私を必要とする人間なんて、もう世界のどこにもいないから・・
何の前触れもなくそれは突然の出来事だった。
今目の前に彼女は立っている。
彼女の瞳には間違いなく加奈の姿がはっきりと映し出されている。
音楽室でピアノを演奏していたあの彼女が。
どうして彼女がここに存在しているのだろう。
加奈はバスの事故にあい、世を去ったことでもう完全に彼女に会うことが出来ないと、
もうあの母が弾いていたような魅了されるピアノ演奏を、
この耳で聴くことはないとひどく惜しんでいたのだ。
その彼女がここにいる。
この場にいるということは、向こうの世界で
彼女の身に何かがあったという事はまず間違いない。
都合よく彼女も事故に巻き込まれて
命を落とすことはまず可能性の低いことだ。
もしかして彼女は恋人の後を追ってここまできたというのだろうか。
彼から彼女が何かの病気を患っているとうような
話を聞いたことがなかったので、ありえることだと思った。
愛していた恋人を失ったのだ。
彼女が自殺を図らないとは言い切れない。
もしかしてさっき彼が教会で人を待つといっていたのは
彼女のことだったのだろうか。
彼は既に彼女が彼の後を追いに
この世界にやって来たことに気がついていたのか。
加奈は彼女に会うことを避け続けていた。
だが彼女の恋人である彼の熱心な勧めも会って会ってみようと決意していた。
でも・・・・まさかこんな形で、生きた世界ではなく
この死の世界でこうして初めて面と面を
あわすことになるなんて夢にも思わなかったことだ。
こんな出会い方になるのならもっと早くに
彼女に会えばよかったと今更ながらに悔やんだ。
いや、本来なら加奈が死んでしまって
もう会えない可能性が高かったのに会えたのだ。
もちろん幸運だなどと単純に解釈してはいけない。
彼女は現世ではなくあの世にいるのだ。
今はそんな風に後悔している時ではない。
彼女の体を見て加奈は決めた。
もし彼女が自ら命を絶とうとしているのなら
加奈にはやらねばならないことが残っている。
そう、まだ生きることの出来る可能性を残している彼女を説得して現世に戻すこと・・・。
「あなた・・・・前にどこかで会ったかしら・・・・。」
彼女はまっすぐなまなざしを加奈に向けてそう言った。
そういえば彼女の声を聞くのはこれが初めてだ。
妙に新鮮な感覚を覚えた。
こうして言葉を交わすことになるなんて夢にも思わなかった。
加奈は喜びと緊張が入り混じった声で答えた。
「いえ、あなたと会うのはこれが初めてだと思います。」
それでも彼女は不思議そうにしばらく加奈の顔を見つめていた。
彼女が加奈のことを知っているはずがない。
加奈の方が一方的に彼女に注目していたのだ。
会ったとすれば学校のどこかですれ違った時くらいのもので、
加奈がとびきりの美人ならばいざ知らず、
それぐらいで強く印象に残るとは到底思えなかった。
まあいいわ、と話を変えると彼女は言った。
「あなた、和泉高校の生徒よね。私もなの。それで、
聞きたいんだけどここはどこなのかしら?見たところ地球ではないように見えるんだけれど・・
あなた何か知ってる?」
彼女は淡い色の空や一面に広がる花畑を見渡してから加奈に視線を戻した。
「ここは・・・・人々に地獄や天国と呼ばれている場所に行くために、死んだ人が必ず通らなくてはならない場所、現世とあの世のちょうど真ん中にある場所です。」
加奈がそう言うと、彼女はやっぱりという風に納得した表情で頷いた。
加奈は思い切って聞いた。
「あの・・私は交通事故に巻き込まれてここに来ることになったんです。
あなたはどのようにしてこの世界にやってきたんですか?」
目を見開いて加奈を見た後、彼女は俯いて声のトーンを落として答えた。
「私はね・・・・・・好きな人を事故で失ったの。
とてもその人のこと愛していたから、私その悲しみに耐えられなくなって・・・・
無意識と言ってもいい状態で自殺をしたの。海に身を投げてね・・。」
やはり、と加奈は確信した。彼女は彼を追ってここに来たのだ。
「ねえ、あなたが巻き込まれた事故、おそらく
私の好きな人に起こった事故と同じものだと思うの。
ここに来てあなた、和泉高校の制服を着た男子生徒に会ってないかしら?」
彼女の言葉に加奈は言葉を詰まらした。
加奈は彼女の恋人である彼が今どこにいるのか知っている。
彼女にその場所を言えば間違いなくそこに向かうことになるだろう。
しかしそこはこのお花畑よりも更に天国や地獄に近づく場所なのである。
困惑した表情の加奈を首を傾げて彼女は見つめてきた。
「あなたの探している好きな人・・私・・・知ってます。」
「え?あなた彼と会ったの?彼は今どこにいるの?やっぱりこの世界にいるのね、ねえ。」
