失われたピアノ
翌日は土曜日でよく晴れた。加奈は昨晩は愛の部屋で床に布団を敷いて寝た。色々愛に文句を言われながらも布団に入ったが、緊張でよく眠れなかった。この家には加奈に味方してくれる人が一人もいず、まるで敵のはびこる居城で眠るような気分でとてもじゃないが安眠などできるはずもなかった。寝不足で眠い目をこすりながらもおばにさっそく朝ごはんを作るように命じられた。
どうやら本気で加奈をこき使うつもりらしい。もしまずい食事を出そうものなら、どんな非難を受けるかわかったものではなかったが、料理や家事全般は母との二人暮らしで習慣として染み付いていたのでこなすことができた。ご飯と、味噌汁、焼き魚をつくった。おじら四人との食事は許されず、加奈はまるで召使のようにおじらのお茶を注いだり、ご飯のお代わりに使われた。
彼らの食事がすんだ後、加奈は一人テーブルで食事をとった。おじらと顔を合わせてご飯を食べるのは嫌だったが、一人きりの食事は今まで母と楽しい食事をしてきた加奈にとっては何だか寂しかった。昼になると加奈はおじ、おば愛と共に加奈が前に住んでいたアパートに車で向かった。アパートから加奈の生活に必要なものを回収し、引き払うためだ。
アパートに着くと数日程しかたっていないのに加奈はひどく懐かしい気持ちになった。引越しセンターのトラックがアパートの前に止まっていた。玄関に立つと中で引っ越し作業員が数人動き回っていた。貧しい生活だったので家具も少なかった。部屋を見渡す。母と毎日食事をしたテーブル、母に指導してもらったピアノ、母と料理を作った台所・・どれも母との貴重な思い出が詰まっている・・加奈はここで母と暮らした。確かにここで母と共に過ごしたのだ。
キッチンやピアノに目を向けると母の残像が加奈の瞼の裏にぼんやりと、しかしはっきりと浮かぶ。だが実際にもうその光景を目にすることはないと思うとまた加奈の目に涙が浮かんだ。苦しいことだが母はいないのだからもうここにはいれない、母との、貧しくても気にならないくらいに、幸せな日々の思い出がいっぱいに詰まったこの場所を去らねばならない。そのことが加奈の心に大きなダメージを負わせた。
おじらの家に持っていくのは主に加奈の衣服類とその周辺のこまごましたものだった。おじらの許容で母の衣服もそんなに数はなかったので、持って帰ることを許可してくれた。母のものが全て処分されるのは辛いことだったので安堵した。加奈の本意でなかったが、泣く泣く家具類は処分されることになっていた。いくら捨てがたいといっても置いておける場所はもうない。
「うわ、何この汚い所、こんな家に住んでたなんて信じらんない。」
愛が玄関のドアから中を品定めするするような目つきで眺めて吐き捨てた。確かに御世辞にも綺麗な住居ではなかったが、それでも加奈と母はこの家を汚さぬよう、壊さぬように気を使って丁寧に使っていたのだ。だから愛は何でもいいので、加奈のことを見下したい気持ちがあるから大げさに言ったにすぎない。
加奈は辛い作業だったが、やるせない気持ちで部屋に入って自分の衣服類をダンボールに詰め始めた。台所でおじと作業員が何か話しこんでいる。家具をどうするかの相談をしているらしいと加奈はぼんやりと聞いていた。
「タンスと食器棚などの家具は全て処分します。このピアノは中古ピアノ買取センターに買い取ってもらいます。」
おじの声に加奈はさーっと血の気が引いた。加奈は狼狽しておじのところに駆け寄った。
「ちょっと待って下さい、ピアノをどうするつもりなんですかっ。」
「どうするって売るんだよ。」
おじは何ともないというような平然とした口調で言った。
「そんな・・あのピアノは・・・・・・。」
加奈が顔色を失い絶句するとおじは表情をすごませて加奈に言った。
「お前、まさかあのピアノを俺の家に置くつもりだったのか?そんなスペースがあるわけないだろうが、捨てるわけじゃないんだ。リサイクルに出されて再利用されるんだ。捨てられないだけありがたく思えよ。」
