第一章
森の奥からはソーラン節が聞こえてくる。
毎日の営みを、生きていくための労働を全身で楽しんでいるようだ。
鍛え上げられた腕を、これでもかと水面に叩きつけて、鋭い爪を食い込ませる。
彼は熊。
名は熊武。この森では名の知れた熊である。
鮭の遡上の時期には、彼のソーラン節がより一層力を増す。
眠りに就こうと目を閉じても、幻聴に苛まれる程のしつこい歌声。
森の熊達は、秋が来る前に出来る限りの騒音対策を講じているが、それでも例年被害者…被害熊が後を絶たない。
一昨年から鮭の遡上ランキング一位の熊無川のほとりに住み着いた。立地条件が良く人気の物件だったため、20年ローンを組んでの購入だった。しかし入居当日に息子熊が異変に気付いた。
「何あの歌…?」
熊谷一家のマイホームはリバービュー(河川の眺望を楽しめる立地)だったため、熊武の歌声がライヴ感たっぷりに聞こえてくるのだ。狩りを終えれば直ぐに帰るだろうと楽観していたのは熊谷父。夢のマイホームを手に入れ、いつもよりも寛容になっていたのだろう。観光地の名物余興を楽しむかのように、熊武の狩りを見物していた。
一日二日三日…
連日繰り返される余興にいい加減飽きてきたが、熊武は一向に狩りを止める気配は無い。
「一体いつまで続くの?」熊谷母が溜め息混じりに呟いた。多少の事では動じない妻の密かな苛立ちを察した熊谷父は焦りを感じた。この地に骨を埋めようと覚悟を決めて、転職までして移り住んだのだ、一生ソーラン節をBGMにして暮らすなんて御免だ。
それに、子熊達の教育にも良くないと思っていた。子熊達は面白がって熊武の真似をし出している。学校でも皆の前で披露している、時には授業中でもリクエストに応えてしまうとの事だ。学級崩壊や校舎の窓ガラスバットで叩き割るなんて人間の世界だけで起こると思っていたのが、まさか自分の子が…と、父は子熊達の行く末を案じた。
「ちょっと行って来る。」
たかがソーラン節のせいで家族の絆を失う訳にはいかない。男には身体を張ってでも守るべき物がある。
熊谷父は熱血ドラマの主人公さながら、燃えたぎる使命感に突き動かされていた。
今や一家の大黒柱として、くだらない接待も笑顔で耐えているが、若い時分は喧嘩なんて日常茶飯事だった。もし、熊武との話し合いが決裂しても、力でねじ伏せる自信は有った。
「おい、お前!」
川の中に居る熊武に、なるべくドスを効かせて叫んだ。
その途端、熊谷父は川の畔に生えているイタドリの茂みに引きずり込まれた。
「何するんだ!」
「お前こそ何て事してるんだ!」
熊谷父は初対面の熊にいきなり怒られた。あまりの剣幕に一瞬ひるんだが、直ぐに持ちなおした。
「アイツの仲間なんだな!あんな歌今すぐ止めさせろ!」
「…!?…何も知らないんだな。」
「何だと?」
初対面の熊は、熊谷父をがっしりと掴まえていた前足を放し、草むらに腰を下ろした。熊倉と言う名の熊は、ショートホープの煙をくゆらせながら語り始めた。
「いいか、奴を止めるな。奴はな…。」
続く