第一章 窮地に咲く花
《連合政府通知文書・第五百三十八号・戦役歴十一年、九月二十日発行》
・アラスカ、カナダに続いてアメリカ合衆国が陥落。避難民を乗せた船団が日本へ向けカリフォルニア州・ロングビーチを発つ。統合防衛軍北米支部第七機甲連隊が脱出船団を守る盾となり全滅。エースパイロット・稲葉空梨が戦死。
†
空梨が死んだ。
戦役歴十一年、十月四日の朝。統合防衛軍東アジア支部有明基地第二大隊居住区兵員宿舎。各部屋に一つずつ支給されるタブレットをルームメイトの涼吾から借り受け、連合政府が発
行している通知文書にアクセスした光志は、戦死者リストの中に追加された彼女の名を見た。
空梨が北米支部へ配属になって一年半。専用騎を駆る彼女の活躍はネット上で注目され、世界中の人々に戦う勇気と希望を与えていた。
人類有数の高適性パイロット。その肩書きを証しするかのように、空梨の戦闘能力はずば抜けて高く、彼女とその騎体【ホワイトイーヴィル】が健在である限り、北米諸国は陥落しないだろうと連合政府に言わしめたほどであった。
しかし彼女が所属する北米支部第七機甲連隊の一年に及ぶ奮戦虚しく戦局は徐々に悪化。
光志は毎日のようにタブレットを覗き込み、空梨の無事を祈ってきた。
縋るように。
乞うように。
だが、この人間界に神はいない。
光志は自分の体にぽっかりと、それこそ【黒い死】の如き大穴が空いたような感覚に見舞われた。
空梨はもう戻らない。
彼女は苦しんだのだろうか。最期になにを思ったのだろうか。
考えれば考えるほど、光志は自分が世界から切り離されていくような気がした。
『―――――、お願い! 私の娘を、空梨を守って!』
「…………っ!」
光志はぐっと拳を握りしめる。失くした記憶の中、誰かと交わした約束(、、、、、、、、、)を、自分は果たせな
かった。
北米大陸が陥落した今、敵軍は西へとその矛先を向けることが予測されている。
せめて、戦わなくては。償わなくては。仇を討たなくては。
宿舎に警報が鳴る。
『千葉県東部、九十九里浜・一松海岸に悪魔の出現を確認。第一、第ニ大隊、出撃準備』
想定よりも早い敵の襲来に、兵士たちはざわめき立ちながらも装備型=【サムライ】の実現モジュールを装備し、部屋を飛び出していく。
「光志」
涼吾が光志の肩を叩く。
「……仇を討つぞ!」
「――ああ!」
光志は頷く。
今は堪えるんだ。悲しんでいる暇はない。僕は空梨の分まで戦う。
ただ奪われるだけなら、希望もなにも無いなら、せめて最後まで抗ってやる!
†
有明基地の東に広がる灰の如き黒雲が、不安を染み渡らせるかのように近づいていた。真上を覆う乳白色の曇り空が徐々に西へと押しやられる中、元は広大な駐車場だった東エプロンでエンジン音を轟かせるティルトローター機の側に、光志たちは駆け足で集合した。数十名の兵員を輸送可能なその大型機体を前に、全員がヘルメットのように丸みのあるHMDを装着し、黒い戦闘服の上からベストに似た形状の実現モジュールを身に着けている。このモジュールこそが、幻霊装騎の要たる実現装置だ。
「総員、整列! 点呼番号、始め!」
作戦会議で中隊長を任された涼吾が声を張り上げ、光志たちは一列十名の五列横隊を組んで点呼を行う。【開戦の日】以来の大規模戦闘を前に、ある者は身震いし、ある者は青褪め、各々(おのおの)が遠い存在たる神に祈る。
「各員、幻霊装騎起動!」
涼吾の合図で、光志たちは一斉に実現装置の電源を入れる。すると、実現モジュールの至るところを淡い光が迸った。
「主電源オン。緊急出動状態。起動シークエンスを一部省略。実現スタート。振動数上昇開始!」
号令で全員が動くのに合わせ、光志は騎体を実現。
出力霊体が思念粒子の供給を始めたことで実現装置が本格稼働し、微振動を開始。すると、光志の鼓動が早まり、身体の周囲の空間が揺らぎ始めた。次いで、モジュールから靄掛かった透明な物質が噴き出し、光志の身体を包み込んで一体化する。
「振動数安定。霊体ショックスタンバイ、ナウ!」
HMDに表示される各計器の数値を元に、光志がシークエンスを表白。すると自身が霊体化するのに伴い、心の臓が一際強く脈打つ衝撃が走り、身体と一体化していた透明な靄が捲れ上がるように消滅。金属の鎧(、)が姿を現した。
「法則密度、五・五で固定」
これが装備型=【サムライ】の実現。即ち起動した状態である。
