表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
洋上の滴  作者: 野馬知明
2/3

土岐明調査報告書

六 現地第3日目


作業所へは前日と同じように、タクシーに分乗して行った。着くなり、トランスポート・エコノミストの中井が湿っぽい手で別れの握手を求めてきた。

「午後いちの便で帰ります。やっと、無罪放免です」

と広い額を脂汗でてかつかせて、目尻を下げて、晴れやかな顔をしている。

「きのういただいた名刺のメールアドレスで連絡が取れますか?」

と土岐は確認した。彼の報告書にはまだ疑問と思われる箇所がいくつかあった。

「大丈夫です。こんどは東欧なので、インターネットの使用には問題ないでしょう。この国ではディジタル・ディバイドを体感しました。まあ、日本でも依然としてディジタル・ディバイドは解消されていないですけどね」

と中井は端正な顔と同じような滑舌のいい話し方をする。

「お疲れ様でした。今度は本調査でお会いしましょう」

と丸山が握手の手を差し伸べた。

「交通予測は本調査では用なしだと思いますよ。円借款がついてプロジェクトが動き始めれば、乗客予想なんか必要ないでしょう」

と中井はそっけなく言った。

「それもそうですね」

と言いながら丸山は歯をむき出しにして笑い転げた。土岐には笑っている意味が良く理解できなかった。

 中井が他のメンバーに一通り挨拶を終えて、作業所を出ようとしたとき、新顔が現れた。

「南田さんだ」

と丸山が小さく叫んだ。ブルーの波打ち際に緑の椰子がお辞儀をしているアロハ・シャツにバミューダ・パンツをはいている。裸足に革のサンダルを引っ掛けて、レーザー・プリンターでプリント・アウトしたA4用紙を小脇に束にして持っていた。

「南田さん、こちら土岐さん。財務分析担当です」

と丸山が紹介してくれた。その脇を中井が別れの挨拶をしながらうれしそうに出て行った。

「扶桑物産の南田です」

と落花生のような頭をした馬面の男が自己紹介した。薄いパープルのファッション・グラスの奥で小ずるそうな目が目元に皺をつくって笑っている。

「扶桑総研からきた土岐です」

と土岐も砂田に言われたとおりに自己紹介し、名刺を差し出した。

「同じ企業グループのシンクタンクですね。昔、なにかの調べ物で行ったことがありますよ。ただ、有楽町の本社の方じゃなくて、世田谷かどこかの資料室でしたが・・・」

「ああ、砧ですね」

「そうそう、砧・・・むかし、狸と間違えちゃって、えらい恥を掻きました」

 傍らで丸山が大声を出して笑っている。どちらがつられたのか、南田も息を吸い込みながら笑っている。笑い方もそうだが、脱色したような南国の貧しい彩りの風景になじんだ土岐の目には、南田のカラフルないでたちは際立っていた。

「けさは高橋さんにデータを持ってきたんです」

と明るい声で言いながら、南田は初老グループのテーブルに向かった。滑らかなコンクリート床を歩きながらサンダルの底が足の裏を叩く音がペタペタとする。そのとき、丸山が土岐に囁いた。

「たぶん、軌道の価格のデータだから、一緒に聴いといたほうがいいですよ」

 そう言われて、土岐は南田のあとに続いた。南田は高橋の隣に籐椅子を持っていって腰掛けた。土岐はその二人の後ろから立ったままやり取りをうかがった。

「高橋さん、いまさっき、本社から軌道の見積りが届きましたんで・・・」

「あっそう」

と高橋は抑揚のない返事をした。頭が逆三角形に近く、顎が尖っている。肩幅と比べて頭が大きい。両耳の上に大きな目でもあればカマキリそっくりな顔をしている。

「バラスト軌道で見積もりを、という要望でしたが、本社の方ではスラブの方がいいんじゃないかということで、・・・これがその見積もりです。ちなみに、これは製品見積もりだけで、敷設作業費用は含まれていませんので・・・」

と南田が差し出した見積書を高橋は頭に右手の五本の指を立てて掻きながら見入っている。微細なキラのようなフケが窓から零れ入る一条の日差しを横切って、ラメのように輝いている。

 不意に土岐の耳元で丸山が囁く。

「スラブとバラストの違いは、バラストというのは現在のディーゼル用の軌道で、道床が枕木と砂利で出来ていて、その上にレールを敷く。スラブというのは新幹線で採用されている軌道で、道床がスラブと呼ばれるコンクリートで出来ていて、その上に線路を敷く。この国にスラブ軌道はないから、新工法ということになるでしょうね。メンテナンスはスラブ軌道の方が楽ですが、現在のバラスト軌道をスラブ軌道に変えるとなると、初期費用はけっこう嵩むでしょうね」

 土岐は高橋と南田のやり取りを見ながら、丸山の情報にうなずいた。

「うーん」

と唸ったまま、高橋は長い鼻の下にボールペンを挟んで、腕組みをしている。

「いかがです?」

と南田が高橋の尖った顎をななめ下からなめるようにして見上げる。

「たしかに、スラブ軌道であれば、軌道の狂いも少ないし、点検作業の手間が大幅に省力化できるけど・・・」

「そうでしょ」

と南田が同意を強要するような口調で言う。高橋の声はか細いので、押し切られそうな雰囲気が漂っている。

「でも・・・財務副部長のシュトゥーバのブリーフィングでは、できるだけコストを押さえてくれということだったんで、バラスト軌道の設計にしたんですよ。バラストであれば、枕木も砂利も現地調達ができるんで、かなり安くあがるでしょ。道床も現在のディーゼル機関車のものをそのまま使えるし・・・スラブ軌道だと、・・・この見積もりだと、路盤コンクリートと軌道スラブを輸入することになっているけど、輸送費を考えると現地生産したほうが安上がりじゃないですか?」

 そこで南田は必要以上に首を捻って腕組みをした。

「さあ、その辺がどうですかね。庭先にコンクリートを打つのと、訳が違いますからね。路盤コンクリートには軌道スラブを固定するための突起が必要ですよね。現地の業者をあたってみたんですが、そんな技術のありそうなのはなかったですよ」

 そのとき土岐の右肩が指先で突っつかれた。振り向くとニ三歩後ろで丸山が指招きをしている。何事かと目で訊ねると、土岐の腕を引っ張って後ずさりさせ、右耳に口を寄せてきた。

「業者をあたったなんて、はったりですよ」

とかすかに聞こえるようなかすれ声で丸山が言う。

 土岐はあらためて高橋と南田の会話に耳を向けた。

「んーん、だから、そのへんの調整をモルタルでやるわけでしょ」

と高橋は承服しかねるように言う。南田と高橋の会話にはオブラートに包まれたような棘が聞き取れた。南田は高橋の決断を促すように机の上に指を立て、苛立ったように爪の先で小刻みに叩いている。それを聞きつけて、プロジェクト・マネージャーの王谷が神妙な面持ちでおもむろにやってきた。先刻からタバコをすいながら窓の外を茫然と眺めていたようだったが、二人のやり取りをずっと聞いていたらしい。

「どうしたの?高橋さん」

と言う王谷の慇懃な話し方にはかすかな威圧と尊大さが感じられる。

「いやあ、軌道をスラブにするか、バラストにするか、・・・わたしはコスト面ではバラストのほうがいいと思うんですが・・・点検の手間はかかりますが、この国の人件費は知れてますし、失業者も多いようなので・・・」

と高橋は年のワリには豊かな頭髪を指で掻き揚げながら、申し訳なさそうに言う。その技術者の良心に迫力がない。

「それは、それ。このプロジェクトはACIの責任でやるので、子々孫々まで恥ずかしくない工法にしてもらえませんか。確かに、現在この国の人件費は安いでしょう。しかし、中国だってインドだって、経済成長と共に人件費が上がっているでしょう。いまじゃ、日本の現地工場が中国からベトナムあたりに移転しているって言うじゃないですか。まだ、財務分析もやっていないし、・・・スラブでやっても、十分ペイするかもしれないでしょ。それに点検の指導は日本人がやらなきゃならないんで、ソフトも含めて考えれば、ソフトのいらない、いいハードを入れた方がかえって安くつくかもしれないでしょ。・・・まあ、安けりゃいいってもんでもないし・・・」

「それは、まあ、そうですが・・・」

と高橋が渋面を作る傍らで、南田が密かにほくそえんでいる。高橋は短い腕を組んで、考え込んでいる。その思考を急かせるようにコンクリートの床をぺたぺたと叩く音がする。南田の右足のサンダルが、小刻みに上下する踵と床面の間を往復しながら音を立てていた。

王谷は、

「これでいいですね」

というように湛然とした目で南田に合図した。

「まあ、財務分析によっちゃあ、値引きに応じますから・・・なんてったって、日本製が世界一ですよ。新幹線なんか人身事故ゼロですからね。世界に冠たるモノですよ」

と南田は籐椅子を軋ませて、そっくり返って同意を求めるように後ろに立っている土岐を見上げた。

王谷は自分の机に戻ったが、高橋のぼやきは止まらなかった。

「丸山さん、現在の狭軌を広軌にすることは決定済みだから、バラストをやめて、スラブにするとなると大変な土木工事になりますよ」

「まあ、そうでしょうね。道床をあらたに敷設しなきゃならないですからね」

と言いながら丸山が歩み寄ってきた。南田は丸山が何を言い出すのかとなんとなく恐々としているように見える。

「でも、スラブの方が軽いので路盤に掛かる重量負担が小さいので、橋や盛り土の補強をそれほどしなくてもすむと思いますよ。スラブに決定するということであれば、ぼくの方も、補強見積もりをすこし削ることにします。もっとも、スラブにしたコストアップをカバーし切れないとは思いますが・・・」

と言う丸山の話の前半で南田は口をM字に歪めてにんまりしていたが、話の後半で元に戻った。百面相のように表情の豊かな男だった。

「まあ、スラブでお願いしますよ。レールはどっちでも同じですから・・・」

と言いながら、ころあいを見計らって南田は席を立った。高橋は南田から受取った見積もりに項垂れるようにして見入っている。正直な心根の男のようで、眉が八の字になっている。高橋の筋張った首筋から下のなで肩に悄然とした思いが漂っていた。定年間際のトラック・エンジニアが素人の商社マンに屈した瞬間だった。同席していた吉川と山田は専門外なので、一切口を挟まなかった。二人とも各人の言うことにいちいち頷いていた。どちらかの言い分に与するわけでもなく、傍観者を装うっていた。 

 南田は初老グループのテーブルが終わると隣の中年グループのテーブルに移動していた。

「電線、電信、信号関係の見積もりは明日になると思いますが、全品日本製でよろしかったんですよね」

と言う南田の念を押すような問いかけに、電化エンジニア主任の松山が答えた。

「ええ、この国は高温多湿だから、日本製でなければ信頼性に欠けます」

「でも、値段の高いのが玉にきず」

と信号エンジニアの畠山が間髪を入れずに補足した。松山は欧米の漫画に登場する日本人そっくりで、七三に分けた髪の下の度の強い眼鏡の、そのまた下の前歯がすこし出ていた。畠山は顔の面積が松山の二倍ぐらいあり、こんもりとしたリーゼントともみ上げの下に張り出したえらが、その頭をさらに大きく見せていた。電化エンジニアの川野は一重瞼の細長い顔をした男で、唖かと思うほど無口だった。必要なこと以外はまったくしゃべらなかった。その男が冗談めいたことを話したので土岐の印象に残った。

「南田さんの会社は高額であればあるほど口銭収入が多くなるんでしょ」

 予想もしていなかった人間から声が掛かったので、南田は一瞬怯んだように見えた。

「まあ、それはそうですが、・・・高額であればあるほど輸送や梱包に手間隙かかるんで、金額が二倍になれば、口銭が二倍になるという単純なものでもないんですよ。マーケット・シェアの高い高性能の商品の場合、メーカーが強気で、利幅が少ないというのも珍しくないし・・・」

 四角い顔の畠山が話す前から笑い出して、

「でもね、あんまり、ふっかけて見積もると、コスト高でプロジェクトそのものが、フィージブルでない、なんてことになりかねない。そうしたら、全部おじゃんでしょ」

と甲高い声で南田をからかうようにして言う。

「いえ、大丈夫です。一等書記官の白石さんの話では、外務大臣の訪問スケジュールがもう決まっていて、大臣の手土産で、このプロジェクトがODAの対象となることが、交換公文で謳われるそうですよ」

「いつものばらまき外交ですね」

と川野が表情を変えず寸鉄で人を刺すようにして言うと、

「ばらまき外交さまさまです」

と松山がおどけたように川野のその言葉を受けて揶揄すると、そのテーブルのメンバー全員が押し殺すように静かに笑った。そうやってメンバー各々が報告書を英文で作成するストレスをささやかに解消しているようにも見えた。

「それじゃ、またあした」

と南田は王谷の方に目礼して、サンダルをペタつかせて、作業所をあわただしく出て行った。胡散臭い奴というのが南田についての土岐の印象だった。

 昼食はチャイニーズとフレンチの二手に分かれた。初老組はフレンチ・レストランへ、残りのメンバーはきのうと同じチャイニーズ・レストランに向かった。初老組は王谷がタクシーの助手席に座り、あとの吉川、山田、高橋の三人が後部座席に納まった。後部座席は窮屈そうだったが、三人とも小柄なので、すんなり一台のタクシーに乗り込めた。中華レストラン組は一台に中年組の浜田、畠山、川野が乗り、もう一台に土岐と丸山と松山が乗り込んだ。丸山が助手席を取ったので、土岐と松山が後部座席になった。至近距離で松山と接するのは初めてだった。頭髪には白髪は見られなかったが、鬢は別物のように真っ白だった。

「みなさん、ACIの関係者なんですか?」

と土岐は、話しかけてくるようすがなかったので、とりあえず、そんな質問をしてみた。

「皆さん出向ですよ。わたしの本籍は民間の電線会社で、現在は一時的に外務省の外郭団体に籍を置いています。そこのお偉いさんたちは、みんな外務官僚の天下りだから、生え抜きの皆さんの士気は低いですね。にもかかわらず、ODAの一人当たりの取り扱い金額は世界一らしいですよ」

と松山の話し方はどことなくそっけない。抑揚も愛想もないようなしゃべり方だった。営業では務まらないが、技術者ならこれでいいのかもしれない。如才ない丸山の話し方とは対蹠的だった。すこし間があって、丸山が前を向いたまま言った。

「土岐さん、このプロジェクト・チームは寄せ集めなんですよ。みなさん、民間企業に本籍をお持ちで、今回は、外務省の外郭団体のそれぞれの部署から来ていただいています。こういう編成は特殊なケースでなくって、フィージビリティ・スタディはうちの会社が元請けなんですが、うちの会社にはジェネラリストしかいないので、いつも専門の方は、こんな感じで外部にお願いしています」

「まあ、わたしら、派遣社員みたいなもんですよ。・・・いやあ、プロジェクト単位の仕事請負だから、フリーターみたいなもんかな」

と言いながら、松山は自嘲気味に鼻先で淡白に笑った。笑い方がどこかぎこちなかった。しかし技術者の朴訥さがじかに伝わってきた。人を見る目のない土岐でも、松山という人間に裏表のないらしいことが、なんとなく分かった。