そういいながらもおじはピアノを売ったお金を加奈に渡す気はなく自分の懐に入れるつもりらしい。加奈は言いたいことを言おうとするが言葉が出てこない、反論できない。おじのいう事は正しいけれど・・・赤の他人に近い加奈を家においてもらうのだから加奈が意見をいう事はいけないのだけれども・・・理屈ではわかっているのだ、でも本心では母のピアノをどうしても手放したくない加奈がいる・・・。そんなもどかしそうな加奈をおじが見てきつく言い放った。
「何の義理もないガキを一人面倒見てやるんだ。それにこの引き取り作業代も俺が出してやってるんだぞ。文句はないだろう。」
加奈は涙ぐんで唇を噛み俯いた。小さな胸の内に悔しさがこみ上げた。子供の加奈にはどうすることもできない。加奈が大人で立派な社会人なら、母の大切なピアノを手放さなくて済むのに・・・・。
反論できるはずもなく加奈は指をくわえて黙ってピアノが作業員達の手によって運ばれるのを見ていることしか出来なかった。加奈は身を引き裂かれるような思いだった。自分の心のどこか大事な部分がごっそりとえぐり取られたような気分だった。加奈は、母との思い出が最も凝縮されたピアノを載せたトラックを小さくなって見えなくなるまでずっと、己の無力さを噛みしめながら見つめていた。
アパートを引き払った後、帰宅するおじらに、加奈は母のお墓に参る折を伝えてそこで別れた。帰りは電車でおじの家に帰るつもりだった。
「このまま帰って来なくてもいいぞ。」
おじが運転席からウィンドウを下げてそう言うとおばや愛らと笑った。冗談で言ったのであろうが加奈にはとても冗談には聞こえなかった。おじらの車が走り去ると加奈は母のお墓のあるお寺に行った。途中で花を買って行った。
途中加奈の顔はずっと沈んだまま寺に着き、母親の葬られた墓の前に立った。昨日母はここにおさめられたばかりだった。墓石にはまだ父の名前だけだが、後から母の名前が彫られることになっている。加奈はお墓周りを掃除してから持ってきた花を捧げ、ろうそくに火をつけ線香をさした。雲間から晴れた日ざしが降り注いでいる。
加奈はしばらく目を閉じて手を合わせた。どこかで鳥が鳴いて飛びたっていった。加奈は目をゆっくりと開けて墓石に話しかける。
「今日、アパートを引き払ってきたよ。お母さん、これで私が帰る家・・・ううん、ふるさとがなくなっちゃった。」
線香から立ち上る白い煙が風にわずかに揺れたような気がした。
「お母さんが大事に使っていた家具が捨てられちゃったよ。私悲しかった。だって何だかお母さん自身が無下に扱われたみたいで・・・・。」
冷えた風が加奈の髪を透かして通り過ぎた。寺の敷地内にある木々がざわめき黒いシルエットを揺らす。加奈は俯いて苦しそうに声を震わせた。
「・・・お母さん・・ごめんね・・・私・・お母さんの大切にしてたピアノを守ることができなかったよ・・・ごめんね・・・。」
加奈はその場に膝から崩れるようにして嗚咽を漏らし泣き出した。誰もいない墓地で加奈は一人で泣いた。泣き止んだ後、鼻をすすりながら加奈は墓石に語りかけた。
「これからはおじさんの家で・・まったく新しい環境で、知らない人達に囲まれて生活することになったよ・・・お母さん、加奈のこと天国から見守ってくれるって言ったよね。私・・・頑張ってみるよ・・お母さんが側にいてくれることを信じて・・でも・・・どうしても辛くて耐えられそうにない時は・・・・。」
言葉を切り、一瞬躊躇いを見せてから加奈は言った。
「お母さんのところに行ってもいい・・・・?」
母は答えない。その代わりにろうそくの炎が大きく揺らめいた。加奈は目を見開いて炎を見つめた。
お母さん、加奈の言ったことに怒っているの?それとも・・・・。加奈は父と母の眠る墓標に、またお参りに来るね、と言い残すと、去りがたかったけれども体を引き剥がすようにして寺を後にした。