人間の法則密度は六・〇。光志は今、そこから幻霊装騎=【サムライ】を起動したことによって霊体化し、一段階上の法則密度=五・五の存在へと格上げ(、、、)されている。
法則密度は、世界の理を縛る法則の量や度合いといった意味を持つ。この密度が減れば減るほどに物理法則の縛り(、、)から解放され、より超常的で強力な権能を使った事象を引き起こすこ
とができる。つまりは、神と同等の存在へ近づいていく。
【サムライ】の金属装甲も、法則密度の下降と共に発動した権能の一部である。
武骨なボディは多面体の如く角張り、頭上には天使の光輪を思わせる防御円が白く輝く。
頭を覆う兜には王冠のような複数の突起を有し、左腕甲部に長方形をした大盾を、右腕甲部には格納式の短剣を装備。黒と緑を基調とした全体のシルエットは鎧武者を彷彿とさせる。
その上空を、無人戦闘機の編隊が立て続けに通過。東へと向かっていく。
「みんな、用意はいいな? 俺たちの初陣は激戦になる! 訓練通りにやるんだ。育ててくれた両親を思い出せ! そして仲間を想え! 偉大な神は戦う力を、先駆者たちは命を下さった! その恩に報いるため、俺たちは最後の一人まで戦う! 悪魔どもに思い知らせてやれ! 神の御名によって!」
「「アーメン!」」
涼吾の激励に合わせ、全員が祈りの声を張り上げた。
「総員、二号機に搭乗!」
十月四日、午前七時五十八分。第三機甲連隊の二個大隊が、基地の東西に位置するエプロンでそれぞれのティルトローター機に乗り込み、千葉県九十九里浜へ向け出撃した。
†
十月四日。日本標準時、午前八時三分。千葉県九十九里沖百キロ。
原子力空母を始め、ミサイル巡洋艦、ミサイル駆逐艦、潜水艦、揚陸艦からなる米国海軍第七艦隊は、合衆国本土からの脱出船団二十七隻を先導し、横須賀基地を目指していた。
アメリカ本土が上位悪魔ラハブ率いる軍勢に侵略される中、幸か不幸か、戦力温存の指令を受け、全艦とそのクルーが断腸の思いでハワイに留まっていた。結果として、米国で無傷且つ最後の艦隊として護衛任務を行うに至っている。
艦隊を率いるのは旗艦=ブルーリッジである。その艦橋に今、緊急事態を知らせる警報が
鳴り響いていた。
『九十九里浜に悪魔の反応多数。戦闘が行われている模様です』
体内に投与したナノマシンが主軸となり、音声だけでなく、脳波に含まれる思考を言語化し、共有することで成立する統合通信システム=【思念回線】が、柔らかくも芯のある少女の声を全艦に共有した。
ブルーリッジの戦闘指揮所(CIC)にて、艦長は厳粛に黙したまま、先頭を進む原子力空母=ロナルド・レーガンの甲板を見つめる。
そこに、白い巨体の姿があった。白銀を基調として滑らかに引き締められたボディラインは、どこか女性的な印象を備えている。進行方向を向いて悠然と立つその姿は勇ましさと美しさを孕むが、上位悪魔ラハブの巨体に痛めつけられ、至るところが小破し、左肩から先が失われた見るも無残な状態である。しかし、まだその闘志は消えないとでも言うかの如く、流麗ながらもシャープに突き出したアーメットヘルムから、赤く淡い光が眼光のように漏れていた。
北米支部第七機甲連隊最後の一騎=【ホワイトイーヴィル】である。
「――アダム(、、、)は推奨していないのだろう? 本当に行かせるのか? 不入斗博士」
精神的な老いからか、その褐色の顔に実年齢よりも深く皺が刻まれた艦長が、グレーのシャツに白衣を羽織った長身の女性に視線を投げかけた。
「本人がどうしてもと聞かなくてね。彼女、仲間の危機となるといつも以上にスイッチが入っ
ちゃうみたいなんだよ」
艦長に対し、常識はずれのフランクな口調で、不入斗が答えた。もし彼女が軍人であれば、今頃ただでは済んでいない態度である。あるいは、彼女の肌は生まれてこの方日光を浴びていないかのように青白く生気を感じさせないため、叩けばすぐにくたばると陰口を言われる始末である故にただで済んでいるだけかもしれない。
「それに、中央アジアや東南アジア諸国が陥落して、アラスカ、カナダ、アメリカもやられて、今度は日本。まるで包囲網じゃないか。日本は彼女の母国であり私の母国だ。守りたい気持ちは一緒さ」
「……身体の方は大丈夫なのか?」