 昼食後、土岐は作業所に戻ってから、中井の予測データと国鉄の運賃データをもとにして、運賃収入予測を行った。作業自体は、中井の乗客数の予測データに距離別の現行運賃を掛け合わせるだけで、表計算ソフトを用いた至極単純な作業だった。

中井のデータに運賃を掛けると、乗客運賃収入が全体の7割で、残りの3割は貨物輸送収入になった。この比率は開業から三十年後の最後の予測時まで維持されている。中井の予測では、乗客数も貨物輸送量も年率3%の定率で増加していた。これに、現行運賃をそのまま掛ければ、運賃収入も定率の3%で増加することになる。最後の年には現在の二倍半程度になった。日本の戦後の高度経済成長を含めた経験を考えれば、それほど無理な数値ではないように思われる。むしろ、保守的な予測という評価ができる。しかし、中井の予測に関する説明からは成長率3%の根拠は読み取れなかった。だからといって、中井を責めることはできない。この種の長期予想については、どのような場合でも明確な根拠を示すことは難しい。しいて、根拠を示すとすれば、先進国の経験以外にはない。ある国にできたこと、または起こったことは、他の国でもやろうと思えばできる、または起こるはずだという考え方だ。もちろん、マクロ経済モデルを構築し、労働力や資本量や技術水準を長期的に予測し、マクロ経済の規模を推計した上で、乗客数を予測するという方法も考えられる。しかし、手間隙の掛かるわりにその精度は直感によるものと比較してもそれほど高くはない。

(プレゼンテーションのときに、予測額の増加率についての質問が出ればそのように答えるしかない)

とそんなようなことを自問自答しながら、土岐は作業を進めた。

 四時を過ぎたころに、三十年間のキャッシュ・インフローの予測が出たので、その金額を3%の割引率で割り引いてみた。運賃収入が3%で増加することを想定しているので、その金額を3%で割り引けば、複利計算で、各年の運賃収入は初年度と同額になる。各年について割引計算するまでもなく、初年度の金額を三十倍したものが、このプロジェクトの三十年間の収入の現在価値になる。とりあえずは、この金額がベンチマークとなる。この金額をどのような理由をつけて増加させるかがフィナンシャル・アナリシス・スペシャリストとしての土岐の腕の見せ所になる。しかし、プロジェクトを破綻させるためには収入予測を減らすことも視野に入れなければならない。

 その作業を終えて、あくびをしながら大きく伸びをしていると、丸山が土岐のワークシートをのぞき込んできた。数字の意味を聞かれたので、ひとつひとつ丁寧に答えた。

「割引率ってなんですか?」

 その概念をシビル・エンジニアの丸山が知らないことは、土岐にとっては新鮮な驚きだった。

「このベンチマークでは、割引率を3%にしてあるんですが、例えば市場金利が3%で現在の百万円を1年間運用すれば、1年後には元利合計で百三万円になるでしょ」

と土岐が言うと、丸山は、だからなんだと言いたげに土岐の顔をのぞき込む。

「だから、現在の百万円は市場金利3%の時には、1年後の百三万円に価値的に等しいと考えるんです。だから、逆に1年後の百三万円を現在の時点で評価すると百万円ということになる。このとき、百三万円を百万円に割引く率を割引率というんです。さらに、一年後の百三万円の現在価値は百万円だと言うんです」

と説明をしながら、手付金十万円と残額九十万円、総額百万円の報酬が土岐の脳裏に浮かんだ。

 丸山が頷く。

「なるほど、そう言われれば、いま百万円くれると言うのと、一年後百万円くれると言うのであれば、誰でも、

『いまくれ』

と言うわけだ。それが、いまの百万円と一年後の百三万円なら、金利が3%なら、同じということか」

 同じようなことを、土岐は数年前に文系の大学に通う甥に説明したことがあったが、彼は最後まで理解しなかった。どうもこの種の話は、理解できる人とそうでない人がいるようで、しかもその能力は先天的なもののような気がしてならない。丸山は理系だから、数字に関しては先天的に理解が容易なのかもしれない。

 丸山は、ワークシートの数字を見ながらさらに質問してきた。

「なんで、割引率は三十年間もずっと3%なんですか?」

「本当は、各年の市場金利で割引かないといけないんですが、まあ、これはベンチマークなんで・・・たとえば、5年後の金額を割引くときは、5年ものの債券の支配的な金利で割引くのが一般的で、・・・」

「支配的な金利?」

「まあ、中心的な金利と言うか、もっとも市場に大量に出回っている債券の金利で、いまのところ、アメリカの財務省証券が、長期資本市場を支配しているようです。この金利は、満期が何年かによって、若干違います。インターネットで、その金利を知ることは簡単なんですが、今日のところは大体の目安の金額を求めるのが目的なんで・・・それに、長期金利でも毎日多少変化するし・・・」

 このへんの説明から、丸山の目線が泳ぎ始めた。土岐もそれ以上詳述するのをやめた。電化プロジェクトの財務分析の特徴は、多額の初期投資とその後の長期にわたる運賃収入の比較なので、いま求めた将来収入の現在価値の合計金額は明日からの作業として計画している財務分析でひとつの目安となる。

 終業時刻の五時近くになった頃、電気関係の中年組が土岐の傍らにやってきて、代表の松山がぽっこりとした小腹をせり出すようにして口を開いた。

「明日の午前中に、扶桑物産の南田さんが部品の見積もりを持ってくると思うんで、昼までには電気関係の見積もりが出ます」

 それを補足するように、細面でうらなりのような浜田が言った。

「われわれのほうは、英文報告書は大体書き終えて、金額だけがいま空欄になっているんです」

 柔術家のようないかつい相貌の畠山が土岐のワークシートをのぞき込みながら、

「そういうわけで、ぼくらは明日の夕方は打ち上げで、プレゼン資料が完成次第、他に何もなければ、木曜日は観光ツアーに出かけてきます」

と嬉しそうに、しかも哀れみのまなざしで、なんとなく嫌味のある口調で言う。

「それでは、お先に・・・」

と川野が女のようにしなやかな手で、土岐の肩を軽く叩いた。それを合図に、中年組の彼らは作業所を出て行った。それに続いて、童顔の副プロジェクト・マネージャーの吉川がガニ股で体を左右に揺らしながらやってきた。

「私の方も、午前中に南田さんから車両の見積もりを貰うので、午後にはプロジェクト全体の費用の見積もりが出ると思います。あとは、よろしく・・・」

と潰れかけた顎をくしゃくしゃにしながら言う。

 O脚の吉川の後姿を見送ってから、土岐は五時まえに帰り支度を始めた。

 ホテルに戻り、深夜、寝る前に報告のメールを送信した。送信文を打ち込みながら、南田の胡散臭さを報告すべきかどうか、思案したが、それが自分の主観でしかないことに気づいて、文章にすることを止めた。

@土岐明調査報告書・現地第3日目、8時過ぎ、作業所に到着しました。午前9時ごろ、扶桑物産の現地駐在員である南田に会いました。軌道設計の専門技術者である高橋はコストが安く、この国で資材が調達できるバラスト軌道を採用しようとしていたが、南田はコストが高く、日本からの輸入資材に頼るスラブ軌道を強要しようしました。最終的には、王谷の裁定で、スラブ道床に決定しました。王谷と南田の間には、何らかの共通の利害関係があるような印象を抱きました。プロジェクトの資材は扶桑物産が一手に扱うようで、口銭収入も巨額になるものと予想されます。中井は午後から東欧に向かいました。午後5時すぎ、ホテルに帰着しました。王谷をを除く技術者はずれも単に業務を消化しているような印象があります。以上@


七 現地第4日目


 翌日の午前中、土岐は年度別の運賃収入の予測数値をこぎれいな表にまとめた。それをもとにして、縦軸に金額をとり、横軸に年度を目盛って、折れ線グラフを描いた。3%成長だから、実数を縦軸にとると勾配が次第に急に反り上がる右上がりのグラフが描かれる。縦軸を対数目盛にすると、右上がりの直線になる。実質的にはまったく同一のグラフではあるが、見た目の印象は実数を縦軸にとったほうが急増しているように見える。

「増加していることを強調したい場合には実数をとるように、また対数を縦軸にとるのは、増加幅が大きくて、一枚の用紙に収まりきらない場合だ」

と3年前に扶桑総合研究所の鈴村から土岐は教わった。

午前十一時過ぎに、南田が前日と同じいで立ちで作業所にやってきた。作業所の雰囲気が何となく落ちつかなくなった。南田は東京の本社からメールに添付されて送信されてきた見積もりファイルをプリント・アウトして小脇に持っていた。最初に、電信グループ主任の松山に電信関係の見積もりのコピーを、ひと言ふた言添えて手渡した。次に副プロジェクト・マネージャーでステーション・エンジニアの吉川に車両関係の見積もりのコピーを短いコメントを付けて届けた。手渡す際に、なにやら符牒のようなことも申し添えていたが、土岐には聞き取れなかった。帰り際、土岐と丸山の机のところにやってきた。

「今夜、うちの事務所で簡単な打ち上げをやるんですが、お二人いかがですか?土岐さんはプレゼンの準備で大変かもしれないけど。六時ごろから始めようかと思ってるんですけどね」

 丸山が目を弓のように細めて嬉しそうに答えた。

「ぼくは必ず行きます。・・・土岐さんどうします?」

と土岐の顔を横目で捉えた。土岐が数秒のあいだ逡巡していると、

「大使館の白石さんと西原さんも呼んであるんです」

と南田がすこし苛立ったように返答を督促する。丸山も言い添えた。

「土岐さん、レポートの作成で大変だろうとは思うけど、挨拶だけでもしたほうがいいと思いますよ」

とこれまでの丸山にしてはすこし押し付けがましいような言い方だった。土岐は重苦しい気分で承服した。

「では、ご挨拶だけでも・・・」

それを聞くと、南田は作業所をあわただしく出て行った。それを見届けて、丸山が口を開いた。

「南田さんと白石さんと西原さんは同窓なんですよ。三人とも同じ国立大で、南田さんとコマーシャルアタッシェの西原さんは同じ経済学部の先輩と後輩、一等書記官の白石さんと西原さんは学部は違うが、同期で、白石さんは法学部出身です。その白石さんと、うちのプロジェクト・マネージャーの王谷さんは同じ外務省で、・・・王谷さんは大学が違うのでそうじゃないけれど、わたしみたいな二流私立大学出身の者には想像のつかないほど彼らの結束には堅いものがあります。彼らはそういうネットワークを張り巡らしていて、同省なら当然ですが、省が違っても、同窓ならすぐお互いに共通の利害を探るんですね。日本国内じゃ、西原さんの経産省と白石さんの外務省は省益をめぐって、財務省の頭越しに、丁々発止と渡り合っているようですが、ここでは、二人とも随分と仲がいいですよ。民間の南田さんは官僚の白石さんと西原さんにあからさまに媚びへつらっています。年が三人の中では一番若いということもあるんでしょうけど、彼は自分のポジションをわきまえているようです。実際、民と官の交流で、民の側が立ち位置を間違えると、ぼくたちや南田さんのような本国の税金を掠め取るような商売は成り立たないんですよ。いずれにしても、今回のプロジェクトはこの三人が仕掛けたもので、援助は現地の要請に基づくディマンド・ベースだとは言いながら、この国の政府が提出した必要書類はこの三人が全部代筆したものです」

 土岐は、白石と西原の名前を頭に刻んだ。忘れないうちにメモしたかったが、丸山の見ている前ではそうするのが憚られた。

 土岐には、一流国立大学出身の南田や白石や西原が二流私立大学出身で民間に身を置く自分たちに対してどういう意識を持っているのか知る由もない。今夜のパーティーで呑んだくれている寸暇は恐らくないとは思うが、顔だけでも出した方がいいだろうと判断した。

 昼食後、作業所に戻ってから、土岐は副プロジェクト・マネージャーの吉川と電信チーム主任の松山にそれぞれのチームに関する総額の提示を願い出た。理由は分からないが、二人とも金額データを出し渋っているので、

「おおまかで、構いませんので・・・明細もいりませんので・・・」

と言い添えて、出してもらうことにした。金額を出してもらわないと土岐の作業は始められない。

(言わなくったって、そんなことは、分かっている筈だ)

と土岐は不平を露わにしたかったが、思いとどまった。相手の感情や都合を考えないで、自分の悪感情をむき出しにする悪い癖を土岐は自覚している。

 金額データは、現地通貨部分と外貨部分に二分されていた。いずれも、現在の為替レートの銭の単位を四捨五入して、日本円に換算されていた。初期投資については、現地通貨部分が十九億八千百三十八万円で、外貨部分が五百四十七億四千四百八十一万円で、合計すると五千六百七十二億二千六百十九万円になっていた。以上が最初の五年間に発生する。六年目から電車が開通するが、それからは毎年維持費と運営費が発生する。プロジェクトの評価期間を三十五年間として、各年の維持費と運営費を年率3%の割引率で現在価値に直し、初期投資の金額と合計すると、九百四十八億円になった。これに対して、中井の乗客数予測に基づいてきのう計算した運賃収入の現在価値は三百六十七億円だった。したがって電化プロジェクトは差し引き、五百八十一億円の赤字となる。誤差の範囲を超えて、このプロジェクトが巨額の財政負担を現地政府に強いることは明らかだった。土岐は、このプロジェクトが頓挫することを確信した。同時に、成功報酬の残額の九十万円が現実味を帯びて、土岐の銀行口座に数歩近寄って来たことを実感した。


 一般的に公共事業は赤字になることが多い。かりに赤字になったとしても、電車を利用する人々が、心理的に運賃以上の価値評価を電車に与えていれば、社会全体のプロジェクト評価は運賃収入を上回る可能性がある。たとえば、乗客が心理的に運賃の二倍半を支払ってもいいと考えるのであれば、プロジェクト収入の評価は、運賃収入の現在価値の三百六十七億円を2・5倍して、九百十八億円となり、費用合計の九百四十八億円との差額をとれば赤字は三十億円程度となり、財政負担は単純平均で年間1億円程度となる。そうであれば最初から運賃を2・5倍に設定すれば話は分りやすくなるのだが、この2・5倍というのは乗客全体の平均値を意味している。一般的に、どうしても鉄道を必要としている乗客や金持ちの乗客はより高い運賃でも乗車する。逆に、それほど乗る必要のない乗客や貧乏な乗客は運賃次第で乗車するのをやめる。したがって、全車両を等級制にして、一等から十等位に分けて、金持ちからはより多くの運賃をとって、乗客が心理的に評価する運賃を徴収すれば、運賃収入は飛躍的に増加する。しかし、長距離の旅客を対象とする場合ならばともかく、首都近郊の通勤客を対象とする電車では、こうした差別料金を設定するのは困難となる。全ての乗客に一律の運賃を設定した場合、殆どの乗客は心理的には運賃よりも高い金額で乗車を評価していると考えられる。なぜならば、心理的な評価額よりも運賃の方が高ければ、そういう人は乗車しないからだ。しかし、乗客となるのはさまざまな乗車の必要度と様々な所得階層の人々だから、心理的な評価額は人それぞれ異なる。その差額を厳密に計算することは不可能に近いが、かなりの金額になることは間違いない。

