序章
耐え難きを耐え、戦い続ける者たちへ、この物語を捧ぐ。
《大天使ガブリエルによる危機告知》
次に言うことを読み伝える人と、それを知って備える人とは幸いである。時が迫っているからである。
人の形をしたものが、大きな災いをもたらす。
反逆者がその者を混沌に導いて欲望を与えると、災いは始まり、【黒い死】が広がる。
来たるべき戦いに備えなさい。
剣と鎧とを研ぎ拵え、対等な存在として立てるようにしなさい。
今こそ隣人を愛し、繋がりを大切にしなさい。
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、加護と勇気があなた達にありますように。
アーメン。
†
その日、人類は見た。人の形をした黒き巨体を。最初の敵を。すべての発端を。黒き巨体がゆっくりと両腕を広げ、天を見上げ、悠然と宙に浮き上がるのを、奇異の眼差しで仰いだ。
黒き巨体は、【黒い死】を人類にもたらした。
虚空に突如現れた、虚無の如き暗い穴こそが、【黒い死】と呼ばれる所以であった。その不気味な穴は、何者も抗えぬ力で選定(、、)された人々を吸い寄せ、海原にとぐろを巻く大渦のように容赦なく丸呑みにしたかと思うと、静寂のみを残して跡形もなく消え去る。
【黒い死】は世界各地で同時に発生し、齢二十五を越える人間が地上から影もなく消え失せ、世界人口の半数以上が滅ぼされた。
次に、人類は無数に蠢く人ならざる者――悪魔の姿を見た。
異変は【黒い死】の出現に留まらず、影の中から現れた黒き異形の怪物たちが、方々で人々
を襲い始めたのだ。
逃げ惑う人間を触手の如き鋭い手足で慈悲なく刺し貫く悪魔に、人類はただ屠られるばかりであった。
その日は、【開戦の日】と呼ばれた。
そして、人類に深い傷と恐怖を残した黒き巨体はこの日の後、新約聖書・黙示録における、黄泉を従えた四番目の死の騎士に準え、その名を【第四騎士】と呼ばれた。
†
《連合政府通知文書・第七号・戦役歴一年、二月二十日発行》
・地球全土のうち、呪詛による汚染が六十%まで拡大。推定総人口は三十二億まで減少。
・人間の知性を上回る超人工知能=リリスが駆る【第四騎士】は追跡不能。上位界へ移動した
ものと思われる。
・悪魔殲滅兵器=幻霊装騎について、初期個体の設計図を基に、不入斗氏率いる研究チームと
人工知能(AI)=アダムが開発を継続。全高十五メートル前後の人型騎体を搭乗型、人間が装着可能な小型のものを装備型と定義する。尚、初期個体の開発に協力していた大天使ガブリエルは消息不明。
※幻霊装騎の原型がリリスの建造した【第四騎士】であることは最高機密とする。避難民の反感を防ぐためである。
・統合防衛軍の設立に際し、悪魔との戦闘激化に伴う幻霊装騎の量産並びに情報共有を始めとする連携強化を各国首脳間で確認。
・【形成の書】は未だ行方不明。バチカン保管庫において悪魔の侵入が感知されているが、正体の特定には至らず。その悪魔が【形成の書】持ち去ったものと思われる。
†
【開戦の日】から数えで約九年と半年。戦役歴十年、四月。統合防衛軍東アジア支部有明基地。
御先光志は、宿舎の屋上で空を見上げる稲葉空梨に会った。別れの朝であった。
光志には、【開戦の日】以前の記憶が無い。誰の下に生まれ、どう育てられたのか、一切の記録も無い。そんな彼にとっては、開戦後の避難生活を共にしてきた仲間こそが家族であった。
故に、最も長い間寝食を共にしてきた空梨が、遠い海の彼方へ去ることを告げられたとき、茫然自失として言葉が出なかった。
空梨は、統合防衛軍北米支部にある幻霊装騎の精鋭訓練機関=【トップガン】へ移籍するのである。そこで彼女は齢十六にして専用騎を与えられ、過酷な戦闘訓練を受けることになる。
思念適性値が十万を超える者は搭乗型の操縦能力を有する。空梨の思念適性値は十万を大きく超えていた。
世界でトップクラスの思念適性を持つということは、あらゆる出力霊体と思念接続可能であることを示し、それは同時に、あらゆる幻霊装騎を操縦できること意味する。
悪魔と戦うことに意義を見出す現代の人類が最も求める、高適性パイロット。それに選ばれ
ることは世界的な誉であり、兵士たちの憧れでもある。
それでも、光志にとって空梨は、群を抜く高適性パイロットである前に、人類の救世主と称
される希望である前に、最も大切な家族であった。
故に、喜んで祝福することができなかった。
だが、それは空梨も同じであったのだろう。
光志は、空梨の白い小顔に不安と憂いの如き影が差すのを見た。
「……っ」
空梨が出しかけた言葉を呑み込み、上目で光志を見つめる。統合防衛軍に入隊してからの一年間で逞しい戦士へと成長した少女に、避難民だった頃のか細い面影が、一瞬だけ戻ったよう