「うん。一時は意識が無くて危なかったけど、すごい回復力だよ。とても丈夫な子だ。華奢そうに見えてかなり鍛え込んでいるしね。問題は修復途中の騎体の方がどこまで持つかだ。幻霊装騎の開発主任である私が思うに、五分が限度かな」
「やはり洋上のような、思念粒子が少ない場所での修復は、長い時間を要するということか?」
「それもあるかもしれないけど、ラハブからのダメージがよほど大きいんだと思う。あとは宗教圏の違いによる、思念粒子の質の変化も考えられる。【ホワイトイーヴィル】の出力霊体を担う天使サリエルは西洋圏での認知度は高いけど、アジア圏では低い。だから、皆の思念粒子から受けられる恩恵が少ないのかもしれない。サリエル自身、頑張ってくれてはいるんだけどね。
更なる上位界へ覚醒(、、)でもすれば、失った左腕を再生させることも可能だろうけど、その方法
はまだ解明されていない……」
「……日本側の即応戦力は第三機甲連隊のみとのことだ。筒香大佐の騎体が倒れれば最後。少しでも勝率が上がるのであれば、止むを得んか……」
「万が一のときは、こっちから遠隔操作であの子を脱出させるから、ここは任せてもらえるかな? 艦長」
「……わかった。出撃を許可する。パイロットに神の加護があらんことを」
と、艦長は十字を切り、帽子のつばで目元を隠した。
†
搭乗型=【ホワイトイーヴィル】コクピット(通称・聖棺)内部。
『思念粒子残量二十八%。出撃の推奨はしません。修復も補給も不十分です』
若竹色のホログラフィック光学素子から構成されるHUDが、人間二人分ほどの空間を淡く照らしつつ、出力霊体=サリエルからの思念を文字として表示した。
「それでも構わない。みんなが戦っているのに、ただ見ているだけは嫌なの」
グレーの対Gスーツに身を包んだ、華奢な体躯の少女が答えた。
「こちら戦闘指揮所(CIC)。聞こえるかい?」
【思念回線】が、不入斗の声を受信。
「こちらホワイトイーヴィル。感度良好です」
「今、君のバイタルをモニタリングしているけど、搭乗後の心拍数の平均値がいつもより高めだね? 身体は本当に問題ない?」
不入斗にそう聞かれ、少女は片手を胸に当て、徐に目を閉じる。
「少し、友人のことを考えていました。そのせいかもしれません」
「マジで無理は厳禁だからね? こっちでヤバイと判断したら、強制射出させるからそのつもりで。それから君への負荷を極力減らすため、【邪視】を始め、すべての権能の使用時間を半分とする。十秒だ。構わないね?」
「はい、博士。でも大丈夫です。ちゃんと一人で勝ってみせます」
少女は答えると、深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。そして、閉じていた目を開いた。
「――もう、誰も死なせない」
その青藍の瞳には、彼女の強い意志が宿っていた。
†
十月四日。午前七時十九分、九十九里浜一松海岸。
『こちら二号機! エンジンをやられた! 墜落する!』
唐突にして一瞬だった。悪魔軍迎撃のためにティルトローター機で移動していた光志たちは、着陸地点到着を目前に眩い閃光と聾する爆発で機外へ放り出された。
《緊急事態発生。自動平衡機構作動。着地五秒前。対衝撃防御》
HMDに人工知能(AI)の警告が明滅。思念信号式アクチュエーターが光志の思考に連動し
て【サムライ】の各関節部を動作し、眼下から迫る大地に対して身体を垂直に構えた。
――着地。回転受け身。
突然の急降下と恐怖から吐き気に見舞われた光志の意思などお構いなしに、背面に組み込まれた処理装置(CPU)が騎体を自動制御。浜の湿った砂を爆ぜ散らし、光志を墜落死から救う。
《防御円損耗率四十五%》
HMDに新たな表示。恐らく今の着地の衝撃で、騎体をあらゆるダメージから守る透明な防御膜――防御円が減衰したのだ。
防御円がダメージの多くを受け止めたおかげで、騎体の機能に異常は見られない。思考に連動して意のままに動く各関節部の思念信号式アクチュエーターは、特有の甲高い駆動音が微か
に聞こえる以外、機械であることを感じさせないほどにスムーズだ。
『一帯に強力な負の思念粒子が満ちている。大物(、、)がいるぞ』
【サムライ】に対してエネルギー供給を行う出力霊体。その役を担う神の一柱=乾闥婆の思念を変換装置から実現装置が受信・実現し、電子文字として光志のHMDに表示した。
レーダーが更新され、悪魔や幻霊装騎が無数の青と赤の点となって表れた。青い点は味方。赤い点は敵を示す。