こうした考え方が土岐が学んだ開発プロジェクトの評価である。先進国においても公共事業はこのような考え方で執行されることが多い。赤字部分は財政負担となるので、税収が十分でなければ、基本的に中央政府も地方自治体も赤字体質に陥る。しかし、発展途上国であるこの国が三十五年間で六百億円にも及ぶ財政負担に耐えられるとは土岐には考えられない。成功報酬の九十万円もさることながら、このプロジェクトをつぶすことが、この国のためになるという思いが、土岐を勇気づけた。


 作業所の窓外に白濁した細い飴のようなスコールが鳴り物入りで乱舞し始めた。すぐに止みそうだということは、太陽が透けて見えそうな雨空の明るさで予想できた。土岐以外のメンバーは報告書がほぼ完成したようで、よもやまの雑談をし出した。副プロジェクト・マネージャーの吉川の話は東海道新幹線についての昔話が多い。眼を青年のように輝かせ、手振り身振りを交えて得意げに話す。初老グループの山田と高橋は吉川に話を合わせるように、ときどき吉川にとってつけたようなお追従の質問をする。中年グループは松山と川野が電化について、浜田が電信について、畠山が信号について、それぞれ技術的なことをさみだれのように話題にしている。かれらはいずれも南田が持参した扶桑物産の見積もりの金額を報告書の空欄にしてあった箇所にそのまま埋め込んだだけのようだった。作業から解き放たれた明るい気分に声音のキーがすこし高くなっているように聞こえた。そうした中高年の技術者の高揚したざわめきの中で、土岐ひとりが重苦しい気分で、巨額赤字を打ち出したワークシートの金額を茫然と眺めていた。

 丸山が土岐の肩にしっとりと熱い肉厚の手を置いて聞いてきた。手のひらの湿り気が暑く土岐の肩にしみこんでくる。

「どうですか?財務分析の方は・・・」

とまるで旧知の友のようになれなれしい。

「プロジェクト・コストが約一千億円、それに対して運賃収入が約四百億円で、いまのところ約六百億円の赤字です」

と土岐は金額をすこしまるめて極力客観的に言うように努めた。

「その六百億円は財政負担になるということですか?」

と丸山は軽く腕を組み、考え込むように作業所の天井の隅に目線を向けている。

「そうです。・・・たぶん、この国の政府には負担しきれない金額でしょう」

と土岐は憐憫の思いをすこし込めて言った。

「そうですか・・・今夜のパーティーで西原さんに相談してみましょうか。あの人、ものすごく頭の切れる人ですから・・・わたしみたいな頭の悪い人間にはあの人がどのくらい頭がいいのか、はかりしれません。頭のいい人間と頭の悪い人間はお互いにお互いを分かり合えないんですよね。間に乗り越えられない、見えない壁があるんですよね」

と丸山はため息混じりに、悟りきったようなことを言う。

 静かになったと思ったら、スコールが止んでいた。同時に、中高年のメンバーが帰り支度を始めた。いつもと違って、机の上の文房具も整理している。土岐は、なんとなく不安に駆られた。誰に言うともなく、

「みなさんは金曜日のプレゼンテーションの資料はもう作られたんですか?」

と訊ねていた。答えてくれたのは、一番近くにいた中年組の最年少の畠山だった。

「いや、プレゼンは財務分析だけだと聞いてますけど・・・」

と言うその語尾を川野が自分の前の机の上を几帳面に整理しながら継いだ。

「だから、われわれは明日、観光ツアーに出かけます。土岐さんには悪いですけど・・・」

と言うその語尾をさらに、頭髪にも服装にもまったく乱れのない銀行マンのような浜田が受け継いだ。

「あすは大変ですね。だけど、われわれはあなたよりも一週間も前から作業をしているんで、その辺を斟酌してください」

 最後に中年グループのなかで一番小柄で童顔の松山がまとめた。

「いやあ、土岐さんには本当に申し訳ないと思っているんですよ。あんただけに仕事をさせて、われわれだけが物見遊山に出かけるなんて・・・」

それを隣のテーブルで帰り支度を終えた吉川が訂正した。

「物見遊山じゃないんですよ。実はまだわたしらは、プロジェクト対象の路線のすべてを踏破していないんですよ。南路線は松山さんたちが、北路線はわれわれのチームが一応、電化区間の始発から終点まで乗車したんですけど、東路線は丸山君が乗車しただけで、わたしらはまだなんです。そういうわけで、明日は東路線に乗車して、ついでに終点の世界遺産に指定された寺院を見学かたがたお参りしようというわけです」

と入れ歯の夾雑音が時々混じる吉川が言い終えたのを契機に、全員が五時前に作業所をあとにした。

 土岐は作業所からの帰りのタクシーの中で急に腹痛におそわれた。下腹部に鈍痛がトグロを巻いていた。時間的に昼食の何かが良くなかったのだろうが、見当がつかない。激しい便意が下腹部に耐え難い疼痛をもたらした。次第に脂汗が額に流れ、隣に座っていた丸山との会話も上の空だった。話し方の調子で相手の体調の変化に気がつくところが丸山のすぐれたところだった。

「土岐さん、どうかしましたか?」

と土岐の顔をのぞきこんでくる。

「ちょっと、おなかの調子が・・・」

と言うと、丸山はそれ以上、話しかけてこなかった。

 ホテルに到着すると小走りに自室に戻り、ショルダーバックをベッドの上に投げ置き、トイレに駆け込んだ。トイレから出ると血糖値が低下したように全身が脱力感におおわれた。しばらく、ベッドの上で大の字になっていたが、ふたたび下痢に襲われた。そのあと、気力を振り絞ってシャワーを浴びたが、上半身から血の気が引くような感覚にとらわれた。シャワーから出たあと、再びベッドの上に倒れこんだ。しばらくじっとしていると、すこしずつ気力が回復してくるような気がした。

八王子の家を出るとき、

「水が変わると腹の調子が悪くなるよ」

と母に下痢止めを持たされたのを思い出して、スーツケースから黒褐色の丸薬を取り出して冷蔵庫に常備されていた現地ビールで呑んでみた。

荒かった呼吸が徐々に落ち着いてきた頃、ドアをノックする音がした。あわてて、バスローブをまとい、裸足のままドアを開けると丸山が細い眼で立っていた。

「どうしました?もう、他の人はタクシーで出かけてしまいましたが・・・」

「あっ、扶桑物産のパーティーですか・・・」

 忘れていたわけではなかったが、頭の中は下痢でいっぱいだった。

「ここで、待っていますから、すぐ着替えてもらえますか?」

と丸山は視線を土岐の足元と顔の間で二往復させた。

「ちょっと、体調があまりよくないんで、できれば、ここにいたいんですが・・・」

「歩けませんか?」

と感情を押さえ込んだように言いながら、丸山は怪訝そうな顔をする。柔和な表情が消えていた。オブラートに包まれたむき出しの感情を垣間見たような気がした。

「なんとか、歩けないことはないんですが・・・」

「王谷さんが、是非連れてくるようにということなんですが・・・」

と自分の不快感の源が王谷にあることを察して欲しいような目つきをしている。

「業務命令ですか?」

「まあ、そんな大げさなことではないんでしょうけど・・・まあ、いろいろと注文の多い人なんで・・・それから、資料も持ってきてもらえますか」

 丸山の言い方にどことなく険があった。王谷となにかあったのかもしれない。

「分かりました。すぐ着替えます」

と土岐は言わざるを得なかった。土岐の知らないところで、丸山はさまざまな無理を強いられているだろうと推察された。土岐もこの程度の無理はせざるを得ないと考えた。


 南田が勤務する扶桑物産の事務所は、ホテルから小型タクシーで十分ほどの距離だった。首都近郊の旧宗主国が建設した官庁街のはずれに、瀟洒な高級住宅街があった。殆どが高床の平屋で、二階建ては数えるほどしかない。扶桑物産の建物は、高級住宅街の入口近くに位置し、建物も事務所らしくなく、普通の住宅のような佇まいだった。邸宅というほどではないが、ヨーロッパ風の建物で、庭に面して出窓があり、安普請でないことは素人目にも分かった。

土岐の母が持たせてくれた下痢止めが効いたのか、到着するころには下腹もなんとか落ち着いてきた。

「体調のほう、・・・大丈夫ですか?」

とタクシーを降りるとき丸山がそう声を掛けてきた。いつもの穏やかな表情に戻っていた。土岐は、ノートパソコンを小脇に抱えて彼のうしろに従った。玄関の前庭は五十坪ほどの広さがあった。中央に点灯された常夜灯が立っていた。隣家との境界に熱帯植物の生垣があり、芝生が綺麗に刈り込まれていて、スコールのしずくが夕暮れの薄明かりにきらめいていた。

タクシー停車の気配を察知したらしく、影法師のような南田が玄関のドアを開けて待っていた。顔は良く見えなかったが、バミューダ・パンツで南田と分かった。

 玄関右手に通された部屋はダイニングのようだった。背の高いいくつかの椅子が壁際に並べられ、大きな長い黒檀のテーブルの上に幾種類もの珍しそうな料理が山盛りになっていた。体調不良のせいで、土岐は料理には興味をそそられなかった。先着したメンバーがすでにそのテーブルを取り囲んで、談笑しながら、片手にグラスを持って飲食していた。年齢不詳の浅黒いメイドが、料理や飲み物を持って、奥のキッチンの間のドアから幾度も出入りしていた。ドアの奥に現地人のコックらしい人影が見えた。

歓談の輪の中に痩身のシュトゥーバが立っていた。丸山は土岐を部屋の奥に案内し、王谷と談話していた白石と西原を紹介してくれた。白石は小太りで、頭にポマードをこってりと塗りたくり、金縁眼鏡の下に薄っぺらい顎を突き出した男だった。口を開くたびに金歯がのぞいていた。けして頭を下げることのない、えらそうな男だった。西原は頭髪が五分刈りで、綿のカッター・シャツに巨躯を包んだ男だった。眉毛が太く、舌足らずな話し方をした。目線が土岐より5センチほど高いせいか、顎をすこし上げ、仏像のように半分閉じたような目で、土岐を見下げた。

「大学はどちら?」

と聞かれたので、

「二流の私立大学です」

と土岐が答えたら、西原は大学名を聞こうとはしなかった。自分が卒業した大学か他の国立大学以外には興味がないように見えた。

 土岐の自己紹介と名刺交換が終わると、王谷は南田を手招きした。

「ちょっと、リビングを貸してもらえるかな」

「どうぞ」

と言いながら、南田が王谷を先導した。その後に西原と白石が続き、土岐も来るようにと丸山に目で合図された。

リビングは広い廊下を隔ててダイニングの隣にあった。ダイニングと同じくらいの広さで、部屋の中央に薄茶色のラウンドテーブルがあり、その周りをカラフルなプラスティックの椅子が六脚取り囲んでいた。南田がダイニングに戻り、残りの五人全員が腰掛けると王谷が土岐のほうを一瞥して言った。

「それでは、現在のところのプロジェクトの財務分析状況を説明してもらえるかな」

と下僕を詰問するような口調だった。ときどき、入れ歯がカチカチと噛み合う音がする。

「まだ、大雑把な計算しかしていませんが・・・」

と土岐は前置きした。

「そんなことは分かっている」

と王谷は不愉快そうに言う。土岐には、なにが不愉快なのか良く分からない。

「総費用の現在価値が現行の為替レートで約一千億円、総収入の現在価値が約四百億円、したがって、このプロジェクトの純現在価値は約六百億円の赤字です」

と土岐は、夕方、作業所で丸山に説明した内容を繰り返した。

「この国に六百億円の円借款は出せないよな」

と白石が薄い顎を突き出して薄ら笑いを浮かべて言う。

「出しても、償還できないでしょう」

と西原が黒目を左右させて何かを思案しながら言う。

「とりあえず、プロジェクトを推進するためには、赤字をなんとか圧縮しないと・・・」

と白石が、王谷に命ずるような口調で語りかける。

「まあ、それが財務分析の仕事ですから・・・」

と王谷がタバコに火をつけながら答える。その傍らで、西原がテーブルの上にあった何かの紙の裏に、パーカーのボールペンで縦軸と横軸を描き出した。縦軸に運賃、横軸に累積乗客距離と殴りつけるように書き込んだ。

「土岐さん、プロジェクト期間の累計の乗客輸送距離はどれくらいですか」

と目線をあわさずに、せかせるようにうつむいたままで聞いてきた。先の尖った大きな耳が土岐の顔に向けられていた。

「約四百億マイルです」

と土岐が記憶を辿るように手短に答えると、

「ということは、運賃は一マイルあたり一円ということですか?」

と詰問口調で確認するように西原は顎を突き出して、うろんな表情を土岐に向けた。

「現行の運賃だとそうなります。貨物も含めてということですが・・・」

と説明すると、西原は右下がりのグラフを書き込み、縦軸の切片に4円と記入し、縦軸に1円と記入したところから、横軸に点線で平行線を引き、右下がりのグラフと交わる点から下に点線を下ろし、横軸の目盛りを400億とした。そのグラフを全員に見せながら、西原はいきせききるように説明を始めた。

「この右下がりのグラフはプロジェクト期間累計の電車乗車の需要曲線です。まあ、健全な常識に従って、右下がりということでよろしいですね」

と言いながら一同を見回す。語尾に有無を言わせないような雰囲気がある。

「この国は形式的には社会主義ですが・・・」

と西原が言いかけたとき、王谷が質した。

「形式的には・・・というのはどういう意味?」

「この国の官僚は誰も資本論を読んでいないし、だいたい、社会主義と資本主義の違いも分かっていない」

「じゃあ、なんで、国の名前に社会主義が入っているの?」

と白石が聞く。

「建国の当初は、初代大統領も社会主義のなんたるかは分っていただろうとは思うけど・・・だいたい、社会主義を理想として建国したんではなくて、隣国の社会主義の大国と緊張関係にならないようにという政治的配慮と、その大国から援助を引き出したいという経済的な理由で・・・」

と言いながら、西原は目をグラフに落として、話を戻した。

「で、国の名前は社会主義ではあるが、経済的には自由主義であることを想定して、この需要曲線も自由主義を前提として描いてあります」

「自由主義と社会主義で需要曲線が違うのか?」

と王谷が呟くように言う。

西原はちらりと目線を王谷に向けて、小さく小馬鹿にしたような溜息を吐く。

「自由主義の需要曲線は人々の自由な意思を反映して描かれます。電車に乗るのも乗らないのも国民の自由ということです。乗るかのらないかの判断は、提示された運賃に乗客がどう反応するかに委ねられます。これが自由主義です。高くて乗らないのも自由、安いと思っても運賃以上の支払はする必要はない。金持ちに対しても、貧乏人に対しても、同一価格で販売する・・・これが市場経済です。・・・で、試算だと一マイルあたり一円の運賃だと、累計で四百億マイルの需要があるということです。この需要曲線の縦軸の切片を4円とすると、縦軸と需要曲線と補助的に引いた1円の点線の運賃線で囲まれる三角形の面積は消費者余剰になります。運賃が一円に設定されていても、心理的にはもっと払ってもよいと思っている利用者はいるはずで、いろいろな利用者がいるから、より多く支払ってもいいと考える金額はいろいろだが、一円は支払いたくないと思う利用者は乗らないのだから、乗車する利用者は間違いなく一円以上の評価をしていると考えられる。並走しているバス料金を考慮すると、最大限支払ってもよいと思う金額は、4円程度だ。つまり、この三角形の面積に該当する金額を利用者は払ってもいいのだが、たまたま運賃が一円に設定されているからそれ以上は払わない、いわば利用者の儲けのような金額だ。この三角形の面積は高さが四円マイナス一円で三円、底辺が四百億マイルなので、消費者余剰は六百億円になる。つまり、利用者の利益を六百億円とすれば、プロジェクトの現在価値が六百億円の赤字であるとしても、このプロジェクトは採算があっているということになる」