彼の話を聞くや否や彼女は目の色を変えて表情を明るくさせ加奈に迫り、
両肩を摑んで激しく揺さぶった。加奈は斜に俯き、呟くように言った。
「この先に河が流れています・・・・。
そこにかかる木の橋を渡った所に教会があって・・・・。」
「わかったわ、どうもありがとう。」
加奈が言い終わる前に彼女は一方的に礼を告げると教会に向かおうとした。
加奈は必死にその去っていく彼女の手をつかんだ。
急に引き止められた彼女は眉をひそめて加奈の方を振り仰いだ。
加奈は深く深呼吸をした後、話を切り出した。
「待って、私の話を聞いてください。」
「あなたの話・・・?」
怪訝そうに見つめてくる彼女にええ、と加奈は頷いた。
「あそこはまだあなたが行くべき所じゃないんです。」
「それはどういう意味?」
「あなたはまだ完全に死んだ状態ではないからです。
まだ現世に魂を入れる器である肉体のほうが生きているから、
あなたはまだ生きることの出来る可能性が残っているの。
だからあなたはあそこに行くべきじゃない。」
「そうなの?私はもう完全に死んだものと思っていたんだけれど・・・。」
「あなたの体を見て下さい。薄く透けたり元に戻ったりしています。
それがまだ完全に死んでいない証拠なんです。
本当に死んでいる人はずっと姿が透けたまま見えるの。」
この世界に来て彼から教えてもらったことを加奈は彼女に教えた。
彼の体は完全に透けていた。彼にはもう地上に戻る道はない。
彼女は自らの時々薄くなる両腕を見つめて納得した表情を見せた。
「ということはあなたも私と同じ状態ということね。半分だけ死んだ状態か・・・。」
彼女と同様、時折薄らぐ加奈の全身を見渡して彼女は言った。
「でも・・・・私教会に行くわ。彼に会うためにここまでやってきたんだもの。
私はもう現世で生きるつもりはないの。例え生き返れる可能性が残っていたとしても。
私は彼を失って、生きる希望そのものを失ってしまった・・・。
もう彼なしでは生きていけないのよ。」
揺るぎそうになさそうなかたい決意をその瞳に
のぞかせるように彼女ははっきりと言った。
加奈は目を閉じふるふると首を小さく左右に振った。
「彼が言っていましたよ。あなたにはまだ心から
あなたを必要としてくれる大切な人がいると。
だったらあなたはまだ死ぬべきじゃない。その人のためにも・・。
今ならまだ間に合います。あなたには生きてほしい。」
「あなた、彼と面識があるの・・?」
彼女は怪訝そうなまなざしを向けてきてそう言った。
「こちらの世界に来てお話を少しさせてもらっただけです・・・。」
加奈はさすがに音楽室で演奏を覗き聴きしていたことや
彼と何度か顔を合わした事を言う気になれずばつが悪かった。
何だか彼女に隠れてこそこそとしているようで、
彼女に対して加奈は罪悪感を抱いてしまっていた。
「恋人を、もっとも大事な人を私は失ってしまったの。
以前の私なら他人のためになら自分の命なんて
惜しくないなんて間違っても思いはしなかっただろうけど。
でも今の私はそうじゃない。今ならはっきり言える。
彼のためならこの命を差し出してもいい。
それに・・・私の・・・私の命よ。
どのように使おうが私の勝手だわ。親友は確かにいるけど・・
でも・・一番大切に想っていた人を失った人生を、
私の多くを占めていた大切なものが欠けてしまった人生を
絶望しながら虚ろに親友と共に生きるよりも、
私は恋人と共にこの生涯を終えたほうがいいって思っているの。
あなたには私の気持ちがわかるわけないわ。」
「私は・・・。」
加奈の言葉を遮るように彼女は話し続けた。
「それにあなたは何者なの?よく知らない初めて会った人間に
そんなこと言われても納得できるわけないじゃない。
それにそこまで言うならあなたこそこんな所にいずに現世に戻ればいいでしょ。
私みたいな他人のことなんか放っておいて。」
嵐のように非難してくる彼女に私には、と加奈が大きな声を出した。
彼女は驚いて目を丸くし少し身をそらせた。
「私にはもう・・・必要としてくれる人はもういないから・・・・。」
彼女の言葉にショックを受けて、
最後はしぼんでいくような声を出した加奈を見て彼女は
よくわからないというような不思議そうな表情をした。
そう、生き返れる可能性があってもある条件を満たさないと
生き返ることは不可能なのだ。
その条件とは加奈や彼女のような状態の人間を現世の人間が心から求め、
必要と想い強くあの世から呼び戻そうとすることだ。
彼女にはまだ必要としてくれる親友がいる。
だから加奈よりも生き返れる可能性は高いのだ。
でも加奈にはもう誰もいない。