「上位悪魔が出たぞ! 輸送機が落とされた!」
早くも崩れた前線で、味方の悲鳴じみた声がインカムを介して兜の中に響く。各員のインカムに備わる通信機構=【思念回線】は、音声・映像・バイタルなどさまざまな情報をナノマシンを介して多人数が共有するためのシステムで、一切ラグの無い交信を可能にしている。
光志は海に目を向け言葉を失う。浜の沖合数十メートルの位置に、全高二十メートルはあろうかという大型の上位悪魔が立ちはだかっていた。
炎に包まれた輸送機の残骸が至る所に散見される。ニ十機以上はいた編隊のほとんどが撃墜されていた。上位悪魔の力で落とされたらしい。
前方で陣を取る一団の思念粒子砲が上位悪魔へ向け立て続けに発射されるも、全く効果が見られない。
ひょろ長い手足。顎から頭頂にかけてVの字型に尖った頭部。負の思念粒子が取り巻いているためか、巨体が蜃気楼のように揺らいで見える様は異形そのもので、見る者すべてを怯えさせる。単に巨人と表現するにはあまりにもおぞましい存在。
墜落から生還した安堵は一瞬にして掻き消える。戦場で生きている限り、死への恐怖がすぐに塗り替えるのだ。どこまでも無慈悲で冷酷で虚しい戦争の世界にはもはや、心の安らぐ時も場所も無い。こうして人から生じた恐怖や絶望は負の思念粒子などと呼ばれ、悪魔たちが人間界で活動するための燃料(、、)になっているという。
「来るなら来い! 空梨の分まで戦ってやる!」
光志は常盤色の照準指示具照射と同時に、右肩に装備した思念粒子砲を稼働させる。折り畳
まれた状態から変形し、全長五十センチほどの筒状を形成した肩部のそれが、砲口を正面に構えた。殲滅の思念が込められた思念粒子を光弾として放つ霊体兵器である。
前方から下位悪魔の一種――【人型(Hタイプ)】が迫る。
「どうした⁉ かかってこい! 人間がここにいるぞ!」
光志は震えを吹き飛ばすように叫んだ。
【人型(Hタイプ)】の細い肢体は黒と紫が織り交ざったような奇怪な筋線維の集合体。人間でいう心臓の部分だけが球状に赤く光って脈打っている。顔の部分は目と思しき穴が二つ、口部と思しき穴が一つ、どれも黒く不気味に開いているのみ。視覚の有無は不明。
【人型(Hタイプ)】は口部の穴を大きく開いて天上を仰ぐと、この世で生きるものには出し得ない低く奇
怪な雄叫びを上げ、光志目掛けて飛び掛かった。
動体検知機が反応。照準指示具が悪魔の赤く脈打つ心臓部――通称=コアを捉える。
HMDに捕捉を意味する十字型のマークが表示され、肩部の思念粒子砲が青白い閃光
を放つ。拳ほどの光弾が、背丈六フィートの悪魔の片腕に命中。粉々に吹き飛ばす。
コアを破壊されればこの世界に存在できないことは悪魔側も認知しているのだろう。身をく
ねらせるような挙動で腕を構え、思念粒子の光弾から己の心臓部を守った。
「――っ!」
光志は片手甲部に格納された短剣を展開。悪魔の触手とも取れる黒く細長い腕を切り落とす。バランスを崩して転倒した悪魔に鉄靴を踏み下ろし、身動きを封じたところで、コアを短剣で刺し貫いた。
急所を破壊された悪魔は一気にその力を失い、黒い微粒子状に分解――消滅。
手に残る分厚い肉を刺したかのような感触と、早まる心音。
方々で戦闘が始まっていた。思念粒子砲の放つ青白い曳光が乱れ飛び、振るわれる無数の短剣が銀に煌めく。
周囲には光志と同じようにわけもわからず機外に放り出されて着地した者、失敗した者、異形の怪物たちに襲われる者。そして死体。潮風に混じる血の臭い。
目の前で兵士の一人が【人型(Hタイプ)】の触手の如き鋭利な腕に胴部を刺し貫かれシグナルロスト。現実化していた【サムライ】が解除され、煙のように霧散して消失。血に塗れた軍服姿の少年が露わになる。
悪魔の攻撃は瞬く間に防御円を減衰させ、金属製の装甲をも容易く貫く。
『警戒しろ。上位悪魔が権能を使おうとしている』
乾闥婆の警告。
その背から生えた蝙蝠の如き巨翼を上位悪魔が左右同時に振るうと、轟音と共に大地が揺れ、
海面から細い竜巻のようなものが空高く突き出し、海上を旋回中の無人戦闘機を次々に撃墜。
翼を失った機体の一つが砂浜に墜落。兵士たちを巻き添えに大量の砂を爆ぜ上げた。
海面から突き上げるように出現した竜巻の正体は、上位悪魔の権能によって引き起こされた、大激流の水柱である。