と言いながら西原は三角形の面積を青いボールペンで斜線を何本も引きながら塗り潰して行く。強く塗りつぶして、質のあまり良くない紙がすこし破れた。

公共プロジェクトの社会的評価ではよく行われる考え方を右の眉を吊り上げながら西原は得意げに解説した。しかし、丸山は理解していないようだった。腕を組んで、首をかしげている。西原は丸山の前に図をずらして、苛立たしそうに説明を繰り返した。

「・・・だって、定価が1円だというのに、自分はそれ以上の評価をしていても、それ以上払う人はいないでしょ。かりに丸山君が2円の評価をしているのに、実際には定価が1円で1円しか払わなかったとしたら、差額の1円は君の利益になるでしょ。一般的に定価販売であれば、定価以下の評価しかしない人は絶対に買わないわけだから、実際購入する人は、定価以上の評価をしているということになるでしょ。その評価の上回った金額を消費者余剰と言うんだよ。一般的に金持ちやその商品についてのマニアほど、消費者余剰は大きくなる」

 丸山は分かったような、まだ分かっていないような曖昧な表情で、唇をすこし尖らせて首を数回縦に振った。西原は丸山に怒ったようにして言う。

「君は、百円の評価しかしていない商品が、二百円で売られていたら買うか?」

「いいえ」

と丸山はどぎまぎして恐縮したように答える。

「それじゃ、二百円の評価をしている商品が、百円で売られていたら買うか」

「まあ、買うでしょうね」

「そのとき、二百円払うか?」

「いあや、百円しか払わないですよ。だって、定価が百円なんでしょ」

「そうだろ。そのときの差額の百円が消費者の利益で、消費者余剰と言うんだ。どんなものであれ、定価販売では買い手が何かを買う時には必ずこの余剰が発生している」

と西原は興奮して少し早口になる。西原はさらに別の紙に同じ縦軸と横軸を描き、先刻の需要曲線よりも傾きの急な右下がりの図形を示した。

「・・・かりに、並走しているバス路線がエネルギー効率が悪いというので、電車開通と同時に廃止されたとすると、電車乗車は必需品的な性格を持つので、需要曲線はそうでない場合と比較して立ってくる。つまり、価格に関して非弾力的になる」

といいながら、西原は丸山の顔を見る。丸山は西原の描いたグラフに眼を落したままゆっくりと首を左右に振る。                            

「つまり、運賃が多少上がっても、代替するバスが走っていなければ、電車乗車の需要は価格が1円以上に上昇しても、ほとんど減らないということだ。普通、価格が上がるとその商品に対する需要が減少するのは、人々がほかの商品を買うようになるからだ。輸送手段が電車しかないとなれば、多少運賃が上昇しても、乗客は減らない」

と言いながら西原は需要曲線が立っているということを強調するように何回もボールペンでなぞる。

「そうなれば、消費者余剰は限りなく大きくなる。建設コストなんか目じゃない。電化すべしという結論になる」

 土岐は焦りを感じた。西原の主張が通れば、成功報酬の九十万円がふいになる。

一般的に、消費者余剰の金額にしても需要曲線の形状にしても誰も正確には知らない。プロジェクトにゴーサインがでるときの最後の決め手になるが、誰も確証を持っていない。日本の多くの不効率な公共投資は需要予測をお手盛りにすることで実行に移されてきた。過剰な需要予測はプロジェクトをごり押しする際の官僚の常套手段だ。

(西原の話は、交通輸送手段を新規に立ち上げる場合には方向性としては正しい。しかし、ディーゼル機関車を電気機関車に代替するのが今回のプロジェクトだから、消費者余剰は既に存在している。電化によって大幅に増加するとは言えない。現在のディーゼル列車の運行においてもほぼ同額の消費者余剰は発生している)

と思いながら土岐は西原の誤りを指摘した。

「でも、現在のディーゼル列車でも、消費者余剰は発生しているので、電車による消費者余剰で評価すべき部分はディーゼルから電化への増加分になるんじゃないですか?そうであるとすると、電化による消費者余剰の増加は、それほど大きくないんじゃないですか。電化によって運行ダイヤが正確になるとか、スピードが上がって駅間の時間が短縮されるというようなことで、需要は多少増えるかもしれませんが、極端に言うと、乗客にとっては車両がディーゼル列車から電車に変わるだけのことで、鉄道で移動するという点では、ほとんど何も変わらないんじゃないですか」

と言いながら土岐は西原が意図的に現在のディーゼル列車の消費者余剰を除外したのではないかと思った。現在発生している消費者余剰を除外すれば、その分電化プロジェクトによる消費者余剰が大きくなる。それによってプロジェクトの採算性が高まる。しかし、西原の説明が意図的に現行の消費者余剰を無視したものでないことは、西原の態度で理解できた。西原は不快感のこもった視線を土岐に投げてきた。

丸山は一瞬、土岐の顔を、

(一体、なにを言いだすのだ)

というような目つきで睨んだ。それから、王谷と西原の両者をおろおろしたような目線で見比べている。

「でも、電化すればダイヤは正確になるし、ドアも完全に車掌が開閉できるようになるので、現在の無賃乗車が減って、・・・」

と言う丸山の言質の誤りを土岐は指摘しかけた。

(無賃乗車の人間は大きな消費者余剰を得ている。その人間が運賃を支払うようになっても、運賃収入と無賃乗車の時より少なくなった消費者余剰の合計は以前と同じ大きさになる。つまり、無賃乗車がなくなるということは電化によって社会的な余剰が増加することを意味しない。無賃乗車の人間が支払う運賃は、無賃乗車の人間にとってはマイナスだが、受取る国鉄にとってはプラスだから、社会全体では両者を合計すればプラスマイナスゼロになる)

土岐はここで怯んだら母の白内障の手術代が奪われるという思いだった。しかし、丸山の困り切ったような顔色を見て、出かけた言葉を飲み込んだ。

白石は土岐の話を無視して、西原にコメントを浴びせた。

「いずれにしても、だれが六百億円を払うかが問題だ。先進国であれば、政府が税金から工面して、赤字分を補助金という形で補填するということで、そのプロジェクトにゴーサインがでるが、この国のような最貧発展途上国にそんな担税能力があるかどうか。円借款のODAである以上、償還が前提となる。償還の可能性がまったくないプロジェクトにゴーサインは出しづらい」

 そこで王谷がタバコの煙を悠然と吐き出しながら口を挟んだ。

「ようは、フィージビリティ・スタディで採算があうという結論を出せばいいわけですね。あとは、プロジェクトが動き始めて、何年か後に、どうも計画通りに行かなくて、償還を繰り延べて、いずれ累積債務処理で、十年か二十年かのちに無償援助の債務免除の対象となればいいわけですね。そのころには、われわれはこのプロジェクトとはかかわりのない部署にいるわけだから、・・・わしなんかどうせ定年だし、なんの問題もない。だいたい、寿命があと十年もあるかどうか・・・」

と語る王谷の西原と白石を交互に見る目が、好意に綻んでいる。土岐や丸山に対しては一度も見せたことのない表情だった。

西原は不満げにボールペンの頭で左手の親指の爪をせわしなく叩いている。その所作を白石がいらだたしそうに注視している。

「まあ、そういうことですね。実際、計画通りに立ち行かないプロジェクトは山ほどある。われわれは公共の利益のためにことを運んでいるのであって、建前上、やっていること自体が善なんですから・・・」

と白石が結んだ。

そこで、丸山がじれたように立ち上がった。

「さっ、結論が出たところで、パアッと行きましょう、パアッと!」

 王谷もおもむろに立ち上がり、後ろに続く土岐に、ななめ目線で言い捨てた。

「まあ、そういうことだから・・・」

その言葉を丸山がすかさず明るくフォローした。

「土岐さん、そういうことで、よろしくお願いします」

そう言う丸山の所作に切ないものを感じた。かつて、土岐が大学四年生のとき、就職するかどうか迷った理由を丸山が体現していた。丸山の人間性がどうであれ、彼は組織の論理に従わざるを得ない。土岐も、このプロジェクトに参加した以上、参加している期間中は、プロジェクトの論理に従わざるを得ない状況にある。

 土岐はパーティールームに戻ってから、しくしくと痛む下腹をだましながら、飲食した。途中で、シュトゥーバが財務分析の様子を聞いてきたので、夕方、丸山に説明した内容だけを伝えた。彼は目を落とし、口をつけていないワイングラスを持ったまま、黙って幾度も首を左右に振った。

「予想していました。適正な報告がなされることを期待しています。真実こそが最高の善です」

と言っただけで、それ以上のことは話さなかった。

シュトゥーバと入れ替わるようにして、西原がワイングラス片手に近寄ってきた。

「おたくのところの、専務理事の萩本さん、お元気?」

と不自然なほど胸を張った姿勢で顎を突き出して聞いてきた。

「ええ、・・・うちの専務理事をご存知なんですか?」

「同じゼミなんで、・・・ゼミの同窓会でよく会うんで、・・・随分と優雅な生活をしているようですね」

と言いながら鼻の穴を剥き出しにして大声で笑った。その笑声に、

(おまえの給料は、おれの所属している経済産業省が出しているんだぞ)

という先刻の意趣返しの侮りがこめられているような気がした。そのとき、土岐の現在の職場をなぜ西原が知っているのか聞こうとしたが思いとどまった。おそらく、扶桑総合研究所に提出した土岐の履歴書がACI経由でこの大使館にも流れているのだろうと想像した。しかし、扶桑総合研究所の人間として行動することを求めていた砂田が、土岐の履歴情報をACIに流したとは思えないので、たぶん、鈴村が取締役という立場で土岐に関する情報をACIに提供したものだろうと推察した。

 丸山は飲食とともに人々の間を歓談しながらウエイターのように移動していた。土岐の近くに来たとき、彼を質問で捕まえた。

「なんで、シュトゥーバだけなんですか?他の国鉄省の人は最初から呼んでないんですか?」

「総裁と財務部長には声を掛けたらしいんですが、・・・ホテルならともかく、こういうところには、かれらは来ないですね。沽券にかかわると思っているようですね。シュトゥーバは業務命令できたようです。とにかく彼は、総裁と財務部長の信任が厚いんですよ。財務分析も、彼がOKと言えば、いいみたいですよ」

と言ってから、近くに西原のいないことを確認して、急に声をひそめた。

「でも、さっきの発言はまずかったですね。いずれ間違いなく何かがあるから、気をつけた方がいいですよ。公衆の面前というほどではないですが、われわれの目の前で、西原さんの誤りを公然と指摘してしまったんですから・・・あの場で言わなくても、よかったような気がしないでもないですがね。西原さんはわれわれの想像を超えた人なんですよ」

と咎めるように言う丸山との間に一筋の亀裂が走ったのを土岐は感じた。しかし、丸山を責める気にはならない。丸山は組織の意向に殉じようとしているだけのことだ。南田にもそのきらいがなくはない。しかし王谷や白石や西原は明らかに自分のキャリア・アップしか念頭にない。日本国民の税金が無駄に使われ、この発展途上国の国民が過剰な公共投資によって将来の債務返還に苦しむことはかれらの眼中にはない。

 ホテルに帰ってすぐ、土岐は報告メールを送信した。

@土岐明調査報告書・現地第4日目、終日現地作業所にて財務報告の作成にとりかかりました。現在の情報では電化プロジェクトのフィージビリティ・スタディでは、大幅な赤字が見込まれます。このままであれば、恐らく、プロジェクトにODAはつかないものと予想されます。西原、白石、南田は国立大学マフィアだとの丸山からの情報がありました。この三人に王谷を加えた四名は、このプロジェクトにODAが付くことにより、キャリアの上でそれなりの利益があるものと考えられます。夕方6時より、扶桑物産の現地事務所においてパーティーがありました。大使館の白石一等書記官と西原コマーシャルアタッシェとプロジェクトの黒字化について議論しました。西原の議論の誤りを指摘しました。以上@

 メールを送信した後、このプロジェクトをつぶすことに土岐はヒロイックな心情を抱いている自分に気付いた。

(九十万円は当然の報酬だ。西原にしても白石にしても王谷にしても、これまですでに十分な報酬を得ている。九十万円という金額は、彼らにとっては大した額ではないかも知れないが、母にとっては失明するかどうかという額だ)

と奮い立たせるように自分に言い聞かせた。


八 現地第5日目


 翌朝の7時ごろ、丸山からホテルの内線で南田が土岐を迎えに来るという連絡があった。8時ごろ、南田が真新しい乗用車でホテルに迎えに来た。

「国鉄の作業所に送り届ける途中で見せたいものがあります」

と言う。土岐は彼の運転する欧州車に同乗した。毎朝乗っている現地タクシーとはまったく別の乗り物だった。

 車は始発駅の近くの踏み切りの手前のアスファルトの途切れた路肩に駐車した。上半身裸のやせ細った少年たちが集まってきた。南田は下車するとポケットから小銭をつかみ出し、車の後方にばら撒いた。少年たちが一斉に地面にはいつくばった。

「かれら、学校はないんですかね」

と土岐が素朴な疑問を言うと、

「一応義務教育はあるんですけどね、教科書とか制服とか靴とか文房具の買えない連中がいて、・・・ほんとうは、この国の政府が無償でそういったものを支給すべきなんでしょうけどね・・・なんせ、税収がないから、財源がない。教科書と制服を無償にするために税金を徴収するとすれば、それらを有償にするのと同じことになる。・・・それに小学校に行かせるよりも小銭を稼がせた方がいいと思う親が多い。ちょっと、たとえは良くないけれど、日本の三流大学なんか、アルバイトばかりで、勉強なんかしていない学生が多いでしょ。もともと勉強が嫌いで、勉強なんかするつもりもないんだろうけど・・・あれは、

『大学に入ったら学費は払ってやるが、小遣いは自分で稼げ』

と言う親が多いからなんですよ。そういう学生たちが日本の最低賃金層を形成し、日本の経済構造に組み込まれている。うちの会社の食品関連の飲食の子会社なんか、損益計算の計画を立てる段階で、最低賃金の学生アルバイトを予算化していますからね。ここの子どもたちもそうで、ちょっとした雑用はみんな子どもたちの労働に依存している。それがこの国の最低賃金層を形成している。ここにたむろしている子どもたちはその最低賃金労働にありつけなかった連中で・・・善悪の問題じゃないんです。そういう最低賃金構造になっているんですよ」

 南田の話に土岐は自分自身が学生時代も大学院生時代もアルバイトに明け暮れていたことを思い出した。土岐の場合は小遣いを稼ぐのが目的ではなかった。しかし、学友たちのほとんどは遊ぶ金が目的でアルバイトをしていた。大教室で遊びの話に夢中になる学友たちを苦々しい思いでうとましく眺めていたときのことがよみがえってきた。そういう不平を母に漏らすと、母は、

