たちがいる人間界では超常的に思われるようなことも、乾闥婆
たちの世界では普通のことで、理屈で説明のしようがないって言ってたよ」
光志の言に、不入斗が加わる。
『やっぱり考えることはみんな一緒だね。私も以前、筒香くんに頼んで毘沙門天に聞いてもらったことがあるんだけど、似たようなこと言われたよ。科学は人間界だけの概念で、格上の世界には無いんだとさ』
「人間の世界だけ法則で雁字搦めにされて、なんだか損してる気分になりますね」
『確かにね。けど御先くん、神様の決めたことに不満を抱くのはいただけない。きっと意味があってのことだ。同じように不満を募らせた挙句に爆発させて、反旗を翻した悪魔たちがどうなったかは知っているよね? 同じ道を歩みたいかい?』
「絶対に御免ですね」
光志は首を横に振った。
「――操縦桿、握ってみる?」
不意にそんなことを言う空梨。
「え、僕が⁉ で、でもそんなことしたら――」
「思念接続はわたしがしてるんだし、滞空状態だから平気だよ。ユーハヴ?」
柔和に笑った空梨は、アメリカ仕込みの流暢な英語で聞いてきた。
「あ、アイハブ……」
憧れの搭乗型。その操縦桿を握る機会など、人生でそう何度も訪れるものではない。
意を決した光志は空梨の後ろから、両サイドにある操縦桿をそっと掴んだ。
「軽く右に倒してみて?」
空梨の指示を受けた光志は、双方の操縦桿を緊張のあまりグイッと倒した。次の瞬間、騎体が大きく右に傾ぎ、眼前に広がる雲海がぐるぐると回る。
「うわぁ!」
「少し戻して?」空梨の手が光志の手に重ねられ、優しい力で微修正する。「次は左に、こう」
「う、うん……」
今度は左に操舵。空梨から漂う石鹸の香りと温かい手の感触で、光志の頭は一杯になった。
「遊覧飛行。気持ちいいでしょ?」
「うん……」体中から湯気が出そうな光志は、どもりながら操縦桿を返す。「ゆ、ユーハブ?」
「アイハヴ♡」楽し気な声で、空梨が操縦桿を握った。「願い、叶ったね!」
「ありがとう、空梨。ほんと、生きててよかったよ」
光志の礼に、空梨は小さく笑い、
「大袈裟だよ。でも――」言葉を切り、片手を自分の胸の方へと寄せた。「――そう思うのって、大事だよね……」
思いを馳せるかのような空梨の声から、今までの楽し気な色が薄れていた。その背が小さく
丸まり、光志の目には、まるで何かに怯える小動物のように映った。
「……あのさ、空梨」
「ん?」
光志は自分のインカムをタップし、【思念回線】を非共有状態にした。気掛かりだったことを、ここで聞く決意をしたのだ。
「こっちに帰ってきてからずっと、無理してないか?」
「っ!」
はっとするような呼吸が、小さく聞こえた。
「…………」
空梨は何も言わず、光志と同じようにインカムに触れる。これで完全に、二人だけの空間だ。
「もし、空梨が吐き出したいこととか、聞いてほしいことがあれば、僕、なんでも聞く。向こう(、、、)
での記憶を完全に消し去るなんてできないのはわかってる。だけど、僕は空梨に、深い傷を放ったままでいてほしくない」
「…………」
「空梨は水葬の儀のとき、もっと強くなりたいって言ったよな? いろんなことを全部一人で
背負って、それが辛いと感じる自分を、弱いと思ってないか?」
「……うん、わたしは弱いよ」俯いた空梨は、膝の上で拳を握りしめる。「向こう(、、、)で仲間がみんないなくなって(、、、、、、)、悲しくて、苦しくて、おかしくなりそうだった。でもそれは自分の心が弱いからだと思った。弱いから、みんなを守れなかったんだって。だからひたすら身体を鍛えて、心も強くなろうとした。でないと、光くんのことも守れないから」
言いながら、空梨は徐にシートベルトの金具に手を触れてそっと外し、光志を振り返った。月明かりが光源の大半を占める騎内は薄暗く、空梨の青藍の瞳が淡く煌いて見える。
「それは違う。空梨は弱くなんかない。だから生き残れたんじゃないか。一人で背負わなきゃいけないなんて、誰が決めた? 空梨だけがそんな思いをしなきゃいけないのはおかしいよ」