上位悪魔の背丈以上の高さまで突き上げられ、らせん状に渦を巻く水柱は、まるで意思を持つかのようにくねり、浜の兵士たちへと襲い掛かった。獰猛な蛇の如く暴れ狂う水流が、【人型(Hタイプ)】
と交戦する兵士たちの身体を絡め取って投げ飛ばし、あるいはその水圧で叩き潰す。輸送機を
襲ったのもあの水柱に違いない。
こうして圧倒され、人間は為す術なく死んでいく。家族も、ずっと一緒だった仲間も。
光志の脳裏を、空梨の笑顔が過る。
「くそ! くそ! くそッ‼」
光志は砂を蹴立て、出会う敵を斬る。躱す。撃つ。防ぐ。穿つ。いなす。貫く。
無意味なことを考えるなと己に言い聞かせる。
倒せど尽きせぬ敵を前に、視界が滲む。
空梨はもう戻らない。もう二度と、話すことも笑い合うこともない。
死んだ者は不幸だ。もう何も得るものが無い。上位界に存在する神々の意思――則ち思念粒子を人間界にダウンロードする変換装置が開発されて以来、神々との交信によって、天国や地獄といった死後の世界の概念は覆された。
永遠に続く楽園へ行くことがなければ、苦しみを受け続ける地獄へ行くことも無い。死んだあとに待ち受けているのは【有】か【無】のどちらかだけなのだ。自分という肉体を失い、思念粒子となって世界を漂い、神か悪魔か生物か、選ぶこともできぬままそのいずれかに燃料として食われ、己の思念も何も無くなる。あるいは、神々の気まぐれでごく稀に生まれ変わる。
レーダーが反応。HMDに再び警告。新たな【人型(Hタイプ)】が輸送機の残骸の影から、黒煙が噴き出すようにして姿を現したところだった。
「消えろッ!」
光志は気迫と共に斬撃を見舞い、【人型(Hタイプ)】の頭部を切り落した。分離した頭部が空中で飛沫のように消失するが、【人型(Hタイプ)】は尚も動き続ける。
再びコアを狙って短剣を突き出すも震えからか狙いが逸れ、僅差でコアの横に突き刺さった。そのまま勢いに任せ、体当たりで押し倒す。
『落ち着いて仕留めろ』
乾闥婆の思念が再び文章化して表示される。光志は短剣を引き抜き、逃れようともがく悪魔に再度突き立てて終止符を打った。
乾闥婆のように親身な神は希少で大切な存在だ。彼らの思念による助けがなければ、人類は悪魔とまともに戦うことすらできぬまま、ただ滅ぼされるしかない。
「光志! 無事か!」
後方から、同じ機体に乗っていた涼吾と数名の兵士たちが駆けてきた。
「ああ! 他のみんなは⁉」
輸送機には五十名の兵士が乗っていたはずだが、そのほとんどの姿がない。
「散り散りだ。外へ放り出された俺たちはどうにか自力で着地できたが、機内に取り残された連中はわからん。シグナルの半分が消えてる。大隊長のもだ」
「それじゃ、僕たちのリーダーは誰?」
「……たぶん俺だ。総指揮を取ってる連隊長が生きてれば彼だが」
涼吾は言い、炎上する残骸を見つめる。
作戦通りに進んでいれば、今頃は防御陣形を展開し、無人戦闘機群の支援攻撃を受けつつ敵を迎撃しているはずだった。
『まだ動ける者は互いを守り合え! 海から来る敵を抑えろ!』
インカムから、防衛戦の連隊長を務める筒香の声。同時に、【思念回線】によって彼の位置情報が共有され、HMDに映し出された。彼我の勢力差は歴然としており、海岸は敵を示す赤の点で溢れている。
「筒香大佐たちと合流だ! ここに居たら各個撃破されちまう!」
涼吾の指示で、光志たちは進路を塞ぐ敵と交戦。人数を減らしながらもどうにか突破し、海岸を北へ移動する。
敵陣のど真ん中で、全高二メートルと小振りなボディにも拘わらず、微塵の恐れも感じさせ
ぬ機動で上位悪魔に立ち向かう幻霊装騎がいた。光志たちが到着する前に、無人戦闘機群と共に先行していた筒香の専用騎体【ヴァイシュラーヴァナ】だ。紺色を基調とした騎体の武装は一振りの太刀のみ。俊足で水上を駆け抜け、瞬く間に上位悪魔へと肉薄。恐らく権能だろう――水上から今度は敵の巨体を駆け上がり、視認が困難な速度で斬撃を見舞う。
幻霊装騎は乾闥婆のような出力霊体から送られてくる思念を変換装置でダウンロードし、電気信号に変換。それを実現装置で現実化させて戦う兵器。各騎体には出力霊体がもたらす思念――則ち特有の権能が備わり、それを現実化することで超常的な現象を起こすことができる。つまり、神の力の一部を扱えるのである。
――ギンッ!
