出会ってしまった真琴と容介
真琴が初めて蓉介にであったのは高校二年生になって間もない頃だった。授業をすべて終えた学校の放課後、真琴は誰もいない音楽室で一人ピアノに向かい遠い昔に大好きだった人が教えてくれた曲をただぼんやりと弾いていた。鍵盤上を滑らかに真琴の指が移動していく。開け放した窓からは春の柔らかな陽気が夕暮れで薄まり、心地よい風が音楽室のベージュ色のカーテンを揺らしている。
真琴の胸には首から下げたペンダントが光り輝いていた。ただ夢中に夕日の差し込む風景に溶け込んで音楽を奏でていたから、音楽室の入り口から誰かがこちらを見ていることにすぐに気づく事ができなかった。曲を弾き終わりピアノから顔を上げた時、視界の隅に人影が映った。入り口に目をやると一人の男子高校生が脇に美術で用いる大きなキャンバスを抱えて立っていた。
いつからそこに立っていたのか、目と目が合う。しばらくそのまま沈黙が続いた後、彼が口を開いた。その口調はこの穏やかな午後に似つかわしくとても自然な感じだった。
「廊下を通りがかってたら、綺麗なピアノの曲が聴こえてきたから、つい聴き入ってしまってね・・。」
真琴は体をピアノからはずし彼のほうに向き直った。彼の顔に見覚えがある。幼い頃、ある日を境に真琴は人と深く関わらないと心に決めた。他人にはあまり関心を持たなくなった真琴には顔を知っているというだけで、それ以上の情報はこの頭からは出てこない。
「あなた、どこかで会ったかしら?」
真琴は尋ねた。普段ならこんな風に話しかけられても真琴は相手にしなかったが、放課後の誰もいない音楽室という落ち着く空間にいたせいか、気づけば彼に話しかけていた。そのことを差し引いてもどうして話す気になったかははっきり説明できなかった。単なる気まぐれだろうけれど。彼は少し苦笑して言った。
「一応クラスメイトなんだけどな・・まあ新しい学年になって間もないから仕方ないか。」
彼は頭を指で軽くかきながらそう言った。はっきりいってクラスメイトの顔や名前を覚えてなくてもどうでもいいことではあったが一応、心にもないことではあるが表面上、建て前で謝った。
「ごめんなさいね、私、人の顔とか名前を覚えるの、苦手なの。」
特にショックを受けたり怒ったりした様子もなく彼はただそこに立って穏やかな表情をしていた。立ち去る様子がないので真琴は質問した。
「あなた、美術部に所属しているの?」
真琴は彼が持つ薄緑色の大きめのキャンバスに目をやり言った。
「放課後はいつも一人黙々と美術室で絵を描いてるんだ。」
キャンバスを前にかざすようにして彼はみせた。
「ふ~ん。」
特に興味もなさそうに真琴は頷いた。他人が何をしようが自分にはどうでもよいことであった。他人への興味が真琴には極端に欠如していた。突然彼は切り出した。
「話はかわるけど、君の弾くピアノの曲を聴いてぜひ言いたいことがあるんだけれどいいかな。」
いきなり何を言い出すのだろうか。曲がすばらしいとか初対面に等しい他人に向かって馴れ馴れしく感想を述べるつもりだろうか。真琴はニコニコ微笑む彼の顔を怪訝そうに見つめた。
「ええどうぞ、私のピアノが聴く人にどんな印象を与えているのか少しは興味があるわ。聞いてみたいものね。」
彼は真琴の言葉に頷いてから一つ咳払いをして話しだした。
「じゃあ、遠慮なく。君の演奏は美しくて惹かれるものがありとても魅力的だ。けれど腑に落ちないところがひとつある。おそらく僕のような人間だから気づいたのだろうけれど。」
真琴は絶句して彼の顔をまじまじと見つめた。
じゃあ自分はどういう人間だというのだと問うてみたくなった。捉えようによってはいくらでも様々に解釈が取れそうな感想である。しかも今まで教室では顔を合わしたことがあるとはいえ、一度も話したこともない人間がいきなりこんな突っ込んだことを言うことだろうか。面識もない人間が言う台詞ではない。
「すべてお見通しですって感じな事を言うのね。それに初対面の人間に対してずいぶんと失礼じゃないかしら。話をしたこともないあなたに私の何がわかるって言うのよ。」
彼の目を睨み見据えた。声色も低く威圧的に。
「おっと、ごめん。感に障ったかな。」
謝りながらも彼の表情には悪びれた様子はまったく見当たらない。それどころか体全身からゆったりした余裕のオーラが漂ってるようにさえ見えた。絶えず微笑をその口元にたたえている。そんな彼の落ち着き振りが何だか真琴は気に食わなかった。
「気分を害したままですまないけれど僕はこれで失礼するよ。ああそうだ、僕の名前は柿本、柿本蓉介。教室では君の席の隣だ。今後ともどうぞよろしく。」
そういい残すと何事もなかったかの様に、さりげなく音楽室を後にして去っていった。
真琴だけ肩透かしを食らって一人音楽室に取り残されてしまったような気分になった。もう誰もいない音楽室の入り口を見つめて真琴は考えた。何?真琴の隣の席だって?今までそのことに気づかなかったとは真琴の他人に対する興味のなさはかなり重症だなと改めて再認識し、自分自身呆れた。