「上見れば、星、星、星の星だらけ、下見て暮せ、星の気もなし」

と言って慰めてくれた。たしかに、土岐は大学に進学していることを感謝しなければならないと自分に言い聞かせた。それでも、日々接する学友の遊興と生活のためにアルバイトに追われる自分の身の上とをどうしても見比べて、鬱々としていた。

「ちょっと、こっちへ」

と南田は踏切の黒と黄色のツートンカラーの遮断機の下に立った。

「あっちが、始発駅。あそこから南路線と北路線と内陸路線が出ます」

と左手を指差した。線路の両側に屋根のないプラットフォームが三本あり、線路の中には紙やプラスティックなどの生活ゴミがゴミ捨て場のように散乱していた。こちら側の線路にえび茶色のディーゼル機関車が停車していた。十数メートルしか離れていない。やがて、警報機が鳴り始め、遮断機が水平に下りてきた。十名ほどの人々が線路の中に取り残されたが、誰も走り出そうとしない。錆びだらけの自転車で遮断機をかいくぐる者もいる。どこからともなく人々が遮断機の前に集まり、道の両側から次々と遮断機を潜る。しかし、遮断機を背にして、線路を渡らずにそこに立ち止まる。向こう側の遮断機からも踏み切りの中央に人々が出てきて、横並びの列ができた。若年と中年の男たちで、老人や女性はいない。警笛とともに、ディーゼル機関車がゆっくりとこちらに向かって走り出してきた。重い硬質の地響きが伝わってくる。線路を挟んで五十人ほどが横並びになって、身じろぎもしない。やがて、機関車がかれらの眼前を通り過ぎると、先頭の客車のドアステップに足をかけ、両手で手すりを掴んで、横並びの先頭から順に数人の男たちが飛び乗ってゆく。次の客車にも同じように二、三人の男が飛び乗ってゆく。最後の車両が通りすぎるとき、残された一人が列車と並走しながら踏み切りの先で飛び乗って行った。車掌がその光景を、車窓から半身を乗り出して何事もないかのように見守ったまま、列車は通り過ぎて行った。

 唖然として傍観していた土岐に南田が話しかけてきた。

「どの駅でもこんな調子です。まともに切符を買うのは荷物の多い行商や幼児連れの連中や足腰の悪い老人だけです。女性は着ているものの関係で、飛び乗るのは無理で、それにこの国の女性はほとんど外出しないんです。当局は取り締まるつもりはないようです。カネがあれば切符を買うはずだから、こういう連中はカネがない、カネのない連中からカネは取れないという論理です。まあ、ある種の貧民救済というか、実物給付というか、生活保護というか、日本でも敗戦直後はこういう情景があったんじゃないですかね。白黒のニュース映像で見かけたことがありますけど・・・この国のある鉄道マンは、

『彼らがカネを払おうと払うまいと、列車は走っている』

とも言ってました。

『乗っても乗らなくても列車は走るんだから、無賃乗車の何が悪い』

というのがフリーライダーたちの言い分です。しかし、これを電化すれば、出発時の加速は速くなるし、ドアは自動開閉になるんで、こういう光景はなくなり、並走しているバスよりも運賃が安く、時間が正確で、速いのであれば、彼らは運賃を払わざるを得なくなるし、むしろ喜んで払うでしょう。トランスポート・エコノミストの中井さんにも説明したんですが、公式統計がないということで、あなたが運賃収入予測の原データとしているものに、フリーライダーの乗車は含まれていないはずです。ぼくの推測では、フリーライダーの有料化で、運賃収入は倍近くになるはずです」

 土岐は、ゆっくりと遠ざかる列車が次第に小さくなるのを見送りながら、返答する言葉を捜していた。運賃収入が倍近くになるとすれば、収入は八百億円に跳ね上がり、赤字幅は一挙に二百億円に圧縮される。

「このこと、ご存知でしたか?」

と南田が両手をポケットに突っ込み、腰をすこしかがめて、ななめ下から土岐の顔をのぞき込んできた。

「いえ、知りませんでした」

と土岐はため息をつくようにして答えた。

「まあ、財務分析の守備範囲を超える話かも知れませんが、昨夜、王谷さんからあなたにこれを見せるようにと頼まれまして・・・これでプロジェクトの赤字が多少減額されれば、ぼくがあなたにこの情景をみせたということの証拠にもなりますんで、・・・うちの会社も王谷さんにはこのプロジェクトでこれからいろいろとお世話になるんで、よろしく・・・宮仕えはつらいもんです」

とすこしかがみ込んで、土岐の顔をななめ下からなめ上げるようにして言う。

「考慮します」

としか土岐は言いようがなかった。

「運賃収入は2倍でお願いできますかね」

と南田が押しつけるように言ってきた。土岐は、必ずしもそうはならない理由を言うことにした。

「たしかに、フリーライダーはいなくなるでしょうね。そうすると彼らはバスに乗り換えるかもしれないですね。バスと鉄道の運賃設定はだいたい同額になっているんですが、バス停の数の多いだけバスの方が便がいいんじゃないですかね。それに、この国だっていずれモータリゼーションに向かうでしょう。最初はバイク、つぎは自動車、・・・そうなれば、乗客数が2倍になるかどうか・・・多少は増えるとは思いますが・・・」

 南田は頬を膨らませて、路上の小石を蹴飛ばしている。土岐はそれ以上言うのをやめた。


 南田の車で国鉄の作業所に着いたのは九時前だった。作業所には丸山しかいなかった。丸山は膨大な領収書を整理し、電卓で集計している最中だった。しばらく、声を掛けるのをためらったが、集計のきりのいいところで彼の方から声を掛けてきた。

「どうでした、駅の様子は?やっぱり、一回ぐらいは見といた方がいいでしょうね。・・・ご覧の通り、他のメンバーは内陸線で観光ツアーに出かけました。あなたは明日の午後、プレゼンテーションをやって、夕方はうちが主催する打ち上げがあって、土曜日には帰国の予定なので、サイトシーイングの時間がとれないですね」

「それでいいんです。金銭的にもそんなゆとりはないんで・・・」

と丸山を労うようにして言ったが、彼には通じなかったようだった。丸山はすぐ話題を変えてきた。

「ところで朝、・・・ついさっきなんですけど、大使館に行く途中で西原さんがここに寄って来て、こんな資料を置いていきました」

と言いながら、英文に数字が羅列しているコピーを差し出した。最初の1枚はこの国のGDP統計だった。ここ十年分の金額が表になっていて、人口統計と一人当たりGDPも記載されていた。GDPの成長率は実質で3%程度で、人口増加率は2%前後だった。かなりのばらつきはあるが、一人当たりGDPの実質成長率は平均で1%程度だった。2枚目はインフレ率の統計資料だった。ここ十年の消費者物価上昇率は年率で10%近かった。ばらつきはあるものの、資源価格の上昇した年には10%を超えていた。統計表の下に金釘流の手書きで、

「運賃計算にインフレを考慮すべし」

と書き込まれていた。さらにその下に初年度を100としたときの物価指数が年率10%の上昇率で三十五年分打ち出されていた。三十五年後には物価指数は3000を超えていた。

 資料を読み終えるのを待っていたかのように丸山が話しかけてきた。

「西原さんが、インフレを考慮すれば、このプロジェクトは何の問題もないと言ってました。巨額投資は最初の5年間で、あとの年に運営費と維持費はコンスタントに掛かってくるが、知れている。インフレを運賃計算に組み込むようにとの要請でした」

と言う丸山の要請という文言が土岐の耳にひっかかった。

「要請?・・・よくわからないんですが、西原さんはこのフィージビリティ・スタディに対してどういう立場におられるんですか?わたしの理解では、わたしはACIのメンバーの一員として作業をしているつもりなんですが・・・ですから、王谷さんの要請ということであれば分かるんですが・・・」

「ああ、そういうことですか・・・それは、まあ、そうなんですけど・・・実質的に今回のプロジェクトの絵図を描いたのは西原さんで、それに扶桑物産の南田さんと一等書記官の白石さん、さらにはこの国の運輸大臣と国鉄総裁が乗っかったというかたちになっているんです。そもそも、この国の国鉄では誰も電化しようなんて考えていなかったんです。このプロジェクトが日本の政府系金融機関でODAの対象として採択されれば、西原さんも白石さんも南田さんもそれにうちの会社もみんな手柄になるんです。とくに、王谷さんは、このプロジェクトが採択されれば、うちの取締役就任の可能性が出てくるんで、必死です。このプロジェクトがおじゃんになれば、来年定年で、嘱託で残る道はあるけど、取締役と比べれば月とすっぽんで、・・・収入的にえらい違いですよ」

と語る丸山の話し方は、中年のおばさんのように、感情豊かで、言葉の端々に思いが込められている。言葉以上の情報が伝わってくるが、その信憑性については、なんとなく胡散臭さが感じられる。必要以上に誇張されているのではないかという疑惑が拭いきれない。そんなことを感じながら、土岐は漫然とデータの数値の上に目線を滑らせていた。

「それから・・・きのうのことですが、西原さんを批判したのはまずかったですね。あのひとには珍しく、反論しなかったので、たぶん土岐さんの言ったことが正しいんだろうとは思いますけど、・・・プライドの高い人みたいですからね。・・・けさも、土岐さんが南田さんと駅に行っていて、いないのを承知でここに寄ってますから、そうとうきのうの一件でカチンと来ていたんじゃないでしょうか。意趣返しがないといいんですけどね。ああいう、自尊心の高い人が自尊心を傷つけられたとき、どのくらいはらわたが煮えくりかえっているのか、ぼくみたいに自尊心のかけらもないような人間にはとても図り知ることができないです。・・・ぼくの会社でもあったことなんですが、部署の飲み会で部下が上司を酔った勢いでからかったら、その上司がそのことを根に持って、その部下を左遷した。その部下は、まさか飲み会で言ったことで自分が左遷されたとは思わないから、長い間どうして自分が左遷されたのか、配所の月を眺めながら、理由が分からなかったみたいです」

丸山に心配してもらったこともあって、土岐はとりあえず、インフレ率10%のケースと5%のケースを想定して、運賃収入を増加させてみた。5%の場合には、30年後でも、物価指数は4倍半の450程度にしかならない。インフレ率10%として、5年後から年率10%で運賃収入を増加させていくと、総額で約二千八百億円になった。これに対してコスト総額は、メンテナンス費用とオペレーティング費用が物価スライドで増加するため、約二千九百億円となり、プロジェクトの価値はマイナス百億円となる。土岐は、その収支尻を丸山に見せてみた。

「わずかの赤字ですか。万々歳ですね。これにしましょう、あしたのプレゼンは。みんなハッピーです」

と丸山は本当にうれしそうに小躍りした。彼が全身で嬉しさを表現しているのが分かった。彼も誰かから圧力を掛けられているのかもしれない。それは、王谷のみならず、東京本社の彼の直属の上司であるかもしれない。彼の喜びが土岐にも伝わり、彼の晴れやかな情感が伝染してきた。不覚にも口元が自然に綻んでくるのを土岐は抑え切れなかった。

 土岐はもう一度インフレの効果を確認した。5%のインフレ率では総収入は一千億円程度にしかならず、赤字基調は変わらない。このプロジェクトを黒字化させるためには10%程度のインフレ率が必要であることが確認できた。しかし、10%のインフレ率が30年以上にもわたって続く経済がどのようなものであるのか、土岐には想像もできなかった。

 午後から、報告書の清書にとりかかることにして、午前中はとりあえず図表の作成に専念した。インフレ率0%、5%、10%の三つのケースについて、図と表が完成したのは、十一時をかなり回った頃だった。一息ついていると、シュトゥーバが突然作業所に入ってきた。ほかのメンバーがいないのが意外のようで、部屋の中を尖った目で見回している。丸山はにこやかに挨拶したが、シュトゥーバはにこりともしなかった。いきなり土岐の隣に椅子を引き寄せて、

「財務分析の状況を説明してくれ」

と言う。土岐は、いまできたばかりの折れ線グラフを見せて、3つのケースについて簡単に訥々と説明した。シュトゥーバは半跏趺坐の弥勒菩薩のように細長い片足を組み、右手の人差し指を頬に当て、じっと聞き入っていた。土岐の英語が分からなくなると、土岐の目をじっと見る。そのつど、土岐は言い直した。

土岐の説明が終わると、首を左右に振りながら聞き取りやすい英語で話し始めた。

「年率10%のインフレが30年も続くという想定は、わが国の基本政策に反する。わが国が過去10数年間、年率平均10%のインフレを放置していたのは、財政赤字を中央銀行引き受けの国債発行で賄わざるを得なかったからだ。今年から、中央銀行総裁がシカゴ大学で博士号をとったマネタリストに代わり、赤字国債を中央銀行は引き受けないことを表明した。実際、10%のインフレ率はそれを支える貨幣増発で実現してきた。わが国の場合は、先進国のような中央銀行の政府からの独立性は必ずしも担保されていないが、それでも大統領は基本的に新中央銀行総裁のその表明を受け入れた。政府が赤字国債を増発すれば、市中金利が上昇し、クラウディング・アウトが起こる。あなたの国のように十分な家計貯蓄があれば別だが、わが国の国民はほとんど貯蓄をしない。いや、アメリカ国民のように借金をしてまで消費をするために貯蓄をしないのではなくて、貯蓄をできるほど所得がないのだ。したがって、わが国は緊縮財政を採らざるを得ない」

と土岐のヒアリングに大きな誤りがないとすれば、シュトゥーバはそんなようなことを話した。土岐は、彼に結論を確認した。

「ということは、今後30数年間、10%のインフレ率が持続するということはありえないということですか」

「そういうことだ」

 傍らで二人の会話を傍聴していた丸山が口を挟んだ。

「でも、資源価格も上昇しているし、3%程度の経済成長も見込めることだから、5%程度のインフレ率だったら、許容範囲内ではないですか?」

「資源価格の上昇はインフレとは違う。たしかに、物価を押し上げるが、コスト・プッシュは一過性のものだ。それに需給がゆるめば、資源価格は下落する局面も出てくる」

とシュトゥーバは丸山に説明するが、

(シビル・エンジニアのお前が何でそんな質問をするのか)

と訝しげな表情を見せる。土岐もたしなめるような目線を丸山に送ったが、それに気付いた素振りは見せなかった。

「とにかく、インフレは人心を荒廃させる。賃金はインフレに遅行してしか上昇しない。だから、インフレ率以上に価格の上昇する財貨を手に入れた者が、キャピタル・ゲインを手に入れて、額に汗して働く人よりも、優雅な生活を享受する。国民みんながキャピタル・ゲインの取得に走ったら、実体経済は崩壊する。日本の不動産でもアメリカの住宅でもオランダのチューリップでもそういうことがあったでしょ」

と言い切ると、シュトゥーバは別れの挨拶もせずに作業所を出て行った。ぴしゃりと閉じられた引き戸の音に彼の憤然とした思いが感じ取れた。

 丸山はシュトゥーバの見解をおおよそ理解したようだった。顔から先刻の喜色がすっかり剥げ落ちていた。しばらくのあいだ、机の上に目を落とし、何か思案を巡らせているようだった。