硬い何かを断ち切ったような鋭い金属音が響き渡った。
【ヴァイシュラーヴァナ】の一閃が見事に上位悪魔の片腕を切り落としたのだ。
だが、そこで予期せぬ事態が起きる。
「っ⁉」
光志はその光景に息を呑んだ。上位悪魔の喪失した片腕がものの数秒で再生したのである。
筒香は復元した腕の反撃を諸に受け、浜まで一直線に吹き飛ばされた。
「伏せろ!」
涼吾が叫ぶと同時に、【ヴァイシュラーヴァナ】が光志たちの目と鼻の先に落下。衝撃と共に
多量の砂埃が巻き上げられた。
【人型(Hタイプ)】のような小型の悪魔を相手にすれば負けなしと謳われた筒香が一撃で撃破された事実に、兵士たちは慄きを隠せない。
権能を扱えるとはいえ、それは神が持つ力のごく一部に過ぎない。つまり敵が格上であればあるほど、発揮できる力の種類も威力も多大であり、人間側は苦戦を免れない。
神々の世界=上位界から思念を送り、間接的に人間に助力する善なる神の存在は頼もしいようで、あまりにも遠い。
「第二大隊より司令部へ! 連隊長の筒香大佐がやられた! ――司令部! 応答願う!」
涼吾が叫ぶが、司令部との連絡が取れない。敵が操る権能の一種――呪詛による妨害か。
「涼吾、援護してくれ!」
光志は意を決し駆け出る。落下で生じたクレーターの中心で、辛うじて起き上がる【ヴァイ
シュラーヴァナ】の防御円が明滅しているのを見た。破れかけているのだ。
「大佐! ご無事ですか⁉」
光志はクレーターの斜面を滑り降り、筒香に肩を貸す。【ヴァイシュラーヴァナ】の縦長の頭
部は、頭頂から末端に至る部分まで三叉槍の如く三つに分かれて伸び、胴部では甲冑を思わせ
る装甲板が段状に連なり、肩、腰、脚部にも同様に備わっている。足先には【サムライ】と同
形状の鉄靴。全体のシルエットは【サムライ】よりも逞しく、頑強な様相を呈していた。
「――済まん、遅れを取った」
苦悶交じりの声を漏らす筒香。砕かれたバイザー部から覗くのは浅黒の精悍な顔。その頬に残る裂傷の跡は、開戦当初から軍人だったという彼の歴戦ぶりを物語る。
「中隊長の日笠です! 本部と通信ができません! このままでは全滅です!」
すぐ後から駆け付けた涼吾の問いに、筒香は歯を食い縛る。
「あの上位悪魔を通すわけにはいかん! ここを突破されれば、大勢の避難民が暮らす有明が確実に狙われる!」
『あの大物の名はアガリアレプト。混沌の将軍ベルゼビュートに仕える、水を操る権能を持つ強敵だ。水場であり、且つ多くの兵士が恐怖という負の思念を抱くこの場所では、奴の力は一層強まる。先程の腕の超回復が何よりの証拠。まずは距離を取るべきだ』
乾闥婆の思念が、数行の文章として光志たちのHMDに表示された。
「距離を取れって言われても、他の悪魔がウヨウヨしてる! そう簡単には動けない!」
筒香を支えて歩かせつつ、光志は頭を振った。情報を共有した涼吾が苦い表情で唸り、肩部の思念粒子砲を発射。光志たちへ接近していた悪魔を撃破する。
無数のミサイルが兵士たちの上空を通過した。残存する無人戦闘機が上位悪魔=アガリアレ
プトへ向け再度攻撃を仕掛けたのだ。
ミサイルは全弾命中するが、アガリアレプトに外傷は見当たらない。ミサイル自体は
幻霊装騎のように物理法則から解放されてはいないため、上位悪魔に対しては動きを鈍らせる程度の効果しか望めないのだ。
「――兵員指名! 南側【F五九九】、【D二八一】、【E二四七】、【D三〇六】。北側【E一五】、【C八七一】、【D四九】! お前たちが居る場所を防衛拠点とし、周囲の兵士はそこへ集結! 円陣防御で凌げ!」
南北に広がる九十九里一松海岸で防衛線を展開する一千名余りの兵士たちから、筒香は【思念回線】の検索機能で立地的に守り易い場所にいる兵員を選出。そこを基点に防御陣形を指示。
遠方との通信が不能なために増援要請ができず、すでに派遣された戦力の半数が失われ、士
気もとうに失せている。しかしここで退けば基地が狙われ、そこで暮らす五万人の避難民に危険が及ぶ。
ともすればここで全滅かと思われた。しかしそのとき、光志は自分たちがいる砂浜の頭上に、球状の光が生じるのを見た。
それは直径二十メートルほどの光だった。
『強大な思念を感じる。所属不明の騎体が出現するぞ。速やかに後退せよ』
【ヴァイシュラーヴァナ】の出力霊体=毘沙門天の警告が全員に共有され、兵士たちは互いを
カバーしながら、どうにか内陸へ二十メートルほど後退し、再び光を振り仰いだ。
そこで光志は、空間全体が揺らぐかのような奇妙な感覚に見舞われた。次の瞬間、空中の光が一際強く発光し、消失。
「――っ⁉」
そして光志は、光が消失した場所からゆっくりと舞い降りる天使の如き白い巨体(、、、、)を見た。
黒雲の間から光芒が降り注ぎ、その騎体を照らし出す。
西洋の鎧に似た流線美を備える白銀のボディが、陽光を受けて眩く煌いた。
光志は目を疑った。賛美されているかのように輝くその騎体は、もう失われたはずだからだ。
だが、夢でも幻でもなく、現実だった。
搭乗型=【ホワイトイーヴィル】が、ゆるやかに音もなく浜へ降り立ち、アガリアレプトと対峙したのだ。
「【ホワイトイーヴィル】だ! 無事だったんだ!」