真琴は彼、柿本蓉介を知らなかったけど柿本は真琴のことをどれくらい知っていたんだろうか。少なくともクラスメイトで教室では席が隣同士というだけのことを知っているようだった。彼に対して真琴は妙な人間だという第一印象を持った。会ってそうそう、いきなり意味深な言葉で切り込んできたかと思えば、こちらの反論に対抗するでもなく、すっと身を引いていった。音楽室の窓から暮れていく校庭のグランドを見つめ、ぼんやりとそんなことを考えていた。
《~interlude~》
学校の生徒が下校して数十分前の騒々しさは嘘のように木造の校舎は静寂に包まれていた。音楽室の一室。一人の少女が窓から差し込んでくる赤い夕陽を全身に浴びてピアノを弾いている。そこに一人の少年がさしかかった。
ふと音楽室から聴こえてくる優しいメロディに立ち止まる。開け放たれていた音楽室のドアから少女の姿が見えた。夕暮れの景色の中、ピアノを弾く少女の姿は幻想的で非現実的だった。思わず少年は目を奪われ立ち尽くしていた。
少女は少年に気づき演奏を止めた。少女は温かそうな柔らかい微笑みを少年に向けていた。天使のような清楚な微笑で笑う少女に少年の心は清らか洗われ溶かされていくようだった。目を奪われ引き込まれるように少年も笑顔で微笑みかけた。
彼、柿本蓉介と出会った次の日、学校に登校し、教室に入った真琴は自分の机に腰を下ろした。鞄を机に置き、左の隣の席を見た。柿本が机に頬杖をつく格好で真琴を笑顔で見つめていて話しかけてきた。
「やあ、おはよう。来栖さん。」
「・・・おはよう・・・・。」
馴れ馴れしい奴だと思いながら、真琴は無愛想に言った。昨日言葉を少し交わしたからといって次の日には挨拶してくるなんて。でも確かに真琴の隣の席だったことが嘘ではなく本当のことだったのだと思った。今まで彼が隣に座っていたことなど真琴はまったく知らなかった。
ただ自分と同じ人間が座っているくらいにしか思っていなかった。入学して数日とはいえ、普通の人間ならば前後左右に座る人間の名前や顔ぐらいは意識して覚えるものであろうが、真琴は視界に近くの人間が入っても、まったく興味を示さずに記憶にとどめておこうとはせず、顔も名前も覚える気がなかったということだ。クラス内では二年生になって数日がたったという事もあり、席のあちこちで生徒達が話を交わすようになっていた。
初日はさすがに皆、警戒心というか緊張感を周囲に持ってほとんど話をしていなかったが、仲良くなるのも時間の問題で、グループ関係がおぼろげながらできてくるはずである。そんな雰囲気の中で真琴は頑として周囲とコミュニケーションをとろうとしなかった。自分からクラスメイトに話しかけようとはせず、誰かが真琴に話しかけても真琴はまともに取り合おうとはしなかった。
ぶっきらぼうな態度をとられた生徒は、なにこの人、感じ悪いという顔で引き下がっていき、真琴に近づこうとしなくなった。真琴は友達なるものをつくるつもりは毛頭なかったので近づいてくるものを拒絶した。彼はまだ真琴のことをニコニコと見つめていて真琴は顔をしかめた。変な奴だ、相手にしないようにしようと思った矢先のことだった。まあ、人のことは言えないというか、自分もはたから見れば普通ではないと自覚してはいた真琴である。
「ねえ、来栖さん。」
彼は真琴の心内の決心のことなど知らずに話しかけてきた。真琴は何も返事をせずに彼を冷めた表情で見たが、彼は構わず続けた。
「昨日音楽室でピアノを弾いていたけど、いつも放課後弾いてるの?」
真琴は無視した。相手にしなければ他の生徒と同じように彼はあきらめてもう、真琴のことを構わなくなるであろうから。だが真琴のそんな予想とは反対に彼は気まずい様子も全く見せず話し続けた。
「放課後は吹奏楽部とか音楽系の部活が音楽室を使ったりしないの?」
真琴は前を向いたまま、無視した。彼は言い続ける。
「昨日、君が弾いていた曲すごく素敵な曲だね。」
イライラ感が真琴の中に募りだした。
「何ていう曲なの?クラシックだと思うんだけど、そう?僕クラシック大好きなんだ。今度また・・・・。」
真琴は机を激しく叩いて勢いよく椅子から立ち上がって叫んだ。
「ちょっと、あなた馴れ馴れしいわよ!話しかけないでくれる?」
彼は目を丸くして真琴を見つめていた。だが怒りも怯えた表情もあらわさず、すぐに元の笑みに戻って、真琴をさらにイラつかせた。周りで楽しくおしゃべりをしていたクラスメイト達はしんと静まり返っていた。皆の視線が真琴と彼に集中していた。
水を打ったように誰も身動きを取ろうとしないその時、沈黙を破るように予鈴が鳴った。生徒達は真琴と柿本の方をちらちらと見、ヒソヒソ声で話しながら動き出した。あるものは席に戻り授業の準備を、あるものは用を足しにトイレに行くのだった。真琴は頭を冷やすために朗下に出た。
しばらく歩いて窓が開いているところで立ち止まってそこから見える景色を見た。薄っすらと日の光が真琴の顔を照らした。彼はどういうつもりで真琴に話しかけてくるのだろう。クラスメイトの何人かは真琴を変わったものと知って、相手にしないというのに。まあ、もうこれで話しかけては来ないかもしれない。十歳のある日を境に真琴は誰とも関わらないと誓って今まで生きてきた。
そこからは晴れ渡った空の下、桜がかれんな花びらを散らして咲きほこっているのが見えた。一片の桃色に染まった花びらが窓から降ってきて真琴の肩にゆっくりと落ちた。釈然としないまま一つ大きな息をついて真琴は教室へと戻っていった。