「あのぅ・・・シュトゥーバが最後に言ったことは、日本のバブル景気で踊った人のことを言ってたんですかね」

「さあ、彼がどの程度、日本のバブル経済とその崩壊のことを知っているのか?わたしだって、活字情報で知っている程度ですから・・・オランダのバブルの話はたぶん、チューチップの球根のことだと思うんですが、・・・それははるか昔のことだから、シュトゥーバだって、本か何かで得た情報だと思いますよ。彼が言おうとしたことはたぶん、

『待ちぼうけ』

という童謡のことじゃないですかね」

 『待ちぼうけ』

という曲名を聞いて丸山は素っ頓狂な面差しを土岐に向けた。

「『待ちぼうけ』?って、あの童謡の・・・」

 土岐は、音痴ではあるが、適当な旋律で歌ってみせた。

「♪待ちぼうけー、待ちぼうけー、ある日、せっせと、野らかせぎー、

そこへうさぎが飛んで出てー、ころり、ころげた木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー、しめた、これから寝て待とかー、

待てば獲物はかけてくるー うさぎぶつかれ、木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー きのう、桑取り、畑仕事―、

きょうはほおづえ、日なたぼこー うまい切り株、木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー きょうはきょうはで、待ちぼうけー

あすはあすはで森のそと、うさぎ待ち待ち、木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー もとは涼しいきび畑―、

いまは荒野のほうき草、寒い北風、木のねっこ・・・、おそまつさまでした」

「それって、北原白秋ですよね。

『待ちぼうけ』

ってバブルの歌だったんですか」

と丸山は心の底から感心したように首をひねって言う。

「言いたいことは、人間は一度、楽をしていい思いをした成功体験をしてしまうと、それが忘れられなくって、それを繰り返して、結局身を滅ぼすということだろうと思うんです。競輪、競馬、競艇、パチンコ、パチスロなんかがそうじゃないですかね。ただ、白秋のすごいところは、そうした個人のバブル崩壊が社会全体に及ぶということを教訓として歌っている点です」

「へぇー、経済も世相も荒廃するということですか・・・」

「いえ、これはわたしの勝手な解釈です」

丸山は突然、何かを思い出したように立ち上がると、

「白石さんと、お昼を一緒にしようかと思うんですが、いいですか?・・・じつはきのう、パーティーの帰り際に白石さんからあなたと昼食をしたいという誘いを受けていたんです。・・・いま、思い出しました。・・・すいません」

といやもおうも言わせないような語勢で言う。白石とは昨夜のパーティーでふた言み言、言葉を交わしたが、他人の情感をまったく忖度せず、傍若無人な言動をとるような印象を抱いた。自分の考えを一方的に押し付けてくる白石のような人間を土岐は好きではないが、

「ええ、構いませんよ」

と答えざるを得なかった。

 白石が指定したインド料理店にタクシーで向かった。国鉄の作業所から十分程度のところだった。車の中で、丸山が先刻のシュトゥーバの話したことについて聞いてきた。

「さっき、新中央銀行総裁がシカゴ大学で博士号を取ったって言ってたでしょ。それとインフレとなにか関係があるんですか?」

 土岐にとって簡単に説明するのが難しい質問だった。完全に理解していない人間が経済学の素養のない人間にうまく説明できるわけがない。土岐は適当に答えた。

「金利を下げて貨幣供給量を増やせば、景気を良くするという考え方が一方にあるんです。シカゴ大学の連中は、景気の動向はあくまでも実体経済の潜在成長力に依存するから、貨幣供給量だけでは景気は良くならないと考えているんです。実体経済の潜在成長力以上の貨幣供給を増加させると、インフレーションになると主張するのがシカゴ大学を中心とするマネタリストの連中なんです」

「そうすると、新総裁はどうするんですか?」

「この国の潜在成長力以上には貨幣供給量を増やさないということでしょう。だから、インフレーションは起こらない」

「でも・・・先進国でも、不況になると中央銀行が金利を下げて、貨幣を増やすんじゃないんですか?」

「不況対策としては、貨幣は経済をさらに悪化させないという程度の効果しかもたないんです。貨幣を増発してもそれが実需に向かわずに、退蔵されるだけという流動性のワナに経済がはまるだけで・・・すいません。マクロの経済政策はわたしの専門じゃないんで、うまく説明できません。・・・でも、多くの国のインフレで実証されているように、貨幣が増発されると確かにインフレになるんです。かつてのメキシコやブラジルやロシアもそうでしたし、戦前のドイツの事例が有名で、最近の事例だと、確かベトナムがそうで、・・・日本の場合だと、第一次オイルショック直前の狂乱物価のことがどこかの教科書にのっていました」


首都の街中のどこをどう走ったのか、皆目見当がつかなかった。インド料理店は門構えはだけはタージマハルのようなイスラム調の佇まいだった。白い大理石がふんだんに用いられていた。ウエイターはシーク教徒のターバンを頭に巻いていた。白石が予約を入れていたようで、丸山が白石の名を告げると、

〈reserved〉

と書かれたカードが置かれたテーブルに案内された。

「よかった、白石さんはまだきていなかった」

と丸山はおちょぼ口で安堵に頬を緩める。

 テーブルは方形の紫檀で、床の白い大理石とのコントラストが鮮明だった。高い天井にはマリン・ブルーの地に白いアラベスクの紋様が稠密に描かれ、そこから吊るされた首の長い扇風機が鷹揚に回転していた。

 しばらくすると、半そでシャツに蝶ネクタイを締めた白石が現れた。言いようのないちぐはぐな格好に可笑しさがこみ上げてきたが、土岐はじっと堪えた。

 テーブルに着くなり、

「料理はもう注文してあるから・・・」

と白石は当然のように独善的に言う。

「お世話様です」

と丸山は媚へつらうように礼を言う。彼の本心なのか、それとも営業的なトークなのか、截然としない。

「タンドリチキンとナンとヨーグルの簡単なメニューだけど、・・・何か飲みものは?」

と言いながら白石はウエイターを手招きした。土岐は、

「今日の午後はあしたのプレゼンの資料を作成しなければならないんで・・・」

と暗にアルコールの注文を断った。

「いや、紅茶かコーヒーか、どちらか、とうことで・・・」

と白石は土岐の受取り方に非のあるような口調で言う。

「ぼくは、ミルクティー・・・チャイで・・・」

と丸山がなんの屈託もなく速答した。

「じゃあ、わたしもミルクティーで・・・」

と土岐は丸山にならった。

「ものすごく甘いけどいいかな?」

と白石が土岐の無知を懸念するように念を押す。土岐は曖昧に首を縦に振った。白石は飲み物の注文をウエイターに告げると土岐に聞いてきた。

「改正されたプロジェクトの現在価値はいくらぐらい?」

「10%のインフレが30年程度続くと想定すればかろうじて百億円の赤字に収まります」

と言うと、白石は顎をしゃくりあげるようにして、すこし頭をかしげた。

「オペレーティング・エンジニアの山田さんは、オペレーション・コストの算出で、ラーニング・バイ・ドゥーイングを斟酌したんだろうか?」

「斟酌しているのかどうか、分かりませんが、ラーニング・バイ・ドゥーイングについての注記はありませんでした」

 そこで、

「えっ?」

と言いたげに、片方の眉の端を鋭く吊り上げた丸山が質問した。

「ラーニング・バイ・ドゥーイングって何ですか?」

 土岐は目で白石の許可を取って丸山に説明した。

「OJT・・・オン・ザ・ジョブ・トレーニングみたいなもんで、作業をすることによって能率が向上するというようなことです」

 土岐の説明に白石は何の反応も示さなかった。興味がないのか、どうでもいいのか、彼はウエイターが運んでくるタンドリチキンに目を奪われていた。

 各自の目の前に銀の大皿に乗った半身の小ぶりのタンドリチキンが出された。白石が手をつけるのを合図に土岐と丸山も香辛料にまみれたチキンの丸焼きにフォークを突き立てた。

「メンテナンス・コストとオペレーティング・コストには、それなりの節約が期待できるので、反映させてください。たぶん、山田さんは日本の感覚で、そういったコストを算定していると思うんですが、技術の向上やコストの節約を考慮しないというのは、この国の人々に対して失礼でもあるし、そもそも、わが国の援助精神にも合致していない」

 援助精神と聞いて、丸山がタンドリチキンを毟り取る手を一瞬休め、白石の顔を見た。

「要請主義ということですか?」

「いや、無償援助よりは有償援助、低金利よりは市場金利で、という考え方です」

「グラント・エレメントをより少なくということですか?」

と土岐が言い終わらない前に、丸山が酔いから醒めたようなとろんとした目付きで説明を求めるように土岐の方に顔を向けてきた。土岐は白石が土岐の質問に答えないのを確認して丸山に説明した。

「国際資本市場で金利10%で資金調達した場合を0%として、援助による資金供給の条件・・・金利や据置期間や償還期間なんかの条件が緩くなるとエレメントが大きくなり、無償援助の場合は100%になる。つまり、贈与部分のことをグラント・エレメントというんです。DACが、しち面倒くさい換算式を定義していますけど・・・この条件が25%を超えないと援助として分類されないことになっているんです」

 土岐の言葉尻を奪うように白石が早口で話し出した。頭の回転に舌の回転が追いつかないようで、ときどき舌足らずな言い方になる。

「ご案内のように日本は、グラント・エレメントが少ない。それを指摘する欧米人がかなり多い。その受け売りで発言したり、文章にしたりして批判する日本の評論家も多い。しかし、国際機関では日本のODAの規模が評価されている。つまり、途上国に資金供与すること自体がリスクだから、そういう巨額のリスクをとっていることが評価されている。グラント・エレメントを少なくし、ODAの規模を大きくするというのが日本の方針だ。かつて明治維新以降、近代化の道を歩んだ日本がそうであったように、借りたお金を返済する過程で、鋭意努力するという国民性や国力が涵養される。グラント・エレメントの多い援助がいい援助だとする風潮は誤りだ。そういう援助はその国を援助依存症に追いやる。日本の援助は被援助国の自助努力を促すことに重点を置いている。自助努力の養成こそが最大の援助という認識だ。今回の国鉄電化プロジェクトも低利ではあるが、グラント・エレメントがかろうじて25%を上回る程度になるはずだ。そうであるからこそ、この国の国鉄のメンテナンス・コストとオペレーティング・コストにも自助努力のあかしとして生産性向上の目標を組み込んでもらいたい」

「天は自らを助ける者を助ける、ということですかね。・・・あっ、それじゃ日本が天ということになって、すこし傲慢になりますね。でも、累積債務が肥大化すると、努力して返済しようという意欲がかえってそがれるという側面もあるんじゃないですか?」

と丸山は一知半解の軽い調子で言う。からかわれたと思ったのか、一瞬、白石の表情のこわばるのが分かった。丸山もそれを察知したようだった。丸山に対する好意のつもりで、

「わかりました。維持費と運営費に生産性の向上を考慮してみます。それ以外にも、収支両面での経営努力も別項目で考えてみることにします」

と思わず言ってしまった。言った後で、土岐は自分の言ったことを修正した。

「でも、どうなんでしょう。これは、文献で得た知識ですが、日本の国鉄の失敗は全く考慮しなくていいんでしょうか?」

 丸山がすぐ反応した。

「国鉄って、いまのJR?」

「ええ、・・・国鉄は昨夜、西原さんが言ってた消費者余剰の概念を使って、事業自体は赤字であっても、それから国民が受ける便益が膨大だ、という根拠で、赤字を放置し、その赤字が返済不能になって、制度設計それ自体に誤りがあったということで、民営化されました」

と土岐は耳学問を披露した。

 白石は黙って聞いている。丸山は知らないことがあるとすぐ質問してくる。

「制度設計のあやまりって、なんですか?」

「西原さんの話は、乗客サイドだけの話でしたけど、日本の国鉄の制度上の誤りは、赤字が発生した場合、政府が自動的に補填したことです」

「でも、西原さんの議論では、乗客の利益がそれを上回ればいいということじゃなかったんじゃないですか?」

と聞く丸山は聴き上手だった。話し手の腰を折ることなく、適切な質問をしてくる。

「問題は輸送サービスを提供する側のモラルなんです。どんなに不効率なかたちで輸送サービスを提供しても、赤字分は政府が補填してくれるということであれば、効率を高めようというモチベーションがなくなるんじゃないですか。西原さんの議論が正論となるためには、たとえ、赤字分を政府が補填するとしても、またどんなに頑張ったとしても赤字にならざるを得ないとしても、精一杯効率的に働くという前提が必要なんです」

「JRの前身の国鉄にはそのモラルがなかった?」

「どうなんでしょう。国鉄の職員だからということではなくて、誰だってそうなりませんか?赤字をこしらえても、全く責任を問われない。しかも、どうやったって、安い運賃設定を政府に強要されていれば、黒字にはならない。だったら、手を抜こう・・・」

 白石が土岐と丸山のやりとりにくぎを刺した。

「モラルの問題は、やりはじめたら収拾がつかなくなる。性善説で考えるしかないでしょ」

 野菜とヨーグルトがテーブルに並べられた。土岐はすこし口に含んでみたが、うまいものではなかった。いずれにしても、タンドリチキンは土岐の口には合わなかった。香辛料の効きすぎが理由だと思われた。かえって食欲がそがれたような気がした。

 白石が話題を変えてきた。

「きのう土岐さんから扶桑総研の名刺をもらったけど、本当の所属は東亜クラブじゃないの?」

「現在は短期出向のような形で、扶桑総研の所属になっていますが、このプロジェクトが終われば、東亜クラブに復帰します」

と答えつつも、白石が土岐の所属を知ってる理由が分らなかった。

「そうすると、ACIと扶桑総研がこの種のODAの事前調査で財務分析について業務提携のようなものを結ぶという、話を聞いたんですが・・・そのたびに土岐さんが短期出向するということですか?」

と丸山が白石の顔色をうかがいながら聞いてきた。

「そのへんはまだ不確定です。じつはいま、大学の新設学科の設置申請で、専任教員の一人として文科省で審査を受けています・・・かりに、来年度から専任教員になってしまうと、あまり自由が利かなくなるので、この種の海外出張は難しくなるかもしれないんです。扶桑総研もODAがらみの財務分析のスタッフがいないようなんで、・・・いまのところわたしについては、なんとも言えない状況です」

「文科省で審査ね・・・知っている連中は結構いるけれど・・・」

と白石は何かを言いかけたが、見下したような含み笑いで語尾を濁した。

 食後、丸山が代金を支払った。白石はそれが当然であるかのように、先に帰って行った。


 作業所に戻ってから、白石に言われたとおり、維持費と運営費について経営努力を勘案し、定率で減少するように金額を修正した。その結果、プロジェクトの現在価値は五十億円の赤字に削減された。西原が主張した消費者余剰の増加を過剰に勘案すれば、社会的な純利益が発生する。しかし、白石のコストの低減にかんする想定は、西原のインフレの勘案と矛盾する。インフレは経済全体の現象だから、運賃のみに物価上昇を反映させて、維持費と運営費には経営努力を考慮して、ゆるやかに反映さるというのは片手落ちになる。インフレによる人件費の高騰とモラルの低下を考慮すれば、経営陣だけの経営努力による経費節減は吹き飛ぶ可能性がある。その結果、プロジェクトの赤字はあまり改善しないことになる。土岐が考えあぐねていると、丸山は心配そうに助言してきた。