誰かが歓喜の声を上げるが、
「様子がおかしい。片腕が無いぞ!」
傍らで共に振り仰いでいた涼吾が口を開いた。
天使は手負いだった。左肩より先の部分がごっそり失われているのだ。あれでは本来の戦闘
能力を発揮できない。
「パイロット(、、、、、)は死んだ(、、、、)って情報だけど、騎体の方は残ってたのか!」
と、仲間の声。
「聞け! 今のうちに【人型(Hタイプ)】を牽制しつつ、内陸部まで撤退するぞ!」
光志の肩を離れ、自力で立った筒香が【思念回線】を介して兵士たちに呼びかけた。
彼の声が、すぐにでも【ホワイトイーヴィル】と回線を繋いでパイロットが誰か確かめたい思いに駆られていた光志を引き戻した。
頭上の大振りな防御円が強く発光し、【ホワイトイーヴィル】は片腕という大きなハンデを抱えながらも、勇猛に上位悪魔へ突撃。アガリアレプトの水柱を諸ともせず、海面を銀の脚部が叩き、爆発の如き飛沫が舞う。大きく引き絞られた右腕が亜音速で繰り出され、敵の胸部を捉えた。
巨大な岩石同士がぶつかり合うかのような破砕音が轟き、一回り大きいアガリアレプトが後方へ大きく仰け反る。【ホワイトイーヴィル】はそこへ畳みかけるように回し蹴りを放ち、その
一撃が相手を吹き飛ばした。
浜から沖合数十メートルほどの地点に倒れ込んだ敵を睨みつつ、【ホワイトイーヴィル】はボクサーのような格闘の構えを取る。
白い巨体が見せた高い機動性は、近接格闘タイプのそれだ。
再び大地が戦慄いた。海面から更に巨大な水柱が次々と巻き起こり、白い巨体に襲い掛かる。
アガリアレプトがより大きな獲物に対応すべく、太く強力な水の竜巻を生じさせたのだ。
対する【ホワイトイーヴィル】は素早い動作で水柱を躱し、殴り、蹴り散らすが、敵がその隙に一足で接近。対処が一瞬遅れた【ホワイトイーヴィル】の首に、その細く奇怪な両腕を巻きつかせ、想像を絶する力で締め上げ始めた。
【ホワイトイーヴィル】は右手でアガリアレプトの腕を引き剥がそうとするが、片腕では敵わない。両脚はうねる水柱の水圧で抑えられている。
光志は思わず撤退の足を止めた。陸へ対して斜めに背を向けた状態の【ホワイトイーヴィル】が小刻みに震え、全身の力をふり絞っているかのように見える。その防御円が明滅を開始。
「――光志! なにする気だ⁉」
気付けば光志は、内陸部へ撤退する味方とは真逆――浜へと引き返していた。
周囲の風切り音も、光志を呼ぶ涼吾の声も遠退く。まるで走馬灯のように、世界がゆっくりと、静かに動いた。光志の防御円の損耗率は八十%。こちらも明滅中だ。こんなボロボロの状態で何ができるというのか、自分でもわからなかった。
だが、何の行動もせず、これから起こるであろう惨劇をただ受け入れるのは嫌だった。叩きつけられる現実をただ認めたくはなかった。ほんの一瞬だけでいいのだ。僅かな間、敵の注意を自分に向けることができれば、戦局が好転するかもしれない――。
進路を塞ぐ【人型(Hタイプ)】を短剣で切り裂き、思念粒子砲をアガリアレプトの頭部に照準。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ‼」
光志は叫んだ。肩部から拳大の青白い閃光が射出され、それが上位悪魔の首元に命中する。射程ギリギリの砲撃が功を奏したか、アガリアレプトの顔が僅かにこちらへ向けられた、刹那。
いつ差し向けられたのか、光志の頭上から水柱の一つが降り注ぎ、騎体全体を包み込んで軽々と持ち上げ、アガリアレプトの下へと運んでいく。
防御円の残量を示すゲージが瞬く間に減少する中、光志は木偶のように投げ捨てられる【ホワイトイーヴィル】を目の当たりにし、敗北を悟る。
アガリアレプトは細長い腕を伸ばし、水柱から光志を掴み出すと、虫けらでも観察するかのように、その鋭利な頭の前に引き寄せた。今や上位悪魔の興味は【ホワイトイーヴィル】ではなく、ただの一兵士である光志に向けられていた。
「その無様な姿で、このアガリアレプトに挑むとは、まさに堕ちた者(、、、、)よ」
何者かの思念粒子が【サムライ】の実現装置を介さず、光志の脳内に直に作用し、不気味な
声となって聞こえた。
『奴の思念だ。意に介するな』
乾闥婆の警告がHMDに表示されるが、光志には防ぎようがない。
「恐怖せよ。苦痛に震えよ。そうして我らの糧(、)を生み出し、滅ぶがいい」
アガリアレプトはそう言って、光志を掴む腕に力を籠めた。光志を守っていた防御円がついに破壊され、実現されていた鎧(、)が幻であったかのように消え去る。
「ぐあああッ⁉」
光志は【サムライ】の消失と同時に襲ってきた激痛に耐えきれず叫ぶ。
肩が、腕が、全身の骨が、臓器が、待ち受ける死を拒絶して戦慄く。
そのとき、光志は奇跡を見た。光志を握りつぶそうとしていたアガリアレプトの片手が突如痙攣し、光志を放したのだ。
「――っ⁉」
光志は更に、自分の身体が宙に浮き、何らかの力で浜へと運び降ろされたことに驚愕する。
そんなことができるのは、再び立ち上がった【ホワイトイーヴィル】の権能以外になかった。
キュィイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!