「おかしくない! 強かったから生き残れたと思ってる? 目の前で仲間が死んでいくのを、わたしはただ見ていることしかできなかった。……その気持ちわかる? 今でも悲鳴が聞こえてくる。……わたしの生還は罪。わたしはそれを一人で背負わなきゃいけないの!」
空梨が語気を強め、膝の上の拳を強く握った。
「光くんはそのままでいい。でもわたしは、搭乗型の数少ないパイロットとしての責任がある。わたしが光くんたちを守れなきゃいけないの。そのためには、何にも動じない強さがないとダメ。……それが、わたしがアメリカで学んで、自分で出した答え」
空梨の言うこともまた、正しいのだろう。まだ光志たちが与えられた訓練を熟すだけの日々
を送っていたときから、彼女は戦火渦巻く最前線で、高い霊体適性を持つ選ばれし者としての
重い使命を背負って、ずっと戦っていたのだ。光志たちでは想像もできない、悪夢のように凄
惨な光景を何度も見てきたのだ。
今目の前にいるのは、以前の空梨ではない。数え切れぬほどの死と別れを経て帰還した稲葉
大尉なのだ。彼女の眼差しには、戦士としての強い意志が込められている。
「確かに支え合いは大事だよ? 人は生身じゃ悪魔に勝てないから、幻霊装騎を支えにして戦う。それは人同士でも言えることだってわかってる。でも、わたしはそれじゃダメ。わたしがしっかり戦えなければ国が亡びるなら、一人でも全部背負って戦える本当の強さが要るの」
光志は、まるで今までの自分自身を見ているように感じた。強くなくてはならないという自
負が、空梨の心を強迫観念という鎖で締め付けている。それが本当に大切なものなのか疑問に思っても、その頑なな自責が杭となって、己を楽させまいと磔にしているのだ。
『心が繋がり合って初めて強さになると私は思うよ? 人は誰だって、誰かの支えがあって初
めて本領を発揮できるものだからさ』
光志は不入斗の言っていたことを思い出した。強さばかり追求していた光志は、弱っていく一方の自分に苛立ち、周囲との差に劣等感を抱く始末だった。自分を責めて焦燥に駆られていた。だがそれは言い換えれば、狭い視野で、たった一人で背負わなければならないと思ってい
たからだ。視野さえ広げて、そして変えることができれば、自ずと重要なものの見え方も変
わってくる。
「空梨の考えも分かるよ。責任を背負って何かのために戦うって、そういうことだと思う。だけど――」
光志は空梨のまっすぐな眼差しと向き合う。彼自身も、以前の光志ではない。
葛藤の中で人から学び、選ぶべき正しさを選び抜いた、御先光志なのだ。
「――空梨にとって一番大事なのは、誰の力も借りず、一人で戦い抜けるようになることなのか? それが空梨の言う〝本当の強さ〟なのか?」
「……どういうこと?」
「人の本当の強さは、一人じゃ得られないってことさ。人が幻霊装騎で悪魔に立ち向かえるのは、神様や天使と繋がってるからだろ? 本当に大事なのは兵器の強さでも、個人の強さでもない。搭乗型のパイロットだからなんだっていうんだ? もっと仲間を頼ったっていいじゃないか。人との繋がりこそが、人をもっと強くするんだよ」
光志の抱く正しさ(、、、)を聞いた空梨の瞳が、僅かに揺らぐ。
「一人で抱え込むなよ。空梨が僕たちを守りたいと思ってくれているように、僕たちも空梨の支えになりたいと思ってるんだ」
「……本当の強さは、繋がって、支え合ってこそ得られる?」
「僕はそう信じてる」
頷く光志の頬に、透明な光が落ちた。
「――あれ? わたし、なんで……?」
空梨はそれが自分の涙であると気づき、慌てた様子で座り直す。
「泣いたっていいさ、空梨」
身を起こした光志は空梨と向かい合い、再び溢れる彼女の涙を指でそっと拭った。
「わたし、一人じゃ嫌で……でも、甘えに変わるのが恐くて……」
「――分かってる」
光志が頭を撫でると、空梨は嗚咽を漏らしながら抱きついた。
「ごめん……」
「大丈夫。空梨は悪くない。僕たちと一緒に、これからもっと強くなるんだ」
光志は空梨の背を慰するように優しく撫で、眼前に広がる景色を眺める。
半分に欠けた月の淡い光が、雲海の上に佇む白い天使を照らしていた。