「白石さんの意見と西原さんの意見は、わずかでもいいですから、入れてください。わが社は今回のフィージビリティ・スタディは赤字で、この後の本調査で利益を上げる予定なんです。コンサルタント会社を選定するのは、この国の国鉄総裁ですが、この人は日本大使館の言いなりなんで、西原さんと白石さんの心証を害すると、かりにODAが付くことになったとしても、本調査を他社に持って行かれることにもなりかねないんで・・・」

 土岐は悩んだ。白石と西原の横やりを財務分析に取り入れれば、プロジェクトの赤字が縮小されて、ODAのつく可能性が高まり、成功報酬の残金の九十万円が遠のく。逆に、かれらの提言を排除して、適正に財務分析を行えば、ACIが本調査の受注を逃し、ACIと扶桑総研の業務委託関係が破談になる可能性がある。その業務は土岐が引き受けることになるので、そうなれば土岐に逸失利益が生じる。金額的にはおそらく九十万円以上になるだろうが、時期的には将来のことであり、不確定性が高い。いずれにしても、時間がたてばたつほど、母の白内障は確実に進行する。

最終的に土岐は西原のインフレの勘案と白石の経営努力による経費節減を個別に財務分析に織り込むことにした。プレゼンテーションでその矛盾を指摘されれば、

「今後の検討課題とします」

と逃げざるを得ない。

土岐は、そこまでのデータをもとにして、プレゼンテーション用の資料の作成を始めた。丸山は傍らで、領収書の束を整理していた。

「プレゼンテーションは一時間ぐらいですか?」

と土岐は手を休めた丸山に確認した。

「報告が三十分程度で、あとは質疑応答です。いまのところ、三時ごろからの予定です。・・・あっ、言うのを忘れていましたが、王谷さんが、あすの午前中に一回、予行演習してもらいたいと言うんですが、いかがですか?」

「大丈夫です。資料は今日中にできると思います」

「大変ですね。プレゼンテーションするのはあなた一人ですから、われわれエンジニアの話は国鉄総裁には分らないと思うんで、・・・どっちにしても、金銭的な結論が最も重要なんで・・・まあ、頑張ってください」

と丸山は慰労のことばを忘れない。

「国鉄総裁に聞かせるんですよね。表敬訪問もしていないけど、大丈夫ですか」

「それなら、王谷さんが、ここに来たときに、プロジェクト・チームを代表して行っているからいいと思います」

 広い作業所で、丸山と土岐の二人だけの作業が続いた。プレゼンテーション用の資料は五時前にほぼ完成した。そのことを、土岐が丸山に告げると、

「じゃあ、帰りますか」

と国産の腕時計を見ながら言う。彼の作業もほぼ終わったようだった。

 帰りのタクシーの中で、

「明日は、ホテルの玄関に十時前にお願いします」

と丸山が疲れきったような声で思い出したようにぽつんと言う。

「ずいぶん、遅いんですね」

「電信関係の連中、・・・松山さん、浜田さん、畠山さん、川野さんたちが、一足先に、プレゼンテーション終了次第、その足で空港に向かうんで、荷造りやら、荷物の整理やら、チェックアウトやらで時間が欲しいそうです」

「わたしも含めて、残りの人はあさって帰国ですか?」

「そうです。王谷さん、吉川さん、山田さん、高橋さん・・・総勢6名ですか。飛行機の予約の方は、けさコンファームしておきましたから・・・」

「そうですか。なにからなにまで、お世話になりました」

「いあや、まだ、あしたが残ってます。国鉄総裁には、南田さんと一緒に、ずいぶんと鼻薬を嗅がせましたけど、・・・」

と言いかけて、丸山は口をつぐんだ。しばらく、土岐の反応をうかがっているようだった。土岐は何も言わずに黙っていた。丸山は黙っていられなくなって、

「うちと南田さんの扶桑物産との間で、ずいぶんと裏金のキャッチボールやロンダリングをやっているようです。一社で裏金をプールすると摘発されるおそれがあるけど、資本関係のない二社の間で取引があったように見せかけて、海外子会社経由でやれば絶対に国税庁に尻尾を捕まれないらしいです。ぼくは手口は良く知らないんですけど・・・」

と言って中途半端に笑いかけてきた。そのうちにホテルに到着した。

 シャワーを浴びてから、土岐は一階ロビーに降り、コンシェルジェのデスクのパソコンを使ってメールを送信した。

@土岐明調査報告書・現地第5日目、早朝、南田の案内で駅舎を見学しました。乗客予測の上積みを要請されました。作業所で西原からのメモを受け取りました。そのメモでインフレを考慮し、運賃収入を水増しするようにという要求を受けました。昼食を白石と共にし、白石から経費削減努力を盛り込むようにとの強い示唆を受けました。午後は、財務分析レポートを作成しました。なお、今回のプロジェクトの発案者は西原で、プロジェクトにODAが付けば、西原、白石、南田ともにその業績を評価されるようです。商社と大使館の画策したプロジェクトであり、純粋に現地政府が我が国に要請したものとは考えられません。また、プロジェクト・マネージャーの王谷はACIの重役のポストがかかっているようです。さらに、証拠はないがACIと扶桑物産の海外子会社間で脱税により、裏金作りをしている模様です。以上@


九 現地第6日目


 翌日の金曜日、午前10時すぎからプレゼンテーションの予行演習が始まった。南田がプロジェクターとスクリーンを扶桑物産の現地事務所から持って来た。先に帰国し、東欧に飛んだトランスポート・エコノミストの中井を除くコンサルティング・エンジニアリング・サービスのチーム全員と南田が土岐のプレゼンテーションに耳を傾けた。最初に、土岐は断った。

「午後からは英語でやりますが、ここは、日本語でいいですか?」

「いいでしょう。そのほうが間違いがない」

と王谷がスクリーンの一番前の席で腕を組みながら言った。

「それでは、はじめます」

 丸山が作業所の蛍光灯をすべて消した。スクリーンに、

〈THE ELECTRIFICATION OF THE SUBURBAN RAILWAY NETWORK〉

というタイトルが浮かび上がった。土岐は、咳払いをしてプレゼンテーションを始めた。

「このプロジェクトの主要な目的は、二つあります。一つはエネルギー効率の悪いディーゼル機関から電気機関に代えることにより、エネルギー消費を節約し、石油の輸入代金を削減すること。二つ目には、正確なダイヤと列車速度の向上による経済効果により、この国の首都近辺の経済成長を促すことです」

 スクリーンには英語でキーワードだけが、箇条書きになっている。最初の画面の説明を終えて、ノートパソコンの前にいる丸山に視線を送ると、彼の指がエンターキーを叩き、画面が次に進んだ。

「最初に、売上の予測です。準備期間が一年、その後の4年間は建設期間で、6年目からの乗客と貨物の自然増による需要増加は、実質ベースで年率3%成長を見込んでいます。さらに、一人当たりの所得増加による需要増加と諸物価の高騰の上積み分を年率10%として算定し、それらを割引率3%で現在価値に直すと、日本円換算で二千八百五十億円になります」

 そこで、王谷からとがめるような声がかかった。

「インフレのことは言う必要はないんじゃないの?」

 その意見に南田がすかさず同調した。

「インフレ率10%はちょっと問題ですね。あえて言わないほうがいいような気がしますが・・・」

 丸山はきのうの午後のシュトゥーバの話を思い出したように、激しく頷いている。シュトゥーバは新中央銀行総裁はインフレを抑制すると評していた。

 吉川が王谷の方を見て小さく手を上げた。

「ちょっと、よろしいですか?」王谷は鷹揚に斜めに許諾の首を振る。

「その・・・現在価値ってなんですか?こちとら、財務については素人なもんで・・・すいません。初歩的な質問で・・・」

 土岐は王谷の許可を得ずに勝手に説明を始めた。

「現在価値というのは将来の価値を現在の時点で評価した価値という意味です」

 王谷が不快そうに組んでいた腕を左右逆に組み直す。丸山がそれを察知して心配そうに土岐に目配せする。土岐は説明を続ける。

「要するに、将来の金額は現在の時点で現在の金額と比較すると金利分安くなるということで、その安くなる利率が割引率ということです」

と土岐は吉川の眼を見て解説するが、吉川は王谷の顔色をうかがっている。

王谷が念を押すように強圧的に言う。

「いい?・・・今日のプレゼンテーションはあくまでも国鉄総裁に対する説明で、青臭い学会での発表とは違うんだ。いまの国鉄総裁は、大統領の親戚というだけの理由で、総裁の椅子に座っているぼんくらで、このプロジェクトで、自分の懐にいくら金が転がり込んでくるかということ以外にはなんの興味もない人間なんだ。細かい説明は要らない。蛇足というもんだ」

 王谷のことばのひとつひとつが土岐の神経につき刺さった。腹蔵からむかむかと込み上げてくるものがあったが、じっと堪えた。こめかみをしめつけられるような感覚があった。

「それでは、結論だけでよろしいですか?」

と土岐は感情を抑えてはいたが、声がすこし震えているのが自分でもわかった。

「しろうとにも分かる程度で、・・・へんな質問をされたら、あんたも困るでしょ」

と言う王谷の意見に従うことにした。

「それでは、つづきから・・・」

と言いながら、土岐は丸山がスクリーンの画面を次に進めるのを待った。

「最初に、売上の予測についての説明です。プロジェクトの評価期間を35年として、6年目の電化工事完成年次からあとの30年間に発生する収入を割引率3%で計算すると、収入総額の現在価値は日本円で二千八百五十億円になります。一方、費用の方は、最初の5年間に集中して発生し、6年目からは運営費と維持費だけになり、これも3%の割引率で現在価値に直すと、日本円換算で二千九百億円となります。したがって、プロジェクトの現在価値は五十億円のマイナスとなりますが、消費者余剰を考慮すると、社会会計的にはかなりの黒字になることが期待されます」

 腕組みをして王谷の隣で聞いていた吉川が短い足を投げ出して、頓狂な声を出した。

「えっ?それだけ・・・五分も話していないんじゃないの」

「いえ、これはアブストラクトで、全体の要約です」

と土岐はなだめるようにして言った。松山は項垂れて、軽い鼾を洩らしている。他の連中も、丸山を除けば、目は開いてはいるものの抜け殻のようで、静聴はしているが、拝聴しているようには見えなかった。

「まあ、ここにある目次によると、最初に結論を提示して、あとから細部の説明をするわけね」

と王谷がチェーンのついた眼鏡をはずして、手元のレジュメを裸眼で確認している。

「ええ、そのつもりです」

「問題は2つある。一つは消費者余剰。あんたは熟知しているから簡単に説明できると思っているかもしれないが、国鉄総裁はたぶん理解できないと思う。自分が理解していることを自分が理解しているように説明すれば、誰でも分かると思っているかもしれないが、それは相手のレベルが自分と同じか自分より上の場合だけに限られる。あの国鉄総裁はどうみてもあんたよりレベルは下だ。したがって、社会会計的に消費者余剰を含めれば黒字だという説明はまずい」

と言いながら王谷はレジュメのその文字をボールペンの先で激しく叩いた。

「それでは・・・」

と言いながら、メンバーの顔を一人一人見渡してみたが、土岐の目線に答えようとするエンジニアは一人もいなかった。

王谷だけが答える。

「そのさ、・・・割引率3%の根拠だけど・・・」

「アメリカの財務省証券の長期国債の利回りです」

「そんなことはどうでもいい。それを引き下げれば、黒字になるでしょ」

 王谷の言う通りだった。巨額のコストは最初の5年間に集中している。複利計算で割引いても、それほど小さな金額にはならない。それにたいして、プロジェクト評価の最終年の35年目の売上は、3%で割引くと、名目金額の35%程度になる。つまり、65%割り引かれることになる。かりに、割引率を2%にすれば、35年目の金額は半分程度にしか割引かれない。割引率を1%引き下げれば、売り上げの現在価値は15%ほど増加する。

「たしかに、割引率を引き下げれば、このプロジェクトは消費者余剰を考慮しなくても黒字になります」

「そのほうが、国鉄総裁には分かりやすいんじゃないの。あんたも扶桑物産の事務所で西原さんに言ってたじゃない。消費者余剰の評価は、ディーゼルから電化への増加分でしかないって。そうだとすれば、消費者余剰の評価分なんてわずかなもんでしょ。・・・できれば、その割引率という言葉も、しろうとでも分かるように言い換えたらどう?」

「3%という割引率については、世界中の金融機関や投資家やディーラーやファンドマネージャーたちが市場で形成した値なので、これを恣意的に変えるというのはできない相談です」

と土岐はきっぱりと言った。心臓の鼓動が激しくなった。丸山が心配そうな顔色で王谷と土岐の表情を交互に見比べている。

「あんた、そんな市場で他人が決めたものをそのまま借用するなんて、それじゃ、何のための財務分析なの。あんたフィナンシャル・アナリシス・スペシャリストでしょ。プロジェクトを成功させるためにやりくりするのが財務分析じゃないの?長期金利なんか景気動向次第でいかようにでも変動するでしょ」

「それでは、世界中の金融関係者が膨大な情報を元にして出してきた割引率を無視して、ノートパソコン一台で、わたし独自の割引率を出すということですか?」

と言いながら、声が震え興奮してくるのが自分でも分かった。心臓の鼓動が下半身に伝わり、ひざがすこし震え始めた。

 土岐と王谷のやり取りで、松山が目を覚ましたようだった。両脇に座っている浜田と畠山の顔を見渡して、

(何事か?)

