裕子のアプローチ
ある日の放課後、裕子は彼女と教室の掃除当番が同じになり話しかけてみようかと思った。彼と柿本が親密な関係になったように感じられて以来、以前彼女から発せられていた人を拒絶するオーラがほとんどなくなったように見えたからだ。
眉間のしわや何かをきつく睨みすえるような、強いきっとしたまなざしが消えて、普段から穏やかな表情を見せていた。まるで凶暴な野生の虎が、余計なかたさがとれて猫に変化したみたい。
これらの現象は全て柿本蓉介のおかげなのだろうか、裕子は彼に一目置いた。ゴミを集めてちりとりにとって捨てる時には教室には裕子と彼女しか残っていなかった。各々の生徒は部活動や下校で教室は静まり返っていた。
裕子はちりとりにゴミをホウキでかき集める彼女をしばらく見つめていた。ふいに彼女が顔を上げ、じっと見つめている裕子の顔を怪訝そうに見た。しかしその顔に拒絶の色はない。裕子はそこで思い切って声をかけることにした。
「あの・・・真琴さん。」
自分の名を呼ばれた彼女は顔をあげて裕子を見つめた。いきなり話しかけられて驚いたのか真琴が少し警戒した様子がはっきりと見て取れた。裕子はできるだけ敵意を持たれないようにと微笑んだ。
「何か私の顔についてるかしら?え・・と・・裕子さん。」
彼女の口から裕子の名前が出てきたことに裕子は驚いた。彼女は裕子のことなんて興味がなくて、まして名前なんて知らないだろうと思っていたから。二年生になって当時、クラスメイト達によく彼女は陰口を叩かれていた。
(あの子感じ悪くない?そうよね、あの子クラスメイトに関心なくて皆の名前も覚えてないんですって。浅倉さんが同じ中学で同じクラスだったらしいけど、結局卒業まで名前すら覚えてもらえなかったんですって。えー?それひどくなーい?ほら卒業の時って卒業アルバムに寄せ書きするでしょ。浅倉さんが一応皆に寄せ書き頼もうってあの子に頼んだらしいの。その時の一言、あなた誰?名前は?だって。他にもあの子の変な噂がいっぱいあるらしいわよ。)
裕子は彼女が他人に無関心なのは本当のことかもと思っていたが、それ以外の噂については信じてはいなかった。彼女が子猫を助けた時のあの優しいまなざしを裕子は知っているからだ。真琴が裕子の名前を覚えていてくれたことが信じられなくて、でもだからこそ嬉しかった。裕子は首を振って言った。
「ううん・・・ところで真琴さんって・・猫好きなの?」
いきなりの質問に真琴は少し面食らっていた。
「嫌いじゃないけど・・・どうして?」
逆に質問されて、裕子はどうしようかと思ったが、正直に答えた。
「え・・実はね、前に真琴さんが学校帰りに路上で怪我してた子猫を病院に連れて行くところ、私偶然見かけたから。私も猫好きで家で飼ってるから。」
「そう・・・見てたのね。」
真琴は沈んだような悲しい顔して斜め下に視線を落とした。裕子は真琴の陰を落とした表情を見て、慌てた。
「あ、あの私、何か気にさわることいった言ったかしら、もしそうならごめんなさい。」
裕子は動揺しながら頭を下げて彼女に詫びた。
「ああ、いいのよ何でもないから、顔を上げて。」
顔を上げて彼女の顔を見ると悲しさを残していたが、薄っすらと笑みを浮かべていた。やっぱり以前の彼女と違う。物腰がやわらかい。もっと前にこんな風に話しかけていたら、睨まれて即、はねつけられていたと思う。
「あの子猫もう結構大きくなったでしょう?元気にしてる?」
「白・・・あの子はもう死んでしまったわ。」
「え。」
悲しみと苦笑いの混じった顔で彼女は言った。裕子は一瞬かたまってしまった。
「ずっと私面倒見てたんだけど、野犬に襲われて・・・助からなかったの。」
「そうだったんだ・・・まだそんなに大きくなってなかったでしょう・・・可愛そうに・・・。」
彼女がさっき見せた悲しげな表情で、やはり猫のことをとても大事にしていて愛していたんだと裕子は思った。彼女はクラスの皆が噂しているような冷たい人間なんかじゃない、本当はとても心の優しい人間なんだと再認識した。裕子の姉のように・・。
それきりなんとなく会話は途切れて、二人は箒と塵取りを教室のロッカーに直して、鞄を持って一緒に教室を出た。裕子はこれからテニスの部活のため、グランドに向かう。彼女はクラブに入っていないからこのまま帰るのかと思っていたら、一階への階段へは向かわずに、音楽室の方に行こうとした。
「あれ、真琴さん帰らないの?」
「ええ、いつも放課後、音楽室でピアノ弾いてるの。趣味でね。」
「そうなんだ・・・・それじゃあ、また明日。」
「ええ、さよなら。」
階段の所で裕子は立ち止まって廊下を歩いていく彼女の後ろ姿を見つめていた。裕子は気がつけば彼女の名を呼んでいた。彼女は立ち止まってゆっくりとこちらを振り返った。きょとんとした顔で呼びかけた裕子のほうを見ている。
「あのさ、今度真琴さんのピアノ聴きににいってもいいかな。」
裕子ははっと自分の口を押さえて、思いつくままに言ってしまったことを後悔した。馴れ馴れしすぎたかと。今日初めて会話しただけなのにと。
拒絶されるかもしれないと裕子は恐れ、ごくりと息を飲んだ。しかし彼女は。驚いたような表情をして少し考えるような顔をしていたが、やがて穏やかに微笑んで言った。
「いいわよ。たいがいは放課後に音楽室にいるから。でもあんまりうまくないから期待しないでね。」
「ううん、私あなたがピアノ弾いてるところ是非見てみたい。」
笑んだ裕子の言葉に彼女は不思議そうな顔をしていたが、そう、それじゃあねと彼女は手を軽く上げて廊下を歩いていった。今日初めて話しただけなのに、演奏を聴きたがるなんて変な人と思われたかもしれないが、それが裕子の本心だった。
何でもいいから、もっと彼女との関係を近づけたかった。気がつくと廊下の向こうに一人の男子生徒が立っていた。彼女が彼の存在に気がつくと小走りに近づいていった。彼に追いつくと並んで音楽室の方に歩いていった。
彼が何か彼女に話しかけて、彼女は顔を染めて彼を叩いていた。その光景はとてもほほえましく裕子には思えた。彼女があんな風に幸せそうに見えると裕子も何だか嬉しくなった。ふいに彼が裕子の方を振り返った。
裕子はびくりとしたが、彼はにっこりと微笑んでいた。今日思い切って彼女に話しかけてよかったと裕子は心から思えた。拒絶されるかもしれないと恐れて、何もせず、彼女を遠くから見つめていただけなら今日の出来事はありえなかった。
裕子は本来物怖じするするような性格ではなかったが、彼女のことに関しては別次元のことだった。それには深いわけがあった。
なぜなら真琴は裕子の最愛なる姉に瓜二つだったから。
物腰や態度は姉と違うが猫に接するときの笑顔はどきりとするぐらい姉に似ていたのだ。