母も亜沙子もおばあちゃんも・・・皆失ってしまった。
加奈の死を本心から惜しんでくれる存在はもう地上には存在しない。
裕子とはそんなに付き合いが長くないし、
おそらく加奈が事故にあったことを知らないだろう。
仮に知ったとしても加奈のことを必死に
あの世から呼び戻そうとしてくれるとは限らない。
加奈はあの人のことが好きだけれど、
向こうが加奈のことをどれくらい親しく思ってくれているかはわからないのだ。
死なないで欲しいと祈ってくれたとしても
本心からでなくては無意味なのだ。
「あなたには死んで欲しくない・・・。」
加奈は信じて欲しい思いを伝える切実な声で、
苦しげに眉を寄せ彼女にそう訴えた。
彼女には生きていて欲しかった。
音楽室で初めて彼女を見たあの日から加奈は
自分にとって彼女を特別な存在として捉えていた。
ピアノを演奏する彼女は加奈の幼い頃に見た母の姿と重なり、
何度も見た夢の中の少女とも多くの意味でだぶった。
今ここで彼女が死を選んでしまうことは、
まるで母が再び加奈の前から消えてしまうな・・・死んでしまうような・・・
夢の少女がなかったことになってしまうような・・・
それはとても加奈にとっては辛く悲しみに溢れ、
身を引き裂かれるような感情に襲われるのだ。
加奈が好意を寄せた彼女にはいつものように
幸せそうな微笑を浮かべてピアノを弾いていて欲しい。
加奈はもうおそらく現世に戻ることはないだろうから、
彼女の存在を・・その伝わってくる温かさを間近で感じることは出来ないけれど・・・。
それでもいい・・天国から見守るだけでも満足だ・・。
「初めて会った私にどうしてそこまで言うの・・・?何か理由があるの・・?」
彼女は加奈の深刻な様子をしばらく見つめた後、
静かに呟くようにそう言った。
彼女の綺麗な瞳が加奈の真意をつかもうとするかのように覗き込んでくる。
「それは・・・・。」
加奈はそれ以上何も言えなかった。
いくら加奈が彼女のことを好いて、彼女の死を止めようとしても、
彼女にとっては加奈は名も知らぬただの一人の少女に過ぎないのだ。
母を失い、亜沙子を失いおばあちゃんまで失った加奈が
せめて彼女には生きていて欲しいといくら願ったとしても・・・・。
「単なるきまぐれで言ったのかしら、私が折角の助かる見込みのある命を
台無しにしようとしているから親切心であなたは御説教したかったの・・・・・?」
「・・・・・・・・。」
何も言えずに加奈が俯いていると、もう行くわ、
と彼女は加奈がつかんで離さなかった腕からするりと抜け出し、教会の方に去っていった。
加奈は遠ざかる彼女の背中に手を伸ばし、
声を出し呼び止めようとしたが、口を開いたまま言葉にならなかった。
引き止めておいた加奈の腕にはもう力はなかった。
彼女を説得できなかったことが加奈に無力感を与え、
それと共に腕を脱力させた。
彼女を止めることは出来なかった。
どの道加奈自身はもう現世に戻る気はなかったが、
彼女を説得できなかったことは心残りになってしまった。
彼女が生きることを選んでくれたら、
加奈は思い残すことなく死を受けいれることができただろう。
加奈も彼女同様、条件を満たせば
生き返ることのできる可能性がある状況にいた。
バスの事故に巻き込まれた後、加奈の肉体は病院に運び込まれ何とか一命を取り留め、
現在は病院の集中治療室のベットの上にいる。
病院からおじらに事故の連絡がいって間もなく
彼らが病室にやってくるかもしれない。
そこから加奈は魂だけが浮遊してここまでやってきてしまった。
半分は生きて半分は死んでいる状態だ。彼女もまた加奈と同様の状態にある。
あの人にはまだ大切に思ってくれる人がいるのだから生きる、
加奈は誰からも必要とされずにこのまま現世に戻ることなく死んでいく・・・・・
そうなればよかったのに。
そうなることが一番良いことだと思ったのに・・・。
もうそんなものは実現されず加奈の夢物語になってしまった。改めて思う。
もっと早くに現世で会っていればと・・・
そうすれば絶対そうなったとは限らないが彼女と仲良くなって、
さっきここで彼女と再会した時、
もしかしたら彼女を説得することが出来ていたかもしれない。
全ては加奈の臆病さのせいなのか・・・。
音楽室で彼女を見た時、拒絶されることを恐れずに、
彼のすすめを素直に受けて、
勇気を出し彼女に近づいていれば未来も変わっていたかもしれないのに。
こんな形で彼女と出会い、こんな辛い終わり方で彼女と別れることになるなんて・・。
加奈のもう戻らない時間の中での後悔の、
沈みゆく暗い思いとは対照的にお花畑の花々は
色とりどりにその存在を力強く主張して咲きほこっていた。