に見えた。
「そんな顔するなよ、空梨。しばらく会えなくなるけど、僕はこっちで頑張るから」
シルクのような白い肌に高く通った鼻筋、薄い唇といった、どちらかといえば西洋寄りの顔
立ちの光志が眉宇を引き締めて頷くと、空梨が徐に一歩踏み出し、彼をそっと抱きしめた。
霞みを孕む青空の下。光志の中で、空梨と過ごした様々な記憶が蘇り、込み上げたものが二重の黒目から溢れそうになる。それを見られまいとして、光志は彼女を強く抱きしめ返す。
聖水に浸したかの如く白銀に煌めく髪と、滑らかな白い肌。清らかな光を湛える青藍の瞳。彫刻の如く整った鼻。時折、小さな口で天使のように笑う彼女の顔が見られなくなる事実を、光志はやっとの思いで頭の片隅に押しやる。
やるべきは祝うことなのだ。南米諸国に続いてメキシコも陥落した今、激戦が予想される合衆国への移籍は、空梨の思念適正が群を抜き、それが高く期待されている証なのだから。
「――少し、このままでいてもいい?」
と、光志の腕の中で空梨が言った。一番耳に馴染んだ、柔らかくも芯のある声が、このときばかりは少し震えているように感じられた。
「うん。向こうに行っても、風邪引くなよ?」
「気をつける。光くんもね?」
光志の視界がぼやける。黙って頷く。
「――毎週、メール送るから」
「わたしも、向こうのきれいな景色送るね」
会話で別れを惜しむ時間を、頭上を通過した無人戦闘機の轟音が遮り、二人同時に屈む。
「うわッ⁉ な、なんだよ、心臓止まるかと思った……」
「びっくりした! ……もぉ、ただの哨戒ならもっと高く飛んでもいいのに!」
そうして同時に笑い合う二人の眼には、同じ涙が滲んでいた。
†
二人が宿舎の屋上から一階に降りると、同じ十代後半の若き兵士たちが待ち構えていた。
皆がタイミングを合わせてクラッカーを鳴らし、通路の両サイドから紙吹雪をばら撒いた故か、全員が着用するカーキ色の常装まで華やいで見える。
「お二人さん、愛の契りは済んだか?」
「残念! 光志のやつはフィアンセ落第で残留だとさ!」
「やめてくれ! 誤解だってば!」
光志は仲間にヘッドロックを極められてもがき苦しむ。
「どうだかな? こんな美人と二人きりだなんて羨ましいったらないぜ! 幼馴染の特権か⁉」
「空梨! 新型(、、)に乗ったら、私たちの分も奴らにぶちかましてやって!」
「――うん。頑張る」
空梨が顔を真っ赤にして通過する中、一つ屋根の下で一年の訓練期間を乗り越えた仲間たちが、挙って別れの声を張り上げる。暗黒の時代に希望の光の如く兆した彼女への報いにも似た誇らしさと、少しの寂しさをその瞳に湛えて。
正面玄関から外へ出ると、統合防衛軍東アジア支部幻霊装騎隊・第九期生――則ち光志たちのリーダーを務める日笠涼吾が立っていた。
「空梨、準備はいいか?」
やや日に焼けた肌に、高い鼻筋と白い歯。実直さと勇ましさの共栄する二枚目顔を空梨に向け、涼吾は言った。
「いいよ。未来の連隊長さん」
重量感のあるバックパックを軽々と肩に掛け、空梨が答えた。
「稲葉空梨。俺たちは本日四月一〇日、君の【トップガン】移籍並びに、搭乗型【ホワイトイーヴィル】のパイロットに選出されたことを心より祝福し、クソッタレども(、、、、、、、)に雪辱を果たすことを願っている。努忘れるな。例え陸地が離れても、俺たちは家族だ」
涼吾が同期全員の寄せ書きで埋められた色紙を空梨に手渡す。
「ありがとう。心の支えにします。東アジア支部第九期生に、神の加護あれ!」
色紙に目を潤ませた空梨が十字を切り、仲間たちに祈った。
そして最後に、空梨は光志を見た。首の辺りで切り揃えられた彼女の髪が微かに揺れる。
光志は空梨に、鼓舞の念を込めて頷いた。
「――行ってきます!」
空梨は凛とした表情で敬礼し、肌寒さを残す春風の中、光志たちの下を発った。
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《故郷を去った娘たちの赦祷歌》
わたしたちは生き残れないかもしれない
行く手を阻む闇に呑まれ、光に照らされることはないかもしれない
それでもわたしたちは、生きることを諦めない
あなたを忘れないために
わたしたちが生きた証を残すために
†
《連合政府通知文書・第四百八十号・戦役歴十年、十月十日発行》
・北アジア並びに中央アジア諸国の陥落を確認。敵の規模は不明。周辺に展開する防衛軍は難民の保護を最優先。
・上位悪魔ラハブ率いる軍勢が米国に出現。新鋭騎【ホワイトイーヴィル】を含む統合防衛軍
北米支部第七機甲連隊との戦闘が激化。
・上位悪魔ベリアルによる中国全土の【呪詛】汚染を確認。同国第十八機甲連隊は怒放隊を残して壊滅。