【ホワイトイーヴィル】から高く唸るような振動音が発せられた。音はまるでジェットエンジンの如く、次第に音階を上げていく(、、、、、、、、)。次いで、白い巨体の左肩から光が生じ、腕のような形を成したかと思うと、失われていた左腕が元通りに再生された。
光志は、【ホワイトイーヴィル】の放つ紅い光が一層強められていることに気づいた。その流麗なアーメットヘルムのバイザー奥で、目に当たる部分が紅く鋭い光を放っているのだ。
怒りを露わにした眼差しであるかのように、その光は敵へと向けられ、どうやら上位悪魔の
身動きを封じているようだった。
驚異的な回復能力を見せた【ホワイトイーヴィル】の振動音が、更に強く猛る。今にも海岸
全体を巻き込んだ壮絶な現象を引き起こし兼ねないその姿に、光志は恐怖すら覚えた。
腕が戻り、両脚を縛り付けていた水柱の勢いも衰え、自由になった【ホワイトイーヴィル】はアガリアレプトへ突進。その念力のような権能で相手を直立の姿勢に縛り上げると、打撃のラッシュを叩き込み、止めとばかりに手刀を敵の胸部に突き刺した。
そして胸部を抉り、強引に引き千切る。一度突き刺した手刀を引き抜き、もう一度、更にも
う一度と、容赦ない刺突を繰り出した。
ついにコアを破壊されたアガリアレプトは激しく痙攣し、身の毛のよだつ断末魔を轟かせながら黒い粒子状に分解――消滅した。
激戦の余波か、巻き上げられていた海水が今になって雨の如く降り注ぐ。
上位悪魔の消滅によって、活動エネルギーたる負の思念粒子を大幅に失い、付き従っていた他の悪魔も消え去っており、海岸には燻る機体の残骸と、無数の死体だけが残された。
空を覆う黒雲の下、海辺に佇む白い巨体が、ふらついた足取りで浜へ戻ってくる。光志は一つの紅い眼(、)が、砂浜にへたり込む自分をじっと見つめているように感じた。眼のように見える
紅い光は、【ホワイトイーヴィル】の視覚カメラが放つもののようだが、さきほど光志が恐怖を
感じたときよりもかなり弱まっている。あの強く鋭い光は何だったのか、光志にはわからない。
【ホワイトイーヴィル】は、あと数歩で浜に上陸するというところで活動の限界を迎えた。防御円が完全に消え去り、巨体が大きくバランスを崩し、仰向けに倒れてしまう。
「――ッ⁉」
ちょうど上半身が浜に乗り上げる形で機能を停止した【ホワイトイーヴィル】は実現が解除され、流麗なボディが煙のように霧散。櫃のような形状をしたコクピットモジュールと、騎体の基礎を担う合金製の骨格が露になった。
光志は立ち上がり、微かな希望を拭えぬまま、むしろ縋る思いで、頭上二メートルほどの位置にあるコクピットへと歩み寄る。
空気が勢いよく噴き出すかのような、コンプレッサーの圧力調整音が響くと、コクピットのハッチが開き、中から一人のパイロットが姿を現した。
グレーの耐Gスーツに身を包んだ小柄な身体。首の辺りで切り揃えられた白銀の髪。
光志の黒い瞳と、彼女(、、)の青藍の瞳とが、互いをしっかりと見つめ合った。そこで光志は、彼女の目から一筋の血が流れ落ちるのを見た。
「空梨……⁉」
光志はその名を呼んだ。もう会えないと思っていた少女が、およそただ事ではない血の涙を流して、そこに居たのだ。
「――――光くん」
弱りきった小動物のようなか細い声で光志の名を呼び、少女は僅かに柔らかな笑みを見せた
かと思うと、ふっと脱力し、砂浜へと落下してきた。
「空梨ッ!」
光志は咄嗟に駆け寄り、彼女を抱き留める。
「やっと、会えた……」
その少女――稲葉空梨は光志の腕の中でそう囁き、意識を失った。