というような寝ぼけた顔をしている。

「あんた独自の割引率というような、偉そうなものではなくて、プロジェクト独自の割引率ということだ」

「と、いいますと・・・」

「あんたも鈍いね。黒字になる割引率ということだ」

 そこで吉川が副プロジェクト・マネージャーという立場で顎をくしゃくしゃさせながら、とりもつように口を挟んだ。

「土岐さん、米国の財務省証券の長期金利が下落する理由付けはいくらでもできるでしょ。たとえばアメリカの財政赤字がさらに拡大して、大量の財務省証券が発行されて、価格が下落して・・・」

と言いかけたところで、野武士のような風貌の山田が笑いながらかすれ声で言った。

「それじゃ、長期金利が逆に上昇しちゃうでしょ」

「あっそうか・・・もとい。アメリカの財政赤字が縮小して、長期債の発行が縮小して、財務省証券の価格が上昇して、長期金利が下落するとか・・・」

 王谷が鼻先で、小馬鹿にしたように、

「ふん」

と笑い、うんざりしたように苛立ち気味に決断を下した。

「そんなことはどうでもいい。土岐君、・・・わしはこのプロジェクト成功の全責任を負っている。だから、わしの指示に従って欲しい。割引率を下げて、このプロジェクトを費用と収入の金額だけで黒字にする・・・いいね。消費者余剰だなんて言ったって、国鉄総裁には分かりはしないんだよ」

 承知せざるを得なかった。王谷の不快さがこめかみの血管に浮き出ていた。

「わかりました。そうします」

と土岐が答えると、馬面の南田が追い討ちをかけるように話し始めた。

「ようするに初期投資の融資をその後の売上で返済するわけだけど、融資がODAであれば低利のわけだから、割引率もその利率でいい訳でしょ。国際市場金利である必要はないでしょ」

「すいません。資金返済計画も年次別にキャッシュ・フローの一覧表にしてあるんですが、ODAの低金利を最初から想定していないので、・・・」

と土岐は弁明した。そこで、口を挟んできたのは白蝋のような顔をした山田だった。

「それもそうだねぇ、最初からODAを当て込んで、財務分析するのもねぇ。どうなんだろうね、公的金融機関は、そういう財務分析を見てどう感じるんだろうか。自分たちがまだ、融資を決定していないのに、ODAを見込んでプロジェクトが見積もられているとすれば、権限を干犯されたと不快に思うんじゃ・・・」

 それに対して王谷が否定するように顔の前で手のひらを左右に振りながら答えた。

「そんなことはない。公的金融機関は政治的に融資している。確かに、審査はすることはするが、交換公文が取り交わされることが政治的に予定されていれば、審査は形式的なもので、なおざりだ」

 会話はそこでひとまず釘が刺された。電気関係のメンバーはこうしたやりとりをまったく理解していないようだった。いずれの表情もうつろだった。さすがに私語はしないが、

「早く終わればいい」

という思いがどの顔からも読み取れた。

 この一週間、ひとつひとつ積み上げてきた数字のピラミッドが、王谷が吹きかける風にあおられて崩壊して行くようだった。ひとつひとつに意味を持たせてきた金額のヒエログリフが意味のない絵文字に変換されて行く。その上に砂塵が舞い、砂粒の中に表計算のアルゴリズムが埋没して行く。

 しばらくの沈黙が作業所にあった。土岐は、その沈黙を破る義務があるような気がして、丸山に聞いてみた。

「シュトゥーバは出席するんですか?」

「もちろんです」

 王谷は金メッキのライターで火をつけてダンヒルを吸いはじめた。土岐は胸につかえるような憤懣のはけ口を求めて質問した。

「財務副部長のシュトゥーバに、割引率のことを聞かれたらどう答えましょうか。プロジェクトの現在価値が黒字になるように決めたとは言えないと思うんですが・・・」

 王谷はゆっくりと煙を吐き出し、少し考えているようだった。一同の視線が王谷の吐き出す紫煙の行方を追っている。やがて王谷はタバコの灰をゆっくりと灰皿に落としながら、

「『込み入った予測をしているので、速答はできないが、あとで個別にゆっくりと説明します』

とでも言っとけばいい。・・・いずれにしても、プロジェクトの黒字を疑うような質問に対してはその場で回答するする必要は一切ない」

と言い切った。

 土岐の腹の底で押さえ込んでも、押さえ込んでも沸々と沸きあがってくる熱いものがあった。そのあと、土木工事費、軌道工事費、建築工事費、駅舎工事費、電化工事費、信号工事費、電信工事費、車両基地建設費、予備費、車両費などの項目別にスライドを見せたが、説明の口上は上滑りしていた。それぞれについて、現地労務費、現地資材調達費、輸入代金、外国人技術者報酬などの明細を形式的に映写しているだけだった。

 最後に、収入予測の前提の一覧表を映し出したが、

「これは出さない方がいい」

と王谷に指摘される前に自分の方から割愛を申し出た。そういいながら、忸怩たる思いに苛まれた。プレゼンテーションを終えるに当たり、最後に王谷がダメを出した。

「ディーゼル機関を電気機関に変えることで、かなり石油が節約されるはずだ。その節約分が計算されていないね。そもそも、このプロジェクトの出発点は、省エネにあったんだから」

「確かに、石油が節約されるはずで、その分、現在のランニング・コストよりいくらかは安くなるはずです。わかりました。プロジェクト自体の採算とは直接関係はありませんが、ディーゼルをやめることによって節約される金額を注記しておきます」

「いや、注記じゃなくて、社会会計として、節約分をプラスでカウントしておけば、プロジェクトの採算が改善されるでしょ。どうせ、国鉄総裁には鉄道単体の財務会計と、それ以外の消費者余剰だとか機会費用だとかを含めた社会会計の違いなんか分かりゃしないんだから。いいね、くれぐれも責任者である私の指示に従ってほしい」

と言う王谷の話しぶりには有無を言わせない圧力感があった。土岐は反論することができなかった。財務分析が真実からどんどん遠ざかって行く思いがした。それと同時に、プロジェクトが頓挫した場合の成功報酬としての九十万円も遠のいてゆく喪失感があった。

土岐と丸山と南田の三人で、プロジェクターとスクリーンの片付けを終えると、昼近くになっていた。

 昼食後、割引率を2・5%に引き下げて、プロジェクトの現在価値を黒字に変えた。それに対応して、割引したすべての数表の金額も変更した。その金額を使ってプレゼンテーション資料を作成し終えると三時近くになっていた。丸山は傍らでスライド画面の資料をコピーする作業を手伝ってくれた。他の連中はゆっくりと昼食をとった後、作業所に戻ってきて、土岐と丸山の作業をときどき片目で追いながら、きのうの観光旅行の感想や思い出を語り合っていた。

「さあ、そろそろ行くか」

と王谷が号令をかけた。南田がプロジェクターとスクリーンを置いて、扶桑物産の事務所に帰ってしまったので、その荷物を中年グループの最年少の畠山と川野が持つことになった。プロジェクト・チーム内に暗黙の序列があるようで、畠山も川野も誰かに命じられたわけではなかった。土岐はノートパソコンを抱え、丸山はレジュメのコピーを脇にはさみ、プロジェクターのケーブルを輪に巻いて手にした。

 作業所を出て、国鉄の庁舎に向かうとき、最初から負け戦にもかかわらず、敵地に乗り込むような高揚した気分を土岐は感じていた。プロジェクトのメンバーは土岐以外は発表する予定はないが、予想外の質問が出た場合には、担当者が返答することになっていた。メンバーは戦場に向かう武士団のようで、それなりに心強いものではあったが、土岐にとってはプロジェクトの採算が合うという結論を言わざるを得ない敗北感があった。

 国鉄総裁の部屋は最上階の3階の北隅にあった。二十畳ほどの広さで、中央に畳一枚ほどの大きさの総裁の机があり、書棚がないため、その周囲に赤い紐でくくったおびただしい数の書類の山がうずたかく林立していた。

 スクリーンは総裁の机の前に立て、机とスクリーンの中間にプロジェクターを設置した。パソコンはその左傍らの木製のスツールの上に置き、丸山がその前で床にしゃがみこんでエンターキーを操作することになった。メンバーはそれぞれのスツールに腰掛け、王谷だけ国鉄総裁の右隣の籐椅子に座った。総裁以外の国鉄側の出席者は、財務副部長のシュトゥーバとシュトゥーバよりも肌の黒い財務部長だけで、その他の国鉄職員は総裁室の外の廊下からスクリーンをのぞき込むことになった。丸山は廊下の観客のためにスクリーンの角度を少し調整した。一番前の職員はコンクリートの床に座り、その次の職員が中腰になり、最後列の職員が背伸びをするような形で、全部で十数名の職員が総裁室の出入り口に鈴なりに首を並べている。

 丸山が土岐に目配せをして、

「ぼくが進行役を務めますんで・・・」

と言いながら、総裁の机の傍らに立って英語でプロジェクトと土岐を紹介し、部屋の照明を消し、ノートパソコンのエンターキーを叩いた。

土岐は用意してきた英文の説明書を緊張で小刻みに震える左手に握り締めながら、プレゼンテーションを開始した。

「国鉄の電化には初期投資に莫大な資金が必要になります。現行のディーゼル機関の拡充と比較しても、かなりの追加投資を必要とします。しかし、運営費はディーゼル機関よりもかなり安くつくはずです。こうした調査はすでにEUのコンサルティング会社が報告しているところです。そこでは可能な限り早く電化プロジェクトを推進することが勧告されています。今回のわれわれの調査も同じ結論に達しました。さらに言うならば、最近の石油価格の高騰によって、早急な着手が望まれるところです」

と総論を述べながら、ポイントを箇条書きした英文のスライドを見せた。緊張のあまり、土岐は自分で自分の言っていることをフォローできなかった。ときどき、言い間違えたのではないかという不安におそわれた。

「最初に、収入面ですが、乗客一人・1マイルあたりの収入と予想総乗客数・総マイル数を掛け合わせることによって求めました。もとより、運賃は国鉄による政治的な判断で決定されることではありますが、われわれは現行の水準をもとにリーズナブルな金額を想定して計算しました。とりあえず、乗客一人・1マイルあたり1円を想定しました。現在の国鉄の収入は、乗客が7割、貨物が3割になっています。この傾向は今後とも続くものと考えます。需要の増加については経済成長や国鉄の経営努力に伴う自然増が年率3%、一人当たり所得の増加に伴う需要増が年率3%と予測し、それらに伴う物価上昇による運賃の引き上げも勘案しました。物価上昇については過去の消費者物価の趨勢を考慮しました」

と言いながら、運賃単価の表、予想総乗客数・総マイル数の暦年表、需要予測の表、過去の物価上昇の一覧表などを順に見せていった。心臓の激しい鼓動がこめかみに伝播しているのがわかった。

「次に、費用面ですが、おもな支出項目は、土木、軌道、建築、電化、信号、電信、機械、機器、車両基地、車両、予備、維持、運営、電気などです。これらの支出項目についても、将来の物価上昇によるコストアップと経営努力によるコスト削減を考慮しました」

 費用面については、とくにコメントすることなく、支出項目別に機械的に見積表を順送りした。丸山の画面送りのタイミングは絶妙だった。

「以上の結果、今回の電化プロジェクトの今後三十五年間の採算については、収入総額が日本円換算で、約三千億円、費用総額が約二千九百億円で、約百億円の黒字が見込めることになりました」

 そこまで説明したところで、感嘆の口笛が国鉄総裁の黒褐色の分厚い唇から漏れた。三十分も経っていないが、彼は聞き疲れしたようだった。瞼も頬も垂れ下がっている。彼にとって内容の難易度が高かったのか、集中力が持続しないのか、隣の王谷と声高に談笑を始めた。王谷は午前中あれほど国鉄総裁を愚弄していたのにもかかわらず、お追従を述べ、愛想良く相好を崩している。

「以上の結果、このプロジェクトは着手すべきであるとの結論に達しました」

と土岐はプレゼンテーションを終わらせた。同時に、丸山が部屋の照明を点け、

「それでは、質問をどうぞ」

と国鉄総裁に声を掛けた。国鉄総裁はシュトゥーバに質問をするように促した。シュトゥーバは、事前に配布したスライド画面をコピーしただけの説明資料に目を落としたままで、

「収入予測の前提条件を教えてくれ」

と言いながら、土岐の方に細面の顔をまっすぐに向けてきた。

「収入予測の詳細については、慎重に複雑な計算をして求めておりますので、言い間違えや誤解があるといけないので、後日文書にしてお渡しします」

と土岐はただでさえ英語でもつれる舌にどぎまぎしながら、王谷に言われたとおりに応えた。シュトゥーバの射すように澄んだ瞳を直視することはできなかった。スクリーンの傍らに立っている自分に自分ではない違和感を覚えていた。正直にすべてのことをシュトゥーバに言えないのは、自分の弱さなのか、ずるさなのか、判然としなかったが、心の中が王谷の業務命令で歪められているのを感じていた。

 突然、甲高い拍手が沸き起こった。ころあいを見計らったように最初に拝むように頭の上で拍手したのは王谷だった。拍手しながら誇らしげに立ち上がり、総裁の傍らに歩み寄り、握手を求めている。その光景を見守りながら、副プロジェクト・マネージャーの吉川、オペレーション・エンジニアの山田、トラック・エンジニアの高橋たちが、つられるように立ち上がって拍手する。やや遅れて、主任エレクトリフィケーション・エンジニアの松山、テレコミュニケーション・エンジニアの浜田、シグナル・エンジニアの畠山、エレクトリフィケーション・エンジニアの川野が半拍ずらして拍手している。丸山は喜色を満面に浮かべ、手のひらが赤くなりそうなほど力強く拍手している。最後に、土岐も拍手したが、形だけで、力が入らなかった。万雷の拍手がはるか遠くから聞こえてくるようで、錯覚に思えてならなかった。

 ひとしきり拍手が鳴り続け、それが潮が引くようにして止むと、王谷が国鉄総裁に英語で語りかけた。

「報告書は十日後に製本してこちらに届けます。これでこのプロジェクトが来年から着工されることは間違いありません」

 総裁室を出るとき、エンジニア一人一人が総裁と握手して別れを告げた。土岐は最後に握手したが、総裁の白髪混じりに垂れ下がった長い眉毛の下の象のような目を直視できなかった。白い綿布の袖から伸びる総裁の手は厚く、甲に毛が密生し、脂ぎっていた。シュトゥーバと一瞬目が合ったが、彼の笑顔はこわばっていた。土岐は心の中の動揺を見透かされているような気がした。総裁室から出て、コンクリートの階段を下りながら、体内から成田を飛び立ったときの生気が喪失して行くのを感じた。昨夜の下痢のせいかも知れなかった。体は軽いのに、足は重く感じられた。


 国鉄省の正門に出て、プロジェクターとスクリーンをトランクに入れ、タクシーに乗り込むとき、体中に粘り気のある汗をかいていることに土岐は気付いた。助手席の丸山が弾んだ声を掛けてきた。

「6時から大使館で打ち上げがあります。5時半過ぎにホテルの玄関にお願いします」

 土岐はアルコールを摂取する気力が失せていたので、

「今夜は失礼させてもらいます」

と丁重に断った。敗北感と不快感に土岐は打ちのめされていた。

「体調でも良くないんですか」

「まあ、それもありますが、どうも気分がすぐれないんです」

「まあ、顔つなぎの意味でやるんですが、・・・三橋大使にも会っといた方がいいと思うんですけどね。・・・エンジニア以外は、この国に来ることはないと思います。と言っても、トランスポート・エコノミストの中井さんと土岐さんだけですかね・・・王谷さんとぼくはまた来ることになると思います」

 扶桑物産の事務所に立ち寄り、プロジェクターとスクリーンを降ろし、ホテルに着いたのは4時半すぎだった。

 エレベーターで7階に登り、部屋の前で別れるときに、丸山が残念そうに言った。

「じゃあ、われわれはこれから大使館に行きますが、明日は十時にホテルの玄関に集合です。お預かりしているエアチケットはそのときお返しします」

 別れ際に丸山はもう一度誘ってきた。

「残念ですね。大使館の料理はこの国で一番おいしいんですけどね。大使がとってもいい人で・・・、三橋大使にはこの機会でないとお会いできないかもしれないですよ。外務省の権力闘争で、一時的にこんな国の大使をやっていますが、いまの外務次官が退任した後は、ひょっとしたら、いずれ次官になるかも知れないと言われている人なんですよ」

 ホテルに関係者が一人もいなくなってから、土岐は一階ロビーでメール報告を送信した。

@午前中、午後のプレゼンテーションの予行演習を行いました。プロジェクト・マネージャーの王谷から強い要請があり、プロジェクトの採算を強引に黒字化することを強要されました。午後、プレゼンテーションを行い、プロジェクトは実施すべきという結論を国鉄総裁に報告しました。財務副部長のシュトゥーバから売り上げ予測の前提を知りたいという質問があったが、これには後日、文書で回答すると答えました。このプロジェクトの破綻は財務副部長に期待する以外はないようです。以上@


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